資料186 国民学校国語教科書『初等科國語四』(本文)



 


     
『初等科國語 四』



       もくろく
  一   船は帆船よ
  二   燕はどこへ行く
  三   バナナ
  四   大連から
  五   觀艦式
  六   くりから谷
  七   ひよどり越
  八   萬壽姫
  九   林の中
  十   グライダー「日本號」
  十一  大演習
  十二  小さな傳令使
  十三  川土手
  十四  扇の的
  十五  弓流し
  十六  山のスキー場
  十七  廣瀬中佐
  十八  大阪
  十九  大砲のできるまで
  二十  振子時計
  二十一 水族館
  二十二 母の日
  二十三 防空監視哨
  二十四 早春の滿洲
 



              
一 船は帆船よ

    船は帆船よ、
   三本マスト。
   千里の海も なんのその。

   萬里の波に
   夕日が落ちて、
   なほも南へ 氣がはやる。

   とまり重ねて
   心にかかる、
   安南・シャムは まだはるか。

   椰子
(やし)の林に
   照る月影を、
   昔の人は どう見たか。

   日本町に
   ふけ行く夜の
   ゆめは故郷を かけまはる。


     二 燕
(つばめ)はどこへ行く

 夏の末ごろ、燕が、電線や物干竿に、五六羽ぐらゐ並んで止つてゐるのを、よく見かけます。時には、十羽二十羽も、ずらりと並んでゐることがあります。その中には、親燕もゐますが、今年生まれた子燕が、たくさんまじつてゐます。もう大きさだけは、親燕と同じですが、まだ口ばしの下の赤色が、親燕ほどこくありません。口ばしの兩わきが、いくぶん、黄色に見えるのさへあります。
 かうして、大勢の燕が並んでゐるのを見ると、何かしら、相談でもしてゐるやうに見えます。まもなく、去つて行かなければならない日本に、なごりを惜しんでゐるのかも知れません。これから行かうとする遠い國のことを、話し合つてゐるのかも知れません。
 やがて、九月もなかばを過ぎると、燕は、そろそろ日本を去つて行きます。十月には、續々と去つて行きます。十一月の初めになれば、もうほとんど、その姿を見せなくなつてしまひます。
 いつたい、どこへ行くのでせうか。
  燕の行く先は、遠い、遠い南の海のかなたです。
 東京から、四千キロもあるフィリピンで、ある年の十月の末、子どもが燕をつかまへました。すると、その右の足に、日本の文字を記した、小さな金屬の板がついてゐました。それによると、埼玉
(さいたま)縣のあるところで、試みにしるしをつけて、はなしたものだといふことがわかりました。
 しかし、燕はもつともつと、南へ飛んで行くのです。南洋の島々から、中には、さらに海を越えて、遠いオーストラリヤまで行くのがあるといふことです。
 燕は、鳥の中でも、いちばん早く飛ぶ鳥です。汽車や自動車も、かなはないくらゐの早さですから、何百キロの海を、一氣に飛ぶことも、決してふしぎではありません。しかし、その中には、今年生まれた子燕がたくさんゐます。また、時にあらしや、そのほかの思ひがけない災難に、あはないともかぎりません。
 昭和六年の秋のことでした。ヨーロッパのある國で、約十萬羽の燕が、急に落ちて來たことがあります。その年は氣候が不順で、九月の中ごろ急に寒くなり、雨が降り續きました。をりから南へ飛行中だつた燕は、食にうゑ、つめたい雨にずぶぬれになつて、もう、身動きもできなくなつてしまつたのです。そこで、その國の人々は、このつかれはてた鳥を拾ひ集めて、暖い家に入れてやり、食物を與へてやりました。さうして、つかれのなほるのを待つて、南の暖い國へ送つてやりました。何しろ十萬といふ數ですから、これを送るのはたいへんなことでした。九月の末から、十月の初めにかけて、汽車や飛行機で、何回にも送つたといふことです。
 昔から、燕は、同じ家に歸つて來るといはれてゐます。つまり、今年ある家の軒下で巣
(す)を作つた燕が、來年また、同じ巣へもどつて來るといふのです。近年になつて、いろいろな方法で、このことを調べてみますと、やはりさうであることがわかりました。ただ、あの小さなからだで、長い旅行を續けるせゐか、途中で死んで歸つて來ない燕も、かなり多いといふことです。
 日本からオーストラリヤまでは、一萬キロ以上もありますが、燕は、決して自分の國を忘れません。日本に春が來ると思へば、もう矢もたてもたまらず、北をさして進むのです。その小さな胸には、若葉のもえる日本の春の美しさを、思ひ浮かべてゐるでせう。悄垢反△颪弔韻蕕譴寝討例謀弔髻∋廚夘發べてゐるでせう。何よりも、あの家の軒下に作つた古巣が、なつかしいでせう。
 春になると、だれもが、このめづらしいお客の歸つて來るのを、待ちこがれてゐます。ちらりと燕の姿を見た人は、きつと
「今日、始めて燕を見たよ。」
といつて喜びます。わけても、自分の家へ、いそいそと歸つて來た燕を迎へる人の心は、どんなにうれしいことでせう。

 
     三 バナナ

 今日はバナナのお話をしませう。
 あの黄色な皮をむくと、中から白い、柔かな實の出て來るバナナは、きつとみなさんのすきな果物
(くだもの)にちがひありません。ところで、あのバナナが、どこでできるか、どういふ植物に生るか、みなさんはそれを知つてゐますか。
 私たちのたべる、あの美しいバナナは、臺灣
(たいわん)のゆたかな日光を受けて、育つた果物です。私たちが、「ばせう」といつてゐるものに、よく似た植物に生る果物です。
 かういふと、みなさんは、臺灣にさへ行けば、バナナの木がどこにでもあつて、黄色なのを、そのまま取つてたべるのだなと思ふかも知れませんが、それは大きなまちがひです。
 いくら臺灣でも、あの美しいバナナが、野生でできるのではありません。ちやうど、みなさんのたべる、おいしい梨
(なし)や水蜜桃(すゐみつたう)などが、畠でだいじに育てられた木に生るのと同じことです。梨畠や桃畠へはいつて、枝のままもぎ取つてたべたら、みなさんはきつとしかられるでせう。臺灣のバナナにしても、それと同じことなのです。
 臺灣では、よく山ぞひの土地に、バナナが植ゑてあります。ちよつと遠くから見ると、バナナの畠は、キャベツか、それとも、カンナでも作つた畠のやうな感じがします。それほど、あの大きな、ばせうに似た植物が、きちんと行儀よく、しかも、たくさん植ゑてあるのです。ところによると、何百メートルといふ高い山の斜面が、ほとんど全部、バナナ畠であることがあります。
 これほどたくさん植ゑてあるバナナが、一本一本だいじにされてゐます。まはりの草を取つたり、肥料をやつたり、そのほか、いろいろせわをしてやるのです。實が生ると、梨や桃と同じやうに、袋まで掛けてやるのです。
 バナナは、苗を植ゑてから早くて十箇月、あそくても一年二箇月たつと、數メートルの高さに成長して、花が咲きます。古い株を切つて出た芽は、それよりも早く成長して花が咲きます。
 まづ、葉と葉の間から、太い、長い一本の軸
(ぢく)が出ます。それが花の軸で、その先に、赤むらさき色の、大きな蓮(はす)のつぼみのやうなものがつきます。やがてそれが開くと、中に黄色な花が、矢車のやうに並んで咲きます。かうして、花が次から次へと、何段かに咲いて行つて、ふさのやうになります。
 花が咲いてから三四箇月たつうちに、このふさがだんだん大きくなつて、それにぎつしりと、みなさんのたべる、あのバナナが生るのです。
 バナナは、まだ悗いΔ舛房茲弔討ごにつめ、船に積んで遠方へ送ります。臺灣から、神戸
(かうべ)や、東京へ通ふ汽船といふ汽船は、いつもバナナを積んでゐます。
 悗ぅ丱淵覆蓮△爐蹐愼れて置くと、四五日のうちに、皮が黄色になり、おいしい味が出て來ます。
 太陽のゆたかな熱と光とを吸つて、すくすくと育つた臺灣のバナナは、かうしてみなさんのお目にかかります。北海道や樺太
(からふと)はいふまでもなく、北支那から、北滿洲の雪の夜の家々にも行つて、みんなを喜ばしてゐます。



