資料505 吉田松陰「松下村塾記」[原文](『吉田松陰全集 第3巻』による)



           

   次に掲げる「松下村塾記」は、『吉田松陰全集 第3巻』(山口県教育会編纂、岩波書店・ 和10年3月31日第1刷発行)所収の『丙辰幽室文稿』に拠った本文です。ただし、頭注(蕭海評による削除語句等)は省略しました。
 全集の「解題并凡例」に、松陰の安政二年出獄後の文稿として萩市の松陰神社に収められている『幽室文稿』6冊の内の1冊、「丙辰」に拠った、なお、東京吉田茂子氏蔵の本も対照した、とあります。
「吉田本には題目の下に九月九日とある」とあります。 (2015年2月28日記)       
   
 

   
        松下村塾記 

長門之為國僻在山陽之西陬而萩城蔽連山之陰當渤海之衝其地背海面山卑濕隱暗吉見氏之故墟而古不甚顯二百年來乃為本藩治所於是山産海物四方輻湊嚴然為一都會矣城之東郊則吾松下邑也松下之為邑南帶大川川之源溪澗数十里人莫能窮盖平氏遺民嘗所隱匿其東北二山大者爲唐人山朝鮮俘虜之所鈞陶也小者為長添山松倉伊賀之廃址也伊賀甞與大内氏將岩成豊後数戰陣原連為所敗遂投大將淵而死原與淵今皆存云山川之間人戸一千士農在焉工商在焉昔時忿惋不平之気今則欝然靄然発為人物煥乎為一勝區矣然吾常怪昔時忿惋不平之気流而為川峙而為山発則為人物以成所謂一勝區者固其常耳苟自非起奇傑非常之人奮発震動轉乾撼坤以成邦家之休美將何以足一変山川之気平其忿惋乎哉況萩城之隱暗不顯亦已久矣今則嚴然為一都會是猶非眞顯者特其機先兆耳今松下在城之東方東方為震震萬物之所出又有奮発震動之象故吾謂萩城之將大顯其必始于松下邑也歟去年余免獄家居松下不接外人獨外叔久保先生及諸従兄弟時々過訪因共講究道藝家嚴家叔與家兄又従而奬勵之吾族盛大盖將往奮発震動一邑也初家叔先生之集徒敎授也扁其家塾曰松下村塾家叔已為官其号久廢外叔已會邑子弟而敎之沿用其号頃命余記之余曰学学所以為人也塾係以村名誠使一邑之人入則孝悌出則忠信則村名係焉而不辱若或不能然不亦為一邑之辱乎抑人之所最重者君臣之義也国之所最大者華夷之辨也今天下何如時也君臣之義不講六百餘年至近時合華夷之辨而又失之然而天下之人方且安然為得計生神州之地蒙皇室之恩内失君臣之義外遺華夷之辨則学之所以為学人之所以為人其安在哉是二先生之所以痛心而余不得不為之記亦在于斯噫外叔先生誠能敎誨一邑子弟上明君臣之義華夷之辨下又不失孝悌忠信然後奇傑非常之人起而従之以一変山川忿惋之気馴致邦家休美之盛則萩城之眞顯將於是乎在豈特一勝區一都會而已哉果然則長門雖僻在西陬其奮発天下而震動四夷亦未可量也已余罪囚之餘無足言者然幸居族人之末若其糾輯子弟以継二先生之後則不敢不勉也外叔先生曰子言則大矣吾不敢也請聞切于邑人者余曰古人有月旦之評今且為子弟設立三等分為六科各標其所居月朔升降以騐其勤惰曰進德曰專心是為上等曰勵精曰修業是為中等曰怠惰曰放縱是為下等三等六科志之所趨心之所安無為而不可誠使邑人皆進為上等之選則吾之前言未必憂其大也先生曰善因併記安政三年丙辰九月吉田矩方撰 


