資料445 中根東里(『日本陽明学派之哲学』より)

 
 

 

   第二篇 藤樹蕃山以後の陽明學派

         第六章   中根東里
 
 

 

 

        第一  事 蹟

 

 

東里姓は中根氏、名は若思、字は敬父、東里と號す、通稱は貞右衛門、伊豆下田の人、元祿七年を以て生まる、東里の父、名は重勝、字は子義、武濱と號す、三河の人、延寶年間伊豆に遊び、遂に此に移住し、淺野氏を娶り、五男一女を生む、然れども唯東里と其弟孔昭(字は叔德、鴨居と號す、)と二人のみ生存し、其他は皆夭折せり、重勝家を下田に構へ、農桑を業とし、又兼ねて醫術を善くす、是を以て治療を請ふもの日に多く、其名遂に郷里に聞ゆるに至れり、
東里年僅に十三にして父を喪ひ、母に事へて孝謹なり、其母父の冥福を修めしめんが爲め、命じて僧とならしむ、初め郷里の一禪寺に入り、薙髮して證圓といふ、後宇治の黄蘗山に登り、悦山禪師に師事し、晝於精研、佛祖の眞面目を得るにあり、然れども禪宗の課業、本と博く群書を讀むを許さざるを以て、東里漸く其撿束を厭ひ、竊に寺を出でゝ東都に來たり、下谷の蓮光寺に寓し、淨土宗の學を研究し、徧く經典を讀む、其寺主雄譽上人物徂徠と交はり、屢
東里が人となり、明敏にして衆に異なることを稱す、徂徠之れを聞いて大に之れを賞し、嘗て試に東里をして李攀龍が白雪樓集一本を句讀せしむ、東里乃ち傍訓國讀を其書に附して之れを返す、時に年十九、東里又嘗て文を作りて之れを徂徠に示す、徂徠其半を讀んで之れを舍き、心未だ之れを善しとせず、且つ之れに謂ふて曰く「苟も文を學ばんと欲せば、左氏及び史漢を讀むに若くななし」と、東里乃ち左氏を取りて伏して之れを讀み、一序を作りて之れを徂徠に示す、徂徠見て之れを善しとし、其後に題して曰く「非復昔日阿蒙也」と、後一傳を作りて之れを示す、徂徠大に嗟賞し、坐客を顧みて曰く「是の如くにして後、左氏を學ぶと稱すべきなり」と、是れに由りて東里の名聲、漸く都下に聞ゆるに至れり、一日東里疾に嬰り、佛殿の後房に偃臥して將に養はんとし、偶几上の書を取り、手に任かせて之れを翻閲するに、是れ即ち孟子浩然の氣の章なり、乃ち反覆之れを讀み、慨然として歎じて曰く「道の廣大簡易なる、是の如し、而して何ぞ茫乎として浮圖氏の虗誕に從ひ、以て此生を誤まらんや」と、是に於てか始めて還俗の志あり、遂に郷里に歸り、母氏に還俗の事を請ふ、母氏許さず、伯父某頗る學識あり、母氏に請ふて曰く「子を以て舍てゝ僧となす、是れ之れを棄つるなり、彼れ今還俗せんと欲す、是れ更に一子を擧ぐるなり、宜しく速に之れを聽すべし」と、母氏乃ち以て然りとなし、遂に之を許す、東里大に喜び、又東都に至り、之れを寺主雄譽上人に謀る、上人頗る鑒識あり、其意に任せて髮を寺中の別舍に蓄へしむ、東里益書を讀み、刻苦すること、惟れ日も足らざらんとす、此時徂徠と釁隙を生じ、遂に相容れざるに至れり、東里頗る徂徠の眷顧誘掖の恩を受く、故に其還俗するに當りて、義當に之れを徂徠に謀りて後、之れを爲すべし、然るに東里之れを爲さずして髮を蓄ふること已に百有餘日、徂徠之れを聞いて悦びず、東里又其説を疑ひ、論を著はして之れを駁し、自ら其見る所を述ぶ、山縣周南、太宰春臺等其稿を見て大に之れを慍み、觝排沮礙、東里をして再び其門に入ること能はざらしむ、東里も亦稍徂徠の學を疑ひ、所謂修辭の業を厭ひ、其作る所の文章を取りて、悉く之れを竈中に投じて之れを燒く、此れより還俗して中根貞右衛門と稱せり、室鳩巢引いて其家に致さんと欲す、東里素より其學を慕ふ、乃ち質を委して之れに師事す、時に年二十三、享保元年の正月なり、東里鳩巢に從ひて加賀にあること二年、享保三年加賀より還り、東都の八丁堀に居ること一年、又去りて鎌倉に之き、鶴岡廟前に居ること二年、其間其弟叔德と共に木履を鬻いで以て衣食す、適同居のもの、病めるあり、貧にして藥餌を供するなし、東里盡く經籍衣服を典賣して之れに資す、幾もなく又東都に遊び、辨慶橋の畔に僑居して、諸生を敎授し、常に退落を甘んじて、當時の名家と相擷頑するを欲せず、其費用乏しければ、絲針等を市に鬻ぎ、又竹皮履を造りて之れを售り、僅に數日