資料480 柳田国男「不幸なる芸術」

 

         

  

     不幸なる藝術       柳 田 國 男

       一
 左傳を讀んで見ると、これはあの時代の賢人が世を導く爲に、著はした歴史の書なるにも拘らず、不思議に惡人ばらの惡巧みに、興味を持つて居た筆の跡が目につく。後世曲亭馬琴といふ類の勸善懲惡家が、むやみに奸惡の徒の顎の骨を尖らしめ、名前まで大塚蟇六などゝいふ碌でも無いのを付けて、終には我々をして悉くその插畫の顔をこすり潰さしめずんば止まなかつたのに比べると、驚くに絶えたる雅量であり、又昔なつかしい趣味でもあつた。あまり面白いから、二つ三つ實例を擧げて見よう。
 たとへば楚の大子商臣、父王を怨んでしかも其心を測りかね、其師潘崇
(はんすう)に告げて曰く、之を如何にしてか察せんと。崇答ふらく、「江羋(かうび)を亨(きやう)して敬するなかれ。」江羋は王の妹、即ち大子の叔母樣である。御馳走に招いて置いて、わざと失禮なことをして御覽なさいといふのである。さうすると謀計果して圖に當り、叔母さんは大いに怒つてしやべつてしまつた。「あゝ役夫(えきふ)、むべなり君主の汝を殺して職を立てんとするや」と。職といふのは大子の弟の名であつた。そこで潘崇に告げて曰く、信なり矣云々。それから官兵を手なづけて、冬十月には父成王を攻めて殺してしまつた。熊の掌を煮て食ふ間待つてくれと請うて、許せれなかつた王樣である。
 今一段と皮肉なのは、同じく楚の大子建の小師費無極、大子に寵無きを憤つて離間を策したが、如何にも手の込んだ支度をして居る。「曰く建室すべし」。即ち大子も御年頃なれば、もはや奥方を御迎へなさるべしと言上したのである。さうして秦に聘して美しい夫人を約束し、後に盛んに其美を説いて、終に父王をして其女性を横取させた。如何に仲の好い親子でも、斯んなことをすれば氣まづくなるにきまつて居る。それから國境に大きな城を築いて、大子をそこに置くことを勸めたのも同人の惡巧みで、さて愈々といふ讒言は、それから後にゆつくりと計畫して又成功して居る。有名な伍子胥
(ごししよ)の父親なども、此難に遭うて殺されたのである。
 女性の黠智には更に自由にして且つ美しいものがあつた。晉の驪姫は實の子の奚齊
(けいせい)を立てんとして、孝心の深い大子申生を陷れるのに、斯んな策を用ゐて居る。「姫大子に謂つて曰く、君夢に齊姜を見たまへり。必ず速かに祭したまへ」と。齊姜は大子の亡き母である。夢に見たと聽いては子は供養をせねばならず、その供へ物は又夢を見た人に分たねばならぬ。それをよく知つて居て、其酒肉にはそつと毒を入れて置き、獵から歸つて來た殿樣に、わざと氣の付くやうにして差出した。「公之を地に祭れば土わきかへり、犬に與ふれば犬斃れ、小臣に與ふれば小臣も亦斃る。姫泣いて曰く賊は大子に由る」と。乃ち涙といふ鋭利なる武器を以て、計略の繋ぎ目を補うて居るのである。
        二
 この一條の物語の如きは、前の半分は大子以外に語る者が無く、後の半分は公獨り親しく實見したので、一貫して之に參與した者はかの一人の外面如菩薩だけであるが、彼女は永遠に其記憶を欺いた筈である。然るに惡人でも無い左丘明といふ盲目の歴史家が、果して何の力を以て其光景を眼前に見るが如く、鮮麗に又簡潔に、書き傳へることを得たかといふと、彼が史實に忠誠であつたと同じく、又時代の傳承といふものに、甚だしく冷靜なることを得なかつた結果である。實際又左氏の熟視した人生には、女子小人その他の凡庸が、何れの時代よりも遙かに敏捷に、活躍して居た樣にも考へられる。
 次の一つの例は、或ひは左傳の中では無かつたか。搜して見たけれども急には中々出て來ない。よつて無責任ながら少年の頃の記憶で書いて置くが、是もやはり被害者が善良なる若殿であつた場合である。少しも缺點の無い大子を陷れんとして、美しい繼母は自分の衣に蜜を塗つて、花園の中を逍遙して居る。殿樣は遠くからその美しい姿を眺めて居る。熊ん蜂が飛んで來て奥方の衣の蜜に附かうとする。折から來かゝつた大子が思はず近よつて、手を揚げて之を拂ひのけると、わざと高い聲を立てゝ宮殿へ走り込み、王の側に來て息を切り、眼には淸い液體を湛へて居る。一つの大悲劇は、此の如くにして亦製造せられざるを得なかつたのである。
