資料189 国民学校国語教科書『初等科國語五』(本文)



 

 

 

 


              『初等科國語 五』  



       目 録
    一  大八洲
    二  弟橘媛
    三  木曾の御料林
    四  戰地の父から
    五  スレンバンの少女
    六  召譴燭觧
    七  ことばと文字
    八  海の幸
    九  軍艦生活の朝
    十  武士のおもかげ
    十一 かんこ鳥
    十二 炭燒小屋
    十三 ぼくの子馬
    十四 星の話
    十五 遠泳
    十六 海底を行く
    十七 秋のおとづれ
    十八 飛行機の整備
    十九 動員
    二十 三日月の影

    附 録
    一 「あじあ」に乘りて   二 大地を開く
    三 草原のオボ 





    一 大八洲
(おほやしま)

  この國を 神生みたまひ、
  この國を 神しろしめし、
  この國を 神まもります。

  島々 かず多ければ、
  大いなる 島八つあれば、
  國の名は 大八州國。

  嚴として 東海にあり。
  日の出づる 國にしあれば、
  日の本と ほめたたへたり。

  島なれば 山うるはしく、
  島なれば 海めぐらせり、
  山の幸 海幸多く。

  海原に 敷島の國、
  愡海法,海發訛舅
(やまと)
  春秋の ながめつきせず。

  大神
(おほみかみ) 授けたまひし、
  稻の穗の そよぐかぎりは、
  あし原の 中つ國なり。

  酊の たぎるただなか、
  大船の 通ひもしげく、
  浦安
(うらやす)の 國ぞこの國。

  浦安の 安らかにして、
  天地
(あめつち)と きはみはあらず、
  細戈
(くはしほこ) 千足(ちたる)の國は。 


    二 弟橘媛
(おとたちばなひめ)

 日本武尊
(やまとたけるのみこと)、相模(さがみの)國より御船にて上総(かづさ)へ渡りたまふ。
 にはかに風起り波たちさわぎて、御船進まず。從者みな、船底におそれ伏したり。
 尊に從ひたまへる后、
弟橘媛、「これ海神のたたりなるべし。かくては御命も危からん。」と思ひたまひて、尊に申したまふやう、
「われ、皇子
(みこ)に代りて海に入り、海神の心をなだめん。皇子は勅命
 を果して、めでたくかへりごと申させたまへ。」
と申したまひて、すがだたみ八重、皮だたみ八重、きぬだたみ八重を波の上に敷きて、その上におりたまへり。
 はたして荒波おのづから靜まりて、
御船は進むことを得たり。
 七日ののち、后の御櫛
(おんくし)ただよひて海べに寄りぬ。尊、これををさめて、后のみはかを作らせたまふ。
 東國の賊を平げて、尊、西へ歸りたまふ時、相模の足柄
(あしがら)山を越えたまふ。はるかに海を望みたまひて、
「あづまはや。」
とのたまひぬ。これよりのち、このわたりを廣く「あづま」といふとぞ。




    三 木曾
(きそ)の御料林

     神宮備林        
 皇大神宮は、二十年ごとにあらたに御殿舎を御造營になり、そのたびに正遷宮
(しやうせんぐう)の御儀が行はれる。
 この御儀は、天武天皇の御時に定められ、第一回の大典は、持統
(ぢとう)天皇の御代に行はれた。昭和二十四年は、第五十九回の正遷宮に當るが、實に一千二百有餘年の歴史を重ねてゐる。
 あらたに御殿舎を御造營になる用材は、もと伊勢
(いせ)の神路(かみぢ)山・高倉(たかくら)山などから伐り出されてゐたが、織田信長(おだのぶなが)が、木曾の森林から伐採して奉つたことがあり、その後百年餘りたつて、それが例になるやうになつた。明治の大御代から昭和の今日まで、御遷宮に際しては、かならず木曾から御用材を奉ることになつてゐる。
 神宮の御殿舎は、すべて檜
(ひのき)の白木造りであるから、御造營に要する檜の數は、一萬二千本に近く、しかもすべてえりすぐつた良質のものである。かうした檜は、一朝一夕に得られるものでなく、したがつて、つねに大木を保護するとともに、植林によつて、あとからあとから育てて行くやうにしなければならない。
 明治三十七年、明治天皇は、特にこのことに大御心をかけさせられ、そのおぼしめしによつて、木曾の御料林中に、神宮備林が定められることになつた。以來、神宮御造營の用材は、永久につきる心配がなくなつたのである。
 この神宮備林は、木曾川の上流が、白い御影石の川床をかんで流れる木曾谷の左右の山々にある。
 今、中央線の上松
(あげまつ)驛で汽車をおり、森林鐵道に乘りかへて、木曾川の支流にそひながらさかのぼつて行くとする。しばらくは、切りそいだやうながけの下の悗な(ふち)や、勢こんで流れる水の清さに、目をうばはれるのであるが、やがて、左右を取り巻く山の木々に、われわれは目を移すやうになる。窓の外のけしきは變つても、山から山へ續く生ひ茂つたみどりの森林は、つきることがない。何といふ森林のつらなりであらうとおどろくころは、まだ御料林のほんの入口へはいつたばかりなのである。
 このやうにして、山を分けながら谷間をのぼつて行くと、やがて標高千百五十メートルの中立
(なかだち)神宮備林に着く。ここは、昭和十六年六月三日、神宮御造營用材中いちばんだいじな、内宮(ないくう)・外宮(げくう)の御神木を伐り出したみそまはじめ祭の行はれたところである。
     みそまはじめ祭
 悄垢搬膓をおほふ檜の大木が、美しい柱のやうに立つてゐる中立神宮備林の朝である。やまがら・こまどり・うぐひすなどの鳴き聲が、谷川の音にまじつて聞えて來る中を、今日のみそまはじめ祭の盛儀を拜觀する人々の列が、林の間の細道傳ひに次から次へ續いて行く。
 しめなは・まん幕を張りめぐらした祭場は、檜のあら木造りで、内宮・外宮の御神木の前に南面して作られてゐる。
 木の間からもれる初夏の光に、まばゆくかがやく祭場の東から南へかけた林の傾斜面は、拜觀者や、愬學校・國民學校の生徒などで、うづめつくされてゐる。深山
(みやま)の靈氣(れいき)に打たれて、だれ一人靜けさを破る者はない。きちんと姿勢を正して、祭典の始るのを待つてゐる。
 午前十時、最初の太鼓
(たいこ)が、あたりの靜けさを破つて鳴らされる。それを合圖に、身も心も清めに清めて、ひたすら今日を待つてゐた奉仕員たちは、目にしみるばかりの眞白な齋服(さいふく)を着て、定めの場所へ集つて來た。
 やがて第二の太鼓が山全體に響き渡つて、儀式に使はれるいろいろな祭具が運ばれる。最後の太鼓が打ち鳴らされると、奉仕の人々は、はらひ所に並んでおはらひを受け、祭具やお供へものをささげて、靜かに祭場へ進んで行く。
 祭場には、中央と四すみに、五色の幣
(へい)がかうがうしく立てられてゐる。大麻を振つて祭場が清められ、おごそかに祝詞(のりと)が讀まれる。
 いよいよ、御神木伐り始めの御儀に移つた。
 奉仕員は、をのを取つて御神木の前方南寄りに進み、大麻でおはらひをする時のやうに、左右左と三たび、御神木の根もとへ向かつてをのを打ち込む。をの入れを終つて、奉仕の人々は、一拜して靜かに祭場を退出した。
 内宮・外宮の御神體を奉安する御神木伐り始めの御儀は、かくて終つたのである。
 しめなはでかざられた、樹齡
(じゆれい)二百數十年に及ぶ二もとの御神木を仰げば、天を指してすくすくと生ひ立つ幹は長く、はるかに冠(かんむり)のやうな梢をいただいてゐるのが見られる。十萬五千町歩にわたる木曾の御料林中、最良の檜である。
 午後になつて、この御神木は、さらに白衣を着た十四名のえり拔きのそま夫たちによつて、伐られて行つた。
 伐り方は古式にしたがつて、御神木の根もとへとぎすましたをのを、はつしと打ち込むのである。しはぶきの聲一つしない、神代さながらの山中は、しばらくの間、打ち入れるをのの響きのこだまで滿たされる。一打ちごとに、三つの切口から清らかな木のはだが現れる。
 切り倒された御神木は、用材の長さに切られ、六十名の運材夫によつて木馬に乘せられ、木馬道を靜かに運ばれて行く。運材夫が聲高く歌ふ木やり歌は、中立神宮備林の森嚴な空氣を明かるくふるはせて、いつまでも響き渡つた。 

   
    四 戰地の父から

  今日鏡をのぞいて、「おや。」と思はず顔をなでまはした。
「これでは、義男たちが見ても、おとうさんとは氣がつくまい。」
と思はれるほど日にやけた眞遒粉蕕法△椶Δ椶Δ箸劼欧延びてゐる。
 戰鬪が一段落ついたので、今日は久しぶりの休養だ。おとうさんたちは、鏡に向かつて子どものやうにはしやぎながら、ひげそりにむちゆうになつてゐる。しやりしやりと、かみそりの音が氣持よく響くたびに、ひげの中からおとうさんの顔が現れて來る。もうこれで南洋の住民と見まちがへられる心配はなくなつた。
 敵前上陸をして、敵陣へ突撃する時にも、熱帶の大きな木やかづらがからみついてゐる密林を、へとへとになつて進んで行く時にも、おまへたちの顔が、ふと目の前に現れて、
「おとうさん、しつかり。」
とはげましてくれた。そのたびに、からだ中に力がわき起つて、日本の軍人として、恥づかしくない御奉公をすることができた。
 朝夕、武運長久を祈つてくれるおまへたちの眞心が、數千キロの海山を越えて、おとうさんの心に通つてゐるのだ。おとうさんは、いつも、おまへたちといつしよに、戰爭をしてゐるのだと思つてゐる。
 ひげをそつたあとのさつぱりした氣持で、持物をせいとんしてゐると、背嚢
(はいなう)からおまへの手紙が出て來た。たびたび激しい戰をしたのに、よくもなくならなかつたものだと思ひながら、もう一度讀み返してみる。すると、
「だれからの手紙だ。ちよつと見せてくれ。」
と、そばにゐた戰友が、おまへの手紙をひつたくるやうにして讀み始めた。
「義男くんは、何年生かい。」
「國民學校の五年生だ。」
「五年生。ぼくは中學生かと思つた。えらい子だ。」
と、心から感心して、おとうさんをうらやましさうに見てゐた。
 おとうさんの留守
(るす)中、おかあさんを助けて、家の仕事に佑鮟个靴燭蝓△に子や、ひさ子の世話をよくしてくれたりすることを、おかあさんからの手紙で知つて、おとうさんはうれしくてたまらない。
 この手紙を書いてゐると、あたりが急に暗くなつた。大雨だ。スコールといつて、こんな大雨が毎日きまつたやうに降る。はだかの兵隊さんたちが外へとび出して、うれしさうに雨水を浴びてゐる。
 スコールの通り過ぎたあとには、熱帶の盛んな植物のみどりといふみどりがすつかり洗はれて、よみがへつたやうになる。
 おとうさんたちは、赤むらさき色のマンゴスチンを、眞二つに割つてたべる。白い實を舌の上にのせると、すつととけて、上品なあまさが口に殘る。おまへにもぜひ一つと思ふのだが、こればつかりは送りやうがないのが殘念だ。
 皇御國
(すめらみくに)のもののふは、
と、一人の戰友が突然歌ひだすと、ほかの戰友たちも聲をそろへて、
 いかなることをか務むべき。
 ただ身にもてる眞心を、
 君と親とにつくすまで。
と歌ふ。おとうさんは、靜かに目をつむつて、歌聲に耳を傾ける。今まで、おとうさんたちが勝ちぬいて來た激戰の數々の場面が、走馬燈のやうに次から次へ思ひ出される。さうして、この歌の一句一句が、腹の底にしみ入るやうに思はれる。
 あすからは、また新しい戰鬪の準備にかかるのだ。おとうさんを始め、部隊の者はみんな元氣だ。戰陣衛生も行きとどいてゐるから、おまへたちの心配するやうな病氣には、だれ一人かかつてゐない。
 住民たちも、心から日本軍になついて、大東亞の建設に協力してくれてゐる。日本語が習ひたいといつて、おとうさんたちのところへ、毎日何人となくやつて來る。
 おまへたちは、おとうさんたちのあとつぎなのだ──といふことを、しみじみと感じる。おまへたちが大きくなるのを、廣い南洋の天地と、たくさんの住民たちが、手をひろげて待つてゐる。家のお手傳ひをしながら、一生けんめいに勉強することだ。
    


