四海皆兄弟天涯如比隣吾生山陽陬來遊東海濱長刀快馬三千里迂路水城先訪君一見指天吐膽交際何論旧與新分席三旬吾去矣決眦奥羽万重雲浩然之氣塞天地東西何嘗有疆畛一張一弛有國常弛之張之在其人澹菴封事愕金虜武侯上表泣鬼神大義至今猶赫々丈夫敢望車前塵見君年少尚氣義白日学劍夜誦文斗筲小人何足數勿負堂々七尺身吾亦孩提抱斯志欲將鞱畧報國恩聚散※離合非所意誓將功名遥相聞 |
四海皆兄弟天涯如比隣吾生山陽陬来遊東海濱長刀快馬三千里迂路水城先訪君一見指天吐肝膽交際何論舊與新分席三旬吾去矣眦决奥羽萬重雲浩然之氣塞天地華夷何嘗有疆畛一張一弛有國常弛之張之在其人澹菴封事愕蒙古武侯上表泣鬼神大義至今猶赫々丈夫敢望車前塵見君年少尚氣義白日學劍夜誦文斗筲小人何足数勿負堂々七尺身吾亦孩提抱斯志欲将鞱畧報國恩東西離合非所意誓将功名遥相聞 |
(注) | 1. |
上記の『吉田松陰全集』第7巻は、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている山口県教育会・編纂、岩波書店・昭和10年2月9日第1刷発行の全集によりました。この全集の「東北遊日記」は、松陰神社蔵の他筆本を原本とした、と凡例にあります。 「国立国会図書館デジタルコレクション」 → 『吉田松陰全集』第7巻 『東北遊日記』のコマ番号は (119~158/282) 上記の詩のコマ番号は(128/282) 〇松陰が永井芳之介(順正)に詩を贈ったことは、嘉永5年(壬子・1852)正月二十日のところに出ています。 |
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2. |
吉田松陰自筆の詩は、『水戸市史』中巻(三)によれば、市内の永井昭夫氏所蔵となっており、現在は弘道館に寄託されているそうです。 その詩を刻した詩碑が、水戸市南町3丁目(旧仲町)の松陰が1か月ほど滞在した永井政介宅跡に建てられています。(現・水戸セントラルビルの玄関脇。) 『吉田松陰.com』というサイトに、「吉田松陰の史跡を巡る旅(水戸編)」があり、そこに詩碑の写真が出ていますのでご覧ください。 『吉田松陰.com』 → 「吉田松陰の史跡を巡る旅(水戸編)」 |
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3. |
『吉田松陰全集』第7巻所収の『東北遊日記』の本文と自筆の詩との違いは、次の通りです。自筆の詩を、後で修正したものと思われます。 『東北遊日記』 自筆の詩 決眦 眥决 東西 華夷 金虜 蒙古 聚散 東西 『吉田松陰全集』第7巻の『東北遊日記』の本文の「聚散」の右に、「東西(鑄方本)」と注記があります。 鑄方本について……『吉田松陰全集』第7巻所収の『東北遊日記』の巻頭に置かれている「解題・凡例」に、 「熊本の」鑄方氏に藏する東北遊日記は正しく松陰自筆であるが、これを松陰神社藏の他筆本に比べるに、孰れも完備しては居るが、鑄方本の方は未だ文章洗煉の至らぬ處があつて、他筆本がそれよりも後に整理せられたものと見えるから、本全集編纂には神社藏の他筆本を原本とした。但、初稿本、鑄方本の記載中、この日記中の事実参考の料となるものは、上欄、行間若くは巻尾に附加して置いた、尤も原本が明らかに誤寫と認められる場合は、その旨を註して鑄方本を本文に入れた。」 とあります。 |
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4. |
弘道館のホームページに「資料紹介」のページがあり、そこに「吉田松陰自筆漢詩」の紹介があります。 弘道館 → 資料紹介 |
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5. |
