資料218 文部省『中等国語一』(昭和21年3月17日発行)(本文)



 

    中等國語 一』       文部省(昭和21年3月17日発行)

 

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       目 録
    國文篇 
 一 富士の高嶺
 二 親  心
 三 菖蒲の節供
 四 柿の花
 五 涼み臺
 六 秋から春へ


國文篇

    一 富士の高嶺          萬葉集

     
山部宿禰(やまべのすくね)赤人の富士の山を望める歌一首並びに
     短歌
 
天地の わかれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河(するが)なる 富士の
 高嶺
(たかね)を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影もかくろひ 照 
 る月の  光も見えず  白雲も い行きはゞかり 時じくぞ 雪は降りけ
  る  語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は
    
反歌
 田子の浦ゆうち出でて見れば眞白にぞ富士の高嶺に雪は降りける


     二 親  心          雲萍雜志

     約束の松 
 名和又太郎長年は、その父嚴にして敎訓の屆きたる人なり。
 或る時、牛をひきたる童の、唄など歌ひて通りければ、長年はあと追ひ行きて、童に呼びかけ、「われをその牛に乘せて、川ばたまで行けかし。」と言ふに、童うけがひ、「御身を乘せて行くべきが、賃には何をか賜はる。」と言へば、長年わが家を顧みて、門に生ひたる松を指さし、「いづれの樹なりとも、その方が望みに任すべし。とくとくやれ。」と言ふに、童喜びて、長年を川ばたまで乘せ行きたり。
 その後、三とせが程を經て、一人の男、童を伴なひ長年が家に來たり、長年が父に向かひ、三年以前の約束を物語る。長年をさな心の戲れなれども、かの童はこれをまことと心得、牛に乘せたる賃をはたり、いかに言ひ解きても肯
(がへ)んぜず。いかゞはせんと言へば、長年が父、これを聞くより、「さもありぬべし。約束なせしにたがひなくば、切らせて遣すべし。」とて、童に望ませ、門前なる大樹の松を杣(そま)に命じて切らせ、牛飼ひにとらせけり。
 里人は。これを言ひ傳へ、「名和が約束の松」と呼びて、今に話し傳へたり。
     詩歌の道
 予
(よ)はいとけなき頃より詩歌の道を好み、たまたま作文などせし折から、稿成りて父に見するに、一つとしてほめられたることなく、唯「無益の事なり。」とて座右に投げ捨ておかれ、他の者のは見てほめられければ、さりとてはいかゞとのみ思ひ過しぬ。
 のち、妻に迎へたる女の、物縫ふこと人にすぐれ、小袖など一日に一重ねづつ縫ひて、餘事までも事かゝねば、物縫ふ職人も驚くばかりなりけり。予、或る時、妻の物縫ふをひたぶるに愛
(め)で賞しけるに、妻の、三歳にして母におくれ、繼母に育てられしが、いと嚴しく、五、六歳より水仕のわざをつとめ、七歳より手習ひ・物讀み・裁ち縫ひを敎へられ、「實の子ならねば敎訓足らずと、末に至りてそしられんはくちをし。」とて、羽根つく遊びだにえせで、唯、物縫ふことなどのみに暇なかりければ、折からは烈しき母よと思ひしかども、今となりては、物縫ふわざを人にほめられはべるは、偏に繼母のなさけ薄からざりし慈愛なりと言へるを聞きて、予がいとけなき頃、作文をほめられざりしことの、いとありがたきを思ひ合はせぬ。
     一人の弟子

 江戸下谷高岸寺といふに、いつの頃にか、弟子の僧二人ありけるが、一人は身持ち律義にして、常々寺のためともなるべき事のみに心を盡くせど、一人は戒行をも保たで、大酒を好み、いさかひなどして、よろづ私多かりしが、或る時、什物(じふもつ)を取り出して賣らんとするを、一人の僧見て諌めけれども、聞き入れざりければ、この由を住持に告げ、「かの僧、追ひ出し給はずば、寺のためにもなるべからず。」と言ふに、住持は、「一先づ諭しみるべし。」とて、嚴しく戒めたるまゝにて捨ておきぬ。
 又或る時、佛具を取り出して賣りたるを聞きて、一人の僧、また住持が許に行きて、「惡僧、このたびは佛具を盗み出して賣りたり。われら諌めたりとて、更に用ふるところもなく、住持も捨ておき給へば、是非に及ばず。われは、行く行く禍の寺に及びて、身にもかゝらんことを恐れ思へり。もし、かれを追ひ出し給はずば、われに暇を賜はるべし。」と言ふに、住持は涙を浮かべ、「さあらば、願ひのまゝにその方に暇を遣すべし。惡僧は今しばしわが傍らに置きて、おひおひ諭すべし。」と言ふ。この僧、大いに住持を恨み、「われら暇を乞はば、惡僧を追ひ出し給はんと思ひしに、それを却つて罪なきわれらに暇賜はること、近頃依怙
(えこ)の心にあらずや。」と言へば、住持は答へて、「さにあらず。御身は今わが寺を出でたりとも、いづこへ行きても、はや僧一人の勤めはなるものなり。惡僧は、今わが傍らを離れなば、忽ち捕らはれて罪人とならんもはかりがたし。さすれば、わが德もすたれ、一人の弟子を失ふなり。故に、今しばしは傍らに置きて、かれが命をも延し、且つは嚴しく敎誡をもせば、善心に立ちかへることもあるべし。それを樂しみに、わが傍らをはなつことをせざるなり。」と言へば、惡僧もこの由を聞きて、師の高恩に感じ、やがて善心にかへりしとぞ。
     石臼の目
 予が閑窓のもとに、こつこつと聞ゆる音、ひねもす止まず。いかなる物の響きにやと、窓押してこれを窺ふに、老いさらぼひし翁の、眼鏡をかけて、筵
(むしろ)の上に石臼の目を切りゐたり。
 予、翁に問ふ、「石臼の目を切ること、その數、日々に幾ばくぞ。」翁答へて、「切る日もあり、切らざる日もあり。」と言ふ。また問ふ、「老翁齡幾ばくぞや。」答へて言ふ、「今年七十一なり。」と。また問ふ、「子孫ありや。」答へて言ふ、「娘あり。早く婿
(むこ)を迎へて、孫三人あり。」と。予曰く、「既に娘あり、婿あらば、老翁かゝるわざはせずともありなん。」と。翁の言ふ、「家に六人のすぎはひするに、婿一人の働きにして、他にたすくる輩なし。われ臼の目を切りたりとも、活計を補ふべきの資力に足らずといへども、欠伸(あくび)のみに徒らに光陰を送らんよりは、せめて、鼻紙の料をもたすけばやと、かゝるあぶなきわざをもしつるなり。」と笑ひぬ。
 人の親の子を思ふ惠み、たかきもいやしきも異なることなき、いとありがたきものと思ひぬ。