    五 スレンバンの少女

     一
 マライの英軍を急追し、所在に撃破しながら南下する皇軍が、スレンバンの町にはいつた時のことです。
「皇軍來たる。」の報を聞くと、附近の密林やゴム園の中にかくれてゐた住民たちも、安心して町へ歸つて來ました。マライ人・支那人・インド人たちは、勇ましい日本の兵隊さんを喜んで迎へました。
 その中にたつた一人、色のあまり遒ない、十歳ぐらゐのかはいい少女が、日の丸の旗を振りながら、
「萬歳。萬歳。」
といつてゐるのが、兵隊さんたちの目を引きました。
「あ、日本人がゐる。」
「日本の女の子だ。」
兵隊さんたちはさう思ふと、これもうれしさうに、にこにこしながら、
「萬歳。萬歳。」
といひました。
「日本人は、あなた一人か。」
と、聞く兵隊さんもありました。
     二
 少女は、この町の雜貨商の娘で、父はインド人でしたが、母は日本人でした。土地の學校へ通つてゐるかたはら、母親から日本語を海悗蕕譟日本には天皇陛下がいらつしやること、日本人は陛下の赤子であること、日本には富士山といふりつぱなお山があることなどを、いつも聞かされてゐました。さうして、毎朝母といつしよに、お寫眞を拜むことにしてゐました。
「日本の子どもは、みんなお行儀がいいのです。富士山のやうにりつぱで
 す。あなたもお行儀をよくしないと、日本の子どもに笑はれますよ。」
と、母はよくかういひました。
     三
  大東亞戰爭が始ると、母は日本人であるといふので、敵の官憲からにらまれ、ある日、突然インド人の巡査が來て、母に同行を求めました。娘のゐるのを見て、巡査は、
「この子もいつしよだ。」
といひます。母は、きつぱりと、
「この子は、日本人ではありません。」
といひました。
「あなたの子なら、日本人ではないか。」
「いいえ、違ひます。私の子ではありません。この子は、父も母もインド
 人です。私はこの子の繼母です。」
インド人の子と聞くと、インド人の巡査はやうすを變へました。さうして母親に、
「さあ、行かう。」
とせきたてました。
「ちよつと待つてください。」
母はさういひながら、巡査を拜むやうにして、娘を一間へ呼びました。
 母は、子をだきしめました。
「おかあさん。」
母は、子にほほずりをしました。この子を今手ばなして、またいつあへるでせう。
「おかあさんは、あの人といつしよに行かなければなりません。病氣をし
 ないで、元氣で待つてゐなさい。たとへ、十年たつても二十年たつても、
 わたしはきつと歸つて來ますから──それから、日本の兵隊さんは、か
 ならず勝つてくれます。兵隊さんたちがこの町へ來たら、戸だなの中に
 あるお米や、かんづめや、ビールや、みんな出してあげてください。い
 ま一つ──日の丸の旗が作つてあるから、あれを振つて、萬歳萬歳とい
 つて迎へるのですよ。」
ここまでいふと、母はこみあげて來る悲しさにことばも止つて、机の上へつつぷしました。
「おかあさん。」
子は、もう一度母を呼びました。母は涙をふいて立ちあがり、娘の手を取つてお寫眞の前に立ちました。
 二人は、萬感をこめて最敬禮をしました。母は、戸だなから二本の日の丸を取り出し、一本を娘に與へて、ふたたびお寫眞の前に立ちました。
 親と子と「萬歳」の一こと。子はそのまま泣き倒れてしまひました。しばらくして顔をあげると、巡査のあとについて出て行く母の後姿がちらと見えたきり、あとは涙にぼつとして、何が何やらわかりませんでした。
     四
 大東亞戰爭は、一面にことばの戰です。一たび占領地へはいれば、ことばが通じないかぎり、手も足も出ません。
 たつた十一歳、内地なら國民學校四年生のこの少女は、その後、皇軍のある部隊の通譯を命じられました。
 その隊は、この地方の鐵道の復舊工事に當りました。隊長以下何百の將兵と、マライ人・インド人の鐵道從業員たちの先頭に立つて、少女は、たくみに日本語・英語・マライ語・インド語を使ひわけながら、りすのやうに活動しました。
 隊長は、自分の子のやうにかはいがりました。兵隊さんたちともみんな、仲よしになりました。
「おかあさんに別れて、さびしいかね。」
と、兵隊さんが肩をたたくと、
「天皇陛下がいらつしやるから、さびしくありません。兵隊さんといつし
  よに仕事をすることは、お國のために孝行です。」
といいます。「お國のために忠義です。」と海悗討癲◆屬い筺孝行です。」といつて、なかなか聞かないさうです。



    六 召譴燭觧

  
すがやかにれたる山をあふぎつつわれ御軍の一人となりぬ

  父母の國よさらばと手を振ればまなぶた熱しますら男の子も

  あふぎ見るマストの上をゆるやかに流るる雲は白く光れり

  江南のしらじら明けを攻め進むすめら御軍うしほのごとし

  蘇州
(そしう)までさへぎる山も岡もなしはるばるとかすみ水牛あゆむ
  わらべらはちひさき笑顔ならべつつ兵に唱歌ををそはりてゐる

  白々とあんずの花の咲き出でて今年も春の日ざしとなりぬ



    七 ことばと文字

 私たちが、うれしいなと感じたり、えらいなと感心したり、何かすばらしいことを思ひついた時などには、そのことを、おとうさんや、おかあさんや、先生や、お友だちに早く知らせたいと思ひます。
 そんな時、
「おとうさん、ぼく、みんなで海へ行つて、ほんたうに愉快でした。」
「おかあさん、あの人は、えらいことをしたものですね。」
「先生、この間から、いろいろ考へてゐたのですが、とうとうこんなもの
 を作りました。」
「本田くん、おとうさんといつしよに山のぼりをして、ほんたうにおもし
 ろかつたよ。」
といつて、自分の氣持を傳へます。
 このやうに、話しかける相手が目の前にゐる時は、ことばを口に出して、思つてゐることを傳へますが、離れてゐて直接話ができないやうな時には、手紙や文に書いて知らせます。かうして話しかけると、話しかけられた人たちも喜んで返事をしたり、いろいろなことを話したりしてくれます。それは皆、おたがひに話したり、書いたりすることばや、文字がよくわかるからです。もし、私たちの話すことばや、書く文字が、まつたくわからない外國人であつたら、いくら話してみても、どんなりつぱな手紙を書いてみても、決して心持が通じ合ふやうなことはありません。日本人である私たちは、いつもこのやうに、わが國のことばと文字のおかげをかうむつてゐるのです。
 自分の思つてゐることを、話したり書いたりして、すつかり相手にわかつてもらつた時ほど、うれしいことはありません。また、いろいろなお話を靜かに聞き、書かれたものをくり返し讀んで、ことがらや心持がよくわかつた時は、同じやうに喜ばしいものです。このやうに、ことばと文字は、私たちの心を樂しくしてくれます。
 私たちが、心の中で考へたり感じたりしてゐることを、ことばで話してみると、その考へや感じが、心の中で思つてゐた時よりも、はつきりして來ます。更に、ことばで話したことを文字で書き表しますと、今まで氣づかなかつた考への不足や、感じ方の淺さがはつきりわかつて、自分の考へや感じを、いつそうくはしくし、深くして行くことができます。よく、
「わかつてゐるから、話さなくてもいいよ。」
といふ人がありますが、そんな人は、まだまだことばや文字のありがたさを知らない人です。わかつてゐると思つたことでも、話したり書いたりして、始めてほんたうにはつきりするのです。
 ことばと文字は、いはば心の中を寫し出す鏡であります。ただ、ことばは、思つたことを聲でいひ表すのですから、それは聞いてゐる人の心にだけ殘ります。それに引きかへ、文字に書き表したものは、どこへでも傳はり、いつまでも殘りますから、それを讀むすべての人たちに、場所が違つてゐても、時代がへだたつてゐても、ちやんと心持を傳へることができます。
 文字で書き表す場合には、書いたものを何べんも讀み返して、消したり書き足したりして、自分の考へを、できるだけわかりやすく書き表すことができます。しかし、ことばで話す時には、一々ことばを深く考へたり、いひまはしを工夫したりするひまがありません。それで、とかくことばがおろそかになりがちです。それでは困りますから、いつも話すことばに注意して、文字で書くのと同じやうな心がけを持つことが大切であります。
 いくら美しい文字で文を書いても、うそいつはりの心持を書いたのでは、だれも感心して讀まないやうに、どんなにかざつたことばで話しても、眞心がこもらなければ、少しも聞く人々を感心させません。これと反對に、りつぱな心持が正しいことばで書かれてあれば、その文を讀む人々が、心から感動するやうに、眞心を正しいことばで話せば、聞く人たちは、喜んでいつまでもその話に耳を傾けます。
 私たちは、文字を正しくきれいに書き、りつぱなことばで話すことを忘れてはなりません。さうすることが、昔から傳はつてゐるだいじな私たちの國語を、ますますりつぱにみがいて行くことになるのです。


    八 海の幸

 沖の方は、白くもやでかすんで、見通しがきかない。日の出前の海は、油でも流したやうに靜かである。
 ばさつばさつと、波が足もとで輕く音をたててゐる。
 あたりはまだほの暗く、明けきらない港の朝の風は、
(ほほ)をここちよくなでて通る。
「ボー。」と、力強い汽笛が、突然この靜かな港の空氣をゆり動かす。その音が、港を兩手でだきかかへるやうに取り圍んでゐる裏の山々にこだましながら、長く尾を引いて消えて行く。
 左手の山の頂が、銀のやうに白く光り始めると、どす遒つた海面が、にぶい光線を反射する。
 折から、「パンパン。」と白い煙の輪を吐きながら、乳色のもやを破つて、漁船が眞直に近寄つて來る。これを合圖に、今まで眠つてゐた港の船が、急に目をさまし始める。
 海面から立ちのぼつてゐた白いもやが、薄れて行つて、山の頂に横たはる雲が、黄にくれなゐにかがやき渡ると、はるかな海の上をおほうてゐたもやも消えてなくなり、太平洋のかなたから押し寄せて來るみどりの波が、きらきらと光りだす。
 帆柱に旗を立てた漁船が、港へはいつて來たのをきつかけに、二隻・三隻と續いて港へはいつて來る。母親に子どもがすがりつくやうに、今はいつて來たばかりの漁船をめがけて、ぎいぎいと櫓
(ろ)の音もすがすがしく、たくさんの小舟が近づいて行く。漁船のかたはらに、小舟がぴつたり寄りそふと、
「えんさらほい、えんさらほい。」
と掛聲にぎやかに、日にやけた漁夫たちが、遠くの海から取つて來た數々の海の幸を、漁船から小さな舟に移す。小型の潛水艦を思はせるやうな、まるまると肥えたまぐろ、細長い魚雷のやうなかじきまぐろ、大きなさめ──その白い腹が朝の太陽に光り、ひれが力強くぴんと左右に張つてゐる。このまぐろや、さめをのせた小舟は、大急ぎで岸の魚市場をめざしてこぎ歸つて行く。
 魚市場の廣いたたきの上を、鉢巻をした若者が、大きな魚をてんびん棒につるしたり、手押車にのせたりして、威勢よく右へ左へ運んで行く。見る見るまぐろもさめも、次から次へ行儀よく並べられる。
 大きな魚にまじつて、小型の爆彈のやうなかつをが置かれ、ついさつきまでぴちぴちとはねてゐたやうな、六七十センチもある鯛が、つやつやした櫻色のはだに、むらさきの星をきらめかしてゐる。その間にまじつて、帶のやうなたち魚が、いくつもいくつも横たはつてゐるのは、めづらしい見ものである。
 四角な箱の中には、近くの海で取れたあぢやさばが、惴のする新鮮な色を見せ、まるいをけの中には、いかが折り重なつて、今にもちゆつと塩水を吹き出しさうである。この魚の行列の間を、市場の人たちと魚問屋の若者たちが、いしがしさうに右往左往してゐる。
 荷作り場では、まぐろやさめの腹をさいて、氷を入れて送り出す者や、木箱にぎつしり氷といつしよにつめて、荷作りする者や、まるで戰場のやうないそがしさである。新鮮をたつとぶ魚の取引きをする魚市場の朝は、見るからにきびきびとして、威勢がよい。「ブッブー。」と、けたたましい警笛の音をあとに殘して、荷作りされた魚の箱を山のやうに積んだ貨物自動車が、魚市場を出て行くのは、それから數分ののちである。
 太陽があかあかと四方の山々を照らし、波が靜かなうねりに變つて沖から押し寄せるころになると、あれほど活氣に滿ちて生きもののやうに活動してゐた魚市場も、ひつそりと靜まり返つて、またあすの朝を待つのである。
 ちやうどそのころ、港のあちらこちらにもやひしてゐる漁船からは、朝げの煙が波の上に影を落しながら、ゆつくりと立ちのぼる。   