次に、自筆の詩を、改行通りに示しておきます。 四海皆兄弟天涯如比隣吾 生山陽陬来遊東海濱長 刀快馬三千里迂路水城 先訪君一見指天吐肝膽 交際何論舊與新分席三 旬吾去矣眥决奥羽萬重 雲浩然之氣塞天地華夷 何嘗有疆畛一張一弛有 國常弛之張之在其人澹 菴封事愕蒙古武侯上 表泣鬼神大義至今猶 赫々丈夫敢望車前塵 見君年少尚氣義白日 學劍夜誦文斗筲小人 何足数勿負堂々七尺 身吾亦孩提抱斯志欲将 韜畧報國恩東西離合 非所意誓将功名遥 相聞 壬子孟春畱別 順成永井兄 𠮷田矩方 |
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6. |
次に自筆の詩を、詩の形に直しておきます。 四海皆兄弟 天涯如比隣 吾生山陽陬 来遊東海濱 長刀快馬三千里 迂路水城先訪君 一見指天吐肝膽 交際何論舊與新 分席三旬吾去矣 眥决奥羽萬重雲 浩然之氣塞天地 華夷何嘗有疆畛 一張一弛有國常 弛之張之在其人 澹菴封事愕蒙古 武侯上表泣鬼神 大義至今猶赫々 丈夫敢望車前塵 見君年少尚氣義 白日學劍夜誦文 斗筲小人何足数 勿負堂々七尺身 吾亦孩提抱斯志 欲将韜畧報國恩 東西離合非所意 誓将功名遥相聞 |
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7. |
自筆の詩を、日本思想大系54『吉田松陰』(吉田常吉・藤田省三・西田太一郎
校注、岩波書店・1978年11月22日第1刷発行)の読みを参考に、書き下しておきます。 思想大系本の「東北遊日記」は、 萩市の松陰神社所蔵の写本(他筆、ただし松陰が朱訂を施したものとされる)を底本とし、自筆の初稿本を参照した、と凡例にあります。 なお、ここに収められているのは訓読文のみで、原文は省略されています。 四海皆兄弟(けいてい)、天涯比隣の如し。吾、山陽の陬(はて)に生まれ、来りて東海の濱に遊ぶ。長刀快馬、三千里、迂路(うろ)水城に先づ君を訪ふ。一見、天を指して肝膽を吐き、交際何ぞ舊と新とを論ぜん。席を分かつこと三旬にして吾は去る。眥(まなじり)を决すれば奥羽萬重(ばんちよう)の雲、浩然の 氣は天地に塞(ふさ)がり、華夷何ぞ嘗て疆畛(きやうしん)有らん。一張一弛は國の常有り、之を弛め之を張るは其の人に在り。澹菴(たんあん)の封事(ふうじ)は蒙古を愕かし、武侯の上表は鬼神を泣かしむ。大義今に至るまで猶ほ赫々たり。丈夫(ぢやうふ)敢て望まん、車前の塵を。見る、君年少にして氣義を尚(たつと)び、白日劍を學び、夜文を誦するを。斗筲(とせう)の小人、何ぞ数ふるに足らん、負(そむ)く勿(なか)れ、堂々たる七尺の身に。吾も亦、孩提(がいてい)より斯の志を抱き、韜畧(たうりやく)を将(も)つて國恩に報ぜんと欲す。東西に離合するは意とする所に非ず、誓つて功名を将(も)つて遥かに相聞(さうぶん)せん。 (注)日本思想大系では、「迂路」を「路を迂(ま)げて」、「萬重」を「ばんぢゆう」、「封事」を「ほうじ」と読んでいます。また、「有國常」を「有國の常」と読んで、「有國…國。有は口調の助字」としています。ただし、第7巻の原文には、「有二國常一」と返り点が付いています。 「吾亦孩提より」を、私は「吾も亦孩提より」と読みましたが、思想大系では「吾亦孩提より」と読んでいます。 |
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8. |
〇永井政助……名は広徳。水戸藩士。当時小普請組。剣客。松陰の永井訪問は江戸の剣客斎藤弥九郎嫡男新太郎の紹介による。松陰はこの永井宅で宮部・江幡の両名と落合う約束だった。 〇永井芳之介……名は順正(また道正)。当時19歳。彰考館に出仕、元治元年藩の内紛に関係して死罪となる。(以上、『日本思想大系54』の「東北遊日記」嘉永4年12月19日の頭注による。) |