資料220 島木赤彦「湖畔の冬」(文部省『中等国語一[後]』昭和21年8月6日発行より)




 

              湖畔の冬                島 木 赤 彦 

  富士火山脈が信濃
(しなの)にはいつて、八(やつ)が嶽(たけ)となり、蓼科山(たてしなやま)となり、霧が峯となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖(すはこ)へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地をならして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最低所の家は湖水に沿ひ、その間の傾斜面に百戸足らずの民家が散在してゐる。家は茅葺(かやぶ)きか板葺きである。日用品小賣店が今年まで二戸あつたが、最近三戸にふえた。その他は皆農家である。
  山から丘陵へ、丘陵から村落へと續く木立が、多く落葉樹であるから、冬に入ると、傾斜の全面が皆あらはになつて、湖水から反射する夕日の光がこの村落を明かるく寒くする。寒さがおひおひに加つて、十二月の末になると、湖水が全く結氷するのである。
  湖水といつても、海面から二千五百尺の高所にあり、村落は湖水よりもなほ高い丘上にあるから、嚴冬の寒さは非常である。朝、戸外に出るとひげの凍るのはもちろんであるが、時によると、上下睫
(まつげ)の凍着を覺えることすらある。かういふ時は、顔の皮膚面に響き且つ裂けるが如き寒さを感ずる。
 この頃になると、湖水の氷は一尺から二尺近くの厚さに達する。それほどの寒さにあつても、人々は家の内に籠つて、炬燵
(こたつ)に暖を取つてゐることを許されない。晝は氷上に出て漁獵をする人々があり、夜は氷を切つて、氷庫に運ぶ人々がある。氷庫といふのは、程近い町に建てられてある湖氷貯藏の倉庫である。
 この頃、私の村では、毎朝未明から、かあんかあんといふ響きが湖水の方から聞えて來る。これは、人々が氷の上へ出て、「たゝき」といふ漁獵をするのである。長柄の木槌で氷を叩きながら、十數人の男が一列横隊を作つて向かふへ進む。槌の響きで湖底の魚が前方へ逃げるのをだんだん追ひつめて、あらかじめ張つてある網にかゝらせるのが、「たゝき」の漁法である。私の家は村の最高所にある。庭下の坂が直ぐ湖水に落ちてゐるのであるから、一列の人々を見るには、かなり俯
(ふ)し目にならねばならぬ。俯し目になつた視線が氷上の人まで達する距離はかなりあるのであるが、氷上の人の槌を振るふ手つきまで明瞭に見える。氷を打つ槌先が視覺に達する時、槌の音はまだ聽覺に達しない。次の槌を振り上げる頃に、漸く槌音が聞える。それで、槌の運動と音とが交錯して目と耳へ來るのである。目に來るものも耳に來るものも、微に徹して明瞭である。單にそればかりではない、一列の人々の話し聲までも手に取るやうに聞える。空氣が澄んでゐる上に、村が極めて閑靜であるからである。 
 村の人々は、又、氷の上へ出て、「やつか」で魚を捕る。諏訪湖の底は淺くて藻草が多い。人々は夏の土用中にたくさんの小石を舟に積んで行つて、この藻草の中へ投げ入れておく。土用の日光に當てた石は寒中の水にあつても、おのづから暖かみが保たれると信ぜられてゐるのであつて、實際、凍氷の頃になると、魚族が多くこの積み石の間に濳むのである。それを捕らへるのが「やつか」の漁法である。「やつか」の所在は「やつか」を置いた漁人にあつては、いつでも明瞭である。氷の上に立つて、湖水の四周から嘗つて記憶に留めておいた四箇の目標地點を求めれば足りるのである。二箇づつ相對する地點を連ねる二直線は、必ずこの「やつか」の上で交叉することを知つてゐるからである。交叉の地點を中心として、半徑四、五尺ぐらゐの圓を畫して氷を切り取れば、その下に必ず「やつか」の石群がある。圓の面が定まれば、その圓周に沿つて竹簀
(たけす)がおろされる。魚の逃げ去るのを防ぐのである。かやうにしてから、湖底に積まれた石は、「まんのんが」と稱する柄の長い四つの齒の鍬によつて、一つづつ氷の上へ掬(すく)ひ出されるのである。掬ひ出された石は、濡れてゐるといふよりも凍つてゐるといふ方が適當である。水面を離れる石が氷上に置かれる頃は、もうからからに凍つてゐるからである。凍つた石が黑山をなして氷の上に積み上げられる頃は、「やつか」の底には靑藻と共に搖れ動いてゐる魚族がある。日がさせば、水底に群がり光る魚の腹が見える。魚族は逃げ場を失つて、竹簀に突き當る。竹簀にはところどころに魚を捕らへるための「うけ」といふ物が備へつけてある。これは、一旦これにはいつた魚の二度と外へ出られぬやうになつてゐる竹籠であつて、魚族の多くはこの「うけ」の中へはいつてしまふのである。