 女の一心が善惡に拘らず、兎に角に是だけ自然に近い芝居を仕組んで、一度の練習も無しに上品に綺麗に、豫定の效果を收め得たといふことは、勿論興味ある出來事には相違無いが、それよりも更に我々に取つての一奇蹟は、それを詳細に諒解したのみならず、假令敬服したのでは無いまでも、百世の末までに、言ひ嗣ぎ語り傳へんとした人の心である。現に自分なども憎いなとは感じつゝも、其計略の如何にも掌を指すが如くなるを見て、新たに人間の力の意外なる展開を經驗し、子供ながらも消し得ない印象を得たのであつた。さうして此頃になつて、生活價値論の説法を聽くに及んで、再び又何故にあんな歴史が、世に傳はらねばならなかつたかを疑ひ始めて居るのである。
 人によつては或ひは無造作に、偶然に傳はつたから傳へるのだ、もう是からはあんな愚劣な事件は、わざとでも湮滅せしめた方がよいのだと言ふかも知れぬ。成るほど我々の同胞は、記録に對しては極度に敬虔であつた。殊に古いといふことは一切の批判を緩和し、有る限りの趣味を妥協せしめる。しかも文書の根原に溯つて、初めて此材料を紙の上に排列した人の心持を尋ねると、彼等の後裔がこれほどまでに寛大なるべきを豫期して、勝手気儘な樂書をしたのでもなければ、又其當時の現實に盲從して、知れば必ず書き殘すといふ程に、無選擇でも無かつたらしい。古人に取つては紙筆は貴重であつた。彼等はやゝ過當にすら墨を吝んで居る。たゞ今日と異なる所は、人生に對する興味であつた。彼等は惡の藝術に對して、頗る我々とちがつた鑑賞態度を、持つて居たらしいのである。
        三
 此痕跡は我々の時代のやうに、出來るだけ敵といふ言葉を使ふまいと骨折る人が多くなつても、なほ折々は之を認めることが出來たのである。杜騙
(とへん)新書といふ本の日本に飜刻せられたのは、確かに明治になつてからの事である。出版者は申し譯ばかりに、世渡りの用心の爲などゝ言つたらうが、自分たちの夜を徹して讀み耽つた動機は、寧ろ惡に働く人間の智慧が、楠正成孔明その他の僅かな例外を除けば、到底正直善行の方面に於ては見ることの出來ぬやうな、複雜にして且つ變化に富んだものであつたからでは無かつたか。そればかりでは無く、毎日の新聞を見ても、確かに隣人がその惡の爲に傷き惱むことを知りつゝも、所謂警察種の、殊に憎々しいけしからぬ事件に注意する。つまりは動物園の檻の中に、虎獅子を見舞ふ心持と同じなのである。無論讃歎では無いが、さりとて討伐退治といふ類の、正義感からでも無かつたのである。
 惡の技術はもはや一つとして、この統一せられた平和の社會に、入用なものは無い筈であるが、曾て人間の智巧が、敵に對して自ら守る爲に、之を修練した期間が餘りにも久しかつた故に、餘勢が今日に及んで、なほ生活興味の一隅を占めて居るのである。實際に我々の部落が一つの谷毎に利害を異にした場合には、譎詐陰謀は常に武器と交互して用ゐられて居た。友に向つて之を試みることは、弓鐵砲以上に危險であつたから、射垜
(あづち)も設けられず、道場も他流試合も無く、治に居て亂を忘れずといふ格言すら、此方面には封じられて居たけれども、如何せん別に何等かの其缺點を補充する敎育が無かつたら、到底安泰を期せられぬ樣な國情が、隨分久しい間續いて居たのである。韓非子とか戰國策とかマキャベリとかいふ書物ばかりが、其役目を勤めたとも限らなかつた。けちな人間同士のけちな爭鬪には、やはり微細な小規模な惡計も、習練して置く必要があつたのである。
 日本は中華民國よりも、もとは遙かに幸福な國であつて、惡巧みの必要が夙くから減少し、從つて目に見えて此方面の技術は劣つて居る。その證據としては偶々何かの必要があつて、之を應用した場合を見ると、感歎するどころか、何としても眉を顰め、面を背けずには居られぬやうな、必要以上に害の大いなる慘虐ばかりが多かつた。一例をいふと足利末期の血戰時代には、どうでも倒さねばならぬ隣の大名に、娘を縁付けて少しく安心させ、聟入りの日に之を討取つたといふ話が幾らもある。重臣の手強い者は公然と懲罰もなし難く、主人が率先して之を騙しすかし、不意に御諚といつて首を刎ねたりした。伊太利の中世なども爭ひが隨分ひどかつたやうだが、それでも此樣な露骨な謀計は無かつたかと思ふ。然るに我々の中世の軍書には、こんなにがにがしい記事を以て充ちて居る。敎科書にも何にもなり得なかつたわけである。語を換へて言ふならば、是は鬪諍の少なくなつた社会に於ける、惡の技術の著しい退歩であつた。
 惡は現代に入つて更に一段の衰微を重ね、節制も無ければ限度も知らず、時代との調和などは夢にも考へたことは無く、毒と皿との差別をさへ知らぬ者に、稀には惡事の必要不必要を判別させようとしたのだから、この世の中もべら棒に住みにくゝなつたわけである。兵は兇器なりと稱しつゝ兵法を講じた人の態度に習ひ、或ひは改めてこの傳世の技藝を硏究し、悲しむべき混亂と零落とを防ぐべきではあるまいか。
