資料216 寺田寅彦の随筆「新星」「線香花火」「藤の実」(文部省『中等国語一』より)


  

       文部省発行の教科書『中等国語一』(昭和21年3月17日発行)に、
        寺田寅彦の随筆「新星」「線香花火」「藤の実」が「五 涼み台」とし
        て載せられています。



 

      涼み臺            寺 田 寅 彦  

 

 


    新 星
 毎年夏になつて、そろそろ夕方の風がこひしい頃になると、物置にしまつてある竹製の涼み臺が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の單調な一年中の生活に、一つの著しい區切りをつける重要な日になつてゐる。もう、明日あたりは涼み臺を出さうぢやないかといふことが、誰かの口から言ひ出される。しかし、その翌日が雨であつたり、さうでなくてもいろいろの事にまぎれたりして、つい一日、二日と延びる。そのうちに、いよいよ今日はといふことになつて、朝のうちに物置の屋根裏から臺が取りおろされ、一年中のほこりや黴
(かび)が濡(ぬ)れ雜巾(ざふきん)でていねいに拭ひ淸められ、それから裏庭の日かげで乾かされる。さうして、いよいよ夕方になつて中庭に持ち出されると、はじめて、私の家にほんたうの夏が來たといふ心持になるのである。
 涼み臺のほかに、折り疊み椅子が三つ、同時に並べられて、一同が中庭へ集る。まだ明かるい宵
(よひ)のうちには、繩とびをする者もあれば、寫生帖を出しておばあさんの後姿をかいてゐるものもある。明朝咲く朝顔のつぼみを數へて報告するのもある。幼い女兒二人は、縁側へいろいろなお花を並べて、花屋さんごつこをすることもある。暗くなると、花火をしたり、お伽噺(とぎばなし)をしたり、おばあさんに「お國の話」をさせたりしてゐる。幼い子供らには、まだ見たことのない父母の郷國が、お伽噺の中の妖精(えうせい)の國のやうに、不思議な幻像に滿たされてゐるやうに思はれるらしい。例へば、郷里の家の前の流れにあひるがたくさん遊んでゐて、夕方になると上流の方の飼主が、小舟で連れに來るといふやうな、何でもない話でさへ、何かしら一種の夢のやうなものを幼い頭の中に描かせるとみえる。それで、いつも「お國の話」をねだつては、おしまひに「私もお國へ行きたいなあ。」と一人が言ふと、もう一人が同じ言葉を繰り返すのである。子供らの祖父の若かつた頃の昔話もしばしば出る。私自身が子供の時分に幾度も聞かされた話が、また同じ母の口から出るのを聞いてゐると、それがもう遠い遠い昔の出來事であつて、數年前まで生きていた私の父に關する話とは思はれないやうな氣がする。まして、祖父を見たことのない、或はおぼろげにしか覺えてゐない子供らには、會津戰爭や西南戰爭時代の昔話は、書物で見る古い歴史の斷片のやうにしか響かないであらう。さうしてそれだけに、却つて祖父に對する懷かしみは淨化され、純化されて、子供らの頭の中の神殿に納められるのであらうと思はれる。
 今年の夏、涼み臺が持ち出されて間もなく、長男が、宵のうちに南方の空に輝く大きな赤みがかつた星を見つけて、あれは何かと聞いた。見ると、それは黄道に近い所にあるし、ちらちらまたゝきをしないから、いづれ遊星に違ひないと思つた。さうして、近刊の天文の雜誌を調べてみると、それが火星だといふことがわかつた。星座圖を出して來てあたつてみると、それは處女宮の一等星スピカの少し東にあるといふことがわかつた。それで、その圖の上に鉛筆で現在の位置を記し、そのわきへ日附を書いておいて、この夏中のこの遊星の軌道を圖の上で追跡してみようといふことにした。それが動機となつて、子供は空のよく晴れた晩には、時々星座圖を出して目立つた星宿を見比べてゐた。その頃は、まだ、織女や牽牛
(けんぎう)は宵のうちには、かなり東にあつた。西の方の獅子宮には、白く大きな木星が、屋根越しに、氷のやうな光を投げてゐた。
 空を眺めてゐるうちに、時々流星が飛んだ。私は流星の話をすると同時に、熱心な流星觀測者が、夜中、空を見張つてゐる話をして、それから新星の發見に關する話もして聞かせた。主だつた星座を暗記してゐれば、素人
(しろうと)でも新星を發見し得る機會はあるといふことも話した。
 一秒間に二十九萬九千キロを走る光が、一箇年かゝつて達する距離を單位にして測られるやうな、ばくだいな距離を隔てて散布された天體の二つが、偶然接近して新星の發現となる機會は、例へば釋迦
