資料78 二宮翁夜話(巻之五)

                     

         
二宮翁夜話   巻之五          福住正兄筆記

 

一八八 救荒の事を詳(ツマビラカ)に説(ト)き、草木(クサキ)の根(ネ)幹(ミキ)皮(カハ)葉(ハ)等食(シヨク)す可き物数十種を調(シラ)べ、且(かツ)其調理(テウリ)法等を記せし、小冊(ホン)を贈(オク)れる人あり、翁曰、草根木葉等、平日少しづゝ食して試(コヽロム)る時は、害(ガイ)なき物も、是を多(オヽク)食し日を重ぬる時は病(ヤマイ)を生ずる物なり、軽々(カロガロ)しく食するは悪(ア)しき事なり、故に、予は天保両度の飢饉(キキン)の時、郡村に諭(サト)すに、草根木葉等を食せよと云事は、決して云ず、病を生ずる事を恐(オソ)るゝが故なり、飢民(キミン)自(ミづから)食するは仕方なけれど、牧民(ボクミン)の職(シヨク)に居る者、飢民に向て、草根木皮を食せよと云ひ、且(かツ)之を食せしむるは、甚(ハナハダ)悪(ア)しゝ、之を食する時は、一時の飢(ウヘ)は補(オギナ)ふべしといへ共、病を生ずる時は救(スク)ふべからず、恐れざるべけんや、されば人を殺(コロ)すに杖(ツエ)と刃(ヤイバ)との譬(タトヘ)と、何ぞ異(コトナ)らん、是深く恐(オソ)るべき処なり、然といへども、食なければ死を免(マヌ)かるべからず、之を如何せん、是深(フカ)く考(カンガ)へずばある可らざる所以なり、予之に依て、飢人を救(スク)ふて、病を生ずるの恐なき方法を設(マウ)けて、烏山、谷田部茂木、下館、小田原等の領邑に施(ホドコ)したり、されば是等の書は、予が為る処と異(コトナ)る物なれば、予は取らざる也
一八九 翁曰、世の学者皆草根木葉等を調(シラ)べて、是も食すべし彼(カレ)も食すべしと云といへ共、予は聞くを欲(ホツ)せず、如何となれば自(ミづから)食して、能経験(ケイケン)せるにはあらざれば、甚(はなはダ)覚束(オボツカ)なし、且(かツ)かゝる物を頼(タノ)みにせば、凶歳の用意自(オのづから)怠(オコタ)りて世の害(ガイ)となるべし、夫よりも凶歳飢饉(キキン)の惨状(サンジヤウ)、甚敷を述(ノブ)る事、僧侶(ソウリヨ)地獄(ヂゴク)の有様を絵(ヱ)に書きて、老婆を諭(サト)すが如く、懇(コン)々説(ト)き諭(サト)して、村毎に積穀(ツミコク)を成す事を勧(スヽム)るの勝(マサ)れるに如ざるべし、故に予は草根木皮を食すべしと決して言ず、飢饉(キキン)の恐るべく、囲穀(カコヒコク)の為さゞるべからざる事をのみ諭(サト)して、囲穀をなさしむるを務(ツトメ)とす
一九〇 翁曰、予が烏山其他に施行せし、飢饉(キキン)の救助方法は、先(まヅ)村々に諭(サト)して、飢渇(キカツ)に迫(セマ)りし者の内を引分けて、老人幼少病身等の、力役に付き難(ガタ)き者、又婦女子其日の働(ハタラ)き十分に出来ざる者を、残(ノコ)らず取調(シラベ)させ、寺院か又大なる家を借受け、此処に集(アツ)めて男女を分ち、三十人四十人づゝ一組となし、一所(とこロ)に世話人一二名を置き、一人に付、一日に白米一合づゝと定め、四十人なれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥(カユ)に炊(カシ)ぎ塩を入れて、之を四十椀(ハン)に甲乙なく平等に盛(モ)りて、一椀づゝ与(アタ)へ、又一度は同様なれど、菜(ナ)を少しく交(マ)ぜ味噌(ミソ)を入れて、薄(ウス)き雑炊(ゾウスイ)とし、前同様に盛りて、一椀づゝ、代(カハ)る代(ガハ)る、朝より夕まで一日四度づゝと定めて、与(アタ)ふるなり、されば一度に二勺五才の米を粥(カユ)の湯に為したる物なり、之を与ふる時懇(ネンゴロ)に諭(サト)さしめて曰、汝等の飢渇(キカツ)深く察す、実に愍然(ビンゼン)の事なり、今与(アタ)ふる処の一椀の粥湯(カヒユ)、一日に四度に限(カギ)れば、実に空腹(クウフク)に堪難(タヘガタ)かるべし、然といへども、大勢の飢人に十分に与ふべき米麦は天下になし、此些(サ)少の粥湯(カヒユ)、飢(ウヘ)を凌(シノ)ぐに足らざるべく、実に忍(シノ)び難かるべけれど、今日は国中に、米穀の売(ウリ)物なし、金銀有て米を買ふ事の出来ざる世の中なり、然るに領主君公莫太の御仁恵を以て、倉(クラ)を開かせられ、御救(スク)ひ下さるゝ処の米の粥なり、一椀なりといへども、容易(ヨウイ)ならず、厚く有難く心得て、夢(ユメ)々不足に思ふ事勿れ、又世間には、草根木皮等を食せしむる事も有れど、是は甚(ハナハダ)宜(ヨロ)しからず、病を生じて、救(スク)ふべからず、死する者多し、甚危(アヤウ)き事なり、恐るべき事なり、世話人に隠(カク)して、決して草根木皮などは、少しにても食ふ事勿れ、此一椀づゝの粥(カヒ)の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、急度(キツト)与ふるなり、左すれば、仮令(タトヒ)身体は痩(ヤ)するとも決(ケツ)して、餓(ガ)死するの患(ウレヒ)なし、又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必なし、新麦の熟(ジユク)するまでの間の事なれば、如何にも能(よク)空腹(クウフク)を堪(コラ)へ、起臥(オキフシ)も運動(ウンダウ)も徐(シヅカ)にして、成る丈け腹(ハラ)の減(ヘ)らぬ様にし、命さへ続(ツヾ)けば、夫を有難しと覚悟(カクゴ)して、能空腹を堪(コラ)えて、新麦の豊熟(ジユク)を、天地に祈りて、寝(ネ)たければ寝(ネ)るがよし、起たければ起るがよし、日々何も為(ス)るに及ばず、只腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪(コラ)ゆるを以て、夫を仕事と心得て、日を送(オク)るべし、新麦さへ実法れば、十分に与ふべし、夫迄の間は死(シニ)さへせざれば、有難(ガタ)しと能々覚悟(カクゴ)し、返す返すも草木の皮葉等を食ふ事勿(ナカ)れ、草木の皮葉は、毒(ドク)なき物といへども腹(ハラ)に馴(ナ)れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然毒(ドク)なき物も毒(ドク)と成て、夫が為に病を生じ、大切の命を失(ウシナ)ふ事あり、必食する事なかれと、懇(ネンゴロ)に諭(サト)して空腹に馴(ナ)れしめ、無病ならしむるこそ、救窮(キウキウ)の上策(サク)なるべけれ、必此方に随(シタガ)ひ、一日一合の米粥を与へ、草木の皮葉などは、食せよと云はず、又食せしめざるなり、是其方法の大略なり、又身体強壮(キヤウソウ)の男女は別に方法を立て、能々説(ト)き諭(サト)して、平常五厘の繩一房を七厘に、一銭の草鞋(ワラジ)を一銭五厘に、三十銭の木綿布を四十銭に買上げ、平日十五銭の日雇賃銭は、二十五銭づゝ払ふべきに依り、村中一同憤発(フンパツ)勉強(ベンキヨウ)し、勤て銭を取て自(ミづから)生活を立つべし、繩(ナワ)草鞋(ワラジ)、木綿布(モメンヌノ)等は、何程にても買取り、仕事は協議(ケフギ)工夫を以て、何程にても、人夫を遣(ツカ)ふべければ、老幼男女を論ぜず、身体壮健(ソウケン)の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜は入て繩を索(ナ)ひ、沓(クツ)草鞋(ワラジ)を作るべし、と懇(コン)々説諭(セツユ)して、勉強(ベンキヨウ)せしむべし、偖(サテ)其仕事は、道橋を修理(シユリ)し、用水悪水の堀(ホリ)を浚(サラ)ひ、溜(タメ)池を掘(ホ)り、川除け堤(ツヽミ)を修理し、沃土(ヤクド)を掘出し、下田下畑に入れ、畔(アゼ)の曲れるを真直に直し、狭(セマ)き田を合せて、大にするなど、其土地土地に就(ツイ)て、能工夫せば、其仕事は何程もあるべし、是我手に十円の金を損して、彼に五十円六十円の金を得さしめ、是に百円の金を損して、彼に四百円五百円の益を得さしめ、且(かツ)其村里に永世の幸福を貽(ノコ)し、其上美名をも遺(ノコ)す道なり、只恵(メグ)んで費(ツヒ)へざるのみにあらず、少く恵(メグ)んで、大利益を生ずるの良法なり、窮(キウ)の甚きを救(スク)ふ方法は、是より好きはあらじ、是予が実地に施行せし、大略なり
