資料462 文部省『中等国語一〔後〕』(昭和21年8月6日発行)(本文)



 

 

    中等國語 一[後]』    文部省(昭和21年8月6日翻刻發行)

 

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       目 録

      
國文篇 

  一 最低にして最高の道
  二 私設大使  
  三 測量生活
  四 尊德先生の幼時
  五 俳句への道
  六 一門の花
  七 姫路城
  八 すゝきの穗
  九 湖畔の冬
  十 創始者の苦心
 十一 言葉の遣ひ方



國文篇


       一 最低にして最高の道             

  もうよさう。
  ちひさな利慾とちひさな不平と、
  ちひさなぐちとちひさな怒りと、
  さういふうるさいけちなものは、
  あゝ、きれいにもうよさう。
  わたくしごとのいざこざに
  みにくい皺
(しわ)を縱によせて
  この世を地獄
(ぢごく)に住むのはよさう。
  こそこそと裏から裏へ
  うす汚い企みをやるのはよさう。
  この世の拔け驅けはもうよさう。
  さういふことはともかく忘れて、
  みんなといつしよに大きく生きよう。
  見かけもかけ値もない裸
(はだか)のこゝろで
  らくらくと、のびのびと、
  あの空を仰いでわれらは生きよう。
  泣くも笑ふもみんなといつしよに、
  最低にして最高の道を行かう。
                 
(高村光太郎ノ作ニ據ル)


       二 私 設 大 使

「なんだ。なんだ。」
「どうしたんだ。どうしたんだ。」
 口々に叫びながら、バスティーユの廣場の方へ、人々がとんで行きました。じりじりと日の照りつける廣い往來には、忽ち黑山の人だかりが出來てしまひました。
 人垣の中には、荷物を山のやうに積んだ荷馬車が、動かずに突立つてゐました。しかし、みんなが驅けつけたのは、もちろん、荷馬車が珍しいからではありません。荷馬車をひいて來た馬が、おなかを見せたまゝ道ばたに倒れてしまつたからです。そのおなかには脂汗がいつぱいにじんで、黄色く光つてゐました。
 馬は暑さで疲れてゐるところへ、鋪道
(ほだう)に水がまいてあつたために、蹄を滑らして轉んだのです。
 御者はいふまでもなく、そこへ集つた人たちは、何とかして馬を立たせてやらうと、いろいろ骨を折りました。馬も一生けんめいに立ち上らうともがきました。しかし、鐵の蹄がつるつると鋪道の表面をなゝめにこするばかりで、何としても立ち上ることはできませんでした。そのうち馬のおなかははげしく波をうち始めました。困りきつた御者は、手のつけやうがないちいふ顔で、馬の腹を見下しながらため息をついてゐました。
 その時、顔の黄色い、あまり背の高くない一人の紳士が、人垣の中からつかつかと出て來ました。彼はいきなり自分の上衣を脱いで、それを馬の脚の下へ敷きました。それから右手でたてがみをつかみ、左手で馬の手綱
(たづな)を握りました。
「それつ。」
 彼は身體に似合はぬ大きな掛け聲をかけました。それははつきりした日本語でした。
 馬はぶるつと胴ぶるひをして、一息に立ち上りました。上衣で滑りがとめてあつたために、前脚に十分力がはいつたからです。
 見物の中から思はず感歎の聲がわき上りました。
 御者は非常に喜んで、幾度かその黄色い顔の紳士にお禮を言ひました。
 だが紳士は「ノン、ノン。」(いゝえ、いゝえ。)と輕く答へながら、手早く上衣を拾ひ上げました。そして泥をはらつてそれを着ると、何かと話しかけたがる人々の間をわけて、どこかへ行つてしまひました。
 この出來事はすぐパリーの新聞に出ました。いや、それはフランスだけではありません。イギリスの新聞イーブニング=スタンダードにまで掲載されました(千九百二十一年六月三十日の分)。そればかりではありません。イギリスで出版された逸話の本の中にも、「日本人と馬」といふ題でのせられてゐます。
 この人の名前は今もつてわかりません。名前も職業もわかりませんが、かういふ人こそ大使にも公使にも劣らない立派な私設大使です。
                            (山本勇造ノ文ニ據ル)



     三 測 量 生 活 

       一
 測量の時の生活ぶりを少し話してみよう。それは、大抵人里離れた山奧のことであるから、天幕生活である。
 食糧は米と味噌だけである。わかめや乾し魚などは御馳走の方である。罐詰などはもちろん持つて行かない。仕事が第一だ。器械が大切だ。飲食は末のことだ。そこで、食事は大抵その地で得られる物を、最も簡單な調理法、即ち味噌で味を附けたりしてすますのである。
 測量部に殘つてゐる古い記録の中には、樺太
(からふと)でいろいろな植物を片端から試驗的にたべてみた報告がある。何も新しい食物を搜してみる興味からしたのではない。人里を遠く離れた原始林の傍らで幕營を續ける人たちには、既に食物が缺乏してゐたのであらう。それをかういふやうに、試驗的にたべてみたとあつさり報告してゐるところなど、まことに感心ではないか。
 山に籠るのであるから、初めから大體の豫定を立てて、食物を用意して行く。しかし、測量がうまく行かないために豫定が延びると、大切な米が不足して來る。さういふ場合は、人夫が下まで米を取りに行かねばならぬ。その人夫が霧のために道を間違へ、なかなか歸つて來ないので、二日も三日も絶食したといふ例もある。内地では、道にさへ迷はなければ、一日山を下れば、大抵人里にたどり着くことができるが、北海道や樺太のやうな所では、人里まで行くのに何日もかゝることがある。そのために、測量部員は食糧の集積所を設け、奧地へ行く時には、そこから輸送するやうにしてゐる。
 こんな話は明治の終り頃のことであるから、大分時がたつてゐる。そんな古い時代だから、不便があつたり苦勞をしたりしたのだと思ふ人があるかも知れない。なるほど、今はその頃に比べれば、少しは便利になつたであらう。その代りに、一般の人たちの生活も、明治時代に比べれば進んでゐるのだ。明治の頃は、山里には乘合自動車などなかつた。今はある。われわれもそれを利用する。しかし、どんな場合でも、苦勞なしに測量の終ることはない。それでも、われわれは決して泣き言や不平を言はうとは思はない。
 測量生活は主として山奧のことであるから、樺太でなくとも、内地でも、めつたに人に會ふことはない。人に會はぬ代りに、天幕にはいろいろなお客樣がある。一番多いのは野鼠だ。夜になるとやつて來て、眠つてゐる人々の髮の毛を拔いて行く。それで子鼠たちのために、純毛の巢を作るのであらう。かゝとをかじられることもある。暖かい地方に行くと、野鼠を追ひかけて毒蛇が來る。猿も來る。親猿を一匹殺したために、一晩中猿の群に天幕を取り圍まれた人たちもあつた。熊も來る。熊は北海道ばかりでなく、東北や北陸の山でもたびたび會ふことがある。
 こんなにして春から夏、夏から秋と、測量の天幕生活は續いて行く。やがて、一番困る訪問客がだしぬけにやつて來る。それは雪である。
 雪が降りだせば測量を止めなくてはならない。雪はわれわれを山から放逐し、明かるい町へと連れもどすのである。
       二
 測量の仕事は、團體競技と同じやうに共同動作である。
 選點・造標・觀測、それらの仕事は一つ一つ切り離されてゐるものではない。選點に從ふ時は、直ちに造標のことを考へ、造標の時には觀測のことを考へねばならぬ。中途で少しのごまかしがあつても、地圖は完全に出來ない。
 私は、山奧の天幕生活や食物や山の訪問客のことなどを話した。しかし、われわれの大切な仲間のことをまだ話してゐなかつた。大切な仲間とは測夫のことである。
 測量部の地圖には、それが誰によつて測量されたか、一切示されてゐない。だから、地圖を利用する人も、それが誰の仕事であつたのかわからない。まして、地圖の出來上るまで大切な役割を務めた測夫の働きに至つては、全く知られてゐない。そこで、私は是非ともそれをこゝに述べておきたい。
 測夫は、ふだんは百姓をしたり、大工をしたりして、それぞれの家業に勵んでゐる。しかし、毎年測量が始ると、直ちに呼び出されて測量に從事するのである。
 重い器械を背負ふのも測夫であり、三角點に着けば直ちに櫓
(やぐら)を築くのも、この人たちである。こんな荒仕事をするかと思ふと、天幕生活の臺所仕事も受け持つてくれる。われわれが一日の測量を終へて天幕に歸つて來ると、竈(かまど)のあたりには、貧しいながらも樂しい夕餉(ゆふげ)の煙が漂つてゐる。天幕の傍らには、附近から伐り集めた小枝がきれいに揃へてあつて、いかにも家庭的な氣持を感じさせる。こんなまめやかな、主婦の役目をしてくれるのも測夫である。
 山中で幾日も人に會はず、自分たちの仲間だけで生活を續ける。時には烈しい風雨に叩かれることがある。恐しい雷に見舞はれることもある。寂しい風の音や、かすかに聞える谷川の音に、忘れてゐた遠い町の灯
(ひ)を思ひ起す夜もある。かういふ生活をしてゐる時ほど、仕事の原動力になるのは人の和であることが、一きは身にしみて感ぜられるものである。もし、仲間の氣持が割れてしまつたら、仕事は決してうまく行かない。測量は共同動作だ。これを美しく助けてゐるのが實に測夫たちなのだ。幾日も幾日も風呂にもはいらず、顔も洗はぬ。ひげの中で笑つてゐる日にやけた實直な顔、健康で屈託(くつたく)のない動作。骨身を惜しまぬ者の美しさ、さうして、心の細やかさ。測夫たちは、多くさういふ人たちである。
 この人たちは、どんな雜用もする。有能な觀測の助手となる。われわれが觀測した數字を帳面に附けてくれる。唯一人で、遠く離れた向かふの山へ、谷を横ぎりて峯を越えて行き、そこの櫓から廻照器を回轉させてくれる。時々刻々に移動して行く太陽の光を反射させて、數十キロかなたの觀測點に送るのは、決して生やさしい仕事ではない。熟練を要し、細かな神經を働かせなくてはならない。しかも、この測夫が廻照器を上手に回轉させるかどうかによつて、觀測作業は速くも遲くもなるのである。
 傍らに居るのならば、まづければ敎へることもできる。なまければ、叱ることもできる。しかし、遙か向かふの峯に居る者に、こちらの意志を傳へることはできない。みごとに廻照が來て、仕事がうまくすんだ時のありがたさ。遠い山に一人で行つて、幾日も幾日も油斷なく廻照器を廻してゐる測夫に、こちらの峯から手を合はせて禮を言ひたい氣持である。
 或る時、向かふの山頂の廻照器が、いつまで待つても光を送らず、信號をしても返事がないので、行つてみると、測夫は櫓から落ちて死んでゐた。深山に唯一人で居たのだから、行つてみるまではわからなかつたし、死因も全然不明であつた。こんな悲しいことも、時にはある。
 夏は山の上は暮しよい。里の方が暑い時でも、山頂は涼しく夜もまた樂しい。しかし、一たび雷が鳴りだすと、そのもの凄さは、又格別である。櫓の上に居る測夫が雷に撃たれて、人事不省に陷ることはよくあることである。
 全然水のない山中で天幕生活を續けると、御飯は下の谷まで一々炊きに行かねばならぬ。歸りにその測夫が深い霧のために道に迷ひ、二十四
時間以上も歸つて來なかつたことがあつた。待つてゐる人々も天幕に閉ぢ込められ、御飯がないので生米をかじつてゐた。ところが、霧の中から聲がする。出てみると、測夫が歸つて來たのである。さうして、「一しよにたべようと思つて。」と言つて、炊いた御飯には手をつけてゐなかつた。かれは自分の炊いた御飯を、二十四時間釜に入れたまゝ持ち歩いてゐたのである。
 このやうに、餘り世間の注意を引かないのに、測夫たちは、われわれと勞苦を分け合つて、地圖の完成のために盡くしてくれてゐる。昔作つた一枚の地圖を見る時、われわれが眞先に思ひ出すのは、その時一しよにゐた測夫のひげだらけの顔である。
                             