     四   大連から

 みなさん、たびたびお手紙をありがたう。元氣で何よりです。私もずつと丈夫で、毎日樂しく暮してゐます。
 きのふは、明治節でした。講堂の壇
(だん)に、かざつてあつた菊の花を見て、ふと、みなさんのことを思ひ出しました。去年の今ごろ、學校園の菊の花を寫生しましたね。
 私の送つてあげた大連の繪はがきや、地圖が、骸爾膨イ弔討△襪気Δ任垢諭あの地圖を見てもわかるでせうが、町の名に、日露戰爭當時の將軍がたの名が取つてあります。大山通とか、乃木
(のぎ)町とか、東郷(とうがう)町とか、みなさうです。このほかまだありますから、さがしてごらんなさい。滿洲は、前から、日本と深いつながりがあつたわけです。
 こちらへ來てから、半年餘りになるので、この町にも、すつかりなれました。
 町には、いくつかの廣場がありますが、私は、繪はがきにある大廣場がすきです。圓形で、きれいな植込みのある廣場です。ここで、滿人の子どもや、ロシヤの子どもたちが、よく遊んでゐます。今はちやうど、菊の花がたくさん陳列
(ちんれつ)されてゐます。それから、アカシヤの並木の繪はがきもあつたでせう。あの下を何度も通りました。白いふさになつた花の咲くころは、よいにほひがして、そこを馬車に乘つて走るのは、樂しいものです。並木道をのぼつて行くと、忠靈塔(ちゆうれいたふ)が立つてゐます。高いところにそびえてゐるので、町からよく拜むことができます。
 大連の港は、ずゐぶん大きくて、毎日たくさんの船が出たり、はいつたりして、そのたびに、貨物が山のやうにおろされたり、積み込まれたりします。
 大連から、特別急行列車の「あじあ」が出ます。これで新京へは八時間半、ハルピンへは、十二時間半で行くことができます。また内地へは、毎日のやうに汽船が出ますので、それに乘ると、四日めには神戸
(かうべ)に着きます。旅客機で朝たてば、夕方には大阪に着きます。
 滿洲國には、いろいろな民族が集つてゐて、みんな樂しく働いてゐます。これらの人たちは、日本語を、一生けんめいにおぼえようとしてゐます。たとへ、これらの民族のことばがちがつてゐても、やがて日本語を通して、たがひにお話ができ、心持が合ふやうになりませう。このあひだ、支那町を見に行つた時、おもしろいかんばんが見つかりました。赤い布ぎれのふさをつるしたものですが、何のかんばんだらうと思つて、そばで遊んでゐた滿人の子どもにたづねますと、
「あれは、支那料理の店のかんばんです。」
と、日本語ではつきり海悗討れました。
 朝夕ひえびえとして、空がほんたうにきれいに澄むころになりました。夜は星が美しく、手を延せば、すぐつかめさうに近く見えます。
 かうりやんも大豆も、刈り取つてしまひました。「カウリヤンカッテヒロイナア、ドッチヲミテモヒロイナア。」と、一年の時に、みなさんが讀んだ歌のとほりだと、つくづく思ひました。
 この春、私がこちらへ來たころは、雁
(がん)も北へ行きましたが、今は、南へ南へと飛んでゐます。日本へ行くのです。「雁に手紙を頼みたい。」といふことを、昔からいひますが、ほんたうに、そんな氣持になることがあります。
 秋の遠足には、旅順へ行きました。旅順は、どこへ行つても靜かな美しい町で、ここであんなはげしい戰があつたとは、どうしても思はれません。しかし、にれい山へのぼつたり、表忠塔を仰いだり、廣瀬
(ひろせ)中佐で名高い旅順港口を眺めたりすると、心持がひとりでに、ひきしまつて來るやうに思ひました。旅順の繪はがきを別に送りましたから、みんなでごらんなさい。では、みなさん、おだいじに。さやうなら。
  十一月四日                    木 村 正 一
 四年生のみなさんへ
 

              五 觀艦式

  朝もやが召譴胴圓
  海──見わたすかぎり、
  くつきりと、堂々と、
  帝國の艦艇
(てい)、おお、その雄姿。

  第一列から 第五列まで、
  旗艦長門
(ながと)以下百數十隻(せき)
  さんさんと秋の日をあび、
  今日、おごそかに観艦式。

  皇禮砲二十一發、
  御召艦比叡
(ひえい)は進む、
  巡洋
(じゆんやう)艦高雄を先導に、
  加古・古鷹
(ふるたか)を うしろに從へて。

  マストに仰ぐ
  天皇旗、ああ、天皇旗。
  すべての艦艇は うやうやしく、
  登舷
(とうげん)禮、君が代のラッパ。

  大空の一角に、
  飛行機の爆音、
  たちまち數百機が、
  空をおほうて分列式、分列式。

  御召艦ははるばると、
  艦列をぬつて進む。
  惷ははてもなく澄み、
  秋風はさわやかに海をわたる。


              六 くりから谷

 木曾義仲
(きそよしなか)、都へ攻めのぼると聞きて、平家は、あわてて討手をさし向けたり。
 大將平維盛
(たひらのこれもり)は、十萬騎を引きつれ、越中(ゑつちゆう)の國、となみ山に陣を取る。義仲は、五萬騎を引きつれ、これも同じく、となみ山のふもとに陣を取る。
 兩軍たがひに押し寄せて、その間わづかに三町ばかりとなれり。
 夜に入りて、義仲、ひそかにみかたの兵を敵の後にまはらせ、前後より、どつとときの聲をあげさせたり。
 不意を討たれて、平家の軍は、上を下への大さわぎ。弓を取る者は矢を取らず、矢を取る者は弓を取らず。人の馬にはおのれ乘り、おのれの馬には人が乘り、後向きに乘るもあれば、一匹の馬に二人乘るもあり。暗さは暗し、道はなし。平家の軍は逃げ場を失ひて、後のくりから谷に、なだれを打つて落ち入りたり。
 親も落つればその子も落ち、弟も落つれば兄も落ち、馬の上には人、人の上には馬、重なり重なつて、さしもに深きくりから谷も、平家の人馬にてうづまれり。
 大將維盛は、命からがら加賀の國へ逃げのびたり。


              七 ひよどり越

 平家の軍勢十萬餘騎、一の谷に城をかまへて、源氏の大軍を防ぐ。後は山けはしく、前は海近くして、守り堅ければ、源氏も攻めあぐみて見えたり。
 大將源義經
(みなもとのよしつね)、思ふやう、「敵はけはしき山をたのみ、後のそなへを怠りてあらん。われ、敵の後を突かん。」とて、ひそかに三千餘騎を引きつれ、山を傳ひて、ひよどり越に出づ。見おろせば、いく百丈の谷は、あたかも屏風(びやうぶ)を立てたるがごとし。大將、試みに數匹の馬を追ひ落したるに、ころびて倒るるもあり、足ををりて死ぬるもあり。されど、三匹は無事にくだり、身ぶるひして立ちあがれり。
 大將、これを見て、「乘手が用心するならば、馬もけがはなかるべし。いざ、進め。義經を手本にせよ。」とて、眞先にかけくだれば、三千餘騎、馬を並べてかけくだる。小石まじりの砂なれば、流るるやうにすべること二町餘にして、やや平なるところに着きぬ。
 されど、これより下、十四五丈ばかりは、こけむしたる岩石、壁のごとくつき立ちたり。今は先へも進まれず、後へひかんやうもなし。皆々、顔を見合はせ、ただあきれゐたるに、佐原十郎義連
(さはらのじふらうよしつら)進み出で、「われらには、かかるところも平地に同じ。進めや。」とて、眞先にかけ進めば、三千餘騎も續いて進む。聲をしのばせ、馬をはげましつつ、なだれのごとくくだるさま、人わざとも思はれず。
 くだるやいなや、三千餘騎、一度にどつとときをあげて、平家の城に火を放つ。敵ははたして不意を討たれ、あわてふためきつつ船に乘りて、皆ちりぢりに逃げ行きたり。


     八 萬壽姫
(まんじゆのひめ)