一九一 翁又曰、天保七年、烏山侯の依頼(イライ)に依て、同領内(リヨウナイ)に右の方法を、施行したる大略は、一村一村に諭(サト)して、極難(ゴクナン)の者の内、力役に就(ツ)くべき者と、就(ツ)くべからざる者と、二つに分ち、力役に就(ツ)くべからざる、老幼病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅(ゼン)堂講(カウ)堂物置其外寺院又新(アラタ)に小屋廿棟(ムネ)を建設(タテマウ)け、一人白米一合づゝ、前に云る方法にて、同年十二月朔日より翌(ヨク)年五月五日まで、救ひ遣し、飢人欝散(ウツサン)の為に藩(ハン)士の武術稽古(ブジユツケイコ)を此処にて行はせ、縦覧(ジウラン)を許(ユル)し、折々空砲(クウホウ)を鳴して欝気(ウツキ)を消散(シヨウサン)せしめたり、其内病気の者は自家に帰(カヘ)し、又別に病室を設(マウ)けて療養(リヤウヤウ)せしめ、五月五日解散(クワイサン)の時は、一人に付白米三升、銭五百文づゝを渡(ワタ)して、帰宅せしめたり、又力役に付べき達者の者には、鍬(クハ)一枚づゝ渡(ワタ)し遣(ツカハ)し、荒(アレ)地一反歩に付、起返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合(あはセ)て一円半、外に肥(こやシ)代壱分を渡し、一村限り出精にて、事に幹(クワン)たるべき者を人撰(セン)し、入札にて高札の者に、其世話方を申付、荒田を起反(オコシカヘ)して、植(ウヘ)付させたり、此起返し田、一春間に五十八町九反歩植付になりたり、実に天より降(フル)が如く、地より湧(ワ)くが如く、数十日の内に荒田変(ヘン)じて水田となり、秋に至りて其実法直に貧民食料の補ひとなりたり、其外沓(クツ)草鞋(ワラジ)繩(ナハ)等を、製造せし事も莫太の事にして、飢民一人もなく、安穏(アンノン)に相続(ゾク)し、領主君公の仁政を感佩(クワンパイ)して、農事を勉励(ベンレイ)せり、豈(アニ)悦(ヨロコバ)しからずや
一九二 翁又曰、右の方法は只窮救(キウキウ)の良法のみにあらず、勧業の良法なり、此法を施(ホドコ)す時は、一時の窮(キウ)を救(スク)ふのみならず、遊惰(ユウダ)の者をして、自然勉強(ベンキヤウ)に趣(オモムカ)しめ、思はず知らず職業(シヨクギヤウ)を習(ナラ)ひ覚(オボ)えしめ、習(ナラヒ)性と成て弱(ヨハキ)者も強者となり、愚者も職(シヨク)業に馴(ナ)れ、幼者も繩を索(ナ)ふ事を覚え、草鞋(ワラジ)を作る事を覚へ、其外種々の稼(カセギ)を覚えて、遊(ユウ)手徒食の者なくなりて、人々遊手で居るを恥(ハ)ぢ、徒食するを恥ぢて、各々精業に趣く様に成行ものなり、夫恵(メグ)んで費えざるは、窮を救ふの良法たり、然といへども右の方法は、是に倍(バイ)したる良法と云べし、飢饉(キキン)凶歳にあらずといへども、救窮に志ある者、深(フカ)く注意せずばあるべからず、世間救窮に志ある者、猥(ミダ)りに金穀(キンコク)を施与(セヨ)するは、甚宜しからず、何となれば、人民を怠惰(タイダ)に導(ミチビ)くが故なり、是恵(メグ)んで費(ツヒ)ゆるなり、恵で費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発(フンパツ)勉強(ベンキヤウ)に趣(オモム)かしむる様にするを、要するなり
一九三 翁曰、囲穀(カコイコク)数十年を経(ヘ)て少も損(ソン)ぜぬ物は、稗(ヒエ)に勝(マサ)れるはなし、申合せて成丈多く積置くべし、稗を食料に用ふるに、凶歳の時は糠(ヌカ)を去る事勿れ、から稗一斗に小麦四五升を入れて、水車の石臼(ウス)にて挽(ヒ)き、絹篩(キヌブルヒ)に掛けて、団子(ダンゴ)に制して食すべし、俗に餅草(モチグサ)と云蓬(ヨモギ)の若葉を入るれば、味(アジ)好(ヨ)し、稗を凶歳の食料にするには、此法第一の徳用なり、稗飯にするは損なり、されど上等の人の食料には、稗を二昼夜間、水に漬(ツ)けて、取上げて蒸籠(セイロウ)にて蒸(ム)して、而して能干し、臼(ウス)にて搗(ツ)き、糠(ヌカ)を去りて、米を少く交(マ)ぜて、飯(メシ)に炊(カシ)ぐなり、大に殖(フエ)る物なれば、水を余分に入て、炊くべし、上等の食に用ふるには此法に如くはなし、されば富有者自分の為にも、多く囲(カコ)ひ置て宜敷物なり、勉めて積囲(ツミカコ)ふべし
一九四 翁曰、人世の災害(サイガイ)凶歳より甚敷(ハナハダシキ)はなし、而して昔より、六十年間に必一度ありと云伝ふ、左もあるべし、只飢饉のみにあらず、大洪水も大風も大地震も、其余非常の災害も必六十年間には、一度位は必あるべし、縦令(タトヒ)無き迄も必有る物と極めて、有志者申合せ金穀を貯蓄(チヨチク)すべし、穀物を積囲(ツミカコ)ふは籾(モミ)と稗(ヒヘ)とを以て、第一とす、田方の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし
一九五 翁曰、窮(キウ)の尤急(キウ)なるは、飢饉(キキン)凶歳より甚きはなし、一日も緩(ユルウ)すべからず、是を緩うすれば、人命に関(クワン)し容易(ヨウイ)ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動(バウドウ)なり、古語に、小人窮すれば乱す、とある通り、空(ムナシ)く餓死(ガシ)せんよりは、縦令(タトヒ)刑せらるゝも、暴(バウ)を以て一時飲食を十分にし、快楽(クワイラク)を極(キワメ)て、死に付んと、富家を打毀(コワ)し、町村に火を放(ハナ)ちなど、云べからざる悪事を引起す事、古より然り、恐(オソ)れざるべけんや、此暴徒(バウト)乱(ラン)民は、必其土地の大家に当(アタ)る事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其防(フセ)ぎ無くばあるべからず
一九六 翁曰、天保四年同七年、両度の凶歳七年尤甚し、早春より引続(ツヾ)き、季候不順にして梅雨(サミダレ)より土用に降(フリ)続き、季候寒冷(カンレイ)にして、陰雨(インウ)曇(ドン)天のみ、晴日稀(マレ)なり、晴ると思へば曇(クモ)り、曇ると思へば雨降る、予土用前より、之を憂(ウレ)ひ心を用ひしに、土用に差掛り空(ソラ)の気色(ケシキ)何となく秋めき、草木に触(フ)るゝ風も、何となく秋風めきたり、折節他より、新茄子(ナスビ)到来せるを、糠味噌(ヌカミソ)に付て食せしに、自然秋茄子(ナス)の味(アヂ)あり、是に依て意を決(ケツ)し、其夕より、凶歳の用意に心を配(クバ)り、人々を諭(サト)して、其の用意を為さしめ、其夜終夜書状を作りて諸方に使を発して、凶歳の用意一途に尽力したり、其の方法は明き地空地は勿論、木綿(モメン)の生立たる畑を潰(ツブ)し、荒地廃(ハイ)地を起して、蕎麦(ソバ)大根蕪菁菜(カブラナ)胡蘿葡(ニンジン)等を、十分に蒔付させ粟(アワ)稗(ヒエ)大豆等惣(スベ)て食料になるべき物の耕(コウ)作培養(バイヤウ)精細(セイサイ)を尽(ツク)させ、又穀(コク)物の売物ある時は、何品に限らず、皆之を買(カヒ)入れ、既(スデ)に借入れの抵当(テイトウ)なく貸金の証文を抵当に入れて、金を借用したり、此飢饉(キヽン)の用意を、諸方に通知したる内、厚く信じて能取行ひたるは、谷田部茂木(モテギ)領邑なり、此通知を得るや、其使と同道にて、郡奉行自(ミづから)馬に鞭(ムチ)打て来りて、其方法を問ひ、急ぎ帰(カヘリ)て郡奉行代官役等、属官(ゾククワン)を率(ヒキイ)て、村里に臨(ノゾ)み懇(コン)々説諭(セツユ)して、先(まヅ)木綿(モメン)畑を潰(ツブ)し、荒(アレ)地を起し廃(ハイ)地を挙(ア)げて食料になるべき蕎麦大根の類を蒔付けたる事夥(オビタヾ)しく、堂寺の庭迄も説諭(セツユ)して蕎麦大根を蒔(マカ)せたりと云り、下野国真岡近郷は、真岡木綿の出る土地なれば、木綿畑尤多し、其木綿畑を潰(ツブ)して、蕎麦を蒔替(マキカフ)るを愚(グ)民殊(コト)の外歎(ナゲ)く者あり、又苦情を鳴(ナラ)す者あり、仍て愚民明らめのため、所々に一畝づゝ、尤出来方の宜敷木綿畑を残(ノコ)し置(オキ)たるに、綿実(ワタノミ)一ッも結(ムス)ばず、秋に至て初て予が説を信じたりと聞けり、愚民の諭(サト)し難(ガタ)きには殆(ホトン)ど困却せり、又秋田を刈(カリ)取りたる干田に、大麦を手の廻る丈け多く蒔せ、夫より畑に蒔たる菜種の苗を、田に移(ウツ)し植(ウ)えて、食料の助(タスケ)にせり、凶歳の時は油断(ユダン)なく、手配(クバ)りして食物を多く作り出すべし、是予が飢饉(キヽン)を救ひし方法の大略なり
一九七 翁曰、天保七年の十二月、桜町支配下四千石の村に諭(サト)し、毎家所持の米麦雑穀(ザウコク)の俵数を取調(シラベ)させ、米は勿論大小麦、大小豆、何にても一人に付、俵数五俵づゝの割り合を以て、銘々貯(タクハ)へ置、其余所持の俵数は勝手次第に売(ウリ)出すべし、此節程穀価(コクカ)の高き事は、二度とあるまじ、誠に売るべき時は此時なり、速(スミヤカ)に売て金となすべし、金不用ならば、相当の利足にて預(アヅカ)り遣(ツカハ)すべし、且(かツ)当節売出すは、平年施(ホドコ)すよりも功徳多し、何方へなり共売出すべし、一人五俵の割に、不足の者、又貯(タクハヘ)なき者の分は、当方にて慥(タシカ)に備(ソナ)へ置(オク)べき間、安心すべし、決して隠(カク)し置に及ず、詳細に取調て届け出べしと言て四千石村々の、毎戸の余分は売出させ、毎戸の不足の分は、郷蔵に積囲(ツミカコ)ひ、其余は漸次(ゼンジ)倉(クラ)を開て、烏(カラス)山領を始、皆他領他村へ出して救助したり、他の窮(キウ)を救(スク)ふには先(まヅ)自分支配の村々の安心する様に方法を立て而して後に他に及すべし
