資料457 旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)
旌 正 之 碑
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會澤先生墓表 青山延光撰 甥矢島義容書 曽孫善建 |
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(注) | 1. | 上記の「旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)」の本文は、鈴木健夫・田代辰雄編著『碑文双書(一)茨城県内版(漢文編) 碑文・墓碑銘集』(平成20年7月21日発行)所収の「旌正之碑」の拓本によりました。 | ||
2. | 題字の「旌正之碑」の4字は碑の表の上部に横書き(右から左へ)、碑の本文は縦書きです。また、本文17行目「……安政二秊」までが碑の表に、「再爲小姓頭……」以下は碑の裏面に刻されています。 | |||
3. | 本文の改行は、碑文の通りにしてあります。 また、漢字は、できるだけ碑文の形に合わせてありますが(例えば、「為」「爲」「教」「将」などの字体を用いるなど)、必ずしも厳密なものではありません。 |
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4. | 本文中の空所(21か所)は、いわゆる闕字(文書中に天子や貴人に関する語が現れたときに、これに敬意を表するために、該当する用語の前に1字または2字分の空白を設けるもの)といわれるものです。 | |||
5. | 書き下し文が、資料458にあります。 → 資料458「旌正之碑(「会沢先生墓表」・会沢正志斎墓表)」の書き下し文 |
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6. | 「旌正之碑」は、「せいせいのひ」と読んでおきます。「旌」の音は、漢音セイ、呉音ショウで、「正」の音は、漢音セイ、呉音ショウですから、どちらも漢音で読めば、「せいせいのひ」となります。(「旌徳碑」を「しょうとくひ」と読ませるものがあるようですが、これは「旌」を呉音で読んでいます。他に「旌忠碑」がありますが、これは普通「せいちゅうひ」と読んでいるようです。)
※ 旌…… 〔動詞〕あらわす。功績や善行を褒めて明らかにする。表彰する。前川捷三先生の『水戸の漢詩文』には、「旌正 正しさを表彰する」とあります。 |
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7. | 千波の本法寺について 会沢正志斎のお墓は、水戸市千波町の本法寺にあります。しかし、ここは現在は墓地だけで、お寺の建物はありません(集会所のような建物が一つあるだけです)。県道50号線(旧国道6号線)の道路西側にある「会沢正志斎の墓」の標識に従って入り、墓地に着いて左側に少し進んだところに、正志斎のお墓があります。 『新編常陸国誌』の「梅香」の項に、 【梅香】慶長11年南龍公養珠院太夫人ノ母知光院ノ爲ニ、本法寺〔法華宗ニテ照長山龍雲院ト號ス〕ヲ此地に建テシガ、後元和2年、櫻町ヘ移シタリ、(以下、略)とあります(同書、126頁)。 また、「櫻町」については、同じく『新編常陸国誌』に、 【櫻町 左久良麻知】上金町ノ北ニ在リテ、東ハ了性寺坂〔本名ハ高尾坂、元禄3年ノ條令ニテ櫻坂ト唱フ〕ヨリ西ハ瀧坂ヘ通ズル道ヲ限る、片側ノ町ナリ、モト町内寺院多カリシ故ニ、上寺町ト云フ、後櫻町ト改む、元和2年、本法寺梅香ヨリ此地ニ移ル、(以下、略) とあります(同書、128頁)。 また、同書の「本法寺」の項に、 【本法寺 〔茨城郡見川村、伊豆玉澤妙法華寺末〕】寺領30石、(補)照長山龍雲院ト號、元和2年、水戸府下梅香ヨリ上寺町ニ移シ、天和3年又今地ニ移ス、 とあります(同書、383頁)。 これによれば、千波の本法寺は、慶長11年(1606)に南龍公(徳川頼宣)によって、母養珠院の母智光院(『新編常陸国誌』には、知光院)の菩提のために梅香の地に建立され、元和2年(1616)に桜町へ移転、天和3年(1683)に現在地に移ったことになります。 『水戸市史 中巻(三)』には、天保14年(1843)の水戸藩の社寺改革の際に、「無住」ということで、「千波村の本法寺は久慈郡稲木の久昌寺に寄寺(よせでら)とあるが、久昌寺が新宿村へ移ったので、太田の蓮華寺へ合併したようである」とあります(同書、304頁)。 『日本歴史地名大系8 茨城県の地名』(平凡社、1982年11月4碑初版第1刷発行)の「水戸市桜町(さくらまち)(現)水戸市金町2~3丁目」の項に、 元和2年(1616)本法寺(法華宗)が梅香よりこの町へ移り、天和3年(1683)見川村へ移った(開基帳) とあります(同書、287頁)。お寺の開基帳があるのでしょうか。 