資料71 吉田松陰『東北遊日記』(抄)

                     

    
東 北 遊 日 記  (抄)             松陰吉田先生著  
 

 

   有志之士時平則讀書學道論經國之大計議古今之得失一旦變起則従戎馬之間
  
料敵締交建長策而利國家是平生之志也然而茫乎天下之形勢何以得之余客歳
  遊鎮西今春抵東武畧跋渉畿内山陽西海東海而東山北陸土曠山峻自古英雄割
  據焉奸兇巣穴焉且東連滿洲北隣鄂羅是最
經國大計之所関而冝觀古今得失者
  也而余未經其地深以為恨矣頃肥人宮部鼎藏謀
東北遊于余々喜而諾之會奥人
  安藝五藏亦將抵常奥遂相約同行矣余因作一冊子古今得失山川形勢凡所目撃
  皆將以日記之
  嘉永四年臘月                吉田大次郎藤矩方識
辛亥十二月十四日翳巳時亡命櫻田邸留一詩云一別如胡越再逢已無期挙頭観宇宙
大道到處隨明月無今古白日同華夷高山與景行仰行豈復疑不忠不孝事誰嘗甘為之
一諾不可忽流落何足辞縱為一時負報國尚堪為又留一封書與
宮部鼎藏安藝五藏言
其由初以本月十五日赤城義士遂事之日也余與二子約東行發軔以是日前数日過書
之事起藩人來原良藏曰勿憂吾論諸大夫子以必行定志乃謂二子曰决無不可行之理
余服良藏之果斷心窃自誓曰官若不允吾必亡命矣於是遲疑人必曰長州人優柔不断
是辱國家也亡命者雖如負國家而其罪止一身比之辱國家得失何如欤既而良藏論之
大夫々々曰且與參政議々々曰無過書而越境万一有事不得確乎稱松平大膳大夫臣
吉田大次郎口未開而膽先餒矣安保不辱國体乎此事縱令有千百故事非仰公裁决不
可擅断大夫無如其論確而志堅遂以事首國而余則行所自誓非不顧負國家誠丈夫一
諾不可忽也夫大丈夫出國一言可以榮國又可以辱國々家栄辱之所係豈區々一身之
故哉越千住橋至千住驛日本橋至此二里皆連甍鱗々中也右折取道是為水戸道々狹
家稀四顧不見山唯有平田漫々耳過綾瀬川橋經新宿至松戸驛新宿驛前有中川松戸
驛前有松戸川皆舟済之其不架橋便舟之上下者張帆而過也松戸川兩岸有番所驛前
立柱書曰御代官竹垣三右衛門支配所自此下總葛飾郡也時日已落欲宿此驛而恐追
捕或及至本郷村入山二町許投本福寺々係時宗僧了音者在焉變姓名曰長州鄙人松
野他三郎亦遊歴中一竒事也行程五里餘
十五日晴辰時出寺行三里為小金驛過驛則廣原漫々即小金原而幕府操塲也見野馬
九匹過原右視手賀沼直行則可經安彦諸驛過土浦以至水戸余欲過水海道故左折而
入小路經花井村出舩戸舟済刀根川筑波山當面前因作詩云筑波山刀根川吾今俯仰
發浩嘆刀根之川遠達海筑波之山高衝天吾原浮躁浅露質観物寓戒豈徒然氣象高峻
志趣遠須臾勿忘川與山済川行平原中宿水海道行程八里自左折入小路皆田間原中
路岐多端且迷且得而後始得達水海道驛時既夜
十六日晴出驛行少許右折入田間小路舟済小貝川是為四手渡川発源于小栗至土田
井入刀根川云出豊田驛又右折入松間小路經大砂田中諸村出北條驛是土浦侯所領
登筑波半腹有驛宿焉筑波山名亦以名驛名郡屬常陸國時天日尚髙眺望甚濶快不可
言行程七里
十七日晴出驛極筑波二巓一曰男体一曰女体是日天氣晴朗眺望特宜関東八州之形
勢歴々可指山而富士日光奈須水而刀根那珂皆聚于目前但余暗于地理且獨行踽々
不能論評其山水為憾耳有詩云去年今月在鎮西温泉嶽上極攀躋當時風雪掠空起蘇
山筑水望總迷今年反作関東役季冬乃跨筑波脊左右顧眄快愉哉富山白玉刀水碧一