    九 軍艦生活の朝

 東の空が明かるくなると、今まで軍港のやみに包まれてゐた軍艦の壯大な姿が、だんだん現れて來る。後甲板
(こうかんぱん)には、當直將校の姿が見え、艦橋には、望遠鏡を持つた掌信號兵が遠くを見張つてゐる。舷門には、銃を手にした番兵があたりを警戒してゐる。千何百人の乘員は、なほ安らかな眠りを續けてゐるのであらう。艦内は深山(みやま)のやうな靜かさである。
 人の顔がやつと見分けられるやうになつたころ、時鐘番兵がことことと後甲板に來て、「總員起し五分前。」と、當直將校に報告する。軍艦の起床時刻は、夏は五時、冬は六時である。間もなく、甲板士官や傳令員が起きて來る。副長はもう上甲板に出て、今日の天氣はどうかと空を眺めてゐる。
 やがて午前五時の鐘が鳴ると、當直將校が元氣のよい聲で號令を掛ける。
「總員起し。」
この號令で、朝の靜かさがたちまち破られ、起床ラッパは勇ましく響き、傳令員は號笛を吹きながら、「總員起し。」と呼んで、つり床の間をぬつて行く。すると、乘員は一度にとび起きて、手早くつり床をくくる。これから號令が次々にくだる。それにつれて、つり床は正しく一定の場所に納められる。すべての窓や出入口は開かれる。これらの仕事は、家で毎朝起きると、まづ夜具をかたづけ、雨戸をくるのと變りはないが、千何百人の乘員が號令に從つて規律正しく活動するさまは、いかにも目ざましい。何分かのうちに、もう艦内はすつかりせいとんする。
 そこで五分間の休みがあつて、露天甲板洗ひとなる。これは水兵員の受持である。
「兩舷直、整列。」
のラッパが一きは高く響き渡ると、はだしのままの水兵員が、後甲板にはせ集つてずらりと整列する。まもなく、當直將校から威勢のよい號令がかかる。
「露天甲板洗へ。」
 水兵は、くもの子を散らすやうに八方へ散つて、かひがひしくズボンをまくりあげ、身輕な姿になつて、分隊ごとに甲板洗ひを始める。下士官が、甲板の吐水口からふき出る海水を、をけに汲んでどんどん流すと、洗ひばけを持つた何十人の水兵が、甲板をこすりながら頭を並べて進んで行く。
 甲板洗ひがすむと、
「顔洗へ。」「たばこぼん出せ。」
の號令がくだる。そこで始めて乘員は顔を洗ふ。そのうちに上陸員が歸艦する。あちらこちらで、「おはやう。」がいひかはされる。火なは一本のたばこぼんのまはりには、人の山ができて、いろいろの話が出る。笑ひ聲も起る。まもなく、食事のラッパが響く。一時間餘りも活動したあとであるから、食事のうまいこと。
 午前八時になると、艦尾の旗竿に軍艦旗があげられる。「君が代」のラッパが奏され、衛兵隊はささげ銃
(つつ)の敬禮を行ひ、艦長を始め乘員一同は、皆、姿勢を正して軍艦旗に敬禮する。朝日にかがやく軍艦旗が、海風にひらめきながらしづしづとのぼつて行くさまは、まことにおごそかである。
 軍艦旗を仰いで、心の底まで清められた乘員は、これから訓練に取りかかるのである。 
   


    十 武士のおもかげ
      
      雁
(がん)のみだれ
 八幡
(はちまん)太郎義家、關白頼道(よりみち)の館にて軍の物語しける時、大江(おほえ)の匡房(まさふさ)、聞きて、
「器量ある武將なれども、なほ軍の道を知りたまはず。」
とひとりごとのやうにいふ。義家の家來、これを聞きつけて、「けしかることをいふ人かな。」と心のうちに思へり。
 やがて匡房、關白の館を出で、義家も出でぬ。家來、あるじを見て、
「かの人は、かくかくとのたまへり。」
といへば、義家、定めてしさいあるべしと思ひ、匡房が車に乘らんとするところに進み寄りて、ゑしやくす。それよりのち、義家は匡房を師として學びけり。
 義家、金澤
(かなざは)の城を攻めんとする折、たまたま一行の雁、刈田におりんとして、にはかに列をみだしつつ飛び行きぬ。義家あやしみて、
「かつて師の海悗燭泙佞海箸△蝓L遒防兵ある時、雁、列をみだる。こ
 の野にかならず伏兵あらん。」
とて、手をわかつて三方より圍む。はたして、敵、三百餘騎をかくしおきたるを、義家の軍さんざんに討ちて、つひに敵軍を攻め破りぬ。

      かりまたの矢 
 義家、ある日、安倍
(あべ)の宗任(むねたふ)らをつれて、廣き野を過ぎ行きしに、きつね一匹走り出でたり。義家、背に負ひたるうつぼより、かりまたの矢を拔きて弓につがへ、きつねを追ひかけしが、殺さんもふびんと思ひて、左右の耳の間をねらひてひようと射る。矢は、あやまたず頭上をすれすれにかすめて、きつねの前なる土に立ち、きつねは、その矢につき當りて倒れたり。
 宗任、馬よりおりてきつねを引きあげながら、
「矢は當らぬに、死にて候。」
と申せば、義家、
「おどろきて死にたるなり。捨ておかば、ほどなく生き返るべし。」
といふ。
 宗任、すなはち矢を取りてさし出せば、義家、背を向けてうつぼにささせけり。宗任はもと賊軍の頭にて、近ごろ降りし者なれば、他の家來どもこのさまを見て、
「危きことかな。するどき矢をささしめたまふことよ。もし、宗任に惡し
 き心もあらば。」
とて、手に汗をにぎりけり。

      目を射拔かれて
 相模
(さがみ)の國の住人、鎌倉(かまくら)の權五郎景正(ごんごらうかげまさ)といふもの、先祖より名高きつはものなり。十六歳にて敵の大軍に向かひ、命を捨てて戰ふ折から、敵の矢にて右の目を射られぬ。矢は、首を貫ぬきてかぶとに射つけたれば、たやすく拔けず。矢を折り捨てて、その場に敵を射倒しけり。
 景正、歸りてのち「手を負ひぬ。」といひて、のけざまに伏したれば、三浦
(みうら)の平太郎爲次(ためつぐ)といふつはもの、景正が顔をふまへて矢を拔かんとす。
 景正、すなはち刀を拔き、爲次がよろひの草ずりをあげて下より突かんとしければ、爲次、おどろきて、
「などて、かくはするぞ。」
と問ふ。景正、
「弓矢に當りて死するは、つはものの望むところなり。いかでか、生き
 ながら足にて顔をふまるることあらん。汝を殺して、われも死すべき
 なり。」
といふ。
 爲次、ことばなく、ひざをかがめ顔を押さへて、矢を拔き取りけり。

      障子張り
 相模守時頼
(さがみのかみときより)の母を、松下禪尼(ぜんに)といへり。時頼を招くことありけるに、すすけたる障子の破れを、禪尼、てづから小刀にて切りまはしつつ張りゐたり。城介義景(じやうのすけよしかげ)これを見て、
「その障子をこなたへたまはりて、なにがしに張らせ候はん。さやうのこ
 とに、なれたるものにて候。」
と申しければ、禪尼、
「その男、尼
(あま)が細工にはよもまさり候はじ。」
とて、なほ一間づつ張りゐたり。義景、
「すべてを張りかへんは、はるかにたやすく候。まだらになりて見苦しか
 るべし。」
と重ねていへば、
「尼も、のちには新しく張りかへんとは思へど、すべて物は破れたるとこ
 ろをつくろへば、しばらくは用をなすものぞと若き人に見ならはせんと
 て、かくするなり。」
といひけり。

      馬ぞろへ
 山内一豐
(やまうちかつとよ)、織田(おだ)家に仕へし初め、東國第一の名馬なりとて、安土(あづち)に引き來て商なふものあり。信長の家臣らこれを見るに、まことにならびなき馬なり。されど價あまりに高くして、買ふもの一人もなく、空しく引き歸らんとす。
 一豐もこの馬ほしく思へど、求むることいかにもかなふべからず。家に歸りて、
「世の中に、身貧しきほどくちをしきことはなし。一豐、仕への初めな
 り。かかる名馬に乘りて見參に入れたらんには、主君の御感にもあづ
 かるべきものを。」
とひとりごといひしに、妻つくづくと聞きて、
「その馬の價は、いかばかりにや。」
と問ふ。
「黄金十兩とこそいひつれ。」
「さほどに思ひたまはば、その馬求めたまへ。價をば、みづからまゐら
 すべし。」
とて、鏡の箱の底より黄金十兩を取り出す。
 一豐、大きにおどろきて、
「この年ごろ身貧しく、苦しさのみ多かりしに、その黄金ありとも知らせ
 たまはず。されば、今この馬、ゆめにも求め得べしとは思はざりき。」
と喜び、またうらむ。妻、
「のたまふところ、ことわりにこそ。されどこれは、わらはこの家にま
 ゐりし時、この鏡の下に父の入れたまひて、ゆめゆめ、世のつねのこ
 とに用ふべからず。汝の夫の一大事あらん時にまゐらせよとて、たま
 ひき。されば、家貧しくして苦しむなどは、世のつねのことなり。ま
 ことにや、都にて御馬ぞろへあるべしなど聞ゆ。君は仕への初めなり。
 良き馬にめして、主君の御感にあづかりたまへ。」
といふ。
 一豐、すなはちその馬を求めたり。
 やがて馬ぞろへの日とはなれり。いづれおとらぬ馬多く集りたる中に、一きは目だちてたくましきを信長うち見て、
「あつぱれ、名馬。たれの馬ぞ。」
と問へば、家臣答へて、
「これは東國第一の名馬とて、商人の引きてまゐりしを、一豐が求め得
 たるものに候。」
と申す。信長、
「一豐は仕へて日なほ淺く、家も貧しからんに、よくもかかる名馬を求め
 たるぞ。見あげたる志。」
と、しばし感じてやまざりけり。
   