(しやか)の引いた譬喩(ひゆ)の、盲龜が百年に一度大海から首を出して、孔のあいた浮木にぶつかる機會にも比べられるほどすくなさうであるが、天體の數のばくだいなために、新星の出現はそれほど珍しいものではない。たゞ光度の著しく強いのが割合ひに稀である。
 こんな話よりも子供を喜ばせたのは、新星の光が數十百年の過去のものだといふことであつた。わが家の先祖の誰かが、どこかでどうかしてゐたと同じ時刻に、遠い遠い宇宙の片隅に突發した事變の報知が、やつと今の世にこの世界に屆くといふことである。
 八月になつてから、雨天や曇天が暫く續いて、涼み臺も片隅の戸袋に立てかけられたまゝに幾日もたつた。
 或る朝、新聞を見てゐると、今年卒業した理學士某氏が流星の觀測中に、白鳥星座に新星を發見したといふ記事が出てゐた。その日の夕方の涼み臺へ出て、子供と共にその新星を探したら、直ぐわかつた。暫く見なかつた間に季節が進んでゐることは、織女・牽牛が宵のうちに眞上に來てゐるのでも知られた。さうして、新星はかなり天頂に近く、白鳥座の一番大きな二等星と光を爭ふほどに輝きまたゝいてゐるのであつた。
「暫くなまけたので、新星の發見をしそこなつたね。」
と言つたら、子供はどう思つたか、顔を眞赤にして、さうして、さもおもしろさうに笑つてゐた。私はじようだんのつもりで言つたのだが、子供には私の意味がよくわかるまいと思つた。それで、誤解をしないために、次のやうな説明をしておかなければならなかつた。
 新星の出現する機會は、極めて少い。われわれ素人が星座の點檢をする機會も、また甚だ少い。隨つて、先づ新星が現れて、それからわれわれがそれを發見するといふ確率は、二つの小さな分數の相乘積であるから、つまりごく小さい物のまた小さい分數に過ぎない。これに反して、毎晩缺かさず空の見張りをしてゐる專門家に取つては、「偶然」は寧ろ主に星の出現といふことのみにあつて、われわれの場合のやうに、星と人とに關する二重の「偶然」ではない。強いていへば、天氣の晴れ曇りや日常の支障といふやうな、偶然の出來事のために、一日早く見つけるかどうかといふことが問題になるだけであらう。
 そのうちに、また曇天が續いて、朝晩はもう秋の心地がする。どうかすると、夜風は涼し過ぎる。涼み臺もつい忘れられがちになつた。隨つて、星のことももう子供の頭からは消えてしまつてゐるらしい。新星の今後の變化を研究すべき天文學者の仕事はこれから始るので、學者たちは毎晩曇つた空を眺めては、晴れ間を待ち明かしてゐることであらう。
    線香花火
 夏の夜に、小庭の縁臺で子供らのもてあそぶ線香花火には、大人の自分も強い誘惑を感ずる。これによつて、自分の子供の時代の夢がよみがへつて來る。今はこの世にない親しかつた人々の記憶が喚び返される。
 初め先端に點火されて、たゞかすかにくすぶつてゐる間の沈默が、これを見守る人々の心を、まさに來たるべき現象の期待によつて緊張させるに、ちやうど適當な時間だけ繼續する。次には火藥の燃燒が始つて、小さな焰が牡丹
(ぼたん)の花瓣(くわべん)のやうに放出され、その反動で全體は振子のやうに搖れ動く。同時に、灼熱(しやくねつ)された熔融塊の球がだんだんに成長して行く。焰が止んで、次の花火の段階に移るまでの短い休止期が、また名状しがたい心持を與へるものである。火の球はかすかな、物の煮えたぎるやうな音をたてながら、こまかく振動してゐる。それは、今にもほとばしり出ようとする勢力が、内部に渦巻いてゐることを感じさせる。突然、火花の放出が始る。眼にも止らぬ速度で發射される微細な火彈が、眼に見えぬ空中の何物かに衝突して碎けでもするやうに、無數の光の矢束となつて放散する。その中の一片は、また更に碎けて、第二の松葉、第三、第四の松葉を展開する。この火花の時間的並びに空間的の分布が、あれよりもつとまばらであつても、或は密であつてもいけないであらう。實に適當な歩調と配置で、しかも十分な變化をもつて火花の音樂が進行する。この音樂の速度は、だんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱く垂れ曲る。もはや爆裂するだけの勢力のない火彈が、空氣の抵抗のためにその速度を失つて、重力のために抛物線(はうぶつせん)を描いて垂れ落ちるのである。私の母は、この最後の段階を「散り菊」と名づけてゐた。ほんたうに、單瓣の菊のしをれかゝつたやうな形である。「ちりぎく、ちりぎく、ちりぎく。」かう言つてはやして聞かせた母の聲を思ひ出すと、自分の故郷に於ける幼時の追懷が、鮮明に喚び返されるのである。あらゆる火花の勢力を吐き盡くした球は、もろく力なくぽとりと落ちる。さうして、この火花の音樂の一曲が終るのである。あとに殘されるものは、淡くはかない夏の宵闇である。