 
源頼朝(みなもとのよりとも)が、鶴岡(つるがをか)の八幡宮(はちまんぐう)へ舞を奉納することになつて、舞姫を集めました。十二人のうち、十一人まではありましたが、あとの一人がありません。困つてゐるところへ、御殿に仕へてゐる萬壽姫がよからうと、申し出た者がありました。頼朝は一目見た上でと、萬壽を呼び出しましたが、顔も姿も、美しく上品に見えましたので、さつそく舞姫にきめました。萬壽は、當年やうやく十三、舞姫の中ではいちばん年若でした。
 奉納の當日は、頼朝を始め舞見物の人々が、何千人ともなく集りました。一番、二番、三番と、十二番の舞がめでたくすみましたが、そのうちで、特に人のほめたのは、五番めの舞でした。この時には、頼朝もおもしろくなつて、いつしよに舞ひました。その五番めの舞を舞つたのが、あの萬壽姫であつたのです。
 明くる日、頼朝は萬壽を呼び出して、
「さてさて、このたびの舞は、日本一のできであつた。お前の國はどこ、
 また親の名は何と申す。はうびは、望みにまかせて取らせるであらう。」
といひました。萬壽は恐る恐る、
「別に、望みはございませんが、唐糸
(からいと)の身代りに立ちたうござい
 ます。」
と申しました。これを聞くと、頼朝の顔色はさつと變りました。變るも道理、これには深い事情があつたのです。
 それより一年ばかり前のことです。木曾義仲
(きそよしなか)の家來、手塚太郎光盛(てづかのたらうみつもり)の娘が、頼朝に仕へてゐました。この娘は、頼朝が義仲を攻めようとするのをさとつて、そのことを、義仲のところへ知らせてやりました。すると、義仲からはすぐ返事があつて、「すきをねらつて、頼朝の命を取れ。」と、木曾の家に傳はつてゐた、大切な刀を送つてよこしました。
 光盛の娘は、そののち晝夜、頼朝をねらひましたが、少しもすきがありません。かへつて、はだ身はなさず持つてゐた刀を、見つけられてしまひました。その刀に見おぼえがあつた頼朝は、さあ、この女にはゆだんができないといふので、石のらうへ入れてしまひました。唐糸といふのは、この女のことでした。
 唐糸には、その時、十二になる娘がありました。それが萬壽姫で、木曾に住んでゐましたが、風のたよりにこのことを聞いて、うばをつれて、鎌倉
(かまくら)をさしてくだりました。二人は、野を過ぎ山を越え、なれない道を一月餘りも歩き續けて、やうやく鎌倉に着きました。
 まづ鶴岡の八幡宮へ參つて、母の命をお助けくださいと祈り、それから頼朝の御殿へあがつて、うばと二人でお仕へしたいと願ひ出ました。かげひなたなく働く上に、人の仕事まで引き受けるやうにしたので、萬壽、萬壽と、人々にかはいがられました。
 さて萬壽は、だれか母のうはさをする者はないかと、氣をつけてゐましたが、十日たつても、二十日たつても、母の名をいふ者はありません。ああ、母はもうこの世の人ではないのかと、力を落してゐました。
 ある日のこと、萬壽が御殿のうらへ出て、何の氣もなく、あたりを眺めてゐますと、小さな門がありました。そこへ召使の女が來て、
「あの門の中へ、はいつてはなりません。」
と申しました。わけをたづねますと、
「あの中には、石のらうがあつて、唐糸樣が押し込められてゐます。」
と答へました。これを聞いた萬壽のおどろきと喜びは、どんなであつたでせう。
 それからまもなくのことです。ある日、今日はお花見といふので、御殿は人ずくなでした。萬壽は、その夜ひそかに、うばをつれて、石のらうをたづねました。八幡樣のお引合はせか、門の戸は細めにあいてゐました。うばを門のわきに立たせておいて、姫は中へはいりました。月の光にすかして、あちらこちらさがしますと、松林の中に石のらうがありました。萬壽がかけ寄つて、らうのとびらに手を掛けますと、
「だれか。」
と、らうの中から申しました。
 萬壽は、格子
(かうし)の間から手を入れて、
「おなつかしや、母上樣。木曾の萬壽でございます。」
「なに、萬壽。木曾の萬壽か。」
 親子は手を取りあつて泣きました。やがて、うばも呼んで、三人は、その夜を涙のうちに明かしました。
 これからのち、萬壽は、うばと心を合はせ、をりをり石のらうをたづねては、母をなぐさめてゐました。さうして、そのあくる年の春、舞姫に出ることになつたのでした。
 親を思ふ孝行の心には、頼朝も感心して、石のらうから唐糸を出してやりました。二人がたがひに取りすがつて、うれし泣きに泣いた時には、頼朝を始め居あはせた者に、だれ一人、もらひ泣きをしない者はありませんでした。
頼朝は、唐糸を許した上に、萬壽には、たくさんのはうびを與へました。親子は、うばといつしよに、喜び勇んで木曾へ歸りました。


     九 林の中

  葉は落ちて  
  明かるきこずゑ、
  林の中の 小道を行けば、
  一足ごとに、
  かさこそと 鳴る落葉。

  たたずみて、
  しばし聞きいる
  林の奥の秋の靜けさ。
  鳴くはいづこ、
  ちち ちちと、鳥の聲。

  見あぐれば
  高きこずゑ、
  小枝小枝は かすかにふるふ、
  召譴燭覿に、
  細きこと 針のごとく。



     十 グライダー「日本號」

      一
「今日から、グライダーを作る。」と、先生がいはれたので、みんなは聲を出して喜んだ。道具は、小刀・はさみ・ものさし・分度器などである。
 最初に、先生から、できあがりのグライダーを見せていただいた。
 白い紙をはつた、いかにも飛びさうなかつかうをしてゐる。
「これで、百メートルの高さから飛ばすと、二キロは行くはずです。」
といはれたのには、おどろいた。私たちも、あんなのを作るのかと思つたら、なほうれしくなつた。
 それから、グライダーの部分部分の名を、海悗討い燭世い拭F国鵝△修寮菽爾砲箸蠅弔韻詆〔據△い舛个鸞腓な主翼、それから水平尾翼・垂直尾翼などである。
 見たところ、そんなにむづかしいとは思はれないが、先生のお話では、少しでもくるひがあると、決してうまく飛ばないさうだ。どこまでも、正確に作りあげるといふ注意が、大切だといはれた。
「動かないものを作るなら、少しくらゐ寸法がまちがつても、できないこと
 はありません。しかし、このグライダーのやうに、空中を飛ぶものになる
 と、さうはいきません。いいかげんにやつたのでは、決して飛びません。」
と、先生がいはれた。
 きちんと作るためには、設計圖がいる。それで、私たちは、第一に設計圖をかくことになつた。これはたいへんむづかしいので、先生が、小さな穴で、しるしをつけてくださつた紙に、かくことにした。穴と穴とを結びつけて、線を引いて行くと、いつのまにか、りつぱな設計圖ができる。線を引きながらも、私の心に浮かぶものは、悗ざに飛んでゐる眞白なグライダーであつた。
      二 
 機體の材料をいただいて、いよいよ製作にとりかかつた。みんなは、一生けんめいだ。話などをしてゐるものは一人もゐない。私は、胴體に鼻木をしつかりと結びつけた。結ぶ糸の數にも、ちやんときまりがある。これは重さに關係があるからだ。
 次に翼を作るために、ひごをまるく曲げなければならないが、これはなかなかむづかしい。ただ曲げただけでは曲らない、それで、紙でひごを、ごしごしとしごきながら、熱くして曲げる。曲げては設計圖に當てて見て、形を整へる。曲げ過ぎて、ひごを折つてしまつた者もゐたやうだ。
 私は、ちやうどきちんとできたので、それを胴體にとりつけた。主翼も尾翼も、しつかりと結びつけた。
「やつと骨組ができた。」
と、思はずそれを持ちあげて、自分ながら見とれてゐると、先生が來られて、重心のところを指にのせて、
「これはいい。よく飛びさうです。」
といはれた。
      三
 最後の仕事は、この翼に、紙をはることである。もし、しわでもできると、風の受け方がうまく行かないので、水平に飛ばない。できるだけおちついて、氣をつけながら、少しづつはつて行つた。
 その時、もうだれかが、
「さ、飛ばさうかな。」
といふと、
「早いなあ。」
といふ者もゐた。すると、先生は、
「あわてないで、よく調べてごらん。」
といはれた。それで、またみんなは靜かになつた。
 やつと、ぴんとはりあげた。少しぬれてゐるけれども、できあがつたのだ。私は、そつと翼をなでてみた。何ともいへない、かはいい氣持がして來る。
「では、晝休みに、みんなで飛ばしてみることにします。」
と、先生がいはれた。
 私たちは、めいめいのグライダーを机の上に置いて、おべんたうをたべた。
      四
 運動場に出ると、北の風が少し吹いてゐた。ほんたうによいグライダー日よりだ。みんなは、さかんに飛ばした。
 私も飛ばしてみた。
 飛ぶ、飛ぶ。二十メートルも一氣に飛んで行つた。私は自分で拍手
(はくしゆ)をした。走つて行つてグライダーを拾ひあげると、なほかはいくなつた。
 先生が、運動場の向かふのがけの上で、
「集れ。」
といはれたので、私たちは、みんなそちらへ走つて行つた。
「さあ、ここからいつしよに飛ばしませう。一列にお並びなさい。用意、ど
  んで、飛ばすのですよ。」
 私たちは、兩手にグライダーを持ちあげた。
「用意──どん。」
 白い花びらを、まき散らしたやうであつた。その中を、私のグライダーは、眞直に飛んで行く。ちう返りをして落ちるもの、まつさかさまに落ちるもの、横へすべつて行くもの、見るまに、飛んでゐる數は少くなつて、たつた二機になつた。みんなが、「わあつ。」といつて、應援
(おうゑん)をする。
 二機が並んで行くのを見てゐると、胸がわくわくした。一機が風にあふられて、上へ向かつたかと思ふと、横へ傾いて落ちてしまつた。
 私のがまだ飛んで行く。涙が出て來た。まもなく、靜かに下へおりて行つて、地に着いた。
 みんなが、「萬歳!」と大きな聲で叫んだ。
 私は、このグライダーに、「日本號」といふ名をつけることにした。


