資料457 旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)
         



            
旌 正 之 碑   
                  

 

  會澤先生墓表 青山延光撰 甥矢島義容書 曽孫善建
先生諱安字伯民稱恒蔵會澤氏其先駿河人徙常陸世居久慈郡諸澤
村有仕宦者亦不甚顯考諱恭敬以廉吏聞妣根本氏近世本藩人物享
和文化為盛而幽谷藤先生爲之翹楚先生即其髙第弟子也自幼警敏
好學寛政中為彰考館寫字生享和二秊始班留付遷江戸文化元年考
終於大坂妣終於江戸相距僅四旬先生東西奔走艱苦萬状而善執古
禮心喪三年是歳班歩士尋命侍讀諸公子時 烈公冣幼五秊為歩士
轉小十人文政中遷馬廻還水戸諳夷航海至大津村登陸彷徨先生受
命往而筆語夷不敢吐實先生詰問夷屈服數歳為進物番其後 幕府
有攘夷之令先生著新論獻之 哀公及幽谷先生沒攝揔裁軄尋以病
辭軄爲教授 哀公不豫継嗣未定人心恟懼先生與藤斌卿等赴江戸
有所建白已而 哀公薨 烈公襲封先生乃還水戸天保初 烈公擢
為郡奉行召見咨詢明年班通事爲調役是冬轉彰考館摠裁及 公就
國甞臨先生居時 公開廣言路容納讜直先生啓沃居多 公将設弘
道館訪先生以古今制度十一年進小姓頭為弘道館揔教已而 烈公
致仕國事一變先生致仕稱憩齋無幾屛居於中町四秊而還家其後夷
狄逼邊 幕府方議防禦召 烈公參畫 今公思先生忠懇再命掌教
授時天下之士爭作邊備策論而先生則二十年前既獻之矣安政二秊
再爲小姓頭摠教是歳 大将軍温恭公召見諸藩老儒先生與焉時年
七十四 今公大悦命班新番頭賜以名刀 烈公賜手書曰今日光榮
比之前日幽囚一何懸絶卿其倡導實學勿負今日之恩四年 今公祀
鹿島神及孔子於弘道館創立館制賜銀絹勞之五秊以老辭軄 公優
勞不許前後増秩至二百五十石文久二年 公嘉先生老健親書仁者
壽三字於磁盃賜之是歳班馬廻頭上三秊癸亥七月十四日以病終於
家享年八十二葬於千波原先塋娶小林氏生三男伯仲夭叔璋為歩士
頭六女一適村田正興一適秋山興一適海保芳卿餘皆夭先生少時幽
谷先生稱之曰之子弱齡頗慷慨有氣節讀書學劒不汲汲於升斗之禄
然其父久困小官多口而薄俸時人以書生迂乎求仕屢説渠以奔走勢
要之門而渠耳若不聞自守泊如亦可竒也是其所期盖在遠大而異日
能傳其學者果先生也幽谷先生志在經世不遑著述晩年始欲筆之書
不幸而沒子斌卿才氣超邁固能継述亦中道而沒先生深悲之遂專力
著述焚膏継晷未甞懈怠盖非幽谷先生之豪邁無以闡其源非先生之
篤學無以恢其業顧其所以自任者不在著述而竟著之簡冊者盖不得
已也豈其本志哉然其書則滿天下矣安知其言之不行於異日哉
碑文刻既成 上公親書題字以賜之謹掲之紀寵榮

 