    十一 かんこ鳥

    朝日、いまあらはれて、
  ああ、はるけくもこの峯に
  光さし來ぬ。

  薄きみどり、こきみどり、
  山々のひだ縞
(しま)なして、
  見る目うるはし。

  川の流れか、さらさらと
  はるかなる麓
(ふもと)のわたり
  かすかに響き、

  いづくともなく霧
(きり)わきて、
  風のまにまに谷間より
  ただよひのぼる。

  かつこう、かつこう、かんこ鳥、
  こだまのごと、ゆめのごと、
  かつこう、かつこう。



    十二 炭燒小屋

      一
 悄垢般个弔燭澆匹蠅両燭法煙がなびいてゐる。炭燒がまから立ちのぼる煙である。
 源作ぢいさんは、その煙のやうすをじつと見つめた。黄色な煙の中に、白い煙がまじつてゐる。どうもをかしい。煙の色もへんだが、煙の出るやうすに活氣がない。かまが病氣をしてゐるな──と、ぢいさんは思つた。
 源作ぢいさんは、かまのそばにすわつて、たき口から中をのぞいて火のかげんを見た。眞赤に燒けた木から、めらめらとほのほが立ちのぼつてゐる。壁にくり拔かれたいくつかの小さな穴から、ほのほが隣りのかまの中へ吸ひ込まれて行く。そのかまには、炭に燒く丸太がぎつしりとつめ込まれてゐるのだ。ぢいさんがのぞいた、あのかまから火氣を送つて、このかまの中の丸太をむし燒きにする仕掛なのだ。
 源作ぢいさんは、もえさかるほのほの色をじつと見た。それから、おもむろに立ちあがつて、さしわたし二メートルもある、土で固めた圓形のかまの上へそつと手を置いた。かつとした火氣が手のひらを打つ。源作ぢいさんは、かまがいらいらしてゐるなと感じた。どつかりと、また、かまの前にすわつて、もくもくと立ちのぼる煙を見つめながら、黄色な煙が、薄むらさき色に變つて行くのを心に念じた。
      二
 二三日たつてから、かまの口を開いた源作ぢいさんは、眞遒盆けた炭を外へ取り出した。
「うまく燒けたかな。」と氣がせく。三十何年炭を燒いてゐても、かまから取り出すまでは、どんなに燒けたかが氣がかりである。うまく燒けた時は、とびあがるやうにうれしい。この調子で次も燒かうと思ふ。失敗した時は、ひどく氣持が惡い。この次には、何とかしてうまく燒きたいものだと思ふ。源作ぢいさんは、一メートルばかりの長さに燒けた炭の端を、指の先でこすつてみた。堅くて、うまく燒けてゐない。火のまはりが惡かつたのだ。
 炭を取り出しながら、源作ぢいさんは、かまの天井や壁をこつこつとたたいてみた。どこも惡くはない。をかしいなと思つて、煙突へ通じる口を、ふと見たとたん、おやと思つた。木のやにがうんとこびりついて、煙の出口をふさいでゐる。これだ、これが病氣のもとだと、源作ぢいさんの心は急に明かるくなつた。
      三
 炭燒がまの裏の山道には、丸太を並べた木馬道が、曲りくねつて山の奥の方へ續いてゐる。
 そりの形をした木馬に、木を山のやうに積んで、源作ぢいさんが引いておりて來る。右へ曲り、左へ折れて、かまの近くでぴたりと止つた。
 汗をふきふき、ぢいさんは小屋へはいつて、のこぎりを持ち出した。腰には、毛皮で作つた小さなざぶとんのやうな腰皮をさげてゐる。腰皮の上に腰をおろし、切つて來たばかりの木を、一メートルばかりの長さにそろへて、樂しさうにひき始めた。
 一本一本の丸太を、あの炭燒がまへ入れて、今度こそは、上できの炭に燒いてみようと考へながら、ぢいさんは一心に木をひいてゐる。    


    十三 ぼくの子馬

 北斗は、ぼくの子馬です。
 生まれたのは、去年の春、ちやうど櫻の花の咲くころでした。ぼくが學校から歸ると、父はにこにこしながら、
「新一、子馬が生まれたよ。」
といひます。それを聞くと、ぼくはむちゆうになつて馬屋へかけ込みました。見れば、うす暗くしてある馬屋の奥の方で、母馬が、生まれたばかりの子馬をしきりになめてやつてゐました。父もあとから來たので、ぼくが、
「おとうさん、子馬はをすですか、めすですか。」
とたづねますと、父はさも得意さうに、
「をすさ。」
といひます。
「ぢやあ、今度の子馬は、ぼくに世話をさせてください。」
父は、しばらくだまつてゐましたが、
「うん、おぢいさんによく指圖していただいて、ひとつ一生けんめいに
 やつて見るかな。」
と許してくれました。
 ぼくは、うれしくてたまりません。さつそく、そのことを祖父にいひますと、祖父も、
「ほう、おまへが世話をするといふのか。よからう。ひとつやつてご
 らん。こまかいことはだんだん話してあげようが、第一は、馬をよ
 くかはいがつてやることだ。日本の馬は、氣が荒いとかいはれるさ
 うだが、それも馬が惡いのではない、扱ふ人がいけないから、馬に
 惡いくせがついてしまふのだ。しんせつにしてやれば、馬ほどすな
 ほで、りこうなものはめつたにないぞ。」
と海悗討れました。
 子馬の名は、北斗ときまりました。一週間ばかりたつて、親子とも馬屋の外へ出しますと、北斗は、おくびやうさうな目つきをして、始めて見る世界をさもめづらしさうに眺めました。大きな犬ぐらゐの大きさで、足は、ばかにひよろ長く見えます。さうして、ともすると母馬にすり寄つては、乳を吸つてばかりゐます。そのかはいいやうすは、今でも忘れません。
 日がたつにつれて、だんだんぼくになれて來ました。時には乳を飲むのも忘れて、ひよろ長い足で元氣よく、草原の上をはねまはることもありました。
 六月になると、母馬につけて、近くの牧場へ放牧にやることになりました。ぼくは、せつかくなれて來た北斗を、手もとからはなすのがいやでしたが、さうしないと、子馬が丈夫にならないのです。で、ぼくは、そのころ學校から歸ると、すぐ牧場へ行つて見ました。牧場には、村のあちこちから、同じやうな子馬がたくさん來てゐて、母馬の草をたべるあとを追ひながら、廣い野原を樂しさうに遊びまはつてゐました。
 放牧に出してから、北斗のからだはめきめき丈夫になりました。足もしつかりして來ました。さうして、長い夏も過ぎ秋が來て、野山の草木が枯れるころ、五箇月ぶりでうちの馬屋へつれて歸りました。
 いよいよ北斗は、乳を離れるやうになりました。からだの手入れをしたり、運動をさせたり、ぼくの仕事がおひおひいそがしくなつたのは、そのころからです。しかしそれだけに、かはいさもいつそう深くなつて來ました。 
 寒い冬の日でも、一日に一度はかならず、北斗をつれて運動に出かけました。ぼくがかけ出せば北斗もかけ出し、ぼくが止れば北斗も止り、追つたり追はれたりしながら、樂しく運動しました。
 二歳ごまになつて、北斗もめつきり馬らしくなりました。今年も、六月から放牧に出しましたが、去年と違つて、ぼくが行くと、北斗は、うれしさうにすぐぼくのところへとんで來て、鼻をすりつけます。手のひらに塩をのせてやると、うまさうになめます。ぼくが唱歌を歌ふと、北斗はいつまでもおとなしく草をたべながら、ぼくのそばで遊んでゐます。
 いつのころからか、北斗は、清くんのうちの子馬の悗函大そう仲よしになりました。ぼくのゐない時は、いつでも悗藩靴鵑任陲襪笋Δ任靴拭
 九月に二歳ごまの市が始るといふので、八月に北斗をうちへつれて歸りました。
 北斗は、ほんたうにりこうで、すなほです。海悗襪海箸浪燭任發茲覺えるし、櫛
(くし)で手入れをしたり、足をあげさせてひづめの裏をさうぢしたりしても、じつとおとなしくしてゐます。物に驚いてかけ出さうとするやうな時でも、「ほうほう。」と聲を掛けて、手のひらで輕く首やせなかをなでてやると、すぐ安心して靜まつてしまひます。この間も祖父がいひました。
「おまへがよくめんだうを見てやつたから、北斗はりつぱな二歳ごまに
 なつた。この村に二歳ごまもたくさんゐるが、北斗ほどみごとなのは
 見かけないやうだ。幅もあるし、骨組も丈夫になつた。」
ぼくは、祖父のこのことばを聞いて、ほんたうにうれしいと思ひました。
 二歳ごまの市が始れば、いよいよ北斗と別れなければなりません。一年半も手しほにかけた北斗といつしよにゐるのも、あといく日もないと思ふと、ぼくは泣きたいほどつらい氣がします。けれども、北斗は、きつと軍馬に買ひあげられるに違ひありません。さうして、りつぱな乘馬になり、軍人さんを乘せて堂々と歩くでせう。その勇ましいやうすを思ひ浮かべると、ぼくは北斗のために喜んでやりたいのです。   


    十四 星の話

 召譴震襦空を仰ぐと、たくさんの星が、まるで寶石をちりばめたやうに美しくかがやいてゐます。ちよつと見たところでは、ほとんど無數と見えるこれらの星にも、名前や番號があり、位置もきまつてゐるのですが、ただぼんやり見てゐるだけでは、いつたいどれがどうなのか、さつぱり見當がつきません。
 そこで、まづ眞北へ向かつて立つて見ませう。北の空にもたくさんの星がありますが、その中で一つだいじな星があります。地平線からしだいに見あげて、頭の眞上まで行く途中、眞中邊より少し低いところに、かなり大きな星が一つ見えるのが、それです。もつともその高さは、見る場所によつていくぶん違ひます。北の北海道でしたら、ほぼ眞中邊ですが、反對に南の沖繩
(おきなは)や臺灣(たいわん)でしたら、ずつと低くなります。
 しかし、かういつただけでは、まだなかなか見當がつかないでせう。さうしたら、どこかその邊の空に、ひしやくのやうな形に連なつた美しい七つの星を、さがすことにしませう。これはすぐ見つかります。七月の中ごろですと、夜九時ごろ、北より少し西へ寄つた方に、ますを下に、少し曲つた柄を上に、ちやうどひしやくを立てたやうなかつかうになつてゐます。この七つの星を北斗七星といひます。
 北斗七星が見つかつたら、その七つの中の、下の端に當る二つの星に注意しませう。さうして、かりにこの二つの星を結ぶ線を引き、それをなほ右の方へ延してみませう。すると、この二つの星の距離の五倍ばかりのところに、きつと一つの星が見つかります。さつきさがさうとしたのがこれで、北極星といふ星です。
 北極星は、いつ見てもほぼ眞北にある星ですから、夜、道に迷つた時など、この星を見つければ、すぐ方角を知ることができます。昔から、航海の目當てとなつてくれたのは、この星です。
 ところで、大空の他の星は、時刻によつてかなりあり場所が變つて行きます。今どれか一つの星を、東へさし出た軒端にすれすれに當てて、下からじつと見てゐますと、やがてその星は、軒端にかくれて見えなくなります。つまり星は、西へ西へと移つて行くのです。日や月が東から出て西へはいるやうに、星もだいたい東から出て西へはいるのです。
 星の動き方を、もつとくはしく調べて見ますと、北の空では、星が、北極星をほぼ中心に、圓をゑがいて動いてゐるのだといふことがわかります。寫眞機を北極星に向けて、一時間ぐらゐふたをあけておくと、この圓をゑがくやうすがわかるやうに寫眞にうつります。それでなくても、夜九時に北斗七星を見てその位置を覺え、更に十時、十一時に見ると、この動き方が大てい見當がつきます。さうして、北極星の近くに見える星ほど小さな圓をゑがき、遠くに見える星ほど大きな圓をゑがきます。
 しかし、このやうに星が動くといふのも、實はわれわれの住んでゐる地球がまはるから、さう見えるだけのことですが、今の場合、それを考へに入れないでおきませう。
 さて、この北極星や北斗七星を目當てにして、その附近を見ると、いろいろの星の列があります。まづ、北斗七星とその附近にあるいくつかの星を加へて、大熊
(おほぐま)座といひますが、それは昔の人が、それらの星の列に大きな熊の形を考へたからです。また、北極星を柄の端にして、北斗七星とどうやら似た小さなひしやく形に連なるのを、大熊座に對して小熊座といひ、小熊座と北斗七星の間に尾を入れて、小熊座を包むやうにのろのろと曲りくねつて連なる十ばかりの星を龍(りよう)座といひますが、どちらも星があまり大きくありませんから、よく氣をつけて見ないとはつきりしません。それよりも、北極星の右下の方に、椅子(いす)の形に連なる五つばかりの星はカシオペヤ座で、俗にいかり星とも山形星ともいひますが、これははつきりしてゐますから、だれでもすぐ見つけます。さうして、この邊、北から南へかけて、天(あま)の川が、夏の夜空に銀の砂子を美しくまき散らしてゐるのが見られます。 