の費錢を得れば、乃ち戸を閉ぢて書を讀み、沈默して自重し、從遊の士の外は、人に接見せず、時人呼んで皮履先生といふ、一日或る人王陽明全書を進む、東里本と之れを慢り、偃臥して之れを讀む、其致知格物知行合一の説に至りて、肅然として容を改めて曰く「所謂孔門傳受の心法、盡く此書にあり、何ぞ之れを讀むことの晩きや」と、是れより王學に歸し、學問全く一變せり、享保年間下毛の植野に遊び、傳習錄を金信甫が家に講ず、延享年間又上毛の下仁田に遊び、高克明(字は子九、啓峯と號す、)が家に客たり、嘗て其曠野の淸閑を愛し、益都會の煩喧を厭へり、遂に居を下毛安蘇郡の天明郷に移し、一箇の茅屋を經營して之れを知松菴と名づけ之れに居り、專ら王學を唱へて、子弟を誘ふ、闔境之れが爲めに化し、東里を追慕し、婦人小兒の輩と雖も、皆能く東里の名を知るに至れり、東里晩年に至りて多病なるを以て、親戚によりて老を養はんと欲す、寶暦十二年を以て、浦賀に之いて此に居り、大人歌を作り、又人説を作り、以て天地萬物一體の義を明かにす、蓋し其晩年開悟する所を發揮するものなり、東里其死期の迫れるを自覺し、寶暦十二年の冬、自ら東岸の地を擇んで墓石を建て、天命を待てり、翌年正月門人須藤温に與ふる書に云く、
 老生今年七十、望外の歳月に存候、乍然自ら省みて精神血氣を考へ度り候へば、
 決して今年限りの生命と被存候、
然れども其年は死せず、明和二年二月七日疾を以て浦賀に卒す、享年七十有二、海關の顯正寺内に葬る、東里妻子なし、終に臨んで門人藤梓を以て嗣となす、著はす所新瓦一篇の外遺編なし、門人須藤温
(字は子直、下毛の人)其詩文を輯めて東里遺稿一巻となし、後又下毛の服部政世(甫菴と號す、)其書牘及び雜文を纂めて、東里外集一巻となせり、
東里資性狷介にして、高潔自ら持し、苟も世に容れらるゝを求めず、毫も利の爲めに動くことなく、唯
義によりて立てり、是故に從遊者皆之れを憚る、室鳩巢の如きは、殊に其強項屈せず、縝默競はざるを愛せり、
東里の父善く飲む、出づる毎に家に歸ること晩し、東里燭を挑げて之れを迎ふるを常とす、彼れ嘗て之れを途中に迎ふ、父醉ふこと甚しく、其東里なるか、將た他人なるかを知らず、大に之れを罵りて遂に樹下に倒ふれて睡る、因りて之れを扶持すれども起きず、走り反りて幮を家に取る、而も其母の安んぜざるを恐るゝが故に、父某の家に宿するに、今夜偶
醉客多く、某の家又餘幮なきを以て之れを取り來たり、兒と一宿して還ると稱し、遂に父の睡る處に到り、幮を樹に張り、終夜之れを護し、其睡の覺むるを竢ちて之れを持して家に歸る、是に於てか、郷人皆其孝を稱せり、
東里は本と文學趣味のある人にして、詩歌文章に巧なり、然れども彼れ晩年に至りて專ら道學に志し、復た餘念なし、嘗て門人須藤温に謂ひて曰く「賤軀老疾交集、凡百好事皆以廢、唯好學之志、日益壯矣、死而後已、夫徃時所作之文章皆浮華之言、恐誤己誤人、今悉棄之、机上獨餘大人歌耳」と、此れに由りて之れを觀れば、彼れが作に係れる文章にして烏有に歸せしもの、少からざるべし、眞に惜しむべしとなす、今新瓦一篇を翫讀するに、實に千歳得やすからざるの名文なり、柴野栗山、古賀精里、太田錦城の徒皆口を極めて之れを激賞せり、東里が嘗て下毛の天明郷にあるとき、弟叔德其幼女の芳子を携へて相模より至り、之れを東里に託して還れり、時に芳子年僅に四歳、未だ能く誨ふべからず、是を以て東里一篇敎訓の書を著はし、之れを新瓦と題し、鳥獸を其端に畫き、飾るに朱綠を以てし、之れを芳子に與へて、弄ばしめ、其遂に之れを讀むの期あらんことを庶幾せり、其幼女を敎へんとする情の切なる、殆んど豫想の外に出づるものあるなり、新瓦の外菅神廟碑の如き、亦絶妙好辭たるを失はず、田沼謙之れを註釋し、菅神廟碑銘解と名づけ、單行本として之れを世に公にせり、先哲叢談後編巻五に云く、
 東里詩才雋逸、文尤跌蕩、機軸可觀矣、若下毛天明郷菅神廟碑、相州鶴岡祀堂
 記、近世柴栗山、井四明、太田錦城等諸家皆稱曰、慶元以來希有絶無之文、
其所謂相州鶴岡祀堂記は遺稿にも外集にも收載せず、甚だ遺憾なりと謂ふべし、東里が詩篇亦時に誦すべきものなしとせず、今左に二首を擧げん、   

