資料36 吉田松陰『留魂録』
吉田松陰の『留魂録』を、できるだけ原文通りに写すことに主眼を置いて
写しました。改行も、原文通りに行ってあります。
留 魂 録 吉田松陰
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身ハたとひ武蔵の野辺に |
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十月念五日 二十一回猛士 |
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一 余去年已来心蹟百変挙て数へ難し就中 |
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ル所ナリ故ニ子遠カ送別ノ句ニ 燕趙多士一貫高 |
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五月十一日…「十四日の誤記ならん」と岩波の全集の頭注にある。
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一 七月九日初テ評諚所呼出アリ三奉行出座 |
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尋鞠ノ件両條アリ一曰梅田源次郎長門下 |
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一 吾性激烈怒罵ニ短シ務テ時勢ニ従ヒ人情ニ適スルヲ |
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主トス是ヲ以テ吏ニ対シテ幕府違勅ノ已ムヲ得サルヲ |
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以三次…伊三次が正しい。(くさかべ いそうじ) |
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一 此回ノ口書甚草々ナリ七月九日一通リ申立タル |
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後九月五日十月五日両度ノ呼出モ差タル |
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一 七月九日一通リ大原公ノ事鯖江要駕ノ事等 |
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申立タリ初意ラク是等ノ事幕ニモ已ニ諜知 |
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一 要諫一條ニ付事不遂時ハ鯖侯ト刺違テ死シ |
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警衛ノ者要蔽スル時ハ切拂ヘキトノ事実ニ |
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義卿…松陰の字(あざな)。 |
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一 吾此回初メ素ヨリ生ヲ謀ラス又死ヲ必セズ |
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唯誠ノ通塞ヲ以テ天命ノ自然ニ委シタルナリ |
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一 今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル |
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所アリ蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋 |
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一 東口揚屋ニ居ル水戸ノ郷士堀江克之助余 |
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未タ一面ナシト雖トモ真ニ知己ナリ真ニ益友ナリ |
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一 堀江常ニ神道ヲ崇メ 天皇ヲ尊ヒ大道ヲ天 |
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下ニ明白ニシ異端邪説ヲ排セント欲ス謂ラク |
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一 小林民部云京師ノ学習院ハ定日アリテ百姓町人ニ至ルマテ |
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出席シテ講釈ヲ聴聞スルコトヲ許サル講日ニハ公卿方出座 |
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一 讃ノ高松ノ藩士長谷川宗右衛門年来主君 |
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ヲ諫メ宗藩水家ト親睦ノ事ニ付テ苦心セシ人 |
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一 右数條余徒ニ書スルニ非ス天下ノ事ヲ成スハ天下 |
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有志ノ士ト志ト通スルニ非レハ得ス而シテ右数人 |
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「志ト通スルニ」は 「志ヲ通スルニ」の書き誤りであろう。
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一 越前ノ橋本左内二十六歳ニシテ誅セラル実ニ十月 |
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七日ナリ左内東奥ニ坐スル五六日ノミ勝保同 |
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一 清狂ノ護国論及ヒ吟稿口羽ノ詩稿天下同志 |
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ノ士ニ寄示シタシ故ニ余是ヲ水人鮎沢伊太夫 |