     十一 大演習

      一
 ぱかぱかぱかと、馬のひづめの音がして來たと思ふと、騎兵の一隊が、勇ましく私たちの前を通り過ぎました。
 軍隊が、今夜この町を通るので、私は、おかあさんにつれられて、夕方から、湯茶接待所へ手傳ひに來たのでした。
 やがて、また、ごうごうとすさまじい音をたてて、たくさんの戰車が來ました。ものすごい地響きにおどろいて、町の人々は、皆とび出して來ました。續いて、歩兵が近づいて來ました。
 ちやうど接待所の前で、隊長が、「二十分間きうけい。」と號令を掛けました。兵隊さんは、やれうれしやとばかり、私たちの前へ押しかけて來ました。
「ごくらうさま。おつかれでせう。」
といたはりながら、在郷軍人や、婦人會や、女子愬團の人々が並んで、麥湯をついであげてゐます。ほこりと汗で、眞遒砲覆弔進実發気鵑、「この水筒
(すゐとう)にも入れてください。」「これにも。」「これにも。」と出されるので、私たちは、いそがしくて目がまはるやうです。
 かうして、あとからあとから來る兵隊さんを迎へて、とうとう、夜の十一時ごろまで働きました。
      二
 夜の明けないうちから、北の方で、銃聲が聞えました。私たち女子の組も、先生につれられて、大演習の拜觀に出かけました。
 飛行機が勇ましい音をたてて、飛んで來ました。ときどき、あたりをふるはすやうな、大砲の音がします。そのたびに、早く飛んで行つて、見たいやうな氣がしました。
 けさは、寒い北風が吹きまくり、たんぼの水たまりには、うすい氷さへ張つてゐます。拜觀に來た人々は、皆外たうのえりに、首をうづめてゐました。中には、たき火にあたつてゐる人もありました。
 野外統監
(とうかん)部を遠く望むところで、私たちは拜觀してゐましたが、どこで大砲を撃つてゐるのか、わかりません。ただ歩兵が、木の小枝や、わらをからだにつけて、土手のかげをかけて行くのを見ました。騎兵が、土をけつて走るのを見ました。戰のやうすは、一向わかりませんでした。
 やがて、野外統監部へ、天皇旗をお進めになつて、御統監の大元帥陛下がお出ましになりました。最敬禮をしてから仰ぎ見ますと、風當りの強い高地であるのに、陛下は外たうをも召されず、熱心に戰況をごらんになつていらつしやいます。それを拜した時、私たちは、何ともいへない感じがして、目が涙でいつぱいになりました。
 拜觀の人々も、今は外たうを着てゐる者は、一人もありませんでした。たき火も、いつのまにか消えてゐました。
      三
 今日は、兵隊さんが、私の家にもとまるといふので、急いで學校から歸つて來ました。すると、もう兵隊さんは來てゐて、兵器の手入れをすまし、靴下を洗つたり、靴をみがいたりしてゐました。
 お湯からあがつて、「生き返つたやうだ。」といつてゐる兵隊さん、そのそばで、銃や劒を見せてもらつて大喜びの弟、夕飯の支度にいそがしいおかあさん。私も、兵隊さんの靴下を火にあぶつて、かわかしてあげました。
 夕食後、兵隊さんから、新しい兵器について、おもしろいお話を聞きました。おとうさんも感心して、
「自分の行つてゐたころとは、すつかり變つた。進んだものだ。」
といひました。
 明くる朝は早く起きて、出發の支度をしてあげました。おばあさんは、つかれないやうにと、燒いたするめや氷砂糖を、紙に包んであげました。
 まだ明けきらない空に、またたく星を仰ぎながら、おとうさんについて、私も町角まで見送りました。皆が、「萬歳、萬歳。」と、ちやうちんをあげるのに答へて、兵隊さんたちも、「萬歳、萬歳。」と叫びながら行きました。
 私たちは、その勇ましい姿を、いつまでも見送つてゐました。



     十二 小さな傳令使

 昭和六年十二月三十一日の夕暮に、大石橋守備隊の鳩舎
(きうしや)へ、血に染まつた一羽の鳩(はと)が、飛んで來た。取扱兵が、すぐだきあげて足の番號を見ると、四日前に、錦州(きんしう)へ向けて出發したわが軍が、つれて行つた鳩であつた。信書管は血にまみれ、身には重い傷を負つて、息もたえだえであつた。
 錦州へ向かつたわが軍は、三十日、とつぜん敵の大軍に出あつて、はげしく戰つた。早くこのことを、大石橋守備隊へ知らせようとしたが、電信も電話も、敵のためにこはされたので、通信は、ただ鳩にたよるほかはなかつた。
 通信紙をつめたアルミニュームの管を、鳩の右の足にとりつけた兵は、しばらく鳩のからだにほほをすりつけて、途中の無事を祈つた。小さな傳令使は、胸をふるはせながら、かはいい目で空を見あげてゐた。
 戰の眞最中に、鳩は空高く舞ひあがつた。二三回、上空に輪をゑがいて飛んでゐたが、すぐ方向を見定めて、矢のやうに飛んで行つた。
 寒い夕空をものともせず、南東をさして高く飛んでゐた鳩は、ふと、たかの一群を見たので、すばやく低空に移つた。すると、今度は敵軍に見つけられて、一せい射撃を受けた。
 一彈は、鳩の左の足をうばひ、一彈は、その腹部をつらぬいた。
 この重い傷にも屈しないで、鳩はなほしばらく飛び續けてゐたが、とうとうたまりかねて、とある木の枝に止つた。
 ちやうどその時、附近にゐたわが兵士が、これを見つけた。つかまへようとして手をさしのべると、鳩は、また翼をひろげて飛びあがつた。飛び去つたあとの木の枝には、かはいさうにも、赤い血がついてゐた。
 弱りきつたこの小さな傳令使は、その夜、どこで休んだことであらう。明くる日になつて、やつと、大石橋の自分の鳩舎にたどり着いたのである。
 大石橋守備隊では、さつそく信書管をとりはづして、手あつくかんごしたが、任務を果して氣がゆるんだのか、鳩は、取扱兵の手にだかれたまま、つめたくなつてしまつた。