 實際、この線香花火一本の燃え方には「序破急」があり、「起承轉結」があり、詩があり、音樂がある。ところが、近代になつてはやりだした電氣花火とか何とか花火とか稱するものはどうであらう。なるほど、アルミニウムだか、マグネシウムだかの閃光
(せんくわう)は、光度に於いて大きく、ストロンチウムだか、リチウムだかの焰の色は美しいかも知れないが、初めからおしまひまで、たゞぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、拍子もなければ律動もない。それでまた、あの燃え終りのきたなさ、曲のなさはどうであらう。
 線香花火の灼熱した球の中から火花が飛び出し、それがまた、二段、三段に破裂するあの現象が、いかなる作用によるものであるかといふことは、興味ある物理學上並びに化學上の問題であつて、もし詳しくこれを研究すれば、その結果は、自然にこれらの科學の最も重要な基礎問題に觸れて、その解釋は何らかの有益な貢獻となり得る見込みがかなりに多くあるだらうと考へられる。それで、私は十餘年前から、多くの人にこれの研究を勸誘して來た。特に、十分な研究設備をもたない人で、何かしら獨創的な仕事がしてみたいといふやうな人には、いつでもこの線香花火の問題を提供した。しかし、今日まで、まだ誰もこの仕事に着手したといふ報告に接しない。結局、自分の手もとでやるほかはないと思つて、二年ばかり前に少しばかり手を着け始めてみた。ほんの少しやつてみただけで得られた僅かな結果でも、それは甚だ不思議なものである。少くも、これが將來一つの重要な研究題目になり得るであらうといふことを認めさせるには十分であつた。
 このおもしろく有益な問題が、從來、誰にも手を着けられずに放棄されてゐる理由が、自分にはわかりかねる。恐らく、「文獻中に見當らない」即ち誰もまだ手を着けなかつたといふこと以外に、理由は見當らないやうに思はれる。しかし、人が顧みなかつたといふことは、この問題のつまらないといふことには決してならない。
    藤の實
 夕方(昭和七年十二月十三日)、外から歸つて居間の机の前へ坐ると同時に、ぴしりといふ音がして、何か座右の障子にぶつかつたものがある。子供がいたづらに小石でも投げたのかと思つたが、さうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねて、その實の一つが飛んで來たのであつた。家の者の話によると、今日の午後一時過ぎから四時過ぎまでの間にひんぱんにはじけ、それが庭の藤も臺所の前のも、兩方申し合はせたやうに盛んにはじけたといふことであつた。臺所の方のは、二メートルぐらゐを隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなか烈しくて、今にもガラスが破れるかと思つたさうである。自分の歸宅早々經驗したものはその日の爆發の最後のものであつたらしい。
 この日に限つて、かうまで目立つてたくさんに、一せいにはじけたといふのは、數日來の晴天でいゝ加減乾燥してゐたのが、この日更に特別な好晴で、濕度が低下したために、多數の實がほゞ一樣な極限の乾燥度に達したためであらうと思はれた。
 それにしても、これほど猛烈な勢で實を飛ばせるといふのは、驚くべきことである。書齋の軒の藤棚から居室の障子までは、最短距離にしても十メートルはある。それで、地上三メートルの高さから水平に發射されたとして、十メートルの距離に於いて、地上一メートルの點で障子に衝突したとすれば、空氣の抵抗を除外しても、少くも毎秒十メートル以上の初速を以つて發射されたとしなければ、勘定が合はない。あの一見枯死してゐるやうな豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潛んでゐようとは、ちよつと豫想しないことであつた。この一夕の偶然の觀察が動機となつて、だんだんこの藤豆のはじける機構を研究してみると、實に驚くべき事實が續々と發見されるのである。
 それはとにかく、このやうに、植物界の現象にも、やはり一種の「潮時」とでもいつたやうなもののあることは、これまでにもたびたび氣づいたことであつた。例えば、春季に庭前の椿の花の落ちるのでも、或る夜のうちに、風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、又、風があつても、ちつとも落ちない晩もある。
