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俗人の學を以ていはゞ、讀書を以て第一義として字々句々、分明に解釋するを成功とすべし、聖學の成功は是れより大なるものあり、經傳の中斯學の大頭腦を指して示したる所は讀み易く、解し易く、明々白々として靑天白日の如し、註釋を用ひず、思慮を勞せずして通曉すべし、只是れを擇んで反復玩味せば、足らざることなかるべし、無益の文字に於て讀み難きを讀み、解し難きを解せんと欲して、精神を費やし、光陰を失ふべからず、大頭腦を見得ざるに及んでは、五經四書といへども、月をさす指の如し、月を見るものは、指を忘れて可なり、文義に牽制せられて、其本に迷ふものは、指を以て月とするなり、象山先生曰く、學者も本あらば六經皆我註脚也、致良知は斯學の大頭腦なり、良知の本體は、天地萬物唯〃一身なり、此本體を提撕すれば、格物の功其中にあり、是れ則ち一以貫之なり、譬へば、米を舂くもの、唯々杵一つに力を用ひて、億萬の粒米、盡〃く精白となるが如し、故に王子晩年の敎、唯〃致良知といふのみにして格物に及ばず、いかんとなれば、此本體を提撕することを知らずして、更に格物を以て事とするものは、木の根なきが如く、水の源なきがごとし、米を舂くもの杵を失ふて一粒々々に磨刮するが如し、是れ世儒の學、支離決裂、牽滯紛擾して、終に成功なき所以なり、
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又柳圃子に與ふる書に云く、
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聖人の學は、五經四書及び陽明傳習錄文錄にて致全備候、他に求むべからず、右之内にて要を求め、又要中に於て至要を求めば、何の足らざることあらん、吾儕向來多岐に迷惑せしことは、此所に於て定見なき故也、 |
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彼れが學問の範圍、此に至りて愈〃狹隘となれるも、其自得する所の道義の觀念に至りては、愈〃精妙となり、殆んど古聖賢の域に接せんとするの概あり、又雷澤子に與ふる書に云く、 |
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聖人の学を勤むる人は、私に勝ち過を改め、德を養ひ、天地萬物一體の道理を信じ得るに及んでは、夜のあけたるごとく、重荷をおろしたるがごとく、盲人の目のあきたるごとく、さぞ心よくうれしく、舊惡も前非も後悔も殘念も昨夜の夢なり、昨日の風雨なり、何の憂ひ悲む事あらんや、わかき人兼ねて此意味を知り候はゞ、末賴しく學問に退屈なく、精出で可申候處、敎ふる人も學ぶ人も只文字のさたばかりにて、心の安堵を求むる事を知らず、空しく光陰を送り、此世を夢の如くにて過去り候事、尚ほ又悲しきものに御座候、老拙事も近年まで此學問を知らずして、あだに月日を過ごし來り候、何とぞ餘命の内、此悲をことごとくはらし申度き願のみにて御座候、
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又云く、 |
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名を好む心は學問の大魔なり、早く名を棄て實を勤むべし、老拙幼年より名を好むの病深く近年以來殊の外うるさく覺候へ共、療治の力弱く御座候哉、いまだいえきり不申候、名を惜むと申候へば、よき事に聞え候へども、聖人の學は、義を惜み候間名には貪着不致候、名をおしむ心有之候へば事ごとに外聞をかざりて、眞實の心なく、世上のうはさを恐れて氣遣ひ多し、果てには只名のために能をすつるかたに成りゆき申候、たとへ大高名ありとも、義を失ひては耻かしく口惜しく日夜に心のはらしやうもあるまじく候へば、羨ましからぬ事に御座候、只義に於て缺けたる所なければ心はひろく氣はのびて少しも不足も無之候へば世上にていかほどそしり笑ふとも、毛頭心にかゝることなく、各別の樂み思ひやられ候、義と名とは、玉と石となり、取違ひなき樣に擇び分つべき事に候、 |