 

   謁菅相公祠詩
衡茅露爲霜、蟋蟀鳴荊扉、幽棲莫與歡、田野誰相知、開帙戀前修、曳杖望廣畦、廣畦坦且靜、中有菅公祠、鬱鬱松垂蔭、森森梅交枝、就階修禮容、慿軒想昔時、昔時何罔極、紛紜亂是非、路險豺狼嘷、林昏鴟鴞飛、休勳淪西海、遺愛泣群黎、况復流離子、感物心傷悲、仰歎桂華落、俯惜蕙草萎、風厲誦甘棠、天寒懷緇衣、悢悢不能去、含情涕漣洏、聊知巴人曲、以比祝史辭、辭殫情未已、徘徊恨晩暉、
 

 

 

    送芳子歸相模詩幷序
 芳子與余寓於下毛、語在新瓦、寛延庚午秋、其伯母自郷里召之、將厚養
 之、明年春芳子年八歳、亦欲徃焉、遂與其父倶行、余喜芳子之得其所也、
 欲其克有終也、故作斯詩以祝之、
莫春春服成、游子方翺翔、况乃與乃父、攜手歸故郷、芳草萋以緑、鶬鶊鳴路傍、伯氏既仁厚、故舊亦温良、爾將承其德、永繋于苞桑、此行尤可樂、別離曷足傷、但母之不存、豈不斷中膓、庶幾遂愛日、令老親復陽、縱見上林華、勿忘曠野霜、

 

 是等の詩篇は、深く道義の薀底に達するものにあらざれば、作る能はざる所なり、徂徠集中格調の高古なるものなきにあらざるも、此種の眞摯にして且つ懇惻なるものに至りては、吾人發見すること能はざるなり、

 

 

 

        第二  學 説 

 

 

 

 

東里は屢々其所信を變更せり、此點に於ては石菴よりも一層甚だしと謂ふべし、彼れ初めは僧となりて禪學を修め、既にして又淨土の敎義を學び、幾もなく儒敎を喜び、蘐園の學に歸せり、然るに忽ち又之れを厭ひ、室鳩巢に師事してより朱子學を奉じ、後又一變して陽明學に歸せり、實に變化定まりなきの狀あり、若し石菴を鵺學問といはゞ、今東里を何とかいはん、余其如何なる名稱を以て形容すべきかを知らず、然れども彼れが享保年間一たび陽明學に歸してよりは信念年と共に堅く、復た動搖するが如きことあらざりき、殊に晩年に至りては、益其所信を貫徹し、其自得する所の果して那邊にあるかを發揮せり、
東里は萬物一體の理を説いて、人道の本源、此に存すとせり、即ち彼れは一元的世界觀によりて、仁の本體如何を演繹せり、大人歌に云く、
 天地與萬物、渾然惟一人、陰陽爲呼吸、四時是屈伸、分野唯虚名、全體靡不均、
是れ世界を以て人の大なるものとするなり、又人説に云く、
 人者、天地之心也、故天地者、人之身也、云云、宇宙即是人、人即是宇宙、人之
 大全也、
東里は此の如く、宇宙を以て人の身體とし、人を以て宇宙の心意とし、人と宇宙とを合一して、常識を超絶せる大なる人格を寫象し、之れを人の全きものとせり、即ち人類の理想は、此の如く大なる人格
Persönlichkeit を成すにありとするものなり、大なる人格の本體は唯仁のみ、東里其意を「一體之訓」中に叙述せり、云く、 

 