     十三 川土手

  春來たときは
  川土手に、
  すみれの花が
  咲いてゐた。
   ゆらり ゆらゆら、春の水、
   白い帆かげがうつつてた。

  夏來たときは
  土手の草、
  ぼくのせいより
  高かつた。
   ちらと のぞいた大川に、
   モーターボートが走つてた。

  秋來たときは
  すすき原、
  赤いとんぼが
  飛んでゐた。
   さやさやさやと 鳴る風に、
   水は底まで澄んでゐた。

  今は枯草、
  川土手を、
  寒い北風
  吹きまくり、
   ひたひたひたと、川の波、
   あし間の舟に寄つて來る。


     十四 扇
(あふぎ)の的

 屋島の合戰に、源氏は陸に陣を取り、平家は海に船を浮かべて、相對せり。折しも、美しくかざりたる船一さう、平家の方よりこぎ出す。見れば、へさきに長き竿を立て、赤き扇をとりつけ、一人の官女、その下に立ちて、陸に向かひてさしまねく。
 源氏の大將義經
(よしつね)、これを見て、
「かの扇を、射落す者はなきか。」
 家來の者進み出で、
「那須餘一
(なすのよいち)と申す者あり。空飛ぶ鳥も、三羽に二羽は、かな
 らず射落すほどの上手なり。」
と答へたれば、「それ呼べ。」とて、餘一を召し出す。
 餘一は、いくたびかことわりたれども、許されず。心のうちに思ふやう、萬一射そんずるならば、弓切り折りて自害せんとて、馬にまたがり、海中に乘り入れたり。
 時に風強く、波高ければ、船はゆりあげられ、ゆりさげられ、扇は風にひらめきて、いかなる弓の名人も、ただ一矢にて射落すことは、むつかしと見えたり。
 餘一、目を閉ぢ、「あの扇の眞中を、射させたまへ。」と、しばし神に祈りて見開けば、風やや靜まり、扇も少しくおちつきて、射よげに見えたり。ただちに弓に矢をつがへ、ねらひを定めてひようと放つ。
 扇は、かなめぎはを射切られて、空高く舞ひあがり、二度三度、ひらひらとまはりて、さつと海中に落ち入りたり。
 陸には大將義經を始め、源氏の軍勢、馬のくらをたたきて喜びたり。海には平家、ふなばたをたたきて、どつとほめあげたり。


     十五 弓流し

  義經
(よしつね)、馬を海中に乘り入れて、はげしく戰ふ折から、いかなるはずみにか、わきにはさみ持ちたる弓を、海中にとり落したり。
 義經は、馬上にうつぶし、むちの先にて、流れ行く弓を、かき寄せ取らんとすれば、敵は、船中より熊手
(くまで)をもつて、義經のかぶとに、打ち掛け打ち掛け、引き倒さんとす。
 源氏の者ども、
「その弓、捨てたまへ、捨てたまへ。」
と口々にいふ。
 されども義經は、太刀にて熊手を防ぎ防ぎ、つひに弓を拾ひあげて、陸にのぼる。
「たとへ、金銀にて作りたる弓なりとも、御命には代へがたし。」
と申せば、義經笑ひて、
「弓を惜しみたるにはあらず。をぢ爲朝
(ためとも)の弓のやうならば、わざと
 落しても與ふべし。弱き弓を取られて、これが義經の弓なりと、あざけら
 るるは、源氏一門の恥ならずや。」
といふ。
 源氏の者ども、これを聞きて、「まことの大將かな。」と、皆感じあへり。


     十六 山のスキー場

  ぼくたち四十人は、野田先生と石井先生につれられて、山のスキー場へ行つた。
 前の日に、こな雪がたくさん降つたので、スキーをするには、ちやうどよかつた。
 集合地は、村はづれの一本杉のそばであつた。ぼくたちは、ルックサックを背負つて、スキーをつけ、二本の杖をつきながら、そこへ集つた。
「みんなそろつたね。さあ、出かけよう。」
と、野田先生が先頭に立たれ、石井先生が、みんなのあとから來られた。
 初めは二列で進んだが、谷あひでは一列になつたので、ずゐぶん列が長かつた。だんだんのぼり坂になると、からだがほてつて汗が出る。みんなだまつて、あへぎながらのぼつて行つた。スキーの雪をすべる音だけが、氣持よく聞える。急な坂にかかると、前の方で、野田先生が、
「さあ、元氣を出して。」
と大きな聲を掛けられる。石井先生も、ずつと後の方から、
「しつかりのぼれ。」
と叫ばれた。この聲にはげまされて、ぼくたちは、一生けんめいにのぼつて行つた。
 松林の中を通つて行く時、だれかが、
「やあ、兎、兎。」
と大聲に叫んだ。見ると、大きな兎が、ちやうど小松の中へ、とび込んだところであつた。
「あれがスキー場だ。もう一息。」
と、野田先生が杖でさされる方を見ると、なるほどりつぱなスキー場で、ジャンプ臺も見える。みんなは喜んで、急に元氣を出した。
 いよいよ、スキー場に着いた。いかにもすべりよささうな傾斜が、長く續いてゐる。
「先生、まだすべつてはいけませんか。」
「先生、もうすべらしてください。」
と、みんながいふと、
「待て待て。もう少し上まで行かう。」
と、石井先生が、後の方から、追ひたてるやうびいはれた。
 百五十メートルほどのぼつた時、ぼくが、
「先生、もういいでせう。」
といつた。すると、野田先生が、
「ようし、ここからすべりたい者は、すべつてよろしい。」
といはれた。
 ぼくたち三四人は、列を離れて眞一文字にすべりおりた。すばらしい早さに、からだもスキーも一つになつて、びゆうとうなる。まるで、空中滑走
(くわつそう)をしてゐるやうだ。ふもとへ來て急停止すると、ぱつと雪煙が立ち、汗ばんだ顔に、雪のこなが降りかかる。
 やがて、十人、二十人、次々にすべり始めた。思ひ思ひに、スキーのあとを雪の上にゑがきながら、小鳥のやうにおりて來る。途中でころんで、雪だるまになつて起きあがる者もある。にこにこ笑ひながらおりて來る者、まじめな顔でやつて來る者もある。みんなが急停止をすると、雪煙が一度にあがつた。
 先生は二人とも、まだ上へ上へとのぼつて行かれたが、二百五十メートルものぼつたところで、杖をあげて、「さあ、おりるよ。」といふ合圖をされた。ぼくたちも、みんな杖を振つて、それに答へた。
 野田先生が先に、すぐ續いて石井先生がすべられる。そのみごとなすべりぶりに見とれてゐると、先生たちは、もう目の前へ來られた。はげしい制動を掛けられると、もうもうと雪煙が立つ。雪煙が消えて、先生の笑顔が浮かんだ。
 それからぼくたちは、のぼつて行つてはすべり、おりてはまたのぼつた。
 ジャンプ臺では、上手な人たちが、かはるがはるジャンプをしてゐる。
「おうい、先生も、ジャンプをなさるさうだ。」
と、だれかが叫んだ。みんなそこへ行くと、今、石井先生がすべられるところである。たちまち先生のからだは、ちうに浮かんだ。兩手をひろげて高くとばれる姿は、なんといふ勇ましさであらう。みんなは、思はず手をたたいた。
 今度は、野田先生がとばれる番である。先生は鉢巻をして、すべり出された。すばらしい早さだ。
「えいつ。」
掛聲といつしよに、先生のからだは、美しくちうをとんで行く。
「萬歳。」と、だれかが叫んだ。
「野田先生。」と、だれかが叫んだ。
 四十メートルも空中をとんで、先生は、地上の人となられた。
 お晝になつたので、雪の上で、樂しいおべんたうをたべた。午後は、先生について、一人一人、正しいすべり方を海悗討い燭世い拭
 歸りは、村までくだり坂の道だ。林をぬつて長距離をすべるのは、ほんたうに愉快であつた。
 

