資料574 吉田松陰「松下村塾記」[書き下し文](『吉田松陰全集 第4巻』による)



            

 
    次に掲げる書き下し文の「松下村塾記」は、『吉田松陰全集 第4巻』(山口県教育会編纂、岩波書店・昭和13年11月22日発行)所収の『丙辰幽室文稿』に拠った本文です。
全集巻末の「解題」に、『丙辰幽室文稿』の「國文書流し並びに校訂」は、委員の玖村敏雄氏が担当した、とあります。
 
       


         松下村塾記


長門の國たる、僻して山陽の西陬に在り。而して萩城は連山の陰(きた)を蔽ひ、渤海(ぼつかい)の衝(しよう)に當る。其の地海を背にして山に面し、卑濕隱暗、吉見氏の故墟にして、古は甚だしくは顯はれず。二百年來(このかた)、乃ち本藩の治所となる。ここに於てか、山産海物、四方より輻湊し、嚴然として一都會となれり。城の東郊は則ち吾が松下邑(まつもとむら)なり。松下の邑たる、南に大川を帶ぶ。川の源は溪澗數十里、人能く窮むるなし。蓋し平氏の遺民嘗て隱匿せし所なり。其の東北の二山、大なる者は唐人山(たうじんやま)と爲し、朝鮮俘虜の鈞陶(きんたう)する所なり。小なる者は長添山(ながそへやま)と為し、松倉伊賀の廃址なり。伊賀嘗て大内氏の將岩成豊後と、數々陣原(ぢんはら)に戰ひ、連りに敗るる所となり、遂に大將淵に投じて死す。原と淵と、今皆存すと云ふ。山川の間、人戸一千、士農在り、工商在り。昔時の忿惋(ふんわん)不平の氣、今は則ち欝然靄然として、發して人物となり、煥乎として一勝區を爲せり。然れども吾れ常に怪しむ、昔時の忿惋不平の氣、流れて川となり、峙(そばだ)ちて山となり、發しては則ち人物となり、以て所謂一勝區を成す者は、固より其の常のみ。苟も奇傑非常の人を起し、奮發震動して、乾を轉じ坤を撼(うご)かし、以て邦家の休美を成すに非ざるよりは、將た何を以てか山川の氣を一變して、其の忿惋を平かにするに足らんや。況や萩城の隱暗にして顯はれざること、亦已に久しきをや。今は則ち嚴然として一都會たれども、是れ猶ほ眞に顯はるる者に非ず、特だ其の機の先兆のみ。今松下は城の東方にあり。東方を震と爲す。震は萬物の出づる所、又奮發震動の象あり。故に吾れ謂(おも)へらく、萩城の將に大いに顯はれんとするや、其れ必ず松下の邑より始まらんかと。
去年余獄を免され、松下に家居し、外人に接せず。獨り外叔久保先生及び諸從兄弟、時々過訪し、因つて共に道藝を講究す。家嚴・家叔と家兄と、又従つて之れを奬勵せらる。吾が族の盛大なる、蓋し將に往々(ゆくゆく)一邑を奮發震動せんとするなり。初め家叔先生の徒を集めて敎授せらるるや、其の家塾に扁して、松下村塾と曰ふ。家叔已に官となり、其の號久しく廢せり。外叔已にして邑の子弟を會して之れを敎へ、其の號を沿用す。頃(このご)ろ余に命じて之れを記せしむ。
余曰く、「學は、人たる所以を學ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。誠に一邑の人をして、入りては則ち孝悌、出でては則ち忠信ならしめば、則ち村名これに係くるも辱ぢず。若し或は然る能はずんば、亦一邑の辱たらざらんや。抑々人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。國の最も大なりとする所のものは、華夷の辨なり。今天下は何如なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至りて、華夷の辨を合せて又之れを失ふ。然り而して天下の人、方且(まさ)に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷の辨を遺(わす)れば、則ち學の學たる所以、人の人たる所以、其れ安くに在りや。是れ二先生の痛心せらるる所以にして、而して余の之れが記を爲(つく)らざるを得ざるも、亦ここにあり。噫、外叔先生、誠に能く一邑の子弟を敎誨して、上は君臣の義、華夷の辨を明かにし、下は又孝悌忠信を失はず。然る後奇傑非常の人、起(た)つて之れに從ひ、以て山川忿惋の氣を一變し、邦家休美の盛を馴致せば、則ち萩城の眞に顯はるること、將にここに於てか在らんとす、豈に特(ただ)に一勝區一都會のみならんや。果して然らば、則ち長門は僻して西陬に在りと雖も、其の天下を奮發して、四夷を震動するも、亦未だ量るべからざるのみ。余は罪囚の餘、言ふに足る者なし。然れども幸に族人の末に居れり。其の、子弟を糾輯して、以て二先生の後を繼ぐがごとくんば、則ち敢へて勉めずんばあらざるなり」と。外叔先生曰く、「子の言は則ち大なり、吾れ敢へてせざるなり。請ふ邑人に切なるものを聞かん」と。余曰く、「古人月旦の評あり。今且(しばら)く子弟の爲めに三等を設立し、分つて六科と爲し、各々其の居る所を標(しる)し、月朔に升降して以て其の勤惰を騐(けん)せん。曰く進德、曰く專心、是れを上等と爲す。曰く勵精、曰く修業、是れを中等と爲す。曰く怠惰、曰く放縱、是れを下等と爲す。三等六科、志の趨く所、心の安んずる所、爲して可ならざるなし。誠に邑人をして皆進みて上等の選たらしめば、則ち吾れの前言未だ必ずしも其の大を憂へざるなり」と。先生曰く、「善し」と。因つて併せ記す。安政三年丙辰九月、吉田矩方撰す。 