身踪跡且難常何况天上陰與晴賀生哭死定幾許千里人煙色蒼々嗚呼温泉自有蘇筑
友筑波自有富刀耦不似游子辞家郷睽離兄弟與父母越巓下眞壁々々驛名亦以名郡
係笠間侯所領過驛行里許越休惠山便道出笠間々々文武分舘文曰時習舘武曰講武
舘夜録余姓名使人文舘教授森田哲之進且告所以来者為學兵與經也
十八日晴朝時習舘小吏大田尾安藏来問余學所主午時又来導余至舘學舘番頭加茂
多十郎須藤文太夫目附某々教授森田哲之進長沼流兵家守岡善八郎及諸學職諸生
皆會凡二十五人坐次斉整談論不甚快使余講經余講孟子首章蓋舘法也夜手塚多助
来訪兵家也談論数次多助語曰往年水府老公之時余嘗遊焉寓砲家梅澤孫太郎家一
夕比隣喧嘈余驚問之梅澤曰鋳砲耳余起往見之銅佛鐘磬積堆如山方鼓鞴起火叩其
所由來則曰収佛寺所有而聚之余拍掌称快後聞之有忽砲口徑六寸及七寸共以六十
四卦為号又有以周興嗣千文為号者其他以八卦以三十六禽為号之類不可勝数矣方
是時比隣之國見公之所為且嫉且駭為狂為暴不久公遂獲罪於幕府於是武備之政忽
諸小國従大國之後亦将有所更張及公既獲罪惴々畏縮之不暇又何能為千歳機會一
朝而去可勝嘆哉
十九日翳發笠間經新関大足大塚赤塚至水戸未至水戸一里立柱標曰従是東水戸領
訪永井政助政助不在逢子芳之助留余宿焉行程五里笠間水戸皆屬茨木郡
廿日晴終日不出晡時政助帰夜作詩曰書劍飄然滯天涯志業未遂歳空加一身有感向
誰説枉借七字發浩歌嗟吾天賦原劣弱闕如雄才與大畧慷慨志氣雖空存讀書未得渉
浩博文字章句措不精經濟實用亦無成舎魚遂併熊掌舎廿年失策愧此生家有父兄郷
師友期我甚重吾空負送我之言警我書三復忸怩吾顔厚今年之日又将除吾心之感竟
何如中霄思之眠那得剔燈且観大史書君不見先主肉髀悲歳月三分功業永不沒丈夫
存志豈空死百年勿教壮心歇
廿一日晴訪會澤憩齋即常藏也憩斎宅見高倉平三郎
廿二日晴終日不出
廿三日晴訪會澤々々宅見青山量太郎々々々延于子本為天狗黨聞近為姦黨所驅使
出入于史局意所謂菎蒻黨者也因爾後不復相見矣帰見根本孝五郎芳之助執友也夜
作題上總五郎忠光闚源右府圖詩芳之助等社友課題也其詩云失母慈烏啞々音反哺
未盡哀怨深此情禽鳥尚或有何况人生臣子心嗚呼西狩之駕無還日闔門死難不遺一
六十六州悉帰源義軍糾合已無術成敗利鈍命存天且殲隻身報黄泉嵌鱗眇目厠役徒
一握匕首志偏堅人衆勝天亦何悲斯人忠孝天地知獨憾覇府逞私怨坐令天下義氣衰
義士事逝成千古于今聞者涙如雨豫讓子房一流人豈於世道為小補漢高公義戮丁公
為劉左袒人知忠々光一斃事可慨牝雞巣鳩有誰攻漢四百年源三世修短寧可委時
勢忠孝之氣塞両間自是國家千年計當食誰敢不食稲當行誰敢不由道人心忠孝出自
然秕政使人不如鳥
廿四日晴夜宮部安藝来相伴抵其旅舎各語數日間之竒事快甚聞以余亡之日来原良
藏上書為余任其罪因是官不追捕余也二子與鳥山新三郎以十五日発先至泉岳寺拜
義士墓平日所交遊皆追送焉乃取路于行德過佐倉至下妻鳥山自是而帰二子則来水
戸皆未發之前所預約也而余以先発不得與焉為憾耳安藝有故變姓名詐郷貫称藝人
那珂弥八々々之先江戸但馬守實出于那珂彦五郎則其称那珂亦非妄也那珂常陸郡
名而江戸那珂村名也弥八之先大於常陸彦五郎死南朝王事近年水府議為立碑勒銘
遭國難不果弥八之遊常欲探祖宗之逸事也是夜余亦留宿焉
廿五日晴朝帰二子亦相尋来午後與二子訪會澤夜入市買米炭諸品而還二子亦同寓