     十七 廣瀬
(ひろせ)中佐

   とどろくつつ音、
   飛び來る彈丸。
   荒波あらふ
   デッキの上に、
    やみを貫ぬく 中佐の叫び、
   「杉野はいづこ、杉野はゐずや。」

   船内くまなく
   たづぬる三たび、
   呼べど答へず、
   さがせど見えず。 
    船はしだいに 波間に沈み、
    敵彈いよいよ あたりにしげし。

   今はとボートに
   移れる中佐、
   飛び來る彈に
   たちまち失せて、
    旅順港外 うらみぞ深き、
    軍神廣瀬と その名殘れど。
  

     十八 大阪

 汽車で大阪驛に近づくと、召譴親でも、空がどんよりとくもつたやうに見えます。それもそのはず、大阪は、煙の都とさへいはれ、大小一萬以上の工場がここにあつて、林のやうに立ち並ぶ煙突から、絶えず遒け譴鯏任出してゐるのです。大阪は、實に日本第一の工業都市で、各種の工業がさかんに行はれます。
 大阪は、また、昔から商業のさかんなところです。市を貫ぬいて流れる淀
(よど)川は、いく筋にも分れて、西の大阪灣に注いでゐます。その川水は、市内の何千といふ堀から堀へ通じ、川と堀とは、まるで網の目のやうに、組み合つてゐます。それで、大阪は、水の都ともいはれてゐるのです。大阪の港に集つて來る船の積荷は、小船で、この川や堀を傳はつて、大阪の町々にあげられます。また、大阪の物産も、堀や川を通つて港へ送られます。かうして、多くの品物が、自由自在に集つたり、散らばつたりするので、しぜん大阪が、一大商業都市として發達したのです。
 水の都ですから、大阪には、大小何百といふ橋があります。大阪驛から南へ御堂筋といふ大通を進むと、やがて大江
(おほえ)橋を渡つて、中之島(なかのしま)といふところへ來ます。それは、淀川の中にある細長い島ですが、この島に向かつて、北から南からかけ渡された橋ばかりでも、二十もあつて、まるで中之島を、たくさんの串(くし)でさし通したやうになつてゐます。
 中之島や、その附近には、高い建物が並び、島の東の端には、中之島公園があります。公園は、さう廣くはありませんが、大川をめぐらした眺めは、いかにも大阪らしいけしきです。
 いちばんにぎやかな場所は、市の中央の、道頓
(だうとん)堀附近の町々です。心齋(しんさい)橋筋には、りつぱな商店が並び、堀ばたの町には、映畫館や劇場があつて、人の波が、あとからあとから押し寄せます。
 名所としては、まづ大阪城があります。豐臣秀吉
(とよとみひでよし)の建てた城で、近年復興された天守閣(てんしゆかく)にのぼると、大阪が一目に見えます。石垣の大きいのは有名ですが、中でも縱六メートル、横十一メートルといふすばらしく大きな石には、だれでもびつくりさせられます。
 城を出ると、堀ばたの廣場に、外蘚磴そびえて、白い姿を、くつきりと大空に現してゐます。
 仁
(にんとく)天皇をおまつりしてある高津宮(かうづのみや)や、その近くにある生國(いくだま)神社、ずつと南にある住吉(すみよし)神社、また、日本最初の寺といはれる四天王寺など、みんな古いいはれのある神社やお寺です。ことに住吉神社は、境内(けいだい)が廣く、社殿がおごそかに拜まれます。四天王寺に近い天王寺公園には、美術館や動物園があり、また、木立や、池や、運動場や、廣い花壇(くわだん)などがあります。
 大阪港は、防波堤が遠く續き、港内の岸壁には、一萬トン級の汽船が横づけになります。大小の船の帆柱が、林のやうに見えます。
 市内には、自動車が走り、電車が走り、地下鐵道も通じてゐますが、川や堀に、何千といふ船が通つてゐるのは、大阪でなくては見られないけしきです。郊外
(かうぐわい)電車の發達してゐることも、飛行場のあることも、大阪のほこりの一つになつてゐます。
 昔、仁天皇は、この地に都をお定めになつて、堀江をお開きになり、また、六年間の税を免じて、民のかまどの煙の立つやうになつたのを、たいそうお喜びになりました。大阪が、水の都として發達し、また、煙の都と呼ばれて、今日のやうな大都會となつたのは、まことに、尊いいはれがあるといはなければなりません。


     十九 大砲のできるまで

 飛行機を撃ち落す高射砲、戰車の厚い鋼鐵の板を射拔く對戰車砲、馬や牽引
(けんいん)車で引いて行く野砲や、重砲──かうしたいろいろな大砲は、どういふふうにして、こしらへられるでせう。みなさん、考へてみたことがありますか。
 大砲を作る工場へ行つてみると、大きな電氣仕掛の釜の中で、白熱された鐵が、どろどろにとけてゐます。その鐵を、大砲の形とは似ても似つかない、いがたへ流し込みます。
 いがたから取り出された、大きな鐵のかたまりは、もう一度眞赤に燒かれます。それを大きな鐵の槌
(つち)が、ごとん、ごとんと地響きをたてながら、臼(うす)のやうにつぶしたり、棒のやうに延したりして、十分にきたへます。まるで、つきたての餅を、手でまるくしたり、長くしたりするのと同じやうに、大きな機械が、思ふままに、鐵のかたまりを手玉に取つてゐるのです。
 かうして、きたへにきたへるのですが、それだけではまだ足りません。長い柱のやうに延されたこの鐵が、今度は起重機につられながら、せいの高い大きな爐
(ろ)へ入れられて、高い温度で熱せられます。鐵の柱は、熱い爐の中で、じつとがまんをしてゐるのです。
 やがて、爐のとびらがあいて、中から、眞赤に燒かれた鐵の火柱が、起重機でつられたまま、そろそろと外へ出て來ます。おやと思つてゐる間に、動いてゐた鐵の火柱が、靜かに止ります。止つたとたん、するすると下の方へおりて來て、深さが十メートルもあるやうな、深い油の桶
(をけ)の中へ、眞赤なからだを沈めにかかります。遏垢噺つてゐた油の表面からは、一時に、ぱつとほのほがもえあがり、眞赤な鐵の柱は、そのほのほの中を、下へ下へと沈んで行きます。
 このやうに、打つたり、熱したり、冷したりして、鐵の質を固くし、強くします。さうしなければ、あの力の強い火藥を一時に爆發させて、大きな砲彈を撃ち出すやうな、がんじような大砲にはならないのです。それは、ちやうどみなさんが、暑さや寒さにうち勝つて、からだや心をきたへて行くのと、同じことなのです。
 かうしてきたへられた鐵の柱は、今度は機械に掛けられて、外側をまるくけづられて行きます。遒て、ざらざらしてゐる表面が、しだいにはぎ取られて行くと、始めて、あの鋼鐵の白い光が、かがやき始めます。その機械のそばには、高等科を卒業して二三年ぐらゐの、若い職工さんもゐて、油をさしたり、けづられて行く砲身のまるみを計つたり、こまかな注意をしながら、熱心に働いてゐます。
 外側がきれいにけづられて、砲身の長さと、まるみとが、きちんとそろつて來ると、次には、砲彈を撃ち出す通路が、切り拔かれるのです。
 まるい鋼鐵の棒の先についてゐる、するどい刃物が、ぐるぐるまはりながらやつて來る砲身の中へ、ぐいぐいとくひ入つて行きます。一センチ、二センチと、固い砲身に穴があけられて行きます。ほんの少しでも、あけ方がくるふと、大砲の役目を果すことができないので、職工さんは、張りつめた氣持で、機械が運轉するのを、じつと見つめてゐます。
 かうした仕事がもう一度くり返されると、砲身の中には、きらきらと鏡のやうにかがやいた、砲彈の通る路ができあがります。
 このやうに、いろいろな仕事を重ねて、やつと一本の砲身ができあがるのです。
 しかし、砲身ができただけでは、まだ、大砲がすつかりできあがつたとはいへません。この砲身をのせる、鋼鐵で作つた臺もいります。砲彈を込めて撃ち出す時、砲身の根もとを固くふさぐものも必要です。それらも、やはり同じ工場で、受持受持によつて作られます。作られたものは、最後に、職工さんたちの力強い手で、だんだん組み立てられて行きます。
 しあげを終ると、高射砲は、まるい鐵の臺の上で、砲身を空へ向け、今にも飛行機を撃ち落しさうなかつかうになります。ゴムの車輪の上にとりつけられた、小がたの對戰車砲は、どんなに早く走る戰車でも、どんどん撃ちまくるやうな身がまへになります。野砲も、重砲も、ずらりと大きなからだを横たへて、さあ、いつでもお役にたつぞと、どつかり身がまへるやうになります。
 かうして、いろいろな大砲が、どしどし作られて、日本の國をしつかり守つてくれるのです。


     二十 振子時計

 イタリヤのピサの町に、夕もやがこめて、日が靜かに落ちて行くころでした。
 ガリレオといふ學生が、この町の有名な大寺院へ、お參りをしました。寺院の中は、もう、うす暗くなつてゐました。ちやうど今、番人が、ランプに火をつけたばかりのところでした。
 天井からつるしてある、この大きなランプが、ふと、ガリレオの心をとらへました。
「おや。」
と思ひながら、そこに立ち止つて、じつと見つめました。
 つるしたランプは、靜かに左右へ動いてゐます。それは、つい今しがた、番人が火をつけるために、手でさはつたからです。ガリレオがふしぎに思つたのは、そのランプの動き方でした。左から右へ、右から左へ、行つたり來たりするのに、その一回一回の時間が、どうやら同じであるやうに思はれてなりません。
「何かで、驗してみる方法はなからうか。」
 しばらく考へてゐたガリレオは、やがて、自分の脈を取つてみました。
 やつぱりさうでした。ランプが一回動くのに、脈が二つ打つと、次の動きにも、脈は二つ打ちます。おどろいたことには、ランプの動きがしだいに小さくなつて、のちにはかすかにゆれるだけですが、それでも一回の動きに、やはり脈は二つ打つといふぐあひでした。
 ガリレオは、急いでうちへ歸りました。さうして、糸でおもりをつるして、同じやうなことを、何べんとなくやつてみました。
 おもりを糸でつるして、それを動かすと、おもりは左右へ振ります。その糸を短くすれば、振り方が早く、長くすれば、振り方がおそくなります。しかし、糸の長さを、一メートルなら一メートルにきめておくと、おもりそのものは重くても輕くても、また、大きく動かしても小さく動かしても、振る時間は同じです。
 十八歳の學生ガリレオは、このことを發見したのでした。それは、今から三百六十年ばかり昔のことです。
 この發見があつてから、七十年餘り過ぎて、オランダのホイヘンスといふ人が、今までにない正確な時計を發明しました。それは、まつたくガリレオの、この發見を應用したものです。つまり、時計の機械に、振子を仕組んだもので、これが振子時計の始りです。


