(注) | 1. |
上記の「先春梅記碑」の本文は、碑の拓本によって記述しました。拓本の文字がよく読み取れないところがあって、本文に読み誤りがあるかもしれません。 改行は碑文の通りにしてあります。 |
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2. |
「先君」「文公」という文字の前を闕字にするのでなく、「先君」「文公」が文頭になるように書かれている点が注目されます。 なお、「及華旹清香馥郁」の「旹」は、「時」の異体字です。 |
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3. |
「源紀敎叔寛父撰幷書及篆額」とありますが、この「父」がどういう意味なのか、よく分かりません。斉昭の父・治紀は、斉昭が17歳の時に亡くなっており、「先春梅記碑」が建てられた文政10年(斉昭28歳)の時には勿論いませんでした。 紀敎は斉昭の幼名、叔寛は字、後の子信だそうです。 |
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4. |
〇
拓本には「華白紅」とあるのですが、「先春梅記」の本文を記した「景山文詩集」「景山遺稿」「水戸烈公詩歌文集」のいずれにも「花紅白」となっているのはどうしてなのか、不可解です。 〇「華白紅斑色」の「斑」は、「班」かもしれませんが、拓本の文字は、はっきりしませんが、「斑」であるような感じがします。「班」なら、「色を班(わか)ち」となり、「斑」なら、「斑色」(まだらな色)となるのでしょうか。他の本(「景山文詩集」「景山遺稿」「水戸烈公詩歌文集」)では、全て「班」となっています。 |
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5. |
「先春梅記」は、徳川斉昭の祖父・6代治保(はるもり)が、寛政三年(1791)に、城下黒羽根町にあった岡崎蘇衛門の邸の珍しい梅の木を見て漢詩を作った。その後、その地に住むことになった児玉匡忠が、この事実が人々に知られることなく失われてしまうことを恐れ、藩主に就任前の斉昭(当時、松平姓)に頼んで文を書いてもらった、それが「先春梅記」です。文政10年(1827)に、その文章を碑に刻んで建てられたのが「先春梅記碑」です。この碑は、残念ながら大正7年の水戸の大火によって梅の木とともに失われてしまったそうで、現存していません。また不思議なことに、斉昭のこの「先春梅記」のことが殆んど人々に知られていませんし、記録された由緒正しい文書も見つかっていません。 令和4年(2022)になって、ある人から弘道館に「先春梅記」の碑の拓本が寄贈されました。これによって「先春梅記」の碑がどういう形のものであったかが、はっきりしました。碑は大正7年まであったというのですから、せめて写真でも残っていないかと思っているのですが、現在のところ見つかっていません。(2022年12月17日) ※ 岡崎蘇衛門の邸のあった水戸城下の「黒羽根町」は、現在、南町1~2丁目、宮町3丁目、梅香1丁目に分かれていて、岡崎蘇衛門の邸があった場所は、南町1丁目の伊勢歯科医院があるあたりかと思われますがはっきりしません。 |
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6. |
「先春梅記」の碑文の文章が出ている資料は次の通りです。 資料630に「先春梅記(「景山文詩集」による)」 資料631に「先春梅記(「景山遺稿」による)」 資料635に「先春梅」(瀧興治著『水戸名勝誌』による) 資料632に「先春梅記(「水戸烈公詩歌文集」による)」 資料632「水戸烈公詩歌文集」には、編註者・蔭山秋穂氏による「先春梅記」の書き下し文も付いています。 |