    三 菖蒲の節供

 一年に二度、幼い者のために節供の祝ひがあるのはうれしい。女の子のために三月の桃の節供、男の子のために五月の菖蒲
(しやうぶ)の節句があるのはうれしい。
 あの三月の節供に取り出されて、今にも合唱でも始めさうな雛や、古風な少年音樂隊のやうな五人囃子
(ばやし)の代りに、五月の節供を祝ふためにあるものは、鍾馗(しようき)と鬼と金時と桃太郎などの行列だ。
 五月の空に高くひるがへる鯉幟
(こひのぼり)は、子供の國をそこに打ち建てたかのやうにも見える。狹苦しい町の中にあつても、あちこちの屋根の上に鯉幟を望むのは樂しい。うろこを描いた魚の形、長い尾、大きな眼、空にかゝる金と赤と黑とのあの色彩。動きを喜ぶ子供の心を樂しませるやうなあの飛揚、大人の心をも子供の心に返すものは、あのはたはたと風に鳴る鯉幟の音だ。五月の節供を祝ふものは、室内にも屋外にもあつて、軒に葺(ふ)く菖蒲までが、お伽(とぎ)の國の情調を誘ふのも懷かしい。
 五月の節供を迎へる頃は、何といつても季節の感じが深い。桃・櫻は過ぎ去り、椿や木蓮
(もくれん)にもおそく、山吹や藤や滿天星(どうだん)などの花の香氣を放つ五月の初めは、一年のうちの最も樂しい季節の一つだ。遠い山々へはまだ雪の來る日があつて、雨でも降れば袷(あはせ)では寒いこともあるが、私たちの周圍は、もはや若葉の世界だ。このよい時候に、樂しい菖蒲の節供がやつて來る。
 桃の花が女の子にふさはしいやうに、菖蒲はおのづから男の子にふさはしい。一ふし鋭いところのある葉の形もよい。爽かで、みづみづしい葉の色も好ましい。あれを軒にかけるといふことも、やさしい風俗だと思ふ。一年に一度の菖蒲湯があつて、あの香氣が人を醉はせるばかりでなく、私たちの身をも心をも温めてくれるのもうれしい。靑々とした菖蒲の浮いてゐる中をかき分けて、湯槽
(ゆぶね)にひたるのも樂しみだし、あの葉が私たちの肌へべつたりとついた時の心持も惡くない。
 粽
(ちまき)のかをりは幼い日のかをりである。粽ばかりは、ひなびた所で作られるものほどよい。あの細長い粽の葉の巻きつけてあるのを解いて、靑い色に蒸されたかをりをかいだ子供の頃の心持は、今だに忘れられない。粽のほかに柏餅(かしはもち)、赤の御飯などと數へて來ると、五月の節供を祝ふもので、何がなしに懷かしい思ひを誘はないものはない。私たちの少年時代は、まだ軒の菖蒲にも殘つてゐるやうな氣もする。
 この節供を祝ふために、私の家の近所にも大きな幟竿が立つた。矢の形をした風車を竿の先につけたもので、靑葉に埋められた谷底のやうな私の家の前あたりからは、高く見上げるやうな位置にある。きのふの夕方、私はそこらを歩き廻りに行つて、坂の下まで歸つて來ると、隣家の男の子が、おばあさんの背中につかまりながら、じつと岡の上の風車の動くのを見つめてゐるのにあつた。私はその男の子の顔を見守りながら、しばしそこに立つてゐた。漸く數へ歳の二つにしかならないやうな幼い子供にも、そんなに眼にうつるものがあるといふことは、或る深い印象を私に與へた。
                        
(島崎春樹ノ文ニ據ル)