廿六日晴與二子訪豊田彦二郎以病不逢観好文亭偕楽園即是也亭一高壟也列植以
梅樹棣棠環以隍塹建制札云四月至八月三八之日下及百姓町人不禁釣漁余嘗讀景
山老公所撰偕樂園記又聞其所作歌云世
人山丹天毛尚憂時(コ
コ)
祢与蓋公之志可見矣而今則荒廃為之唏嘘不能去過千波湖西登高陵有平原
蓋操塲也拜車丹波祠車佐竹氏之臣也佐竹氏徙封時嬰壁戦死云
弥八母中田氏實
州之裔弥
八悵然作詩云鴻雁北来雲氣惡滿路墜葉驚索々下馬再拜墓門松感古涕涙
揮又落憶得故侯北
徙時滿城人士泣追隨祖宗城闕夜不鎖推與他人恬不疑獨有此君
重苦節笑跨孤馬任鞭馳縦横衝突氣益奮十万大軍遂披靡馬革裏屍常事耳男兒當為
天下竒我家與君本姻族何以苦節揚先德腰下寶刀鳴有聲死矣負家生負國強収涕涙
上前途落日風寒洗馬湖出千波湖西繞城東北而還城初常陸大掾國香居之後江戸氏
佐竹氏更取之千波湖那珂川環而為險
廿七日晴終日不出
廿八日如昨
廿九日晴將観西山瑞竜同二子出永井家舟済那珂川是為青柳渡過常福寺經額田宿
大田驛出驛十丁許登瑞竜山是列公墳墓所在歴世諡号曰威義肅成良文武哀舜水朱
之瑜墓亦在焉薄暮還驛行程六里
壬子正月元日晴旅中閑静歳将除也無事可厭歳已改也無新可賀是遊歴中最快事也
出驛将観西山義公莵裘也路過民根本儀兵衛家拜民長山理介之先所賜義公手彫木
像立像高八寸許者也世藏理介家近理介死其子猶幼故暫托根本云西山瑞竜近地道
傍多植櫻樹至西山観莵裘門舎屋壁簡朴質陋而泉石樹木則甚有風致守者云此地義
公命舜水所相義公以来屢次修葺而朱嘗少失旧様因追想義公之風感嘆久之前庭有
景山公手植松高已過屋下西山取路于山間至佐竹寺佐竹侯旧菩提所也門額彫佐竹
氏章寺背則佐竹故城址而今則弥望漫々菜田麥圃也有民清水民之進者以為吾輩秋
田士人也来為導特有懷古悵然之態亦可以観人心矣至小塲村宿所伊賀右衛門家所
江戸氏姻族弥八欲問古過之伊賀者十年前國難之時與四人共詣江戸以公寃訴紀州
侯云今語其事悲壯淋漓使人落涙余作詩記之云雄坡村中吊古城落日帰牛冥煙生倦
客来尋民家宿樹際松肪照眼明老翁兒孫相環列引吾入座不復驚翁説吾祖所氏某帶
弓跨馬往勤王尓後征戦經幾世二百年来混編氓又説先公遭厄日抗疏侯門奉丹誠賑
恤撫字恩澤重小人一死鴻毛輕氣息奄々生何益不如拔身當鼎鐺何圖恩裁出分外延
生六十有五齡語意慨然聳動坐忠憤不忝祖先名嗟乎擧朝士夫皆如此生民相忘撃壌
聲男兒流落未易料時窮草莽見豪英々
二日晴發所家観小塲城址小塲佐竹族也伊賀右衛門送至城址指示塹塁之所址背那
珂川沿川而下至江戸村訪民齋藤権兵衛亦江戸氏也弥八将寫其家古記於是余與宮
部先帰沿川而下二里許渡青柳上流入水戸薄暮至永井家歳首樹松于門者天下之通
俗而水府獨插松枝耳極為簡易其制達庶所人
按常陸帶門松之制天保元年所改也先是蓋亦如天
下之通俗
三日晴終日不出酉時那珂帰
四日晴初以歳晩歳初家々冗劇不便訪人也為西山瑞竜之行而帰也人家未閒乃與二
子及芳之助謀銚子之遊巳時出家渡青柳過小川修理沿那珂川而下經枝河至湊此川
注海處也城至是二里此及大田水府封内最繁殷之地也港口艱渋岸上安礟臺不赴觀
為憾舟済川沿海過大貫村至古奈地而宿焉村前有木柱書曰従是北御代官小田又七
郎支配所行程凡六里夜分韻賦詩足跡遍天下肩上輕一囊書畫數十葉詩文幾百章詳
郡國形勢寫忠孝心膓可以資膺懲可以維綱常男兒平生志蓬桑報四方誰知汗漫遊家
國豈暫忘
五日晴発古奈地行三里至汲上村出海濱行砂上五里宿鹿嶋社傍鹿嶋社名亦以名郡
夜課題曰客愁各賦詩余詩云去國桃花節復聞黄栗留発都圓月曉復見新月鉤客子悲
歳月々々空自流不願千金冨不願万戸侯韜畧吾曾學欲成報國謀武威煌々耀一朝畧
五洲宇宙古今際斯志有誰儔故國三千里客愁永悠々
六日晴訪北條時之助吉川仲之助二人皆鹿祠官拜鹿社行里許至鰐川航行一里
餘至潮来宿宮本庄一郎家其子曰千藏庄一郎頃撰常陸志云夜少雨作詩云孤牀半夜
夢難成聽断四檐點滴声囘首山河郷國邈阿兄今夜定何情
兄伯教愛雨余所以有此感也
七日晴朝与庄一郎語庄一郎國難之時繫獄々中有詩云死去豫期葬首陽百年身世劍
鋩霜眠醒草底尋残夢落月光寒頭断塲午前出宮本家行一里至牛堀泛舟於刀根川刀
根川発源于上野浩々蕩々至銚子口注海俗所謂坂東太郎是也常總以是川為界順流
而下三里至息栖日已没矣登陸喫飯反而登舟又下六里至松岸則夜已二鼓登陸而宿