     二十一 水族館

 にいさんといつしよに、水族館へ行きました。入口のそばに池があつて、そこに、甲の長さが一メートルもある「うみがめ」が泳いでゐるのには、ちよつとびつくりしました。
 中へはいつて、まづ目についたのは、室の窓ぎはに、いくつか並んでゐるガラスの箱でした。きれいな海の水が、こまかいあわをたてながら、どの箱にも注いでゐます。さうして、赤や、黄や、みどりの、何ともいへないほど美しいものが、その中にはいつてゐました。ぼくは思はず、
「きれいだなあ。何の花ですか、にいさん。」
といひますと、
「ほんたうにきれいだね。でも、花ぢやない。みんな海にゐる動物だよ。」
と、にいさんがいひました。
 すきとほるやうなみどり色で、菊の花のやうに美しい形をしたのは、「いそぎんちやく」でありました。
 ひのきの葉のやうな形で、黄色やえび茶色をしてゐるのは、「いそばな」でありました。
 小さなきんせんくわが、むらがつて咲いてゐるやうなのは、「いぼやぎ」でありました。
「くらげ」もゐました。すきとほつた寒天のやうなからだから、腕が何本も出てゐます。ときどき、からだをしぼるやうにして、すいすいと浮きあがります。
「ああしてからだをしぼると、中の水が勢よく下へ出る。その反動で、くら
  げは運動するのだ。」
と、にいさんがいひました。
 この室の中央に、直徑五メートルぐらゐの、まるい池があつて、中に、たくさんの「いわし」が泳いでゐました。二千匹はゐるだらうと、にいさんがいひました。このたくさんの「いわし」が、池のふちにそつて、みんな同じ方向へ泳いで行きます。一匹として、反對の方向へ進むものはありません。
「みんな、同じ方へ向かつて泳いでゐますね。」
「さうだ。さうして、よくごらん。外側をまはつてゐるものも、内側をまは
  つてゐるものも、そろつて同時に進んでゐるだらう。つまり、外側のもの
 は、大急ぎで進んでゐる、内側のものは、ゆつくり動いてゐる。それで、
 ちやうど内側も外側も、そろつて進めるのだ。」
 次の室には、ガラスを張つた、大きな窓のやうなものが、順々に並んでゐて、そのガラス越しに、いろいろの魚のゐるのが見られました。「鯛」もゐました。「あぢ」もゐました。「かれひ」「たこ」、そのほか名前を始めて聞く魚が、たくさんゐました。
「鯛」は、なんといつても堂々としてゐます。五六十センチもあるのが、いういうと泳いで、ほかの魚などには、目もくれないといつたふうです。光線のぐあひで、せなかのあたりが、點々と空色に光るのが、ほんたうにきれいだと思ひました。
「あぢ」は、水の中にゐると、なかなか氣のきいた魚です。胸びれをすつと左右に張り、背びれ・しりびれを上下に張つて進むかつかうは、さかな屋の店先で見るのとは、まるでちがつた感じです。輕快な戰鬪
(せんとう)機といつたやうすです。
 それと似て、少し變つたのが「はうぼう」です。高いところから低いところへおりる時、その胸びれは扇
(あふぎ)のやうにひろがります。ちやうど、グライダーが空中をすべるやうに、手ぎはよく水を切つて、おりて來ます。下へおりると、胸のところに足のやうなものがあつて、のこのこ歩くのにはおどろきました。
「かれひ」は、平たいからだをくねらせて泳ぎます。ほかの魚は、腹を下にし、背を上にして泳ぎますが、「かれひ」は、いつでもからだを横にしたまま、くねつて行きます。おもしろいのは、「かれひ」が、砂の中にもぐつてゐるやうすです。その平たいからだに、ちよつと砂をかぶると、上から見ても、どこにゐるのか見當がつきません。よくよく見ると、二つの目だけを砂の間から出して、きよろりきよろりと目だまを動かしながら、外を眺めてゐます。
「たこ」は、變つた活動をします。岩や砂の上を歩く時は、八本の長い足を上手にくねらせ、頭を横に傾けて進みます。にいさんの説明によると、「たこ」といふものは妙なもので、あの頭といつてゐる部分が實は胴で、頭は足のつけ根のところにあるのださうです。
「だから、歩く時、ああいふふうに頭が傾いて、へんなかつかうに見えるが、
 あれは胴なのだから仕方がない。」
 そのうちに、「たこ」が泳ぎ始めました。八本の足を一つにそろへ、胴を先頭に、まるで矢のやうに進みます。これが、「いか」だともつとすばらしいさうです。
「たかあしがに」といふ、大きなかにがゐました。左右の足をいつぱいに延したら、三メートルぐらゐはあるでせう。足の長い割合に、甲は小さいのですが、おもしろいのは、その口のところです。そこには、いろいろこみ入つた道具がついてゐますが、その上のところに、小さな觸角
(しよくかく)があつて、それが、ちやうど人形のかはいらしい兩手を思はせます。しかも、その手は、ピヤノでもひくやうに、絶えず動いてゐます。
「かには、ピヤノの先生ですね。」
と、ぼくがいふと、にいさんは、
「それよりも、タイピストさ。」
と、いつたので、二人とも思はずふきだしてしまひました。



     二十二 母の日

 朝、目がさめたののは、五時過ぎであつた。ねえさんも起きるところであつた。ねえさんが、
「そうつと、靜かにお仕事をしませうね。一郎さんは、もう少したつて
 から起しませう。」
といつたので、私は、音のしないやうに起きて、着物を着かへた。こんなに早く起きることはめつたにないので、部屋の中が、いつもとは違つてゐるやうに思はれた。
 ねえさんは、すぐに御飯をたき始めた。私は、飯臺を出してふいたり、みんなのお茶わんや、おはしや、おわんを並べたりした。それから一郎さんを起しに行くと、
「ねむいな。」
と大きな聲を出した。
「一郎さん、ゆうべのお約束よ。さ、靜かに起きませうね。」
といふと、
「ああ、さうだつた。」
といひながら、目をこすつて起きた。水で、じやぶじやぶ顔を洗つてから、
「ぼくは、庭はきをするのでしたね。」
と、一郎さんは、はうきを持つて、外へ出て行つた。
「ずゐぶん寒いな。」
そんなことをいつて、庭をはき始めた。
 みんなが、いつしよに働いたので、朝の支度はすぐできあがつた。
「もうぢき六時ね。今日はお祝ひの日ですから、何か花をかざりたいも
 のですね。」
とねえさんがいつた。庭へ出て見ると、つばきが一りん咲きさうになつてゐた。それを折つて來ると、ねえさんが、
「きれいなつばきね。おかあさんのおすきな花だから、ちやうどいいで
 せう。」
といつて、一りんざしにさして、飯臺の上にかざつた。
 そこへおかあさんが起きていらつしやつて、みんなのゐるのをごらんになつて、びつくりなさつた。
「まあ、けさはどうしたのです、こんなに早く起きて──それに、朝御
 飯の支度もちやんとできて。」
 一郎さんが、
「今日は母の日ですから、おかあさんのお手傳ひをしたのです。」
といつたので、おかあさんも、やつとおわかりになつた。
 御飯の時、おかあさんが、おとうさんに、
「けさは、子どもたちが早く起きて、朝御飯の支度からお庭のさうぢま
 で、私の知らないうちに、すつかりしてくれたのですよ。」
とおつしやると、
「それは、えらい。感心なことだ。」
とおほめになつた。
 その夜、みんなが集つてゐる時、一郎さんが、お座敷の眞中に立つて、
「ただ今から、母の日のお祝ひをいたします。初めに、ぼくが綴り方を
 讀みます。」
といつて、綴り方を讀んだ。題は、「ぼくのおかあさん」といふのであつた。
 私は國語の「萬壽姫
(まんじゆのひめ)」を讀んだ。それからねえさんは、「母」といふ唱歌を歌つた。一郎さんがまた立つて、
「おしまひに、おかあさんに記念品をさしあげます。」
といつたので、おかあさんは、
「何をいただくのでせう。」
とにこにこなさつた。
 一郎さんが、一枚の繪をさしあげた。
「おやおや、おかあさんをかいてくれましたね。これはありがたう。
 一郎さん。」
 次に、私が、自分でこしらへた前掛をあげた。おかあさんは、それをちよつとお當てになつて、
「よく似あひますね。かはいいぬひとりだこと。」
とおつしやつた。最後にねえさんは、ひもであんだきれいな買物袋をさしあげた。
「これは、いいものをもらひました。毎日の買物に持つて行きませう。」
と、うれしさうにおつしやつて、おとうさんにお見せになつた。
 おとうさんは、
「これはこれは。今日はいい日だつたね。」
と、おかあさんにおつしやつた。