(武藤勝彦ノ文ニ據ル)


     四 尊德先生の幼時 

 先生、姓は平、名は尊德、通稱金次郎、その先、曾我氏に出づ。二宮はその氏なり。同じく二宮と稱する者、相模國(さがみのくに)柏山(かやま)村に總べて八戸あり。皆その氏族なりといふ。父は二宮利右衞門、母は曾我別所村、川窪(かはくぼ)某の女なり。祖父銀右衞門、常に節儉を守り、家業に力を盡くし、頗る富有を致せり。父利右衞門の世に至り、邑人皆これを善人と稱す。民の求めに應じて、或は施し、或は賑貸し、數年にして家産を減じ、積財悉く散じ、衰貧既に極まる。然りといへども、その貧苦に安んじ、敢へて昔日施貸の報を思はず。この時に當つて、先生生まる。實に、天明七年七月二十三日なり。次子を三郎左衞門、末を富次郎といふ。父母貧困のうちに三男子を養育し、その艱苦、言語の盡くすべきにあらず。
 寛政三年、先生五歳、酒匂川
(さかわがは)洪水し、大口の堤を破り、數箇村流亡す。この時、利右衞門の田圃、一畝も殘らず悉く石河原となる。もとより赤貧、加ふるにこの水害に罹り、艱難いよいよ迫り、三子を養ふに心力を勞すること限りなし。先生終身、言この事に及べば、必ず涕泣して、父母の大恩無量なることを言ふ。聞く者皆これがために涙を流せり。
 某年、父病に罹り、極貧にして藥餌の料に當つべき物なし。止むを得ず、田地をひさぎて、金貳兩を得たり。利右衞門、疾治して歎じて曰く、「貧富は時にして免れがたしといへども、田地は祖先の田地なり。我が治病のためにこれを減ずること、豈不孝の罪を免れんや。然りといへども、醫藥、その價を謝せずんばあるべからず。」と、大息して醫に行き、貳兩を出し、その勞を謝す。醫師某、眉をひそめて曰く、「子の家極めて貧なり。何を以つてかこの價を得たる。」利右衞門答へて曰く、「まことに予が赤貧なる、子の言の如し。家貧なるがために治療の恩を謝せずんば、何を以つてか世に立たんや。子、これを問ふに實を以つて告げずんば、子の意もまた安からざらん。貧困極まれりといへども、未だ些少の田地あり、これをひさぎて以つて謝せり。子、勞することなかれ。」醫師、愀然
(しうぜん)として涙を流して曰く、「予、子の謝を得ずといへども飢渇に及ばず。子、家田を失ひて一旦の義を立て、後日何を以つて妻子を養はん。予、子の病を治め、却つてその艱苦を増すを見るに忍びんや。速かにその金を以つて田地を償ひ、予に報ずるを以つて勞することなかれ。」利右衞門許さず。醫曰く、「子、辭することなかれ。貧富は車の如し。子、今貧なりといへども、いづくんぞ富時なきを知らん。もし家富むの時に至り、この謝をなさば、予も快くこれを受けん。何の子細かあらんや。」と。
 こゝに於いて、利右衞門大いに感じ、三拜してその言に從ひ、強ひてその半金を以つて謝とし、その半金を持ちて歸る。先生、父病後の歩行を案じ、その歸路の遲きを憂ひ、門に出でてこれを待つ。利右衞門、醫の義言を喜び、兩手を舞
(ぶ)して歩行す。先生迎へて曰く、「何の故に、喜び給ふことかくの如くなるや。」父曰く、「醫の慈言かくの如し。われ汝らを養育することを得たり。これを以つて喜びに堪へず。」と。
 父、酒を好めり。先生、幼にして草鞋
(わらぢ)を作り、日々一合の酒を求めて、夜々これをすゝむ。父、その孝志を喜ぶこと限りなし。
 寛政十二年、先生十四、父利右衞門大いに病みて、日々に衰弱す。母子これを歎き、晝夜看病怠らず。家産を盡くしてその治を求め、鬼神に祈りて誠精を盡くせり。然れども、命なるかな、遂に同年九月二十六日歿す。母子の悲歎慟哭
(どうこく)甚だしく、邑人皆これがために涕泣せり。母、三子を養育するに、艱難いよいよ極まれり。母、先生に言つて曰く、「汝と三郎左衞門とは、われ、いかやうにも養ひ遂げん。末子までは力に及ばず。三子共に養はんとせば、皆共に飢ゑんのみ。」と。
 こゝに於いて、末子を携へ、縁者某に行きて慈愛を請ふ。某、その託を受けて、これを養ふ。母、喜びて家に歸り、二子に告げて共に艱苦を凌がんとす。然るに、母寢ねて、徹夜寢ぬること能はず。毎夜、流涕枕をうるほす。先生怪しみて問うて曰く、「毎夜寢ね給はず、何の故なるや。」母曰く、「末子を縁家に託せしより、わが乳張り、痛苦のために寢ぬること能はず。數日を經ばこの憂ひなからん。汝、勞することなかれ。」と。言終らざるに、涙潸々
(さんさん)たり。先生、その慈愛の深きを察し、泣いて曰く、「前には母君の命に從ひ、末子を他に託せり。案ずるに、赤子一人ありとも、何ほどの艱苦を増さん。明日より、それがし山に行き薪を伐り、これをひさぎて末子の養育をなさん。速かにかれをもどし給へ。」と。母この言を聞き、大いに喜び、「汝、しか言ふはまことに幸ひなり。今より直ちにかの家に到り、もどし來たらん。」と、速かに起ちて行かんとす。先生、これを止(とゞ)めて曰く、「夜、今、子(ね)に及べり。夜明けなば、予行きて抱き來たらん。夜半の往返は止り給ふべし。」母曰く、「汝、幼若、なほ末弟を養はんと言ふ。夜半の往返、何を以つていとはんや。」と、袖を拂つて隣村の縁家に到り、旨趣を告げて、末子を抱き家に歸り、母子四人、共に喜ぶこと限りなし。
 これより、鷄鳴に起きて遠山に到り、或は柴を刈り、或は薪を伐りてこれをひさぎ、夜は繩をなひ、草鞋を作り、寸陰を惜しみ、身を勞し、心を盡くして母の心を安んじ、二弟を養ふことにのみ苦勞せり。而して、採薪の往返にも大學の書を懷にし、途中、歩みながらこれを誦して少しも怠らず。これ、先生聖賢の道を學ぶの初めなり。道路、高音にこれを誦讀するが故に、人々怪しみ、狂兒を以つてこれを目する者あり。
 酒匂川、その源富嶽のもとより流出し、數十里を經、小田原に到りて海に達す。急流激波、洪水ごとに砂石を流し、堤防を破り、やゝもすれば田面
(たのも)を押し流し、民家を毀つに至る。年々、川除け堤の土功止まず。故に邑民毎戸一人づつを出して、この役に當らしむ。先生、年十二よりこの役に出で、以つて勤む。然れども、年幼にして、力一人の役に當るに足らず。天を仰ぎ歎じて曰く、「われ、力足らずして、一家の勤めに當るに足らず。願はくは、速かに成人ならしめ給へ。」と。又、家に歸りて思へらく、「人わが孤にして貧なるを憐恕し、一人の役に當つといへども、わが心に於いて何ぞ安んずることを得んや。徒らに力の不足を憂ふるも詮なし。他の勞を以つてこれを補はずんばあるべからず。」と。こゝに於いて、夜半に至るまで草鞋を作り、翌未明、人に先立ちてその場に到り、人々に言つて曰く、「予、若年にして一人の役に足らず、他の力を借りてこれを勤む。その恩を報ずるの道を求むれども得ず。寸志なりといへども、草鞋を作りて持ち來たれり。日々わが力の不足を補ふ人に答へん。」と言ふ。衆人、その志の常ならざるを賞し、これを愛し、その草鞋を受けて、その力を助く。役夫休めども休まず、終日孳々(しゝ)として勤む。この故に、幼年なりといへども、土石を運ぶこと、却つて衆人の右に出づ。人皆これを感ず。                                 
                             