    四 柿 の 花        正 岡 子 規

  柿の花土塀の上にこぼれけり
  滿山の若葉にうつる朝日かな
  片隅にあやめ花咲く門田かな
  藻の花や水ゆるやかに手長鰕
(てながえび)
  雲の峯水なき川を渡りけり
  苔淸水馬の口籠
(くつこ)をはづしけり
  椎
(しひ)の木を伐り倒しけり秋の空
  鵙
(もず)なくや一番高い木のさきに
  稻妻や一本杉の右左
  赤とんぼ筑波
(つくば)に雲もなかりけり
  鳥ないて赤き木の實をこぼしけり
  さらさらと竹に音あり夜の雪
  崖
(がけ)急に梅ことごとく斜めなり
  菜の花の四角に咲きぬ麥の中


    五 涼 み 臺

       
新 星
 毎年夏になつて、そろそろ夕方の風がこひしい頃になると、物置にしまつてある竹製の涼み臺が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の單調な一年中の生活に、一つの著しい區切りをつける重要な日になつてゐる。もう、明日あたりは涼み臺を出さうぢやないかといふことが、誰かの口から言ひ出される。しかし、その翌日が雨であつたり、さうでなくてもいろいろの事にまぎれたりして、つい一日、二日と延びる。そのうちに、いよいよ今日はといふことになつて、朝のうちに物置の屋根裏から臺が取りおろされ、一年中のほこりや黴
(かび)が濡(ぬ)れ雜巾(ざふきん)でていねいに拭ひ淸められ、それから裏庭の日かげで乾かされる。さうして、いよいよ夕方になつて中庭に持ち出されると、はじめて、私の家にほんたうの夏が來たといふ心持になるのである。
 涼み臺のほかに、折り疊み椅子が三つ、同時に並べられて、一同が中庭へ集る。まだ明かるい宵
(よひ)のうちには、繩とびをする者もあれば、寫生帖を出しておばあさんの後姿をかいてゐるものもある。明朝咲く朝顔のつぼみを數へて報告するのもある。幼い女兒二人は、縁側へいろいろなお花を並べて、花屋さんごつこをすることもある。暗くなると、花火をしたり、お伽噺(とぎばなし)をしたり、おばあさんに「お國の話」をさせたりしてゐる。幼い子供らには、まだ見たことのない父母の郷國が、お伽噺の中の妖精(えうせい)の國のやうに、不思議な幻像に滿たされてゐるやうに思はれるらしい。例へば、郷里の家の前の流れにあひるがたくさん遊んでゐて、夕方になると上流の方の飼主が、小舟で連れに來るといふやうな、何でもない話でさへ、何かしら一種の夢のやうなものを幼い頭の中に描かせるとみえる。それで、いつも「お國の話」をねだつては、おしまひに「私もお國へ行きたいなあ。」と一人が言ふと、もう一人が同じ言葉を繰り返すのである。子供らの祖父の若かつた頃の昔話もしばしば出る。私自身が子供の時分に幾度も聞かされた話が、また同じ母の口から出るのを聞いてゐると、それがもう遠い遠い昔の出來事であつて、數年前まで生きていた私の父に關する話とは思はれないやうな氣がする。まして、祖父を見たことのない、或はおぼろげにしか覺えてゐない子供らには、會津戰爭や西南戰爭時代の昔話は、書物で見る古い歴史の斷片のやうにしか響かないであらう。さうしてそれだけに、却つて祖父に對する懷かしみは淨化され、純化されて、子供らの頭の中の神殿に納められるのであらうと思はれる。
 今年の夏、涼み臺が持ち出されて間もなく、長男が、宵のうちに南方の空に輝く大きな赤みがかつた星を見つけて、あれは何かと聞いた。見ると、それは黄道に近い所にあるし、ちらちらまたゝきをしないから、いづれ遊星に違ひないと思つた。さうして、近刊の天文の雜誌を調べてみると、それが火星だといふことがわかつた。星座圖を出して來てあたつてみると、それは處女宮の一等星スピカの少し東にあるといふことがわかつた。それで、その圖の上に鉛筆で現在の位置を記し、そのわきへ日附を書いておいて、この夏中のこの遊星の軌道を圖の上で追跡してみようといふことにした。それが動機となつて、子供は空のよく晴れた晩には、時々星座圖を出して目立つた星宿を見比べてゐた。その頃は、まだ、織女や牽牛
(けんぎう)は宵のうちには、かなり東にあつた。西の方の獅子宮には、白く大きな木星が、屋根越しに、氷のやうな光を投げてゐた。
 空を眺めてゐるうちに、時々流星が飛んだ。私は流星の話をすると同時に、熱心な流星觀測者が、夜中、空を見張つてゐる話をして、それから新星の發見に關する話もして聞かせた。主だつた星座を暗記してゐれば、素人
(しろうと)でも新星を發見し得る機會はあるといふことも話した。
 一秒間に二十九萬九千キロを走る光が、一箇年かゝつて達する距離を單位にして測られるやうな、ばくだいな距離を隔てて散布された天體の二つが、偶然接近して新星の發現となる機會は、例へば釋迦
(しやか)の引いた譬喩(ひゆ)の、盲龜が百年に一度大海から首を出して、孔のあいた浮木にぶつかる機會にも比べられるほどすくなさうであるが、天體の數のばくだいなために、新星の出現はそれほど珍しいものではない。たゞ光度の著しく強いのが割合ひに稀である。
 こんな話よりも子供を喜ばせたのは、新星の光が數十百年の過去のものだといふことであつた。わが家の先祖の誰かが、どこかでどうかしてゐたと同じ時刻に、遠い遠い宇宙の片隅に突發した事變の報知が、やつと今の世にこの世界に屆くといふことである。
 八月になつてから、雨天や曇天が暫く續いて、涼み臺も片隅の戸袋に立てかけられたまゝに幾日もたつた。
 或る朝、新聞を見てゐると、今年卒業した理學士某氏が流星の觀測中に、白鳥星座に新星を發見したといふ記事が出てゐた。その日の夕方の涼み臺へ出て、子供と共にその新星を探したら、直ぐわかつた。暫く見なかつた間に季節が進んでゐることは、織女・牽牛が宵のうちに眞上に來てゐるのでも知られた。さうして、新星はかなり天頂に近く、白鳥座の一番大きな二等星と光を爭ふほどに輝きまたゝいてゐるのであつた。
「暫くなまけたので、新星の發見をしそこなつたね。」
と言つたら、子供はどう思つたか、顔を眞赤にして、さうして、さもおもしろさうに笑つてゐた。私はじようだんのつもりで言つたのだが、子供には私の意味がよくわかるまいと思つた。それで、誤解をしないために、次のやうな説明をしておかなければならなかつた。