    十五 遠泳

「これから遠泳をする。一人殘らず目的地に着くやうに。」
先生の激勵のことばをしつかり心にだいて、先頭から順々に海へはいつて行つた。
 熱い海岸の砂をふんでゐた足の裏に、つめたい海の水が氣持よく感じられる。水の中を歩きながら、顔を洗ひ頭を水でひたす。兩手でからだに水を掛けると、ひやつとして氣持がよい。ひざから腰、腰から腹へと、海は一足ごとに深くなつて行く。思ひきつて、からだをずぶりと水の中へつけると、つめたさが身にしみわたる。
 先頭から一人一人、順に泳ぎ始めた。いよいよ、ぼくの番になつた。立ち止つて、手を前へ延し足で地面をけると、からだはすいと水の上へ浮かんだ。
 風は吹いてゐないが、波が、目の前の水面に、小さな三角の小山をこしらへ、それが顔に當つて、目や鼻へゑんりよなくはいつて來る。うつかりすると、呼吸の調子で、がぶりと塩からい海水を飲まされる。
 初めは、みんな元氣であつた。薄悗見えてゐた海の水が、いつのまにかこいみどり色に變る。後をふり返ると、海岸はだいぶ遠くなつて、人も家も、小さく見える。目の前を、白いかもめが海面とすれすれに飛んで行く。
 ゆつくりと、自然に兩腕で水を大きくかき、兩足で水をけつて進む。二列に並んだ列を、まだだれも亂す者はない。天氣のよい日、おだやかな海原を航海するやうな樂しさである。この調子なら、わけもなく遠泳ができさうだと、ぼくは喜んだ。一本松を目當てに進んで行く。いつもそばを離れない警備船の上から、先生が、
「時々頭を水にひたせ。」
と注意される。
 遠くに見えた一本松が、だんだん近づいて來る。初めは何も氣がつかなかつたが、一本松がはつきり見えるやうになつたころから、今までからだを浮かしてゐてくれた海が、いくら力を出して泳いでも、なかなか前へ出してくれない。ぼく一人かと思つて前の方を見ると、みんなも同じだ。
「潮の流れが逆になつたから、みんな元氣を出せ。」
先生の聲である。「島の端をまはつてしまへば、あとはらくだ。潮流の激しい一本松の沖あひを、泳ぎ拔けるかどうかが成否の分れめだ。」と話された先生のことばが、思ひ出された。潮流に負けてはならないと、ぼくは一かき一けりに力をこめて、潮の流れと戰ふ氣持で泳いだ。
 きちんとそろつて進んでゐた列が、だんだん亂れて行つた。おくれる者、列からはみ出る者。ぼくは、先頭におくれないやうに、一生けんめいで水をけつた。潮の流れはますます急になるのか、いくら手足に力を入れても、進みはにぶい。一人落ち、三人落ちして、とうとう先頭から三四人めになつた。さうなると、先頭からかけ離れて、間をつめようとしてもなかなか思ふやうにはいかない。並んで泳いでゐた小島くんも、だんだん弱つて來たやうだ。
「小島、廣田、しつかり泳げ。」
先生の聲援がありがたかつた。ぼくは、むちゆうで腕と足を動かした。
 ふと氣がつくと、小島くんの姿が見えない。何だか一人取り殘されたやうな、さびしい氣持になる。その氣持を拂ひのけるやうに、手足に力を入れようとしたが、力がはいらない。水の中で、もがいてゐるやうである。顔を水にひたして、からだを浮かすやうにして泳いだ。一本松を見たが、まだかなり遠いところで手招きをしてゐるやうだ。手足が、石のやうにこはばつて來る。先頭からは、どんどんおくれて行く。もう、だめだ。警備船へあがらうか。
「廣田、おくれたつてかまはない。ゆつくり泳げ。」
と、船の上から先生が叫ばれた。ぼくは、自分の弱い心持が恥づかしくなつた。おくれたつて、ほかの人がやめたつて、ぼくだけは、最後までどうしても泳がう──それからは、何も考へないで、まるで機械のやうに手足を動かした。
 一本松が、右手の海岸のがけの上に、大きく立つてゐるのが見えた。もう一息だと力を出した時、ふしぎにからだは、すいすいと前の方へ輕く進んで行つた。がけの下をぐるつとまはると、今まで見えなかつた島の裏側の海岸が、見えて來た。悄垢箸靴震擇、鏡のやうに靜かな海面に影を投げかけてゐる。その向かふに、眞一文字に白い線を引いたやうな砂濱が、目にしみるやうに寫つた。
「廣田よくやつた。もう大丈夫だ。潮の流れもいいし。そら、あそこに
 見えるだらう、あの砂濱が、到着點だ。」
 ぼくは、全身の力を腕と足とにこめて、遠い砂濱をめがけて、元氣よく泳いで行つた。
   

    十六 海底を行く

  目の前に、
  關門海峽はさざ波をたたへ、
  車窓から何百の船が見える。
  「おかあさん、
   あの海峽をくぐるのね。」

  汽車はたちまちトンネルにはいつた、
  ざあつとすべつて行く車輪の響き。
  「おかあさん、
   今、海の底を走つてゐるのね。」

  本州と九州の握手
(あくしゆ)だ、
  日本最初の海底トンネルだ。
  「おかあさん、
   まるでおとぎ話のやうね。」

  だいじな物資や、郵便物や、
  私たちを一氣に運んでくれる。  
  「ありがたいぢやありませんか。
   命がけでほつたおかげですよ。」

  ふり返ると、
  關門海峽はさざ波をたたへ、
  いそがしさうに船が動いてゐる。
  「おかあさん、
   あの下を通つて來たのね。」    


    十七 秋のおとづれ

 秋は虫の聲から始る。
 晝間は、まだ暑い暑いの歎聲が口をついて出て來る。眞夏の暑さはだれも覺悟をしてゐるが、八月もなかばを越せば、どこかに秋らしいものが見えてもよささうなものである。それだのに、寒暖計は三十度を越えたがる。暑さは、もうたくさんだといひたくなる。するとある日の午後、裏山の森で、「つくつくぼうし、つくつくぼうし。」の聲を聞いた。
 暑い日がやつと暮れても、よひの間は家の中がむつとして、柱も壁も、さはるとどうやら熱氣を吐いてゐる。二階へあがつてみても、さして涼しい風はなささうである。ただ召譴震覿に星がきらきらとさえ、銀河があざやかに中天にかかつてゐる。その時ふと耳にするものは、前の草原で鳴く虫の聲である。それがはたして何虫であるか、はつきりはしないが、かなりたくさんの聲であることを感じる。夜がふけると、思ひなしか屋根瓦
(やねがはら)が少ししめつて來る。
 夜の燈火をしたつて來る虫は、蛾
(が)や、こがね虫など、どれもこれもただうるさいだけであるのに、どこからかかすかに羽音がして障子に輕くばさと止つた虫が、やがて「すいつちよ、すいつちよ。」をくり返す。このくらゐあいきやうのある氣のきいた虫は、めつたにないものだ。さうして、それが、しきりに「秋だ、秋だ。」と鳴きたてるやうに思はれる。
 もう何といつても秋である。よし晝間はどんなに暑からうとも、日光はかすかに黄色味を帶びて、壁やへいの強い反射がいくぶんやはらいで見える。梢吹く風が、思ひ出したやうにざわざわと音をたてる。背戸のみぞ端に、秋海棠
(しうかいだう)がかはいらしい薄赤の花をつける。畠のにらの花に、頭でつかちないちもじせせりが飛びちがふ。何よりも、たんぼに早稻(わせ)の穗が出そろつて白く波打つのが、秋らしく見渡される。
 やがて二百十日が來て、農家はただ風ばかりを心配する。夜は、そろそろこほろぎが家の中へはいつて、床の下や壁の中で聲高く鳴きたてる。  

    十八 飛行機の整備

 
勇 「今日の子ども常會は、お約束通り、飛行機の整備をしてゐられる
   をぢさんに來ていただきました。をぢさんを圍んで、いろいろお
   話をお聞きしようと思ひます。當番にあたつた私が司會者になり
   ませう。
   日ごろ私たちは、わが航空部隊のめざましい働きを聞いて、たい
   へん感激してゐるのですが、それにつけても、飛行機の整備とい
   ふことについてよく知りたいと思つてゐたのです。をぢさんは、
   もう五年間もこの方の仕事をしていらつしやいます。どうぞ、い
   ろいろなお話をしてください。またみなさんも、聞きたいことが
   あれば、何でもおたづねください。初めに、整備といふことにつ
   いて、をぢさんにお話をお願ひいたします。」

を ぢ
「飛行機の整備といつても、いろいろな仕事がありますが、一口に
   いふと、飛行機がいつでも飛び出せるやうに、準備をしておくこ
   となのです。また、いつ飛び出しても、十分働けるやうに手入れ
   をしておくことなのです。」

正 男
「出發前には、どんな準備をしますか。」
を ぢ
「車輪に空氣を入れたり、燃料(ねんれう)や爆彈を積み込んだり、機
   械にくるひがないか、ていねいに調べたりします。が、いちばん
   注意して調べるのは、發動機です。試運轉をして、その爆音を聞
   いてみて、順調であるか、その震動の具合がどうかと、しつかり
   確めてから、みんなに乘つてもらひます。」
太 郎「飛行機がもどつて來た時には、どんな手入れをしますか。」
を ぢ「やはり、發動機の手入れを眞先にします。發動機のおほひをはづ
   して、機械に手を當ててやうすを調べます。それから、あちこち
   に油をさしてやつたり、燃料を補充してやつたり、よごれたとこ
   ろをきれいにしてやつたりします。」