 もう一つ、よく似た現象としては、銀杏
(いちやう)の葉の落ち方が注意される。自分の關係してゐる或る研究所の居室の外に、この樹の大木の梢が見えるが、これが一樣に黄葉して、それに晴天の強い日光が降り注ぐと、室内までが黄色に輝き渡るくらゐである。秋が深くなると、その黄葉がいつの間にか落ちて、梢が次第に寂しくなつて行くのであるが、しかし、その散り方がどうであるかに就いては、去年の秋まで別に注意もしないでゐた。ところが、去年の或る日の午後、何の氣なしにこの樹の梢を眺めてゐた時、殆ど突然に、あたかも一度に切つて散らしたやうに、たくさんの葉が落ち始めた。驚いて見てゐると、それから二十メートル餘を隔てた小さな銀杏も同じやうに落葉し始めた。まるで申し合はせたやうに、濃密な黄金色の雪を降らせるのである。不思議なことには、殆ど風といふほどの風もない。といふのは、落ちる葉の流れが殆ど垂直に近く落下して、樹枝の間をくゞりくゞり、脚下に落ちかゝつてゐることで明白であつた。何だか、少しもの凄いやうな氣持がした。何かしら目に見えぬ怪物が樹々を搖すぶりでもしてゐるか、或はどこかでスイッチを切つて、電磁石から、鐵製の黄葉を一せいに落下させたとでもいつたやうな感じがするのであつた。ところがまた、今年の十一月二十六日の午後、京都帝國大學の或る敎授と連れだつて、上野の淸水堂近くを歩いてゐたら、堂のわきにある、あの大木の銀杏が、突然に、一せいの落葉を始めて、約一分ぐらゐの間、たくさんの葉を振り落したのちに、再び靜穩に復した。その時も、殆ど風らしい風はなくて、落葉は少しばかり横になびくくらゐであつた。同敎授も始めてこの現象を見たと言つて、おもしろがりもし、又、喜びもしたことであつた。
  この現象の生物學的機構に就いては、われわれ物理學の學徒には想像もつかない。しかし、葉といふ物質が、枝といふ物質から脱落する際には、ともかくも、一種の物理學的の現象が發現してゐることも確實である。この事はわれわれにいろいろの問題を暗示し、又いろいろの實驗的研究を示唆
(しさ)する。もしも、植物學者と物理學者と共同して研究することができたら、案外おもしろいことにならないとも限らないと思うふのである。
 これとはまた全く縁もゆかりもない話であるが、先日、家の子供が階段から落ちてけがをした。それで、近所の醫師に來てもらつたら、とやうど同じ日に、その醫師の子供が、學校の歸りに道路で轉んで鼻がしらをすりむき、おまけに鼻血を出したといふことであつた。それから二、三日たつて、家の他の子供が手提をすり取られた。さうして、電車の停留場の安全地帶に立つてゐたら、通りかゝつた貨物自動車に引つ掛けられて、上着にかぎざきをこしらへた。その同じ日に、家の女中が電車の中へ大事な包を置き忘れて來た。これらは、現在の科學の立場からみれば、まるで問題にも何にもならない事で、全く偶然であるといつてしまふよりほかはない事である。しかし、これが偶然であるといへば、銀杏の落葉もやはり偶然であり、藤豆のはじけるのも偶然であるのかも知れない。又、これらが偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかも知れないと思はれる。少くも、家に取り込み事のある場合に、家内の人々の精神状態が平常といくらか違ふことはあり得ることであらう。
 年末から新年へかけて、新聞紙でよく名士の訃音
(ふいん)がひんぱんに報じられることがある。感冒(かんばう)の流行してゐる時だと、それが簡單に説明されるやうな氣のすることもある。しかし、さう簡單に説明されない場合もある。
 四、五月頃、全國の各所で殆ど同時に山火事が突發することがある。一日のうちに、九州から奥羽へかけて十數箇所に山火事の起ることは、決して珍しくない。かういふ場合は、大抵、顯著な不連續線が日本海から太平洋へ向かつて進行の途中に、本州島弧を通過する場合であることは、統計的研究の結果から明らかになつたことである。「日が惡い。」といふ漠然とした説明が、この場合にはりつぱに科學的な言葉で置き換へられるのである。
 人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病氣が亢進
(かうしん)したり、或は飛行機が墜(お)ちたり、汽車が衝突したりする「惡日」も、現在の科學からみれば、單なる迷信であつても、未來のいつかの科學では、それがりつぱに説明されることにならないとも限らない。少くも、さうはならないといふ證明も、今のところなかなかむづかしいやうである。