八日晴經長塚本城觀海及刀根川注海處此地状類銚子是所以名欤戸口殷盛百貨粗
備市廛間甚有江戸様但港口沙淤不便通舟為憾聞係笠間侯信地而守備單弱蓋有所
恃于地利欤余乃作詩曰巨江汨々流入海商舩幾隻銜尾泊春風吹送絲竹声粉壁紅樓
自成郭吾来添纜壬子年倚檣一望天地廓遠帆如鳥近帆牛潮去潮来煙漠々歐邏亜墨
知何処决眦東南情懷悪眉山之老骨已朽何人復有審敵作仄聞身毒與滿清宴安或被
他人掠杞人有憂豈得已閑却袖中綏邊畧強開樽酒發浩歌滄溟如墨天日落帰松岸而
宿焉往復四里
九日晴舟泝刀根川宿息栖舟行六里
十日晴発息栖至牛堀欲航霞浦直至玉造舟子以風烈辞強之不聴不得已舎舟陸行五
里宿玉造夜雨
十一日晴朝発玉造還水戸則夜已初更行路八里此間糶廩及郷貯稗倉在焉然失地名
常陸帶云稗倉義公所創
十二日晴午後訪豊田彦二郎彦二郎學問該博議論痛快使人憮然其嘗在史局以獨力
作神祇氏族兵制諸志其外紀傳則分任諸子所著有靖海全策世書明書等或成或未成
率皆巻帙浩瀚云夜根本及渡井初之進来話去則雞鳴
十三日晴訪會澤及山國喜八郎兵家也共不在訪桑原幾太郎亦兵家也
十四日晴訪會澤々々宅見海保帆平々々安中人先公時以善劍聘以禄之憩斎以女妻
之憩斎云先公時有造大艦之議材既聚矣會有回禄之変焚材後不及再聚而國難作焉
遂不果憩斎今年七十一矍鑠哉此翁也
十五日晴終日不出
十六日晴訪豊田設酒歓語
十七日晴訪會澤々々々数次率設酒水府之風接他邦人歓待甚渥歓然交欣吐露心胸
無所隠匿會有談論可聽者必把筆記之是其所以通天下之事得天下之力欤夜根本及
原甚藏来話
十八日晴作上父叔兄書與来原良藏児玉初之進小田村伊之助林壽之進書昨小田村
林書至初二子在麻布邸余以亡之前日抵其邸謂暴白其事使二子預議則或至分其罪
因故欺二子以有過書之事暫緩其行而二子不暁其意反以不謀為啣遺書詰責然是非
大義所関故不敢辯矣但以余為負家國而有所僥倖者是不可不弁也因復書云辱書見
責以僕逋亡僕之背家國其罪固大矣不必為區々縁飾也然僕嘗窃奉君子之教天下無
々君之國亦無々父之郷安有永棄君父以謀利者乎但僕出門之日有所自誓焉不得不
為知己一言之也夫枉尺直尋雖孟子之所不取然忍小謀大則孔門之教也僕已枉尺矣
安能直尋乎但當奉孔門之教自効以贖前罪也今二兄乃喩以當速帰大非所望於知己
也僕雖駑下亦人也使僕無成則何面目復還郷國見故旧也万一見迫甚急則僕有刎首
刺心謀自贖耳又安有永棄君父以謀利者乎抑林兄帰國見僕父兄師友為僕言二郎亦
男兒耳願勿過慮覼縷絮談無益于家國不多及也矩方再拜
十九日晴将以明旦発至會澤豊田桑原告別至常照寺後天神社拜義公筆塚寺佐竹支
城故址也夜渡井及菊池鉄五郎原田誠之進菊池剛藏小瀬千藏来話臨去開戸則雪積
数寸
廿日晴聞在國大夫鈴木石見守在江戸大夫大田丹波守相尋罷免二人皆姦党巨魁々
々已斃脇従将従而殲非特為水府賀而已亦為天下賀也芳之助書詩三首贈吾三人宮
