資料443 中根東里(『近古伊豆人物志』より)
 
 

 

    中根東里。
東里名は若思字は敬夫貞右衛門と通稱す東里はその號なり。父重勝は三河の人にして延享中居を賀茂郡下田港に移し農桑を業とし傍軒岐を談ず。港南武濱の地清幽愛す可し因て以て號となす。淺野氏を娶りて五男一女を生みしが三男皆夭死して獨東里の弟孔昭を存せし耳。一女名を克と云ふ東里の姉にして浦賀番所享保五年十一月番所を下田より浦賀に移すの小吏合原勝房に嫁す。重勝日常酒を好み出づれば則ち醉ふて家に歸る事晩し。東里必ず燭を挑げて迎ふ。夏日嘗て例の如く歸途に會ひしに爛醉して其東里なるを辨ぜず亂罵して終に樹下に仆れて睡る。東里家に趨りて母に告げて曰く大人今宵某氏に宿す然れども醉客多くして餘幮なしと實を以てすれば其心を傷ましめん事を恐るればなり。乃ち幮を得て父の許に至り之を樹に張り夜を徹して看護を力め覺るに及びて共に家に歸る。一郷その至孝を稱せざるはなし。
正德三年武濱歿す本覺寺の旁に葬る東里時に年二十なり。母乃ち佛門に入りて父の冥福を修めしむ。郷里の禅院に入りて證圓と號し後宇治の黄蘗山に登りて悦山禅師を師とす。當代の大儒荻生徂徠が下谷蓮光寺々主雄譽上人と親交あるを聞き二十二歳の春江戸に出で浄土宗に轉じて同寺に至り間を得て徂徠の敎を受く。徂徠その才を愛し誘掖至らざるなし。東里漸く念佛法會を厭ひ還俗せんとするの志頗る切なり雄譽默許して問はず遂に増上寺の僧簿より證圓の名を除く。時に母姉なほ下田にあり親しく其志を述べて同意を得江戸に歸る。知人なく又親類なし乃ち室鳩巢の知を得て其家に寓す。鳩巢の書に曰く「頃日中根貞右衛門と名付け申候貞は正也正に歸するの意にて貞右衛門然る可く存候に付き名付け申候。珍敷事と存候」と。是享保元年東里二十三歳の正月なり。「多年の念願相叶ひ候故此上は水を汲み食を炊き申義にてもかまひ無之㫖申候。」その雀躍の狀を見るに足るべく「毎朝起き候と靜座して四書を讀み申候。泥塑人の如くに御座候。」その好學の態を知るに足る可し。
鳩巢に從ひて加賀に在る事二年にして享保三年江戸に歸り八町堀に住す。一裘葛の後鎌倉に至り鶴岡祠畔に寓する事殆ど二星霜に及ぶ。下野天明郷菅神廟碑と共に後人の評して慶元以來希有絶無の文なりと云へる相州鶴岡祠堂記は思ふに當時の作ならむ。江戸に歸りて辨慶橋畔に僑居し生徒に敎授するの外常に戸を閉ぢて讀書に耽る。時に竹皮の履を造り市に售りて糊口の資となしゝかば皮履先生の名を得つ。室鳩巢特に東里を愛し評して曰く強項にして屈せず縝默にして競はず能く磨涅の中に處して更に淄磷の損なしと。後門人金信甫に寄りて傳馬町に寓し又居を深川八幡前に移す。
是より先一日王陽明全書を得て東里に進むるものあり。初め慢りて偃臥して讀む已にして致知格物、知行合一の説に至るや聳然として容を改めて曰く所謂孔門傳受の心法悉く此書に在り何ぞ讀む事の晩きやと。爾來王學に入り漸く都門の黄塵を厭ひ享保の末下野阿蘇郡植野に遊び金信甫か家に傳習錄を講ず。聽者堂に溢る。時に東里の母淺野氏合原勝房の家に寓して浦賀に在り乃ち歸省して之に事ふ。元文三年淺野氏歿す。喪期終り寛保二年秋復た植野の子弟に迎へられ郷社の側に廬を結びて學を講ず。その後延享三年上毛下仁田に遊び高克明が家に寓せしが居る事三月にして下野に歸り居を天明郷に移す。秋、知松庵成る。庵の記に曰く東西三歩、南北二歩半、茅茨采椽、甕牖土階、篳門西出、竹籬四周、餘地其内、丈有二尺、以種菜蔬、以暴衣衾と。その境遇は深く特性を發揮するに適し益王陽明の學説に心醉し子弟を誘掖す。闔郷その化を受け田夫野老も東里先生の名を知らざるものなし。東里はじめ徂徠に從ひて古文辭を學びしが漸くその脩辭の説を厭ひ爲に還俗の際も之を徂徠に謀らず遂に蘐社と隙あり。次で鳩巢の薫陶を受け晩年姚江の學を尊信す。東里の學説は要するに徂徠學朱子學陽明學の三變を經たるものなし。而してその本領は陽明學にあり。
東里妻子なし而も多病なり。乃ち親戚に依りて老を養はんとし下野に在る事前後二十有餘年の後寶暦十二年長姉の招に應じて浦賀に至り明和二年二月七日を以て歿す。年七十二海関の東なる顯正寺に葬る。曾て下野に在るや弟孔昭の遺托を受けその女芳子年僅に三歳なるを取りて鞠育す。見るものその注意の周到なるに驚服せざるはなし。「東里遺稿一巻門人須藤温が校正して上木する所明和八年辛卯柴邦彦序あり目録の末温が附言あり。新瓦と題せる文はその姪女芳子にさとすもの尤愿欵にしてその深切を見る可し。新瓦附錄詩文五篇別錄詩文二十八篇巻尾東里行狀をのす又温か撰する處なり。」東里與高子啓書の中に曰く初芳子之來也、家弟年五十、僕加之三、而皆無嗣、其骨肉之餘、獨芳子在、僕欲玉之、所以作新瓦也と。新瓦と題する所以即ち此の如し。
貞享元祿の間は江戸時代漢文學興隆の氣運に際會したるものと云ふ可し。水戸の西山公加賀の松雲院等夙に之が獎勵に力を盡さるゝあり西に仁齋あり東に徂徠あり共に古學を唱へて一代を風靡するあり白石の如き鳩巢の如き木門の俊才敏腕を揮ひて幕政に參與するあり。東里この間に生れ諸名流に親炙し深く學理の秘を究め身を持する高傑にして從遊者の憚る所と爲る。その不遇惜む可しと雖も人品の高き遠く時流の外にあるを知る。詩文の如き抑もその未技なるのみ。