 新星の出現する機會は、極めて少い。われわれ素人が星座の點檢をする機會も、また甚だ少い。隨つて、先づ新星が現れて、それからわれわれがそれを發見するといふ確率は、二つの小さな分數の相乘積であるから、つまりごく小さい物のまた小さい分數に過ぎない。これに反して、毎晩缺かさず空の見張りをしてゐる專門家に取つては、「偶然」は寧ろ主に星の出現といふことのみにあつて、われわれの場合のやうに、星と人とに關する二重の「偶然」ではない。強いていへば、天氣の晴れ曇りや日常の支障といふやうな、偶然の出來事のために、一日早く見つけるかどうかといふことが問題になるだけであらう。
 そのうちに、また曇天が續いて、朝晩はもう秋の心地がする。どうかすると、夜風は涼し過ぎる。涼み臺もつい忘れられがちになつた。隨つて、星のことももう子供の頭からは消えてしまつてゐるらしい。新星の今後の變化を研究すべき天文學者の仕事はこれから始るので、學者たちは毎晩曇つた空を眺めては、晴れ間を待ち明かしてゐることであらう。
      線香花火
 夏の夜に、小庭の縁臺で子供らのもてあそぶ線香花火には、大人の自分も強い誘惑を感ずる。これによつて、自分の子供の時代の夢がよみがへつて來る。今はこの世にない親しかつた人々の記憶が喚び返される。
 初め先端に點火されて、たゞかすかにくすぶつてゐる間の沈默が、これを見守る人々の心を、まさに來たるべき現象の期待によつて緊張させるに、ちやうど適當な時間だけ繼續する。次には火藥の燃燒が始つて、小さな焰が牡丹
(ぼたん)の花瓣(くわべん)のやうに放出され、その反動で全體は振子のやうに搖れ動く。同時に、灼熱(しやくねつ)された熔融塊の球がだんだんに成長して行く。焰が止んで、次の花火の段階に移るまでの短い休止期が、また名状しがたい心持を與へるものである。火の球はかすかな、物の煮えたぎるやうな音をたてながら、こまかく振動してゐる。それは、今にもほとばしり出ようとする勢力が、内部に渦巻いてゐることを感じさせる。突然、火花の放出が始る。眼にも止らぬ速度で發射される微細な火彈が、眼に見えぬ空中の何物かに衝突して碎けでもするやうに、無數の光の矢束となつて放散する。その中の一片は、また更に碎けて、第二の松葉、第三、第四の松葉を展開する。この火花の時間的並びに空間的の分布が、あれよりもつとまばらであつても、或は密であつてもいけないであらう。實に適當な歩調と配置で、しかも十分な變化をもつて火花の音樂が進行する。この音樂の速度は、だんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱く垂れ曲る。もはや爆裂するだけの勢力のない火彈が、空氣の抵抗のためにその速度を失つて、重力のために抛物線(はうぶつせん)を描いて垂れ落ちるのである。私の母は、この最後の段階を「散り菊」と名づけてゐた。ほんたうに、單瓣の菊のしをれかゝつたやうな形である。「ちりぎく、ちりぎく、ちりぎく。」かう言つてはやして聞かせた母の聲を思ひ出すと、自分の故郷に於ける幼時の追懷が、鮮明に喚び返されるのである。あらゆる火花の勢力を吐き盡くした球は、もろく力なくぽとりと落ちる。さうして、この火花の音樂の一曲が終るのである。あとに殘されるものは、淡くはかない夏の宵闇である。
 實際、この線香花火一本の燃え方には「序破急」があり、「起承轉結」があり、詩があり、音樂がある。ところが、近代になつてはやりだした電氣花火とか何とか花火とか稱するものはどうであらう。なるほど、アルミニウムだか、マグネシウムだかの閃光
(せんくわう)は、光度に於いて大きく、ストロンチウムだか、リチウムだかの焰の色は美しいかも知れないが、初めからおしまひまで、たゞぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、拍子もなければ律動もない。それでまた、あの燃え終りのきたなさ、曲のなさはどうであらう。
 線香花火の灼熱した球の中から火花が飛び出し、それがまた、二段、三段に破裂するあの現象が、いかなる作用によるものであるかといふことは、興味ある物理學上並びに化學上の問題であつて、もし詳しくこれを研究すれば、その結果は、自然にこれらの科學の最も重要な基礎問題に觸れて、その解釋は何らかの有益な貢獻となり得る見込みがかなりに多くあるだらうと考へられる。それで、私は十餘年前から、多くの人にこれの研究を勸誘して來た。特に、十分な研究設備をもたない人で、何かしら獨創的な仕事がしてみたいといふやうな人には、いつでもこの線香花火の問題を提供した。しかし、今日まで、まだ誰もこの仕事に着手したといふ報告に接しない。結局、自分の手もとでやるほかはないと思つて、二年ばかり前に少しばかり手を着け始めてみた。ほんの少しやつてみただけで得られた僅かな結果でも、それは甚だ不思議なものである。少くも、これが將來一つの重要な研究題目になり得るであらうといふことを認めさせるには十分であつた。
 このおもしろく有益な問題が、從來、誰にも手を着けられずに放棄されてゐる理由が、自分にはわかりかねる。恐らく、「文獻中に見當らない」即ち誰もまだ手を着けなかつたといふこと以外に、理由は見當らないやうに思はれる。しかし、人が顧みなかつたといふことは、この問題のつまらないといふことには決してならない。
     藤の實
 夕方(昭和七年十二月十三日)、外から歸つて居間の机の前へ坐ると同時に、ぴしりといふ音がして、何か座右の障子にぶつかつたものがある。子供がいたづらに小石でも投げたのかと思つたが、さうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねて、その實の一つが飛んで來たのであつた。家の者の話によると、今日の午後一時過ぎから四時過ぎまでの間にひんぱんにはじけ、それが庭の藤も臺所の前のも、兩方申し合はせたやうに盛んにはじけたといふことであつた。臺所の方のは、二メートルぐらゐを隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなか烈しくて、今にもガラスが破れるかと思つたさうである。自分の歸宅早々經驗したものはその日の爆發の最後のものであつたらしい。