  (注) 1.  上記の本文は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の『吉田松陰全集』第3巻(山口教育会編纂、岩波書店・昭和10年3月31日第1刷発行)所収によりました。(「丙辰幽室文稿」の中に入っています。)
    「国立国会図書館デジタルコレクション」
   →『吉田松陰全集』第3巻 
   →「松下村塾記」42~43/232 
     (コマ番号42の最後の行から始まっています。)
   
    2.  上記の本文には、返り点と読点が付いていますが、ここではそれを省略して、全くの白文としてあります。 
 また、全集の頭注には、蕭海の評によって削除した部分の注がついていますが、ここではそれも省略してあります。詳しくは全集本文を参照してください。
   
    3.  全集には、松下村塾版真蹟白抜き刷との異同の個所が傍注として示してあります。これを次に示します。        
    《全集》      《真蹟白抜き刷》
 原與淵今皆存云 …………  原與淵今皆沒云
 家叔已為官 ………………  家叔為官(已ナシ)
 外叔已會邑子弟而敎之 …  已而外叔會邑子弟而敎之 
 合華夷之辨而又失之 …  幷華夷之辨又失之(合→幷、而ナシ)
 則学之所以為学 …………  学之所以為学(則ナシ)   
 曰勵精曰修業 ………………  曰修業曰厲精 
  九月  ………………………  九月日
      
   
    4.  『吉田松陰全集』第4巻(山口教育会編纂、岩波書店・昭和13年11月23日発行)による「松下村塾記」の書き下し文(コマ番号93~95/241)が、資料574にあります。
 → 資料574   吉田松陰「松下村塾記」[書き下し文](『吉田松陰全集』第4巻による)
   
    5.  本文中の人物の注をつけておきます。
 〇外叔久保先生……母方の叔父。久保五郎左衛門。
 〇家嚴……松陰の父。杉百合之助。名は、常道。通称、百合之助。
 〇家叔……玉木文之進。松陰の叔父。百合之助の弟。
 〇家兄……杉梅太郎。松陰の兄。名は、修道。通称、梅太郎。のち、藩主より民治(みんじ)の名を与えられる。
   
    6.  京都大学附属図書館のホームページにある「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」に、吉田松陰撰幷書の「松下村塾記」の画像があります。画像は小さいですが、画像を拡大すれば文字を読みとることができます。
  「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」
  → 吉田松陰撰幷書「松下村塾記」
 
 なお、その「維新資料画像データベース」の中に「維新資料人名解説データ」があり、そこに吉田松陰の解説があります。
   
    7.  国立国会図書館のホームページの中に「近代日本人の肖像」というページがあり、そこで吉田松陰の肖像写真を見ることができます。       
    8.  『かたつむり行進曲』というサイトに、「吉田松陰」があって、大変参考になります。松陰と『宝島』の作者・スチーブンソンとのつながりなどにも触れてあります。 残念ながら現在は見られないようです。(2016年10月1日)
 

 なお、松陰とスチーブンソンとのつながりについて書いた本には、よしだみどり著『烈々たる日本人 日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 イギリスの文豪スティーヴンスンがなぜ』(祥伝社ノン・ブック、2000年10月10日発行)があります。
   
    9.  Roadside Libraryというサイトに、スチーブンソンの『YOSHIDA=TORAJIRO』が出ています。
 Roadside Library
  → YOSHIDA=TORAJIRO
   
    10.  資料36に、吉田松陰『留魂録』があります。       
    11.  資料71に、吉田松陰『東北遊日記(抄)』があります。         
    12.  資料32に、吉田松陰の「父・叔父・兄への手紙」があります。    
    13.  資料504に、吉田松陰『幽囚録』[原文](『吉田松陰全集 第1巻』所収)があります。              
    14.  資料503に、吉田松陰『幽囚録』[原文](『松陰先生遺著』所収)があります。    
    15.   吉田松陰の「士規七則」については、資料433「力士七則」注3,4をご覧ください。    
    16.   2010年7月号の『常陽藝文』(常陽藝文センター、平成22年7月1日発行)に藝文風土記<吉田松陰の「東北遊日記」>があります。       
    17.  『吉田松陰.com』というサイトがあって、たいへん参考になります。      








           トップページへ