泰誓に曰く、惟れ天地は萬物の父母、惟れ人は萬物の靈なり、夫れ天地果して萬物の父母ならば、萬物は乃ち天地の子なり、子と父母と一體ならざる者あらんや、禮に曰く、人は天地の德なり、又曰く、人は天地の心なり、人果して天地の心ならば、天地は乃ち人の身なり、身と心と一體ならざるものあらんや、心と德と一體ならざるものあらんや、萬物の區にして以て別れたるは、一身の中に於て耳目口鼻首足肩背、各其分ちあるが如し、或は貴うして上にあり、或は賤うして下にあり、或は遠く或は近く、或は大、或は小、其差等節目、得て混同すべからず、然れども精神周流し、脈絡貫通し、疾痛歡樂感觸、神應せざることなし、是故に上なる者、下を愛し、下なる者、上を敬し、遠きを忘れず、近きを忽にせず、大に事へ、小を字ひ、相助け相安じ、樂むに天下を以てし、憂ふるに天下を以てす、是れ堯舜の治體にして、聖學の大本大源なり、吾儕こゝに於て心を專にし、志を致して講究體認することを務めずして、末を逐ひ流に隨ひて、滔々として反らず、日を曠うし、時を失ひ、遂に以て此生を虚くするに至る、其以て然る所の者は、何ぞや、一體の中に於て自ら異にして各其藩籬を高くする故なり、其れ此の如くなれば、人は只是れ一團の血肉のみ、豈に以て天地の心とするに足らんや、云云、明道曰く、仁は天地萬物を以て一體とす、己れにあらざることなし、天地も己れなり、萬物も己れなり、天は己れが高きなり、地は己れが厚きなり、日月は己れが明なるなり、學者誠に其心を存し、其氣を定め、人我の見を去り、意必の私に勝ちて、眞誠に之れを體察せば、天地萬物、吾に於て毫末の間隔なきを見て、聖賢の吾を欺くにあらざることを信得すべし、况や陰陽五行の人にあるもの、天地四時と共に徃來變化して、曾て内外彼此の別なし、喜怒哀樂、視聽言動、天地萬物に於て一毫の間隙あれば斬るが如く、刺すが如く、疾痛惻怛、忍ぶべからず、一體にあらずんば、豈に此の如くならんや、是を以て古の聖賢、人飢溺のごとく、一夫も獲ざれば、己れ推して是れを溝中に納るゝがごとく、天下の憂に先ちて憂へ、汲々遑々として、席を煖むるに暇あらず、故にこの紛冘を求めて、以て自ら勞苦するにあらず、只是れ萬物もと吾が一體なれば、生民の困苦荼毒、いづれか疾痛の吾身に切なるものにあらざらん、吾身の疾痛を知らざる者は、是非の心なき者なり、程子は學んで至る所を以て云ふなり、禮と泰誓とは、聖愚の同じく然る所を指して云ふなり、夫れ天地萬物もと一體なれば、天地萬物もと一物なり、所謂格物は此一物を格すのみ、此一物を格すとは、其本然に復るのみ、聖人の學、其廣大にして簡易なること、此の如し、明道之れを宋に唱へ、陽明之れを明に和し、天下萬世に示すに宇宙の大全を以てす、其盛德大惠、民得て稱する事なし、云云、

 

 

人にして萬物一體の理を知れば、自他の別、彼我の差、忽然消滅して、何等の藩垓もなく、融合相即して、我れ即ち宇宙、宇宙即ち我れなるを悟り、始めて仁を體察するに至る、仁を體察して、仁を實行すること、即ち學問の本領なり、人説に「學問之道、無他、撤其藩籬而已」と云ふは、先づ其個體 Individualitāt に執着する我見を打破すべきを謂ふなり、我見を打破することは、實に仁に到達するの關門なり、我見を打破し了はれば仁茲に得べし、是故に「學問之道、無他、撤其藩籬而已」と云へり、學問の本領は唯仁を實行するにあること、「學則」に詳なり、因りて今左に之れを擧げん、

 

 


  學則
聖人之學、爲仁而已矣、仁者、天地萬物一體之心也、而義禮智信皆在其中矣、蓋天下之物、其差等雖無窮、然莫弗得天地之性、以爲其性、得天地之氣、以爲其氣、此之謂一體、是故自我父子兄弟、以至於天下後世之人、皆吾骨肉也、日月雨露、山川草木、鳥獸魚鼈、無一物而非我也、則吾不忍之心、自不能已矣、是故己欲立而立人、己欲達而達人、己所不欲、無施諸人、人之善惡若己有之、先天下之憂而憂、後天下之樂而樂、是之謂仁、是之謂天地萬物一體之心、其自然有厚薄者、義也、譬影之參差、非日月之所私焉、禮其節文也、智其明覺也、信其眞實也、是心之德、其盛若此、但爲人欲所蔽、而不知其所謂一體者安在也、營々汲々、唯
一己之名利是圖、甚者視其一家骨肉之親、無異於仇讎、况他人乎、鳥獸草木乎、然而心之本體、則自若也、其感於物也、輙戚々焉、如痛孺子之入井、閔觳觫之牛之類是已、况於吾父子兄弟、其能恝然乎、譬如雖雲霧四塞、然日月之明、則無以異、纔有罅隙、輙能照焉、聖人之學、豈有他哉、勝夫人欲、以盡是心而已矣、葢合内外、以平物我而已矣、此之謂爲仁、此之謂好學、於戯、其廣大而簡易若是矣、彼以文辭爲學者、陋矣、求義於外惑矣、吾懼學之日遠於仁也、於是乎言、
 