 この日に限つて、かうまで目立つてたくさんに、一せいにはじけたといふのは、數日來の晴天でいゝ加減乾燥してゐたのが、この日更に特別な好晴で、濕度が低下したために、多數の實がほゞ一樣な極限の乾燥度に達したためであらうと思はれた。
 それにしても、これほど猛烈な勢で實を飛ばせるといふのは、驚くべきことである。書齋の軒の藤棚から居室の障子までは、最短距離にしても十メートルはある。それで、地上三メートルの高さから水平に發射されたとして、十メートルの距離に於いて、地上一メートルの點で障子に衝突したとすれば、空氣の抵抗を除外しても、少くも毎秒十メートル以上の初速を以つて發射されたとしなければ、勘定が合はない。あの一見枯死してゐるやうな豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潛んでゐようとは、ちよつと豫想しないことであつた。この一夕の偶然の觀察が動機となつて、だんだんこの藤豆のはじける機構を研究してみると、實に驚くべき事實が續々と發見されるのである。
 それはとにかく、このやうに、植物界の現象にも、やはり一種の「潮時」とでもいつたやうなもののあることは、これまでにもたびたび氣づいたことであつた。例えば、春季に庭前の椿の花の落ちるのでも、或る夜のうちに、風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、又、風があつても、ちつとも落ちない晩もある。
 もう一つ、よく似た現象としては、銀杏
(いちやう)の葉の落ち方が注意される。自分の關係してゐる或る研究所の居室の外に、この樹の大木の梢が見えるが、これが一樣に黄葉して、それに晴天の強い日光が降り注ぐと、室内までが黄色に輝き渡るくらゐである。秋が深くなると、その黄葉がいつの間にか落ちて、梢が次第に寂しくなつて行くのであるが、しかし、その散り方がどうであるかに就いては、去年の秋まで別に注意もしないでゐた。ところが、去年の或る日の午後、何の氣なしにこの樹の梢を眺めてゐた時、殆ど突然に、あたかも一度に切つて散らしたやうに、たくさんの葉が落ち始めた。驚いて見てゐると、それから二十メートル餘を隔てた小さな銀杏も同じやうに落葉し始めた。まるで申し合はせたやうに、濃密な黄金色の雪を降らせるのである。不思議なことには、殆ど風といふほどの風もない。といふのは、落ちる葉の流れが殆ど垂直に近く落下して、樹枝の間をくゞりくゞり、脚下に落ちかゝつてゐることで明白であつた。何だか、少しもの凄いやうな氣持がした。何かしら目に見えぬ怪物が樹々を搖すぶりでもしてゐるか、或はどこかでスイッチを切つて、電磁石から、鐵製の黄葉を一せいに落下させたとでもいつたやうな感じがするのであつた。ところがまた、今年の十一月二十六日の午後、京都帝國大學の或る敎授と連れだつて、上野の淸水堂近くを歩いてゐたら、堂のわきにある、あの大木の銀杏が、突然に、一せいの落葉を始めて、約一分ぐらゐの間、たくさんの葉を振り落したのちに、再び靜穩に復した。その時も、殆ど風らしい風はなくて、落葉は少しばかり横になびくくらゐであつた。同敎授も始めてこの現象を見たと言つて、おもしろがりもし、又、喜びもしたことであつた。
  この現象の生物學的機構に就いては、われわれ物理學の學徒には想像もつかない。しかし、葉といふ物質が、枝といふ物質から脱落する際には、ともかくも、一種の物理學的の現象が發現してゐることも確實である。この事はわれわれにいろいろの問題を暗示し、又いろいろの實驗的研究を示唆
(しさ)する。もしも、植物學者と物理學者と共同して研究することができたら、案外おもしろいことにならないとも限らないと思うふのである。
 これとはまた全く縁もゆかりもない話であるが、先日、家の子供が階段から落ちてけがをした。それで、近所の醫師に來てもらつたら、とやうど同じ日に、その醫師の子供が、學校の歸りに道路で轉んで鼻がしらをすりむき、おまけに鼻血を出したといふことであつた。それから二、三日たつて、家の他の子供が手提をすり取られた。さうして、電車の停留場の安全地帶に立つてゐたら、通りかゝつた貨物自動車に引つ掛けられて、上着にかぎざきをこしらへた。その同じ日に、家の女中が電車の中へ大事な包を置き忘れて來た。これらは、現在の科學の立場からみれば、まるで問題にも何にもならない事で、全く偶然であるといつてしまふよりほかはない事である。しかし、これが偶然であるといへば、銀杏の落葉もやはり偶然であり、藤豆のはじけるのも偶然であるのかも知れない。又、これらが偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかも知れないと思はれる。少くも、家に取り込み事のある場合に、家内の人々の精神状態が平常といくらか違ふことはあり得ることであらう。
 年末から新年へかけて、新聞紙でよく名士の訃音
(ふいん)がひんぱんに報じられることがある。感冒(かんばう)の流行してゐる時だと、それが簡單に説明されるやうな氣のすることもある。しかし、さう簡單に説明されない場合もある。
 四、五月頃、全國の各所で殆ど同時に山火事が突發することがある。一日のうちに、九州から奥羽へかけて十數箇所に山火事の起ることは、決して珍しくない。かういふ場合は、大抵、顯著な不連續線が日本海から太平洋へ向かつて進行の途中に、本州島弧を通過する場合であることは、統計的研究の結果から明らかになつたことである。「日が惡い。」といふ漠然とした説明が、この場合にはりつぱに科學的な言葉で置き換へられるのである。
 人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病氣が亢進
(かうしん)したり、或は飛行機が墜(お)ちたり、汽車が衝突したりする「惡日」も、現在の科學からみれば、單なる迷信であつても、未來のいつかの科學では、それがりつぱに説明されることにならないとも限らない。少くも、さうはならないといふ證明も、今のところなかなかむづかしいやうである。
                         
