資料43 平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻                                   
                                                                               

 

文政3年(1820)、江戸に不思議な少年が現れた。彼はその
とき15歳。卜筮(ぼくぜい)に興味のあったその少年は、7歳
のときから山人(やまびと)に連れられて空中を飛行して、江
戸と常陸国の岩間山との間をたびたび往復し、山人に付いて
修行している、というのである。
山人とは、俗にいう天狗のことである。
国学者・平田篤胤は、江戸に戻って来ていた寅吉というその
少年を訪ねて話を聞き、やがて己のもとに招いて異界の様子
を聞き出し、記録した。『仙境異聞』は、その記録である。


            「篤胤歌碑」については、資料46の
            岩間 ・愛宕山の 『「篤胤歌碑」について を
               ご覧ください。


                               
           
仙境異聞(上)一之巻       平 田 篤 胤  筆 記

 

文政三年十月朔日夕七時なりけるが、屋代輪池翁の来まして、「山崎美成(やまざきよししげ)が許(もと)に、いはゆる天狗に誘はれて年久しく、其の使者と成りたりし童子の来たり居て、彼(か)の境にて見聞きたる事どもを語れる由を聞くに、子のかねて考へ記せる説等(ことども)と、よく符合する事多かり。吾いま美成がり往(ゆ)きて、其の童子を見むとするなり。いかで同伴し給はぬか」と言はるゝに、余はも常にさる者にただに相ひ見て、糺(ただ)さばやと思ふ事ども種々きゝ持ちたれば、甚(いと)嬉しくて、折ふし伴信友(ばんのぶとも)が来合ひたれど、「今帰り来む」と云ひて、美成が許へと伴はれ出づ。(美成は長崎屋新兵衛といふ薬商人にて、往(いに)し年頃は、予に従ひて有りしが、更に高田与清(ともきよ)に従ひ、今は屋代翁の門に入りて、博く読書を好むをのこなり。家は下谷長者町といふ坊にて、余が今の湯嶋天神の男坂下と云ふ所よりは、七八町ばかりも有るべし。屋代翁の家と、美成が家とは、四五町ばかりも隔たれり。)
さて途中にて屋代翁に言ひけらくは、「神誘ひに成りたる者は、其の言おぼろおぼろとして慥(たし)かならず。殊に彼の境の事をば、秘(かく)しつゝみて顕(あらわ)に云はざる物なるが、其の童子はいかに侍る」と云へば、翁云はく、「大抵世に聞こゆる神誘ひの者は然(さ)有れど、彼の童子は蘊(つつ)まず談(かた)る由にて、既に蜷川(にながわ)家へ行きたる時に、遠き西の極(はて)なる国々にも至りて、迦陵頻伽(かりょうびんが)をさへに見たりとて、其の声をも真似び聞かせたるよし、美成が物語なり。近ごろ或処にて、誘はれたりし者も秘(かく)すことなく談れりと聞けば、昔は彼の境の事の世に漏るゝを忌みたるが、近頃は彼の境の事を然(さ)しも蘊(つつ)まず成りぬと覚ゆ。よく問(たず)ねて忘れず筆記せられよ」と返(かえ)す返す言はるゝに、余諾(うべな)ひてまた心に思へるは、「現世の趣も昔は甚(いた)く秘したる書も事も、今は世に顕はれたるが多く、知り難かりし神世の道の隈々も、いや次々に明らかになり、外国々(とつくにぐに)の事物、くさぐさの器どもゝ、年を追ひて世に知らるゝ事と成りぬるを思ふに、此は皆神の御心にて、彼の境の事までも聞き知らるべき、所謂機運のめぐり来つるにや」など思ひ続けつゝ、間もなく美成が許になむ至りぬる。
時宜
(よ)くあるじ居相ひて、彼の童子を呼び出だし、翁と余とに相ひ見せしむ。然るに彼の童子はも、二人の面をつくづく打守りて、辞儀せむとも為(せ)ざりしを、美成かたはらに居て、「辞儀せよ」と云へば、甚(いと)ふつゝかに辞儀を為(し)たり。憎気なき尋常の童子なるが、歳は十五歳なりと云へども、十三歳ばかりに見え、眼は人相家に下三白と称(い)ふ眼にて、凡より大きく、謂(いわ)ゆる眼光人を射るといふ如く、光ありて面貌すべて異相なり。脈を診(み)、腹をも診たるに、小腹実して力あり。脈は三関のうち寸口の脈いと細く、六七歳の童子の脈に似たり。江戸下谷七軒町なる、越中屋与惣次郎といひし者の二男にて、名を寅吉といふ。然るは文化三寅年十二月晦日の朝七時に生れたるが、その年も日も刻も寅なりし故に、かく名づけしとぞ。父は今より三年さきに世を退(さ)れり。其の後は寅吉が兄荘吉、ことし十八歳なるが、少しの商ひを為て、母と幼き弟妹などを養ひ、細き烟を立つるといふ。(寅吉が親兄などの事は、後に余親(みずか)ら其の家に尋ねて記せり。また母が言を聞くに、寅吉五六歳のほどより、時々未然に言を発すること有りき。そは文化□年□月、下谷広小路に火事ありける前日に、家棟に上り居て、広小路に火事ありといふ。人々見るに何の事もなき故に、などて然は云ふぞと問ひしかば、あればかり火の燃ゆるを、人々には見えざるか、疾(と)く逃げよかしなど云へるを、人々物に狂ふ如く思へりしが、果して翌日の夜に広小路焼亡あり。また或とき父に向かひて、明日は怪我すること有るべし、用心せよと云へりしを、父は用ひざりしに、果して大に怪我したる事あり。また或時今夜かならず盗人入るべしと云へりしかば、父叱りて然ることは云ふべき物に非(あら)ずと制しけるに、果して盗人入りたること有り。またいまだ立つことも叶はずて這ひまはりしほどのことを覚え居て、語り出づることも時々ありき。然るに生れつき疳症にて、幼少の時は色青ざめ常に腹下り夜つばりなどして、遂に成長すまじく思へりしが、「車に引かれてけがせるが、けんくわせずてよかりしといへること母咄し」今年旅より帰り来ては、いと丈夫になり侍りと語りき。未然の事を知りたるが奇(あや)しくて、後に寅吉にいかにして知りたりしと探(たず)ぬれば、広小路の焼けたりし時は、其の前日に家棟より見けるに、翌日焼亡したるほどの所に、炎起りて見えける故、然云ひしなり。父が怪我あるべき事、盗人の入るを知りたるなど、何やらむ耳の辺にて、ざわざわと云ふ様に思ふと、其の中に何処(いずこ)よりともなく、明日は親父怪我すべし、今夜は盗人入るべしと云ふ声きこゆると、直ちに我知らず其の言の如く口に云ひ出でたりと云へりき。)
さて寅吉、余が面を熟々(つくづく)見て打笑みつゝ有りけるが、思ひ放てる状(さま)にて、「あなたは神様なり」と再三いふにぞ、予その言ひ状(さま)の奇(あや)しきに答へもせずて在りしかば、「あなたは神の道を信じ学び給ふならむ」といふに、美成傍らより、「此は平田先生とて古学の神道を教授し給ふ御方なり」と云へば、寅吉笑ひて「実に然(さ)るべく思へり」といふ。爰(ここ)に予まづ驚きて、「其はいかにして知れるぞ。神の道を学ぶは善き事か悪しき事か」と問へば、「何となく神を信じ給ふ御方ならむと心に浮びたりしゆゑに、然は申し侍り。神の道ほど尊き道は無ければ、此を信じ給ふは甚(いと)(よ)き事なり」と答ふ。爰(ここ)に屋代翁「我をばいかに見つる」と問はるれば、寅吉しばし考へて、「あなたも神を信じ給ふが、なほ種々ひろき学問を為給ふらむ」と云ひき。「神といはれ仏てふ名も願はずてただよき人になる由もがな 屋代翁」(こ)れなむ己れが此の童子に驚かされたる始めなりける。

 

 

 

(さて)まづ神誘ひに逢ひたる始めを尋ぬるに、「文化九年の七歳に成りけるとき、池端茅町なる境稲荷(いなり)社の前に、貞意といふ売卜者ありしが、其の家の前に出でて日々売卜するを立寄りて見聞くに、乾の卦出でたり坤の卦出でたりなどいふを、此は卜筮といふ物は、くさぐさ獣の毛を集め置きて擬(うらな)ふ法ありて、其の毛を探り出だし、熊の毛を探り得れば、いかにとか、鹿の毛を探り出づればいかにとか、其の探り出でたる毛により判断する事なるべく思ひて、頻(しき)りに習はまほしく覚えしかば、或日卜者の傍らに人なき時を窺ひ、『いかで我に卜筮のわざを教へて給はれ』と請ひしかば、卜者我を幼き者と思ひて、戯言(ざれごと)したるか、『此は容易に教へがたき態(わざ)なれば、七日がほど掌中に油をたゝへ、火を灯す行を勤めて後に来たるべし。教へむ』と云ふ故に、実(げ)にも容易には伝ふまじく思ひて家に帰り、父母も誰も見ざる間を忍びて、二階に上りなどして密(ひそ)かに手灯(てあか)りの行を始めけるに、熱さ堪へがたかりしかど、強ひて勤め七日にみちて、卜者の許(もと)に到り、『手の此(か)く焼け爛(ただ)るゝばかり、七日が間手灯りの行を勤めたれば、教へて給はれ』と云ふに、卜者ただ笑ひのみして教へざりし故に、いと口惜しくは思ひしかど、詮方なく、倍々(ますます)此のわざの知りたくて、日を送りけるに、(この貞意といへる卜者は後に上方すぢへ行きたりといふ)其の年の四月ころ、東叡山の山下に遊びて、黒門前なる五条天神のあたりを見て在りけるに、歳のころ五十ばかりと見ゆる、髭長く総髪をくるくると櫛まきの如く結びたる老翁の旅装束したるが、口のわたり四寸ばかりも有らむと思ふ小壺より、丸薬をとり出だして売りけるが、(平児代答に五六寸と有れど四寸ばかりなりと寅吉後に云へり)取並べたる物ども、小つづら敷物まで、悉くかの小壺に納(い)るゝに、何の事もなく納まりたり。斯(か)くてみづからも其の中に入らむとす。何として此の中に入らるべきと見居たるに、片足を蹈み入れたりと見ゆるに皆入りて、其の壺大空に飛揚りて、何処(いずこ)に行きしとも知れず。寅吉いと(あや)しく思ひしかば、其の後また彼処(かしこ)に行きて、夕暮まで見居たるに、前にかはる事なし。其の後にも亦行きて見るに、彼の翁言をかけて、『其方(そち)もこの壺に入れ。面白き事ども見せむ』と云ふにぞ、いと気味わるく思ひて辞(ことわ)りければ、彼の翁かたはらの者の売る作菓子(つくりがし)など買ひ与へて、『汝は卜筮の事を知りたく思ふを、それ知りたくば此の壺に入りて吾と共に行くべし。教へむ』と勧むるに、寅吉常に卜筮を知りたき念あれば行きて見ばやと思ふ心出で来て、其の中に入りたる様に思ふと、日もいまだ暮れざるに、とある山の頂に至りぬ。其の山は常陸国なる南台丈(嶽)(なんたいだけ)と云ふ山なり。(此の山は、加波山と、吾国山との間にありて、獅子鼻岩といふ、岩のさし出でたる山にて、いはゆる天狗の行場なりとぞ。)
然るに幼かりし時のことなれば、夜に入りては、頻りに両親を恋しくなりて泣きしかば、老翁くさぐさ慰めしかど、なほ声を揚げて泣きたる故に、慰めかねて、『然らば家に送り帰すべし。かならず此の始末を人に語る事なく、日々に五条天神の前に来たるべし。我送り迎ひして、卜筮を習はしめむ』と言ひ含め、背負ひて眼を閉ぢさせ、大空に昇りたるが、耳に風あたりて、ざわざわと鳴る様に思ふと、はや我が家の前に至りぬ。こゝにても、『返す返す此の事人にな語りそ。語らば身のため悪しかりなむ』と誨(おし)へて、老翁は見えずなりぬ。斯くて我はその誡めを堅く守りて、後まで父母にも此の事を言はず。さて約束の如く、次の日昼過ぐるころ、五条天神の前に行けば、彼の老翁来たり居(お)り、我を背おひて山に至れるが、何事も教へず、彼此(あちらこちら)の山々にも連れ行きて、種々の事を見覚えしめ、花を折り鳥をとり、山川の魚など取りて、我を慰め暮相(くれあい)になりては、例の如く背負ひ帰せり。我その山遊びの面白さに、日々に約束の所に行きて、老翁に伴はるゝ事、日久しかりしかど、家をばいつも下谷広小路なる井口といふ薬店の男子と伴ひて遊びに出づる風にて出でたりき。
又或時の事なるが、七軒町の辺を謂
(いわ)ゆる、わいわい天王とて、鼻高く赤き面をかぶり袴を着し太刀をさし、赤き紙に天王と云ふ二字を搨(す)りたる小札をまき散らして子共を集め、『天王様は囃(はや)すがおすき。囃せや子ども、わいわいと囃せ。天王様は喧嘩がきらひ。喧嘩をするな間(なか)よく遊べ』と囃しつゝ行くを我も面白く、大勢の中に交りて共に囃して遠く家を離るゝ事も知らず、今思へば本郷のさきなる妙義坂といふ辺まで至りけるに、日は既に暮れたれば、子共はみな帰りたるに、札を蒔きし人、路の傍らによりて面を取りたるを見れば、いつも我を伴ふ翁にぞ有りける。爰(ここ)に我を送り帰さむとて、家路をさして連れ来たりけるが、茅町なる榊原殿の表門の前にて、我が父の我を尋ねむと出でたることを知りて、『我が父尋ね来たれり。此の事かならず言ふこと勿(なか)れ』とて、父に行逢ひ『此の子を尋ぬるに非ずや。遠く迷ひて居たる故に連れ来たれり』とて渡せば、父なる者大きに悦びて、名と処とを問ふに、何処の誰とあらぬ名を云ひて別れ去りぬ。翌日その処に父の尋ねたるに、元より虚言なりしかば、其処に然る人はなしとて空しく帰れり。(篤胤云はく、凡て諸社の札配り、わいわい天王など云ふ物に、山々の異人も稀に出づること、下に委(くわ)しく記せるを見るべし。さて此の事を母に問へば、昼飯前より五時まで帰らず、連れたる人は、神田紺屋町の彦三郎といふと答へし故に、翌日与惣次郎、酒を持ちて紺屋町を尋ねしに、然る人なかりし故に、ほいなく思ひて、同町の酒屋に知りたる者ありし故に、頼みて悉く尋ねたるに、無かりしと云へり。)