一九八 駿(スン)州駿東郡は、富士山の麓(フモト)にて、雪水掛(カヽ)りの土地なる故天保七年の凶荒、殊(コト)に甚し、領主小田原侯、此救助法を東京にて翁に命ぜられ、米金の出方は、家老大久保某に申付たり、小田原に往て受取べし、と命ぜらる、翁即刻出発夜行して、小田原に至られ、米金を請求せられしに、家老年寄の評議(ヘウギ)未(いまダ)決(ケツ)せず、翁之を待つ久し、日午に到る、衆皆弁当を食して、後に議せんと也、翁曰、飢民今死に迫(セマ)れり、之を救(スク)ふべきの議、未(いまダ)決せず、然るに弁当を先にして、此至急の議を後にするは、公議を後にして、私を先にするなり、今日の事は、平常の事と違(チガ)ひ、数万の民命に関(クワン)する重大の件なり、先(まヅ)此議を決して後に弁当は食すべし、此議決せずんば、縦令(タトヒ)夜に入るとも、弁当は用ふる事勿れ、謹(ツヽシ)んで此議を乞ふと述られたれば、尤なりとて、列座弁当を食する事を止めて此議に及べり、速(スミヤカ)に用米の蔵(クラ)を開く可しと定りて、此趣(オモムキ)を倉奉行に達す、倉奉行又開倉の定日は、月に六回なり、定日の外漫(ミダリ)に開倉する例(レイ)なし、と云て開かず、又大に議論(ギロン)あり、倉奉行、家老の列座にて、弁当云々の論ありし事を聞て、速(スミヤカ)に倉を開らけりとぞ、是皆翁の至誠による物也
一九九 翁曰、予此時駿州御厨(ミクリヤ)郷、飢民の撫育を扱(アツカ)ふ、既(スデ)に米金尽き術計なし、仍て郷中に諭(サト)して曰、昨年の不熟(ジユク)六十年に稀(マレ)なり、然といへども、平年農業を出精して米麦を余し、心掛宜敷(ヨロシキ)ものは差閊(ツカヘ)有まじ、今飢(ウヽ)る者は平年惰農(ダノフ)にして、米麦を取る事少く、遊(ユウ)楽を好み博奕(バクエキ)を好み飲酒に耽(フケ)り、放蕩(ホウトウ)無頼(ブライ)心掛宜しからざる者なれば、飢(ウヽ)るは天罰(バツ)と云て可なり、然ば救(スク)はず共可なるが如しといへ共、乞食(コツジキ)となるものを見よ、無頼悪行、是より甚しく、終に処を離(ハナ)れて、乞食する者なれば、悪むべきの極なり、されども、是をさへ憐(アハレ)んで、或は一銭を施(ホドコ)し、或は一握(ニギリ)の米麦を施(ホドコ)すは、世間の通法なり、今日の飢民は、是と異(コトナ)り、元一村同所に生れ同水をのみ同風に吹かれ、吉凶葬祭(ソウサイ)相共に、助け来れる因縁(インネン)浅(アサ)からねば、何ぞ見捨(ステ)て救(スクハ)ざるの理あらんや、今予飢民の為に、無利足十ケ年賦の金を貸与て是を救(スク)はんとす、然といへども飢(ウエ)に望(ノゾ)む程のものは、困究(キウ)甚(ハナハダ)しければ、返納は必出来ざるべし、仍て来年より、差支なく救を受ざる者といへども、日々乞食に施(ホドコ)すと思ひ、銭十文又廿文を出すべし、其以下中下のものは、銭七文又五文を出すべし、来年豊(ホウ)年ならば、天下豊(ユタカ)ならん、御厨(ミクリヤ)郷のみ、乞食に施(ホドコ)さゞるも、国中の乞食、飢る事あらじ、乞食に施す米銭を以て、彼が返納を補(オギナ)はゞ、自(ミづから)損(ソン)せずして、飢民を救(スク)ふべし、是両全の道にあらずや、と諭(サト)せしに郡中の者一同、感戴(クワンタイ)して承諾(ダク)せり、仍て役所より、無利子金を十ケ年賦に貸渡(カシワタ)して、大に救助する事を得たり、是上に一銭の損なくして、下に一人の飢民なく、安穏(アンノン)に飢饉(キヽン)を免(ノガ)れたり、此時小田原領のみにして、救助せし人員を、村々より書上げたる処、四万三百九十余人なりき
二〇〇 翁曰、予不幸にして、十四歳の時父に別れ、十六歳のをり母に別れ、所有の田地は、洪水の為に残(ノコ)らず流失し、幼年の困窮(コンキウ)艱難(カンナン)実に心魂(コン)に徹(テツ)し、骨髄(コツズイ)に染(シ)み、今日猶忘るゝ事能はず、何卒して世を救(スク)ひ国を富(トマ)し、憂(ウ)き瀬(セ)に沈(シヅ)む者を助けたく思ひて、勉強せしに、斗(ハカ)らずも又天保両度の飢饉(キヽン)に遭遇(ソウグウ)せり、是に於て心魂を砕(クダ)き、身体を粉(コ)にして、弘(ヒロ)く此飢饉を救(スク)はんと勤(ツト)めたり、其方法は本年は季候悪(アシ)し、凶歳ならんと、思ひ定めたる日より、一同申合せ、非常に勤倹(キンケン)を行ひ、堅(カタ)く飲酒を禁じ、断然(ダンゼン)百事を抛(ナゲウ)ちて、其用意をなしたり、其順序は先(まヅ)申合せて、明地空地を開き、木綿畑を潰(ツブ)して瓜哇薯(ジヤガタライモ)蕎麦菜種(ナタネ)大根蕪菜(カブナ)等の食料になるべき物を、蒔付る手配(クバ)りを尽し、土用明け迄は隠元(インゲン)豆も遅(オソ)からねば、奥(オク)の種を求めて多く蒔(マカ)せ、夫より早稲(ワセ)を刈取り、干田は耕(タガヤ)して麦(ムギ)を蒔き、金銭を惜(オシ)まず、元肥(ゴヘ)を入れて培養(バイヤウ)し、夫より畑の菜種の苗を抜(ヌキ)て田に移(ウツ)し植えて、食料の助とせり、此の如く其土地土地に於(オキ)て油断(ユダン)なく勉強せば、意外に食料を得べし、凶荒の兆(キザシ)あらば油断なく食料を求る工夫を尽(ツク)すべし
二〇一 翁曰、世人の常情、明日食ふ可き物なき時は、他に借に行んとか、救ひを乞んとかする心はあれども、弥明日は食ふべき物なしと云時は、釜(カマ)も膳(ゼン)椀(ワン)も洗(アラ)ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤の事なれども、此心は困窮(コンキウ)其身を離(ハナ)れざるの根元なり、如何となれば、日々釜を洗ひ膳(ゼン)椀(ワン)を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是心得違(チガ)ひなり、たとへ明日食ふ可き物なしとも、釜(カマ)を洗(アラ)ひ膳(ゼン)も椀(ワン)も洗ひ上げて餓死(ガシ)すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(ツナ)ぎたる、恩あれば也、是恩を思ふの道なり、此心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離(ハナ)れざるべし、富と貧とは、遠き隔(ヘダテ)あるにあらず、明日助らむ事のみを思ひて、今日までの恩を思ざると、明日助らむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二ッのみ、是大切の道理也、能々心得べし、仏家にては、此世は仮(カリ)の宿、来世こそ大切なれと教(オシ)ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽(カロ)んずるは誤(アヤマ)れり、今一草を以て之を譬(タトヘ)ん、夫草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好き実を結(ムス)ばんには、現世の草の時、芽立より出精して、露(ツユ)を吸ひ肥(コヤ)しを吸(ス)ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(シノ)ぎ、昼夜精気を運(ハコ)びて根を太らせ、枝葉を茂(シゲ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(タ)ち身を慎(ツヽシ)み道を蹈(フ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈ず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏なる事を得んや、夫地獄(ヂゴク)は悪事を為したる者の、死後に遣(ヤ)らるゝ処、極楽(ゴクラク)は善事を為したる者の行処なる事、鏡(カヾミ)に掛(カ)けて明なれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべき也、先(まヅ)此身は如何にして生れ出しやと、跡を振(フリ)返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(イヅクン)ぞ死を知らん、と云り、夫性は天の令命なり、身体は父母の賜(タマモノ)なり、其元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先(まヅ)此理より窮(キハ)めて、天徳に報(ムク)ひ、父母の恩に報う行ひを立べし、性に率(シタガ)ひて道を蹈(フ)むは、人の勤(ツトメ)なり、此勤を励(ハゲ)む時は、来世は願はずして、安穏(ノン)なる事疑(ウタガ)ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以なり、釈氏(シヤクシ)の之を捨て、世外に立しは、衆生を済度(サイド)せんが為なり、世を救(スク)はんには、世外に立ざれば、広(ヒロ)く救(スク)ひ難(ガタ)きが故なり、譬(タトヘ)ば己が坐して居る畳(タヽミ)を揚(アゲ)んとする時は、己外に移(ウツ)らざれば、揚ぐ可らざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨(スツ)るは迷(マヨ)へるなり、然れども僧侶は其法を伝(ツタ)へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混(コン)ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我道の安心立命は爰(コヽ)にあり、惑(マド)ふべからず
