資料438 中根東里の経歴(『下田の栞』による)
  
 

    中根東里の経歴を、大正3年に発行された『下田の栞』(下田己酉倶楽部発行)によって紹介します。

お断り: 表記は、常用漢字を用いる、送り仮名をふやす、など、一部変えたところがあります。また、振り仮名も多くは省略し、振り仮名の仮名遣いも現代仮名遣いにしました。
 

 

 

 


 

 

中根東里  
名は若思
(じゃくし)、字(あざな)は敬夫、東里は其の号、通称 貞右衛門。元禄七年を以て生まる。父、名は重勝、字は子義、武濱と号す。三河の人。延宝中、伊豆に遊び、遂に当地に移住し、浅野氏を娶り、五男一女を生む。東里弟 孔昭(こうしょう)(字は叔徳、号は鴨居)及び一女 克の外、夭折す。重勝、農桑(のうそう)を業とし、兼ねて医を善くす。東里 十三、父を喪(うしな)(正徳三年十一月二十九日、六十七歳。本覚寺に葬る)、母に事(つか)へて孝謹なり。母、父の冥福を修めしめんと欲し、東里に命じて僧とならしめ、土地の一禅寺に入(い)り、薙髪(ちはつ)して證圓(証円)と曰ふ。後、宇治の黄檗山(おうばくさん)に登り、悦山禅師に師事す。東里、書を好む。されども、禅宗の課業、もと博く群書を読むを許さざるを以て、竊(ひそか)に寺を出でて東都に往(ゆ)き、下谷蓮光寺に寓し浄宗の学を究め、遍(あまね)く経典を読む。寺主・雄誉、徂徠と交りあり。東里の明敏、衆に異なるを愛し、就いて儒学を学ばしむ。徂徠、亦之(これ)を奇賞す。名声漸く都下に聞こゆ。東里、寺にあること数年、一日疾(やまい)に嬰(かか)り、仏殿の後房(こうぼう)に偃臥(えんが)し、偶(たまたま)几上(きじょう)の書を取りて之(これ)を翻閲(ほんえつ)するに、孟子浩然の気の章なり。東里、反覆之(これ)を読み、慨然として僧の道にあらざるを知り、始めて還俗(げんぞく)の志あり。遂に郷里に帰り、之(これ)を母氏(元文三年四月十八日、浦賀に卒す。年七十一。顕正寺に葬る)に請ふ。母、許さず。伯父某、頗(すこぶ)る学識あり。切に之が為に説く。即ち許さる。東里、大いに喜び、又江戸に出でて之を雄誉に謀(はか)る。上人亦鑒識あり。その意に任せて髪を寺中の別舎に蓄へしむ。東里、之より刻苦書を読み、復た事によりて徂徠と隙(げき)あり。且つ其の学説に疑いを生じ、論を著はして之を駁す。後、鳩巣の学を慕ひ、贄(し)を執つて之に師事す。時に享保元年正月、年二十三、東里、鳩巣に従ひ加賀にあること二年、享保三年、還りて江戸八丁堀に居ること一年、又去りて鎌倉に之(ゆ)き、鶴岡廟前に居る二年、其の間、弟叔徳と共に木履(ぼくり)を鬻(ひさ)ぎて以て衣食す。適(たまたま)同居の者病む。貧にして薬餌(やくじ)を供するなし。東里、盡(ことごと)く経籍(けいせき)衣服を典売(てんばい)して之に資す。幾(いくばく)もなく又東都に遊び、弁慶橋の畔(ほとり)に僑居(きょうきょ)して、諸生を教授し、常に退落を甘んじ、当時の名家と頡頏(きっこう)するを欲せず。資用乏しければ糸針(ししん)の類を市に鬻(ひさ)ぎ、又竹皮履を造りて之を售(う)り、僅かに数日の費銭(ひせん)を得れば、乃(すなわ)ち戸を閉ぢて書を読み沈黙自重、従游(しょうゆう)の士の外、妄(みだり)に人に接見せず。時人呼んで皮履(ひり)先生といふ。一日、某あり。王陽明全書を進む。東里、もと之を慢(あなど)り偃臥(えんが)して読む。其の致知格物知行合一(ちにいたしてものをただせばちぎょうごういつす)の説に至り、肅然、容を改めて曰く、孔門伝受の心法、一(いつ)に此(ここ)にあり、何ぞ之(これ)を読むことの晩(おそ)きや、と。之より王学に帰す。