(寺田寅彦ノ文ニ據ル)


     
六 秋から春へ

      大海の
日の出
  
枕をうごかす濤聲に夢を破られ、起つて戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早曉、場所は銚子(てうし)の水明樓にして、樓下は直ちに太平洋なり。
 午前四時過ぎにもやあらん、海上なほほの暗く、波の音のみ高し。東の空を望めば、地平線に沿うてくすぶりたる樺色
(かばいろ)の横たはるあり。上りては濃き藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黄金の弓を掛く。光さやかにして、さながら東瀛(とうえい)を鎭するに似たり。左手(ゆんで)に黑くさし出でたるは、犬吠岬(いぬぼうざき)なり。岬端の燈臺には回轉燈ありて、陸より海にかけ、頻りに白光の環(くわん)を描きぬ。
 暫くするほどに、曉風冷々
(れいれい)として靑黑き海原を掃ひ來たり、夜の衣は東より次第に剥げて、蒼白き曉の波を踏みて、こなたへこなたへと近寄るさまも指點すべく、磯の黑きに波白く打ちかゝるさまも、漸く明らかになり來たりぬ。目を上ぐれば、黄金の弓と見し月もいつか白銀(しろがね)の弓と變り、くすぶりて見えし東の空も次第に澄みたる黄色を帶びぬ。淼々(べうべう)たる海原に立つ波の、腹は黑うして背は蒼白く、夜の夢はなほ海の上にさまよへど、東の空既にまぶたを開きて、太平洋の夜は今明けんとするなり。
 既にして、曙光
(しよくわう)は花の開くが如く、圏波(けんぱ)の廣まるが如く、空に水に廣がり行きて、水いよいよ白く、東の空益々黄ばみ、弦月も燈臺もわれと薄れ行きて、果てはありとも見えずなりぬ。この時、日の使とも覺しき渡り鳥の一列、鳴きつれて海原をかすめて過ぐれば、大瀛の波といふ波は悉く爪立ちて東の方を顧み、一種待つあるのさゞめき──聲なきの聲四方に滿つ。
 五分過ぎ──十分過ぎぬ。東の空、見る見る金光さし來たり、忽然
(こつぜん)として猩紅(しやうこう)の一點海端に浮かび出でぬ。すはや日出でぬと思ふ間もなし。息をもつかせず、瞬く間もなく、海神が手もてさゝぐるまゝに、水を出づる紅點は金線となり、黄金の櫛となり、金蹄(きんてい)となり、一搖して名殘りなく水を離れつ。水を離るゝその時遲く、萬斛(ばんこく)の金たらたらと昇る日より滴りて、萬里一瞬、こなたをさして長蛇の如く大洋を走ると思へば、眼下の磯に、忽焉(こつえん)として二丈ばかり黄金の雪を飛ばしぬ。
      寒 星