        四
 自分たちの學問の領内では、前代の惡の技術は、無邪氣なる武邊咄と同じく、明るい色の着物を着て遊んで居る。敵が攻めて來て味方よりも強ければ、ペテンを以てへこませるの外はない。從つてうそつきの巧名談といふものが、永く竹帛に傳へられることになる。人間を嘲り罵るのは惡いことだが、對陣の場合には斯うして味方の士氣を振はしめる必要がある。故に常から狗の子が嚙み合ふ程度ぐらゐに、少しづゝは惡口の練習もして置かねばならなかつた。其趣味を養成する手段としては、日本には多くの馬鹿聟の昔話がある。或ひは又山家のヲッサンや「こば唐人」の話がある。慾張り和尚の失敗談もある。二人椋助一流の童話には、うそつき榮え愚直滅び、めでたしめでたしといふやうな淺ましいものさへあつて、「昔」ならばそんなこともあらうと、面白く笑つて人が之を聽いた。それが御差合とあらば、別になほ目に見えぬ人間の敵あり、沼の藤六、曾呂利の輩は見越入道を征服し、或ひは天狗を欺いて羽團扇や隱れ簑笠を捲き上げ、或ひは八化けと名乘つて七化けの狐を裏切つて居る。乃ち我々の日常生活の權道主義は、十分とまでは云はれなかつたが、未だ其傳統を絶つには至らなかつたのである。
 ハイネの諸神流竄記を讀んで見ると、中世耶蘇敎の強烈なる勢力は、終にヴェヌスを黑暗洞裡の魔女となし、ジュピテルを北海の寂しい濱の渡守と化せしめずんば止まなかつた。それと全く同樣に、我々の系統ある僞善、即ち惡の必要を理解し得ざりし人々の辭令文學は、結局惡業を全滅し得ずして、たゞそれを物凄い黑い技術としてしまつたのである。殊に今日の所謂被害者の階級は、自身馬鹿らしい浪費を事としつゝも、なほ惡から受ける微小なる損害をも忍んで居なかつた。故に二つの要求が合體して、この久しい歴史ある一種の藝術を、永く記録文獻の外に驅逐することゝなり、學問の目的物としては、終に空中のエレキやバクテリヤ以上に、取扱ひにくい社會現象としてしまつたのである。
 しかも食ひ遁げ押借りといふ類の、半公開の技術で無くとも、尾佐竹猛君も既に説かれた如く、インチキにもサクラにも流行があり改良がある上に、一方には古今一貫の口傳があるらしいのを見れば、學校とか研究所とかいふ新式の文字を使はぬだけで、例へば天草や五島の切支丹の如く、人に隱れて不完全なる相續はして居たのである。筋肉の運動の爲ならば公共の入費で、弓術劒道等の古い不用の武藝でも演習する。故に斯ういふ昔からの横着猾智姦計の類も、そんな外部の批判的名稱には累はされずに、單に快樂として、又若干の將來の必要に備ふべく、一定のグラウンドを設けて之をスポーツ化し、無學無敎育の現在の惡人共をして、牛刀鷄を割くが如き無茶な事をさせぬ樣にするのが、經濟の上から見てもやはり利益であるやうに私は思ふ。
        五
 元來自分の志は、被害者といふやうな私心を離れて、今一度この消えて行く古風の藝術を見ようといふに在るのだが、不幸にして渡世が拙なる爲に、終に騙されても構はぬといふ迄の生計の餘裕が出來なかつた。だから撃劒の稽古でいふならば、いつでも面籠手を着けずに竹刀で打たれる樣な結果になつて、心靜かに傳統の趣きが味はへない。さうかと言つて他人のやつ付けられるのを、面白さうに見物して居るわけにも行かぬ。うつかりすると同類かと疑はれるからである。それ程までに世間はもう容赦なくなつたからである。やはり不滿足でも自分の實驗を語る他はないやうである。
 私の經驗では、此方面でも昔の作品は念が入つて居る。從つて手間を食うてやゝ引合はぬ形がある。以前小樽で知合ひになつた某といふ男の如きは、僅か十五圓の金を私から借り倒す爲に、半歳に近い苦勞と三分の一ほどの入費を使ひ、其上に五つほどの大きなウソをついて居る。「このあひだ新カズノコを一樽、船便で出しましたがまだ屆きませんか」と謂つた。「何とかして獵虎
(らつこ)の皮を一枚、手に入れて差上げようと思つて方々へ賴んであります」とも謂つた。「アザラシならば二枚持つて居ます。あれはカバンなどに張るのは勿體ない。是非チョッキに仕立てさせて御覽なさい、さし上げます。私も着て居ますが中々ようございます」とも謂つた。そればかりか既に初めて逢つた時にも、樺太は水が良くない。炭酸水を御持ちなさるがいゝと謂つて、現に船の出る間際に、繩で括つた一ダースを屆けてくれた。然るに樺太へ行つて見ると水は大いに良い。つまらぬ物を持つて來たと、船の中からもう人に笑はれた。斯ういろんな事をされては長くなる程氣味が惡い。早く勘定を取りに來てくれた方がよいのにと思つて居ると、その中に遣つて來て騙したのである。騙されてやれやれと思つたやうな場合が、私などにさへあるのだから、たしかに人生は活きるに値ひする。