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此れによりて之れを觀れば、東里己れが心を以て世界の中心として、寂然不動の域に達するを得たり、此の如くなれば、平生毫も外物によりて左右せられず、外物は反りて我れを樞紐として周圍に遷轉するの狀なくんばあらず、其毀譽を雲烟の如くに看過し、名利を塵芥の如くに侮蔑するもの亦怪むに足らざるなり、又彼れが迷妄を打破し去りて、心の光明に向ひ、日夜急ぎつゝあるの狀は、猶ほ孤鶴の聲を曳いて空明の裏に沖るが如く、其高尚崇大なる、逈に塵俗の外に超絶するものあるなり、然れども如何なる人も人たる以上は情欲なきこと能はず、情欲は人を引いて下劣の方向に導かんとするものにて、其勢力たる、甚だ猛烈なるものあるなり、是故に之れを退治するの工夫なくんば、學問の目的は如何に高尚なるも、之れに到達すること甚だ覺束なしと謂はざるべからず、是を以て東里は時々刻々、間斷なく、情欲の侵害に向つて戰はざるべからざることを論ぜり、彼れ之れが爲めに柳圃子に與ふる書に退屈の弊を説いて曰く、 |
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此大魔(即ち退屈)を降伏すること能はずんば、小善ありといふも、車薪杯水、勞して功なきことなり、其由りて來る所を尋ね求むれば、只吾志の誠一眞切ならざる所より出でたり、是故に學者の務は只吾志誠一眞切なるか誠一眞切ならざるかと吟味省察して一息の間斷なかるべし、此患を免るゝの道、只此一方のみなり、智謀を用ふべき樣もなし、才略を用ふべき樣もなし、只是れ無二無三に此退屈の念を攻撃裁斷して吾良心の本然に復するのみなり、譬へば、四方援なき地に於て大敵にとり圍まれたるが如し、智謀も才智も用ひ樣なければ前後左右を顧みず、無二無三に其大敵を撃破りて自ら全うせんと思ふより外の方便はなきなり、今日も此通りに工夫をなし、明日も此通りに工夫をなし、聲色の上にも、かくの如く、名利の上にも、かくの如く、貧賤にも退屈せず、患難にも退屈せず、疾痛死亡にも退屈せず、時となく處となく、只此大魔を降伏するを以て務とせざることなし、力を用ふるの久しうして、彼れ衰へて、我れ盛なるに至りては、吾本心周流和暢して、人欲私意、客氣俗習、隱伏する所なし、或は微き萌動するものありといふとも、紅爐上一點の雪ならん、云云、 |
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人は情欲に向ひて間斷なく戰ひ、遂に之れを降伏するに至らざるべからざること東里が論ずる所の如し、然れども此事を成し遂げんに百折不撓の志なかるべからず、如何なる患難に遭遇するも、阻喪せざるの勇氣なかるべからず、是故に彼れ亦志の誠一眞切ならざるべからざることを論ぜり、柳圃子に與ふる書に云く、 |
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憂深く情切にして、志氣奮發、人をして興起せしむるものあり、天の將に大任を是人に降さんとするや、必ず先づ其心志を苦しめ、其筋骨を勞して、其體膚を餓やし、心を動かし、性を忍んで、其能はざる所を増益せしむ、いはゆる汝を成るに玉にするなり、伏して望むらくは、此所に於て目を明かにし、膽を張り、精神を振起して、天意を奉承すべし、徒に放過すべからず、吾志の誠一眞切ならざるを御見得被成候ば良知なり、此良知を致して、吾志をして必ず誠一、必ず眞切ならしむべし、譬へば、覇客の郷里に歸るが如し、父母に見え、妻子に逢ふて、歡樂せんと思ふ心、誠一眞切なるが故に、千里を遠しとせず、寒暑を畏れず、風雨を厭はず、道路の景色にも貪着する心なく、只一日もはやく郷里に歸着せんと思ふ心さかんにして少しも退屈することはなきなり、云云、今右の事を以て斯學に比すれば、天地萬物一身の境界は吾眞の故郷なり、位なくして貴く、祿なくして富み、仰いで愧じず、俯して怍ぢず、心廣く體胖かなり、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず、夷狄患難入るとして自得せざることなし、天下の至樂なり、此郷里に歸り、此眞樂を得んと思ふ心、誠一眞切ならば、道中の艱難辛苦、心を動かすに足らず、何の退屈することあらん、凡そ他郷の聲色紛華、何の羨むことのあらんや、只是れ吾輩此境界を見得すること分明ならず、半は信じ、半は疑ひ、或は勤め、或は惰り、一日暴めて十日寒するが如くにして、成功あらんことを欲するは、種せずして秋を待つなり、是れ衆人の醉生夢死して、他郷異域の愚鬼となる所以なり、云云、此患を免れんと欲せば、何を以てせんや、斯學に倦むことなからんのみ、倦むことなきの至りは、誠一眞切なり、誠一眞切なれば、愈〃倦むことなし、愈〃倦むことなければ、愈〃誠一眞切なり、工夫茲に至りて獨木橋を渡るが如し、左右皆深淵なり、進むべくして退くべからず、是れ古の人戰々兢々として、敢て一念の間雜なき所以なり、 |
