資料441 〔中根東里〕竹皮履先生と壁書 他一編(『通俗教育逸話文庫』学者の巻より)
〔中根東里〕 竹皮履(たけがはざうり)先生と壁書(かべがき)室鳩巢、東里の名聲を聞き門下に致さんとす。東里、素(もと)より其學(そのがく)を慕ひしが故に、質(ち)を委(ゆだ)ぬること數年、學益(ますます)進む。後、居(きよ)を鎌倉鶴ヶ岡の祠前(しぜん)に卜(ぼく)し、弟、孔昭(こうせう)と共に、木履(ぼくり)を鬻(ひさ)ぎて衣食す。偶(たまた)ま同居のもの病み、貧うして藥錢(やくせん)なし。東里、悉(ことごと)く經籍(けいせき)及(および)衣服を典賣(てんばい)して、之(これ)を救ひたり。幾(いくば)くも無くして又江戸に遊び、辨慶橋(べんけいばし)の傍(かたはら)に寓(ぐう)して書を講ず。常に資(し)に乏しく或(あるひ)は絲針(ししん)を賣り、或は竹皮履(たけがはざうり)を作りて之を售(う)る。人之を稱して竹皮履先生(たけがはざうりせんせい)と云ふ。東里、更に名利(めいり)の念なく、淸貧に居りて晏如(あんじよ)たり。壁上(へきじやう)、題して曰(いは)く、 一、忠臣は國あるを知つて家あることを知らず。孝子は親あるを知つて己(おのれ)ある を知らず。 一、辭(ことば)は、ゆるくして誠ならんことを願ひ、行(おこなひ)は敏(さと)くして厚から んことを欲す。 一、儉(けん)より奢(しや)に移るは易(やす)く、奢より儉に入(い)るは難(かた)し。 一、樵夫(せうふ)は山に登り、漁夫は海に浮ぶ。人各(おのおの)、其業(そのげふ)を樂しむ べし。 一、施しては報(はう)を願はず。受けては恩を忘れず。 一、他山の石は玉を磨くべし。憂患(いうくわん)のことは心を磨くべし。 一、水を飲みて樂しむ者あり。錦(にしき)を着て憂(うれ)ふる者あり。 一、出(い)づる月を待つべし。散る花を追ふ勿(なか)れ。(國學院雜誌、大川茂雄)上欄に、「東里は伊豆下田の人、名は若思、字は敬夫、通稱貞右衞門、初め僧となる。徂徠に從ひて還俗す。後其學を疑ひて之を駁し、鳩巢に師事す。」とあります。 〔中根東里〕 能く其姪(そのめい)を撫育(ぶいく)す 延享三年、其弟(そのおとうと)、孔昭(こうせう)、下野(しもづけ)の知松庵(ちしようあん)に來(きた)りて其女(そのぢよ)を托す。始め孔昭、妻を失ひ、且(かつ)、家(いへ)貧にして、乳母(うば)を傭(やと)ふ能(あた)はず。人の婦(ふ)に就きて乳を乞ふ。飲めば纔(わづか)にして飽き、暫くして復た饑(う)う。饑(うゝ)れば復た啼(な)く。爲に屢(しばしば)往(ゆ)きて乞はざるを得ず。乍(すなは)ち往き乍ち還る。遂に乳婦(にうふ)に厭(いと)はるゝに至る。後(のち)之(これ)を隣家の嫗(ばゞ)に托す。嫗、貪慾(どんよく)にして殘虐(ざんぎやく)なり。人之(これ)を仇名(あだな)して狼嫗(おほかみばゞ)といふ。孔昭の女兒(ぢよじ)亦、毒牙に罹(かゝ)れり。東里、遙(はるか)に之を聞きて憐憫の情に堪へず。孔昭をして其(その)女兒を下野(しもづけ)に携へ來(きた)らしめんとす。時に女兒、困憊(こんぱい)、既に甚(はなはだ)しく、泄痢(えいり)、數日(すうにち)に渉(わた)る。父を見るも言笑(げんせう)する能(あた)はず。唯(たゞ)目もて之を迎ふるのみ。孔昭、之を抱(いだ)きて家(いへ)に還り、藥を與ふるも泄痢(えいり)、未だ已(や)まず。故に全癒(ぜんゆ)を待ちて出發せんとす。