花 子
「私たちがからだ具合でも惡いと、母が額に手を當てて、熱のかげ
   んをみたりなんかするのと似てゐますね。」

を ぢ「さうさう、それですよ。飛行機にとつて、整備兵は母親のやうな 
   ものです。飛行機の熱を計つたり、息づかひを聞いたり、痛いと
   ころをさすつてやつたりするのです。
   飛行機のもどつて來る時刻がおそいと、氣が氣ではありません。
   それはちやうど、遠足に行つた子どもの歸りを案じる母親の心と
   變りません。」
 勇 「敵彈でも受けて歸つた時は、どんな氣がしますか。」
を ぢ「痛ましいと思ひます。しかし、よくこれまで戰つてくれた、手が
   らを立ててくれたと、手を合はせて拜みたい氣持にさへなりま
      す。」
正 男「どんな時がいちばんうれしいでせう。」
を ぢ「何といつても、時間通りに飛行機の整備ができて、爆音勇ましく
   五十機七十機と、頭上を堂々と出發して行く時です。」
太 郎「さうでせうね。私たちが、小さなグライダーを作つて飛ばしただ
   けでも、うれしいのですから。」
を ぢ「飛行機はただの機械だとは思はれません。何か生きもののやうに
   思はれます。自分のからだの一部分のやうにさへ、感じられるの
   です。たとへ、自分は地上に居殘つても、自分の魂は、飛行機と
   いつしよに空をかけめぐつてゐます。あらしにあつてはゐないだ
   らうか、うまく彈幕をくぐり拔けたかしらと、絶えず飛行機の身
   の上を案じてゐます。
   こんな心配をしてゐる時に、無事歸つて來るのですから、うれし
   くてなりません。愛機のプロペラにだきついて喜ぶ人さへありま
   す。」
春 枝「ほんたうにかはいいのですね。」
を ぢ「かはいくてなりません。飛行機にお酒を供へたり、しつかり頼む
   ぞと願つたり、ああ、よくやつてくれたなといひながら、翼をな
   でてやつたりしますよ。」
正 男「整備兵といふのは、みんな地上で働く人ばかりですか。」
を ぢ「さうではありません。機上勤務をする人もゐます。」
正 男「機上では、どんな仕事をするのですか。」
を ぢ「いつも發動機の調子に氣をつけてゐたり、燃料や、電力を調節し
   たりします。とにかく、飛行中に起つた故障は、みんなこの人た
   ちの手によつてなほさなければなりません。
   機上整備兵の座席の前には、たくさんの計器が並んでゐます。こ
   れらの計器が一目で見分けられるやうにならないと、一人前では
   ないのです。」
春 枝「さつきは、うれしい時のお話をうかがひましたが、こんどは、苦
   しい時のことをお話してくださいませんか。」
を ぢ「ただ一心にやつてゐますので、苦しいとは別に思ひませんが、困
   ることはよくあります。ことに寒い時に、それが多いのです。例
   へば小さなねぢをしめるにしても、指の先でしめるのですから、
   厚い大きな手袋をはめてゐては、しめられません。どうしても、
   手袋を脱ぎます。すると、寒さのために指がこほりついてしまつ
   て、わるくするとくさります。それで、片手づつ手袋を脱いで、
   仕事をします。それに、寒いと發動機もうまく動かないので、温
   めてやるのに苦心をします。」
花 子「寒い時もたいへんでせうが、暑い時も苦しいでせうね。」
を ぢ「なにしろ、機體の中は、ふだんでもかなり温度が高い上に、南洋
   の日光に照りつけられると、いつそう暑くなります。からだがや
   つとはいるやうなせまいところで修理をしてゐると、まるで汗と
   油でぐつしよりになつてしまひますよ。」
 勇 「飛行機がたくさん並んで歸つて來る時、あれは自分の飛行機だと
   いふことがわかりますか。」
を ぢ「機種の同じものはなかなかわかりませんが、違ふものなら、近づ
   けばすぐわかります。爆音でもわかります。」
正 男「でも、爆音は、どれも同じやうではありませんか。」
を ぢ「いや、赤ちやんの泣き聲はみんな同じやうだが、おかあさんに
      は、うちの赤ちやんの泣き聲がすぐわかるやうなものです。」
 勇 「何か目じるしをつけたら、いいぢやありませんか。」
を ぢ「さうです。自分の飛行機を早く知りたいために、尾翼にちよつと
   色をぬつておくとか、何とかすることがあります。
   しるしで思ひ出しましたが、撃ち落した敵機の數だけ、どこかに
   しるしをつけることもあります。」
太 郎「をぢさんの飛行機には、どんなしるしがつけてありますか。」
を ぢ「鷲(わし)の顔をかくことにしてゐます。」
春 枝「いくつかいてありますか。」
を ぢ「四十八。」
花 子「まあ、四十八も。するともう四十八機も撃ち落したのですね。」
正 男「すごいなあ。」
 勇 「もつといろいろお聞きしたいのですが、をぢさんのお歸りになる
   時間になりました。これでおしまひにしようと思ひますが、終り
   に一つだけお聞きいたします。今、お話をうかがつて、飛行機の
   整備の大切なことはよくわかりましたが、をぢさんは、やはり飛
   行機に乘つて敵地を爆撃したり、空中戰をやつたりした方がいい
   とは思はれませんか。私ならさう思ひますが。」
を ぢ「さう思ふでせう。けれどもよく考へてごらんなさい。飛行機の整
   備なくしては、空中戰も敵地爆撃もありませんよ。そこで航空部
   隊の働きと整備とは、一つに考へなければなりません。整備は戰
   鬪なりといふことを、私たちはかたく信じてゐます。」
 勇 「よくわかりました。ためになるお話をたくさんお聞かせください
   まして、ありがたうございました。」

   


    十九 動員

  動員の第一夜なり明けやすき

  秋
れや旗艦にあがる信號旗

  敵前に上陸すなり秋の雨

  突撃を待つ草むらに虫すだく

  敵遠し月の廣野のはてしなく

  幾山河愛馬と越えて月の秋

  地圖を見る外套
(ぐわいたう)をもて灯(ひ)をかばひ



     二十 三日月の影

      
重代のかぶと
 甚次郎
(じんじらう)は、兄に呼ばれて座敷へ行つた。見れば、母もそこにゐた。床の間には、すばらしく大きな鹿(しか)の角と三日月の前立てとのついたかぶとが、かざつてある。兄は、改つた口調でいつた。
「甚次郎、このかぶとは祖先傳來の寶、これをおまへにゆづる。十歳の
 時、軍に出て敵の首を取つたほど強いおまへのことだ。どうかりつぱ
 な武士になり、家の名をあげてくれ。」
甚次郎は、胸がこみあげるやうにうれしかつた。
「ありがたくちやうだいいたします。」
といつて頭をさげた。母はそばからいつた。
「それにつけても、御主君、尼子
(あまご)家の御恩を忘れまいぞ。尼子
 家の御威光は、昔にひきかへておとろへるばかり、それをよいことに
 して、敵の毛利
(まうり)がだんだん攻め寄せて來る。成人したら、一
 日も早く毛利を討つて、御威光を昔に返しておくれ。」
甚次郎の目は、いつのまにか涙で光つてゐた。
 甚次郎は、この日から山中鹿介幸盛
(しかのすけゆきもり)と名のり、心にかたく主家を興すことを誓つた。さうして、山の端にかかる三日月を仰いでは、
「願はくは、われに七難八苦を與へたまへ。」
と祈つた。

      
一騎討
 數年は過ぎた。尼子の本城である出雲(いづも)の富田(とだ)城は、そのころ毛利軍に圍まれてゐた。
 鹿介は、戰つてしばしば手がらを立てた。かれの勇名は、みかたのみか、もう敵方にも知れ渡つてゐた。
 敵方に、品川大膳
(だいぜん)といふ荒武者がゐた。かれは、鹿介をよい相手とつけねらつた。名を木狼介勝盛(たらぎおほかみのすけかつもり)と改め、折もあらば鹿介を討ち取らうと思つた。
 ある日のこと、鹿介は部下をてれて、城外を見まはつてゐた。川をへだてた對岸から、鹿介の姿をちらと見た狼介は、われ鐘のやうな聲で叫んだ。
「やあ、それなる赤糸をどしの甲は、尼子方の大將と見た。鹿の角に三日月の前立ては、まさしく山中鹿介であらう。」
鹿介は、りんとした聲で大音に答へた。
「いかにも山中鹿介幸盛である。」
狼介は喜んでをどりあがつた。
「かくいふは石見
(いはみ)の國の住人、
木狼介勝盛。さあ、一騎討の勝負をいたさう。あの川しもの洲こそよき場所。」
といひながら、弓をこわきにはさんで、ざんぶと水にとび込んだ。鹿介もただ一人、流れを切つて進んだ。
 狼介は、弓に矢をつがへて鹿介をねらつた。尼子方の秋上伊織介
(あきあげいおりのすけ)がそれを見て、
「一騎討に、飛び道具とはひけふ千萬。」
と、これも手早く矢をつがへてひようと射る。ねらひ違はず、狼介が滿月のごとく引きしぼつてゐる弓のつるを、ふつりと射切つた。みかたは「わあ。」とはやしたてた。
 狼介は、怒つて弓をからりと捨て、洲にあがるが早いか、四尺の大太刀を拔いて切つてかかつた。しかし、鹿介の太刀風は更にするどかつた。いつのまにか狼介は切りたてられて、しだいに水際に追ひつめられて行つた。
「めんだうだ。組まう。」
かう叫んで、狼介は太刀を投げ捨てた。大男のかれは、鹿介を力で仕とめようと思つたのである。
 二人はむずと組んだ。しばらくはたがひに呼吸をはかつてゐたが、やがて狼介は滿身の力をこめて、鹿介を投げつけようとした。鹿介は、それをじつとふみこたへたが、片足が洲の端にすべり込んで、思はずよろよろとする。たちまち狼介の大きなからだが、鹿介の上へのしかかつた。鹿介は組み敷かれた。兩岸の敵もみかたも、思はず手に汗をにぎる。
 とたんに、鹿介はむつくと立ちあがつた。その手には、血に染まつた短刀が光つてゐる。狼介の大きなからだは、もう鹿介の足もとにぐつたりとしてゐた。
「敵も見よ、みかたも聞け。現れ出た狼を、鹿介が討ち取つた。」
鹿介の大音聲は、兩岸に響き渡つた。
 そののち、幾たびか激しい戰があつた。さしもの敵も、この一城をもてあましたが、前後七年にわたる長い戰に、尼子方は多く討死し、それに糧食
(りやうしよく)がとうとう盡きてしまつた。城主尼子義久は、涙をのんで敵に降つた。富田城には、毛利の旗がひるがへつた。

      苦節 
 尼子の舊臣は、涙のうちに四散した。鹿介は、身をやつして京都へのぼつた。
 戰國の世とはいへ、京都では花が咲き、人は蝶
(てふ)のやうに浮かれてゐた。
 そのうちに、尼子の舊臣がおひおひ京都に集つて來た。かれらは、鹿介を中心として、主家の再興を企てた。
 そのころ、京都のある寺に、ひんのよい小僧さんがゐた。さうして、それが尼子家の子孫であることがわかつた。鹿介は、この小僧さんを主君と仰いだ。
「尼子家再興のことは、わが年來の望みである。」
小僧さんは、ををしくもかういつて、衣を脱ぎ捨て、尼子勝久と名のつた。
 時は來た。永禄
(えいろく)十二年六月のある夜、勝久を奉じる尼子勢は出雲に入り、一城を築いて三度ときの聲を作つた。
 この聲が四方に呼び掛けでもしたやうに、今まで敵についてゐた舊臣が、續々と勝久のところへ集つた。諸城は、片端から尼子の手に返つた。しかし、富田城は名城であるだけに、なかなか落ちさうにもなかつた。
 その間に、毛利の大軍がやつて來た。輝元
(てるもと)を大將とし、吉川元春(きつかはもとはる)・小早川老(こばやかはたかかげ)を副將として、一萬五千の擁爾堂々と進軍して來た。
 富田城がまだ取れないのに、敵の大軍が押し寄せたのでは、みかたの勝利がおぼつかない。しかし、鹿介は腹をきめた。すべての軍兵を率ゐて、富田城の南三里、布部山
(ふべやま)に敵を迎へ討つた。みかたの軍は約七千であつた。
 まことに死物ぐるひの戰であつた。敵の前軍はしばしばくづれた。しかし、何といつても二倍以上の敵である。新手はあとからあとから現れる。さしもの尼子勢もへとへとにつかれ、多くの勇士は、むざんや枕を並べて討死した。
 勝ちほこつた敵の大軍は、やがて出雲一國にあふれた。勝久は危くのがれて、再び京都へ走つた。
    
      
上月(かうづき)城 
 それからまた幾年か過ぎた。鹿介は、織田信長
(おだのぶなが)に毛利攻めの志があることを知つて、かれをたよつた。鹿介を一目見た信長は、この勇士の苦節に同情した。
「毛利攻めのお先手に加り、もし戰功がありましたら、主人勝久に、出
 雲一國をいただきたうございます。」
鹿介の血を吐くことばに、信長は大きくうなづいて見せた。
 つひに再び時が來た。尼子方は秀吉
(ひでよし)の軍勢に加つて、毛利攻めの先がけとなつた。
 いち早く播磨
(はりま)の上月城を占領して、ここにたてこもつた二千五百の尼子勢は、ほどなく元春・老覆領┐陲觴決澆梁膩海砲劼靴劼靴伴茲袵まれた。
 秀吉の援軍が今日來るかあす來るか、それを頼みに勝久は城を守つた。毛利方の大砲を夜に乘じてうばひ取つて、みかたは一時氣勢をあげた。
 しかし、援軍は敵にはばまれて近づくことができなかつた。七萬の大軍に圍まれては、上月城は一たまりもない。弓折れ矢盡きて、勝久はいさぎよく切腹することになつた。
「いたづらに朽ち果てたかも知れないわたしが、出雲に旗あげして、一
 時でもその領主となつたのは、まつたくおまへの力であつた。」
勝久は、かういつて鹿介に感謝した。
 鹿介は、男泣きに泣いて主君におわびをした。しかし、かれはまだ死ねなかつた。尼子重代の敵毛利を、せめてその片われの元春を、おのれそのままにして置けようか。七難八苦は、もとより望むところである。鹿介は主君に志を告げ、許しをこうてわざと捕らはれの身となつた。

