資料481 柳田国男「布川のこと」(『故郷七十年』より)

 

         

  

     布川のこと          柳 田 國 男

  
 私は十三歳で茨城縣布川
(ふかは)の長兄の許に身を寄せた。兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にゐるといふ淋しい生活であつたため、しきりに近所の人々とつき合つて、土地の觀察をしたのであつた。あの町は古い町で、いまは利根川の改修工事でなくならうとしてゐるさうだが、最初驚いたのは子供らがお互ひの名を呼びすてにすることであつた。トラ、クマといつた具合の呼び方は、播州の方では從兄弟か伯叔父甥、また兄弟でなければしなかつたのであるから、私にすれば、彼らがみな親戚の間柄だと思つてしまつたのである。ところがよく考へてみると、さうではなく、たゞ一緒に育つたといふだけで、子供同士であれば符號みたいなものでいゝわけだが、大人たちもやはり、他家の子を呼びすてにする。例へば私の隣家は元地主の大きな商家だつたが、そこの市五郎といふめつかちの下男が、主人の子供を「ジュン」などと呼びすてにしてゐるから驚いてしまつた。
 私の故郷辻川では呼び方に「ヤン」と「ハン」の二つがあり「ハン」の方が少し尊敬の意がこもつてゐる。私たち兄弟はあの時代にはちよつと珍しい名で呼びづらく「作」とか「吉」がついてゐずに、下から三人ともみな字の違つた「ヲ」がついてゐる。學校でも男、雄、夫の違ひには隨分困つたらしいが、私たちの呼び方は「クニョハン」(國男はん)「シズォハン」(靜雄はん)「テロハン」(輝夫はん)と呼ばれてゐたものだつた。
 布川の町に行つてもう一つ驚いたことはどの家もツワイ・キンダー・システム(二兒制)で一軒の家には男兒と女兒、もしくは女兒と男兒の二人づつしかないといふことであつた。私が「兄弟八人だ」といふと「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかつた事情は子供心ながら私にも理解ができたのである。あの地方はひどい饑饉に襲はれた所である。
 食糧が缺乏した場合の調整は死以外になく、日本の人口を溯つて考へると、西南戰爭以後までは、凡そ三千萬人を保つて來たのであるが、これはいま行はれてゐるやうな人工妊娠中絶の方式ではなく、もつと露骨な方式が採られて來たわけである。あの地方も一度は天明の饑饉に見舞はれ、ついで襲つた天保の饑饉はそれほどの被害は資料の上に見當らぬとしても、さきの饑饉の驚きを保つたまゝ天保のそれに入つたのであらうと思はれる。
 長兄の所にもよく死亡診斷書の作製を依頼に町民が訪れたといふ事例をよく聞かされたものであつたが、兄は多くの場合拒絶してゐたやうである。
 約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く殘つてゐるのは、あの河畔に地藏堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された繪馬が掛けてあつたことである。
 その圖柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰兒を抑へつけてゐるといふ悲慘なものであつた。障子にその女の影繪が映り、それには角が生えてゐる。その傍に地藏樣が立つて泣いてゐるといふその意味を、私は子供心に理解し、寒いやうな心になつたことを今も憶えてゐる。
 地藏堂があつた場所は、利根川の屈折部に突き出し、そこを切つたことがあることから「切れ所
(しよ)」と呼んだが、足利時代の土豪が築城した場所で空濠があつた。その空濠の中に、件の地藏堂は建つてゐたのであるが、その向ふに金比羅樣があり廣場があつて毎年春先になると土地の景氣の金比羅角力が興業された。
 面白いことにそこに一茶の句碑が建つてゐた。いまではもうその句碑も誰かに持ち去られたといふことであるが、後年調べてみると土地の古田といふ問屋の隱居が一茶に師事してをり、一年に二、三囘一茶が訪れてゐるといふ事實が判明した。碑に刻まれた句は、

   べつたりと人のなる木や宮角力

 私は子供心に一茶といふ名の珍らしさと、その句の面白さを感じたものであつたが、まだ當時は一茶を知る人もないころのことである。
  

 

 



  (注) 1.  上記の「布川のこと」の本文は、『定本 柳田國男集別巻第三(新装版)』(筑摩書房・昭和46年3月20日第1刷発行、昭和50年5月20日第6刷発行)所収の『故郷七十年』によりました。    
    2.  巻末の「あとがき」に、「「故郷七十年」は、昭和三十三年一月八日から同年九月十四日まで、二百回に亙つて神戸新聞に連載されたものである。神戸新聞社創立六十年記念の為に、兵庫県出身の著者が、嘉治隆一氏の慫慂により口述筆記せしめたものである。後、昭和三十四年十一月編集をかえて、単行本としてのじぎく文庫より出版された。本書は新聞発表当初の体裁を踏襲し、それに未発表の分を拾遺として附加した」とあります。    
    3.  柳田国男(やなきた・くにお)=民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(1875~1962) (『広辞苑』第6版による。) 
  
柳田国男の「柳田」は、「田」を濁らずに「やなぎた」と読ませていることに注意が必要です。
   
    4. 柳田国男の次の資料があります。
 資料487 柳田国男「藤村の詩「椰子の実」」(『故郷七十年拾遺』より)
 資料482 柳田国男「ある神秘な暗示」(『故郷七十年』より)

 資料485 柳田国男「大利根の白帆」(『故郷七十年』より)
 資料484 柳田国男「イナサ(東南風)」(『故郷七十年』より)
 資料486 柳田国男「ヨナタマ(海霊)」(『故郷七十年』より)
 資料480 柳田国男「不幸なる芸術」
   
   
    5.  兵庫県にある『福崎町立 柳田國男・松岡家記念館』のホームページがあります。      
    6.  青空文庫で、『遠野物語』『木綿以前の事』などを読むことができます。
    → 『遠野物語』
    → 『木綿以前の事』

     
   
    7.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「柳田国男」の項があります。
  フリー百科事典『ウィキペディア』 
    → 
柳田国男」
   

  


       

       
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