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其他東里が心の本體を以て光明正大となすが如き、無我を説いて彼我の別を撤するが如き、謙と仁と密着不離の關係あるを説くが如き、皆一顧の價なしとせざるなり、東里は又靜坐をなし、又靜立をなせり、靜坐は宋儒の工夫せし所にして、本と坐繕禪を飜案せしものなるが如し、然れども靜立と云ふことはなかりき、是れ全く東里の發明する所に係る、彼れ自ら桃野子に與ふる書に其効を述べて曰く、 |
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老拙近來靜坐を勤候に付、靜立をも致候、古來靜立といふ名目は聞及ばず候へ共、愚意を以て作爲いたし候、靜坐は時を待ち處を擇ぶ事も有之候へども、靜立は其差別なく、内にありても外に出ても、道路を往來するにも、心まかせになるべし、云云、 |
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東里は執齋と殆んど伯仲の間にあるが如し、然れども其文多く傳はらざるを以て尚ほ多少の遺漏なきを保し難きは吾人の頗る遺憾に堪へざる所なり、 尚ほ最後に東里の壁書を擧げん、 |
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一 父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは、身を脩むる本なり、本かたけれ ば、末しげし、 一 老を敬ひ、幼をいつくしみ、有德を貴び、無能をあはれむ、 一 忠臣は國あることを知りて家あることを知らず、孝子は親あることを 知りて己れあることを知らず、 一 先祖の祭を愼み、子孫の敎を忽にせず、 一 辭はゆるくして誠ならむことを願ひ、行は敏くして厚からむことを欲 す、 一 善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす、 一 怒に難を思へば、悔にいたらず、欲に義を思へば、恥をとらず、 一 儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし、 一 樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ、人各〃その業を樂むべし、 一 人の過をいはず、我功にほこらず、 一 病は口より入るもの多し、禍は口より出づるもの少からず、 一 施して報を願はず、受けて恩を忘れず、 一 他山の石は玉をみがくべし、憂患のことは心をみがくべし、 一 水を飲んで樂むものあり、錦を衣て憂ふるものあり、 一 出る月を待つべし、散る花を追ふこと勿れ、 一 忠言は耳にさかひ、良藥は口に苦し、 |
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右十六條未だ甚だ奇なりとせずと雖も、亦日常の行爲に適切なる治心の法を列擧せり、學者若し之れを實行するを得ば、其君子たるに於て綽々然として餘裕あること疑なきなり、
廣大なる現實の完全なる縮寫は、 即ち小世界なり、即ち小宇宙なり、 ロツツエ
(色文字の注:再掲)
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原文に施してある傍点(圏点)を、ここでは、 |
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「(黒ゴマ)」は黒の太字で、「(白ゴマ)」は桃の太字で、「○(白丸)」は青の太字で、 |
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「◎(二重丸)」は赤の太字で、「△(三角)」は茶の太字で、 |
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示しました。 傍点をすべて省いた本文は、資料445にあります。 |
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