    

 

 

さて大抵日々の如く、伴はれ行きたる山は、始めは、南台丈(嶽)なりけるに、いつしか同国なる岩間山に連れ行きて、今の師に付属したるに、まづ百日断食の行を行はしめて、後に師弟の誓状を書かしめたり。「老人の行方、師の名ども、弟(子)のこと」爰に我『かねての念願なれば、卜筮を教へ給はれ』と云へば、師の『そは甚(いと)易き事なれど、易卜は宜(よ)からぬ訣(わけ)あれば、まづ余事を学べ』とて、諸武術の方、書法などを教へ、神道にあづかる事ども、祈禱呪禁の為(し)かた、符字の記し方、幣(ぬさ)の切りかた、医薬の製法、武器の製作、また易卜ならぬ、種々の卜法、また仏道諸宗の秘事経文、その外種々の事を教へらる。其はいつも、彼の老翁の送り迎ひたれど、両親はじめ人にはかつて語らず、教へを受けたる事どもゝ、明かさざれば知る人なく、殊に吾が家は貧しければ、世話なく遊びに出づるを善しとして尋ねず、また十日、廿日、五十日、百日余りなど、山に居て家に送り帰されたる事も、折々有りしかど、いかなる事にか、家の者ども、両親はじめ、我が然(さ)ばかり久しく、家に居らずとは思はで有りしなり。斯く山に往来(ゆきき)しつる事、七歳の夏より十一歳の十月まで、都(すべ)て五年の間なるが、此の間に師の供をなし、また師に従ふ余人にも伴はれて、国々所々をも見回りたり。(此のほどの事を母に問へば、筆、こま、たこなど、持遊びを持来たれりと云へり。)

    

 

 

さて十二、十三の歳には往来せず、唯をりをり師の来たりて事を誨(おし)へらるゝのみなりき。然るに父は我が十一歳になる八月より煩(わずら)ひ付きたり。其の病中に師の我に誨へて、「○めしくはぬ病気○先和尚びくににたゝられ、気ちがい和尚の気に入ること、とらならではめしもくはず○ゆうれいをうつ○禅僧問答に来たる○かこひものゝこと、後見、ふぢ寺、根ぎしえん光寺」『禅宗、日蓮宗などの宗体をも見覚えよ』と有りし故に、父母に『我は病身にて商ひ覚束なければ、寺に奉公して後に出家せむと思ふ』と云ひしかば、父母ともに仏を信ずる故に諾(うべな)ひて、此の年の秋より池端なる正慶寺といふ禅宗の寺に預けぬ。此の寺にて彼の宗旨の経文など習ひ宗体をもほぼ見聞きて、極月家に帰れるが、文化十五年の正月より、亦同所の覚性寺と云ふ富士派の日蓮宗の寺へ行きたるが、この二月に父みまかりたり。此の寺に居たる時に或人の来て、『大切なる物を失ひたり』と人に語るを、傍らに聞き居たるに、誰ともなく耳元にて『其は人の盗みて広徳寺前なる石の井戸の傍らに隠し置きたり』と云ふ声聞こえし故に、其の如く言ひしかば其の人驚きて帰りけるが、『果して其処に有りしが不思議なり』とて人々に云ひし故に、彼此(あれこれ)と人に頼まれて卜(うらな)ひ、また咒禁加持なども為たるに、悉く験(しるし)ありし中に富の題付とかいふ物の番を、数度云ひ当てたり。其は来たりて問ふ人々題付と云ふことは言はず、『千番ある物の中、一番を神社に納めむと思ふ。幾番が宜からむと云ふこと、卜ひ給はれ』と云ふ故に卜ひて、『幾番が宜し』と云ひしかば、前後すべて二十二三人に頼まれたるに、十六七人は取れりと云ふ。六七度は当らざれど、其の内五度などは、我がさし教へたる番札は早く人の手に入れる故に外れたりとぞ。斯く在りしかば諸人種々の事を頼み来たりて煩(うるさ)かりし故に、隠れて人に相(あ)はざる様にせしかど、なほ大勢来たりしかば、住持驚き、『此の状(さま)にて世に弘まらむには、寅吉は弱年なれば、我が怪しき術を教へて物する如く人の思はむこと、心遣ひなり』とて家に帰しぬ。此の後一月ばかりは家に居たるが、おとゝし四月よりまた師の教へにて日蓮宗なる宗源寺といふ身延派の寺へ弟子入りして、此の寺にて剃髪したり。然るは彼の宗に剃髪して真の弟子とならざれば、見聞しがたき秘事どもの多かればなり。
然るに文政二年五月二十五日に師の来たりて、『伴はむ』と云はるゝ故に、母には人に誘はれて伊勢参宮する由を云ひて、師と共にまづ岩間山に至り、夫より東海道を行きて江
嶋、鎌倉の辺を見て、伊勢両宮を拝み、西の国々なる山々を見廻り、八月二十五日にひとまづ家に帰り、九月になりて、また師の来たりて『伴はむ』と云はるゝ故に、此の時も母に神社周(めぐ)りに出づる由を云ひて、師と共に遠き諸越(もろこし)の国々までも翔(かけ)り行き、御国の地に帰りて、東北の国々なる山々を見廻りたるが、如何なる事にか十一月の始めに妙義山の山奥なる、小西山中と云ふ処の、家いさゝか有りて、人跡絶えたりとも云ふべき処に捨て置きて、師は何地ともなく行かれし故に、其の処の名主とも云ふべき家を頼みて、二三日待ち居たれど、師は来られず。然るに其の家に何処の人なるか、名も知らねど五十歳ばかりと見ゆる老僧の来たれるに、吾は江戸の者なるが、神道を学ばむとて国々を周り道に蹈み迷ひて、此の処に来たれる由を語りしかば、老僧きゝて『其は殊勝なる心なり。然も有らば我が知れる人に神道に委(くわ)しき人あり。其の許に伴はむ』とて、筑波山の社家なる白石丈之進と云ふ人の許に伴ひて、『此の童子は神道熱心の由なれば、止(とど)めて教へ給はれ』と頼み置きて去れり。さて丈之進といふ人の神道は蛭子流といふ流(ながれ)にて、吉田流よりも猶仏法を混じたる神道にて、面白くは無かりしかど、子分にして名を平馬とおほせて懇(ねんご)ろに教ふる故に、此れをも学ばむと思ひて此の家に年を越して其の道を聞きたり。然るに三月の始めに古呂明の来たりて、『師の居る山に伴はむ』と云はるゝに甚(いと)嬉しくて、丈之進に『東国すぢの神社周りに出でたし』と暇(いとま)を請ひければ、通り手形に印形を押したるを授けて、『一人旅は宿かさざる定めなれば、此の手形を見せて宿を請ふべし』など教へて出だしぬ。其の手形の文面は左に挙ぐるが如し。 
 
      差出し申す一通の事
 一 此度私の悴平馬と申す者、慥
(たし)か成る者に御座候間、
    神前に国家安全、万民繁栄の御祈禱を令
(い)ひつけ、近
    国近林巡行に差出し申し候。若し途中にて御神職衆中へ
    御目に掛り候節は、私同様に御取り持ち下され候様に頼
    み上げ奉り候。はたまた此の者何方にて行暮れ候共、御
    心置無く御一宿の程希ひ奉り候、以上。
                 筑波六所社人
   文政三歳三月日          
白石丈之進印

     御
神職衆中
     村々御役人衆中
   

    

 

 

と記して上包みの紙に、白石丈之進内同平馬とぞ書きたりける。爰に古呂明に伴はれて、岩間山に行き師に見(まみ)えしかば、なほ種々の事ども教へ授けらる。
然るに我は去年の九月より此の三月まで、七月ばかりも母に別れたれば、今頃はいかにして居らむ、兄はいまだ弱年なり、父のなき後にはいかに暮すらむなど思ひ出でて打ちふさげる有り状
(さま)を、師の見尤(みとが)めて、『汝は母の事を思ふ状なるが、無事にて居れば案じ過ごす事勿れ。其の有り状を見よ』と云はれけるが、夢とも現とも山とも家とも弁(わきま)へざるが、母と兄の無事なる有り状の慥々(しかしか)と見えたるが、言(ことば)をかはさむと思ふほどに、師の声の聞こえたり。此れに驚きてふり返り見れば、師の前にぞ有りける。爰に師の言はれけるは、『今より暫く家に帰るべし。さて里に帰りたらむ上にも、人はただ一心こそ大事なれば、構へて邪趣の道に踏入ることなく、神の道の修行に心を凝(こ)らせよ。然れど仏道をはじめ、我が好まざる道にても必々(かならずかならず)人に悪しと争ふ事勿れ。汝が前身は神の道に深き因縁ある者なれば、吾また影身にそひて守護すれば、兼ねて教へたる事どもの、世のため人の為となる事は施し行ふべし。但し其の人を得ざる限りは、謾(みだ)りに山にて見聞きしたる事を明かし云ふ事勿れ。また我が実名をも人に明かさず、世に云ふまゝに天狗と称し、岩間山に住む十三天狗の中にて、名は杉山組正といふ由を云ひ、古呂明の事を云ふときは、姑(しばら)く白石丈之進と称し、汝が名も我が授けたる嘉津間といふ名は名告(なの)らず、白石平馬と称せよ』と誨(おし)へて、平馬の二字を花押に作るすべを教へられ、師みづから古呂明、左司間と共に送られしが、途なる大宝村の八幡宮に参詣せしめ、神前に奉納の刀剣の夥(おびただ)しく有るが中を択びて、一振の脇指をとりて差料(さしりょう)とせしめ、空行して暫時の間に人足しげき大きなる二王門ある堂の前に至りぬ。こゝに古呂明の『此より汝が家にほど近し。一人にて行け』と云はるゝ故に、『此は何処にて侍る』と問へば、『浅草観世音の前なり』と言はるゝに、驚きて見れば実然(まこと)にぞ有りける。空行に伴はれ、ふと此処に置かれし故に、何処と云ふこと思ひ惑へりしなり。此れにて師に暇乞(いとまご)ひして、一人家に帰れり。其は三月二十八日なりけり。
さて母と兄とは、また『寺に行きて、出家を遂げよ』と勧めしかど諾(うべな)はず。然(さ)るは我生れつきて、三宝(さんぼう)の道は悪(きら)ひなるを、前に剃髪したるは、師命にて望むことの有りし故なり。然れば今は還俗せむとて、下山したる三月より六月まで家に居たり。然るは我が髪は、去年の夏宗源寺にて剃りたる儘の、いが栗頭にて、結び挙ぐること能はざれば、其を延ばさむとてなり。然るに我が家の宗旨は、一向宗にて、母も兄も明暮(あけくれ)に阿弥陀仏を称へ、神をきらひ卑しめて抹香くさき事どもを、常の所行とするを、吾はそれに替りて、太神宮の御玉串を棚になほし、手を拍ち拝すれば、兄は穢(けが)らはしとて塩をまき散らしなどするを、我もまけず、仏檀こそ汚けれと、唾など吐きし故に、兄弟の間宜しからず、山より持ち来たりつる物ども、天気を見る書、その外雑々(さまざま)の法を記せる書、又薬方の書なども、母と兄とに焼き捨てられ、師の賜へる指料をも、古鉄買に売払はれたり。
然るに六月の末頃は、既に髪も生え延びたりし故に、野郎頭となり、聊
(いささ)か由ありて七月より或人の家を主(ぬし)としけれど、我元より大抵は山に育ちて、現世の人に使(仕)ふる道を知らず、「馬鹿々々と云はれしこと」(しもべ)の態にも習はねば、馬鹿々々と云はれ、役にたゝずとて、八月の始めに返されつ。是よりまた少しの縁(ちなみ)にて、上野町の下田氏に居たりけるに、山崎美成の来たりて、ほぼ我が事をきゝ、珍しがりて『我が許に来たれ』と云はれし故に、母にも云はず、九月七日より彼のぬしの家に往き居て、事の因みに少(いささ)か山の事も、我が身の上をも語りしかば、人にも語られし故に、人々聞き伝へて多く来たられしが、荻野先生、また山崎ぬしなどの如く、仏法を好み信ずる人には、問はるゝまにまに、其の道の事ども、印相の事など答へて、師の誡めの如く、仏法を悪しき道とは言はざる故に、『然ばかり仏法の事を知りたれば、俗になるは惜しき事なり。我等いかにも世話すべし、僧になれ』と屢々勧められしかど、我は師の言の如く、実に宿縁ありし事と見えて、仏法を好まざる故に辞退して在りけれど、吾が誠の心を語る人なく、事を弁へざる徒は、何くれと悪しざまに評し云ふ由なども聞こえ、また我は世間の交らひ世の所業も知らざれば、いかにして宜けむと、吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間山の空を長目(眺め)て日を送りけるに、其の月の晦日に、美成の店なる者の使ひに行くに伴はれて出でけるが、途にて同友高山左司間に行逢ひたり。然れど人と伴ひたる故に互に物も云はで別れしが、決はめて師の使ひに我が方へ来つるならむと、心に待ちて在りけるに、其の夜果して外にて我を呼ぶ声きこえし故に、それとなく出でて見れば、左司間にて、『師の言ひ遣はされたるは、近き間に汝が便(頼)りとなる人有れば、然(さ)しも物思ひする事勿れ。偖(さて)また極月三日より寒に入る故に、例の如く三十日の行あれば、十一月の末までに登山せよ。然れど師もし讃岐国の山周りに当らるれば、寒行は休みなる故に、また里に帰されむとの事なり』と云ひ置きて帰りぬ。此れに力を得て、美成ぬしに『同友左司間が来て、極月には例の如く寒行はじまる故に、十一月の末までに、登山せよと云ひ遣はされたり』とのみ語りて在りけるに、十月朔日に、大人(うし)と屋代先生と訪ひ来まして、何くれと問ひ給へる事どもの、人の問へることは事替れるが、心に応(こた)へ、ことに大人の美成ぬしを制して、『僧に成れとは勿(な)勧めそ。入り立ちたる道を遂げしめよ』と言へるが、いと嬉しく辱(かたじけな)く、『我が許へも来たれ』と返す返す言(ことば)を残し給へりしかば、直ぐにも参らばやと、心すゝみて、師より左司間を使ひにて、近きほどに汝が便りとなる人有りと云ひ遣はされしは、此の人々の事ならむと頼もしく、時を待ちて侍りし」と、後に委しく語りけり。