二〇二 翁曰、予飢饉(キキン)救済(キウセイ)の為、野常相駿豆の諸村を巡行して、見聞せしに、凶歳といへども、平日出精人の田畑は、実法(ミノ)り相応にありて、飢渇(キカツ)に及ぶに到らず、予が歌に「丹精は誰(タレ)しらねどもおのづから秋の実法のまさる数(カズ)々」といへるが如し、論語に、苟(マコト)に仁に志さば悪なし、と云り、至理なり、此道理を押すに苟(マコト)に農業に志せば、凶歳なしと言て可なる物なり、されば苟(マコト)に商法に志せば、不景気なしと云て可ならん、汝等能(よく)勤(ツト)めよ
二〇三 桜町陣屋下に翁の家出入の畳職(タヽミシヨク)人、源吉といふ者あり、口を能きゝ、才ありといへ共、大酒遊惰(ユウダ)なるが故に、困窮(コンキウ)なり、年末に及んで、翁の許(モト)に来り、餅(モチ)米の借用を乞(コ)へり、翁曰、汝(ナンヂ)が如く、年中家業を怠(オコタ)りて勤(ツト)めず、銭あれば、酒を呑む者、正月なればとて、一年間勤苦(キンク)勉励(ベンレイ)して、丹精したる者と同様に、餅を食んとするは、甚(ハナハダ)心得違(チガ)ひなり、夫(そレ)正月不意に来るにあらず、米偶然(グウゼン)に得らるゝ物にあらず、正月は三百六十日明け暮れして来り、米は、春耕し夏耘(クサギ)り秋刈(カ)りて、初て米となる、汝春耕さず夏耘(クサギ)らず秋刈らず、故に米なきは当り前の事なり、されば正月なりとて、餅を食ふべき道理ある可からず、今貸(カ)すとも、何を以て返(カヘ)さんや、借りて返す道無き時は、罪(ザイ)人となるべし、正月餅(モチ)が食(クヒ)たく思はゞ、今日より遊惰を改め、酒を止めて、山林に入て落(オチ)葉を掻(カ)き、肥(コヤシ)を拵(コシ)らへ、来春田を作り米を得て、来々年の正月、餅を食ふべきなり、されば来年の正月は、己(オのれ)が過(アヤマ)ちをくひて餅を食ふ事を止めよと、懇(コン)々説諭せられたり、源吉大に発明し、先非を悔ひ、私(わたくシ)遊惰にして、家業を怠り酒を呑み、而て年中勉強(ベンキヨウ)せらるゝ人と同様に、餅を食て春を迎(ムカへ)んと思ひしは、全(まつたク)心得違ひなりき、来年の正月は、餅(モチ)を食はず過(アヤマチ)をくひて年を取り、今日より遊惰を改め、酒を止め、年明けなば、二日より家業を初め、刻苦(コクク)勉励(ベンレイ)して、来々年の正月は、人並に餅(モチ)を搗(ツ)き祝(イハ)ひ申べしと云ひ、教訓の懇切(コンセツ)なるを厚く謝(シヤ)して、暇乞(イトマゴヒ)をし、しほしほと門を出づ、時に門人某、密(ヒソカ)に口ずさめる狂歌あり、「げんこう(言行・源公)が一致ならねば年の暮畳(タヽミ)重(カサ)なるむねや苦(クル)しき」、翁此時金を握(ニギ)り居られて、源吉が門を出行くを見て俄(ニハカ)に呼戻(ヨビモド)し、予が教訓能腹(ハラ)に入りたるか、源吉曰、誠に感銘せり、生涯忘れず、酒を止めて、勉強すべしと、翁則白米一俵餅米一俵金一両に大根芋等を添(ソヘ)て与(アタ)へらる、是より、源吉生れ替(カハ)りたるが如く成て、生涯を終(オハ)れりと云、翁の教養に心を尽さるゝ事此の如し、此類枚挙(マイキヨ)に暇(イトマ)あらずといへども、今其一を記す
二〇四 翁曰、山の裾(スソ)、また池のほとりなどの窪(クボ)き田畑などには大古の池(イケ)沼(ヌマ)などの、自(オのづから)埋(ウマ)りて田畑となりたる処ある物なり、此処は、凡て肥良の土の多くある物なれば、尋て掘出して、麁(ソ)田麁畑に入るゝ時は大なる益あり、是を尋て掘り出すは天に対し国に対しての勤なり、励(ハゲミ)て勤むべし
二〇五 下野国某の郷村、風俗頽廃(タイハイ)する事甚し、葬地(ソウチ)定所なく、或は山林原野、田畑宅地皆埋葬(マイソウ)して忌(イマ)ず、数年を経(フ)れば墓(ハカ)を崩(クヅ)し菽(マメ)麦(ムギ)を植(ウエ)て又忌ず、故に荒地開拓、堀割り、畑捲(マク)り等の工事に、骸骨(ガイコツ)を掘出す事毎々あり、翁之を見て曰、夫骸骨(ガイコツ)腐朽(フキウ)すといへども、頭(ヅ)骨と脛(ケイ)骨とは必存す、如何となれば、頭は衆体の上に有て、尤功労多き頭脳(ヅナウ)を覆(オホ)ひて、寒暑を受る事甚し、脛(ハギ)は衆体の下に有て、身体を捧(サヽ)げ持ち、功労尤多し、其人、世に有て功労多き処、没後(モツゴ)百年其骨(ホネ)朽(クチ)ず、其理感銘すべし、汝等頭脛(ヅケイ)の骨の如く、永く朽ざらん事を勤めよ、古歌に「滝のおとは絶(タエ)て久しく成ぬれど名こそ流れて猶聞えけれ」とあり、本朝の神聖は勿論、孔子釈氏等も世を去る事三千年なり、然るに今に至て大成至聖文宣皇帝孔夫子と云ひ、大恩教主釈迦牟尼仏と云り、其人は死していと久く成ぬれど、名こそ我朝にまで、流れ来りて、猶聞へたれ、感(カン)ずべきなり、大凡人の勲功(クンコウ)は、心と体との二ッの骨折に成る物なり、其骨を折て已(ヤ)まざる時は、必天助あり、古語に、之を思ひ思ひてやまざれば天之を助く、と云り、之を勤め勤めて已(ヤ)まざれば又天之を助く可し、世間心力を尽(ツク)して、私なき者必功を成すは是が為なり、夫今の世の中に、勲功(クンコウ)残(ノコ)りて、世界の有用となる処の物、後世に滅せずして、人の為に称讃(サン)せらるゝ処の者は皆悉(コトゴト)く前代の人の骨折(ホネオリ)なり、今日此の如く国家の富栄盛大なるは、皆前代の聖賢(セイケン)君子の遺(ノコ)せる賜物にして、前代の人の骨折りなり、骨を折れや二三子、勉強せよ二三子
二〇六 翁曰、何程富貴なり共、家法をば節倹に立て、驕奢(ケウシヤ)に馴(ナ)るゝ事を厳(ゲン)に禁(キン)ずべし、夫奢侈は不徳の源にして滅(メツ)亡の基(モトイ)なり、如何となれば、奢侈を欲するよりして、利を貪(ムサボ)るの念を増長し、慈善の心薄(ウス)らぎ、自然欲深く成りて、吝嗇(リンシヨク)に陥(オチイ)り、夫より知らず知らず、職業も不正になり行きて、災を生ずる物なり、恐るべし、論語に、周公の才の美ありとも奢(オゴリ)且(かツ)吝(ヤブサカ)なれば、其余は見るに足らず、とあり、家法は節倹に立て、我身能之を守り、驕奢に馴(ナ)るる事なく、飯と汁木綿着物は身を助く、の真理を忘るる事勿れ、何事も習(ならヒ)性となり馴(ナ)れて常となりては、仕方無き物なり、遊楽に馴(ナル)れば面白き事もなくなり、甘(ウマ)き物に馴(ナ)るれば甘(ウマ)き物もなくなるなり、是自(ミづから)我が歓楽をも減ずるなり、日々勤労(キンロウ)する者は、朔望(サクボウ)の休日も楽みなり、盆(ボン)正月は大なる楽みなり、是平日、勤労に馴るゝが故なり、此理を明弁して滅(メツ)亡の基(モトイ)を断(タ)ち去るべし、且(かツ)若き者は、酒を呑むも、烟草(タバコ)を吸ふも、月に四五度に限(カギ)りて、酒好きとなる事勿れ、烟草好きとなる事勿れ、馴(ナ)れて好(スキ)となり、癖(クセ)となりては生涯の損大なり、慎(ツヽシ)むべし
二〇七 翁曰、大学に、仁者は財(ザイ)を以て身を起(オコ)す、といへるはよろし、不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何、夫(そレ)志ある者といへ共、仁心ある者といへども、親より譲(ユヅ)られし財産(ザイサン)なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ、志あるも、財(ザイ)なきを如何せん、発句に「夕立や知らぬ人にももやひ傘」と云り、是仁心の芽立(メダチ)なり、身を以て財を起しながらも、此志あらば、不仁者とは云べからず、身を以て財を起すは貧者の道なり、財を以て身を起すは富者の道也、貧人身を以て財を起して富を得、猶財を以て財を起さば、其時こそ不仁者と云べけれ、善をなさゞれば、善人とは云べからず、悪を為さゞれば、悪人とは云べからず、されば不仁を為さゞれば、不仁者とは云べからず、何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云んや、故に予常に聖人は、大尽子(ジンコ)なりと云なり、大尽子は袋中自(オのづから)銭ありと思へり、自(オのづから)銭ある袋(フクロ)決してあるべき理なし、此の如き咄は、皆大尽子の言なり、又人あれば土ありともあり、本来を云へば、土あれば人ありなる事明なり、然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良の耕土を指せるなり、烈公の詩に「土有て土なし常陸の土、人有て人なし水府の人」とあり、則此意なり