 しかしともかくもウソといふものは、誠に本當とよく似たものであつた。それから後二十年に近くなるが、私の家では「海豹のチョッキ」といふ諺が出來て、年に二三度づゝは之を使用する必要が生ずる。想像して見ると愉快さうな計畫で、しかも先づだめといふことの豫測せられる場合に、簡便の爲にこの手製自家用の諺を持出すのである。私も妻や子供に、折々この海豹のチョッキを着せてやつたことがある。小樽で出逢つた惡人などは、逞ましい金齒の、太つた四十ばかりの男であつたが、もう何處かで斯んな事を忘れて老いて居るであらう。生まれは大阪だと言つたが、案外に古風な着實な惡人であつた。あんなのは少し位は世の中に居た方がよいかとさへ思ふ。
        六
 それから此頃になつて、又一つ奇拔な實例が出現した。出入の八百屋に評價をさせて見ると、此惡人の不當所得は五十錢ばかりのものであつた。それに對して非常に大掛りな、堂々たる詐欺手段が講ぜられたのである。
 夏の初めの或日の午前であつた。臺所の者が見ごとな胡瓜と茄子を手に載せて、是が一錢づゝだと申しますといふ。早速家内が出かけて見ると、賣りに來た百姓が盛んにしやべつて居る。如何にも不意氣な、きよとんとした小男であつたといふ。わしんとこでは畑が廣くて、自分で作るから安いのだ。玉川の遊園地へ行く路の、左とか右とかに見える竹藪の家がさうだと謂つた。うちは十五人家内で、今日も四人づれで町へ出た。娘は十八でついそこ迄車を曳いて來て居る。ぢい樣は九十一で丈夫で、何と云つても聽かぬから一しよに來た。車は二つ持つて居て一方は馬、一方は牛に曳かせて來た。茄子も胡瓜もその車に積んであると言つて、此男は苦竹
(はちく)の筍だけしか擔いで居なかつた。それでも何かのぐあひで胡瓜の前金をくれとも言へなかつたと見えて、筍の代ばかりを受取つてそれつきり遣つて來なかつたのである。
 三十年も前から、年に一度か二度、暮には剝製の足の無い鴨を賣りに來たり、或ひは底の二重になつた醤油樽、練り物の鰹節などを持込む者もあつたが、大抵は成功せずに澤山の家を歴訪して居る。あんなのは寧ろ看破しない方がよいのだ。今時これ程の手數をかけ、足を使つて、詐欺取財などになつては引合つた話で無い。いはゞ彼等は惡者の中の愚直なる保守派である。由緒の確かな古い樣式に囚はれてしまつて、餘計の辛勞をして居ることを自覺せぬ者だ。殊に玉川の農家に十八の少女と、九十一歳の白髮翁とを點出するに至つては、尋常の所謂身邊小説家の企て及ぶべからざる拮据經營であつた。我々は寧ろ賢明にして、永く彼等の爲に欺かれてやり得ないことを悲しまねばならぬ。
 話はまあこの位にして置いて、終りにこの人生の惡の藝術が、末にはどうなつてしまふかといふことを考へて見よう。自分等の存在する期間ぐらゐは、凡そこの世の中に惡の華の入用が無くなつて、生活がたとへばホップを使はぬ麥酒の如く、なつてしまはうとも思つては居ないが、その衰頽の兆は今すでに顯著である。優れたる人物に敵が無くなり、わけの分らぬ壓抑が無くなれば、勿論彼等は斯んな仕事の爲に苦勞はしない。敵意があればこそ惡意は其存在を認められるのである。凡庸の多數には勿論いつ迄も敵はあらうが、彼等の力には稍々この藝術は高尚すぎる。必ず今日以上に見つともない、且つ無茶な危險な取扱ひ方をして、見物をして愛想をつかさしめるだらう。さうすれば永く流行しないにきまつて居る。しかしさうして一切の傳統と絶縁し、あらゆる習練の機會を奪ひ去り、單に少數の病的天才の跋扈跳梁に放任することが、果して安全の途であるか否かには疑問がある。殊に法令が設けた惡の階段には、不當に智慧のある者のみを贔屓する姿がある爲に、却つて術乏しき者をして無法な鬪爭をなさしめる。遠く歴史を回顧するまでも無く、今でも地方には恨の刃だの、或ひは「赤い鳥を飛ばせる」だのと稱して、拙劣なる惡業に澤山の犧牲を拂つて居る。その最も愚なる例としては、自分の讐家の軒に縊れて、化け物となつて後に報復しようとする者さへあつた。つまりは民衆は惡の藝術に飢ゑて居るのである。不幸にして世に此物の入用のある限りは、之を魔術の如く忌み嫌つてばかりも居られまいかと考へる。
  