享保年間、下毛植野(しもつけ・うえの)に遊び、伝習録を金信甫(こんしんぽ)が家に講ず。延享年中、上毛仁田(こうづけ・にんだ)に遊び、高克明(こうこくめい)が家に客(かく)たり。東里、頗る曠野の淸閑を愛し、都会の煩喧(はんけん)を厭ふ。遂に居を下毛(しもつけ)天明郷(てんめいごう)に移し、茅屋(ぼうおく)を作り、知承庵と名づけ、専ら王学を唱へて子弟を教ふ。闔境(こうきょう)、之(これ)が為に化し、婦人小児と雖も皆其の名を知る。晩年多病なるを以て親戚によつて老を養はんと欲し、宝暦十二年浦賀に往(ゆ)いてここに居り、大人歌(だいじんうた)及び人説(ひとのせつ)を作り、天地万物一体の義を明らかにす。東里、死期の迫れるを知り、十二年冬、自(みずか)ら東岸の地を擇んで墓石を建て、天命を待てり。明和二年二月七日、浦賀に卒す。年七十二。顕正寺先妣(せんぴ)の墓側に葬る。東里、妻子なし。門人藤梓(とうし)を以て嗣とす。著はす所、新瓦(しんが)一編の外遺編なし。門人須藤温、其の詩文を輯(あつ)めて東里遺稿一巻とし、後又下毛の服部政世、其の書牘(しょとく)及び雑文を纂(あつ)めて東里外集一巻を作る。東里、学深く詩文に巧みなりしも、晩年道学に志してより、往時作る所多くは之を焼棄せるを以て、今遺るもの甚だ稀なるは惜しむべし。其の新瓦(しんが)及び天明郷菅神廟碑(かんしんびょうひ)、相州鶴岡祠堂記の如き、実に千歳得易からざるの名文にして、栗山(りつざん)、精里、錦城の徒、皆口を極めて之を激賞し、慶元以来稀有絶無の文と称せり。東里、資性狷介(しせい・けんかい)、寡黙、高潔、自ら持して苟(いや)しくも世に容れらるを求めざりしを以て、頗(すこぶ)る人に憚(はばか)られ、其の名大いに聞ゆるに至らざりしも、人格高遠、道義の念深く、真摯懇惻(しんし・こんそく)の情甚だ厚かりき。其の天明郷にあるや、弟叔徳、幼女芳子を携へて相模より来(きた)り、之を東里に託す。芳子、時に年僅かに四歳、未だ教ふべからず。是を以て東里、一篇教訓の書を作り、新瓦(しんが)と題し、鳥獣を其の端に畫(えが)き、飾るに朱線を以てし、之を芳子に与へて弄(もてあそ)ばしめ、其の遂に之を読むの期あらんを庶幾(しょき)せり。其の幼女を教へんとする情の切なる、殆ど予想の外(ほか)に出づ。東里、又幼より親に仕へて至孝なり。父重勝、善く飲む。出づる毎に家に帰ること晩(おそ)し。東里、常に燭を挑(かか)げて之を迎ふ。一日、父泥酔す。東里往(ゆ)いて之を迎ふれども、父其の東里なるや否やを知らず。大いに之を罵り、樹下に倒れて睡る。因りて之を扶持すれども起きず。時に盛夏、蚊軍(ぶんぐん)群り襲ふ。東里、乃(すなわ)ち馳せ反りて幮(かや)を家に取る。しかも、母の安んぜざるを恐れ、父某の家に宿(しゅく)するも今夜偶(たまたま)酔客(すいかく)多くして余幮(よちゅう)なきが為、之を取りて児と一宿して帰ると称し、父の睡れる処に到り、幮(かや)を樹間に結び、徹宵(てっしょう)看護し、睡(ねむり)の覚むるを竢(ま)つて、扶けて家に帰る。郷人(きょうじん)皆其の孝を賞す。(井上哲次郎著『日本陽明派の哲学及日本倫理彙編』)

 

 

 

中根東里系図
            

 

 


 
  (注) 1.  上記の「中根東里の経歴」は『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『下田の栞』(下田己酉倶楽部、大正3年8月31日発行)によりました。
 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
   → 
『下田の栞』(41~42/110)             
 