      
甲部(かふべ)川の秋    
 鹿介は西へ送られた。
 ここは備中
(びつちゆう)の國甲部川の渡しである。天正六年七月十七日、秋とはいへ、まだ烈しい日光が、じりじりと照りつけてゐる。
 川端の石に腰掛けて、來し方行く末を思ひながら、鹿介はじつと水のおもてを眺めた。燕
(つばめ)が、川水すれすれに飛んでは、白い腹を見せてちう返りをしてゐた。
 突然、後から切りつけた者がある。鹿介は、それが敵方の一人河村新左衛門
(かはむらしんざゑもん)であると知るや、身をかはして、ざんぶと川へとび込んだ。新左衛門もとび込んだ。二人はしばし水中で戰つたが、重手を負ひながらも、鹿介は大力の新左衛門を組み伏せてしまつた。すると、これも力自慢(じまん)の福間彦右衛門(ふくまひこゑもん)が、後から鹿介のもとどりをつかんで引き倒した。
 七難八苦の生涯
(しやうがい)は、三十四歳で終りを告げた。
 甲部川の水は、このうらみも知らぬ顔に、今もいういうと流れてゐる──月ごとに、あのあはい三日月の影を浮かべながら。 






   嚴 幸 伏 得 典 歴 史 採 例 際 良 保
   護 永 盛 退 及 梢 鬪 帶 密 激 浴 舌
   然 句 準 衛 亞 協 英 雜 憲 巡 査 繼
   譯 舊 江 岡 更 裏 頂 乳 薄 隻 潛 鮮
   塩 壯 掌 舷 戒 鐘 副 規 律 訓 量 師
   他 惡 祖 障 臣 價 貧 妻 志 隣 敗 斗
   牧 驚 寶 連 柄 極 迷 球 俗 勵 亂 逆
   否 援 濱 到 峽 州 資 郵 便 歎 河 司
   補 充 額 魂 勤 脱 片 修 幾 誓 盡 再
   企 諸 利 率 朽 謝 捕 烈

 


    
附  録



    一 「あじあ」に乘りて

教科書掲載の「あじあ」の写真
    
教科書掲載の「あじあ」の写真

 九時大連
(だいれん)發の「あじあ」に、ぼくは乘つた。見送りに來た母が、大勢の人にまじつて見える。
「おかあさん、行つてまゐります。」
ぼくが手をあげると、母もあげた。窓を開くことができないので、ぼくのこのことばも通じないらしい。母も何かいつてゐるやうだが、こちらにはわからない。「あじあ」は流れるやうに動きだした。ぼくは、この春休みにハルピンのをぢのところへ行くのである。一度乘つてみたいと思つてゐたこの汽車に乘れて、ほんたうにうれしい。
 やがて金州にさしかかると、車掌さんが説明する。
「右手は大和尚山
(だいをしやうざん)で、關東州第一の高山、その手前の岡
 に、乃木勝典
(のぎかつすけ)中尉(ちゆうゐ)の記念碑(きねんひ)があるので
 す。左には、金州城が手に取るやうに見えます。」
 雪の少い南滿洲の畠はよく耕されて、農家がぼつぼつ見える。沿線
(えんせん)の楊(やなぎ)の木に、かささぎが巣(す)をいくつも掛けてゐる。ぼくがそれを見てゐると、
「何を見てゐるの。」
と、後から聲を掛けた者がある。ロシヤ人の女の子だ。
「あのかささぎの巣を見てゐるのさ。」
しかし、「かささぎ」といふ日本語がわからないらしい。「鳥の巣。」といつたら、すぐわかつた。この子は新京へ母と歸るところで、マルタといふ名ださうだ。
「おかあさんは、あそこ。」
と指さしたところに、みどり色の上着を着たロシヤ婦人が本を讀んでゐる。
 熊岳城
(ゆうがくじやう)に近づくと、望小山(ばうせうざん)が見えだした。あの山の傳説を話してあげようといへば、マルタはお晝御飯をたべながら、母といつしよに聞きたいといふ。三人は食堂車へはいつた。ロシヤ少女が、給仕をして働いてゐた。
「昔、母と子と二人暮しの家があつた。むすこは、勉強のため山東へ渡つ
 て行つた。何年かたつて、もう歸つて來るころになつたので、年寄つた母
 は、毎日毎日望小山へのぼつて待ち續けた。むすこは、一生けんめいに
 苦學したかひがあつて、りつぱな身分になり、いよいよ故郷へ歸ることに
 なつた。ところが、途中海が荒れて、むすこは船とともに沈んでしまつた。
 母は、そんなこととはつゆ知らず、風の日も雪の日も待つてゐたが、とう
 とう山の上でなくなつたといふ。」
 大石橋で始めて停車した。ホームへ出ると、風がつめたい。車掌さんが、ボーイに、「もう少し、車内の温度をあげてくれたまへ。」といひつけてゐた。
 北の方では、二三日前に雪が降つたので、遠い山の峯が白くなつてゐる。何だか空がくもつて來た。鞍山
(あんざん)の製鋼所から茶色の煙が立ちのぼり、ほのほが勇ましく見える。まもなく、遼陽(れうやう)の白塔が眺められた。落ち着いた、美しい形である。太子河(たいしか)を渡る。「あじあ」は防音装置(さうち)がしてあるので、鐵橋を渡る響きが車内にやかましくは聞えない。
「スタンプを押しませんか。」
ボーイがさういつて來たので、ぼくは、てちやうに「あじあ」のスタンプを二つ押してもらつた。
 奉天に着いた。 ここから安東・吉林
(きつりん)・北京(ぺきん)へ、鐵道が分れるので、列車がいくつも止つてをり、滿人の赤帽がいそがしさうに荷物を運んでゐる。驛前には、馬車や自動車が行つたり來たりしてゐる。ここで、兵隊さんがどやどやと乘つた。奉天はまことに平な大都市で、ただ北陵(ほくりよう)の松林が小高く見えるだけである。
 雲が切れて、日光がさして來た。雲はしきりに流れて、早春の畠を、野を、そのかげがはつて行く。「あじあ」は、雲のかげを追ひ越したり追ひ越されたりして、滿洲の大平野をまつしぐらに突進す。
 四平
(しへい)に着く。ここからチチハルへ線が分れる。冬になると、この大きな停車場に、大豆の山が積まれるさうだ。
 やがて、一人の兵隊さんがぼくに、
「あそこの岡を知つてゐるかね。あれは公主嶺
(こうしゆれい)で、昔、ロシヤ
 のコサック兵は、あそこで確したのだが、今は農事試験場
(しけんぢやう)
 
のひつじや牛が、かけつこをしてゐる。」
と、元氣よく話しながら、日にやけた顔で笑つた。向かふの農家に、滿洲國旗がひらめいてゐる。そばで、滿人たちが耕作
(かうさく)の手を休めて、こちらを眺めてゐる。
「汽車のかげが長くなつた。」
と、マルタがいふ。汽車のかげだけではない。電柱のかげも木のかげも、ずつと延びた。「あじあ」は、一氣に國都新京へせまつて行く。遠く國務院や、關東軍司令部の建物が夕日にはえ、新しい住宅があざやかに見える。
 兵隊さんたちは新京で下車した。ぼくがおじぎをすると、みんな元氣よく擧手
(きよしゆ)をする。マルタも、おかあさんといつしよにおりて行つた。急に車内がさびしくなる。
「さやうなら。」「さやうなら。」
マルタは、とびあがりながら手を振つた。
 大きな赤い夕日が沈むところだ。夕日とぼくとの間には、さへぎるもの一つない。あすまた、お日樣、ごきげんよう。烏の群が地上から飛びあがつた。薄むらさきの夕空には、ばら色の雲がたなびいた。それを見てゐたら、母を思ひ出した。夕食して、母に手紙を書かうと思つて、食堂車へ行つた。
 食卓
(しよくたく)には、電燈が明かるくついてゐる。ロシヤ少女の給仕が、ぼくの顔を見覺えてゐて、にこにこしながら食事を運んでくれる。どこか知らない驛に停車した。大きな木の上に星が光つてゐる。「あじあ」のしるしのはいつた用紙に手紙を書いて、晝間押してもらつたスタンプを入れて、ボーイに頼んだ。席に歸ると急に眠くなつて來た。
 ふと氣がつくと、「あじあ」はいつのまにか町へはいつてゐた。さうして、時間表通り二十一時三十分に、ハルピン驛にぴたりと停車した。ぼくが急いでおりると、突然、
「やあ、よく來たね。一人でよく來たね。」
と、をぢの聲。ぼくの手は、がつしりとにぎられてゐた。
 眞冬のやうに寒い夜だ。空には、半月がさえかへつてゐた。
    


    二 大地を開く 

      一
 ぼくは早くから目がさめた。おの北滿の土地に來て、始めての朝だ。
 窓が、ほのぼのと明かるくなつた。あこがれてゐた大陸に、第一日を迎へるのだ。
 起床ラッパが鳴り響いた。
 ぼくたちは、元氣よく起きた。日本では感じられないやうな、痛い寒さが押し寄せて來る。
 まだなれない部屋なので、急いで上着を着たり、ズボンをはいたりしてゐると、思はず頭を柱にぶつつける。
 水で口をすすぎ、顔を洗ふと、心がからつとして、全身がひきしまつた。
 宿舎
(しゆくしや)の前に、一同が整列する。風にまじつて、粉雪が降つてゐる。
 旗竿に高く國旗をかかげた。するするとあがつて行く日の丸の旗が、風に大きくゆれてゐる。かうした光景は、今までに何度も見たが、今朝ほど尊く思つたことはなかつた。
 それから體操をする。「えい、やあ。」と、力いつぱい掛聲を掛けると、心が引きしまる。體操がすんで、所長の訓示
(くんじ)があつた。
「ここへ始めて來た諸君を、自然はこの吹雪
(ふぶき)をもつて迎へてくれた。諸君をりつぱな開拓者(かいたくしや)にしようとして、よい試練を與へてくれた。諸君は、これからいろいろな困難(こんなん)にあふだらう。しかし、負けてはならない。諸君は、新しい東亞のために、ここで大地を開くのだ。この光榮(くわうえい)を忘れるな。」
粉雪が、ぼくの前の友だちの肩に、さらさらと降りかかる。ぼくは、心の中で、「やるぞ、やるぞ。」と何度も誓つた。
 次の日は、雪が召譴拭Iもやんだ。まぶしいほど召譴薪芸罎砲覆弔拭
 目のとどくかぎりの廣野だ。宿舎のほかには、目をさへぎる何物もない。天と地と一つになつた大きな風景だ。ここが大陸日本の第一線なのだ。
 ぼくは、友だちと「しつかりやらう。」といひながら、手をにぎつた。
      二
 それから五六日たつて、のろ狩をやつた。のろといふのは、北滿に住んでゐる鹿
(しか)の一種である。皮は着物にしたり、肉は食用にしたりする。ぼくは、まだ見たこともないが、どうかしてつかまへてやらうと意氣ごんで行つた。
 散兵の隊形をとつて、遠巻きにのろを追ひ出して行く。どんどん野原を進んで行くと、向かふのくぼ地から、二匹ののろが現れた。みんなが、「わあつ。」と思はず聲をたてる。のろはびつくりして、急いで逃げ出した。なかなか足が早い。とうとう、林の中へもぐり込んでしまつた。
「今度こそ、つかまへてやるぞ。」
また進んで行くと、やぶのところから、二匹の親のろと一匹の子のろが出て來た。それつと、みんなが走り出した。三匹ののろは、とぶやうにして岡を越え、谷を渡り、走つて行く。ぼくたちは、だれも追ひつけなかつた。
「ざんねん。」
「のろのやつ、のろくないぢやないか。」
「こつちがのろまなんだよ。」
こんなことをいつて、笑つた。
      三 
 日一日と暖くなつて來た。
 枯草におほはれてゐた野原に、悗ち陲硫蠅もえて來た。よく見ると、むらさきの花が咲いてゐる。百合
(ゆり)のつぼみのやうな形をした、かはいらしい花だ。花びらにも葉にも、うぶ毛が生えてゐる。悗い發里呂泙弔燭なかつた野原に、咲きだしたこのむらさきの花は、ほんたうにきれいに見える。ぼくは、この花を根からほつて、宿舎の庭へ持つて來て植ゑた。あとで、「おきな草」といふ草花であることがわかつた。
 夜が明けて、最初に出かける班は、トラクター班だ。發動機の音をとどろかしながら、開拓に進軍する。
 續いて農耕班
(のうかうはん)が出發の用意をしてゐる。ほかの班のものは、まだ床についてゐる。ぼくが、農耕班の友だちに、
「きみたちの班は、朝が早くてたいへんだな。」
といふと、
「いや初めはつらかつたが、もうなれてしまつた。これでも樂しいことがある
 んだよ。」
と答へる。
「樂しいことつて何だ。」
「種をまくと、かはいい芽を出す。芽がだんだんのびる。それを毎朝見に行
 くのが、ほんたうに樂しみなんだ。」
 はうれん草の畠が、悄垢箸靴討陲襦ゑんどうが大きくなつて、つるを延してゐる。
 このころになると、野原には、黄色な花が咲き始める。赤い花も少しまじつて咲く。
 朝霧
(あさぎり)の中で、放牧の馬が、露をふくんだ草をおいしさうにたべてゐる。
 朝日の光をうけて、霧に薄い虹
(にじ)がぼつとかかることもある。
      四
 ぼくたちの一行が大勢やつて來たので、宿舎がせまくなつた。別に宿舎の建てましをしなければならない。自分たちの家は、自分たちの手で建てようといふので、大工の仕事に取りかかつた。
 作業場は、かなり離れた小高い岡の上である。
 なれない手つきでをのを振るひ、のこぎりをひき、かんなを掛けた。柱ができる、板ができる。新しい木の香が、ぼくたちを喜ばした。
 三時過ぎになると、ひと休みする。その時、うどん粉をふかした大きなまんぢゆうをたべる。甘味
(あまみ)は少いが、働いたぼくたちには、實にうまい。
 長い春の日も暮れかけて、手もとが暗くなる。
「作業やめ。」
 みんな道具をきちんとまとめて集合する。
 美しい夕やけだ。みんなの顔が、赤くなつてゐる。
       