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7. |
前田香径著『江戸時代の水戸を語る』に次のようにあります。 今の齒科醫伊勢さんのゐる邊りに寛政年間岡崎蘇衛門といふ者が邸を構へてゐた、この邸内に梅の老樹があつてこれを『先春梅』といつた、寛政三年正月十一日藩主文公はこの岡崎の邸へ御成りになつて詩を吟じた、蘇衛門も詩人だつたと見えて、多くの學者に詩を請ふて一巻を編んだ、櫻井安享が序文を書いて居るが烈公は碑を立てゝこの先春梅の事を誌るした。 よほど珍らしい梅だつたと見えるが、その梅も碑も今は黒羽根町にないやうである。その後兒玉園衛門といふ人がこの屋敷に住んだ事になつてゐるが、(以下、略) 前田香径著『江戸時代の水戸を語る』(常陸書房、昭和58年4月10日発行)は、『水戸を語る』(水戸を語る出版会、昭和6年10月25日発行)の複刻版です。 ※ 「櫻井安享が序文を書いて居るが」とありますが、櫻井安享は櫻井安亨が正しいようです。この「序文」が、櫻井安亨の『居易堂遺稿 乾』に出ています。 → 資料623 梅花詩序(櫻井安亨著『居易堂遺稿 乾』より) |
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8. |
茨城県立水戸第二高等学校の同窓会の「秀芳会」という名前は、斉昭の「先春梅記」の「色秀衆樹 香掩群芳」からとって名づけたものだそうです。 『水戸二高百年史』(平成12年9月30日発行)から、斉昭の「先春梅記」に触れた貴重な資料だと思われますので、ちょっと長くなりますが一部を引用させていただきます。 命名の由来 「秀芳会」の名称の由来が、会報に初めて見えるのは、大正5年刊行の第6号に掲載された次の文章である。 水戸藩歴代の藩主梅を愛てられし中に、烈公は特に梅花を賞したまひ其の両公園に梅を植ゑられしことも其の趣旨種梅記にもあり。名高きところなるか、嘗て先君文公遺愛の梅樹を先春梅と名つけたまひしときの語中色秀衆樹香掩群芳といへるあり。是より会名を択ひしなり。 これによれば、「先春梅記」のなかの「色秀衆樹」の「秀」と「香掩群芳」の「芳」とをとり、「秀芳」と名づけたことが知られる。では、この「先春梅記」はどういうものであろうか。 烈公の祖父にあたる六代藩主治保(はるもり)が、水戸に帰国中の寛政3(1791)年正月に、城下黒羽根町(現宮町3丁目)の水戸藩重臣・岡崎蘇衛門朝能(ともよし)屋敷園で見事な梅花を賞遊し、詩を吟じたことがあった。それから37年後の文政11(1827)年、当時その屋敷の当主であった藩士児玉匡忠(まさただ)が文公梅花賞遊の事跡が湮滅するのを恐れ、文公の孫である烈公(当時松平姓、藩主就任の前年)に記文を依頼して石碑に刻み建立した。それが「先春梅記」である。烈公は、まずこれを記すに至った事情と、自ら「先春梅」と名づけたことを書き、最後に「銘」を書き添えた。その銘文には、次のように記してある。 色秀衆樹 香掩群芳 髙標迥絶 老幹屈強 一経風詠 漸換星霜 遺愛長存 千秋弥章(原文) 色は衆樹に秀で 香は群芳をおおう 髙標迥絶(けいぜつ)にして 老幹屈強なり ひとたび風詠を経(へ) ようやく星霜を換う 遺愛とこしえに存し 千秋いよいよ章(あきらか)なり(書き下し文) おおよそ、このように梅花をほめたたえる銘であった。なお、この老梅も石碑も大正7年3月の水戸市大火によって焼損した。 「秀芳」の命名 さて、この「先春梅記」から、いつ、だれが、「秀芳」の文字を案出したのであろうか。残念ながら、今のところこれを証明する資料は見出せない。 まず命名の時期であるが、会報第1号には「秀芳会」の名を明記しているので、明治45年3月以前であることは明らかである。(中略) 次に、命名者について、栗田勤(いそし)とする証言がある。水戸学の高名な学者である栗田寛の養子・勤(1857~1930)を父にもつ根本まさ(大6卒)は、娘の雅楽子(昭20卒)に、父の勤が名づけたと常々語っていたという。