(富田高慶ノ文ニ據ル)


     五 俳 句 へ の 道 

 俳句は大變むづかしいものだと考へてゐる人があるやうであります。反對に又、俳句なんか作らうと思へば造作はないと輕く考へてゐる人もあるやうであります。いづれにも理由があることであります。しかし、これから俳句を始めてみたいといふ人に對して、俳句はむづかしいものだと言つてしまつたのでは、折角の機縁を取りはづすことになります。私はかう申したい。「俳句の門は誰にでもはいれる門であります。學問がなからうが、又、女・子供であらうが、年配の人であらうが、誰にでもくゞれる門であります。はゞからずに、とんと一つ、扉を叩いてごらんなさい。」と。
 こゝで一つ、俳句はどんなに無造作にでも出來るものであるといふ實例を示しませう。私がこの原稿を書いてゐる今日は、朝から一日、冷たい秋雨が降つてゐます。ペンをおいて顔を上げると、藪
(やぶ)のやうな庭には、雜草や雜木が雨に濡れて輝いてゐます。こんな貧しい小さい庭を眺めながら、今直ぐにでも、俳句は出來ないことはありません。
  雨多き今年の秋の萩の花
  もはや盛りすぎゆく雨つゞき
 今年は夏の頃からとかく雨がちで、十月も半ばとなるのに、ほんたうに秋晴れらしい日はまだ幾日もなかつたやうであります。そのためかどうか、庭の萩も成績がよくありません。葉は早くも汚れ、花は乏しいやうであります。そんなことを思ひながら、僅か一株の萩をだいじに朝夕眺めてゐます。その萩に、今日もまた雨が降つてゐて、枝も葉もぐつたりとしをれてゐます。花はおほかた散りました。雨は明日までも續きさうです。さういふありのまゝを十七字にしたのが、この二句であります。傍點を附けたのは季題であります。どの句にも、一つは季題があります。さうして、皆五・七・五と疊んで、十七字で一句を成してゐます。かやうに、何でも自分の感じたまゝの正直な氣持を、季題に託して、十七字で述べさへすれば俳句になるのであります。
 私は今、假に庭の景色、即ち自然を見たのでありますが、目を室内に轉じて、身邊座右を見ても同じことであります。私は袷(秋袷)を着てをります。違ひ棚の上に、もう用ひなくなつた團扇(
うちは秋團扇)がまだのつてゐます。お勝手には到來の松茸の籠があります。近所のお祭(秋祭)で、軒に差す造花の枝が雨で取り入れてあります。この間まで釣つてあつた簾(すだれ秋簾)は、張り替えた障子(障子張る)に變つてゐます。蚊帳(かや)も釣らなくなりました(蚊帳の別れ)──といつたやうなわけで、われわれの生活も、自然といふものに影響されていろいろに變り、數多くの季題を作つてゐるのであります。そのどれをでもとらへて、氣持のまゝに十七字を並べてみることです。もちろん、初めから人にほめられる句ばかりは出來ないでありませう。しかし、たくさん作つてゐる間には、必ず先輩から、これはおもしろい、これは的に當つてゐると言はれる句が出來ます。そのたびごとに、少しづつ目の前が明かるくなつて行きます。かうして、自分でも知らぬ間に進歩して行くのであります。
 以下少しく實作上に就いて述べてみませう。
  コスモスや夕燒けて來ぬ沼の家
 農家か或は茶店かも知れない沼べの一軒の家の庭に、コスモスが咲き亂れてゐる。沼に、夕日が落ちかゝつて、空の茜
(あかね)が水の面を染め、コスモス咲く一軒家をも眞赤に彩り始めた。さういふ句意で、着眼點はこれでよいのでありますが、一つ重大な表現上の過ちを犯してゐます。それは、いはゆる二段切れのことで、一度「や」で切れた後、再び「ぬ」で切れてゐることであります。一句を朗誦してみて、どこかまとまらぬ感じがするのは、そのためであります。これを、
  コスモスや夕燒けて來し沼の家
とすると、忽ち整然とした姿になります。唯、一字の違ひでありますが、第二節が「ぬ」で一旦切れると切れないとで、一句の生死が分れてしまふのであります。
  かなかなや湖上やうやく暮れにけり
 この句も前の句と同じく、二つの切れ字を併用してゐるのが缺點で、その過ちは、いはゆる「や」「かな」を併用すべからずといふのと同じことであります。そこでこれを、
  かなかなに湖上やうやく暮れにけり
とするのも、一つの添削
(てんさく)であります。ひぐらしが鳴きしきり、まのあたり、湖の面が蒼茫(さうばう)と暮色に包まれて行く景色と感じを、しつくりとまとまつて受け取ることだけには、これでも一應さしつかへありません。しかし、幾度も舌頭に上せてゐると、これではまだ、「に」で、ひぐらしの聲と湖上の薄暮とを結んだところに、何か力の弱さを感じます。湖上といふ言葉も少し固いやうに感じられます。そこでこれを、
  かなかなややうやく暮るゝ湖
(うみ)の面
とします。かうすると、「に」の脆弱性も救はれ、又、「湖の面」といふ言葉の響きの柔かさも、「湖上」よりは立ちまさつてゐて、この場合の氣持にしつくりするやうであります。
  朝涼し晝は暑かり法師蟬
 法師蟬が鳴くのは暦の秋の初めであります。殘暑は嚴しいが、朝晩はさすがに涼しいといつた時分であります。この句は、その氣節感が詩因になつてゐることはうなづけるのでありますが、いかにも敍法が練れてゐません。「朝涼し」と出しておいて、第二節で、わざともう一度「──暑し」と對句的に切るのも、一つの敍法ではありますが、さういふ敍法に從ふならば、どちらも「し」で揃へて形の美しさを期するのが常道でありませう。それをこの句は、音數の關係で「暑かり」としてゐるのは、いかにも窮してゐます。そこで、全く構成を改めて、
  朝の間は少し涼しく法師蟬
とすると、調べもやゝ整ひ、晝間は暑いといふことも言葉の裏に自然に出て、くどい感じもなくなり、しかも、作者の言ひたいことは完全に出てをります。切れ字は、涼しくの下に「なりぬ」が省略されてゐるわけであります。 
                             