    
三 草原(さうげん)のオボ

 蒙古
(もうこ)の大草原を旅する者は、あちこちにあるオボを目當てに歩いて行く。
 オボといふのは、地の神をまつるために、蒙古人が供へた一種の土まんぢゆうで、小高い岡に作られたり、泉
(いづみ)のそばにまうけられたりする。その上に、楊(やなぎ)の枝をたばねて突きさしたのがあり、石ころを積み重ねたのがあり、柱を立てて、それに字を書いた旗を結びつけたのがある。
 文字通り大自然のふところに生まれ、そこで死んで行く蒙古人たちにとつては、天と地が生命の父であり、母である。おのづからこれにたよる心がわき、いつとはなしに信仰
(しんかう)となつて、このやうなオボを作り、大地をまつるやうになつた。
 見渡すかぎり廣々として、何一つ目にはいらない草原では、たとへ小さなオボでも、旅をする者には實に大きななぐさめであり、また心強い目じるしである。草原を海にたとへれば、オボはまさにその燈臺である。旅に出かけて行く人が、オボの前を通る時には、「どうぞ、無事に旅をすることができますやうに。」と祈り、またその歸りには、「おかげで、歸ることができました。」と感謝の祈りをささげる。そのお禮のしるしとして、石ころ一つ積み重ねたり、楊の枝を立てたりするので、オボは、いつとはなしに少しづつ大きくなつて行く。
 夏の初め、草原があざやかなみどりにおほはれるころ、オボの祭がもよほされる。
 この時、遠いところからたくさんの人が集つて來て、たいへんなにぎはひである。きのふまで木一本もなかつたやうな草原に、たちまち町ができる。
 儀式は、夜明け前の暗いうちから行はれる。まづ僧の祈りに祭典が始まり、火をたいたり、太鼓
(たいこ)をたたいたり、ラッパを吹いたりする。參拜するものは、子ひつじの料理をあげたり、手製のチーズやバタなどを供へたりする。
 オボのそばには、馬や、牛や、ひつじなどがつながれる。これらの家畜
(かちく)は、神にささげるものとして、その年の春に生まれたものの中からえらばれたものである。僧は、この家畜の一頭一頭に祈りをささげ、喜びの歌を歌ふ。
 そのうちに東の地平線が白み、まもなく夜が明けて朝日ののぼるころには、もう儀式は終つてゐる。
 式後、神に供へられてゐた馬や、牛や、ひつじなどは、それぞれ家畜の群にはなされる。一度かうしてオボの祭にえらばれた家畜は、決して賣つたり、殺したり、乘用にしたりすることができないことになつてゐる。
 餘興
(よきよう)として、勇ましい競馬(けいば)があり、いかにも大陸的な蒙古ずまふが行はれたりして、祭の氣分は高まつて行く。
 樂しいにぎやかな祭がすむと、みんなどこか遠いところへ散らばつてしまふ。それはちやうど、潮がさつと引いて行くやうである。さうして、またもとのひつそりとした大草原にたちもどり、オボだけが大地にぽつんと殘されるのである。               



 

 

 

      (注) 1. 『初等科國語 五』の教科書は、昭和17年12月21日発行、昭和18年2月28日翻刻
        発行。著作兼発行者 文部省。発行所 日本書籍株式会社。
          これは、『複刻 国定教科書(国民学校期)』(ほるぷ出版刊、昭和57年2月1日)に
        よりました。原本所蔵は、信濃教育博物館です。

        2.  
教科書巻末(「附録」の前)の漢字表の漢字には、「嚴() 幸() 伏() ……」の
        ように、漢字の下に頁数が表記されていますが、ここでは省略しました。
          なお、教科書本文の挿絵も、省略しました。
       3. 『初等科國語 五』の教科書は、国民学校5年生前期用の教科書です。
       4. 「八 海の幸」の本文中の「
」、「二十 三日月の影」の「一騎討」の本文中の「
         の漢字は、「島根県立大学e漢字フォント」を利用させていただきました。 
       5. 教科書本文の「附録 一 「あじあ」に乗りて」に登場する「あじあ」について、フリー
         百科事典『ウィキペディア』の「あじあ号」の記載の一部を、引用させていただきます。
            あじあ号は、日本の資本・技術で運行されていた南満州鉄道が、1934年(昭和
           9年)から1943年(昭和18年)まで運行した特急列車である。超特急とも呼ばれた。
            編成は、流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で編成される。その殆
           ど全てが日本の技術によって設計・製作されたことは、当時の日本の鉄道技術の高
           さを象徴するものとして重要である。
            
(注・ここに「あじあ号」とあるのは、正しくは「あじあ」であって、<あじあ号>という呼び名は
                正式のものではない、という意見があります。なお、詳しい説明がありますので、興味の
                ある方は、『ウィキペディア』の「あじあ号」の記載をご覧下さい。
  
                           
 なお、ウイキペディアの 「南満州鉄道」にも、「特急あじあ」の記事があります。)
          〇
『郵便学者・内藤陽介のブログ』で、満洲国の鉄道1万キロ突破を記念して発行さ
            れた切手の1枚に
「あじあ号」の雄姿が描かれているのを、見ることができます。ここ
            には、「あじあ号」についての説明もあります。
          〇
『KAWASAKI』(川崎重工グループ)のサイトの「川崎重工の歴史」に、1934年に同社
            が製造した、蒸気機関車製造1500両目の記念機関車 「満鉄「あじあ号」用パシナ形
            蒸気機関車」の写真が出ています。説明を引用させていただくと、
             満鉄「あじあ号」用パシナ形蒸気機関車を納入  当社(川崎車輛)は滿州向けに
             数多くの機関車・客車・貨車を輸出しました。中でも1934(昭和9)年、南滿州鉄
             道に納入したパシナ形蒸気機関車は当時世界の最新鋭機関車で、大連─新京
             (現・長春)間の超特急「あじあ号」を牽引しました。
          〇
『テクノエース』というサイトに、「蘇る幻のSL!旧満州鉄道特急あじあ号」の写真
           が出ています。ただし、機関車の写真は、前面のデザインが教科書掲載のものと少
           し異なっています。
               〇
『九州科学技術研究所』というサイトに、「満鉄の研究」があり、そこで「あじあ号」
           の写真、ポスター・記念切手の画像などが見られます。 
               〇 教科書掲載の写真の機関車は、初期のスカイブルーではなく、戦時統制によっ
           て黒に近いダークグレーに彩色され、ライトは燈火管制用のカバーが取り付けら
           れた形の機関車の写真だと思われます。(初期の機関車の色を「スカイブルー」
           と言っていいのかどうかよく分かりませんが、一応そう表現しておきます。)  
                    〇  
『宇都宮大学附属図書館』のホームページで、『満洲グラフ』昭和9年(1934年)
           11月号(通巻8号)に掲載された
「満鉄超特急『あじあ号』の写真」が見られます。
             今検索してみたら、『満洲グラフ』が出て来ないで、次の本が出て来ました。   
                 
『満鉄特急あじあ号』[増補新版]市原善積著(原書房、2010年3月刊)
                                                      (2017年11月3日)
              〇  
『毎日フォトバンク』というサイトで、「あじあ」号の写真が見られます。ロシア人
           少女のウエイトレス写真も見られます。(閲覧だけなら無料です。「あじあ」で検索
           して閲覧。)
          〇 『ナショナル ジオグラフィック日本版』(日経ナショナル ジオグラフィック社、2008
           年5月1日発行、第14巻第5号)の「FLASHBACK JAPAN | 日本の百年」に、『NG
           S写真資料室から 中国東北部を駆けた特急「あじあ」号』として、戦前から終戦ま
           で中国東北部の大連と哈爾浜(ハルビン)を結んで営業していた南満洲鉄道(満
           鉄)の特急「あじあ」号の展望一等客車の写真が掲載されています。
            その写真は、戦火が激しさを増していた1942(昭和17)年11月号の『ナショナル
           ジオグラフィック英語版』に掲載されたものだそうです。そこには、「あじあ」号につ
           いて、「日露戦争の勝利によりロシアから譲渡された鉄道施設を基に、1906(明
           治39)年に設立された満鉄は、1934(昭和9)年11月にあじあ号の運転を開始し
           た。空気抵抗を減らすために流線形をした蒸気機関車「パシナ」が、中国東北部
           を時速120キロで疾走した。客車は冷暖房が完備された豪華なつくりで、寒暖が
           厳しく砂塵の多い大陸でも快適な旅が楽しめた。4か国語で書かれた食堂車の
           メニューは洋食が中心で、白系ロシア人のウエイトレスが給仕するなど国際色豊
           かだったという」との説明があります。(同誌、28頁)
(2008年7月3日付記)
          〇 この「「あじあ」に乘りて」という文章は、『小學國語讀本巻十』(昭和13年)に掲
           載されたのが最初のようです。(二十六 「あじあ」に乘りて)
           
 (『珠洲たのしい授業の会』というサイトに「昔の教科書に学ぶ」というページがあり、そこで、
             『尋常小學國語讀本』(ハナハト読本)、『小學國語讀本』(サクラ読本)の目録(目次)と一部
             教材本文が見られます。)
          〇 「「あじあ」に乘りて」という文章の作者は石森延男だということが、分かったそう
           です。(2019年4月17日付記)
            国立国会図書館の『レファレンス協同データベース』に、「「あじあ」に乗りて」の
           作者が知りたい、という質問に答えた国立教育政策研究所教育図書館の回答が
           あって、そこに作者は石森延男であることが判明したとあります。
               → 『レファレンス協同データベース』

        6. 資料105に 『ヨミカタ 一』の本文(全文) があります。
                     資料106に 『ヨミカタ 二』の本文(全文) があります。
             資料144に 『よみかた 三』の本文(全文) があります。
                     資料146に 『よみかた 四』の本文(全文) があります。
             資料154に 『初等科國語 一』の本文(全文) があります。
           資料156に 『初等科國語 二』の本文(全文) があります。
   
           資料179に 『初等科國語 三』の本文(全文) があります。
 
          資料186に 『初等科國語 四』の本文(全文) があります。
                    資料196に 『初等科國語 六』の本文(全文) があります。
           資料199に 『初等科國語 七』の本文(全文) があります。
             資料210に 『初等科國語 八』の本文(全文) があります。

 


 
                             
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