二〇八 硯箱の墨(スミ)曲(マガ)れり、翁之を見て曰、総(スベ)て事を執(ト)る者は、心を正平に持んと、心掛くべし、譬(タトヘ)ば此墨の如し、誰(タレ)も曲(マ)げんとて摺(ス)る者はあらねど、手の力自然傾(カタム)くが故に此の如く曲るなり、今之を直さんとするとも、容易に直るべからず、百事その通りにて、喜怒愛憎(キドアイゾウ)ともに、自然に傾(カタブ)く物なり、傾けば曲るべし、能心掛けて心は正平に持べし
二〇九 或問て曰、三年父の道を改(アラタ)めざるを孝と為す、とあり、然といへ共、父道不善ならば、改めずばあるべからず、翁曰、父の道誠(マコト)に不善ならば、生前能諫(イサ)め又他に依頼(イライ)しても、改むべし、生前諫めて改るまでに及ばざるは、不善と云といへ共、不善と云程の事にはあらざる、明なり、然るを、没(ボツ)するを待て改るは、不孝にあらずして何ぞ、没後(モツゴ)速(スミヤカ)に改んとならば、何ぞ生前諫(イサメ)て改めざる、生前諫ず改る事もせず、何ぞ没するを待て改るの理あらんや
二一〇 翁曰、大久保忠隣(チカ)君、小田原城拝領の時、家臣某諫(イサメ)て曰、当城は北条家築(ツキ)建にして、代々の居城なれば拝領相なるとも、当城守護と思召れ、本丸の住居は、遠慮(エンリヨ)有て然るべし、拝領なればとて拝領と思召す時は、御為如何あらん、且(かツ)城の内外共、御手入れ等なく、先(まヅ)其儘に置れたしと献言せしかど、忠隣(チカ)君剛強の性質なれば、縦令(タトヒ)北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり、本丸の住居、何の不可か有らん、城の修理(シユリ)何の憚(ハヾカ)る処か有らんとて、聴(キヽ)たまはず、其後行違ひありて、改易の命あり、是嫌疑(ケンギ)に依るといへ共、其元、気質の剛強に過て、遠慮無きに依れるなり、夫熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり、何事にも此理あり、心得べき事なり
二一一 翁曰、凡物一得あれば一失あるは世の常なり、人の衣服に於る甚煩(ワヅラ)はし、夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引機(ハタ)をおり、裁縫(タチヌ)ひすゝぎ洗濯(センタク)、常に休する時なし、禽獣(キンジウ)の自(オのづか)ら羽毛あり、寒暑を凌(シノ)ぎ、生涯損(ソン)ずることなく、染(ソメ)ずして彩色ありて、世話なきに如ざるが如しといへども、蚤(ノミ)虱(シラミ)羽虫など羽毛の間に生じ、是を追ふに又暇(イトマ)なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如ざる事遠し、世の他をうらやむの類、大凡斯の如き物也
二一二 或(あるヒト)日光温泉に浴す、山中他邦の魚鳥を喰ふ事を禁(キン)じて、山中の魚鳥を殺(コロ)すを禁(キン)ぜず、他の神山霊(レイ)地等は境(ケイ)内に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず、是庖厨(ハウチウ)を遠(トホザ)くるの意、耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(イ)むなり、而て日光温泉の制、是に反対せり、山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず、是山神の意なりと云ふ、此理あるべからずと云り、翁曰、仏者殺生戒を説くといへ共、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生れて殺生戒を立つ、何を以て生を保(タモタ)んや、生を保つは、生物を食するに依る、死物を食して焉(イヅクンゾ)生を保(タモ)つ事を得ん、人皆禽獣(キンジウ)虫魚飛揚(ヒヤウ)蠢動(シユンダウ)の物を殺(コロ)すを殺生と云て、草木菓穀(クワコク)を殺(コロ)すの、殺生たるを知らず、飛揚(ヒヤウ)蠢動(シユンダウ)の物を生と云ひ、草木菓穀(クワコク)を生物に非ずとするか、鳥獣を屠(ホフ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮(ニ)るを殺生に非ずとするか、然ば木食行者と云といへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや、然れば殺生戒と云といへども、只我と類の近き物を殺すを戒(イマシ)めて、類(ルイ)を異(コト)にする物を戒めざるなれば、不都合なる物也、されば殺生戒とは云可からず、殺類戒と云て可なる物なり、凡人道は私に立たる物なれば、至処を推窮むる時は皆此類なり、怪(アヤシ)むにたらず、而て日光温泉は深山なり、深山などには往古の遺(イ)法残(ノコ)る物なれば、私に立たる往古の遺法なるべし、且(かツ)深山は食に乏し、四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、此の如き事になれるなるべし、怪(アヤシ)むにたらざるなり
二一三 翁曰、学者書を講ずる悉(クハ)しといへども、活(クワツ)用する事を知らず、徒(イタヅ)らに仁は云々義は云々と云り、故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(ジユキヤウ)するに同じ、古語に、権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み法度を審(ツマビラカ)にす、とあり、是大切の事なり、之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也、天下の事などは差置て、銘々己が家の権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み、法度を審(ツマビラカ)にするこそ肝要なれ、是道徳経済の元なり、家々の権量とは、農家なれば家株田畑、何町何反歩、此作徳何拾円と取調べて分限を定め、商法家なれば前年の売徳金を取調べて、本年の分限の予算(ヨサン)を立る、是己が家の権量、己が家の法度なり、是を審にし、之を慎(ツヽシ)んで越(コ)えざるこそ、家を斉(トヽノ)ふるの元なれ、家に権量なく法度なき、能久きを保(タモタ)んや
二一四 老中某侯の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹(ソシ)る、翁曰、執政は政事の出る処、国家を正うして、不正無からしむるの職(シヨク)なるに其家僕(ボク)其威(イ)をかりて、不正を行ふ者往々あり、譬(タトヘ)ば町奉行の奴僕(ヌボク)等、両国浅草等に出る、予が法皮(ハツピ)を見よなどゝ罵(ノヽシ)るに同じ、国を正しうする者、家を正しうする事能はざるが如しといへども、是家政の届(トヾ)かざるにあらず、勢の然らしむる物なり、彼河水を見よ、水の卑(ヒキヽ)に下るの勢、政事の国家に行はれて置郵伝命(チユウデンメイ)より速(スミヤカ)なるが如し、而て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変(ヘン)じて逆流となる物なり、夫老中の権威(ケンイ)は、譬(タト)へば急流の水勢防(フセ)ぐべからざるに同じ、家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し、是自然に然らざるを得ざる物なり、咎(トガ)むる事勿れ
二一五 翁、折々補労(ホロウ)のために酒を用ひらる、曰、銘々酒量に応じて、大中小適意の盃を取り、各々自盃自酌たるべし、献酬(ケンシウ)する事勿れ、是宴を開くにあらず、只労を補(オギナ)はんがためなればなりと、或曰、我社中是を以て、酒宴の法と為すべし
二一六 翁曰、九の字に一点を加えて、丸の字を作れるは面白し、○は則十なり、十は則一なり、「元日やうしろに近き大卅日(ミソカ)」と云る俳句あり、又此意なり、禅語(ゼンゴ)に此類の語多し、此句「うしろに近き」を「うしろをみれば」と為さば、一層面白からんか