然(しか)れども嚢中(なうちう)の錢(ぜに)、纔(わづか)に旅費を辨(べん)ずるのみ。若(も)し、日を曠(むな)しうして之を費(つひや)さば進退谷(きは)まるに至らん。天寒しと雖(いへど)も、道遠しと雖も、安(いづく)んぞ已(や)むを得ん。遂に出發す。日に行(ゆ)くこと十里、十里を行かざれば旅費の乏しきを如何(いかん)せん。日夜兼行(にちやけんかう)、遂に東里の許(もと)に達す。東里、喜びて之を迎へ「家弟(かてい)年五十、僕、加(くわへ)2之(これに)三1、而皆無レ嗣、骨肉之餘(よ)、獨(ひとり)汝在耳(なんぢあるのみ)」と云ひて、女兒(ぢよじ)の名、琨(こん)を改めて芳子(よしこ)と稱す。蓋(けだ)し芳(よし)は愛(よし)にして子(こ)の音(おん)は嗣(し)に通ず。即ち良嗣(りやうし)を祝する所以(ゆゑん)なり。芳子、健康、未(いま)だ舊(きう)に復せず。終日、塊然(くわいぜん)として一處(いつしよ)に座す。見る者、皆云(い)ふ、此兒(このじ)、決して成生(せいちやう)する能(あた)はざるべしと。孔昭(こうせう)、去るに臨み、告げて曰く『よく伯父の命(めい)を聽け』と。而(しか)して芳子、悲しむ色なし。其(その)歸郷を知らざればなり。日暮(ひくれ)、始(はじめ)て之を覺(さと)り泣きて曰く「父在らず、父在らず」と。東里、初めより妻を娶(めと)らず。且(かつ)他(た)に婦女の手なし。故に親(みづか)ら芳子を抱(いだ)き、或(あるひ)は之を負ひ、漸(やうや)く之を慰撫(ゐぶ)す。日を經(ふ)るに從ひて遂に東里になづき、且(かつ)健康もとに復す。其(その)門に出入(しゆつにふ)するもの亦(また)之を愛し或は畫圖(ゑづ)、人形等を與へ、或は衣服を贈るものあり。東里、之を遇すること恰(あたか)も己が子の如し。故に芳子、亦、東里を見ること父の如し。終日、東里の机邊(きへん)に戯れ、硯(すゞり)を覆(くつがへ)し書を汚(けが)すこと屢次(しばしば)、東里、笑つて其(その)頭(かしら)を撫(ぶ)し、益々之を愛せりと云ふ。明年、芳子、纔(わづか)に四歳、未だ誨(をし)ふべからず。而(しか)して東里、年老ゆ。故に芳子の如上(じよじやう)の經歴を叙(じよ)し、且つ訓誨(くんかい)を交へて一篇の文(ぶん)を作り、名(なづ)けて「新瓦(しんぐわ)」と云ふ。鳥獸を其端(そのはし)に畫(ゑが)き、朱綠(しゆろく)を以て之を飾り、芳子をして之を弄(ろう)せしめ、竊(ひそか)に私淑(ししゆく)し、以て他日の玉成(ぎよくせい)を期(き)す。是(こ)れ新瓦と名づくる所以(ゆゑん)なり。其辭(そのじ)、懇切にして情(じやう)、纏綿(てんめん)、讀む者をして涙を垂れしむ。後(のち)、芳子、年稍(やゝ)長ず。是(こゝ)に於(おい)て書を讀ましめ、諄々(じゆんじゆん)として之(これ)を導く。嘗て之を誡(いまし)めて曰く『現今、女子にして善く書を讀むもの、井上通子等(ら)五人に過ぎず。茲(こゝ)に汝(なんぢ)を加へて六人とせんとす。汝それ之(これ)を力(つと)めよ』と。寛延辛未(しんび)の年、其(その)伯父(をぢ)、之を迎へて厚く之を養はんとす。芳子、時に八歳、遂に伴はれて浦賀に歸る。東里、詩を作りて之を祝す。(國學院雜誌、大川茂雄)上欄に、「下野仁田に遊びて其淸閑を愛し、遂に天明郷に居り、悉く舊學を捨てゝ王陽明の説を唱へ子弟を敎授す。明和二年歿す。」 とあります。