(富安謙次ノ文ニ據ル)

   
(注)本文中の傍点の個所を、下線で代用してあります。




     六 一 門 の 花        平 家 物 語

     故 郷 の 花
  薩摩守忠度
(さつまのかみただのり)は、いづくよりか歸られたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に、ひた冑七騎取つて返し、五條の三位俊成卿の許におはしてみ給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度。」と名のり給へば、「落人(おちうど)歸り來たれり。」とて、その内騷ぎあへり。薩摩守、急ぎ馬よりとんで下り、みづから高らかに申されけるは、「これは三位殿に申すべき事ありて、忠度が參つて候。たとひ門をば開けられずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。申すべき事の候。」と申されたりければ、俊成卿、「その人ならば苦しかるまじ。開けて入れ申せ。」とて、門を開けて對面ありけり。事の體、何となうものあはれなり。
 薩摩守申されけるは、「先年申し承りてより後は、ゆめゆめ疎略を存ぜずとは申しながら、この二、三箇年は京都の騷ぎ、
國々の亂れ出で來、あまつさへ當家の身の上に罷り成りて候へば、常に參り寄ることも候はず。一門の運命、今日はや盡き果て候。それにつき候うては、撰集
の御沙汰あるべき由承りて候ひしほどに、生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙らうと存じ候ひつるに、かゝる世の亂れ出で來て、その沙汰なく候條、唯、一身の歎きと存じ候。この後、世鎭まつて、撰集の御沙汰候はば、これに候巻物の中に、さりぬべき歌候はば、一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りとこそなりまゐらせ候はんずれ。」とて、日頃詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌と覺しきを百餘首書き集められたりける巻物を、今はとて打ち立たれける時、これを取つて持たれたりけるを、鎧の引合はせより取り出でて、俊成卿に奉らる。三位これを開きて見給ひて、「かゝる忘れ形見どもを賜はり候上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候。さても唯今の御渡りこそ、情も深う、あはれも殊にすぐれて、感涙抑へがたうこそ候へ。」とのたまへば、薩摩守、「屍(かばね)を野山に曝(さら)さば曝せ、憂き名を西海の波に流さば流せ、今は憂き世に思ひおく事なし。さらば暇申す。」とて、馬に打ち乘り、冑の緒を締めて西をさしてぞ歩ませ給ふ。三位、後を遙かに見送りて立たれたれば、忠度の聲と覺しくて、「前途程遠し、思ひを雁山(がんざん)の夕べの雲に馳す。」と高らかに口ずさみ給へば、俊成卿もいとゞあはれに覺えて、涙を抑へて入り給ひぬ。
 その後、世鎭まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、言ひおきし言の葉、今更思ひ出でてあはれなりけり。件の巻物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれども、その身勅勘の人なれば、名字をば顯されず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、讀み人知らずとて入れられたる。
  さゞ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山櫻かな 

     靑 山 の 琵 琶
  修理大夫
(しゆりのだいぶ)經盛(つねもり)の嫡子、皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)經正は、幼少の時より、仁和寺の御室の御所に童形(どうぎやう)にてさぶらはれしかば、かゝる怱劇(そうげき)の中にも、君の御名殘りきつと思ひ出でまゐらせ、侍五、六騎召し具して仁和寺殿へ馳せ參り、急ぎ馬よりとんで下り、門をたゝかせ、申し入れられけるは、「一門の運命、今日既に盡き果て候ひぬ。憂き世に思ひおく事とては、唯、君の御名殘りばかりなり。八歳の年この御所へ參り始め候うて、十三で元服仕り候ひしまでは、いさゝかあひいたはる事の候はんよりほかは、あからさまに御前を立ち去ることも候はず。今日既に西海千里の波路に赴き候へば、またいづれの日、いづれの時、必ず立ち歸るべしとも覺えぬことこそくちをしう候へ。いま一度御前へ參つて、君をも見まゐらせたう存じ候へども、甲冑をよろひ、弓箭(きうせん)を帶して、あらぬさまなるよそひに罷り成つて候へば、はゞかり存じ候。」と申されければ、御室あはれに思し召して、「唯、その姿を改めずして參れ。」とこそ仰せけれ。
 經正その日は、紫地の錦の直垂
(ひたゝれ)に萌黄匂(もえぎにほ)ひの鎧着て、長覆輪の太刀を佩(は)き、二十四差いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓脇に挾み、冑をば脱いで高紐にかけ、御前の御坪に畏まる。御室やがて御出(ぎよしゆつ)あつて、御簾(みす)高く揚げさせ、「これへ、これへ。」と召されければ、經正、大床へこそ參られけれ。供にさぶらふ藤兵衞有敎(ありのり)を召す。赤地の錦の袋に入れたりける御琵琶(びは)を持つて參りたり。經正これを取り次いで、御前に差し置き、申されけるは、「先年下し預つて候ひし靑山持たせて參つて候。名殘りは盡きず存じ候へども、さしものわが朝の重寶を、田舎(でんじや)の塵になさんことのくちをしう候へば、まゐらせおき候。もし、不思議に運命開けて、都へ立ち歸ることも候はば、その時こそ重ねて下し預り候はめ。」と申されたりければ、御室あはれに思し召して、一首の御詠を遊ばいてぞ下されける。
  あかずして別るゝ君が名殘りをば後のかたみにつゝみてぞおく
經正、御硯下されて、
  呉竹のかけひの水はかはれどもなほすみあかぬ宮のうちかな
 さて、經正御前を罷り出でられけるに、數輩の童形・出世者・坊官・侍僧
(さぶらひそう)に至るまで、經正の名殘りを惜しみ、袂にすがり、涙を流し、袖を濡さぬはなかりけり。中にも經正幼少の時、小師(こじ)でおはせし大納言法印行慶と申ししは、葉室大納言光頼卿の御子なり。餘りに名殘りを惜しみまゐらせて、桂川(かつらがは)の端(はた)まで打ち送り、それより暇乞うて歸られけるが、法印泣く泣くかうぞ思ひ續け給ふ。
  あはれなり老木若木も山ざくらおくれさきだち花はのこらじ
經正の返事に、
  旅ごろも夜な夜な袖をかたしきておもへばわれは遠く行きなむ
 さて、巻いて持たせられたりける赤旗、さつと差し上げたれば、あそここゝに控へて待ち奉る侍ども、あはやとて馳せ集り、その勢百騎ばかり、鞭を上げ、駒を早めて落ち行きけり。