部那珂皆有詩余亦賦與芳之助云四海皆兄弟天涯如比隣吾生山陽陬来遊東海濱長
刀快馬三千里迂路水城先訪君一見指天吐肝膽交際何論旧與新分席三旬吾去矣决
眦奥羽万重雲浩然之氣塞天地東西何嘗有疆畛一張一弛有國常弛之張之在其人澹
菴封事愕金虜武侯上表泣鬼神大義至今猶赫々丈夫敢望車前塵見君年少尚氣義白
日學劍夜誦文斗筲小人何足数勿負堂々七尺身吾亦孩提抱斯志欲将鞱畧報國恩聚
散離合非所意誓将功名遥相聞午時辞永井家芳之助送到青柳渡放歌陸魯望離別詩
不顧而去至菅谷右折行小路里許出大道經石神大橋宿森山水戸至此六里
廿一日晴發森山過助川山邊兵庫邑城也宿手綱中山備前守邑城也行程七里訪阿久
津彦五郎夜彦五郎来話往事檢田之事民間多謗讟者而以彦五郎所説則曰手綱歳入
原二万三千石檢田後僅収一万七千石則似非專損下益上者蓋農民愚魯不弁利害且
為冨豪奸民所騙耳
廿二日晴訪阿久津々々々宅看長赤水所著龍子山記有云應永廿三年三月十五日吉
野帝末孫常翁率戸條伊勢守中條播磨守北條陸奥守至常陸國永禄二年二月十八日
梅翁薨常翁經大翁覺翁筑翁至梅翁無子嗣絶辞阿久津宅阿久津亦相伴出送謁二御
塚至赤濱過長久保源五兵衛墓源五兵衛農家子好漫遊天下精研地學後拔登士籍即
長赤水先生也及其子復帰于農至今分為数家云至足洗過民篠原貞之助家乃拉貞之
助至磯原行程二里過野口源七家阿久津篠原由是辞吾輩留宿焉赤濱至是皆海濱之
地沙軟松翠宛如舞子濱也乃作詩云濤声砰湃如松声十里白沙撥眼明憶起舞妓湾上
夢一樽緑酒醉班荊夜作詩曰海樓把酒對長風顔紅耳熱醉眠濃忽見万里雲濤外巨鼈
蔽海来艨艟我提吾軍来陣此貔貅百万髪上衝夢断酒解觧燈亦滅濤声撼枕夜鼕々
廿三日翳出野口家登臺塲無架砲過大津人家稠密二十八年前夷舶来于此卸脚舩
二隻夷人十数人登陸數日不去初不知為何夷會澤憩斎為筆談役按地圖詰之知其為
夷時永井政助在豆韮山聞変走返至藤田幽谷所幽谷命政助斬殺夷人會夷舩颺去
事遂不果蓋幽谷意鼂錯削七國之策命諸政助也而失機不遂識者惜焉越勿来故関々
々在山上而今道則山下海濱也過関田荒蜂大島渡鮫川宿上田行程四里至平潟常陸
盡焉水戸領則止于大津々々以東小國封地參錯平潟為棚倉侯松平周防守所領関田
上田為平侯安藤長門守所領荒蜂為泉侯本多越中守所領是日弥八任口唱曰君不見
叱咤生風楚項王一曲悲歌涙数行又不見一劍驅敵旭将軍帳中之涙落紛々英雄元是
多情緒不似凡士軽去留風雨蕭々日将夕来宿勿来関下驛與君分手無多日休言英雄
有泣癖余乃歩其韻云吾無骨相似侯王且向蝦夷為啓行吾無斧鉞統六軍且向世議破
紛々丈夫功名固多緒須卜西就與東去與君追隨幾晨夕踏尽山亭又水驛報國策定泣
何妨遠遊豈為雲煙癖夜雨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     
 (廿四日以下、省略)

