資料442 中根東里(『先哲叢談 後篇』より)
 
 
 

 

 中根東里
  
名若思字敬夫號東里通稱貞右衛門伊豆人
東里之父。名重勝字子義號武濱三河人。延寶中遊于伊豆因移焉。娶淺野氏
 生五男一女。所存東里及弟孔昭字叔德號鴨居其餘皆夭。家於下田。業農
 桑。頗好軒岐家言精於其説。請治療者日衆矣。其名聞於郷里云。
東里年十三而喪父。事母孝謹。其母氏命爲修父冥福歸釋氏。入郷一禅院。
 薙髮曰證圓。後登宇治黄蘗山。師事悦山禅師。蓋禅家課業。在得佛祖眞
 面目。不許博讀群書。東里厭薄其課煩。竊出於寺。來江戸。寓于下谷蓮
 光寺
研究淨宗學偏讀經典其寺主曾與物徂徠善屢稱東里爲人明敏異
 衆。平常讀書如有不通。雖歴年之舊。必記在臆觸事發明。徂徠聞之大賞
 之。甞試使東里句讀李攀龍白雪樓集一本。東里附傍訓國讀於其書返之。
 旹歳十九也云。
東里寓于蓮光寺數年於此
自知爲僧之非道屢請蓄髮還俗寺主雄譽上人
 頗有鑒識。將使任其意。而以似蔑視其法。不陽許之。陰稱有疾蓄髮於寺
 中別舍。東里益讀書刻苦。惟日不足。稍疑徂徠之學。乃取所作文章數篇
 悉燒之。厭薄其所謂修辭之業矣。旹細井廣澤。屢與雄譽上人善。聞東里
 爲人。大奇愛之。延寓宿其家。無幾歸省郷里。其母猶在。遂得請母氏而
 後還俗。稱中根貞右衛門。室鳩巢又聞其名。欲引使之門客於其家。東里
 素慕其學。委質師事之。時歳二十三。享保元年正月也。
東里之父善飲。毎出醉則歸家晩。東里挑燭常迎之。甞迓之途中。父醉甚不
 辨東里乎他人也。大罵之遂倒樹下而睡。扶持之不起。走反取幮於家。而
 恐其母不安
故稱父宿某許今夜醉客衆某家又無餘幮與兒一宿而還。
 遂到父睡處。張幮於樹護之以徹夜。遲其睡覺而持之還家。郷人皆稱其孝
 焉。
東里從室鳩巢在賀州二年。享保戊戌還。居江戸八町堀一年。又去之鎌倉居
 于鶴岡廟側二年。再來江戸僑居辨慶橋畔。敎授生徒。葆光自晦。不欲與
 當時諸儒相擷頑。常甘退落。其資用乏。則綿綿繍針之類。鬻諸市。又造
 竹皮履售之。得數日費錢。閉戸讀書。從遊之士外不接見人。沈默自重。
 人目之曰皮履先生。
東里在蘐社時。徂徠奇愛其才
常相顧坐客曰文章若僧證圓藤東璧而後。
 可稱能學左氏史公也耳。揄揚之。其誘掖寵樹。無所不至。及其後還俗。
 義當謀諸徂徠而後作之。東里未曾謀之可否。養髮既百有餘日。徂徠聞之
 不悦。東里又疑其説。著論駁之。述自所見。山縣周南太宰春臺等。覽其
 稿太慍之。排擯齮齕。使東里不能入其門焉。東里自是而後與之絶云。
東里詩才雋逸。文尤跌蕩。機軸可觀矣。若下毛天明郷菅神廟碑。相州鶴岡
 祀堂記。近世柴栗山井四明太田錦城等諸家。皆稱曰慶元以來希有絶無之
 文。
東里資性權捐介。不爲苟容慶世。高潔自持。故雖從遊者皆憚之。室鳩巢特
 愛之曰。強項不屈。縝默不競。能處磨涅之中。更無淄磷之損。
東里至延享中
厭江戸煩喧遊于下毛仁田客高克明(字子啓號九峰)家。
 甞愛其曠野之淸閑而不還。移居天明郷。悉棄舊習尊信王姚江學。專唱其
 説。以誘子弟
闔郷爲之化追慕東里雖婦人兒輩能知東里之名矣云。
東里在天明時。其弟孔昭失業。又先是喪妻。不能鞠其女。乃携來因託東里
 而去。旹女僅三歳。日懷之庇養撫育。無時不盡。人皆難焉。嘗機之著一
 册子。畫鳥獸於端飾以朱綠。名曰新瓦。以謂穉子蒙昧未得敎喩。成長而
 後。躬弄之能讀之。則知吾撫育汝之意矣。余甞得其書而讀之。不啻文辭
 平散流暢。演敷人事。不思使人感動心志矣。
東里以明和二年乙酉二月七日。歿于相州浦賀。亭歳七十二。葬于海關顯正
 寺。不娶無妻子。臨終以藤梓者爲嗣。所著新瓦一巻外無遺編。門人須藤
 温輯其詩文。爲東里文集二巻。刊行於世。
 