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一 同志諸友ノ内小田村中谷久保久坂子遠兄弟 |
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等ノ事鮎沢堀江長谷川小林勝野等ヘ |
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◎ 「あわれ」の「わ」の仮名は、「王」のくずし字。 |
(注) 1. 本文は、『吉田松陰遺墨帖』(山口県教育会編纂・大和書房1978年2月刊)所収
の『留魂録』によりました。『吉田松陰遺墨帖』には、特別附録として
実物大に復刻された『留魂録』が付いています。
2. ここでは、読みやすさよりは、できるだけ原文通りに写すことに主眼を
置きました。したがって、仮名の清濁も、できるだけ原文の通りにするよ
うに心がけました。ただし、特殊な仮名は普通の仮名に改めてあります。
漢字もできるだけ原文に合わせるようにしました。(例えば、「當」と
「当」、「略」と「畧」など。)
3.「右数條余徒ニ書スルニ非ス」の項に、「天下有志ノ士ト志ト通スルニ
非レハ」とあるのは、「……志ヲ通スルニ……」の書き誤りでしょうが、
原文のままにしてあります。
4. 改行は、原文の通りに行いました。
5. 『留魂録』は、刑死の前日、即ち安政6年10月26日の夕方、江戸の
『留魂録』は2通作られ、1通は刑死後間もなく、江戸の飯田獄舎で書か
れたもので、松陰の遺言書というべきものです。自筆の正伯等から萩の
高杉・久保・久坂連名宛に送られましたが、現存しません。
他の1通は、同囚沼崎吉五郎に託され、明治5年になって楫取素彦
(小田村伊之助)の発見するところとなり、明治9年に野村靖(和作)の
手に渡り、明治24年、萩市の松陰神社に収められました。(岩波書店刊
『吉田松陰全集』第七巻(山口県教育会編・昭和14年11月30日発行)巻末の「解題」に
よる。)
6. 松陰の「二十一回猛士」という号について、彼は「二十一回猛士の
説」の中で、
「吾れ庚寅の年を以て杉家に生れ、已に長じて吉田家を嗣ぐ。甲寅
の年、罪ありて獄に下る。夢に神人あり、与ふるに一刺を以てす。文
に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む。因つて思ふに、杉の字二十一の
象(かたち)あり、吉田の字も亦二十一回の象あり。」
と言っています。(つまり、「杉」の字は、十と八と三に分解でき、
合計すると二十一になる。また、「吉田」の字も、分解すれば
(十一口、口十 = 十十一回、つまり)二十一回となる、というわけ
です。)
彼はその時(安政元年11月)、今までに「猛を為せしこと凡そ三た
びなり」とし、あと十八回残っている、と言っていました。
7. 冒頭の辞世の和歌を現在の普通の表記に直してみると、次のよう
になります。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
8. 『留魂録』の現代語訳は、次のような書物で読むことができます。
古川 薫 訳 『吉田松陰 留魂録』(徳間書店発行、1990年10月31日初刷)
(古川氏のこの本は、講談社学術文庫に入っています。)
古川 薫 全訳注 『吉田松陰 留魂録』 (講談社学術文庫、
2002年9月10日発行)
奈良本辰也・真田幸隆 訳編 『吉田松陰 この劇的なる生涯』
(角川文庫、昭和51年3月30日初版発行)
松永昌三 訳 「留魂録」(『日本の名著 31』吉田松陰、所収)
(中央公論社、昭和48年11月30日初版発行)
(この本は、中公バックスの1冊として、1984年6月18日に中央公論新社
から発売されています。)
9. 吉田松陰(よしだ・しょういん)=幕末の志士。長州藩士。杉百合之助
の次男。名は矩方(のりかた)、字は義卿、通称、寅次郎。別号、二
十一回猛士。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学ん
だ。常に海外事情に注意し、1854年(安政一)米艦渡来の際
に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)
で幕末・明治期の指導者を教育。安政の大獄に連座し、江戸で
刑死。著「西遊日記」「講孟余話」「留魂録」など。(1830-1859)
(『広辞苑』第6版による。)
10. 「松風会」(吉田松陰の顕彰 松陰教学に学ぶ)というホームペー
ジに、 『留魂録』についての解説のページがあります。
お断り:現在はページが削除されてしまったようなので、リンクを外しました。
(2013年2月5日)
11. 国立国会図書館のホームページの中に「近代日本人の肖像」という
ページがあり、そこで吉田松陰の肖像写真を見ることができます。
12. 京都大学附属図書館 のホームページにある 『京都大学電子図書館・
貴重資料画像』の『維新資料画像データベース』で、松陰の書簡その他
の画像が見られます。
例えば、「[吉田]松陰先生肖像」・「吉田松陰画像附松陰自賛」・
「同(解説)」 「松陰(吉田)ヨリ思父(品川)ニ與フル書3月13日」など。
なお、その「維新資料画像データベース」の中に「維新資料人名解説
データ」があり、そこに吉田松陰の解説があります。
13. 『かたつむり行進曲』というサイトに、「吉田松陰」があって、大変参
考になります。松陰と『宝島』の作者・スチーブンソンとのつながりなど
にも触れてあります。
→ 吉田松陰と「宝島」
なお、松陰とスチーブンソンとのつながりについて書いた本に、よしだ
みどり著『烈々たる日本人 日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 イギリスの文豪
スティーヴンスンがなぜ』(祥伝社ノン・ブック、2000年10月10日発行)があります。
14. フリー百科事典『ウィキペディア』に「吉田松陰」の項があります。
15. 資料32に、吉田松陰の「父・叔父・兄への手紙」があります。
16. 資料71に吉田松陰『東北遊日記』(抄)[原文]があります。
17. 『国立国会図書館デジタルコレクション』に、松下村塾蔵板『留魂録』
(萩町(山口県)松下村塾、明治2年刊)が入っています。
なお、巻末に、父・叔父・兄に宛てた手紙が掲載されています。
(2010年8月12日付記)
18. 『吉田松陰.com』というサイトがあって、たいへん参考になります。
(2012年10月8日付記)
19.『吉田松陰の「留魂録」は世界屈指の遺書文学』─幕末長州~
松下村塾と革命の志士たち(08)松陰処刑の影響─』という山内
昌之・東京大学名誉教授の『10MTV』(テンミニッツTV)があります。
(2023年4月2日付記)
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