 (はんすう)

 



   (注)  1. 上記の「不幸なる藝術」の本文は、『定本 柳田國男集第七巻(新装版)』(筑摩書房・昭和
         43年12月20日第1刷発行、昭和50年5月20日第8刷発行)によりました。
        2. 巻末の「内容細目」によれば、「不幸なる藝術」の初出は昭和2年9月『文藝春秋』(5巻9号)、
         「あとがき」によれば、単行本『不幸なる藝術』は、昭和28年6月、筑摩書房より発行、とありま
         す。
          『不幸なる藝術』には、論文「不幸なる藝術」の他に、「ウソと子供」「ウソと文学との関係」「た
         くらた考」「馬鹿考異説」「嗚滸の文学」「涕泣史談」が収められており、この他に昭和21年1月
         養徳社から発行された『笑の本願』に収められている論文「笑の本願」「笑の敎育」「女の咲顔」
         が収録されています。
        3. 平仮名の「く」を縦に長く伸ばした形の繰り返し符号は、平仮名を繰り返すことによって表記
         しました。(「にがにがしい」「やれやれ」)
          繰り返し符号「
」を二つ重ねた形の繰り返し符号は、「々」によって表記しました。(「愈々」
         「中々」「稍々」)
        4. 柳田国男
(やなきた・くにお)=民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て
                  朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学
                  研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(
1875~
                    1962
)                           (『広辞苑』第6版による。) 
         
柳田国男の「柳田」は、「田」を濁らずに「やなぎた」と読ませていることに注意が必要です。
        5. 兵庫県にある『福崎町立 柳田國男・松岡家記念館』のホームページがあります。  
        6. 青空文庫で、『遠野物語』『木綿以前の事』などを読むことができます。
                 → 『遠野物語』
                 → 『木綿以前の事』

        7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「柳田国男」の項があります。
                  フリー百科事典『ウィキペディア』 → 
柳田国男」
                                   

 

 



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