 

仁は即ち良知の異名にして、所謂致良知は仁を實行することなり、學問の目的は、唯仁を爲すといふことのみにあるが故に、眞に一貫なり、毫も岐路あることなし、是故に直截易簡、是れに過ぐるものはあるべからず、須藤子に與ふる書に云く、

 

さして身を苦しめ、心を勞することも無之、甚だ易簡直截にして、萬物の多き、萬物の繁き、萬方の遠き、萬世の久しき、一以貫之道理有之候、

 

 

又桃野子に與ふる書に云く、

 

天地萬物、唯一物也、格物は只此一物を格すのみなり、譬へば、大木のごとし、其枝葉花實、百千萬億といふとも、只是れ一木なり、故に唯一つの根を養へば、其百千萬億の枝葉花實、盡く盛長せざることなし、是れ至簡至易の妙法にして格物の大全なり、
 

 

 

 

學問の目的已に明瞭にして、白日の照すが如く、復た邪路の迷ふべきものなしと雖も、躊躇顧盻、其決行すべきを知らざれば、遂に志を成すこと能はざるべし、是を以て柳圃子に與ふる書に迅速なる決斷の要を述べて云く、

 

既に此れを爲す、又彼れを爲す、徘徊顧望して、日を曠うし、時を失ひ、無窮の悔を貽すべからず、歳月流るゝが如く、大福再び來らず、此生能く幾何ぞや、豈に萬物の靈を以て冲天の翼を屈して鷄鷺と群をなすに忍びんや、
 

 

 

 

 

 

 

 

又須藤子に與ふる書に云く、

 

老拙事は一日之命有之候はゞ、一日の學問勤め候て、死して而して後已み可申と奉存候、只此一つの愚見を同志に傳達致度きは、是れを婚姻に譬ふれば、老拙は媒妁にて御座候、

 


東里は啻に人に説諭する而已ならず、身親ら其言ふ所を實行して、模範を示せり、彼れは又學者の外物に騁せ、迂闊に流れんことを恐れて、學問の方法を論ぜり、
桃野子に與ふる書に云く、

 

俗人の學を以ていはゞ、讀書を以て第一義として字々句々、分明に解釋するを成功とすべし、聖學の成功は是れより大なるものあり、經傳の中斯學の大頭腦を指して示したる所は讀み易く、解し易く、明々白々として靑天白日の如し、註釋を用ひず、思慮を勞せずして通曉すべし、只是れを擇んで反復玩味せば、足らざることなかるべし、無益の文字に於て讀み難きを讀み、解し難きを解せんと欲して、精神を費やし、光陰を失ふべからず、大頭腦を見得ざるに及んでは、五經四書といへども、月をさす指の如し、月を見るものは、指を忘れて可なり、文義に牽制せられて、其本に迷ふものは、指を以て月とするなり、象山先生曰く、學者も本あらば六經皆我註脚也、致良知は斯學の大頭腦なり、良知の本體は、天地萬物唯一身なり、此本體を提撕すれば、格物の功其中にあり、是れ則ち一以貫之なり、譬へば、米を舂くもの、唯々杵一つに力を用ひて、億萬の粒米、盡く精白となるが如し、故に王子晩年の敎、唯致良知といふのみにして格物に及ばず、いかんとなれば、此本體を提撕することを知らずして、更に格物を以て事とするものは、木の根なきが如く、水の源なきがごとし、米を舂くもの杵を失ふて一粒々々に磨刮するが如し、是れ世儒の學、支離決裂、牽滯紛擾して、終に成功なき所以なり、

 


又柳圃子に與ふる書に云く、
 

 

聖人の學は、五經四書及び陽明傳習錄文錄にて致全備候、他に求むべからず、右之内にて要を求め、又要中に於て至要を求めば、何の足らざることあらん、吾儕向來多岐に迷惑せしことは、此所に於て定見なき故也、

 

 

 

 

彼れが學問の範圍、此に至りて愈狹隘となれるも、其自得する所の道義の觀念に至りては、愈精妙となり、殆んど古聖賢の域に接せんとするの概あり、又雷澤子に與ふる書に云く、
 

 

聖人の学を勤むる人は、私に勝ち過を改め、德を養ひ、天地萬物一體の道理を信じ得るに及んでは、夜のあけたるごとく、重荷をおろしたるがごとく、盲人の目のあきたるごとく、さぞ心よくうれしく、舊惡も前非も後悔も殘念も昨夜の夢なり、昨日の風雨なり、何の憂ひ悲む事あらんや、わかき人兼ねて此意味を知り候はゞ、末賴しく學問に退屈なく、精出で可申候處、敎ふる人も學ぶ人も只文字のさたばかりにて、心の安堵を求むる事を知らず、空しく光陰を送り、此世を夢の如くにて過去り候事、尚ほ又悲しきものに御座候、老拙事も近年まで此學問を知らずして、あだに月日を過ごし來り候、何とぞ餘命の内、此悲をことごとくはらし申度き願のみにて御座候、 