     七 姫 路 城

 大手の櫻門から三の丸にはいると、姫路城の天守閣は、姫山の老松の上にその正面を見せる。まことに白鷺(はくろ)城の名にそむかない美しい姿である。しかもその美の極致を、私は菱(ひし)の門をくゞつて二の丸にはいつた瞬間に見出した。
 から壕
(ぼり)を隔てて、やゝ右手に仰ぐ天守閣群は、五層の大天守を右に、三層の西の小天守を中に、同じ三層の乾(いぬゐ)の小天守を左に、いかにも調子よく、高い石垣の上にそびえてゐる。みやびやかな唐破風(からはふ)、すつきりした千鳥破風、それらが上下に重なり、左右に並び、千鳥がけに入りちがふさまは、まさにいらかの亂舞といひたい美しさである。
 ところで、更に「いの門」をくゞり、「ろの門」をくゞつて奧へ奧へと進むにつれ、姫路城はたゞ美しいといふだけではすまされなくなつて來る。門をくゞるたびに、坂道は必ず右か左へ曲折する。道に沿うて、時に石垣・塀・櫓
(やぐら)が層々と頭上にのしかゝる。まるで絶壁の下を通るかたちだ。さうして、その塀や櫓にうがたれた矢狹間(やざま)・鐵砲狹間が、圓形に、三角形に、長方形に、ちやうど怪物の目のやうに、私たちを見おろすのである。どんな大軍が押し寄せたとしても、この狹い谷底のやうな迷路へ導かれ、あの無數の狹間から撃ちかけられ、射すくめられては、全くたまつたものではない。しかも、道の行く手行く手は、總べて嚴重な門である。
 門をはいると、多くはそこに廣場がある。一般に、本丸への道は狹く、曲折してゐるから、敵の寄せ手がもし門を突破すれば、さし當りかうした廣場へなだれ込むに違ひない。さうして、激しく押し合ひもみ合ふかれらの足もとには、意外にも深い谷底が口をあけて待つてゐるのである。寄せ手が勢込めば勢込むほど、恐らくこの見せかけの廣場が役立つに違ひない。
 一きは堅固に見える「ほの門」を過ぎて、いよいよ本丸にたどり着いたと思ふと、そこにはいはゆる水の門が、第一から第六まで順々に待ち受けてゐる。數歩にして門があり、殆ど門ごとに道が曲折する。頭上には乾の小天守、西の小天守及び大天守が、東の小天守と四つ目に並び、互に腕を組み合つて天にそびえながら、私たちを足もとにも寄せつけないといつた恰好
(かつかう)をしてゐる。
 水の第五門は、大天守と西の小天守とをつなぐ渡り櫓の眞下になつてゐる。一たびこの門をしめきつたら、四つの天守閣は一箇の獨立した城廓
(じやうくわく)となつて、これだけでも數萬の敵に對し、いつかな動きさうにない。
 外觀五層の大天守は、内から登ると七階であつた。さうして、あの美しいと見た天守の内部には、巨材が巨材と組み合つて、薄暗い各階にものすごく力鬪してゐる。
 最上階から眺めると、姫路市街はもとより、飾磨
(しかま)の平野が一目に見渡される。元來この城は、平野の中央、やゝ北寄りの姫山・鷺山に據つて營まれたもので、地は南に飾磨港をひかへ、西に中國街道を受けて、運輸交通の要路に當つてゐる。秀吉がこゝに目を着けて城を築き、更に家康に信任された池田輝政(てるまさ)が、百萬石の威勢と將軍のうしろだてとによつて、今日に見る優美な、しかも堅固極まりないものに造り上げた。大手の門は南を固め、搦(から)め手の門は北東を押さへてゐるが、この城の要害は寧ろ西にある。眼下に見る西の丸の櫓々は、鷺山をあたかも長城のやうにおほうて、西からの見すかしを防いでゐる。呼べば答へる間近さに男山・景福寺山が、ちやうど海中の小島のやうに散在してゐる。いざといへば、これらの小山が總べて出城となつて、この城廓の護りとなるのである。中國・四國の大藩を目の上のこぶと見た家康が、輝政をしてこゝに金城鐵壁を築かせたのは、まことに故あることと考へさせられる。
 南方、もしくは東方から望めば、優美そのもののやうな姫路城も、これを北から西から望む時は、まるでやうすを一變する。本丸の據る姫山、西の丸の據る鷺山は、屛風
(びやうぶ)の如く連なり、麓に三條の壕をめぐらし、斧(をの)を知らぬ密林におほはれ、その上にそゝり立つ天守閣と、數十の櫓は層々と重なり、蜿蜒(ゑんえん)と連なつて、まさに飾磨平野を飾る一大偉觀である。
 美しい城だとは誰もいふ。しかも、姫路城は當時の最も堅固な城であつた。その本丸・二の丸・西の丸が、これほどまで完全に殘つて、今日のわれわれに昔の姿を殆どそのまゝに見せてくれる。まことに姫路城は、わが國城廓建築の粹である。


     八 す ゝ き の 穗  

                     良  寛
  
秋の日に光りかゞやくすゝきの穗こゝの高屋にのぼりて見れば
  さとべには笛や太鼓の音すなりみ山はさはに松の音しつ
  飯乞ふと里にも出でずなりにけり昨日も今日も雪の降れゝば
  むらぎもの心たのしも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば

                     
大 隈 言 道(おほくまことみち) 
   
菜  花
  ふく風に動く菜の花おともなく岡べ靜けき朝ぼらけかな
    雨  晴  
  かささせるさゝぬも過ぐる橋の上の夕暮近き雨のはれがた   
    飛 び 魚  
  おのがひれ翼をなして飛び魚の沖のせこしに過ぐるひとむれ


                     
橘    曙 覽 
   
雨いみじう降りつゞきて人皆わびたりける頃めづら
    しう晴れそめたる空を見やりて 

  天地も廣さくはゝるこゝちしてまづ仰がるゝ靑雲のそら
    春よみける歌の中に
  すくすくと生ひたつ麥に腹すりて燕飛び來る春の山はた
    秋 田 家
  いなごまろうるさく出でて飛ぶ秋のひよりよろこび人豆を打つ
    人あまたありてかね掘るわざものしをるところ見めぐ
    りありきて
  日の光いたらぬ山の洞(ほら)のうちに火ともし入りてかね掘りいだす
  赤裸
(まはだか)の男子むれゐてあらがねのまろがり碎く鎚(つち)うちふりて
  黑けぶりむらがりたゝせ手もすまに吹きとろかせばなだれ落つるかね
  とろくれば灰とわかれてきはやかにかたまりのこる白銀の玉