 



    (注)   1. 本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の松下村塾蔵版『東北遊日記
         
二冊(河内屋吉兵衛・慶応4年7月発行)によりました。
                       『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 『東北遊日記  
二冊
                        
   (検索するときは『東北遊日記  2巻』と入力して検索)
           
なお、『日本思想大系54 吉田松陰』(岩波書店、1978年11月22日第1刷発行)を参照
            
して、誤植と思われる一部の文字を改めてあります。ただし、『日本思想大系54 
         吉田松陰』の本文は訓読文で、原文の漢文は載っていません。

          訓読文の『東北遊日記』は、上記の『日本思想大系54 吉田松陰』のほか、『国立
         国会図書館デジタルコレクション』に入っている
『吉田松陰全集』第10巻(山口県
         教育会編纂、岩波書店・昭和14年1月17日発行)でも見られます。

            『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 
『吉田松陰全集』第10巻』
                                            (98~170/249)
         
ここに引いた冒頭から常陸までの部分は、(99~119/249)に出ています。

           『国立国会図書館デジタルコレクション』では、『松陰先生遺著』(吉田庫三編、
         民友社・明治41,42年発行、全2冊)所収の「東北遊日記」も見られます。   
          
『吉田松陰全集』第7巻(山口県教育会編纂、岩波書店・昭和10年2月9日第1刷
         発行)に、「東北遊日記」の原文が入っています(119~158/282)。冒頭から常陸
         までの部分は、(119~129/282)にあります。 
             
『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 『吉田松陰全集』第7巻
                                           (119~158/282)

        2. 松下村塾蔵版『東北遊日記  
二冊』の本文に付けられている句点は、省略しました。
          また、本文の漢字は、できるだけ原文の通りに表記するよう心掛けましたが、一部
         パソコン上に表記できない漢字があるため、別の字体に変更したものがあります。
        3. 資料71の本文は、『東北遊日記  
二冊』の、初めから、つまり嘉永四年(辛亥)十二月
         十四日から、嘉永五年(壬子)一月二十三日まで(常陸の部分まで)を収録しました。
        4. 十二月廿三日の所にある「
漢高公義戮丁公 為劉左袒人知忠」の「左袒」は、松下
         村塾蔵版『東北遊日記二冊』の本文には「左祖」となっているようですが、『吉田松陰
         全集』第7巻(山口県教育会編纂、岩波書店・昭和10年2月9日第1刷発行)その他
         によって、「左袒」と直してあります。
           また、一月二十二日の「廿二日晴訪阿久津々々宅……」も、底本にした本文では
         「々」が一つ足りませんが、同じ『吉田松陰全集』第7巻(山口県教育会編纂、岩波書
         店・昭和10年2月9日第1刷発行)その他によって、「廿二日晴訪阿久津々々々宅…
         …」と、ここでの本文を直してあります。 (なお、注7も参照してください。)  
        5.一月六日の「鹿」の「」(鳥の下に山)と、一月二十三日の「夷」の「」(「口
         +英」)は、島根県立大学の”
e漢字を利用させていただきました。
        6. 原文で2行割注になっている部分は、細字で1行にして表記してあります。
        7. 『日本思想大系54 吉田松陰』所収の『東北遊日記』の本文(訓読文)は、凡例に、
         底本にしたのは萩市の松陰神社所蔵の写本で、その写本は松陰の自筆本ではな
         いが松陰が朱訂を施したとされるもの、ほかに自筆の初稿本があり、それを参照し
         た、とありますので、信頼できる本文だと思われます。
          それと比較すると、ここで底本にした松下村塾蔵版『東北遊日記  
二冊』の本文に
         は、漢字の違う部分が見受けられますので、次に主な異同を示しておきます。