二一七 翁曰、世人皆、聖人は無欲と思へども然ず、其実は大欲にして、其大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤小なる物なり、夫学問は此小欲を正大に導(ミチビ)くの術(ジユツ)を云、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集(アツ)めん事を欲するなり、其方、国を開き物を開き、国家を経綸(ケイリン)し、衆庶を済救(サイキウ)するにあり、故に聖人の道を推窮(オシキハム)る時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其意明かに見ゆ、其欲する処豈正大ならずや、能おもふべし
二一八 門人某居眠(ヰネム)りの癖(クセ)あり、翁曰、人の性は仁義礼智なり、下愚といへ共、此性有らざる事なしとあり、されば汝等が如きも必此性あれば、智も無かる可からず、然るを無智なるは磨(ミガ)かざるが故なれば、先(まヅ)道理の片端(カタハシ)にても、弁へたし覚(オボ)えたしと、願ふ心を起すべし、之を願を立ると云、此願立つ時は、人の咄(ハナシ)を聞て居眠りは出ざるべし、夫仁義礼智を家に譬(タト)ふれば、仁は棟(ムナギ)、義は梁(ハリ)也、礼は柱也、智は土台也、されば家の講釈をするには、棟(ムナギ)梁(ハリ)柱土台(ダイ)と云もよし、家を作るには、先(まヅ)土台を据(ス)え柱を立て梁(ハリ)を組んで棟(ムナギ)を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云べし、之を行ふには、智礼義仁と次第して、先(まヅ)智を磨(ミガ)き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし、故に大学には、智を致すを初歩と為り、夫瓦(カハラ)は磨(ミガ)け共玉にはならず、されど幾分の光を生じ且(かツ)滑(ナメ)らかにはなる、是学びの徳也、又無智の者は能心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし、生れ付馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず、智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし
二一九 某の村の名主押領(ヲウリヤウ)ありとて、村中寄集り、口才ある者に托(タク)して、出訴(ソ)せんと噪(サワぎ)立てり、翁其村の重立たる者二三を呼(ヨビ)て曰、押領何程ぞ、曰、米二百俵余なるべし、翁曰、二百俵の米は少からずといへ共、之を金に替る時は八十円なり、村民九十余戸に割る時は一戸九十銭に足らず、村高に割る時は一石に八銭なり、然るに、名主組頭等は持高多し、外十石以上の所有者は三十戸なるべし、其他は三石五石にして無高の者もあるべし、此者に至ては取る物なく、縦令(タトヒ)有るも、僅(キン)々の金なり、然るを箇様(カヤウ)に噪(サワぎ)立は大損(ソン)にあらずや、此件確(クワク)証ありと云といへども、地頭の用役に関係(クワンケイ)ありと聞けば、容易には勝ち難(ガタ)し、縦令(タトヘ)能勝得るとも、入費莫大となり、寄合暇潰(ヒマツブ)し、且(かツ)銘々が内々の損迄を計算せば、大損は眼前なり、何となれば、未(いまダ)出訴せざるに数度の寄合ひ、下調べ等の為に費(ツヒ)えたる金少からず、且(かツ)彼は旧来の名主なり、之を止めて、跡に名主にすべき人物は誰なるぞ、予が見渡す処、是と指(サ)す者見えず、能々思慮すべき処也、然れば向後押領の出来ざる様に厳(ゲン)に方法を設けて、悉(コトゴト)く通ひ帳にて取立、役場の帳簿法を改正し遣(ツカハ)すべき間、願(ネガハ)くは名主も其儘(マヽ)置(オ)くにしかじ、其儘に置かば、給料を半に減じ、半を村へ出さすべし、押領米の償(ツグノ)ひ方は、予別に工夫あり、字某の荒蕪地は、云々の処より水を引ば田となるべし、此地に一村の共有地、二町歩程は良田となるなり、之を開拓し遣すべき間、一同出訴を止めて、賃銭を取るべし、其上寄合をする暇(イトマ)にて、共同して耕作せば、秋は七八十俵の米は受合なり、来秋は八九十俵、来々年は百俵を得べし、三ヶ年間は一同にて分け取り、四年目より開拓料を返済せよ、返済皆済の上は、一村永安の土台田地として法を立べしと、懇(コン)々説諭(セツユ)せられたり、一同了承せりとの報あり、翁自(ミづから)集会場に臨(ノゾ)み、説諭(セツユ)に服せしを賞讃(シヨウサン)し、酒肴を与(アタ)へられ、且(かツ)右の開拓は明朝早天より取掛り、賃銭は云々づゝ払ふべし、遅参(チサン)する事勿れと告(ツゲ)らる、一同拝謝(シヤ)し悦(ヨロコ)んで退散す、名主某も五ヶ年間、無給にて精勤致度旨を云出たり、翁曰、一村に取ての大難を僅々の金にて買得たり、安き物なり、斯の如き災難(サイナン)あらば卿等も早く買取るべし、一村修羅(シユラ)場に陥(オチイ)るべきを一挙(キヨ)にして、安楽国に引止めたり、大知識の功徳に勝(マサ)るなるべしとて、悦喜せられたり、翁の金員を投じ、無利子金を貸与して、紛議(フンギ)を解れし事枚挙(マイキヨ)に暇(イトマ)あらず、今其一を記す
二二〇 翁曰、汝等(ナンヂラ)勉強(ベンキヤウ)せよ、今日永代橋の橋上より詠(ナガム)れば、肥取船に川水を汲入れて、肥(コヤ)しを殖(フヤ)し居るなり、人々の尤嫌(キラ)ふ処の肥しを取るのみならず、かゝる汚(オ)物すら、殖(フヤ)せば利益ある世の中なり、豈妙ならずや、凡万物不浄に極(キハマ)れば、必清浄に帰り、清浄極れば不浄に帰る、寒暑昼夜の旋転(センテン)して止まざるに同じ、則天理なり、物皆然り、されば世の中に無用の物と云はあらざるなり、夫農業は不浄を以て、清浄に替(カフ)るの妙術(ジユツ)なり、人馴(ナ)れて何とも思はざるのみ、能考(カンガ)へば真に妙術と云べし、尊(タフト)ぶべし、我方法又然り、荒地を熟(ジユク)田に帰(カヘ)し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を楽になすの法なれば也
二二一 或曰、親鸞(シンラン)は末世の比丘戒(ビククワイ)行の持(タモ)ち難(ガタ)きを洞察(ドウサツ)して肉食妻帯を免(ユル)せり、卓(タク)見と云べしと、翁曰、恐(オソ)らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬(タトヘ)ば、田地の用水堰(セキ)の如き物なるべし、夫用水堰(セキ)は、米を作るべき地を潰(ツブ)して水路とせしなり、其如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度(サイド)せんとする教なる事明也、夫人は男女有て相続すれば男女の道は天理自然なれ共、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしゝなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨れば、惜(ヲ)しひ欲しひの欲念も、悪(ニク)ひかはゆいの妄(マウ)念も、皆随(シタガツ)て消滅(メツ)すべし、此人情捨難(ステガタ)き物を捨て、堰代と為せばこそ、法水は流るゝなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝して、仏法は万世に伝る物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし、然るを肉食妻帯を免(ユル)して法を伝(ツタヘ)んとするは、水路を潰して、稲(イネ)を植(ウヘ)んとするが如しと、予は竊、我(ヒソカ)に恐るゝなり
二二二 或曰、毛利元就曰、百事思ふ半分も、成就せぬ物なり、中国の主たらんと思ふて、漸(ヤウヤ)く一国の主たるべし、天下の主たらんと願て、漸く中国の主たるべしと、実に然るべし、翁曰、理或は然ん、然といへ共、是乱世大将の志にして、我門の称せざる処なり、夫舜(シユン)禹(ウ)の帝王たるや、其帝王たらん事を願はず、只一途に勤むべき事を、勤しのみ、親に事へては、親の為に尽し、君に事へては、君の為に尽し、耕稼(カウカ)陶漁(タウギヨ)、皆其事に就(ツキ)て尽せるのみ、舜(シユン)の歴(レキ)山にある、禹の舜に事る時、何ぞ帝王たる事を願て然んや、己の身ある事を知らず、只君親ある事を知るのみ、古書に舜禹の事を述るを、見て知るべし、此の如くならざれば、一家一村といへ共、歓(クワン)心を得る事難し、平治する事難し、譬(タトヘ)ば家を取らん事を願て、家を取り、村長とならん事を願て、村長となるの類(ルイ)、其家其村必治(ヲサマ)らず、如何となれば、斯せんと欲して為せば、謀計(ボウケイ)機(キ)巧を用ふればなり、謀計機巧は、衆恨(コン)の聚(アツマ)る処なれば、一旦勢(イキホイ)に乗じ智力を用ひ、是を為すといへ共、焉(イヅクン)ぞ能久きを保(タモタ)んや、焉(イヅクン)ぞ能治平を得んや、是我門の戒(イマシム)る処なり、夫東照公は国を治め民を安ずるの天理なる事を知て、一途に勤めたりと宣へり、乱世にしてすら此如し、敬服せざるべけんや、富商の番頭、忠実を其主家に尽して、終に婿(ムコ)となり、主人となる者多し、夫商法家は家を愛(アイ)する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり
二二三 翁曰、論語に、哀公問曰、年饑(ウヱ)て用足らず、之を如何、対て曰、何ぞ徹(テツ)せざるや、曰、二にして吾猶足らず、之を如何ぞそれ徹(テツ)せん、対て曰、百姓足らば君誰と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足ん、とあり、是解(ゲ)し難(ガタ)き理なり、之を譬(タトフ)るに鉢植(ハチウエ)の松養(ヤシナ)ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐(キ)らざると答(コタ)へたるに同じ、又問ふ、此儘(マヽ)にてすら枯んとす、何ぞそれ枝を伐(キ)らん、曰、根枯ずんば、木誰(タレ)と共に枯れん、と答へたるが如し、実に疑(ウタガヒ)なき問答なり、夫(そレ)日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれ共此鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐(キリ)すかすの外に道なし、人の身代も、銘々一ッづゝの小鉢なり、暮し方不足せば、速(スミヤカ)に枝葉を伐捨べし、此時に是は先祖代々の仕来りなり、家風なり、是は親の心を用ひて、建たる別荘なり、是は殊に愛翫(アイグワン)せし物品なりなどゝ云て、無用の枝葉を伐捨(キリステ)る事を知らざれば、忽(タチマチ)枯気付く物なり、既(スデ)に枯気付ては、枝葉を伐り去るも、間に合ぬ物なり、是尤富有者の子孫心得べき事なり
二二四 翁曰、村里の衰廃(スイハイ)を挙(アグ)るには、財を抛(ナゲウ)たざれば、人進まず、財を抛つに道あり、受る者其恩に感(クワン)ぜざれば、益なし、夫天下の広(ヒロ)き、善人少(スクナ)からず、然といへ共、汚俗(オゾク)を洗(アラ)ひ、廃邑を起すに足らざるは、皆其道を得ざるが故也、凡里長たる者、其事に幹(クワン)たる者は、必其邑の富者なり、縦令(タトヘ)善人にして能施すとも、自(オのづから)驕奢(キヤフシヤ)に居るゆへに、受る者、其恩を恩とせず、只其奢侈(シヤシ)を羨(ウラヤ)んで、自(ミづから)の驕奢を止めず、分限を忘(ワス)るゝの過(アヤマチ)を改ず、故に益なきなり、是に依て村長たらん者自(ミづから)謙(ケン)して驕(ホコ)らず、約(ヤク)にして奢(オゴ)らず、慎(ツヽシ)んで分限を守り、余財(ヨザイ)を推譲(オシユヅリ)て、村害を除(ノゾ)き、村益を起し、窮(キウ)を補(オギナ)ふ時は、其誠意に感じ、驕奢を欲するの念も、富貴を羨(ウラヤ)むの念も、救(スク)ひ用捨を欲するの念も、皆散じて、勤労(キンロウ)を厭(イト)はず、麁(ソ)衣麁食を厭(イト)はず、分限を越(コ)すの過(アヤマチ)を恥(ハ)ぢ、分限の内にするを楽(タノシミ)とす、此の如くならざれば、廃(ハイ)邑を興(オコ)し、汚俗を一洗するに足らざるなり
二二五 翁曰、己(オノレ)に克(カチ)て礼に復(カヘ)れば天下仁に帰す、と云り、是道の大意なり、夫(そレ)人己(オノレ)が勝手(カツテ)のみを為さず、私欲を去りて、分限を謙(ヘリクダ)り、有余を譲(ユヅ)るの道を行ふ時は、村長たらば一村服せん、国主ならば一国服せん、又馬士ならば馬肥(コヘ)ん、菊作りならば菊栄(サカ)えん、釈(シヤク)氏は王子なれ共、王位を捨て鉄鉢一つと定めたればこそ、今此の如く天下に充満し、賤(シヅ)山勝といへ共、尊信するに至れるなれ、則予が説く所の、分を譲るの道の大なる物なり、則己に克つの功よりして、天下是に帰せしなり、凡(およソ)人の長たらん者、何ぞ此道に依(ヨ)らざるや、故に予常に曰、村長及び富有の者は、常に麁(ソ)服を用ふるのみにても、其功徳無量なり、衆人の羨(ウラヤ)む念をたてばなり、況(イワ)んや分限を引て、能譲(ユヅ)る者に於てをや
二二六 伊藤発身曰、翁の疾(ヤマヒ)重(オモ)れり、門人左右にあり、翁曰、予が死近きにあるべし、予を葬(ハフム)るに分を越(コユ)る事勿れ、墓(ハカ)石を立る事勿れ、碑(ヒ)を立る事勿れ、只土を盛(モ)り上げて其傍(カタハラ)に松か杉を一本植置(ウエオ)けば、夫にてよろし、必予が言に違(タガ)ふ事勿れと、忌明に及んで遺言に随ふべしと云あり、又遺言ありといへ共かゝる事は弟子の忍(シノ)びざる処なれば、分に応じて石を立つべしと言あり、議論区々(マチマチ)なりき、終に石を建(タテ)しは、未亡(ビマウ)人の意を賛成する者の多きに随(シタガ)へるなり
二二七 翁曰、仏家にては、此世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云といへ共、現在君親あり、妻子あるを如何せん、縦令(タトヘ)出家遁(トン)世して、君親を捨(ステ)妻子を捨(スツ)るも、此身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二ッがなければ凌(シノ)がれず、船賃(フナチン)がなければ、海も川も渡(ワタ)られぬ世の中なり、故に西行の歌に「捨果(ステハテ)て身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云り、是実情なり、儒(ジユ)道にては、礼に非れば、視る事勿れ、聴(キ)く事勿れ、云ふ事勿れ、動(ウゴ)く事勿れ、と教(オシフ)れ共、通常汝(ナンヂ)等の上にては夫にては間に合ず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非れば、視る事勿れ、聴(キ)く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(タガ)ふ事あるべし、是は予が説の違へるにはあらざるなり、能々玩味すべし
二二八 翁山林に入て材木を検(ケン)す、挽(ヒキ)割たる材木の真(シン)の曲(マガ)りたるを指(サシ)て、諭(サト)して曰、此木の真は、則所謂(イハユル)天性なり、天性此の如く曲れりといへ共、曲りたる内の方へは肉多く付、外へは肉少く付て、長育するに随(シタガヒ)て大凡直木となれり、是空気に押るゝが故なり、人間世法に押れて、生れ付を顕(アラハ)さぬに同じ、故に材木を取るには、木の真を出さぬ様に墨を掛(カク)るなり、真を出す時は、必反(ソ)り曲る物なり、故に上手の木挽(コビキ)の、材木を取るが如く、能人の性を顕(アラハ)さぬ様にせば、世の中の人、皆用立べし、真を顕さぬ様にするとは、佞(ネイ)人も佞を顕さず、奸人も奸を顕さぬ様に、真を包(ツヽ)みて、其直(スグ)なるをば柱(ハシラ)とし、曲れるをば梁(ハリ)とし、太きは土台とし、細きは桁(ケタ)とし、美なるをば造作の料に用ひて残す事なし、人を用ふる、又此の如くせば棟梁の器と云べし、又山林を仕立るには、苗を多く植(ウエ)付べし、苗木茂れば、供育(ソダ)ちにて生育早し、育つに随(シタガ)ひ木の善悪を見て抜伐(ヌキキリ)すれば、山中皆良材となる物なり、此抜伐りに心得あり、衆木に抜(ヌキ)んでゝ長育せしと、衆木に後(オク)れて育(ソダ)たぬとを伐取るなり、世の人育たぬ木を伐る事を知りて、衆木に勝(スグ)れて育(ソダ)つ木を伐る事を知らず、縦令(タトヒ)知るといへ共、伐る事能ざる物なり、且(かツ)此抜伐り手後れにならざる様、早く伐り取るを肝要とす、後るれば大に害あり、一反歩に四百本あらば、三百本に抜き、又二百本に抜き、大木に至らば又抜き去るべし
二二九 翁曰、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし、只理(リ)の窮(キハ)めざると尽(ツク)さゞるあるのみ、然るに諸道各々道を異(コト)にして、相争(アラソ)ふは各区域(クイキ)を狭(セバ)く垣(カキ)根を結回(ユヒマワ)して、相隔(ヘダ)つるが故なり、共に三界城内に立籠(コモ)りし、迷者と云て可なり、此垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(コモ)れる論は、聞も益なし、説も益なし
