資料213 潁原退蔵「芭蕉の名句」(文部省『中等国語三(2)』より)



          
                     芭蕉の名句        潁 原 退 蔵

 
       
     山路來て何やらゆかしすみれぐさ       
 これは「野ざらし紀行」中の句である。芭蕉は奈良(なら)で二月堂の水取りの行事を拜観し、京都を経て大津に向かった。この句は京都から大津に出る山路での吟だという。山科(やましな)から小関越でもして行ったのであろう。あまり人も通らないさびしい山路である。そこに小さなかわいらしいすみれの花が咲いている。だれに見られ、だれに賞されようというのでもない。たゞ自然の催しのまゝに咲き出た花である。それが芭蕉の目にはこの上もない美しさに映った。いや美しいというよりも それはむしろ奥ゆかしい感じである。路傍にふとこの一茎の花を見出だした芭蕉の心は、全く「何やらゆかし」という思いにしみじみと満たされて行ったのである。
 「三冊子(さんぞうし)」によると、はじめ上五は「何となく」であったという。また一本には「何とはなしに」ともなっている。それを後に「山路來て」と改めたのである。初案ではあまりに説明にすぎるきらいがある。山路のさまをそのまゝに叙した方が、ゆかしさの情を深めるのに効果的である。
    閑(しづ)かさや岩にしみ入るせみの声
 「奥の細道」の旅中、羽前(うぜん)の立石寺(りっしゃくじ)にもうでてよんだ句である。紀行の本文には、「山上の堂に登る。岩にいはほを重ねて山とし、松柏(しようはく)年ふり、土石老いて、こけなめらかに、岩上の院々とびらを閉ぢて物の音聞えず。岸をめぐり、岩をはひて佛閣を拜し、佳景寂寞(じやくまく)として、心澄み行くのみ覚ゆ。」とある。塵寰(じんかん)を離れた山寺の境内は寂寞(せきばく)と靜まりかえって、物音一つも聞えない。まことに心も澄み行くような思いがする。おりからその寂寞を破ってせみが鳴き出した。芭蕉がこの寺にもうでたのは旧暦五月のことだから、まだはつぜみのころである。せみの声といっても眞夏のようにやかましく鳴き立てたのではない。あそらくはたゞ一匹のせみであったのだろう。けれどもとにかく全山の靜けさはそれで破られたのである。しかも、それは決して靜けさをかき乱すものではなかった。じっと耳を傾けていると、そのせみの声はこの靜寂の中に溶けこんで、やがてそこらの古びた大きな岩の中までしみ入って行くように感ぜられるのである。
 なおこの句は「初蝉(はつぜみ)集」などには「さびしさや岩にしみこむせみの声」と出ており、これが初案の形であったと思われる。もとよりさびしいとも感じられたのであろうが、「閑かさや」という端的な表現を芭蕉は最後に選んだのである。また「しみこむ」より「しみ入る」の方が、一筋に深められて行く靜けさが感ぜられる。
    白露をこぼさぬはぎのうねりかな
 これは、「芭蕉庵(あん)小文庫」や「類柑子(るいこうじ)」などには、上五が「白露も」とあるが、どうしてもをでなくてはならぬ。
 露もたわゝに置いたはぎの枝がしなやかにたわんでいる。それがあるかなきかの微風に、うねうねと動く。しかも白露はこぼれもしないのである。そうしたはぎの細枝のいかにもなよやかな、そして靜かな動きを、「白露をこぼさぬ」ということばで表わしたのである。それが「白露も」であると、こぼれやすい露さえも落さないという理知的な判断が加わることになる。いわゆる物事をことわった言い方で、そこには美に対する感情として不純なものが混ずる。こゝはどうしても「白露を」とすなおな言い方でなければならぬ。それは理知的な説明ではない。はぎの枝が柔らかに靜かにうねりゆらぐ美しさを、葉に宿した白露をこぼさないというところに感得したのである。それははぎのうねりのしなやかさ・柔らかさ・豊かさ・こまやかさに、深く見入った心におのずから浮かんだことばであったろう。
 この句は画賛であると傳えられ、いかにも画賛にふさわしい句である。しかし最初は実際のはぎを見ての句であったかも知れぬ。うねりというのはもとより動的の姿である。しかしそれが白露をこぼさないほどの動きとしてとらえられた瞬間、柔らかに屈曲した枝はそのまゝ美しい線を描いて絵になってしまう。しかもその絵は單なる写生ではない。いわばうねりの美しさが、しなやかな線に固定し象徴されたような絵である。それだけこのうねりということばは、写生以上の深みを持っている。この一語に芭蕉の苦心を見なければならぬ。
    旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる
 芭蕉の最後の吟としてよく知られている。支考(しこう)の「笈(おい)日記」によれば、元禄七年十月八日の夜、病中の芭蕉は深更に及んで急に門人を召して、すゞりに墨をすらせた。そうしてこの一句を残したのであるという。それがついに生涯(しょうがい)のかたみとなったのである。芭蕉はそのおりなお「枯れ野をめぐる夢心」とも「なほかけめぐる夢心」とも案じて、いずれがよかろうと門人に相談しながら、「はた生死の轉変を前に置きながら発句すべきわざにもあらねど、よのつねこの道を心にこめて、年もやゝ半百に過ぎたれば、いねては朝雲暮煙の間をかけり、さめては山水野鳥の声に驚く、これを佛の妄執(まうしふ)と戒めたまへる、たゞちに今の身の上に覚えはべるなり。この後はたゞ生前の俳諧(はいかい)を忘れんとのみ思ふは。」(笈日記)と返す返す悔んだという。臨終のおりまでも絶ちがたい風雅への執着をみずから嘆じたのである。しかしこうして重態の病床にありながらも、一句の上に思いをひそめるというのは、芭蕉にとっては実に「これさへ妄執ながら、風雅の上に死なん身の道をせつに思ふ。」(彼尾花)が故であった。所詮(しょせん)風雅に徹して生きるほかに道のない自分であることを芭蕉は知っていたのである。このいわゆる妄執とともに一生を終ることは、むしろかれの願うところであった。
 芭蕉は今旅に病んですでに死と対している。さまざまの思いがかれの胸には浮かんだことであろう。しかしその中でも何よりも強くかれの心を動かすものは、風雅への愛着であった。このたびは西は筑紫(つくし)のはてまでも極めようと思い立った旅路も、まだ半ばにも達しないうちにむなしく病にふさねばならなくなった。再びいえてわらじを踏みしめることもおぼつかない。そう思うと、夢のうちにもなお心は枯れ野をかけめぐるのである。旅に対する強い執着が、恐ろしいほどの力で言い表わされている。一生を詩にやせ旅に終った芭蕉の最後の句として、まことにふさわしい一句である。