 
寒星一天、深黑なる屋根の上、深黑なる山の上、到る所として星ならざるはなし。葉落ちたる欅(けやき)の梢、大なる箒(はうき)の如く空を摩(ま)して、枝々星を帶びたり。靜かに中庭に立てば、山頂のあたり、波濤の如く夜嵐の過ぐるを聞く。殷々(いんいん)として遠雷の如きは、隣家、夜、籾(もみ)を磨(す)るなり。
      寒 月
 夜九時、戸を開けば、寒月晝の如し。風は葉もなき萬樹を振るひて、飄々
(へうへう)、颯々(さつさつ)、霜を含める空に搖動し、地上の影、木と共に搖動す。そここゝに落ち散る木の葉、月光にひらめいて、さくさくさく、玉屑(ぎよくせつ)を踏む思ひあり。
 仰ぎ見れば、高空雲なく、寒光千萬里。天風吹いて、海鳴り、山騒ぎ、乾坤
(けんこん)皆悲壯の鳴をなす。耳をそばだつれば、寒蛩(かんきよう)籬下(りか)に鳴きて、聲絶えんとす。風に向かひて、月色霜の如き往還を行く人の屐齒(げきし)、戞然(かつぜん)として金石の響きをなすを聞かずや。月下に狂ふ湘海(しやうかい)のかなたに、夜目にも富士の白くさやかに立てるを見ずや。
 月は照りに照り、木枯
(こがらし)はいや吹きに吹く。大地ほえ、大海たけり、浩々(かうかう)又浩々たり。
 大いなるかな自然の節奏。この月とこの風と、殆ど予をして眠る能はざらしむ。 
      彼 岸
 今日彼岸に入る。
 梅花歴亂として麥緑既に莖
(けい)をなしぬ。菜花、盛りとなり、椿はぽたりぽたり落ち落ちして地も紅なり。
 野に出づれば、田の畔
(くろ)は、つくし・芹(せり)・なづな・よめな・野蒜(のびる)・蓬(よもぎ)なんど、ぞくぞくとして足を入るべき所もなし。薹(たう)は花となりて、蕗(ふき)も小さき靑傘をかざしそめぬ。その陰に、はにかめる菫(すみれ)の何ぞ美しき。たんぽゝは小さき日をば惜しげもなく田の畔に撒(ま)き散らせり。木瓜(ぼけ)も紅唇を開きぬ。
 田川の水の音を聞け。溶々としてなめらかに、そのうちに無限の春あり。おたまじやくし生まれて五分ばかり、始めてぬるき水に泳げり。農夫は既に田をかへし始めんとす。
 川べには、枯れ葉・舊根
(ふるね)の間より、茅花(つばな)には大に、竹の子には細き蘆(あし)の芽の、數限りもなく茜色(あかねいろ)にふき出でぬ。
 野には雲雀
(ひばり)を聞き、わが隣家の欅には、近來日ごとに鶯來鳴けり。
                       
(德富健次郎ノ文ニ據ル) 
                 
 

 

 
  (注) 1.  上に示した『中等國語一』の教科書(『中等國語一[前]』に当たると思われるもの)は、昭和21年4月に戦後初めて旧制中学校に入学した生徒たちが使用した教科書です。    
    2.  この年は、まだ新制中学校が発足していませんでした。翌昭和22年4月に新制中学校が発足して、昭和16年にできた国民学校に入学した生徒たちが新制中学の1年生になりましたので、昭和21年に中学に入った彼らは最後の旧制中学生だということになります。
 この年の教科書は、新聞紙のように印刷された用紙を、生徒各自が切りそろえて、自分で綴じて使った教科書です。
(この時期の教科書について、『北海道教育大学附属図書館』のホームページにある「第Ⅱ期北海道教育資料収集整備計画書」に、「墨塗り教科書に続き昭和21年度に使用された文部省著作の暫定教科書は、タブロイド版の極めて粗悪な新聞用紙に印刷され、大部分が製本されていない折りたたみ式で、殆どの教科が数冊の分冊で発行され、「折りたたみ教科書」とか「分冊仮綴じ教科書」と称されている」とあります。)
   
    3.  この昭和21年3月17日発行・同日翻刻発行の『中等國語一』の教科書には、薄い表紙(いわゆる扉に当たるもの)の裏側の目録の下に「奥付」が付いていて、そこに「APPROVED BY MINISTRY OF  EDUCATION (DATE  Mar. 13, 1946)」と、線で囲んで3行に書いた文字があって、時代を示しています。          
    4.  表紙裏側の目録の下の奥付から、発行日その他を引いておきます。
 『中等國語一』
 
昭和21年3月17日發行 同日飜刻發行。
 [昭和21年3月17日 文部省檢査濟]  
 
   著作權所有  著作兼發行者 文部省。  
   飜刻發行者 中等學校敎科書株式會社。
   印刷者 大日本印刷株式會社。
 
   
    5.  この年度の1年用の国語教科書には、この他に『中等國語一[中]』(昭和21年6月28日発行)と『中等國語一[後]』(昭和21年8月6日発行)があります。 
 したがって、上記の『中等國語一』は、本来は『中等國語一[前]』とあるべきものかと思われます。 
   