雅楽子は、母のこの言を「ひとり娘の在学中の女学校の校長先生のお申し出を受けて祖父がお答えしたという点は正しいと信じております。」(平9.6.24、関雅楽子書簡)と、受け取っている。 いま、この証言に沿って考察を進めることとする。旧姓栗田まさの入学は大正2年4月であり、会名は遅くとも前年の明治45年3月にはすでに命名されていたから、娘の在学中の命名との言を、そのまま受け取ることはできない。母の記憶違いか、娘の聞き誤りのいずれかと思われる。栗田は水戸藩の『大日本史』編纂の事業を完成させ、漢学に通じていた学者であるから、ときの池田校長が同窓会とも相談し、会の名称の命名を依頼することは考えられる。 大正3年11月開催の第8回音楽演奏会に、栗田の名が来賓の一人として見えている。同窓会名の命名から数年たってはいても、この招待は命名者としての招待と考えても、そう不自然ではなかろう。命名候補の有力な人物としてあげてよいであろう。(同書、101~102頁) |
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9. |
「先春梅」「先春梅記」についての資料 〇『水戸紀年』(『茨城県史料』 近世政治編1)寛政三年辛亥の項に、正月十一日のこととして、文公が「十一日黒羽根町岡崎蘇衞門カ邸ニ至リ玉ヒ古梅樹ノ詩ヲ吟セラル後蘇衞門諸子ノ詩ヲ請テ一巻トス櫻井安亨序ヲ作ル」とある。 (櫻井安亨の序は、資料623 梅花詩序(櫻井安亨著『居易堂遺稿 乾』より)にあります。) 〇『景山文詩集』「先春梅記」所収 〇『水戸名勝誌』(瀧興治著、明治36年3月1日発行・同39年再版・同44年三版)「先春梅碑」の碑文所収 〇『茨城百科全書 完』(井川巴水著、明治44年12月10日発行)ここに、「先春梅は樹幹低く地上に垂れ長二丈餘、恰も臥龍梅の如し、傍らに寒水石の碑あり、高六尺餘」とあります。 〇『山水供養』(遅塚金太郎(麗水)著。春秋社・大正2年5月22日発行)ここにある先春梅のことは、大正7年に雑誌『新公論』に「紅梅白梅」という題で新しく書き直しています。 〇『景山遺稿』(大正14年の新写本)「先春梅記」所収 〇『水戸烈公詩歌文集』(蔭山秋穂編註、明文社・昭和18年10月15日発行)「先春梅記」所収。原文と書き下し文があります。 〇『水戸を語る』(前田香径著、昭和6年10月25日発行)「先春梅」の碑のことが書かれています。189頁 〇『居易堂遺稿 乾』』(櫻井安亨著)の中に、「梅花詩序」が出ています。 〇『茨城県の農家副業 続々編』に先春梅のことが出ています。 〇『増補改訂 茨城大観』にも先春梅のことが出ています。 〇『角川日本地名大辞典8』 茨城県(竹内理三編、角川書店・平成3年9月1日発行)黒羽根町の項。「先春梅記」のことが「占春梅記」として出ています。 〇『水戸二高百年史』(平成12年9月30日発行) 「秀芳会」の「会名の由来」「「秀芳」の命名」のところに、「先春梅記」のことが出ています。101~102頁 |
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10. |
『読売新聞オンライン』に、2022年7月3日の日付で「徳川斉昭の拓本 初公開 弘道館」として、この「先春梅記」の拓本が弘道館で公開されたことを伝えています。(2023年1月10日現在) →『読売新聞オンライン』徳川斉昭の拓本 初公開 弘道館 |
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11. |
「先春梅記」の碑の写真 『顎鬚仙人残日録』(あごひげせんにんざんじつろく)というブログに、長山家から弘道館に寄贈された「先春梅記」の拓本の写真が出ていますので、ご覧ください。 →『顎鬚仙人残日録』 →「偕楽園開設180年と斉昭公の書」 |