二三〇 翁曰、老仏の道は高尚なり、譬(タトヘ)て云ば、日光箱根等の山岳の峨(ガ)々たるが如し、雲水愛(アイ)すべく、風景楽(タノシ)むべしといへども、生民の為に功用少し、我道は平地村落の野鄙(ヤヒ)なるが如し、風景(ケイ)の愛(アイ)すべきなく、雲水の楽(タノシ)むべきなしといへども、百穀(コク)涌(ワキ)出れば国家の富(フ)源は此処にある也、仏家知識(チシキ)の清浄なるは、譬(タトヘ)ば浜(ハマ)の真砂(マサゴ)の如し、我党(トウ)は泥沼(ドロヌマ)の如し、然といへ共蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず、大名の城(シロ)の立派なるも市中の繁花(ハンクワ)なるも、財源は村落にあり、是を以て至道は卑近に有て、高遠にあらず、実徳は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟(サト)るべし
二三一 翁曰、予久敷考(カンガ)へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒(ジユ)道は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考(カンガフ)るに皆相互(タガヒ)に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木(ステアジロギ)の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云しは、慨歎(ガイタン)に堪(タヱ)ねばなり、仍て今道々の、専(モツパラ)とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊(タフト)ばず、卑近を厭(イト)はず、此三道の正味のみを取れり、正味とは人界に切用なるを云、切用なるを取て、切用ならぬを捨(ステ)て、人界無上の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯(タハムレ)に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云、其功能の広太なる事、挙(アゲ)て数(カゾ)ふべからず、故に国に用れば国病癒(イ)え、家に用れば家病癒(イ)へ、其外荒地多きを患(ウレフ)る者、服膺(フクヨウ)すれば開拓なり、負債(フサイ)多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢(ケフシヤ)病、放蕩(ハウタフ)病、無頼(ブライ)病、遊惰(ユウダ)病、皆服膺(フクヨウ)して癒(イヘ)ずと云事なし、衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰、神一匕(サジ)、儒仏半匕(サジ)づヽなりと、或傍(カタハラ)に有り、是を図にして、三味分量 ※ 此の如きかと問ふ、翁一笑して曰、世間此の寄せ物の如き丸薬(ヤク)あらんや、既(スデ)に丸薬と云へば、能混和(コンクワ)して、更(サラ)に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入て舌に障(サハ)り、腹中に入て腹合ひ悪(アシ)し、能々混和(コンクワ)して何品とも分らざるを要するなり、呵々    

    
 (注) 上の文中の  の所に、次の図が入ります。
                      二宮翁夜話231段挿図
         
二三二 或問曰、因果(イングワ)と天命との差別如何、翁曰、因果の道理の尤見易(ミヤス)きは、蒔種(マクタネ)の生ふるなり、故に予人に諭(サト)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(ミ)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因て生ずる方より見て、因果と云り、然りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔といへども、天気を受ざれば育せず、されば種ありといへ共、天地の令命に依らざれば生育(イク)せず、花咲き実のらざる也、儒(ジユ)は、此方より見て天命と云るなり、夫天命とは、天の下知と云が如し、悪人の刑(ケイ)を免(マヌカ)れたるを見て、仏は因縁未(いまダ)熟(ジユク)せずと云ひ、儒は天命未(いまダ)降(クダ)らずと云、皆米を蒔て未(いまダ)実らざるを云なり、此悪人捕縛(ホバク)に就(ツ)くを見て、仏は因縁熟(ジユク)せりと云ひ、儒は天命到れりと云、而して之を捕縛(ホバク)する者は上意と云り、此上意則天命と云に同じ、夫借りたる物を約定の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履まざる時は、貸方之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(コヽ)に至て身代限(カギ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云なり、共に言語上に聊(イサヽカ)の違(タガ)ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問、因縁とは如何、翁曰、因は譬(タトヘ)ば蒔たる種也、之を耕耘培養するは縁なり、種を蒔たる因と、培養したる縁とに依て、秋の実のりを得る、之を果と云なり
二三三 翁曰、昔(ムカシ)堯帝(ギヨウテイ)、国を愛(アイ)する事厚し、刻苦励精(レイセイ)国家を治(ヲサ)む、人民謳(ウタヒ)て曰、井を掘(ホリ)て呑み、田を耕(タガヤ)して食ふ、帝の力何ぞ我にあらんや、帝之を聞て大に悦(ヨロコ)べりとあり、常人ならば、人民恩を知らずと怒(イカ)るべきに、帝の力何ぞ我に有んやと、謳(ウタ)ふを聞て悦べるは、堯の堯たる所以(ユヱン)なり、夫予が道は、堯舜も之を病(ヤ)めり、と云へる、大道の分子なり、されば予が道に従事して、刻苦勉励(ベンレイ)、国を起し村を起し、窮(キウ)を救(スク)ふ事有る時も、必人民は報徳の力、何ぞ我に有らんやと謳(ウタ)ふべき也、此時是を聞て、悦ぶ者にあらざれば、我徒にあらざる也、謹めや謹めや



二宮翁夜話 巻之五 大尾

 


 
(注)1.本文は、岩波書店刊『日本思想大系52 二宮尊徳・大原幽學』(1973年5月
      30日第1刷発行)
によりました。(『二宮翁夜話』の校注者は、奈良本辰也氏。)
     2.凡例によれば、底本は、神奈川県立文化資料館所蔵の木版本(明治17-
     20年出版)
で、読点はほぼ底本どおりとし多少の訂正を施した、とあります。
   3. 引用に当たって、踊り字(繰返し符号)は、「々」及び「ゝ(ヽ)」「ゞ(ヾ)」
    の他はすべて普通の仮名に改めました。
   4. 本文の片仮名のルビは、( )に入れて文中に示しました。
     「且(かツ)」「自(オのづから)」「我(わガ)」のように、( )内の仮名に平仮
    名と片仮名があるのは、底本には片仮名の「ツ」「オ」「ガ」だけがルビとして
    示されていて、平仮名の「か」「のづから」「わ」は、引用者が補ったもの、と
    いう意味です。
   5. 『二宮翁夜話』(巻之一)は資料31にあります。
        『二宮翁夜話』(巻之二)は資料75にあります。
        『二宮翁夜話』(巻之三)は資料76にあります。
      『二宮翁夜話』(巻之四)は資料77にあります。
   6.岩波文庫版の『二宮翁夜話』を底本にした「巻之一」の本文が、資料74
    
にあります。
   7.宇都宮大学附属図書館所蔵の「二宮尊徳関係資料一覧」 が、同図書
    館のホームページで見られます。
    8.小田原市のホームページに、栢山にある「小田原市尊徳記念館」の案内
    ページがあります。 
       9. 二宮町のホームページに、「二宮尊徳資料館」のページがあります。
   10. 「GAIA」 というホームページに二宮尊徳翁についてのページがあり、
    尊徳翁を理解する上でたいへん参考になります。ぜひご覧ください。
          「GAIA」 の「日記」のページの中に、『報徳要典』(舟越石治、昭和9年
    1月1日発行、非売品)を底本にした「二宮翁夜話」が収めてあり、そこで
    本文と口語訳とを読むことができます。
      また、『報徳記』を原文と口語訳で読むこともできます。
   

 

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