  

 

 

十月六日に屋代翁より、けふ夕方に美成が寅吉を伴ひ来たるよし云ひ遣はされたるに、訪(おとな)ひてまた種々の事どもを尋ね、さて美成に、「此の童子山風の誘ひ来つれば、疾(と)く帰らむも計りがたし。我が方へも、いかで伴ひ呉(く)れよ」と言へば、「明日伴はむ」と云ふに、甚(いと)嬉しく、佐藤信淵(さとうのぶひろ)、国友能当(くにともよしまさ)なども寅吉に逢はまほしく云ひし故に、其の夜に消息すれば、皆悦びて七日に早く来集(つど)ひつ。童子が好むべく覚ゆる菓子、その外とも取りよそへ、小嶋主よりは童子に饗(もてなし)せむ料にとて鮮(さや)けき魚など賜はりて待ちけるに、夕方に美成より手紙をもて、「今日は伴ひかぬれば、時を見て伴ひ侍らむ」と、云ひ遣はせたるに、集へる人々空しく帰りぬ。我が家の者どもゝ、今や来たると待ちけるに、斯く在りしかば、いと本意(ほい)なしと力を落す。己れつらつら思ふに、「美成言(こと)(よ)くは云へど、我が方へ遣はすを惜しむ状に見ゆれば、遂に連れ来たらじ。其の間にもし山に帰りてば、弟子どもゝ本意なく思ふらむ。振りはへて彼が宅へ物せむ」と、八日の昼まへに、妻と岩崎吉彦、守屋稲雄とを連れて美成がり行きて、「昨日は待ちて在りけるに来ざりしかば、本意なく思ふ故に、家内の者ども連れて来たれり。いかで童子に逢はせ給はれ」と云ひ入るゝに、美成が母出でて、「美成は外へ出でたり。童子は今朝その母の方へとて出で行きたり」と云ふに、また力なく帰れるが、(後にきけば、此の時童子は奥に居て、己れが店まで行きたるを見聞きしつれど、隠れ居よと私語(ささや)く故に、逢はまほしくは思ひしかど、詮方なかりしと云へり。)途にて連れたる者ども、みな「童子は母の許へ行きたる由なれば、彼の方へ直ちに尋ね給はばいかに有らむ」と頻りに勧むるにぞ、己れも然る事に覚えて、七軒町へは間遠からねば、皆うち連れて尋ねつ。

  

 

 