 

原據 東里遺稿を主とし先哲叢談後編鳩巢小説に從ふ所多し。又著書の事は番外    雜書解題の全文による。

 

 



  (注) 1.  上記の「中根東里(『近古伊豆人物志』より)は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『近古伊豆人物志』(東條耕(琴台)著、大草常章・発行、売捌所 東学堂書店・明治25年10月8日翻刻出版)によりました。
 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
   → 
『近古伊豆人物志』7~11/39)
   
    2.  本文中の漢文の部分に、一部返り点・送り仮名の付いている箇所がありますが、ここではその返り点・送り仮名を省略してあります。
 なお、文末の「未技」は「末技」の誤植であると思われますが、原文のままにしてあります。
   
    3.  『国立国会図書館デジタルコレクション』に、『先哲叢談 後篇』 (東條耕(琴台)著、大草常章・発行、売捌所 東学堂書店・明治25年10月8日翻刻出版)が収録されています。
 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
 
 → 先哲叢談 後篇 (69~70/155)       
 なお、 『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『
日本偉人言行資料先哲叢談後編』(堀田璋左右・川上多助 共編、国史研究会・大正5年5月20日発行)は、上の先哲叢談 後篇』の本文を書き下し文にした本です。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
  
日本偉人言行資料先哲叢談後編』 (99~102/133)
   
    4.  上の本文中に、「當代の大儒荻生徂徠が下谷蓮光寺々主雄譽上人と親交あるを聞き二十二歳の春江戸に出で浄土宗に轉じて同寺に至り間を得て徂徠の敎を受く」とありますが、この「蓮光寺々主雄譽上人」について磯田道史氏はその著『無私の日本人』の中で、「明治以後、東里についてふれた諸書はこの僧の名を「雄誉上人」としているが、この年、雄誉はすでに世を去っている。慧岩(えがん)のことを誤り伝えたものと思われる」としておられます(同書、177頁)。       
    5.  佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
  
佐野市ホームページ 
   
→ くらしの情報
   
→ 文化・伝統
   
→ 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」 
   
    6.  図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』(佐野市郷土博物館、令和元年10月5日発行)が出ていて、中根東里について詳しく知ることができます。(2020年5月28日付記)
 図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』
   目次
    ごあいさつ  プロローグ
    第1章 中根東里の生涯
    第2章 中根東里書簡集
    第3章 菅神廟碑
    第4章 学則
    第5章 新瓦
    第6章 知松庵記・壁書
    中根東里関係略年譜
    参考文献一覧
    展示資料所蔵等一覧
    あとがき
   
    7.  磯田道史著『無私の日本人』(文藝春秋、2012年10月25日初版第1刷発行)に、穀田屋十三郎、大田垣蓮月とともに、中根東里が取り上げられています。
 なお、『文藝春秋』2010年(平成22年)2月号から、磯田道史氏による「新代表的日本人」の連載が始まり、その第1回として中根東里が取り上げられ、東里については4月号まで3回にわたって連載されています。
   
    8.  『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあり、人物の紹介があって参考になります。    
    9.  『豆の育種のマメな話』(北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落ち穂拾い)というブログに、「下生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」という記事があり、中根東里の経歴が簡潔にまとめてあって参考になります。   
 *「写真術の開祖
「下岡蓮杖」」の次に、「「中根東里」と伊豆気質」があり、その次に「下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」があります。(2016年10月7日)
   
    10.    資料437に「中根東里「学則」」があります。
 資料439に「中根東里の「壁書」」があります。
 資料438に「中根東里の経歴(『下田の栞』による)」があります。
 資料440に「中根東里(『尋常小学修身口授書』巻の三より)」があります。
 資料441に「〔中根東里〕竹皮履先生と壁書(『通俗教育 逸話文庫』巻の三より)」があります。
 資料442に「中根東里(『先哲叢談 後篇』より)」があります。
 資料445に「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より)」があります。 
 資料446に「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より・傍点部分を表記)」があります。 
 資料590に「中根東里「新瓦」」があります。 
 
   

 



         
            
                       
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