資料484 柳田国男「イナサ(東南風)」(『故郷七十年』より)

 

         

  

     イナサ(東南風)          柳 田 國 男

  
 利根の川口から十七、八里も上つた布川の邊を、白帆をはつた川船がひんぴんと通る日の風は、あの附近ではイナサと呼んでゐた。「良いイナサが吹く」といへば、風が海の方から吹いて來ることを指してゐたのである。私はイナサといふ風の名を初めて耳にした時、非常に深い印象を受けた。それからこの方イナサといふ言葉をきくといつも布川のころの少年の日を思ひ出す。
 東京でももちろんイナサといふ。例へば「今日はイナサが強いから火事が大きくなる」などといつて心配するのである。大體は海からの東南風の意味だが、もう少し幅が廣い風らしい。帆といふものは、眞正面の風だけでなく、いくらか紐とか綱で自由に加減しながら、少しぐらゐ正面から外れた風でも帆に受けて溯れるものである。つまり眞東南だけでなく、その兩側に少し外れた左右の風も含めて廣い東南風をイナサといふのである。
 イナサのイナといふのは萬葉集など古い書物にたくさん出てくる海原
(うなばら)、海神(うながみ)、海界(うなさか)などといふ海の古語、ウナがイナになつたもので海のことである。關東の平原などではもう風の名にしかこの言葉は殘つてゐない。イナサのサは風のことである。すべて風にはキとかシとかチ・サなどがついてゐるが、みな風のことである。
 土地の者はもちろん古い言葉だといふことを知らずに、東南から吹いて來る風をイナサと呼んでゐた。このイナサといふ風の名前を使ふ區域はなかなか廣い。たゞ北はさうひろくまで行つてゐないやうだ。西の方は思ひの外ひろく、四國の土佐、九州の日向の海岸の一部でも聞くことができる。大體において海を南にする地域に行はれてゐるのである。
 子供の私が大利根の白帆に驚き、イナサの名に強く心をひかれてから、その後少しでもこれに似よつた言葉があると、すぐ結びつけて考へるのが常となつた。しかし一歩進んで沖繩にも類似の言葉があつたらと思ひはじめたのはさう古いことではない。といつてももう二昔も前のことになるが、沖繩にヨナミネとかヨナウタ、ヨナバラ等ヨナといふ言葉がたくさんあるが、あれが海といふことではないかと思ふやうになつた。所によつてはイナミネなどといつてゐる所もあり、稻といふ字を書いたのもあるから、まだはつきりしたことはわからないが。
 けれども少なくとも沖繩で「物いふ魚」として傳はつてゐるヨナタマといふ魚の名のヨナは、ウナ・イナの關連から海のことではないかと思ふ一つの資料を提供してくれる。この話はちよつと面白いので次囘にのべるが、ヨナタマは海靈のことなのである。
 とにかく私がイナサに近い發音の言葉を見ると、いつでもパーッと利根川の白帆を思ひ出し、それからまた似たものがどこかにないかと探し出したりする習慣は、明治二十年九月、布川に移り住んだあの時に身につけたものであり、それがずつと今日までつゞいてゐるのである。
  

 

 



   (注)  1. 上記の「イナサ(東南風)」の本文は、『定本 柳田國男集別巻第三(新装版)』(筑摩書房・
         昭和46年3月20日第1刷発行、昭和50年5月20日第6刷発行)所収の『故郷七十年』によ
         りました。
        2. 平仮名の「く」を縦に伸ばしたような形の繰り返し符号は、上の文字を繰り返すことによって
         表記してあります(「なかなか」)。
        3. 巻末の「あとがき」に、「「故郷七十年」は、昭和三十三年一月八日から同年九月十四日ま
         で、二百回に亙つて神戸新聞に連載されたものである。神戸新聞社創立六十年記念の為
         に、兵庫県出身の著者が、嘉治隆一氏の慫慂により口述筆記せしめたものである。後、昭和
         三十四年十一月編集をかえて、単行本としてのじぎく文庫より出版された。本書は新聞発表
         当初の体裁を踏襲し、それに未発表の分を拾遺として附加した」とあります。
        3. 柳田国男
(やなきた・くにお)=民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て
                  朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学
                  研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(
1875~
                    1962
)                           (『広辞苑』第6版による。) 
         
柳田国男の「柳田」は、「田」を濁らずに「やなぎた」と読ませていることに注意が必要です。
        4. 資料481に、柳田国男「布川のこと」(『故郷七十年』より)があります。
          資料482に、柳田国男「ある神秘な暗示」(『故郷七十年』より)があります。
          資料485に、柳田国男「大利根の白帆」(『故郷七十年』より)があります。
          資料486に、柳田国男「ヨナタマ(海霊)」(『故郷七十年』より)があります。
          資料480に、「柳田国男「不幸なる芸術」」があります。
        5. 兵庫県にある『福崎町立 柳田國男・松岡家記念館』のホームページがあります。  
        6. 青空文庫で、『遠野物語』『木綿以前の事』などを読むことができます。
                 → 『遠野物語』
                 → 『木綿以前の事』

        7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「柳田国男」の項があります。
                  フリー百科事典『ウィキペディア』 → 
柳田国男」
                                   

 

 

 

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