 朝早く氷上に立つてから、「うけ」の中へ魚が納るまでには、短い冬の日が一ぱいに用ひられるのであつて、竹簀を上げて魚を魚籃
(びく)の中へ捕り入れる頃は、日はもう湖水の向かふの山へ傾いてゐるのである。湖面を吹く風は、障る物なき氷上を一押しに押して來る。「まんのんが」を持つ手は、時々感覺を失はんとするまでにこゞえる。その時には、携へた火鍋の中で用意の榾木(ほたぎ)を焚くのである。或は又、氷の上で直接に藁火(わらび)を焚くことがある。氷の上で焚き火をしても、その氷が融けてしまはぬほどに氷が厚いのである。おほよそ周圍四里半の氷上にあつて、漁人の生活は全く世の中との交渉を杜絶する。唯、日に一度、辨當をさげて漁場に運んで來る妻女の姿が氷上に現れる。氷を滑り鴨を追つて遊ぶ子供の群が、漁獵の多寡を見るために、この「やつか」へ立ち寄ることもある。さういふことが、單調な漁人の生活に僅少の色彩を與へる。
 「たゝき」で捕つた魚も、「やつか」で捕つた魚も、いはゆる氷魚
(ひを)であつて、脂(あぶら)がのり肉がしまつて、甚だ佳味である。
 氷切りの作業は、快晴の夜を選んで行なはれる。温度が低下して氷の硬度が増すからである。これは若者でなくては到底堪へられぬ勞作である。若者は宵の口から、藁製の雪沓
(ゆきぐつ)を穿(は)き、その下に「かつちき」を着けて湖上へ出かける。綿入れを何枚も重ねた上に厚い半纏(はんてん)をまとふので、からだはいはゆる着ぶくれになる。横も縱も同じに見えるといふ姿である。かういふいでたちをした若者が、氷の上に一列に並んで、鋸で氷を挽(ひ)き始める。氷を挽く手もとは、初め暗くて後に明かるい。目が氷に慣れるのである。三尺四方ほどの大きさに挽き離される氷の各片が、切り離されると共に、水中に陷る。それが氷鋏(こほりはさみ)と稱する大きな鋏で挾み上げられる。挾み上げられたあとの水には、星が映つて搖れてゐる。一望平坦(へいたん)な氷原にあつて、空は手の屆くやうに低く感ぜられ、星は降るやうに光り滿ちてゐる。星の光は、水にあつて水の明かりとなり、氷にあつて氷の明かりとなり、その明かりに慣れるにつれて、隣りの人の顔まで明瞭に見えるやうになる。夜が漸く更けて寒さが益々加ると、氷原のところどころに龜裂の音が起る。その音は、氷原を越えて四周の陸地・山地にまで響き渡る。その響きの中に立つて鋸を挽いてゐる若者の背中には汗が流れ、暫く立つて休息してゐると、その汗が背に凍り着くのを覺える。さういふ時は、鋸の手を休めないやうにするのが、唯一の防寒手段になるのである。それ故、若者は唯、せつせと切る。腕が疲れると、歌も出ない。唯、時々ねむけざましに、大きな聲を張り揚げる者もあるが、それも長くは續かない。餘り疲れて寒くなれば、氷の上で焚き火をして、一時の暖を取ることもある。かやうにして、夜が白んで來ると、氷の上に積まれた氷板が、山のやうに重なつてゐるのである。夜明けからそれを運んで湖岸のたんぼに積み上げる。たんぼには連夜切り上げられた氷板が、長い距離に亙つて正しく積み並べられて、恰も氷の壘壁(るゐへき)を築いたやうな觀を呈する。積まれた氷には多く筵(むしろ)類を引きかぶせておくのであるが、覆ひの筵がなくとも、白晝の日光で、氷の融けるといふやうなことはない。海拔二千五百尺の地がいかに寒いかといふことは、これで想像し得るであらう。若者は氷を積んでから、疲れたからだを各々の家に運ぶ。朝飯をたべてから、始めて暖かい床にはいつてぐつすりと寝入るのである。
 私の村では、又、夜になると、ところどころの家から藁を打つ槌の響きが聞えて來る。氷切りなどに行かぬ人々が、草鞋
(わらぢ)や雪沓を作るのである。ひつそりとした夜の村に響く槌の音は、重く、にぶく、底のない響きであり、聞いてゐればゐるほど、物遠い感じがする。氷叩きの槌の音は、遠くて近く聞える。藁を打つ音は近くて遠い感じがする。
 私の村では又、日中ところどころの家に機を織る音が聞える。町に行つて買ふ布よりも、絲を仕入れて染めて織る方が、安價で丈夫な布が得られるといふのである。縫ひ物をする女は炬燵に居る。機を織る女はそれができない。それで、機臺は皆南向きの日當りのよい室に据ゑつけられる。冬枯れの木立に終日響く機の音は、寒いけれども村を賑やかにする。どの家の機は今日で何日目であるとか、どの家の機は何日かゝつて織り上つたとかいふやうなことを、女たちは皆音を聞いて知つてゐる。閑寂な村にあつて、隣保相依る心は機の音までが同情の交流になるのである。

