資料485 柳田国男「大利根の白帆」(『故郷七十年』より)

 

         

  

     大利根の白帆          柳 田 國 男

  
 布川といふ町は、利根川沿ひの一つの高臺のまはりに發達した所であつた。長兄の借りてゐた小川さんといふ昔のお醫者さんの家も、やはり高臺の裾を囘つた片側町の東町
東といふ、寂しいけれど興味のある部落であつた。非常に大きな邸で、庭にいろいろの木が植ゑてあり、石の乏しいその地方としては珍しい飛び石が百をもつて數へるほど置かれてゐた。
 利根川の流れに沿つて出來た村でありながら、丘陵の裾を囘つてのびてゐるので、いつの間にか家竝が川から離れて直角に東の方を向いてしまつてゐた。ところが利根の流れがやはりそこで屈曲して、やゝ東北に向つて流れてゐるので、川は私の家から遙か半里以上も離れた遠方にあり、直接には見えなくなつてゐた。途中には低いしめつぽい、排水の困難な水田が一里ばかり續いて、その左向ふ側に羽中
(はなか)といふ村があつた。布川から見渡すと手前の方にかなり背の高い松をたくさん植ゑてゐる家竝が續いてゐたが、そこからちよつと外れると、向ふ側はずつと松が低くなり、草つ原に近いやうな低い松林に續いてゐた。
 布川に行つて二、三日目に私はその低い松林の上をだしぬけに白帆がすうつと通るのを發見した。初めは誰かが帆のやうなものをかついで松林の向ふを歩いてゐるのではないかと思つた。何しろ船も見えず、そこに川が流れてゐることも知らなかつたからである。水害の多い所だから出來たのだらうが、その川の屈曲してゐるところに、約一里ほど長い中の島が、かなり急流に洗はれながら横たはつてゐた。布鎌
(ふかま)といつて、初めはむろん砂つ原だつたのだらうが、地味が豐かなので誰かが行つて畑作開墾をやり、そして松を植ゑたらしい。そこへ屋敷が出來、部落ができた。茨城縣側から見てゐると、手前にある松林と向ふの中洲の松原とが一つの地續きになつたやうに見えてゐた。その陸地續きに見えてゐる間を白帆がいくつも通つて行くのを見たのだから吃驚したのも無理はない。利根川の川口から十七、八里も溯つた所の松原の上を、そんなふうにして白帆が三分の二ぐらゐ姿をあらはしながら上下してゐる。
 これほど變つた景色を私は大きくなつてからも知らない。郷里の辻川は海から三、四里しか離れてゐないが、それでも海を見、船を見ようとすれば、かなり高い山の上に登つてちらつと眺め、「あゝ海が見えた」といつて喜ぶくらゐのものであつた。今までつひぞ白帆など見たことのなかつた私にとつてこのやうに毎日、門の前からほんの少し離れたところを何百といふ白帆が通るといふのは、本當に新しい發見であつた。それが子供の私にとつて非常によい刺戟となり、私が風といふものを觀察し、その名稱や方向に特別の興味を引かれるやうになつた一つの原因のやうに思はれてならない。
  

 

 



   (注)  1. 上記の「大利根の白帆」の本文は、『定本 柳田國男集別巻第三(新装版)』(筑摩書房・
         昭和46年3月20日第1刷発行、昭和50年5月20日第6刷発行)所収の『故郷七十年』によ
         りました。
        2. 平仮名の「く」を縦に伸ばしたような形の繰り返し符号は、上の文字を繰り返すことによって
         表記してあります(「いろいろ」)。
        3. 巻末の「あとがき」に、「「故郷七十年」は、昭和三十三年一月八日から同年九月十四日ま
         で、二百回に亙つて神戸新聞に連載されたものである。神戸新聞社創立六十年記念の為
         に、兵庫県出身の著者が、嘉治隆一氏の慫慂により口述筆記せしめたものである。後、昭和
         三十四年十一月編集をかえて、単行本としてのじぎく文庫より出版された。本書は新聞発表
         当初の体裁を踏襲し、それに未発表の分を拾遺として附加した」とあります。
        3. 柳田国男
(やなきた・くにお)=民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て
                  朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学
                  研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(
1875~
                    1962
)                           (『広辞苑』第6版による。) 
         
柳田国男の「柳田」は、「田」を濁らずに「やなぎた」と読ませていることに注意が必要です。
        4. 資料481に、柳田国男「布川のこと」(『故郷七十年』より)があります。
          資料482に、柳田国男「ある神秘な暗示」(『故郷七十年』より)があります。
          資料484に、柳田国男「イナサ(東南風)」(『故郷七十年』より)があります。
          資料486に、柳田国男「ヨナタマ(海霊)」(『故郷七十年』より)があります。
          資料480に、「柳田国男「不幸なる芸術」」があります。
        5. 兵庫県にある『福崎町立 柳田國男・松岡家記念館』のホームページがあります。  
        6. 青空文庫で、『遠野物語』『木綿以前の事』などを読むことができます。
                 → 『遠野物語』
                 → 『木綿以前の事』

        7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「柳田国男」の項があります。
                  フリー百科事典『ウィキペディア』 → 
柳田国男」
                                   

 

 

 

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