今瀬文也氏の御著書『茨城の寺(三)』(昭和47年11月20日、太平洋出版(株)発行)に、本法寺は、水戸市千波町にある日蓮宗の寺で、照長山竜雲院と号し、かつては伊豆玉沢妙法尊寺の末寺で30石の寺領を受けていた。そして水戸城下の下梅香に建立されていたが、元和2年(1616)に上寺町に移され、天和3年(1683)、現在の地に移ったものであるが、創建年代は不明である。本法寺は日蓮宗の寺として信者も多くかなり隆盛であった。 とあり(同書、204頁)、続いて、 天保14年(1843)に、徳川斉昭は大砲鑄造のために仏像、梵鐘を差し出すようにと、藩内の寺院に命令を下した。この時、本法寺はその命令に従わなかったので破却され、寺の建物は神崎の鑄造所の燃料にされてしまった。これで本法寺は事実上廃寺となっていた。そしてそのまま、明治44年まで建物はなく、墓地だけが残っていた。この年に本堂を建て、本法寺が復興した。しかし、その当時の建物は何も残っていない。最近やっと写真のような堂宇が完成した。 と記されています。「写真のような堂宇」とあるのは、一つの建物で、正面に「本法寺」という額が掛かっていますが、墓地の関係者のお話では、品物を置いたり集会所などに使ったりしているものだということでした。 ここには天保14年(1843)に事実上廃寺となってそのまま明治に至ったとありますが、そうだとしたら、会沢正志斎が葬られた時(文久3年・1863)の本法寺は、現在のように本堂などがなく墓地だけだった、ということになるのでしょうか。また、明治44年(1911)に本堂が復興したとありますが、その本堂はいつなくなってしまったのでしょうか。(2013年5月28日記す) 〇徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)=紀伊徳川家の祖。家康の10男。性剛毅で、大坂夏の陣に功を立てる。また、詩歌をよくした。諡号(しごう)、南竜公。(1602-1671)(『広辞苑』第6版による。) 〇徳川頼宣は、慶長7年(1602)生れ。翌慶長8年(1603)、常陸水戸20万石を与えられた。慶長11年(1606)、駿府50万石に転封され、駿府城に入る。元和5年(1619)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の祖となる。(この項は、フリー百科事典『ウィキペディア』によりました。詳しくは、『ウィキペディア』の「徳川頼宣」の項を参照してください。) 『ウィキペディア』 → 「徳川頼宣」 |
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8. | 〇会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=江戸後期の儒学者。名は安(やすし)。水戸藩士。藤田幽谷に学ぶ。彰考館総裁・弘道館総教。著「新論」で尊王攘夷を唱え、幕末期の政治運動に大きな影響を与えた。(1782~1863)(『広辞苑』第6版による) 〇会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=(1782~1863)幕末の儒学者。水戸藩士。名は安(やすし)。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彙篇」など。(『大辞林』第二版による) |
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資料136に「会沢安(正志斎)『及門遺範』」があります。 資料175に「会沢正志斎「時務策」」があります。 資料426に「会沢正志斎『新論』巻上(読点のみの本文)」があります。 資料427に「会沢正志斎『新論』巻下(読点のみの本文)」があります。 |
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10. | 『幕末維新館』というサイトの「幕末人物名鑑」の中に、会沢正志斎が取り上げてあります。 ( 『幕末維新館』→ 幕末人物名鑑 → あ → 会沢正志斎 ) |
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11. | 『[偉人録] 郷土の偉人を学ぶ』というブログに、「会沢正志斎・茨城の偉人」のページがあります。 | |||
12. | 「旌正之碑」画像 |
※ → 「旌正之碑」(正面)の拡大写真 (碑文の下の文字が切れています。その部分は(その2)でご覧ください。) → 「旌正之碑」(正面)の拡大写真(その2) (碑の正面下部の拡大写真は、こちらでご覧ください。) → 「旌正之碑」(裏面)の拡大写真 |
13. | 『国立国会図書館デジタル化資料 古典籍資料(貴重書等)』で、会沢正志斎の大量の書簡を画像で見ることができます。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 「会沢正志斎」で検索 → 「会沢正志斎書簡」(7~187) |