         松下村塾蔵版『東北遊日記  
二冊』 ←→  『日本思想大系54 吉田松陰』

           
(12月14日)  誰嘗甘為之    ←→  誰肯甘為之   (「嘗」と「肯」)
           
(  同   ) 良藏論之大夫    ←→  良蔵謂之大夫   (「論」と「謂」)
           
(12月20日)    一身有感    ←→   一身百感   (「有」と「百」)
          
 (  同   )   且観大史書   ←→   且観太史書   (「大」と「太」)
          
 (12月26日)    千波湖西    ←→   千波湖東   (「西」と「東」)
           
( 1月 1日)     弥望漫々    ←→   瀰望漫々   (「弥」と「瀰」)
           
(  同   )  雄坡村中吊古城 ←→  雄坡村中弔古城   (「吊」と「弔」)
           
( 1月23日)      軽去留   ←→   軽留去   (「去留」と「留去」)

            なお、松下村塾蔵版『東北遊日記  
二冊』に、「中霄思之」(12月20日)とある
          のは「中宵思之」に、「昆蒻黨」
(12月23日)とあるのは「菎蒻黨」に、「厚甚藏」
           (1月23日)
とあるのは「原甚藏」に、「菊田剛藏」(1月23日)とあるのは「菊池
          剛藏」に、それぞれ改めてあります。(なお、注4も参照してください。)

        8. 吉田松陰が『東北遊日記』の旅をしたのは、嘉永4年12月から4月にかけて
         ですから、松陰が満22歳のときのことです。 
           嘉永4(1851)年12月14日、松陰は藩の許可を得ずに、松野他三郎という変
         名で、東北遊歴の旅に出ました。
           この旅の経路は、『日本思想大系54 吉田松陰』巻末の吉田松陰年譜によ
         れば、江戸
(嘉永5年12月14日)─水戸(ここで宮部・江帾と落ち合う。嘉永5年元旦を
          常州太田の宿で迎える)
─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)
         ─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松
         ─今市─日光─足利─江戸
(4月5日)。江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4
         月5日です。『東北遊日記』は、その東北の旅の見聞記です。
           松陰は江戸に戻ると、藩邸に入って待罪書を提出しました。帰国の命が下り、
         4月18日に江戸を発ち、5月12日に萩に到着。12月9日、亡命の罪によって士
         籍および家禄を奪われ、実父杉百合之助の育
(はぐくみ)となっています。 
        9. 国立国会図書館のホームページの中に「近代日本人の肖像」というページが
              あり、そこで吉田松陰の肖像写真を見ることができます。  
         10. 京都大学附属図書館のホームページにある『京都大学電子図書館・貴重資料
         画像』『維新資料画像データベース』で、松陰の書簡その他の画像が見られます。
             なお、その「維新資料画像データベース」の中に「維新資料人名解説データ」があ
          り、そこに吉田松陰の解説があります。  
        11. 『かたつむり行進曲』というサイトに、「吉田松陰」があって、大変参考になります。
          松陰と『宝島』の作者・スチーブンソンとのつながりなどにも触れてあります。 
            なお、松陰とスチーブンソンとのつながりについて書いた本には、よしだみどり著
             『烈々たる日本人 
日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 イギリスの文豪スティーヴンスンが
               なぜ
(祥伝社ノン・ブック、2000年10月10日発行)があります。      
        12. 資料32に、
吉田松陰の「父・叔父・兄への手紙があります。  
        13. 資料36に、吉田松陰『留魂録』があります。
        14. 2010年7月号の『常陽藝文』
(常陽藝文センター、平成22年7月1日発行)に藝文風土記
         <吉田松陰の「東北遊日記」>があります。
        15. 『吉田松陰.com』というサイトがあって、たいへん参考になります。
                                                                       (2012年10月8日付記)    
        

 

 

 

    
               
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