 

 

 

 

 

 

 

 
  (注) 1.  この寺田寅彦「涼み臺」は、文部省・昭和21年3月17日発行、同日翻刻発行の『中等國語一』(著作権所有 著作兼発行者 文部省。 翻刻発行者 中等学校教科書株式会社。 印刷者 大日本印刷株式会社)によりました。
 表紙裏の「目録」の下に奥付があり、そこに、
「APPROVED BY MINISTRY OF EDUCATION(DATE Mar. 13, 1946) 」とあります。
   
    2.  ここに採られた随筆の本文は、教科書掲載にあたって改変・省略等がなされていますので、その点ご注意ください。
 原文は、いずれも『青空文庫』で見る(読む)ことができます。

 「新星」→ 青空文庫「小さな出来事」
 「線香花火」→ 青空文庫「備忘録」
 「藤の實」→ 青空文庫「藤の実」
           
 初出:
 〇「新星」=大正9年(1920年)11月『中央公論』(「小さな出来事」という題のもとに掲載された5つの小品のうちのひとつ。)

 〇「線香花火」=昭和2年(1927年)9月『思想』(「備忘録」という題のもとに掲載された12の小品のうちのひとつ。)
 〇「藤の實」=昭和8年(1933年)2月『鉄塔』
   
    3.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の文字に直してあります(「そろそろ」「いよいよ」「しばしば」「ちらちら」「遠い遠い」「だんだん」「一つ一つ」「ぼうぼう」「われわれ」「いろいろ」「なかなか」など)。              
    4.  『中等國語一』の教科書は、昭和21年に戦後初めて旧制中学校に入学した生徒たちが使用した教科書です。新聞紙のように印刷された用紙を、生徒各自が切りそろえて綴じて使った教科書のようです。 
 新制中学校が発足するのは、翌昭和22年のことです。
   
    5.  『中等國語一』の目次(目録)を次にあげておきます。『中等國語一』には、この他に『中等國語一(中)』『中等國語一(後)』があります。この目録も、書いておきます。

 『中等國語一』(昭和21年3月17日発行 同日翻刻発行)
   國文篇
 一 富士の高嶺(萬葉集) 二 親心(雲萍雜志) 三 菖蒲の節供(島崎春樹) 四 柿の花(俳句・正岡子規) 五 涼み臺(寺田寅彦)  六 秋から春へ(德富蘆花『自然と人生』から「大海の日の出」)

 『中等國語一(中)』(昭和21年6月28日発行 同日翻刻発行)
   文法篇 [口語]
 一 國語 二 音聲と文字 三 文と文節 四 文節と單語 五 自立語で活用の有るもの 六 自立語で活用の無いもの(一) 七 自立語で活用の無いもの(二) 八 附属語で活用の有るもの 九 附属語で活用の無いもの 十 品詞分類 十一 口語動詞の活用(一) 十二 口語動詞の活用(二) 十三 口語動詞の活用 (三) 十四 口語形容詞の活用 十五 口語形容動詞の活用   附表
   漢文篇
 一 律詩二首  二 眞爲善者  三 眞爲學問者  四 鏡  五 七言絶句二題 六  德與財 七 常與變 八 薊與馬之事 九 外盛則内衰 十 五言絶句二題 十一 述懷 十二 膏梁子弟 十三 地動與潮雞

 『中等國語一(後)』(昭和21年8月6日発行 同日翻刻発行)
   國文篇
 一 最低にして最高の道 二 私設大使 三 測量生活 四 尊德先生の幼時
 五 俳句への道 六 一門の花 七 姫路城 八 すゝきの穗 九 湖畔の冬
 十 創始者の苦心 十一 言葉の遣ひ方
   
6.  『中等國語一(後)』の「四 尊德先生の幼時」の本文が資料214にあります。
 → 資料214 高田髙慶「尊德先生の幼時」
(文部省『中等國語一[後]』より)
           


       
         

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