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12. |
〇『茨城百科全書 完』(井川巴水(作之助)著・発行、明治44年12月10日・茨城百科全書発行所発行)に、先春梅記碑のことが出ていて、碑の様子が少し分かります。『茨城百科全書 完』は国立国会図書館デジタルコレクションに入っています。(2023年4月4日付記) → 国立国会図書館デジタルコレクション →『茨城百科全書 完』(49/548) ▲先春梅記碑 上市黒羽根町にあり、先春梅は樹幹低く地上に垂れ長二丈餘、恰も臥龍梅の如し、傍らに寒水石の碑あり、高六尺餘、文正年中建てたる者にて、源紀敎叔寛文を刻す、源紀敎叔寛文とは烈公の初名なり、今より十餘年前中崎某新に家屋を營み先春館と名づく、盖し名を梅樹に取るなり、此地一の古蹟なるも今之を知る者稀なるを遺憾とす、先春梅碑尚存せり (注) ∇文正年中……正しくは「文政年中」。先春梅記碑が建てられたのは文政10年(1827)。 ∇源紀敎叔寛文……碑の拓本には「源紀敎叔寛父」とある。ある資料に、「紀敎は斉昭の幼名、叔寛は字、後の子信」とあります。 ∇先春梅碑尚存せり……「先春梅碑」は、正しくは「先春梅記碑」。 |
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13. |
〇『山水供養』(遅塚金太郎(麗水)著、春陽堂、大正2年5月22日発行)にも、先春梅とその碑のことが出ています。 梅と碑碣(ひかつ) 月の十一日、戸川殘花翁、三好、渡瀬の兩博士と共に水戸に遊べり、東道の人は故栗田寛先生の嗣勤(つとむ)氏なり、齡五十二三と見ゆれども白鬚髯(はくすうぜん)あり、野服蕭散、朴の木齒の下駄を鳴らして余等を嚮導し、名あるの梅、史あるの碑を踏遍す、誠に恰好の案内者といふべし、 (中略) 行く行く市廛(してん)の間を過ぎりて黒羽根町の中崎醫院の庭に先春梅を看る、文禄年中、佐竹侯の臣岡本梅香齋の邸趾(ていし)にして、此の樹や其の遺愛の物なりと傳ふ、義公數々(しばしば)此の花を觀たるが爲めに、烈公又た樹蔭に寒水石の碑を立てゝ自から其の文を選べり、所謂臥龍梅にして、其の幹は既に朽ち、根の邊(あたり)に僅かに樹皮を剰(あま)すあるのみ、而も一脈春信(しゆんしん)の相通ずるありて、枝頭早く既に淡紅(たんこう)の花を着けたり、弘道館記の碑を碑中の長者とすれば、此の樹や水戸の梅の中(うち)の丈人(ぢやうじん)なるべし、姿態は甚だ稱するに足らざれども、亦た珍重すべし。 『国立国会図書館デジタルコレクション』→『山水供養』 (「梅と碑碣」は58/132、「先春梅」の記事は61/132にあります。) 語句の注: ∇ 故栗田寛先生の嗣勤(つとむ)氏=ここに「勤(つとむ)」とありますが、「勤(いそし)」と読むのが正しいようです。 ∇ 行く行く=原文は、「行く」の次に、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号が使われています。 ∇ 戸川残花=本名、安宅(やすいえ)。詩人・評論家、牧師。江戸時代末期の旗本で、明治時代の文学者。1874年(明治7年)にキリスト教の洗礼を受けて牧師となる。残花という名で明治から大正にかけて文壇で活躍した。また、1901年(明治34年)日本女子大学の創立に参画し、国文科教授となる。著書に『幕末小史』『海舟先生』がある。(1855・安政2年~1924・大正13年) ∇ 東道の人=主人となって客をもてなしたり、案内をする人。東道の主人。 ∇ 文禄年=天正の後、慶長の前の年号。1592~1596。 ∇ 義公數々(しばしば)此の花を觀たる=徳川光圀がこの「先春梅」の樹を見たということは、知りませんでした。このことがどこかに出ているでしょうか。 ∇ 丈人(じょうじん)=長老を敬っていう語。 |