       

 

 

                   

 

 
  (注) 1.  島木赤彦の「湖畔の冬」は、「久保田俊彦ノ文ニ據ル」として、文部省教科書『中等國語一[後]』に掲載された文章です。久保田俊彦は、島木赤彦の本名です。           
    2.  この教科書は、昭和21年8月6日に発行されたもので、この年度しか使われませんでした。翌昭和22年には新制中学が発足して、新しい教科書が作られたからです。新しい教科書には、残念ながら赤彦のこの文章は載らなかったようです。    
    3.  本文の表記は、漢字は旧漢字、仮名遣いは歴史的仮名遣いになっています。(ただし、「壘壁」のルビが「るゐへき」になっているのは、「るいへき」が正しい歴史的仮名遣いでしょうか。)    
    4.  この教科書は、終戦の翌年に作られた教科書であったため、奥付にはローマ字で、「APPROVED BY MINISTRY OF  EDUCATION  (DATE Aug. 2, 1946)」と書かれていました。    
    5.  島木赤彦(しまき・あかひこ)=歌人。本名、久保田俊彦。長野県諏訪生れ。長野師範卒。雑誌「比牟呂」を創刊。伊藤左千夫に師事。「アララギ」を編集。写生主義に立脚し、峻厳孤高の鍛練道を実践。歌集「氷魚」「太虗集」、著「歌道小見」「万葉集の鑑賞及び其批評」など。(1876-1926)(『広辞苑』第6版による。)    
    6.  『中等國語 一(1)』掲載の「涼み臺」の本文が、資料216にあります。 
 『中等國語 二(2)』掲載の「クラーク先生」の本文が、資料212にあります。
 『中等國語 二(2)』掲載の「意味の変遷」の本文が、資料215にあります。
 『中等國語 三(2)』掲載の「芭蕉の名句」の本文が、資料213にあります。
   

      
        
        
      

 

                                    トップページ(目次) 前の資料へ 次の資料へ