 

又云く、 

 

 

名を好む心は學問の大魔なり、早く名を棄て實を勤むべし、老拙幼年より名を好むの病深く近年以來殊の外うるさく覺候へ共、療治の力弱く御座候哉、いまだいえきり不申候、名を惜むと申候へば、よき事に聞え候へども、聖人の學は、義を惜み候間名には貪着不致候、名をおしむ心有之候へば事ごとに外聞をかざりて、眞實の心なく、世上のうはさを恐れて氣遣ひ多し、果てには只名のために能をすつるかたに成りゆき申候、たとへ大高名ありとも、義を失ひては耻かしく口惜しく日夜に心のはらしやうもあるまじく候へば、羨ましからぬ事に御座候、只義に於て缺けたる所なければ心はひろく氣はのびて少しも不足も無之候へば世上にていかほどそしり笑ふとも、毛頭心にかゝることなく、各別の樂み思ひやられ候、義と名とは、玉と石となり、取違ひなき樣に擇び分つべき事に候、 

 

 

 

 

此れによりて之れを觀れば、東里己れが心を以て世界の中心として、寂然不動の域に達するを得たり、此の如くなれば、平生毫も外物によりて左右せられず、外物は反りて我れを樞紐として周圍に遷轉するの狀なくんばあらず、其毀譽を雲烟の如くに看過し、名利を塵芥の如くに侮蔑するもの亦怪むに足らざるなり、又彼れが迷妄を打破し去りて、心の光明に向ひ、日夜急ぎつゝあるの狀は、猶ほ孤鶴の聲を曳いて空明の裏に沖るが如く、其高尚崇大なる、逈に塵俗の外に超絶するものあるなり、然れども如何なる人も人たる以上は情欲なきこと能はず、情欲は人を引いて下劣の方向に導かんとするものにて、其勢力たる、甚だ猛烈なるものあるなり、是故に之れを退治するの工夫なくんば、學問の目的は如何に高尚なるも、之れに到達すること甚だ覺束なしと謂はざるべからず、是を以て東里は時々刻々、間斷なく、情欲の侵害に向つて戰はざるべからざることを論ぜり、彼れ之れが爲めに柳圃子に與ふる書に退屈の弊を説いて曰く、
 

 

 

此大魔(即ち退屈)を降伏すること能はずんば、小善ありといふも、車薪杯水、勞して功なきことなり、其由りて來る所を尋ね求むれば、只吾志の誠一眞切ならざる所より出でたり、是故に學者の務は只吾志誠一眞切なるか誠一眞切ならざるかと吟味省察して一息の間斷なかるべし、此患を免るゝの道、只此一方のみなり、智謀を用ふべき樣もなし、才略を用ふべき樣もなし、只是れ無二無三に此退屈の念を攻撃裁斷して吾良心の本然に復するのみなり、譬へば、四方援なき地に於て大敵にとり圍まれたるが如し、智謀も才智も用ひ樣なければ前後左右を顧みず、無二無三に其大敵を撃破りて自ら全うせんと思ふより外の方便はなきなり、今日も此通りに工夫をなし、明日も此通りに工夫をなし、聲色の上にも、かくの如く、名利の上にも、かくの如く、貧賤にも退屈せず、患難にも退屈せず、疾痛死亡にも退屈せず、時となく處となく、只此大魔を降伏するを以て務とせざることなし、力を用ふるの久しうして、彼れ衰へて、我れ盛なるに至りては、吾本心周流和暢して、人欲私意、客氣俗習、隱伏する所なし、或は微き萌動するものありといふとも、紅爐上一點の雪ならん、云云、
 

 

人は情欲に向ひて間斷なく戰ひ、遂に之れを降伏するに至らざるべからざること東里が論ずる所の如し、然れども此事を成し遂げんに百折不撓の志なかるべからず、如何なる患難に遭遇するも、阻喪せざるの勇氣なかるべからず、是故に彼れ亦志の誠一眞切ならざるべからざることを論ぜり、柳圃子に與ふる書に云く、 
 

 

 