辛ふじて其の家を探り得たるに、裡住居(うらずまい)のただ一間ある家にて、母のみ居たり。「寅吉が来つるか」と問ふに、兄といさかひて下田氏へ行きたる後は、たえて来たらざる由にて、美成が許に居る事さへも知らざりけり。然れば美成が方にて、母が方へとて出でたりと云へるは、早く偽りにぞ有りける。直ちに帰らむも憾(うら)めしければ、寅吉が生立(おいた)ち、また異人に誘はれたる事の始末など問ふに、生立ちの事は委しく語りしかど、神誘ひに成りたる始末をば、此の頃になりて人の言ふによりて、ほぼ知りたる趣なり。偖(さて)この日も遂に童子に逢はで空しく帰りぬれど、母の物語りに、童子の生立ちなど種々聞きたるに、なほ種々問ひ(ママ)まほしく思ふ心いや増さりて、美成がしわざの心憎くは思へど、此は彼が心を取るにしかじと、物など贈り、また屋代翁にも頼み、親から行きもして心を取りしかば、十日の昼なりしが、手紙をもて「明日の夕方参るべし」と云ひ遣はせたり。此の時しも佐藤信淵来合ひたるが共に悦び、「七日の日に国友能当が吾と共に遠き四谷の里より、態(わざ)と来たりて空しく帰れること気の毒なり。我が方より明日つとめて消息せむ」と云ひて帰りぬ。
十一日の朝早く屋代翁がり、夕方に美成が童子を伴ひ来るよし消息す。然るに下総国香取郡笹川村なる須波
(諏訪)社の神主、五十嵐対馬、もの習ひにとて江戸に出でて、此の日我が許へ来たれり。八半時に屋代翁その孫なる二郎ぬしを伴ひて来たらる。国友能当、佐藤信淵も来たり、折よく青木並房も来合ひたり。小嶋氏家内みな来たらる。塾には竹内健雄、岩崎吉彦、守屋稲雄などあり。申の刻過ぎれど美成来たらねば、皆待ちあぐみけるに、屋代翁消息したゝめ、使ひを遣はさむとしける時に、童子を伴ひて美成来たりぬ。此れぞ寅吉が我が許へ来つる始めなりける。
(さて)童子にかねて約しつる岩笛「○石笛 二ノ十二丁ウ」を見せけるに、自然の状にて音の高く入るが、甚(いた)く心に応(かな)ひて悦ぶ事限りなく、吹き入るゝ音もよく入りて、止まる期(とき)なくぞ吹き鳴らしける。此の日問へる事どもは云々(しかじか)の事などなり。皆感じ驚く事どもなるが、中にも「鉄炮ありや」と尋ぬるに、「鉄炮は世にある常の鉄炮なるが、外飾は聊か異にて、大きなるも小さきもあり。また風をこめて打つ鉄炮もあり」と云ひ出でたるに、我も人も此の頃国友子が風炮「○風炮の事 一ノ三十一丁」にいたく驚きをるに、此を聞きて更に驚きて顔見合せける中にも、国友能当は殊に甚(いた)く驚きぬ。これ己れと共に仙炮の事を問へる始めなり。(然るに此の事におきては、己れが尋ぬるよりは、国友子が尋ぬるさま、然すがに其の得たる道ゆゑに、意得る事早き故に、此は能当に委ねて問ひたる趣、図に著せるが如し。実に此の事は己れいかに思ふとも、しか明らかには問ひ明かしがたき事なるを、国友無からましかば、あたら仙炮の世に伝はらずかし。)また此の時、試みに奉書美濃紙などを出だして、物書かしめたるに、運筆凡ならず、人々此れにも驚きぬ。是れぞ童子が大字を書きたる始めなりける。(此の前にも、事の因(ちなみ)にいさゝかは書きつれど、ただ半切などに小字を書きたるまでの事なりしかば、見苦しき故に誰も美しき大字を書き得べしとは思はず。寅吉みづからも、世間の文字はいくばくも知らず、山にて習ひたる字は世間の字と形の異なるを、人の笑ふべく思ひて、書かざりし由なり。細字を世間に書く状に書き得ざる事は、山にて手習ふには手に砂を抓(つま)みて習ひはじめ、いまだ小字を書くことは習はざりしと云へり。さて童子が書、またその運筆をば屋代翁をはじめ書に賢き人々は皆驚き称する事なり。猶次々にも此の事の出づるを見るべし。)(さて)何くれと物語るほどに、早くも戌の刻になれば美成は帰りを急ぐ由にて暇を乞ふ。いと残り多く思ひて、「今しばし」と止むれど止まらず。こゝに長笛を製(つく)らしめて、世に伝へたく思へば、「また近き程に」と返す返す云へば、諾ひて伴ひ帰りぬ。
翌十二日に岩崎吉彦を使ひにて、昨日の夜の謝を言はしめ、貸さむと約したる鉗狂人
(けんきょうじん)の書を持たせ遣はし、更にまた「笛製(つく)らむ料の竹を求めて待ち居(お)らむ、近き程に童子を貸し給へ」と云ひ遣(や)りけるに、間もなく童子を伴ひて走り帰りぬ。「いかに」と問へば吉彦云はく、「大人(うし)の宣はせる如く申して侍れば、美成が母出でて、『寅吉は流行子(はやりこ)にていと鬧(さわ)がしく今日も早く美成と伴ひて
他へ行きたり』と云ふ間に、童子は我が笛作る竹を求むといふ声を聞きて奥の間より走り出でて、『笛の竹買はむとならば、我も共に行かむ』と云ひて、外にかけ出でたるに、美成が母は甚(いと)心苦しく思へる状(さま)に見えつれど、又しも『他へ出でたり』と云へるが憎さに、『いざや』とて伴ひ侍り」と笑ひつゝ云ふに、予もをかしく、「常には汝が遠慮なきを叱りたれど、今日のみは遠慮の無きが用に立ちけり」と云ひて笑ひぬ。然るに童子は辞儀もせず、来るとやがて神前なる岩笛を吹き鳴らし、「かばかり自然の面白き物はなし」と悦びて、また止むる期(とき)なく、人の言(ことば)の耳にも入らぬ状なるを、菓子など与へ、予も共に種々の戯れ遊びなどして見合せつゝ、岩笛の成れる始めの考へ、石剣の事、矢の根石のこと、石を造る方、また石をつぐ法、月に穴ありと云へること、星を気の凝(こ)れる物と云へる事、空行の委しき事ども、人魂の行方、鳥獣の成り行きなどの事を問ひたりき。此の日昼前に来合ひたるは、五十嵐対馬、竹内健雄が母刀自などなり。
然るに予が家のまた隣にて、所謂はごと云ふ猟事して、数丈なる高木の枝に鳥黐
(とりもち)をつけ、媒鳥(おとり)を出だして日々に鳥を捕るを、予が妻の母なる人の、常に無益の殺生を厭(いと)ひて在りけるに、をりしも鵯(ひよどり)のかゝりければ、居合ひたる者ども立ち見て、「また鳥のかゝりつる」と云ふを、童子聞きて「今の間に其の鳥を放ち飛ばして見せ参らせむ。茶椀に水を賜はれ」と云ふに、与へつれば、我が書斎の椽側に立ち居て、太刀かきの真似などし、口に何やらむ唱へつゝ、茶椀なる水を指先にてはじき注ぎ、吹飛ばす状をなす。爰に己れも対馬も立ちて見るに、体も羽も多く指したる枝にひしとつきて、少しも動かず。殊に我が書斎よりかのはごの所までは三十間余りも有れば、心中に、いかに神童なりとも、彼の所までは咒(まじな)ひとどくべしとも覚えず。放ち得ざらむには、恥見する事ぞと、此を放つ事能はじと思ひて、「彼の鳥を飛ばしてば、捕人の本意なく思ふべし。止めよ」と云へど、童子はひたすら咒ふを、人々に目合せして、
傍らより然しも促さしめず、対馬と予とは、わざと知らぬ状にて在りけるに、立ちて見居たる者どもの、「すわや鳥の片羽の放れたり」と云ふに、予も対馬も立ちて見れば、右の羽がひ誠に放れて、見るが間に左の羽がひも体も放れて下りたるが、また中なる小枝の多く指したるはごにつきたり。甚(いと)惜しき事と見るに、童子は猶も咒へば、また下なる枝に落ち止まり、羽づくろひして飛び去りぬ。其の落ちたる状を見るに、黐は蛛の糸の如く引きたりき。然れば咒ひにて力なくうすく成れりと思はる。人々甚(いた)く感ずるに、童子は更に珍しとも思はぬ状にて、「いざ竹買ひに行かむ」と云ふ。
己れ云はく、「其は今に我も共に行きて買ひ来たるべし。其の前に、己れ常に風の神を信仰にて、験
(しるし)を得たる事数々あれば、いかで其の幣(ぬさ)を切りて得させよ」と云ふに、「明日に為給へ」と辞(こば)むを、しひて請ひて、紙と刃物を出だせば、なまなまに諾ひて、切りかけたるが、切りさして数度立ちて虚(空)(そら)を見て、「今日はまづ見合せ給へ」と云ふを、「いかに」と問へば、「風の神の幣を切る事は大切の伝を受けたる事なれば、切るまゝに東の方に雲起りて、其の雲西に渡れば風吹きて、終(つい)に雨降るなり。然(さ)ては竹を買ひに行くこと能はざる故に、明日に為給へとは申すなり」と云ふ。爰に己れ云ひけらく、「然ばかりの験あらむと思へばこそ請ひつれ。よし雨降り風吹くとも、何てふ事か有らむ、我みづから買ひに行かむ」と云へど、なほ辞(こば)むを猶強ふるに、止む事を得ず、左右に虚空(そら)を見て気遣ひつゝ、切り畢(おわ)りて神をうつし、此を用ふる時のしわざをも伝へて、神籬(かみがき)に納めたる程に、はや一点も曇りなき青虚(空)に、東の方より言ふが如く雲起りて、西に渡らむとし、既に風も吹き出でたり。寅吉「
さればこそ」と騒ぎて、「切りたる幣をまづ出だし給はれ」と云ふを、己れなほ辞(こば)みけれど、強(あなが)ちに云ふ故に出だせば、しばし祈念してまた納めしめ、夕暮れまで移したる神功を封じ奉れり。「其の間までは雨風あらじ。然れど暮相には起り候はむ」と云ひき。さて稲雄を共にて、寅吉を伴ひ筋違外なる竹川岸へ竹を見に行きて、往来の途々聞ける事共は、「此のすこしの道を遠いといふがあやしくて問へること」七韶舞(しちしょうのまい)に用ふるリンと云ふ琴の事、短笛のこと、羽扇(はうちわ)のことなどなり。斯くて竹をとゝのへ帰りて、其の日来たれる番匠に竹を九尺と一丈とに切らせ、洗はせ抔(など)する程に、小嶋主も来られて、己れまた健雄、稲雄、対馬らと共に、舞の事尋ねて在りけるが、既に未(ひつじ)の下だりと覚ゆる頃に、美成が許より「急ぎの用あれば、寅吉を此の使ひと共に帰し給へ」と云ひ遣はせたり。いと残り多けれど詮方なし。寅吉も本意なげに「明日また参るべし」と、心を残して帰りぬ。(かくて此の日のくれあひに、果して風出で氷雨降りつ。)
さて此の夜は更なり、翌くる十三日の夜にも、門人どもの打寄れば、ただ寅吉が噂のみするを、己れも共に、「間もなく山へ帰ると云へば、帰らぬ間にいかで笛をば製(つく)らせたき物なり。然るはおのれ音曲の事は得知らず、元より謂ゆる好事(こうず)に種々の物集むる事は好まねど、幽界にもかゝる物は有りけりと人に知らしめ、彼の界(さかい)の道の八十隈(やそくま)とき明かさむ其の証(あかし)ともなるべき物と思へばなり。然れど美成が甚(いた)く童子の我が許へ来たる事を惜しむ状(さま)なれば、遂に笛を作りはてじ」と歎息しけるを、健雄、稲雄は殊に心苦しく思へる状に聞き居つるが、十四日の朝にて、門人どもは朝ごとに我が前に出でて朝の機嫌を問ふを、今朝しも健雄と稲雄が見えざるは何処へ行きつらむと思へるに、辰の半刻ごろに帰り来たれり。「何処へ行きつる」と問へば、二人が云はく、「笛を作りはてじと大人(うし)の歎き給ふに、己れ等もしか思へば、二人が語り相ひ、童子の母、兄などに聞けば、美成が許に童子の居る事さへも知らぬ状なり。然れば美成は、童子の主と云ふにも非ず。然れば童子の母と兄とに語りて、童子を大人の許に呼びてむと議(はか)りて、今朝早く彼の宿へ行きて、兄荘吉を美成がり遣はして、童子に逢はしめ、『宿に用あれば帰れ』と云はしめたるに、彼の童子は元より家に居る事を嫌ふ故に『来たらず』とて、兄は空しく帰れるに、二人が力なく帰り侍り」と云ふ間に、日々に来る番匠の今日も来たれるが戸口にて、「彼の小僧どの一人今此の門前を七軒町の方へ周章(あわ)てたる状に駆けて通りつ」と云ふに、二人は立上りて、「それ留めむ」と駆け出でたるに、童子は飛ぶが如くに、はや半町ばかりも行き過ぎたるを、二人も後より疾(と)く追及(おいつ)きて、「何処へ行く」と問へば、「今より山に出で立つなり。其れにつき急ぎの事ありて、宿へ行く」よしを云ふに、二人は、さてこそと驚きて、「しばし立寄れ」と云ふに、承引(き)かざるを、左右より手を取りて、まづ我が家の入口まで伴ひ来て、其の由を云ふ。爰に己れも立出でて、「兼ねては十一月の末までに登山する由云へるに、如何して発足のしか急になりし」と問へば、「俄に変事の出で来し故に、今日急ぎて発足せまほしく成れり。其れにつき、また登山の時に必ず持ち来たれと師の命ありし一通を、宿に残し置きたれば、取りに行くなり。放ち給へ」と云ふに、己れもあきれて其の面を見れば、眼もさか立ちて物狂ほしげに見ゆるを、笛を作らざるが余りに憾(うら)めしくて、其の事を云ひ左右の手を取りたる健雄、稲雄は、「まづ好みの岩笛吹きて心を静めよ」など云へど、耳にも聞き入れず。引き放ちて駆けり行かむとするを、二人して抱き上ぐれば、童子も少し困りたる状にて、「然らば今の間に笛作らむ、作り畢へたらむには、速やかに帰し給ふべし。然るにても家に置きたる一通のこと、気遣ひなれば、其を取りて来侍らむ」と云ふに、稲雄が「そは我とりて来たらむ」と云へど、「その在り所しれねば、我行かむ」とて立出づるに、健雄、稲雄は、また見失はむ事を思ひて、共にそひ行き、母と兄とに山へ発足する由を告げ暇乞ひせしめたるに、兄は別れを惜しみて泣くを、母はいと思ひきりよく、「斯く我儘に生れ付きたる者なれば如何はせむ」とて、肌着すまし物などさすがに取出だして与ふるに、「山へ行きては我々如きは服物を重ねず、同じ物を二つ持つまじき掟なれば、入[要]らず」とて何も受けず、かの一通を取出だし、兄の別れの盃せむとて取出でたるを、入らざる事と返り見もせず、健雄、稲雄に「いざ参らむ」と云ひて家を出でしとぞ。(此の一通の事、甚(いと)床しくて請ひ見れば、かの白石丈之進が授けたる一通にてぞ有りける。此を大切にせる由は既に上に記せり。)