     二十三 防空監視哨
(かんしせう)

    「あの山の上の人かげは。」
   と、あなたがたは思ふでせう。それが、
   いつも、ここに、
   かうして立つてゐる私たちなのです。

   雨の日、風の夜、
   夏の太陽がやけつくやうなまひる時、
   冬の風が骨をさしとほす朝──いつでも、
   ここに、かうして立つてゐるのです。

   冬がすんで、
   また、明かるい春が來ました。
   水のやうに澄んだ空を、
   雲が、眞綿を散らしたやうに飛んでゐます。

   この大空の
   はてのはてまで、私たちは、
   からだ中を目にし、からだ中を耳にして、
   じつと、にらみ渡してゐるのです。

   今にも、もし、空のどこかに、
   かすかなうなり聲が聞え、
   飛ぶ虫の群のやうに、飛行機が見えたら、
   私たちの全神經が、いなづまのやうに動きます。

   現れた時刻、方向、
   敵か、みかたか。何型が何十機。
   飛んでゐる高さは、方向は。
   私はすぐ電話に向かつて、かう叫びます。

  「五番、春山監視哨、
   三十七分、北、
   敵、中型、三十、
   三千、南東。をはりつ。」



     二十四 早春の滿洲

  
 三月の聲を聞くと、滿洲でも、春らしい日光がさして來ます。
 あちらこちらの、スケート場の氷もとけて、もうすべることはできなくなります。
 子どもたちは、「また冬が來るまで、さやうなら。」といふ氣持で、スケートの手入れをして、ちやんとしまつておきます。スケート遊びと別れるのはいやですが、春の來ることは、子どもたちには、大きな喜びです。
 春が、ほんたうにやつて來るまでには、思ひがけないきびしい寒さが、二三度ぶり返したり、蒙古
(まうこ)風が、ひと吹きふた吹き吹いたりしなければなりません。蒙古風といふのは、蒙古の奥から吹き起つて大陸を吹き渡り、海を越えて、日本から太平洋まで吹いて行く大きな風です。黄色な砂ほこりを運んで來るので、これが吹く日は、天も地も、暗くなつてしまひます。
 冬中おせわになつてゐただんろや、ペチカや、オンドルなどともお別れです。どこの家でも、今までは石炭をたくので、ばいえんが空をよごしてゐました。それが、一度蒙古風が吹き通ると、すつかりよごれが拂はれてしまつて、きれいな惷が、光るやうに、地のはてまでひろがります。
 寒さを防ぐために、しめてあつた二重窓が開かれます。窓といふ窓が、すつかり開かれるので、部屋の中のにごつた空氣が出て行つて、きれいな空氣が、流れるやうにはいつて來ます。窓のそばに、鳥かごがつるし出され、鉢植の草花が持ち出され、子どもの顔が並びます。明かるい日光が、小鳥の羽に、草花の葉に、子どものほほに降り注ぎます。みんなは、ただうれしいのです。長い間、閉ぢ込められてゐた人たちにとつては、春は、うれしいだけではありません、ありがたいのです。
 いちばん早く花をつけるのは、れんげうです。れんげうの花は、眞黄色で、枝一面につきます。まだ葉が出ないうちに咲くのですから、花の色で、その邊が、ぱつと明かるくなるほどです。れんげうの咲いたそばに、子どもがよく集つて來ます。
 滿人が、外に鳥かごを持ち出して來て、鳥を鳴かせ始めます。鳥は滿洲ひばりです。久しぶりに廣い空を見、澄んだ空氣を吸つて、滿洲ひばりは、さもうれしさうにさへづります。滿人は、その聲に聞きとれて、そばにしやがんだり、腰掛けたりして、いつまでも聞いてゐます。
 やなぎの木が、ほかの木よりも早く目をさまします。みどりがかつたこずゑを延してせいのびをし、小さな芽をつけ始めます。遠くから、やなぎの並木を見ると、うすみどりにかすんで見えます。
 このころ、夕やけの空を、日が落ちて行くのは、みごとなものです。その大きなこと、何といつたらいいでせうか、ふたかかへもありさうな大きな夕日です。見渡すかぎり平な地平線に、大きな夕日が赤々とはいつて行きます。
 かうして、一日一日と、のどかな春になつて行くとともに、春のいそがしい仕事が始つて行きます。
 雁
(がん)の群が、シベリヤの野山に卵を生まうとして、さかんに空を渡つて行きます。日本から來て、玄海(げんかい)なだを越え、滿洲から、もつともつと北をめざして、飛んで行きます。
 かささぎは、巣
(す)を作らうとして、あちらこちら飛びまはります。かささぎは、毎年新しい巣を作つて、ひな鳥を育てるのです。
 農夫たちは、廣い、廣い畠を耕し始めます。すつかり耕した畠に、大豆や、かうりやんなどの種をまくころは、もう滿洲の春が深くなつてゐます。


 

 

 



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     (注) 1. 『初等科國語 四』の教科書は、昭和17年7月9日発行、昭和17年8月25日翻刻発行。
        著作兼発行者 文部省。発行所 日本書籍株式会社。
          これは、『複刻 国定教科書(国民学校期)』(ほるぷ出版刊、昭和57年2月1日)により
        ました。原本所蔵は、中村紀久二氏です。

        2.  
教科書巻末の漢字表の漢字には、「影(5) 談(7) 惜(7) ……」のように、漢字の下
        に頁数が表記されていますが、ここでは省略しました。
          なお、教科書本文の挿絵も、省略しました。
       3. 『初等科國語 四』の教科書は、国民学校4年生後期用の教科書です。
       4. 「八 萬壽姫」の話は、御伽草子に載っています。『国文学研究資料館』というサイトで、
          
御伽草子の「唐糸草紙」を、画像で見る(読む)ことができます。 
                     
 『国文学研究資料館』TOPの「電子資料館」をクリック 
             → 下方の「15 新奈良絵本画像データベース」
              
 → 「唐糸草紙」 

       5.
『国立国会図書館デジタルコレクション』にも、『御伽草子』(東京:吉川半七、1891)     
         「唐糸草子」があって、映像で見る(読む)ことができます。 
                   
『国立国会図書館デジタルコレクション』 TOPで「唐糸草子」と入力して検索 
            → 「1.御伽草子/今泉定介他、吉川半七、1891」 をクリック → 「本文をみる[第1冊]」をクリック
              → 『御伽草子』の69〜85 /130が「唐糸草子」

       6.   資料105に 『ヨミカタ 一』の本文(全文) があります。
                     資料106に 『ヨミカタ 二』の本文(全文) があります。
             資料144に 『よみかた 三』の本文(全文) があります。
                     資料146に 『よみかた 四』の本文(全文) があります。
             資料154に 『初等科國語 一』の本文(全文) があります。
           資料156に 『初等科國語 二』の本文(全文) があります。
   
           資料179に 『初等科國語 三』の本文(全文) があります。
 
               資料189に 『初等科國語 五』の本文(全文) があります。
                     資料196に 『初等科國語 六』の本文(全文) があります。
            資料199に 『初等科國語 七』の本文(全文) があります。
           資料210に 『初等科國語 八』の本文(全文) があります。

 

 

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