憂深く情切にして、志氣奮發、人をして興起せしむるものあり、天の將に大任を是人に降さんとするや、必ず先づ其心志を苦しめ、其筋骨を勞して、其體膚を餓やし、心を動かし、性を忍んで、其能はざる所を増益せしむ、いはゆる汝を成るに玉にするなり、伏して望むらくは、此所に於て目を明かにし、膽を張り、精神を振起して、天意を奉承すべし、徒に放過すべからず、吾志の誠一眞切ならざるを御見得被成候ば良知なり、此良知を致して、吾志をして必ず誠一、必ず眞切ならしむべし、譬へば、覇客の郷里に歸るが如し、父母に見え、妻子に逢ふて、歡樂せんと思ふ心、誠一眞切なるが故に、千里を遠しとせず、寒暑を畏れず、風雨を厭はず、道路の景色にも貪着する心なく、只一日もはやく郷里に歸着せんと思ふ心さかんにして少しも退屈することはなきなり、云云、今右の事を以て斯學に比すれば、天地萬物一身の境界は吾眞の故郷なり、位なくして貴く、祿なくして富み、仰いで愧じず、俯して怍ぢず、心廣く體胖かなり、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず、夷狄患難入るとして自得せざることなし、天下の至樂なり、此郷里に歸り、此眞樂を得んと思ふ心、誠一眞切ならば、道中の艱難辛苦、心を動かすに足らず、何の退屈することあらん、凡そ他郷の聲色紛華、何の羨むことのあらんや、只是れ吾輩此境界を見得すること分明ならず、半は信じ、半は疑ひ、或は勤め、或は惰り、一日暴めて十日寒するが如くにして、成功あらんことを欲するは、種せずして秋を待つなり、是れ衆人の醉生夢死して、他郷異域の愚鬼となる所以なり、云云、此患を免れんと欲せば、何を以てせんや、斯學に倦むことなからんのみ、倦むことなきの至りは、誠一眞切なり、誠一眞切なれば、愈倦むことなし、愈倦むことなければ、愈誠一眞切なり、工夫茲に至りて獨木橋を渡るが如し、左右皆深淵なり、進むべくして退くべからず、是れ古の人戰々兢々として、敢て一念の間雜なき所以なり、
 

 

其他東里が心の本體を以て光明正大となすが如き、無我を説いて彼我の別を撤するが如き、謙と仁と密着不離の關係あるを説くが如き、皆一顧の價なしとせざるなり、東里は又靜坐をなし、又靜立をなせり、靜坐は宋儒の工夫せし所にして、本と坐繕禪を飜案せしものなるが如し、然れども靜立と云ふことはなかりき、是れ全く東里の發明する所に係る、彼れ自ら桃野子に與ふる書に其効を述べて曰く、
 

 

 

老拙近來靜坐を勤候に付、靜立をも致候、古來靜立といふ名目は聞及ばず候へ共、愚意を以て作爲いたし候、靜坐は時を待ち處を擇ぶ事も有之候へども、靜立は其差別なく、内にありても外に出ても、道路を往來するにも、心まかせになるべし、云云、
 

 

東里は執齋と殆んど伯仲の間にあるが如し、然れども其文多く傳はらざるを以て尚ほ多少の遺漏なきを保し難きは吾人の頗る遺憾に堪へざる所なり、
尚ほ最後に東里の壁書を擧げん、
 

 

 一 父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは、身を脩むる本なり、本かたけれ
   ば、末しげし、
 一 老を敬ひ、幼をいつくしみ、有德を貴び、無能をあはれむ、
 一 忠臣は國あることを知りて家あることを知らず、孝子は親あることを知り
   て己れあることを知らず、
 一 先祖の祭を愼み、子孫の敎を忽にせず、
 一 辭はゆるくして誠ならむことを願ひ、行は敏くして厚からむことを欲す、
 一 善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす、
 一 怒に難を思へば、悔にいたらず、欲に義を思へば、恥をとらず、
 一 儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし、
 一 樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ、人各
その業を樂むべし、
 一 人の過をいはず、我功にほこらず、
 一 病は口より入るもの多し、禍は口より出づるもの少からず、
 一 施して報を願はず、受けて恩を忘れず、
 一 他山の石は玉をみがくべし、憂患のことは心をみがくべし、
 一 水を飲んで樂むものあり、錦を衣て憂ふるものあり、
 一 出る月を待つべし、散る花を追ふこと勿れ、
 一 忠言は耳にさかひ、良藥は口に苦し、
 

 

右十六條未だ甚だ奇なりとせずと雖も、亦日常の行爲に適切なる治心の法を列擧せり、學者若し之れを實行するを得ば、其君子たるに於て綽々然として餘裕あること疑なきなり、

      廣大なる現實の完全なる縮寫は、
      即ち小世界なり
即ち小宇宙なり、
                  ロツツエ


 

 

  (注) 1.  上記の「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より)は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『日本陽明学派之哲学』(井上哲次郎著、冨山房・明治33年10月13日発行)によりました。
 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
   → 『日本陽明学派之哲学』(170~184/338)
   