    2.  『下田の栞』が依拠したという井上哲次郎著の『日本陽明派の哲学』は、正しくは『日本陽明学派之哲学』(冨山房、明治33年10月13日発行)で、これは『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に入っていて、画像で見ることができます。(『日本倫理彙編』は未見。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』

  → 日本陽明学派之哲学』(170~184/338)
 
    3.  本文の後半に「其の遂に之を読むの期あらんを庶幾(しょき)せり」とありますが、原文は「庶幾」が「庶期」となっています。誤植とみて改めてあります。  
    4.  本文中に、「東都に往(ゆ)き、下谷蓮光寺に寓し浄宗の学を究め、遍(あまね)く経典を読む。寺主・雄誉、徂徠と交りあり。東里の明敏、衆に異なるを愛し、就いて儒学を学ばしむ。徂徠、亦之(これ)を奇賞す」とある、蓮光寺の寺主・雄誉について、磯田道史氏は『無私の日本人』の中で、「明治以後、東里についてふれた諸書はこの僧の名を「雄誉上人」としているが、この年、雄誉はすでに世を去っている。慧岩(えがん)のことを誤り伝えたものと思われる」としておられます(同書、177頁)。  
    5.  中根東里の字について
 上の本文に、中根東里の字(あざな)が「敬夫」とありますが、これはこの本文が拠った井上哲次郎の本が「敬夫」としてあることに依るものと思われます。
 ところで、郷土史散歩・石井昭著『ふるさと横須賀』というサイトに、
「中根東里『清貧で学問にはげむ』」というページがあり、そこに、顕正寺にある東里の墓石には、正面に「東里居士墓」、裏面に東里自身の筆で「居士姓中根、諱若思、字敬父、亦孫平、伊豆人也」とある、とあります。
 これによれば、「敬父」が正しいことになりますが、あるいは東里自身が「敬夫」という文字を使ったこともあるのでしょうか。(このことについて、ご存知の方がおられましたら、ぜひ教えていただきたいものです。
2012年12月27日
 
    6.  佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
 佐野市ホームページ 
   → くらしの情報
 
 → 文化・伝統 
  → 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」
       
 
    7.  図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』(佐野市郷土博物館、令和元年10月5日発行)が出ていて、中根東里について詳しく知ることができます。(2020年5月28日付記)
 図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』
   目次
   ごあいさつ  プロローグ
   第1章 中根東里の生涯
   第2章 中根東里書簡集
   第3章 菅神廟碑
   第4章 学則
   第5章 新瓦
   第6章 知松庵記・壁書
   中根東里関係略年譜
   参考文献一覧
   展示資料所蔵等一覧
 
    8.  磯田道史著『無私の日本人』(文藝春秋、2012年10月25日初版第1刷発行)に、穀田屋十三郎、大田垣蓮月とともに、中根東里が取り上げられています。
 この「中根東里」は、『文藝春秋』2010年(平成22年)2月号から4月号まで、3回にわたって連載された、磯田道史氏による「新代表的日本人」の連載第1回の「中根東里」を再録したものです。単行本に再録するに当たって、部分的な修正と末尾に書き加えた文があります。        
 
    9.  磯田道史氏が触れておられる、粂川信也・編著『東里遺稿解』は、栃木県立図書館に収蔵されています。
 
栃木県立図書館
  → 資料検索」欄に「東里遺稿解」又は「粂川信也」と入力して検索

 
→ 粂川信也・編著『東里遺稿解』(1974年)
 
    10.  『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあって参考になります。  
    11.  『豆の育種のマメな話』(北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落ち穂拾い)というブログに、「伊豆下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」というページがあり、中根東里の経歴が簡潔にまとめてあって参考になります。(2013年2月10日)   
    12. 中根東里の次の資料があります。
 資料437「中根東里「学則」」
 資料439「中根東里の「壁書」」
 資料440
「中根東里(『尋常小学修身口授書』巻の三より)」
 資料441「〔中根東里〕竹皮履先生と壁書(『通俗教育 逸話文庫』巻の三より)」
 資料442「中根東里(『先哲叢談 後篇』より)」

 資料443「中根東里(『近古伊豆人物志』より)」
 資料445「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より)」 
 資料446「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より・傍点部分を表記)」 
 資料590「中根東里「新瓦」」  
 

   
      
       
             
        
 
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