    6.  ここに引いた『中等國語一』の教科書(昭和21年度に旧制中学に入学した生徒が使った国語教科書)は、翌昭和22年には、この年に発足した新制中学用にきちんとした表紙のついた、別の内容のものが発行されたので、わずか1年でその役目を終えたことになるものと思われます。その意味でも、今となっては貴重な資料といえるのではないでしょうか。新制中学用の国語教科書の総目録(目次)は、資料219にあります。)
 なお、この『中等國語一』を使用した生徒たちが使った『中等國語一[中]』『中等國語一[後]』の目録(目次)を、次にあげておきます。
(教材に錯簡・脱落のある恐れもあります。お気づきの点がありましたら、ぜひお知らせ下さい。) 
『中等國語一[中]』(昭和21年6月28日発行 同日翻刻発行)
   文法篇 [口語]
 一 國語 二 音聲と文字 三 文と文節 四 文節と單語 五 自立語で活用の有るもの 六 自立語で活用の無いもの(一) 七 自立語で活用の無いもの(二) 八 附属語で活用の有るもの 九 附属語で活用の無いもの 十 品詞分類  十一 口語動詞の活用(一) 十二 口語動詞の活用(二) 十三 口語動詞の活用(三)  十四 口語形容詞の活用 十五 口語形容動詞の活用   附表
   漢文篇
 一 律詩二首  二 眞爲善者  三 眞爲學問者  四 鏡  五 七言絶句二題 六  德與財 七 常與變 八 薊與馬之事 九 外盛則内衰 十 五言絶句二題 十一 述懷 十二 膏梁子弟 十三 地動與潮雞

 一 律詩二首(藤田幽谷「暮春 柳堤晩歸」「丙午早春 過柳堤」)  二 眞爲善者(尾藤二洲『冬讀書餘』巻之二)  三 眞爲學問者(西山拙齋『閒牕瑣言』)  四 鏡(『十八史略』巻五 唐太宗文武皇帝)  五 七言絶句二題(頼杏坪「江都客裡雜詩」、高千里「山亭夏日」)  六  德與財(中村蘭林『閒窓雜録』巻之二) 七 常與變(五井蘭洲) 八 薊與馬之事 九 外盛則内衰 十 五言絶句二題  十一 述懷 十二 膏梁子弟(安積艮齋『南柯餘論』巻之下)  十三 地動與潮雞(安積艮齋『南柯餘論』巻之上)

  『中等國語一[後]』(昭和21年8月6日発行 同日翻刻発行)
   國文篇
 一 最低にして最高の道 二 私設大使 三 測量生活 四 尊德先生の幼時 五 俳句への道 六 一門の花 七 姫路城 八 すゝきの穗 九 湖畔の冬 十 創始者の苦心 十一 言葉の遣ひ方

 一 最低にして最高の道(高村光太郎の詩) 二 私設大使(山本勇三(有三)の文。『心に太陽を持て』所収の「一日本人」による)  三 測量生活(武藤勝彦の文) 四 尊德先生の幼時(富田高慶『報徳記』による文)  五 俳句への道(富安謙次(風生)の文)  六 一門の花(平家物語「故郷の花」「青山の琵琶」) 七 姫路城  八 すゝきの穗(良寛の歌4首。大隈言道の歌3首。橘曙覧の歌7首) 九 湖畔の冬(久保田俊彦(島木赤彦)の文) 十 創始者の苦心(『蘭学事始』より) 十一 言葉の遣ひ方(玉井幸助の文)

 
「二 私設大使」の内容は、──1921 年6月のある日、パリのバスティーユ広場でのこと。荷物を山のように積んだ荷馬車を引いていた馬が、大きなお腹を見せて倒れてしまった。暑さで疲れていた上に、舗道に水がまいてあったために、蹄(ひづめ)を滑らせて転倒してしまったのである。馬は何とかして立ち上がろうともがいたが、そして御者を始め周りの人々も何とかして馬を立たせようとしたが、鉄の蹄が舗道に滑るだけで、立ち上がることができない。その時、顔の黄色い背の低い一人の紳士が出て来て、自分の上着をぬいで馬の足元に敷いた。そして、手綱を持って大きな掛け声をかけると、馬はぶるっと胴震いをして立ち上がった。上着が滑り止めになったのである。紳士は上着を拾い上げて泥を払うと、御者のお礼に「ノン、ノン」と軽く答えて、どこへともなく姿を消してしまった。この出来事はパリの新聞ばかりでなく、イギリスの新聞にも掲載された。この日本人の名前は、いまだに分からない。こういう人こそ、立派な私設大使と言うべきである。
   
    7.  〇『雲萍雑志』(うんぴょうざっし)=随筆。4巻。著者は柳沢淇園(きえん)といわれるが不詳。1843年(天保14)刊。和漢混淆(こんこう)文で、志士・仁人の言行を掲げ、勧善懲悪を示した書。            
 
〇柳沢淇園(やなぎさわ・きえん)=江戸中期の文人・画家。名は里恭。字は公美。柳里恭と称す。大和郡山藩の家老。儒学・詩文・仏典・本草・書画・篆刻(てんこく)など16芸に通じたという。中でも絵画は精密濃彩な花鳥画にすぐれ、南画の興隆にも力があった。著「ひとりね」。(1704-1758)(以上、『広辞苑』第6版による。)  
   
    8.  『中等國語 一』掲載の「涼み臺」の本文が、資料216にあります。
 『中等國語 一[中]』の漢文篇の「律詩二首」が、資料214の注の欄にあります。 
 『中等國語 一[後]』の「最低にして最高の道」の本文が資料221にあります。
 『中等國語 一[後]』の「湖畔の冬」の本文が、資料220にあります。
 『中等國語一[後]』掲載の「尊德先生の幼時」の本文が、資料214にあります。
 『中等國語二(2)』掲載の「クラーク先生」の本文が、資料212にあります。
 『中等國語二(2)』掲載の「意味の変遷」の本文が、資料215にあります。 
 『中等國語三(2)』掲載の「芭蕉の名句」の本文が、資料213にあります。       
   

    
       
       
    
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