(さて)我が家に来たれば、やがて笛作りかゝり、一丈と九尺の雌竹の節をば「何にして抜くらむ」など人々のいぶかしみ云ふを、茶椀に水と火箸とを乞ひて、節間に火箸を入れ水を注ぎ入れつゝ、ひたと石に突当つれば何の事もなく抜きたるを、篠竹の長きを入れて上下したれば、中に残れるも美しく通りぬ。斯くて穴の間の寸をもりて、鼠歯の錐もてもみて忽ちに長笛二管を作り畢へて、「然らば発足せむ」と云ふを、家内の者ども、又来相ひたる小嶋主、佐藤信淵、五十嵐対馬、小林元二郎など何くれと、まぎらし石笛を吹かしめ、菓子などすゝめて心を取れば、少しは和(なご)みつゝも落つきがてに、ともすれば駆け出でむとするを、猶逗めて短笛をも作らせたく思へど、詮方なかりしが、ふと昨日伴信友が来つるに、童子の噂をして石笛を甚く悦べる由を語りしかば、「然もあらば君のかねて賜へる芦根石の笛を与へばいかに有らむ」と云へりし事を思ひ出でて、「我が岩笛よりは甚く小さけれど、音色は面白き石の笛あり。此はおのれ去年上総国にものしける時に、浜辺にて二つ拾ひ得たり、其を屋代翁と伴信友とに贈りたるが、汝の石笛を好むよしを語りしかば、信友が笛を与へむとの事なり。其を今取りに遣はさむ。使ひの行きて帰るほどを待つべし」と云へば、「然も有らばしばし待ち候はむ。然れど先生の得手なる足どめの咒(まじな)ひなどは為給ふな」と云ふに、岩崎芳(吉)彦を急ぎ立て信友がり遣はしつ。(信友は、酒井若狭守殿の藩にて、州五郎といふ。殊に親しく交らふ友なり。牛込矢来下といふ所の中屋敷に住すれば、予が所よりは一里半ばかりも離れたるべし。)
然るにおのれ童子が十二日の夕がた、我が家を帰れる時までは、我をしたふ状(さま)に見えけるに、今日は甚く心遣ひなる状(さま)にて、帰らむとのみ為るが不審(いぶか)しく、はた「得手なる足どめの咒(まじな)ひ為給ふな」など云へるが、心にとまりて「今日の有り状只ならず、故こそ有らめ」と尋ぬるに、笑ひて言はざりしを強ひて問へば、「先生は種々の咒禁を知り給ふ故に、我を止めて山に帰さじと、足止めの法を行ひ給ふ由を云ふ人あり。然る事にあひては、我が行の害となる故に、早く此の難を遁れて、急に山へ行かむと思ひなりて侍り」と云ふ。「我は法ごと、咒禁など一つだに知らず。誰れがしか云へる」と問ふに、其の人を云はざれば、「我が心は誰れにもあれ、志して入り立ちたる道は邪道ならずば力を副(そ)へても遂げさせたく思ふ故に、既にはじめて汝に逢ひたる時に、美成が僧になれと勧むるをさへに止めたりき。然れば夢々然る法を行ひて、汝の行を妨げむとは思はず。心おく事勿(なか)れ」と返す返す暁(さと)せば、やゝ心とけたり。(この遥か後に、稲雄が此の時の事を委しく尋ねしかば、「十月朔日の日に、大人(うし)に始めて逢ひ参らせけるより、不思議にも慕ひ奉る心深く、美成ぬしに、平田先生の許へ行かむと云へど、止めて行かしめず。『平田は神道を好みて弘むれど、神は利益なく、仏の利益あること、世に神社の衰へて寺の盛んなるを見て、神道の仏道に及ばざる事を知れり。かまへて神道をやめて、仏者になれ』とすゝめられ、『十二日に用ありとて呼びに遣はされし時、然しも用は無かりしかど、平田に神道を勧められむが気の毒なる故に、呼びよせたり。笛を作りたく思はば、我その竹を買ひて与ふべし。平田へは必ず行くこと勿れ』とて、孝子善之丞物語といふ、地獄の恐ろしき事、極楽の楽しき事、仏の尊き事などかける書をよみ聞かせける故に、また平田へ行きて笛作らむと云ふこと叶はず。山にて師に聞きたるとは甚く違ふ事なれど、争ふこと勿れといふ誡めあれば、わざと諾ひたる状にものして有りけるに、十四日の朝に兄が来て我を呼び出だし、平田様より呼びに来たりつと云へる声を聞きて、家内の人々、『平田といふ人は咒禁の法をも知りたれば、然ばかり汝を留めたく思へば必ず呼びて足どめの咒ひせむとの事なるべし』と云へる故に、『さては我が行の害となる事なれば、此方に知らさず、急に山へ行かむ』と思ふ心つきて、彼の一通をとり帰らむと、思はずも御前を通りて強(あなが)ちに呼びよせられたること、師より左司馬を使ひにて、汝が便りとなる人有らむと云ひ遣はされたるに符合して、いと不測なる事なり」と語れりとぞ。)
是れよりまた種々の物語りとなり、空行の事にも及びて、対馬が「星はいかなる物ならむ」と云へるより、星の〇〇を通れる事、月に穴有りしこと、云々(しかじか)の事の物語にも及び、又文字を書きてと請へば、此の世に見ざる種々の字をいと多く書きける。此の世間の字も多かる中に、神風野福、神野心鬼、鬼野心神などいふ語をも書けり。此は彼の界(さかい)の熟語なるべく覚ゆるに、其の意の知らま欲しく、また朝開ともかけり。此は万葉集に見えたる発辞なるを書きたるも床しく、偖(さて)書く程の文字を「其の訓(よみ)を知らず」と云ふ故に、「何(いか)なる故ぞ」と問へば、「彼の界の手習ひには先づ文字を有りのことごと異体までを習はしめて、其を用ふべき時の至れば、一時に啓発して覚らしむる法なり」と云ひて、あまたの中には異体ながらに読み得らるゝ文字のあるを傍らより読むに、「かく我だに知らざる文字を読むと云ふ事やある」と云ひて悦ばざるが、後までも読まざりき。偖この時かける字どもは、大抵謂ゆる上代様の状に見えたり。(小嶋主の言に、「彼の境の字の、かく上代ぶりなるは、空海法師も早く死解仙となりて、今に彼の界に在りと聞こゆれば、伝へたるにや」と云はれたり。然も有るべく思へるに、寅吉後に云へるは、「彼の界には元より上代の書法伝はれり。師の言に『弘法は世間にてはよき手と云へども、いまだ上代の筆法の骨法を得たるには非ず』と云はれし」と語りき。さて寅吉後までも自ら書きたる文字を一字も読みたる事なく、「読みを知らず」とのみ云ひて有るは、誠に知らざるか、知りつゝも故ありて読まざるか、今に心得がたし。)
斯在(かかる)に申の刻と思ふ頃に、芳彦かの石笛をとりて信友が許より帰れり。其の譲り状に
 石笛御懇望の由承り及び候所、篤胤より貰ひ候ひて所持致し候間進上
 致し候。万世神界にて御重宝下され候はば本望なる可く候也。謹言。
  文政三庚辰年十月十四日           伴信友花押  
          白石平馬君
とぞ書きたりける。童子悦ぶこと限りなく、速やかに吹き鳴らして、「さらば今より発足せむ」と立上がるを、「今日は七
時過ぎたれば日はやがて暮るゝなり。今夜は此方に止まりて、明日発足せよ」と皆々いふが中に、誰にか有りけむ、「今夜こなたに止まりなば、此の人数にて目隠しの遊びせむ」と云ふに、何(いず)れも「それ宜からむ」と云へば、寅吉手を拍(たた)きて大きに悦び、「然らば止まり侍らむ」と云ふにぞ、日の暮るゝ頃より予は更なり、竹内健雄、佐藤信淵、五十嵐対馬、守屋稲雄、岩崎芳彦など、何れも寅吉が心をとるとて、亥の刻過ぐるまで目隠しの遊び為たるに、猶果しなく為(せ)むと云ふを、「夜の更けたれば又明日こそ」と云ひて寝かしめぬ。斯くて十五日になりて、朝も早く起きて食事終ると、はや「目隠しせむ」と云ふを、「この遊びは長者(おとな)も交りてするには、昼は為る事に非ず」と言ひ諭(さと)せば、なまなまに聞き入れて、「然らば夜になりてこそ」と云ひて、この遊び故に登山は十一月の末までにて宜しとて、かの進(そ)り心のいと静かになりしこそいと可笑(おか)しけれ。さて此の日の昼前に、誰も進めざれど、短笛をも三管つくり、七韶舞またその唱歌、長笛、短笛の吹く状をもいと懇ろにぞ教へける。こを習へるは、小嶋主、守屋稲雄、予となり。
然るに余は昨日の夜より寒熱
(あつけさむけ)のある心地せるが、この昼過より熱甚くさして、悪寒もつよく、決はめて疫症ならむと思ふばかりに苦しかりしかば、病臥して在りけるに、寅吉傍らに居よりて、熱冷しの咒ひといふをしつ。其は夜に入りて目隠しの遊びせむとてなり。不測にも疫症の如くなる熱たちまちにさめたり。然るに七時ばかりに屋代翁と、荻原専阿弥ぬしと伴ひ来まして、童子に逢ひて、猶七韶舞のこと、其の楽器の事など尋ねらる。己れも病おして出逢へば、「いかにして童子はこなたに来つる」と問はるゝに、昨日門前を通るを、抱き入れて笛を作らせたる始末を語り、「美成が家に居る人を心の儘に止めたるは義理違へれど、然る義理をのみ立てば遂に笛は成るまじく、しばしも止めて彼の界の事を聞かまほしく思ひし故に、かく計らひつ」といへば、屋代翁も笛の成りたる事は悦びつゝも、「疾く美成が許へ返しね」と云はるゝに、童子云はく、「我が美成ぬしの許に居る事は、奉公といふには非ず。遊びに来たれと言はれし故に行きたるなれば、今夜はこなたに遊びて居たいから、ゐたといへばよきこと。明日かの家へ罷らむ」と云ひて帰らず。其の夜も塾中の輩、また僕等にねだりて例の遊びなりき。
さて翌十六日の昼前に、健雄、稲雄と二人を副へて、童子を美成がり遣はして、此を押止めたる由を謝せしむ。然るにその昼過ぎと思ふ頃に、童子は旅装束にて来たれり。「いかに」と問へば、「美成ぬしの早
(と)く山へ発足せよと云はるゝ故に、立出でたるが、暇請(いとまご)ひせむと思ひて、立寄りはべり」と云ふ。「然らば今日は既に遅し。今夜は我が許に宿りて明日発足せよ」と云へば、「然らば」と云ひて止まりぬ。試みに「常陸国へ行く道を知りたるか。路用は持ちたるか」と問ふに、「美成ぬしに※(もら)[※=貝へんに青の旧字]ひたり」とて、八百文計りを取りいで、「我が師に伴はれては多く空をのみ行きたる故に、下の路は知らねど、筑波山を向かひ見つゝ行きたらむには、遂には行着きなむと思ふ」と云ひて、少(いささ)かも案じる気色なし。いと哀れに覚えて、「守屋稲雄に彼の山の麓まで、送らせなむか」など議るほどに、五十嵐対馬があす笹川へ帰るとて、暇乞ひに来たれり。こゝに己れ対馬に云ひけらく、「寅吉が山へ行くに、其の路を知らざる由なれば、いかで笹川へ伴ひて、暫く汝が家に留めおきて、幽境の事をし探ね、笹川より筑波山へは間近ければ、麓まで送りね」と云ふに、対馬いと易く諾ひて、「然らば明日つとめて御許に立ちより、伴ひ侍らむ」と云ひて、旅宿へ帰りぬ。夕方に寅吉が兄荘吉来たりて、弟にあひて別れを惜しみ、「母人はいと思ひきり宜けれど、我は兄弟数人ある中に、男とては汝ばかりなれば、共に心を合せて、母を養はむと思へるに、いつ逢ふべくも計りがたき境に行くこそ力なき事なれ。何時かまた帰るべき」と顔も得上げず泣くを、寅吉は瞬きもせず眼をはりて、兄が涙ぬぐふを、いと異(あや)しく思へる状にうち守りて、「男は泣く物に非ず。いかに思へばとて我は因縁ありてかゝる身と成りしを、今更いかにせむ。我をば死にたる者と思ひて、母をば兄一人にて養はれよ。我は母の命ある限りは、年に一度は必ず来たりて、力になるべき事は助くべし」と云ふに、兄は猶かきくどきて別れを惜しむを、傍らよりも、「寅吉はかく神に見入られたる者なれば、其の心にも任せぬ事と見ゆ」など慰むれば、兄も心得て涙ながらに帰りぬ。後にて寅吉云はく、「我も親兄弟の別れの悲しき事を知らざるには非ねども、彼の境の慣ひにて、泣くことを堅くいましめ、かつ未練の心をもちて、山入り
せる後にて泣きなどすれば、修行の害となり、行を為損なふものなる故に、わざと兄をつれなく持ち成したるなり」と云ふに、居合せたる者ども、「兄弟ともに道理なるいひ言にて、何とも裁断しがたし」と、中には涙ぐむも有りけり。
斯くて翌十七日の朝に、対馬は約せる如く、旅装束にて、供なる者と二人にて立ちよれば、寅吉悦びて旅の支度す。こゝに己れ昨日の夜したゝめ置きたる山人への消息と、はなむけの歌とを書きて渡せば、稲雄が与へたる笈箱
(おいばこ)に納(い)れて背おひ、また同人にこへる藤の木の長杖をつき、信友が授けたる芦根石の笛に紐をつけ、腰にさげて、立出でむとすれば、今朝此の子が行末を祈ると、阿須波の神に奉れる御酒もて山入りを祝ひ、諸共(もろとも)にしたらを打合せ、家内の者ども笠よ草鞋と世話をやき、涙ぐみつゝ門口まで見立つれば、見返りつゝ莞爾と笑ひて出で行きける。跡を見おくり女どもは涙を落して噂するを、己れ「別れを惜しみ泣きなどしては、彼が修行の妨げとなる、と云へるを忘れたるか」と、叱りはしつれど、涙は胸にせまりてぞ有りける。此の時山人へ送れる消息の文左の如し。
「今般慮はざるに貴山の侍童に面会いたし、御許の御動静、略承り、
  年来
の疑惑を晴らし候事ども之れ有り、実に千載の奇遇と辱(かたじ
   けな)
く存じ奉り候。其れに就き失礼を顧みず、侍童の帰山に付し
  て、一簡呈上いたし候。先づ以て其の御衆中、ますます御壮盛に
  て、御勤行のよし万々恐祝奉り候。抑々神代より顕幽隔別の定り
  之れ有る事故、幽境の事は現世より窺ひ知り難き儀に候へども、
  現世の
儀は御許にて委曲御承知之れ有る趣に候へば、定めて御存
  じ下され候
儀と存じ奉り候。拙子儀は、天神地祇の古道を学び明
  らめ、普く世に説き弘め度き念願にて、不肖ながら先師本居翁の
  志をつぎ、多年その学問に酷苦出精いたし罷り在り候。併しなが
  ら現世凡夫の身としては、幽界の窺ひ弁へがたく、疑惑にわたり
  候事ども数多
(あまた)これあり難渋仕り候間、此の以後(のち)
  御境へ相願ひ御教誨を受け候ひて疑惑を晴らし度く存じ奉り候。
  此の儀何分にも御許容成し下され、時々疑問の祈願仕り候節は、
  御教示下され候儀相成るまじくや。相成るべくば、侍童下山の
  砌
(みぎり)に、右御答へ成し下され候様偏(ひとえ)に願上げ奉り
  候。此の儀もし御許容下され候はば、賽礼
(さいれい)として生涯
  毎月に拙子相応の祭事勤行仕る可く候。偖また先達て著述いたし
  候、霊の真柱と申す書御覧に入れ候。是は神代の古伝によりて、
  及ばずながら天地間の真理、幽界の事をも考へ記し仕り候ものに
  御座候。凡夫の怯
(よわ)き覚悟を以て考へ候事故、貴境の電覧を
  経候はば、相違の考説も多く之れ有る可しと恐々多々に存じ奉り
  候。もし御一覧成し下され、相違の事ども御教示も下され候はば、
  現世の大幸、勤学の余慶と生涯の本懐之れに過ぎざることと存じ
  奉り候間、尊師へ宜しく御執り
成し下され、御許容之れ有る候様
  偏に頼み奉り候。一向に古道を信じ学び候凡夫の誠心より、貴界
  の御規定如何と云ふ事をも弁へず、書簡を呈し候不敬の罪犯は、
  幾重にも御宥恕の程仰ぎ願ふ所に候。恐惶謹言。
                         平田大角
   十月十七日                 平篤胤 花押
  