  (注) 1.  上記の本文は、「国立国会図書館デジタルコレクション」所収の『吉田松陰全集』第4巻(山口教育会編纂、岩波書店・昭和13年11月22日発行所収)によりました。
   「国立国会図書館デジタルコレクション」
   →『吉田松陰全集』第4巻
 「松下村塾記」は、93~95/241 にあります。 
 
 なお、「松下村塾記」の原文(漢文)は、資料505にあります。
 → 資料505 吉田松陰「松下村塾記」[原文](『吉田松陰全集 第3巻』による)      
   
    2.   上記の本文の振り仮名は括弧に入れて示し、平仮名の「こ」をつぶした形の繰り返し符号は、「々」で代用しました。    
    3.  「華夷」について、大和書房発行の『吉田松陰全集 第二巻』 (1973年3月30日初版第1刷発行、2012年6月1日新装版第2刷発行)の頭注に、「華は中国人の自国に対する自称、夷は外国。ここでは、自国と外国との主客・本末の別を明確にすべきことをいう」とあります。    
    4.  京都大学附属図書館のホームページにある「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」に、吉田松陰撰幷書の「松下村塾記」の画像があります。画像は小さいですが、画像を拡大すれば文字を読みとることができます。
  「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」
  → 吉田松陰撰幷書「松下村塾記」
 
 なお、その「維新資料画像データベース」の中に「維新資料人名解説データ」があり、そこに吉田松陰の解説があります。  
   
    5.  国立国会図書館のホームページの中に「近代日本人の肖像」というページがあり、そこで吉田松陰の肖像写真を見ることができます。      
    6.  松陰と『宝島』の作者・スチーブンソンとのつながりについて書いた本には、よしだみどり著『烈々たる日本人 日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 イギリスの文豪スティーヴンスンがなぜ』(祥伝社ノン・ブック、2000年10月10日発行)があります。    
    7.  Roadside Libraryというサイトに、スチーブンソンの『YOSHIDA=TORAJIRO』が出ています。
 Roadside Library
  → YOSHIDA=TORAJIRO 
   
    8.  資料36に、吉田松陰『留魂録』があります。        
    9.   資料71に、吉田松陰『東北遊日記(抄)』があります。      
    10.  資料32に、吉田松陰の「父・叔父・兄への手紙」があります。    
    11.  資料504に、吉田松陰『幽囚録』[原文](『吉田松陰全集 第1巻』所収)があります。         
    12.   資料503に、吉田松陰『幽囚録』[原文](『松陰先生遺著』所収)があります。     
    13.   吉田松陰の「士規七則」については、資料433「力士七則」注3,4をご覧ください。     
    14.  2010年7月号の『常陽藝文』(常陽藝文センター、平成22年7月1日発行)に藝文風土記<吉田松陰の「東北遊日記」>があります。       
    15.   『吉田松陰.com』というサイトがあって、たいへん参考になります。        

 
 
 




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