 


 
   (注) 1. 上記の「中根東里(『先哲叢談 後篇』より)は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の
         『先哲叢談 後篇』
(東條耕(琴台)著、大草常章・発行、売捌所 東学堂書店・明治25年10月
         8日翻刻出版)によりました。
               『国立国会図書館デジタルコレクション』
 → 先哲叢談 後篇 (69~70/155)
        2. 上記の原文には、返り点と部分的な送り仮名がついていますが、ここではそれらをすべて省略し
         ました。
        3. 本文の「東里年十三而喪父」のところに、「偏讀經典」とありますが、「偏」は「徧」(又は「遍」)が
         正しいのではないかと思われますが、そのままにしてあります。
          また、最後の「東里以明和二年乙酉奴月七日」のところに、「亭歳七十二」とありますが、この「亭」
         は、この本文を書き下し文にした『
日本偉人言行資料先哲叢談後編』には、「享年」となっていますので、
         「享」の誤植であるかもしれませんが、ここも原文のままにしてあります。
        4. 『近代デジタルライブラリー』所収の『
日本偉人言行資料先哲叢談後編』(堀田璋左右・川上多助 共編、
         国史研究会・大正5年5月20日発行)は、上の本文を書き下し文にした本です。
            『国立国会図書館デジタルコレクション』
 → 日本偉人言行資料先哲叢談後編』 (99~102/133)
        5. 上の本文中に、「東里寓于蓮光寺數年於此。自知爲僧之非道。屢請蓄髮還俗。寺主雄譽上人。
         頗有鑒識。將使任其意」とある、蓮光寺の寺主雄譽上人について、磯田道史氏は『無私の日本人』
         の中で、「明治以後、東里についてふれた諸書はこの僧の名を「雄誉上人」としているが、この年、
         雄誉はすでに世を去っている。慧岩
(えがん)のことを誤り伝えたものと思われる」としておられます(同
          書、177頁)。      

        6. 佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
            
佐野市ホームページ → くらしの情報 → 文化・伝統 → 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」
        7. 磯田道史著『無私の日本人』(文藝春秋、2012年10月25日初版第1刷発行)に、穀田屋十
         三郎、大田垣蓮月とともに、中根東里が取り上げられています。
          なお、『文藝春秋』2010年(平成22年)2月号から、磯田道史氏による「新代表的日本人」の
         連載が始まり、その第1回として中根東里が取り上げられ、東里については4月号まで3回にわ
         たって連載されています。
        8. 『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあって参考に
         なります。
        9. 『豆の育種のマメな話』(北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落ち穂拾い)というブログに、「下
         
生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」という記事があり、中根東里の経歴
         が簡潔にまとめてあって参考になります。   
           *「写真術の開祖
「下岡蓮杖」」の次に、「「中根東里」と伊豆気質」があり、その次に「下田生まれの
              儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」があります。
 
(2016年10月7日) 

        10. 資料437に「中根東里「学則」」があります。
        11. 資料438に「中根東里の経歴(『下田の栞』による)」があります。
       12. 資料439に「中根東里の「壁書」」があります。
       13. 資料440に「中根東里(『尋常小学修身口授書』巻の三より)」があります。
       14. 資料441に「〔中根東里〕竹皮履先生と壁書(『通俗教育 逸話文庫』巻の三より)」があります。
       15. 資料443に「中根東里(『近古伊豆人物志』より)」があります。  
        16. 資料445に「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より)」があります。 
        17. 資料446に「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より・傍点部分を表記)」があります。 
        18. 「Taiji's Notebook  (Some Useful Texts)」というサイトに、『先哲叢談後編』(書き下し文)があ
         ります。          → 先哲叢談、その他伝説目次
          なお、これは藤田篤訳『譯註先哲叢談』(金港堂書籍、明治44年6月6日発行)の本文である
         由です。

 




                                   
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