  常陸国岩間山幽界
    双岳山人御侍者衆中
 猶々寅吉こと、私宅へ度々入来にて、深く懇志を通じ候に付、今般
  下総国笹川村門人五十嵐対馬と申す者に、御山の麓まで相送らせ申
  し候こと実に千載の奇遇と雀躍限りなく存じ奉り候。之れに依り憚
  りを顧みず申し上げ候。尚此の上とも修行の功相積り、行道成就い
  たし候様、拙子に於ても祈望仕り候事に御座候、以上。」
偖また寅吉にはなむけと詠みたる歌と、其の端言
(はしことば)は左に挙ぐるがごとし。
  車屋寅吉が山人の道を修行に山に入るに詠みておくる、
 「寅吉が山にし入らば幽世
(かくりよ)の、知らえぬ道を誰にか
 問はむ。                        
 「いく度も千里の山よありかよひ、言
(こと)をしへてよ寅吉の
 子や。 
 「神習ふわが万齢
(よろづよ)を祈りたべと、山人たちに言伝(こと
   づて)
をせよ。
 「万齢を祈り給はむ礼代
(いやしろ)は、我が身のほどに月ごとに
  せむ。
 「神の道に惜しくこそあれ然
(さ)もなくば、さしも命のをしけく
  もなし。
かく記しよみ聞かせてぞ与へたりける。
寅吉が帰れる後は、心静かになりて、十日ばかりは聞き置きたる事ども書き記して在りけるに、廿七日の日に笹川村の門人高橋正雄といふ者来たれり。
(字(あざな)を治右衛門といふ。)「寅吉はいかに」と問へば、「対馬と共に舟にて十九日の朝早く笹川へつきて、我が許へも対馬が伴ひ来たりて逢ひたり。彼の家に二十三日まで逗留して、対馬に咒術祈祷の事など語り聞かせ、膏薬を練り丸薬など教へて製しけるに、二十三日の夜に外より呼ぶ声の聞こえければ、寅吉きゝつけて出でけるが、暫くして家に入りたるを家僕の中に寝ながら聞きたるもあり。偖翌廿四日の朝、寅吉対馬に向かひて、『昨日の夜師の許より迎ひに遣はせたれば、今日筑波山へ参るべし』と云ふ故に、『然らば麓まで伴ひ行かむ』と云へば、『今日また迎ひ来るべし』と云ひ暫く物語などして在りしが、何気なく外へ出て行方しれず。決はめて迎ひの来つると共に登山したるべし。此の由を先生に申し給へと、対馬が云ひ遣はせて侍り」と云ふにぞ、また今更のやうに驚かれける。
斯くて童子の噂いと高くなりて、人々とよみて取々に云ひ罵るに、同じ江戸には住みつゝも、日々に来ざる弟子どもは、童子のわが家に居つるほどに来合せざる事を口をしく思へる者もいと多し。さて十一月の朔日には約せる如く、双岳山人また寅吉にも心ばかりの物を手向けて、発足の時に託せる事どもを約せる如く祈りける。然るに此の間は火事しげくて騒がしかりしが、二日の夜の七ッ時にも火事あり。家内をおこし覚まし、我も火の見に上がり見るに、本所のはてと見ゆ。其の辺には知音の人も無ければ、夜の明くるまでしばしも寝
(ねぶ)らはむなど云ふ程に、門を扣(たた)く者あり。家僕を出だして問はしむるに寅吉なり。やがて小門をひらきて内に入るれば、旅ともあらぬ状(さま)にて、笈筥(おいばこ)を背負ひ入り来たるに、家内の者ども、中にも女共は鬼物には非ざるかと、恐れ惑ふもげに理(ことわ)りなり。偖「いかにして今来つる」と問へば、「笹川に行きて五十嵐氏の許に二十三日まで居たるに、師より左司馬を迎ひに遣はされし故に、二十四日のあさ伴はれて山に登りたるに、師はことし讃岐国の山周りの鬮(くじ)に当てられたる故に、寒行は休みなれば、予(かね)て申せる如く、また里に出でよとの事なる故に、古呂明と左司馬とに送られてより只今いで立ち来たれり。始めの由あればまづ美成ぬしの家にものして、呼びおこしたれど『夜は金門開けざる家の定めなれば、明日来たれ』とて入れざる故に、こなたに来侍り」といふ。「能くこそ来つれ。いかに真柱の書と手簡は見せ参らせたるか」と問へば、「先生の云ひ含められし如く申し侍れば、師は書物の事も、手紙の事も、疾く知られたる状にて、唯よしよしと云ひて点頭せられ、我が賜はれる神世文字の書をば残らず披(ひら)き見て、『よく集めたるが、中に三字云々の異体を挙げ洩らしたれば其の由を伝ふべし』と云はれたり。七韶舞の事も、『汝短笛の持ちやうを図の如く教へたるは違へり。図の如く教ふべし。舞の足ぶみも、汝は右足より蹈み出す由を云へれど違へり。左足より蹈み出す舞なり。誠に切なる志ありて問はるれば、あやまたず教へよ。また此の書に合する臥竜笛浮金をも伝ふべし』と、臥竜笛の中のしかけをも見せて、具(つぶさ)に教へ遣はされたり」と云ふ。さて何くれと山の事ども探ぬる程に夜は明けたり。
毎朝の神拝をへて、己れは屋代翁がり寅吉が来たれる由を物語りに行き、健雄は美成が許へ此の由を告げに遣
(や)りぬ。そは寅吉が我がり来つる元の因(ちなみ)を思ひてなりけり。此の日来たり合ひて、寅吉がくさぐさの物語を聞きたる人々は、小嶋主、伴信友、中村帯刀、青木五郎治、笹川の正雄などなり。国友能当が仙炮の事を問ひ極めざるに、寅吉が帰山せる事を甚く歎き居つれば、また来つる由を消息すれば、五日に自作の風炮を持ち来たりて、寅吉にその仕掛(しかけ)を見せて、神炮の事を探ぬるに、相発して悟り得る事甚だ多し。此の時しも小嶋氏、屋代翁、荻原仙阿弥ぬしなど来合ひて、物語りの中に、寅吉が書を好まれしかば、今夜は多く飛白体の字をぞ書きける。然るに寅吉が兄荘吉勝手へ来たりて云ひけらく、「今日広小路名主何某の許より、我が坊の名主何某方へ云ひ遣はせたる由にて、家主をもて寅吉を連れて出づべきよし申し遣はせて侍り」と云ふ。寅吉そを聞きつけて物思ふ状(さま)なれば、屋代翁に其のよしをいひしかば、翁我に向かひて、「そは我が思ふ旨あれば、荘吉に『寅吉ことは、屋代殿より尋ね給ふ事ありて、日ごとに参れば、其の事すみて後に連れ行くべき』よし云はしめられよ」と云はるゝに、其の由荘吉に云ひ含めて帰しぬ。寅吉よろこびて「此の世の中にては、大名の門番と名主、家主ほど恐ろしき者はなし」といふ。皆々其の由を問ふに、「我いとけなくて大名屋敷に行きたる時に、したゝか叱られ、また何某とふ者の家主に店を追はれたる事あり。然るに其の家主を名主は叱る故に門番、家主、名主ほど恐ろしき者なく覚ゆ」と云ふに、皆々甚く笑ひたりき。
偖諸々帰られたるは、亥の刻を過ぎたり。けふは寅吉ひめもす諸人の応対、また書き物をも多くせしかば、己れその背をかき撫で、「けふは疲れたらむ」と云へば、取りつきて、「蜜柑を給はれ」といふ。「幾箇ほしき」と云へば、「尻に針ある虫の名ほど賜へ」と云ふ。故に「蜂か」と云ひて八つ与へたれば、悦びて此れより思ひつきて、「手近く有り合ふ物をもて、なぞをかけ給へ。解くべし」といふ。家の者ども口に出づるまにまに云ひかくるに、声に応じて悉く解きたり。其の中の五つ六つをこゝに記す。
  燭台の蠟燭 ひるの九ッ時  心はひが高い
  広嶋薬鑵  草津      心は湯が出る
  破れ障子  憎い子のあたま 心ははつてやりたい
  砕け摺鉢  小野小町    心はする事がならぬ
  人だま   神鳴り     心は光りてこわい
  土の団子  断食の行    心は食ひたくてもくへぬ
  狸の隠囊  押さへた盃   心はまた一ぱい
またかく世俗の才も有り。かくて其の夜とく、「据風呂
(すえふろ)に入れ」といふに、「なぞ面白し」とて立ちざるを、しひて入らしめたるに、唯徒(いたずら)のみして体をば洗はず出でたる故に、健雄が「烏の行水とは此の事ぞ」と戯れつゝ、逃ぐるを押さへて洗ふを、己れ見て「山人の行水」とかけたれば、「月夜」と解きたり。「其の心は」と問へば、「十五日にはえる」といふ。こゝになほ根問ひをすれば、山にて月々の行の時は、日々に湯に三度、水に三度入れども、常に身を清むる行水は、毎月の十五日ばかりなりと云ふ。此の夜のなぞどもは書きつけて、翌六日の朝たよりにつけて、屋代翁がり参らせたれば、翁もかく世間の才も有りけりと感じられけり。此の日来合ひて、問答せるは、松村平作(此は大坂人にて予が門人に成らむとてわざと大坂より来て塾中に居るなり)、野山種麿、佐藤信淵などなり。寅吉が議論の高上なるに、何れも舌をまきけり。
七日の夕つかた、屋代翁来まして、秘蔵せらるゝ、唐の則天と云ひける女王の書ける□□□□といふ帖本を寅吉に見せて、「此はいかに」と云はれしかば、寅吉ただ一枚を見て、「此は位高き女の書なり」と云ふに、まづ驚き、「年の頃はいくつばかりの時の書ならむ」と云はるれば、「七十歳前後なる時の書ならむ」と云ひつゝ、末まで手早に披き見けるが、「いづこか男子の書きたる字の交りて有りし」とて、本
(もと)へ巻き返して一行を見出し、「此の行は男子の書なり」と云へるにぞ、己れは更なり、屋代翁も甚く驚かれけり。然るはまづ此の帖は、かの女王が鳥虫飛白といふ体にて、此(ここ)には屋代翁ならでは蔵(も)ちたる人なく、寅吉がかつて見たる物に非ざるを、始めて見てかく目利きたればなり。則天といふは、唐の太宗といひし王の妻なりしが、夫の死にける後に云々(しかじか)して、別に国号を建て周と云へるが、その□□□□(万歳通天)と云ひける年に、みづから書きたる書にて、其時は□十□歳の時なり。また男子のかける行なりと云へる行は、彼の国の例として云々する例にて、誠に臣下の男子のかける行なればなり。
翌八日には、小嶋惟良ぬし、屋代翁、予と三人にて寅吉を伴ひて、山田大円がり行きぬ。然るは彼の人もかねて寅吉に逢はまほしき由を、小嶋主にいひ、殊に種々珍しき器ども持ちたれば、其をも見むとてなり。此の日山田氏に集へる人々十人余りなるべし。寅吉に書を乞へば、是れまで見ざる縄を結びたる如き字あまた、篆書の如き彼の界
(さかい)の字などを夥(おびただ)しく書きたり。種々の物を見るにつきて種々の物語りも出でける中に、阿蘭陀(オランダ)より来たれるオルゴオルといふ楽器を見て、「山にも見たる楽器にこれと似たるが有り」と云ひ出でたり。「此時の事 (二)巻六十五丁六十六丁にもあり」山田氏「それはいかに製れる物ぞ」と探ぬれば、下に記せる鉄の箱に笛六本を仕掛け、水をはりて肘金をまはせば、中なる水の湯となりて笛の鳴り出づる器の事を語り、此の因(ちなみ)に鉄の器に水をもり、鉄棒にてかきまはせば湯のわく器の事を委しく語り出でたりき。また此の時集へる人々の中に、臼井玄中といふ人に、山人の事を答ふ。是より屋代翁の言にて、小嶋主、予、寅吉共に桑山左衛門主へ行き、此(ここ)にても書を多く書かしめらる。屋代翁も筆とりて云々と云ふにぞ、女牛に腹をつかれたる心地したりき。
九日の日に或人
(松屋がこと)来たりて云々といひしかば、寅吉きゝて云々と云へるに、其の時居合ひたる松村平作、竹内健雄、守屋稲雄、岩崎芳(吉)彦などなり。松村が此れより前にもをりをり聞ける事どもを、古郷のみやげにせむと書き記せる物あり。(此を屋代翁、嘉津間問答と名づけられたり。)十日には、今井□□(一造)(呼名を仲といふ)、伴信友、岩井中務、山崎篤利、笹川の正雄など来たりて、種々の物語りしける因(ちなみ)に云々と云へり。皆々其の大議論を感じける。此の日屋代翁より口状をそへて、倉橋与四郎主始めて来られ、易の事の咄あり云々。また印相の事を問はるゝを悉く其の形を結びて伝へ参らす。十一日にも今井仲来たる。昨日の如き議論をなほ聞かむとてなり。種々物語りあり。十二日に倉橋勝尚ぬし来られて、なほ印相の事を探ねらる。此の時に印相の大議論あり。また此の日美成が許より「岩間山の近き辺なる知人の来たれるが、寅吉の噂を聞きて逢ひたきよし云へば、いかで遣はし賜はれ」と云ひ越しぬ。やがて其の人と遣はしたれば、其の知人は咒術など行ふ人にて、美成とりもちて寅吉に種々の咒術を教へしめたる由なり。其の夜は美成が許に泊りて十三日に帰りぬ。