  (注) 1.  この潁原退蔵「芭蕉の名句」は、文部省・昭和22年9月8日発行、同日翻刻発行、昭和23年6月25日修正発行、同日修正翻刻発行の『中等國語 三(2)』(著作権所有 著作兼発行者 文部省。翻刻発行者 中等学校教科書株式会社。 印刷者 二葉印刷株式会社。 発行所 中等学校教科書株式会社)によりました。                   
    2.  本文の中に、新字体と旧字体の漢字が交じっていますが、これは教科書の原文通りにしてあるものです。
 旧字体の漢字には、次のようなものがあります。「來」「拜」「佛」「靜」「眞」「傳」「單」「轉」など。
 なお、しんにゅう(しんにょう)も、すべて点二つの正字の形になっています。
   
    3.   平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の文字に直してあります(「しみじみ」「うねうね」「返す返す」「さまざま」)。     
    4.   『中等國語 三(2)』の教科書は、昭和21年に戦後初めて旧制中学校に入学した生徒たちが、中学3年生の時(昭和23年度)に使用した教科書です。
 昭和22年に新制中学校が新たに発足して、昭和16年にできた国民学校の1 年生に入学した生徒たちが、新制中学の1年生になりました。 昭和23年度は、新制中学生が2年になった年です。
   
    5.  『中等國語 三(2)』の目録(目次)、及び教科書巻末の「国語学習の手引」から、出典を次にあげておきます。
目録
 一 樹木賛仰  二 生活断片  三 文化と敎養  四 芭蕉の名句  五 乙女峠の富士  六 銀の燭台   附録 國語学習の手引
出典
 一 樹木賛仰(詩・尾崎喜八「高層雲の下」)  二 生活断片(中学校生徒・文部省作)   三 文化と敎養(天野貞祐「婦人之友第41巻第2号」)
  四 芭蕉の名句(潁原退蔵 芭蕉の名句)  五 乙女峠の富士(佐藤信衛「新潮」第43巻第6号)  六 銀の燭台(ヴィクトル・ユーゴー作・水野葉舟訳、フランス小学読本)

 序でに、『中等國語三(3)』の目録(目次)も、あげておきましょう。
 ○ 『中等國語 三(3)』(文部省・昭和22年12月12日発行、同日翻刻発行、昭和23年7月13日修正発行、同日修正翻刻発行。著作権所有 著作兼発行者 文部省。翻刻発行者 中等学校教科書株式会社。  印刷者 文化印刷株式会社。  発行所 中等学校教科書株式会社)
 一 雪の朝(草野心平「絶景」より) 二 自然の美と美術の美(岸田劉生「美の本体」より)  三 噴火山(アンデルセン作、森鷗外訳「即興詩人」より) 四 読書について(谷川徹三「読書について」より) 五 随筆二題(「枕草子」「徒然草」より)  六 社会を自己の中に(大島正德「思索の人生」より)  七 師弟一如(矢内原忠雄「余の尊敬する人物」より。内村鑑三と新渡戸稲造の二人を取り上げている。)  八 学校日記           
   
    6.  教科書の奥付には、「APPROVED BY MINISTRY OF EDUCATION (DATE June 21,1948 )」とあります。    
    7.   潁原退蔵(えばら・たいぞう)=国文学者。長崎県生れ。京大教授。江戸文学、殊に俳諧を研究。著「俳諧史の研究」「江戸文学論考」「江戸時代語の研究」など。遺稿「江戸語辞典」。(1894-1948)(『広辞苑』第6版による。)    
    8. 『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』で、古い写本「芭蕉翁七書」(文化12年刊。「奥の細道」が入っています。80/176)や「俳諧七部集(芭蕉七部集)」(安永3年発行、文化5年再版)を見ることができます。    







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