      (注) 1.上記の「旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)」の本文は、鈴木健夫・田代辰雄
          編著『
碑文双書(一)茨城県内版(漢文編) 碑文・墓碑銘集』(平成20年7月21日発行)所収の
          「旌正之碑」の拓本によりました。
          2. 題字の「旌正之碑」の4字は碑の表の上部に横書き(右から左へ)、碑の本文は縦書き
          です。また、本文17行目「……安政二秊」までが碑の表に、「再爲小姓頭……」以下は碑
          の裏面に刻されています。
          3. 本文の改行は、碑文の通りにしてあります。
            また、漢字は、できるだけ碑文の形に合わせてありますが(例えば、「為」「爲」「教」「将」
           などの字体を用いるなど)、必ずしも厳密なものではありません。
           4. 本文中の空所(21か所)は、いわゆる闕字(文書中に天子や貴人に関する語が現れたと
           きに、これに敬意を表するために、該当する用語の前に1字または2字分の空白を設けるも
           の)といわれるものです。
           5. 書き下し文が、資料458にあります。
            → 資料458「旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)」の書き下し文
           6. 「旌正之碑」は、「せいせいのひ」と読んでおきます。「旌」の音は、漢音セイ、呉音ショウ
           で、「正」の音は、漢音セイ、呉音ショウですから、どちらも漢音で読めば、「せいせいのひ」
           となります。
(「旌徳碑」を「しょうとくひ」と読ませるものがあるようですが、これは「旌」を呉音で読んでい
             ます。他に「旌忠碑」がありますが、これは普通「せいちゅうひ」と読んでいるようです。)
              ※ 旌…… 〔動詞〕あらわす。功績や善行を褒めて明らかにする。表彰する。前川捷三先生の『水戸
                 の漢詩文』には、「旌正 正しさを表彰する」とあります。

           7. 千波の本法寺について
            会沢正志斎のお墓は、水戸市千波町の本法寺にあります。しかし、ここは現在は墓地だ
           けで、お寺の建物はありません(集会所のような建物が一つあるだけです)。県道50号線
           
(旧国道6号線)の道路西側にある「会沢正志斎の墓」の標識に従って入り、墓地に着いて
           左側に少し進んだところに、正志斎のお墓があります。

            『新編常陸国誌』の「梅香」の項に、
             
【梅香】慶長11年南龍公養珠院太夫人ノ母知光院ノ爲ニ、本法寺〔法華宗ニテ照長山龍雲院ト號
               ス〕ヲ此地に建テシガ、後元和2年、櫻町ヘ移シタリ、(以下、略)
            
とあります(同書、126頁)。 また、「櫻町」については、同じく『新編常陸国誌』に、
             
【櫻町 左久良麻知】上金町ノ北ニ在リテ、東ハ了性寺坂〔本名ハ高尾坂、元禄3年ノ條令ニテ櫻坂
               ト唱フ〕ヨリ西ハ瀧坂ヘ通ズル道ヲ限る、片側ノ町ナリ、モト町内寺院多カリシ故ニ、上寺町ト云フ、
               後櫻町ト改む、元和2年、本法寺梅香ヨリ此地ニ移ル、(以下、略)
            
とあります(同書、128頁)。 また、同書の「本法寺」の項に、
             
【本法寺 〔茨城郡見川村、伊豆玉澤妙法華寺末〕】寺領30石、(補)照長山龍雲院ト號、元和2年、
               水戸府下梅香ヨリ上寺町ニ移シ、天和3年又今地ニ移ス、

            とあります(同書、383頁)。 

            これによれば、千波の本法寺は、慶長11年(1606)に南龍公(徳川頼宣)によって、母
           養珠院の母智光院
(『新編常陸国誌』には、知光院)の菩提のために梅香の地に建立され、元和
           2年(1616)に桜町へ移転、天和3年(1683)に現在地に移ったことになります。 

             『水戸市史 中巻(三)』には、天保14年(1843)の水戸藩の社寺改革の際に、「無住」
           ということで、「千波村の本法寺は久慈郡稲木の久昌寺に寄寺
(よせでら)とあるが、久昌寺
           が新宿村へ移ったので、太田の蓮華寺へ合併したようである」とあります
(同書、304頁)

             『日本歴史地名大系8 茨城県の地名』
(平凡社、1982年11月4碑初版第1刷発行)の「水
           戸市桜町(さくらまち)
(現)水戸市金町2~3丁目」の項に、
              元和2年(1616)本法寺(法華宗)が梅香よりこの町へ移り、天和3年(1683)見川村へ移った
              (開基帳)
           とあります(同書、287頁)。お寺の開基帳があるのでしょうか。

             今瀬文也氏の御著書『茨城の寺(三)』(昭和47年11月20日、太平洋出版(株)発行)に、
              
本法寺は、水戸市千波町にある日蓮宗の寺で、照長山竜雲院と号し、かつては伊豆玉沢妙法
              尊寺の末寺で30石の寺領を受けていた。そして水戸城下の下梅香に建立されていたが、元和2年
              (1616)に上寺町に移され、天和3年(1683)、現在の地に移ったものであるが、創建年代は不
              明である。本法寺は日蓮宗の寺として信者も多くかなり隆盛であった。
            