    2.  原文に施してある傍点「(黒ゴマ)・の中が白い点(白ゴマ)・○(白丸)・◎(二重丸)・△(三角)」は、ここではすべて省略してあることをお断りしておきます。(傍点部分を表記した本文が、資料446にあります。)
 また、本文中の一部に見られる返り点も省略してあります。          
 平仮名の「こ」を縦に潰した形の繰り返し符号は、を以て代用してあります。(「唯ただ)」「只(ただ)」「屢(しばしば)」「偶(たまたま)」「適(たまたま)」「益(ますます)」「稍(やや)」「盡く(ことごとく)」「各(おのおの)」「愈いよいよ)」)
 なお、『国立国会図書館デジタルコレクション』の本文に、印刷のはっきりしないところがあり、文字の読み取りに誤りがあるかもしれません。お気づきの個所を教えていただければ幸いです。
   
    3.  上の本文の初めの方に、「竊に寺を出でゝ東都に來たり、下谷の蓮光寺に寓し、淨土宗の學を研究し、徧く經典を讀む、其寺主雄譽上人物徂徠と交はり、屢〃東里が人となり、明敏にして衆に異なることを稱す、徂徠之れを聞いて大に之れを賞し……」とありますが、蓮光寺の寺主雄譽上人について、磯田道史氏はその著『無私の日本人』の中で、「明治以後、東里についてふれた諸書はこの僧の名を「雄誉上人」としているが、この年、雄誉はすでに世を去っている。慧岩(えがん)のことを誤り伝えたものと思われる」としておられます(同書、177頁)。     
    4.  井上哲次郎(いのうえ・てつじろう)=哲学者。号は巽軒(そんけん)。筑前生れ。東大教授。欧米哲学の移入紹介につとめ、ケーベルを招いたが、後年は国家主義を唱えた。また、新体詩運動に先鞭をつけた。著「哲学字彙」「日本朱子学派之哲学」など。(1855-1944)(『広辞苑』第6版による。)    
    5.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「井上哲次郎」の項があります。    
    6.  井上哲次郎の肖像写真について
  (1)『日本近代化学の礎を築いた一人の化学者 櫻井錠二』というサイトの中に、「東京帝国大学教授・理科大学物理学教室前での集合写真」があり、そこに矢田部良吉が写っています。 

  
      『日本近代化学の礎を築いた一人の化学者 櫻井錠二』 TOPページの「サイトマップをクリック
 →「東京帝国大学教授・理科大学物理学教室前での集合写真」をクリック
  
「明治22年 理科大学物理学教室前」の写真
  (2)国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、井上哲次郎の肖像写真を見ることができます。
 
   
    7.   福岡県『朝倉市』のホームページに、「ふるさとの人物誌36 近代日本哲学の父「井上哲次郎(巽軒)」」があります。      
    8.  佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
  
佐野市ホームページ 
   
→ くらしの情報
   
→ 文化・伝統
   
→ 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」
 
   
    9.  図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』(佐野市郷土博物館、令和元年10月5日発行)が出ていて、中根東里について詳しく知ることができます。(2020年5月28日付記)
 図録 『中根東里展─「芳子」と門人たち─』
   目次
    ごあいさつ  プロローグ
    第1章 中根東里の生涯
    第2章 中根東里書簡集
    第3章 菅神廟碑
    第4章 学則
    第5章 新瓦
    第6章 知松庵記・壁書
    中根東里関係略年譜
    参考文献一覧
    展示資料所蔵等一覧
    あとがき
   
    10.  磯田道史著『無私の日本人』(文藝春秋、2012年10月25日初版第1刷発行)に、穀田屋十三郎、大田垣蓮月とともに、中根東里が取り上げられています。
 なお、『文藝春秋』2010年(平成22年)2月号から、磯田道史氏による「新代表的日本人」の連載が始まり、その第1回として中根東里が取り上げられ、東里については4月号まで3回にわたって連載されています。
   
    11.  『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあり、人物の紹介があって参考になります。    
    12.   『豆の育種のマメな話』(北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落ち穂拾い)というブログに、「下生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」という記事があり、中根東里の経歴が簡潔にまとめてあって参考になります。   
 *「写真術の開祖
「下岡蓮杖」」の次に、「「中根東里」と伊豆気質」があり、その次に「下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家「中根東里」」があります。(2016年10月7日)
   
    13.  資料437に「中根東里「学則」」があります。
 資料438に「中根東里の経歴(『下田の栞』による)」があります。
 資料439に「中根東里の「壁書」」があります。
 資料440に「中根東里(『尋常小学修身口授書』巻の三より)」があります。
 資料441に「〔中根東里〕竹皮履先生と壁書(『通俗教育 逸話文庫』巻の三より)」があります。
 資料442に「中根東里(『先哲叢談 後篇』より)」があります。
 資料443に「中根東里(『近古伊豆人物志』より)」があります。  
 資料446に「中根東里(『日本陽明学派之哲学』より・傍点部分を表記)」があります。 
 資料590に「中根東里「新瓦」」があります。
   





       
               
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