     九 湖 畔 の 冬

  富士火山脈が信濃(しなの)にはいつて、八(やつ)が嶽(たけ)となり、蓼科山(たてしなやま)となり、霧が峯となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖(すはこ)へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地をならして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最低所の家は湖水に沿ひ、その間の傾斜面に百戸足らずの民家が散在してゐる。家は茅葺(かやぶ)きか板葺きである。日用品小賣店が今年まで二戸あつたが、最近三戸にふえた。その他は皆農家である。
  山から丘陵へ、丘陵から村落へと續く木立が、多く落葉樹であるから、冬に入ると、傾斜の全面が皆あらはになつて、湖水から反射する夕日の光がこの村落を明かるく寒くする。寒さがおひおひに加つて、十二月の末になると、湖水が全く結氷するのである。
  湖水といつても、海面から二千五百尺の高所にあり、村落は湖水よりもなほ高い丘上にあるから、嚴冬の寒さは非常である。朝、戸外に出るとひげの凍るのはもちろんであるが、時によると、上下睫
(まつげ)の凍着を覺えることすらある。かういふ時は、顔の皮膚面に響き且つ裂けるが如き寒さを感ずる。
 この頃になると、湖水の氷は一尺から二尺近くの厚さに達する。それほどの寒さにあつても、人々は家の内に籠つて、炬燵
(こたつ)に暖を取つてゐることを許されない。晝は氷上に出て漁獵をする人々があり、夜は氷を切つて、氷庫に運ぶ人々がある。氷庫といふのは、程近い町に建てられてある湖氷貯藏の倉庫である。
 この頃、私の村では、毎朝未明から、かあんかあんといふ響きが湖水の方から聞えて來る。これは、人々が氷の上へ出て、「たゝき」といふ漁獵をするのである。長柄の木槌で氷を叩きながら、十數人の男が一列横隊を作つて向かふへ進む。槌の響きで湖底の魚が前方へ逃げるのをだんだん追ひつめて、あらかじめ張つてある網にかゝらせるのが、「たゝき」の漁法である。私の家は村の最高所にある。庭下の坂が直ぐ湖水に落ちてゐるのであるから、一列の人々を見るには、かなり俯
(ふ)し目にならねばならぬ。俯し目になつた視線が氷上の人まで達する距離はかなりあるのであるが、氷上の人の槌を振るふ手つきまで明瞭に見える。氷を打つ槌先が視覺に達する時、槌の音はまだ聽覺に達しない。次の槌を振り上げる頃に、漸く槌音が聞える。それで、槌の運動と音とが交錯して目と耳へ來るのである。目に來るものも耳に來るものも、微に徹して明瞭である。單にそればかりではない、一列の人々の話し聲までも手に取るやうに聞える。空氣が澄んでゐる上に、村が極めて閑靜であるからである。 
 村の人々は、又、氷の上へ出て、「やつか」で魚を捕る。諏訪湖の底は淺くて藻草が多い。人々は夏の土用中にたくさんの小石を舟に積んで行つて、この藻草の中へ投げ入れておく。土用の日光に當てた石は寒中の水にあつても、おのづから暖かみが保たれると信ぜられてゐるのであつて、實際、凍氷の頃になると、魚族が多くこの積み石の間に濳むのである。それを捕らへるのが「やつか」の漁法である。「やつか」の所在は「やつか」を置いた漁人にあつては、いつでも明瞭である。氷の上に立つて、湖水の四周から嘗つて記憶に留めておいた四箇の目標地點を求めれば足りるのである。二箇づつ相對する地點を連ねる二直線は、必ずこの「やつか」の上で交叉することを知つてゐるからである。交叉の地點を中心として、半徑四、五尺ぐらゐの圓を畫して氷を切り取れば、その下に必ず「やつか」の石群がある。圓の面が定まれば、その圓周に沿つて竹簀
(たけす)がおろされる。魚の逃げ去るのを防ぐのである。かやうにしてから、湖底に積まれた石は、「まんのんが」と稱する柄の長い四つの齒の鍬によつて、一つづつ氷の上へ掬(すく)ひ出されるのである。掬ひ出された石は、濡れてゐるといふよりも凍つてゐるといふ方が適當である。水面を離れる石が氷上に置かれる頃は、もうからからに凍つてゐるからである。凍つた石が黑山をなして氷の上に積み上げられる頃は、「やつか」の底には靑藻と共に搖れ動いてゐる魚族がある。日がさせば、水底に群がり光る魚の腹が見える。魚族は逃げ場を失つて、竹簀に突き當る。竹簀にはところどころに魚を捕らへるための「うけ」といふ物が備へつけてある。これは、一旦これにはいつた魚の二度と外へ出られぬやうになつてゐる竹籠であつて、魚族の多くはこの「うけ」の中へはいつてしまふのである。
 朝早く氷上に立つてから、「うけ」の中へ魚が納るまでには、短い冬の日が一ぱいに用ひられるのであつて、竹簀を上げて魚を魚籃
(びく)の中へ捕り入れる頃は、日はもう湖水の向かふの山へ傾いてゐるのである。湖面を吹く風は、障る物なき氷上を一押しに押して來る。「まんのんが」を持つ手は、時々感覺を失はんとするまでにこゞえる。その時には、携へた火鍋の中で用意の榾木(ほたぎ)を焚くのである。或は又、氷の上で直接に藁火(わらび)を焚くことがある。氷の上で焚き火をしても、その氷が融けてしまはぬほどに氷が厚いのである。おほよそ周圍四里半の氷上にあつて、漁人の生活は全く世の中との交渉を杜絶する。唯、日に一度、辨當をさげて漁場に運んで來る妻女の姿が氷上に現れる。氷を滑り鴨を追つて遊ぶ子供の群が、漁獵の多寡を見るために、この「やつか」へ立ち寄ることもある。さういふことが、單調な漁人の生活に僅少の色彩を與へる。
 「たゝき」で捕つた魚も、「やつか」で捕つた魚も、いはゆる氷魚
(ひを)であつて、脂(あぶら)がのり肉がしまつて、甚だ佳味である。
 氷切りの作業は、快晴の夜を選んで行なはれる。温度が低下して氷の硬度が増すからである。これは若者でなくては到底堪へられぬ勞作である。若者は宵の口から、藁製の雪沓
(ゆきぐつ)を穿(は)き、その下に「かつちき」を着けて湖上へ出かける。綿入れを何枚も重ねた上に厚い半纏(はんてん)をまとふので、からだはいはゆる着ぶくれになる。横も縱も同じに見えるといふ姿である。かういふいでたちをした若者が、氷の上に一列に並んで、鋸で氷を挽(ひ)き始める。氷を挽く手もとは、初め暗くて後に明かるい。目が氷に慣れるのである。三尺四方ほどの大きさに挽き離される氷の各片が、切り離されると共に、水中に陷る。それが氷鋏(こほりはさみ)と稱する大きな鋏で挾み上げられる。挾み上げられたあとの水には、星が映つて搖れてゐる。一望平坦(へいたん)な氷原にあつて、空は手の屆くやうに低く感ぜられ、星は降るやうに光り滿ちてゐる。星の光は、水にあつて水の明かりとなり、氷にあつて氷の明かりとなり、その明かりに慣れるにつれて、隣りの人の顔まで明瞭に見えるやうになる。夜が漸く更けて寒さが益々加ると、氷原のところどころに龜裂の音が起る。その音は、氷原を越えて四周の陸地・山地にまで響き渡る。その響きの中に立つて鋸を挽いてゐる若者の背中には汗が流れ、暫く立つて休息してゐると、その汗が背に凍り着くのを覺える。さういふ時は、鋸の手を休めないやうにするのが、唯一の防寒手段になるのである。それ故、若者は唯、せつせと切る。腕が疲れると、歌も出ない。唯、時々ねむけざましに、大きな聲を張り揚げる者もあるが、それも長くは續かない。餘り疲れて寒くなれば、氷の上で焚き火をして、一時の暖を取ることもある。かやうにして、夜が白んで來ると、氷の上に積まれた氷板が、山のやうに重なつてゐるのである。夜明けからそれを運んで湖岸のたんぼに積み上げる。たんぼには連夜切り上げられた氷板が、長い距離に亙つて正しく積み並べられて、恰も氷の壘壁(るゐへき)を築いたやうな觀を呈する。積まれた氷には多く筵(むしろ)類を引きかぶせておくのであるが、覆ひの筵がなくとも、白晝の日光で、氷の融けるといふやうなことはない。海拔二千五百尺の地がいかに寒いかといふことは、これで想像し得るであらう。若者は氷を積んでから、疲れたからだを各々の家に運ぶ。朝飯をたべてから、始めて暖かい床にはいつてぐつすりと寝入るのである。
 私の村では、又、夜になると、ところどころの家から藁を打つ槌の響きが聞えて來る。氷切りなどに行かぬ人々が、草鞋
(わらぢ)や雪沓を作るのである。ひつそりとした夜の村に響く槌の音は、重く、にぶく、底のない響きであり、聞いてゐればゐるほど、物遠い感じがする。氷叩きの槌の音は、遠くて近く聞える。藁を打つ音は近くて遠い感じがする。
 私の村では又、日中ところどころの家に機を織る音が聞える。町に行つて買ふ布よりも、絲を仕入れて染めて織る方が、安價で丈夫な布が得られるといふのである。縫ひ物をする女は炬燵に居る。機を織る女はそれができない。それで、機臺は皆南向きの日當りのよい室に据ゑつけられる。冬枯れの木立に終日響く機の音は、寒いけれども村を賑やかにする。どの家の機は今日で何日目であるとか、どの家の機は何日かゝつて織り上つたとかいふやうなことを、女たちは皆音を聞いて知つてゐる。閑寂な村にあつて、隣保相依る心は機の音までが同情の交流になるのである。
 
                             
(久保田俊彦ノ文ニ據ル)