とあり(同書、204頁)、続いて、
              
天保14年(1843)に、徳川斉昭は大砲鑄造のために仏像、梵鐘を差し出すようにと、藩内の
              寺院に命令を下した。この時、本法寺はその命令に従わなかったので破却され、寺の建物は神
              崎の鑄造所の燃料にされてしまった。これで本法寺は事実上廃寺となっていた。そしてそのまま、
              明治44年まで建物はなく、墓地だけが残っていた。この年に本堂を建て、本法寺が復興した。し
              かし、その当時の建物は何も残っていない。最近やっと写真のような堂宇が完成した。
            
と記されています。「写真のような堂宇」とあるのは、一つの建物で、正面に「本法寺」と
           いう額が掛かっていますが、墓地の関係者のお話では、品物を置いたり集会所などに
           使ったりしているものだということでした。

            ここには天保14年(1843)に事実上廃寺となってそのまま明治に至ったとありますが、
           そうだとしたら、会沢正志斎が葬られた時(文久3年・1863)の本法寺は、現在のように
           本堂などがなく墓地だけだった、ということになるのでしょうか。また、明治44年(1911)
           に本堂が復興したとありますが、その本堂はいつなくなってしまったのでしょうか。
                                                  
(2013年5月28日記す)    

              徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)=紀伊徳川家の祖。家康の10男。性剛毅で、大坂夏の陣に功を立
                  てる。また、詩歌をよくした。諡号(しごう)、南竜公。(1602-1671)
                                                        (『広辞苑』第6版による。)
              徳川頼宣は、慶長7年(1602)生れ。翌慶長8年(1603)、常陸水戸20万石を与えられた。慶長
                  11年(1606)、駿府50万石に転封され、駿府城に入る。元和5年(1619)、紀伊国和歌
                  山55万5千石に転封、紀州徳川家の祖となる。(この項は、フリー百科事典『ウィキペディア』
                  によりました。詳しくは、『ウィキペディア』の「徳川頼宣」の項を参照してください。)
                        『ウィキペディア』 → 「徳川頼宣」                    

                                                    
           8. 会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=江戸後期の儒学者。名は安
(やすし)。水戸藩
                  士。藤田幽谷に学ぶ。彰考館総裁・弘道館総教。著「新論」で尊王攘夷を
                  唱え、幕末期の政治運動に大きな影響を与えた。(1782~1863)
                                                
(『広辞苑』第6版による)
            会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=(1782~1863)幕末の儒学者。水戸藩士。
                名は安
(やすし)。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総
                裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彙篇」など。
                                             
  (『大辞林』第二版による)
            9
. 資料136に「会沢安(正志斎)『及門遺範』」があります。
            資料175に「会沢正志斎「時務策」」があります。
            資料426に「会沢正志斎『新論』巻上(読点のみの本文)」があります。
            資料427に「会沢正志斎『新論』巻下(読点のみの本文)」があります。
          10. 『幕末維新館』というサイトの「幕末人物名鑑」の中に、会沢正志斎が取り上げて
            あります。
 ( 『幕末維新館』 → 幕末人物名鑑 → あ → 会沢正志斎 ) 
           11. 『[偉人録] 郷土の偉人を学ぶ』というブログに、「会沢正志斎・茨城の偉人」のペ
            ージがあります。
           12.「旌正之碑」画像

        「旌正之碑」(表)    「旌正之碑」(裏)
         
                 「旌正之碑」(正面)               「旌正之碑」(裏面)

          ※ → 「旌正之碑」(正面)の拡大写真
              
(碑文の下の文字が切れています。その部分は(その2)でご覧ください。)
              → 
「旌正之碑」(正面)の拡大写真(その2)  
              
(碑の正面下部の拡大写真は、こちらでご覧ください。)
              → 「旌正之碑」(裏面)の拡大写真

           13. 『
国立国会図書館デジタル化資料 古典籍資料(貴重書等)』で、会沢正志斎の
           大量の書簡を画像で見ることができます。
             
『国立国会図書館デジタルコレクション』 
              → 「会沢正志斎」で検索 → 
「会沢正志斎書簡」(7~187)






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