十四日に松村平作が大坂へ帰るに、塾の者ども短冊など書きて別れを惜しみけるに、寅吉も日ごろ親しく交はりしかば、打ちふさぎて有りしが、己れに「今急に歌をよむすべを教へ給はれ」といふ。「何事を思ひて然は云ふ」と問へば、「人々の歌よみ給ふが羨しければ、我も詠みて贈らむと思ふ」といふ。己れうち笑ひて、「歌てふ物はしか急に詠み得らるゝ物に非ず」と云ふに、「然らば短冊一枚たまへ」と乞ひてと書きてぞ贈りける。人々見て「花といふ字か」など云ひけるに、「裡返
(うらがえ)して見たまへ」といふ。然して見れば松といふ字にぞ有りける。「いかなる意ぞ」と問へば、「また返して来給ふを待つこゝろなり」と云ふに、平作も甚く悦び、諸(みな)に暇乞ひして立出づるを、人々見送るに、寅吉も送り出でけるが、なほ別れをしき状(さま)にて、平作が門外まで出でたるを「しばし」と云ひて呼びもどす。「何事かある」と立帰れば、両手を出だし、平作が顔を押さへて其の鼻と我が鼻とをすりよせて、「これ鼻向(はなむけ)なり、恙なく帰りて、また春早く来給へ」といふに、皆々大きに笑ひつゝもいと哀れに覚え、平作も涙を浮かべてぞ出で行きける。
常のしわざ大抵かくをさなく可笑
(おか)しければ、来集ふ人ごとに愛しく思ふも理(ことわ)りなり。然れどわやくに徒(いたずら)なること誠に類ひなし。そは己れ思ふ旨ありて少しも逆らはず、気儘に捨ておけば膝(ひざ)にもたれ、肩に取付きて学事を妨ぐる事は更にも云はず、机前に居ては机のふちを噛み砕き、錐もて穴をもみ、筆をとりて鋒(さき)をもみ、小刀とりて硯屏(けんぺい)におく。雲根石、孔雀石など打ちかき、筆墨をけづり、すり墨をこぼし、灰を吹きたて、傍らにあるほどのもの悉く瑕(きず)をつけ、庭に出でて枝を作れる木草を折り、庭中をば、いつも素足にてあるき、高みへ上りて下には何物あるをもかまはず飛び下りて打ちこはし、また竹馬に乗りて泥に落ちたるを洗はず、席上を泥まみれとなし、張り調へて程もなき障子ふすまを引破り、小児のもて遊ぶ竹もて作れる紙(豆カ)鉄炮といふ物を自ら甚(いと)強く作り、小石を拾ひ入れてふすまを打ち破り、天井板をさへにうち抜くを、其はあぶなしと制すれば畏(かしこ)まりはすれど、直に忘れては人にもうちあて、既に健雄が物書き居たる傍らより、其の耳に小石を打入れ、大きに悩ませたる事さへ有りけり。細工ずきなる故に、彼(かれ)を作る此(これ)を作るとては、鉋(かんな)(のこぎり)などの類ひを再び用立たざる如く害なひ、台所むきの諸道具まで損なひ捨てたる物いと多く、家ぬちの者どもゝ稍(やや)あぐみて見ゆれど、己が愛しむ者なれば、何事も忍び居る状(さま)なり。帯も得結ばず、くるくると回して端を挟みをる故に、誰にまれ朝ごとに帯を結び遣はすを、結び果てざるに駆出すは常の事なり。またいつも寝所より帯も結ばず、かけ出ては直に誰にても取付きて角力を取らむとて、抓(つか)み掛かる。然るにわざと負けては悦ばざる故に幾度となく投付ければ、己れが負けたるかぎりは果てしなく取らむといふ。遇(たま)にも勝つときは悦ぶ事限りなし。始めて逢ひたる人をばいつも暫く其の面をうち守りてあるが、意にかなへるは、始めて逢ひたる人へも、其の肩馬に乗りなどす。世に甚(いた)くわやくなる子をば天狗の巣立ちの如しと云ふ諺のあるは、かゝる状よりは云ひ始めけむ。 
また此のほど、やごとなき御辺に時めく医師の三人四人と聞こゆるが、寅吉に逢はむとて、二人来たれる日ありき。前に来たれる医師
「木村玄長悴」の何事をか問はるゝと思へるに、「身の上いかに有らむ、病難は有るまじきか」など云ふ事を問ひしかば、甚く心に合ざる状(さま)ながら、可なりに答へたるを、後に来たれる医師「太田玄達」も同じ状に、身の上の事ども、病難の事など尋ねて云ひけらくは云々といふに、答へはせずて座をたち徒(いたずら)するを、己れ傍らより心苦しく、「まづ座に居て答へ申せ」と引居(ひきす)ゑれば、止む事を得ざる状にて云々と答へて速やかに立ちて、かの紙(豆)鉄炮を持ちて打散らかし遊ぶを、「あぶなし静まれ」と制する詞の下に、過(あやま)りて柱に打当てたるむくろじ程なる小石の、それて医師の後首にぞ当たりける。医師胆を冷して手をあげて首を撫づるに、己れ堪へがたく心苦しく、其の罪を謝して寅吉を叱り退くれば、医師は苦笑ひして、「実(げ)にも噂に違はぬ徒(いたずら)なり、然るによくも養ひ置き給ふ事」と云ひて帰られき。後に云々と問へば、寅吉云はく云々と云ひき。
十七日の夕方に屋代翁がり寅吉を伴ひ行く。然るは阿部備中守殿より、近習に使ひ給ふ人、二人を遣はせて、寅吉が事を尋ね給へばなり。十六味保命酒一とくり
(徳利)、百花鏡を賜ふ。二人の人たち種々の事を尋ぬるに、悉く答へたり。己れと屋代翁といたく勧めて、七韶舞を教へ、太刀かきを望みて見せつ。十九日にも屋代翁がり寅吉を伴ひ行く。然るは大久保加賀守殿より近習二人を遣はせて、寅吉を見せ給ひ、酒中花、蜜柑など賜へり。二人の人たち種々問ふを大抵は答へたり。
廿日の夕方に荻野梅塢子
(ばいうし)来たりて寅吉が事を語り、「彼は是れまで神仙に使へたりと云ふこと妄説なり、熟々(つらつら)(かんがみ)るに、怜悧抜群の者なれば、其処彼処(そこかしこ)を徘徊せるほどに聞きたる事を、幽境にて見聞きしたりと云ひ触らすなること疑ひなし」と云ふ故に、己れ云ひけらくは、「中には聞き伝へたる事を語るも有るべけれど、総ては中々然る事とは思はれず、七韶舞のこと、仙炮の事などは、かつて此の世の事とは思はれず」と云へば、荻野氏云はく、「其の事どもは皆妄想なり、怜悧なる童子には妖魔のわざにて然ること有るものなり。我も童子なりし時は、世にも神童と云ひ囃(はや)されたる程の事にて、目に見ざる事物の有り状(さま)をいひ、まだきに晴雨を知り、リク(気)トさへに見えたり。其を人の誉むるが嬉しくて、今思へば杜撰妄説もいと多く吐きたりしなり。彼の童子もその如く、人に聞きたる事を山人に習へりと云ひ触らすこと、既に我が始めて逢ひたりし時には、かつて印相の事などは知らざりしかば、悉く我が教へたるに、速やかに覚えて其の後或家に伴ひたれば、其の主人に我が教へたる印相の事を元より知れる状に委しく語れり。是れをもて此の世に聞ける事を幽境に見聞きしたる事の如く云ふこと知るべし、疾く追ひ出しね」と勧むるに、己れもやゝ心惑ひていらへもせず有りけるに、寅吉次の間にて我を呼ぶ故に、立ちて「何事ぞ」と云へば、「今こゝにて聞くに、荻野氏の言甚(いた)く心得がたし。我かつて妄談を云へる事なく、彼の人に印相の事を習へることなし。美成の許にて始めて逢ひたりし時に印相の尊き由をいひて、『彼の界(さかい)にも印相を結ぶ事ありや』と問はれし故に、『尊き由は聞かざれど、此れも世にあるわざなれば知り弁へずては事欠くる事あり、覚えをれとて教へられつ』と云ひて、彼の人の望まるゝ儘に、知りたるかぎり結びて示(み)せたるに、甚く感じて、懐紙を出して書き記し、此の後にも折々此の事を問(たず)ね、かゝる事どもをよく知れるが惜しき由にて、僧になれとは勧められしなり。此は美成ぬしの委しく知られたる事なり。然れば先生の客人なれど聞き捨てがたし、此の事明りを立てゝ恥見せむ」と、眼ざしを変へて甚く憤るを、己れは更なり、家内の者もさまざまに宥(なだ)めて静めたり。後に此の事美成に尋ぬれば、誠に寅吉がいふ如くにぞ有りける。梅塢(ばいう)のいかなる心にて、右の如く云へるにや、己れも今に心得がたくぞ覚ゆる。
廿一日に寅吉みづからリンの琴のひな形を製り終へて、屋代翁へおくり、此より松下定年の許へ伴ふ。こゝに滝川主水
(もんど)とかいふ神道者来合ひたるが、あるじの寅吉に書をかゝしめ、種々幽界の事を問ふに答ふるを聞きて、尻目にあざ笑ひて、傍らの人に「高津鳥の災にあへる童子よ」といふ声を聞きて、笑ひながら「君は神職の人にや、中臣祓(なかとみのはらえ)の詞にある高津鳥を、天狗の事と思ひ、我をそれに取られたる者と思はるゝにや、我はさる卑しき物に取られたるに非ず。殊に彼の詞なる高津鳥といふは、鷲の類ひを云へるよし山にて聞きたり」と云へば、神職面を赤らめて詞なし。幽界に誘はれたるに、神と山人と天狗との差別あることを弁へざるは、すべて天狗のわざと云へば、かの神職もしか思ひ、殊に天狗を高津鳥と思ひ誤れるはいとをかし。さて家に帰れば留守なりし程に、吉田尚章が(呼名を太左衛門といふ。内藤紀伊守殿の内人にて、余がふるき弟子なり。)寅吉に逢はむとて、若き医を伴ひ来つるに居合はざれば、内の者ども出でて挨拶しけるに、其の医師も寅吉が事を探ぬるに、天狗の子とのみ思へる状(さま)にて、「鼻のさまはいかに、翼もやゝ芽ぐみ侍るにや」と云へりしかば、内の者ども答へにこまり可笑しかりしとぞ。「此の日は外も内も同じ様なる事の有りし」と、寅吉も甚(いた)く笑ひける。
廿三日に上藩
(番)へ出でて目付役所へ、寅吉を我が家におく由をとどけて帰る。さるは世間に寅吉が噂いと高き故に、目付役より内意ありてなり。今日も吉田尚章が来て寅吉に逢ひて、書を望み種々の尋ねあり。此の時内藤殿の領所越後国□□にて□□□□といふ産土神(うぶすなのかみ)に□年ばかり使はれて帰されたる童子の物語あり。此は□年前に帰りたるが、産土神に習へりといふ文字を書くに、寅吉が書に似たりと云へり。後にその書二枚を人に借りて遣はせたるを見れば、実(げ)にも凡ならずぞ見えける。其の童子今は二十歳ばかりにて、生国に在りといふ。此の夜に屋代翁と美成と来合ひたり。越後国蒲原(かんばら)郡小関村、上椙六郎篤興来たれり。屋代翁寅吉に向かひて云はれけらく、「汝は病には咒術を行ふよりは、藥を用ふるがよしと云へども、我は云々」と云はれしかば、寅吉も感服したり。さて今夜も又皆様と角力を取らむと望む。酒宴の上なれば己れは更なり、翁も美成もその相手となる。
廿五日の申の時より、寅吉は兄荘吉に伴はれて、東叡山まへ広小路なる名主、岡部何某が所へ行く。然るは始め童子の噂世に高く、事を弁へざるきはゝ、甚
(いと)怪しき物にいひ囃せるを聞きし故に、始めは糾(ただ)し明らめむとて、荘吉に連れ来たれと度々云ひ遣はせたるが、荘吉は其の時ごとに我が許へ来たれるを、前に屋代翁のいひ置かれたる如く、いつも云ひ遣りしかば、後には名主も呼びあぐみて、荘吉が心をとり、物など取らせていかで伴ひ呉(く)れよと、切に頼み遣はせける由いふにぞ、今日は是非なく遣はしたるなり。然れど寅吉、日ごろ名主をまたなく怖きものに恐るゝが上に、名主より荘吉に、寅吉が来る日をその前日に告げてと頼みたる由なれば、決はめて人多く集へて待るべく、そが中にいかなるをこ人か有りて、彼をなじらむも知るべからずと案じられ、其の出で行く程より、己れは岩間山の方にむきて、「彼もし人に恥見せられば、我もいと口惜しきを、いかで恥見ざるやう守り給へ」としばし祈念してぞ在りける。
然るに酉の刻すぐる頃に、寅吉怒れる状