     十 創始者の苦心      蘭 學 事 始 

 小塚原に腑分(ふわ)けを見たりし翌日、良澤(りやうたく)が宅に集り、前日の事を語り合ひ、先づ「タブレ‐アナトミケ」の書に打ち向かひしに、まことに艪舵(ろかぢ)なき船の大海に乘り出せしが如く、茫洋として寄るべきなく、唯あきれにあきれてゐたるまでなり。されども、良澤はかねてよりこの事を心にかけ、長崎までも行き、蘭語並びに章句・語脈の間のことも少しは聞き覺え、聞き習ひし人といひ、齡も翁などよりは十年の長たりし老輩なれば、これを盟主と定め、先生とも仰ぐこととなしぬ。翁は未だ二十五字さへ習はず、不意に思ひ立ちしことなれば、漸くに文字を覺え、かの諸言をも習ひしことなり。
 さて、この書を讀み、いかやうにして筆を立つべきかと談じ合ひしに、「とても、初めより内象のことは知れがたかるべし。この書の最初に仰伏全象の圖あり。これは表部外象のことなり。その名處
(などころ)は皆知れたることなれば、その圖と説の符號を合はせ考ふることは、取り附きやすかるべし。圖の始めとはいひ、かたがた先づこれより筆を取り始むべし。」と定めたり。即ち、解體新書形體名目篇これなり。その頃は、助語の類もいづれが何やら心に落ち着きて辨へぬこと故、少しづゝは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。例へば、「眉といふものは目の上に生じたる毛なり。」といふやうなる一句、髣髴(はうふつ)として、永き日の春の一日には明らめられず、日暮るゝまで考へつめ、互ににらみ合ひて、僅か一、二寸の文章、一行も解し得ざるほどにてありしなり。
 又、或る日、鼻のところにて、「フルヘツヘンドせしものなり。」とあるに至りしに、この語わからず。これはいかなる事にてあるべきと考へ合ひしに、いかにもせんやうなし。その頃、辭書といふものなし。漸く長崎より良澤求め歸りし簡略なる一小册ありしを見合はせたるに、「フルヘツヘンド」の譯注
(やくちゆう)に、「木の枝を斷ちたる跡、その跡フルヘツヘンドをなし、又、庭を掃除すれば、その塵土集りフルヘツヘンドす。」といふやうに讀み出せり。これはいかなる意味なるべきかと、又、例の如くこじつけ考へ合ふに、辨へかねたり。時に翁、「思ふに、木の枝を切りたる跡癒(い)ゆれば堆(うづたか)くなり、又、掃除して塵土集ればこれも堆くなるなり。鼻は面中にありて堆起(たいき)せるものなれば、『フルヘツヘンド』は『堆し』といふことなるべし。然れば、この語は『堆し』と譯してはいかん。」と言ひければ、各々これを聞きて、「甚だもつともなり。『堆し』と譯さば適當すべし。」と決定せり。その時のうれしさは、何に譬(たと)へん方もなく、連城の璧(たま)をも得し心地せり。
 かくの如きことにて、推して譯語を定めたり。その數も次第次第に増して行くこととなり、良澤の既に覺えゐし譯語書留をも増補しけるなり。その中にも、「シンネン」などいへること出でしに至りては、一向に思慮の及びがたきことも多かりき。これらは又、行く行くは解くべき時も出で來ぬべし。先づ符號を附けおくべしとて、丸の中に十文字を引きて記しおきたり。その頃知らざることをば「轡
(くつわ)十文字」と名づけたり。毎會いろいろに申し合はせ、考へ案じても、解すべからざることあれば、その苦しさの餘り、それもまた「轡十文字」「轡十文字」と申したりき。然れども、「なすべき事はもとより人にあり、成るべきは天にあり。」の譬への如くなるべしと、かくの如く思ひを勞し、精をすり、辛苦せしこと一箇月に六、七回なり。その定日は怠りなく、わけもなくして各々相集り、會議して讀み合ひしに、實に「不昧者は心。」とやらにて、凡そ一年餘りも過しぬれば、譯語も漸く増し、讀むに從ひ、自然とかの國の事態も了解するやうにて、後々はその章句のあらき所は、一日に十行も、その餘も、格別の勞苦なく解し得るやうにもなりたり。もつとも毎春參向の通詞どもへも聞きたゞせしこともあり、又、その間には解屍のこともあり、獸畜を解きて見合はせしこともたびたびなりき。
 この會業怠らずして勤めたりしうち、次第に同臭の人も相加り寄りつどふことなりしが、各々志すところありて、一樣ならず。翁は一たびかの國の解剖の書を得、直ちに實驗し、東西千古の差あることを知り明らめ、治療の實用にも立て、世の醫家の業にも發明ある種にもなしたく、一日も早くこの一部を用立つやうになしみたしと志を起せしこと故、他に望むところもなく、一日會して解するところはその夜飜譯して草稿を立て、それに就きては、その譯述の仕方を種々さまざまに考へ直せしこと、四年の間に、草稿は十一度まで認めかへて板下に渡すに至り、遂に解體新書飜譯の業成就したり。
 そもそも江戸にてこの學を創業して、腑分けと言ひ古りしことを新たに解體と譯名し、且つ社中にて誰言ふとなく蘭學といへる新名を首唱し、わが日本國中の通稱ともなるに至れり。これ今時の隆盛を致せし嚆矢
(かうし)なり。今を以つて考ふれば、これまで二百年來、かの外科法は傳はりしなれども、直ちにかの醫書を譯すといふことは絶えてなかりしが、この時の創業、不可思議にも、凡そ醫道の大經大本たる身體内景の書にて、これが醫書新譯の起始となりしは、不用意を以つて得しところにして、實に天意とやいふべし。


    十一 言葉の遣ひ方  

 一續きの話は幾つかの言葉が集つて成り立ち、その言葉は一つづつの音を組み合はせて出來てゐるのであるから、はつきりした話をするには、その基本となる一音一音の發音がはつきりしなければならない。そのためには五十音並びに濁音ガギグゲゴの類、半濁音パピプペポ、それから拗音キャキュキョ、ジャジュジョ、ピャピュピョの類など、即ち日本語の基本となる音の練習を十分にして、各種の音がはつきり出せるやうになつてゐなければならぬ。ところが、地方によつてはイとエ、ユとヨ、ヒとフ、シとス、ジとズなどの區別のできない所があるが、これは正しい發音を聞き分ける耳の力を養ふと同時に、正しい發音のできる訓練によつて矯正しなければならない。
 次に、幾つかの音が集つて一つの言葉になると、そこに一つのまとまつた發音といふものが出來るのであるから、言葉としての發音といふことに注意しなければならない。一つづつの發音はよくできても、これを續けて一つの言葉として言ふ時には、又、別の練習が必要である。「ナマムギ、ナマゴメ、ナマタマゴ」などは發音のしにくい言葉の一例であるが、そんなむづかしい言葉でなくても、不用意な人になると、せつかくよい發音をもつてをりながら、をかしな言葉を遣ふことがある。例へば「私」といふ言葉を「あたくし」「わたつし」「わつし」など發音するのはまことに聞き苦しい。發音の明瞭なことばを遣ふといふことはぜひ心掛けなければならぬことである。
 この發音の明瞭な言葉は、「よりのかゝつた言葉」といへると思ふが、言葉によりをかけるといふ心持が大切である。わが國の國語敎育は、昔から文字の方面にばかり心を注いで、發音に對しては餘り心を用ひなかつたのであるが、これは大いに改良しなければならぬことで、これからは家庭でも學校でも、發音の訓練に十分心を注ぎたいものだと思ふ。正しい發音のできないのは、正しい音を聞き分ける耳の力が發達してゐないことに根本の原因があるのであるから、發音練習の基礎としてよい音を注意して耳にとめることが大切である。さうして、よい音を正しく發音するためには、のどや口や齒や唇や舌などを十分働かす練習をしなければならない。大きな聲や高い聲を出さなくても、よりのかゝつた聲で話すと、ちやうど玉を轉がすやうに、言葉が一つ一つよくまとまつて出て來て、はつきりよく聞きとれるものである。しかし、言葉に餘りよりがかゝり過ぎると、節瘤の出來た絲のやうに、節がついて耳ざはりに聞えるものである。又、言葉によりをかけようと思つて、餘りに顔の筋肉を動かし過ぎると下品になる。言葉は明瞭といふことが第一條件であるが、又、上品といふことも大切であるから、この點の注意も肝要である。
 話す人の心に關係する問題であるが、言葉の終がはつきり聞きとれないといふことがよくある。「さうだ。」といふのか、「さうでない。」といふのか、かんじんな所へ行つて結末が曖昧になつてしまふのは甚だよくない。かういふ言葉遣ひは、とかく心のしつかりしない人とか、ずるい人がごまかしをやる場合とかに用ひるものである。さうでなくて、さういふ言葉遣ひが癖になつてゐる人があれば、この癖は斷然改めなければいけない。
 次に言葉の續け方・切り方、速さの加減、聲の上げ下げといふやうなことが、話をわかりやすくする上にも美しくする上にも大切である。意味の一續きにまとまつてゐるところは、少々長くても息の續く程度ならば續けて言ふべきである。聲の上げ下げ即ち言葉の調子といふものは、意味の上に密接な關係がある。どんなに意味のある言葉を並べても、工場の汽笛のやうな一本調子では、恐らく意味もとりにくいであらう。言葉の調子が言葉を成り立たせる上の重要な要素であることは、次の例でもわかるであらう。「早くおいで。」といふ一つの言葉が、調子次第で、「何をぐづぐづしてゐるんだ。」といふ意味にも聞え、「さあさあ、おいしいものをあげますからね。」といふ心持にも聞える。調子一つで、同じ言葉が輕くもなり、重くもなり、親切にも不親切にも受け取られるものである。調子は心の自然の現れであるから、心持の調和を保つことが何より大切である。
 以上は大體聲の出し方に關係したことであるが、最後に言葉の選び方に就いて一言しよう。徒然草に、「おそろしきゐのしゝも、臥猪
(ふすゐ)の床(とこ)といへばやさしくなりぬ。」と言つてゐるが、同じことも言葉の選び方でたいへん感じのちがふものである。「食ふ」と言ふよりは「たべる」と言つた方がやさしく聞え、場合によつては「召し上る」「いたゞく」といふやうな言ひ方もある。なるべく丁寧な言葉を選ばなければならぬ。又、物に就いて定まつた言葉遣ひがある。例へば物を數へるにも、机一脚、洋服一着、硯一面、馬一頭、鯛一尾、櫻一枝、菊一輪といふやうな區別があるから、一通りは心得ておかなければならぬ。「くるくる廻る風車」「ぐるぐる廻る水車」といふやうなわけで、その物によつて適當な言葉を選ぶことが大切である。次に、新しい言葉の選擇であるが、新しい言葉には、新しい單語と新しい言ひ廻しと二通りあつて、どちらも今盛んに用ひられ、又、どんどんふえて行く傾向である。しかし、この新しい言葉には、新しい事物が生じ、新しい考へ方をしなければならぬ必要に迫られて出來たものと、單に斬新奇拔を喜ぶといふ一時の衝動から流行してゐるものとある。この流行語といふものは、いはば人間生活の表面を流れる泡のやうなものであつて、いつの時代にも絶えるものではないが、又、永續きするものでもない。始終新しい流行語にとつて代られて、いつの間にか消えて行くものである。それ故、これを使はないと時代におくれるやうに考へるのは馬鹿らしいことであり、又、これを根だやしにしなければ國語が傷つけられるやうに考へるのも無用な心配である。隨つて、餘り問題にするには及ばない。唯どこまでも純正な上品なよい言葉を遣ふやうに考へることが必要である。
                             
(玉井幸助ノ文ニ據ル) 

 

 


  (注) 1.  上に示した『中等國語一〔後〕』の教科書は、昭和21年4月に戦後初めて旧制中学校に入学した生徒たちが使用した教科書の一部です。    
    2.  この年は、まだ新制中学校が発足していませんでした。翌昭和22年4月に新制中学校が発足して、昭和16年にできた国民学校に入学した生徒たちが新制中学の1年生になりましたので、昭和21年に中学に入った彼らは最後の旧制中学生だということになります。
 この年の教科書は、新聞紙のように印刷された用紙を、生徒各自が切りそろえて、自分で綴じて使った教科書です。
(この時期の教科書について、『北海道教育大学附属図書館』のホームページにある「第Ⅱ期北海道教育資料収集整備計画書」に、「墨塗り教科書に続き昭和21年度に使用された文部省著作の暫定教科書は、タブロイド版の極めて粗悪な新聞用紙に印刷され、大部分が製本されていない折りたたみ式で、殆どの教科が数冊の分冊で発行され、「折りたたみ教科書」とか「分冊仮綴じ教科書」と称されている」とあります。) 
   
    3.  この昭和21年8月6日発行・同日翻刻発行の『中等國語一〔後〕』の教科書には、薄い表紙(いわゆる扉に当たるもの)の裏側に「奥付」が付いていて、そこに「APPROVED BY MINISTRY OF  EDUCATION (DATE  Aug. 2, 1946)」と、線で囲んで3行に書いた文字があって、時代を示しています。    
    4.  上記の教科書本文中に、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号が用いられていますが、ここではそれらをすべて同じ文字を繰り返して表記してあります。(「こそこそ」「らくらく」「のびのび」「じりじり」「いろいろ」「つるつる」「つかつか」「われわれ」「たびたび」「一つ一つ」「それぞれ」など。)    
    5.  表紙裏側の奥付から、発行日その他を引いておきます。(一部の数字を算用数字に改めてあります。)
 『中等國語一』
   
昭和21年8月2日印刷 同日飜刻印刷
    昭和21年8月6日發行 同日飜刻發行

    [昭和21年8月6日 文部省檢査濟]  
    【後】定價七拾五錢  
   著作權所有
  著作兼發行者 文部省 
   飜刻發行者 東京都神田區岩本街三番地 
     
敎科書株式會社 代表者 加野庄吾
   印刷所 東京都神田區神保町三丁目二十九番地 
      
明和印刷株式會社 代表者 長苗三郎
   發行所 
中等學校敎科書株式會社    
    
敎科書番號 11ノ一
   
    6.  この年度の1年用の国語教科書には、この他に『中等國語一』(昭和21年3月17日発行)と『中等國語一[中]』(昭和21年6月28日発行)があります。昭和21年3月17日発行の『中等國語一』は、『中等國語一[前]』とあるべきものと思われます。     
    7.  ここに引いた『中等國語一[後]』の教科書(昭和21年度に旧制中学に入学した生徒が使った国語教科書)は、翌昭和22年には、この年に発足した新制中学用にきちんと した表紙のついた、別の内容のものが発行されたので、わずか1年でその役目を終えたものと思われます。その意味でも、今となっては貴重な資料といえるのではないでしょうか。新制中学用の国語教科書の総目録(目次)は、資料219にあります。)

 なお、この『中等國語一[後]』を使用した生徒たちが使った『中等國語一』([前])と『中等國語一[中]』の目録(目次)を、次にあげておきます。
(教材に錯簡・脱落のある恐れもあります。お気づ きの点がありましたら、ぜひお知らせ下さい。)

 『中等國語一』([前])(昭和21年3月17日発行 同日翻刻発行) 
    國文篇 
     
 一 富士の高嶺 二 親心 三 菖蒲の節供 四 柿の花 五 涼み臺 六 秋から春へ

 ○ 『中等國語一[中]』(昭和21年6月28日発行 同日翻刻発行)
    文法篇 [口語]
 一 國語 二 音聲と文字 三 文と文節 四 文節と單語 五 自立語で活用の有るもの 六 自立語で活用の無いもの(一) 七 自立語で活用の無いもの(二) 八 附属語で活用の有るもの 九 附属語で活用の無いもの 十 品詞分類  十一 口語動詞の活用(一) 十二 口語動詞の活用(二) 十三 口語動詞の活用(三) 十四 口語形容詞の活用 十五 口語形容動詞の活用   附表
    漢文篇
 一 律詩二首  二 眞爲善者  三 眞爲學問者  四 鏡  五 七言絶句二題 六  德與財 七 常與變 八 薊與馬之事 九 外盛則内衰 十 五言絶句二題  十一 述懷 十二 膏梁子弟 十三 地動與潮雞

 一 律詩二首(藤田幽谷「暮春 柳堤晩歸」「丙午早春 過柳堤」)  二 眞爲善者(尾藤二洲『冬讀書餘』巻之二)  三 眞爲學問者(西山拙齋『閒牕瑣言』)  四 鏡(『十八史略』巻五 唐太宗文武皇帝)  五 七言絶句二題(頼杏坪「江都客裡雜詩」、高千里「山亭夏日」)  六  德與財(中村蘭林『閒窓雜録』巻之二) 七 常與變(五井蘭洲) 八 薊與馬之事 九 外盛則内衰  十 五言絶句二題  十一 述懷 十二 膏梁子弟(安積艮齋『南柯餘論』巻之下)  十三 地動與潮雞(安積艮齋『南柯餘論』巻之上)  
   
    8.  『中等國語 一』([前])掲載の「涼み臺」の本文が、資料216にあります。
 『中等國語 一[中]』の漢文篇の「律詩二首」が、資料214の注の欄にあります。 
 『中等國語 一[後]』の「湖畔の冬」の本文が、資料220にもあります。
 『中等國語一[後]』掲載の「尊德先生の幼時」の本文が、資料214にもあります。
 『中等國語二(2)』掲載の「クラーク先生」の本文が、資料212にあります。
 『中等國語二(2)』掲載の「意味の変遷」の本文が、資料215にあります。
 『中等國語三(2)』掲載の「芭蕉の名句」の本文が、資料213にあります。 
   

 
       
        


             
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