(さま)ながら又快気なる面もちにて駈け戻る。後につきて荘吉も来たりぬ。「いかに」と問へば二人が言に、「侍の袴を著けざる状なる人々、名主たちなど凡て二十人ばかりも二階に来集ひたる中へ寅吉を出だし、思ひ思ひに種々の事ども問ひつれど、例の如く何を食ひて居る、雨降りにはいかにするぐらゐの問ひにて、其の煩(うるさ)く思へるが中に、真言僧と見ゆる僧の、三衣(さんえ)を厳重に著(き)かざりたるが来たり居て、我を卑しみたる状に物言ひけるが、進み出でて印相の事に及び、何の印相はいかに結ぶぞ、某の印相はいかにと問ふ故に、山にて見聞きしたる状(さま)に種々結びて見せけるに、其を元より知りたる状に点頭するが少し可笑しく、摩利支天の印相を問ふ時に、寅吉思ひつき、わざと非ざる印相を結びて見せたるにも点頭(うなず)きたる故に、此は元より知らざる印相を、知りたる状に物する僧と悟りぬ。然るは山にて見聞きたる印相は、世の僧修験者などのするとは大かた異なるを、此の僧の知りて在るべき由なければなり。然る程に祈禱の事をも問ふを、そこそこに答へたるに、其の僧終(つい)に寅吉をなじり出て、『汝の知りたる印相はみな道家の印相なり、祈禱などの事は大かた荻野梅雨が教へたる由、かねて聞きたり。偖(さて)また汝は仏を嫌ひ神を尊むといふ事をも聞きたれど、仏ばかり尊き物なければ、神を尊ぶ事を止めて仏者になるべし、吾が元より神を嫌ひなる故に、伊勢大神宮また金金(毘)羅をさへに、したゝかに悪く云ひしかど罰あたらず、此をもて神を尊ぶは益なき事を知るべし』と云ふに、寅吉甚く怒りを起こして、自然に声も荒くなりて云ひけらく、『そこは僧衣をのみしか厳重に著飾れども、一向に事を弁へざる売僧(まいす)にこそは有りけれ。然るは先に我に印相の事を問へる故に、山にて見聞きしたる如く形を結びて見せたるに、悉く元より知りたる状に点頭(うなず)きたれど、我が結びて見せたる印相は、大かた此の世の僧修験者などの結ぶとは異にて、往古の真の状の伝はりたるを習へるなれば、足下たちの知らざる形なり。然るを道家の印相なりと云へるは舌長し。此の世にて、そこ達の物する印相は、本(もと)を知らざる世々の僧らが、次々に云へ謬れるにて、本の真の状に物する僧修験者を一人も見たる事なく、人々各々結びざま違ひて、何れを真の印相と決むべき由なきが、元にて習ひたる我が印相を、違へりと云ふは、かく人多き中ゆゑに、我をかすめて人に物知りめかさむとの心なるべけれど、今我が摩利支天の印とて結びたるは、真の印に非ず、汝知らざる事を知れる顔にもてなすが憎さに、非(あら)ぬ形を結びて試みたるなり。然るを汝うなづきたるは、真の印を知らざる事は更にも云はず、汝が輩の常に結ぶ誤りの印相をさへに知らずと見えたり。また祈祷などの事を、荻野氏に習へりと聞きたるよし、そは何者かしか云へる、先ごろ平田先生の許に、荻野氏の来て物語らるゝを聞けば、彼の人我に印相を教へたる由いへり。然れば其の辺より然る説を聞きて云へるにや。山崎美成といふ人に探ね見よ、荻野氏はかへりて我が印相を見て、返す返す問はれたるをや。偖また我が神を尊ぶ事を異見がましく云へども、仏はもと此の国の物に非ず、神は此の国の物にて、我も人もその御末なる故に、順道をたどりて、其の道を第一とすること、我が師の教へにて、これ真の道なり。汝こそは其のよる仏道の事も生知りなれば、早く還俗して神の道に帰るべし。また汝は神を嫌ひなりと云へども、汝も仏の子孫には非ず、神国に生れたる人として、神を嫌ひといふは、此の国を嫌ふ理りなれば、此の国に居らぬがよし。僧と云ふ者は、大かた汝が如く、心ひがみて穢(けが)らはしき者故に、我は元より僧を嫌ひなり。偖また天照大神、金毘羅神などを詈り奉れるに、罰当らざるをもて、神には利益なしと云へるが、神は大らかに座(ま)します故に、汝が如き穢れたる者に罰を与へ給はざりしならむ。もし誠に神はいかに申しても罰の当らぬ物と思はば、今試みに大神宮、金毘羅宮などを詈りて見よ、我こゝにて彼の宮に祈り訟へて、忽ちに御罰を蒙らせてむ』と、散々に詈りて帰り来つ」といふ。猶その末の事を問ふに、よくも答へざれば、又兄に問ふに、「我は玄関に居たる故に、委しくは知らざるが二階にてしたゝか人を詈る声きこえたるが、暫くして階子(はしご)をかけおり、玄関に出でて『帰らむ』といふ、後より家あるじと、二人三人送り出でて、『また重ねて』といふを聞き入れず、『かく不興なる家にいかで二度(ふたたび)来たらむ』と、すげなく云ひて飛ぶが如くに駈けて帰るを、吾は後より『静かに』といへど、駈ける故に追ひかけて途なる盛土につまづき、膝をかくすりむきたり。名主の所にて、寅吉が如く荒ぶる者を遂に見たる事なし。定めて後にて、我に尤(とがめ)あらむ」と舌をまきてぞ語りける。
後の事は知らねど、まづ恥見ず帰れる事を、己れも悦びて在りけるに、二三日すぎて、佐藤信淵わざと来たりて云ひけらくは、「去る廿五日の夜に広小路名主の宅にて、寅吉が甚
(いた)く僧を詈りたるよし、其の席に居たる何某といふ者に聞きたり。其の人は甚く感心して語りしかども、然る事ありては、ますます人に憎まれ謗(そし)らるゝ事なれば、此の後にも然る事なきやう、禁(いまし)め給へ」といふにぞ、其はいかに聞きつると問へば、始め終りは、兄弟が言の如くにて、「彼の僧の神を詈りても罰は当らずと云へるを尤めて、『今我が前にて詈り見よ、大神宮、金毘羅神に告げて今立ち所に罰をあて給ふやう祈らむ、いざいざ』と責めけるに、満座の者ども興をさまし、甚く恐れて、僧に向かひ、『此の子は彼の界(さかい)に使はるゝなれば、いかにも祈らば忽ちに験(しるし)あるべし、出直し給へ』といふに、其の僧まけ惜しみの苦笑ひしつゝ、『しか仇をせられては迷惑なり、我も神の道を知らざるに非ず、今汝に其の道を説き聞かせたく思へども、「魔なりと云へること」 三衣(さんえ)を着ては三宝(さんぼう)に対し恐れある故に、説くこと能はず』と云ふに、ますます怒り、『いかにも然る穢らはしき物きて、神の事を申しては恐れあり、但し汝はその帰依する所の仏道をさへに能くも知らざるを、いかで神の道を知るべき、其はただ負けをしみの詞なり、もしそれ負け惜しみならずば、いかに一事も説き見よ、汝が如き売僧(まいす)のいかで誠の事を知るべきや、大勢の中にてかく云ふを口惜しとは思はざるか、いざ神の道を講釈せよ』と、返す返す責めけるに彼の僧の顔は火の如くなりて、何やらむ、くだらぬ言をつぶつぶ云ふを、寅吉なほ甚(いた)く詈りしかば、家あるじと今一人、寅吉が傍らに居たるが、すかし宥めて、『あの御僧は格式高き人なれば、然(さ)な云ひそ』と制するを聞き入れず、『僧の徳といふものは三衣の厳重なるや、寺格などによる事に非ず。此の僧あたまを丸めて、三衣は立派に著かざれど、其のよる所の仏道も知らず。況(ま)して神の道を知らずして、神を悪口し、我に恥を与へむと為たる穢らはしき坊主なれば、いかに云ひたりとも何てふ事かあらむ。大抵世の出家といふ者、俗家を欺き、物とりて衣服を飾り、寺格などにほこりて人を見下すが憎きゆゑに、我は元より坊主を悪(きら)ひなり。我が坊主を嫌ひと云ふ事は、兼ねて聞き伝へたらむに、切に我を招きつゝ、何とてかゝる売僧(まいす)をよび置きて、我に恥与へむとせられしぞ。我が師は、釈迦よりも遥か前より、世に存(なが)らへ給ふが、常の物語を聞くに、仏道といふ物は、愚人を欺きて、釈迦の妄りに作れる道なりと聞きたり。思ふにこゝに集へる人々は、大かた仏ずきの人々にて、神の道を知らざる故に、世間の訛(あやま)れる評を聞きて、我を怪しみ試さむ為に、此の坊主をよび寄せたるならむ』と云ふに、人々すまひて『然る事には非ず、彼の御僧は今夜不意に来たり合ひたるなり、まづ怒りをしづめて』と、菓物など進め、紙筆を出だして書を請ふに、常の小さき筆に半紙をそへたりしかば、『紙も筆もけちなり』と喃(わめ)きつゝ、硯に厳しく突きて深くおろしたれど、猶細く、殊に怒りの最中なる故に、能くも書かれざりしと見えて、『吾は何方へ出ても、かゝる悪しき筆もて書きたる事なし、筆のもそつと大きく宜(よ)きを出し給へ』といふに、家内に尋ねて出したるも、なほ小さけれど、其をとりて、めつたに六七枚かき散らして、『紙筆ともにあしく、殊に坊主のをる故に、今夜は不出来なり』など喃く間に、膳を出してまづ寅吉にすゝむるに、『彼の坊主が居ては穢らはしくて食(めし)もくへず』といふに、是非なく、主人をはじめ、人々かの僧に、『此の子は出家を嫌ふといふ事かねて聞きたり。貴僧のおはしては、この怒り静まるまじければ、帰り給へ』といふに、彼の僧はしぶしぶに立ちて、居(す)ゑたる食(めし)をくひもやらず、なほ捨語(すてことば)に負けをしみを云ひつゝ、階子をおりて帰れるに、寅吉はなほも怒りの顔色とけず、世人の神道を知らず、仏道に淫すること、出家の不行状なる事など、喃きつゝ一椀の食に菜を残らず食らひて、物付きたる状に、(めし)を九椀かへて食ひたり。人々『余りの大食なり。すぎまじきか』と云へば、『(めし)にあたると云ふことは無き事なり』といふ。またあるじ傍らより、『何ぞ心にかなへる菜をかへて』と云ひしかば、鯛の焼物の替りを請へるには、甚く困りて、暫くして密(ひそ)かに調じたる状なり。また柿と蜜柑とを、盆に三四十ばかり盛りて出しけるに、其は彼の僧と問答の間に、謾(みだ)りにとりて皆食ひ尽せる故に、また同様に盛りて出したるに、其れをも二十ばかりは食しぬ。かくて僧と問答の間は、目はいとど大きく光りて別人の如く見えて、座中の人々冷(さ)ましく覚えしとなり。さて食事をはると、早帰らむと立上がるを、人々なほ心をとりて、『しばし』と止むれど止まらず。『かく不興なる家に長居は好まず』と云ひて、暇も請はず、階子(はしご)をおりて帰りつ」と、舌をまきて語りしと云ふに、己れも始めて其の時の事を委しく聞きて、其は決はめて双岳山人の幽より守護して然る振舞ひを為さしめたる物ならむと悟りぬ。 
かくて後に、その僧は何者といふこと聞きまほしくて、此の事美成に語りしかば、美成が因
(えにし)を求めて探りたるに、下谷金杉町なる真言宗の修験者、真成院といふ者にて、今流行(はや)る江戸風の仏学をものする才僧なりと言へり。さて同月廿六日寅吉が兄荘吉来たりて云はく、「名主がたにて昨日寅吉がものせる時に、機嫌を損なひて帰れる事を快からず思ひて、いかで再び伴ひてと請ひ遣はせて侍り」と云ふを、寅吉きゝて、「我決はめて彼の家へはまた行かじ」と云ふを、荘吉わびて、己れに云ひけらく、「弟がかく申す上は力無けれど、我は名主の支配下に住む者なれば、然は云ひがたし、何卒こなたの御弟子奉公にして賜はれかし、然もあらば名主より呼びに遣はせたりとも、其の由を云ひて断り候べし、然もなくては支配下の我ゆゑに、断りを云ひがたし」と云ふにぞ、実に然(さ)る事に覚えて、此の事屋代翁と議りけるに、「苦しからず荘吉が願ひの如くし給へ」と云はるゝ故に、兄より例の如く諸色まかなひ、弟子奉公の証文とりて、今まで著たる汚き服物を脱ぎ替へさせ、新しき布子、羽織袴、大小なども与へて、我が家に置く事と成りしかば、侍の形になりしとていたく悦びぬ。
さて此の夕がたに美成来たりて、「寅吉わが方に居たりしほど、大関侯の奥方の七年がほど悩まれし癪
(しゃく)を、ただ一度まじなひの符を奉りつれば、直れる故に、頻りに見たく思ひ給ふ由なり。また水戸家の立原水謙(翠軒)翁も、寅吉が事を聞きて逢ひたしとて我が家に尋ねられたれば、今日伴ひたき」よしいふ故に、遣はしぬ。立原翁甚く悦び、書をも多く書かしめ、種々の事を尋ねて其の答へを感ぜられしとぞ。さて大関侯へも伴ひ、夜に入りて連れ帰りぬ。水謙翁後に、屋代翁に語られけるは、「世の生漢意(なまからごころ)なる輩は、此の童子の事を疑へども、我は幽界に誘はれたる事実を、目のあたり数々見聞きたる故に、一点も疑ふ心なし、また誘はれて彼の境に行きたるには非ねども、神仙に薬方を授かりたる者も正しく見たり。其は水戸の上町といふ坊に、鈴木寿安といふ町医の子に、精庵と云ふ者あり、今は三十歳ばかりなるが、十五六歳なりける或時に、容貌凡ならぬ異人忽然と来たりて、某の日に下総国神崎社の山に来たるべし、方書を授けむといふに、辱(かたじけな)しと諾しつれど覚束なく覚えて、其の日行かざりしかば、また或日その異人来たりて、何とて約を違へて某日に来たらざりしぞ、某の日には必ず来たれと云ひて帰りぬ。爰(ここ)に精庵不思議に思ひつゝ、約せる日の前日家を出て、神崎社の山に至れば、かの異人まち居て一巻の方書を授けて、返す返す人に示(み)する事勿れと禁(いまし)めて帰しぬ。其は○○病の薬なり、用ふるに従ひて功を成(なし)しかば、此の事遂に侯庁に達(きこ)えて、役人中より其の一巻を出だし見せよとありけるに、異人の禁(いまし)めを申したれど、聴き入られず、是非なく役所へ出だす事となりける。其の前日に家に紙の焼くるかほりす、此彼(あれこれ)と見れど知れざれば、近き辺の事ならむと云ひて有りけるに、翌日役所へ、彼の一巻を持出さむと、納めたる所を見れば、彼の方書はみな焼けて少しも残らず、殊に奇(あや)しきは、反故もて包み置きたるに、其の包紙はくすぶりたるのみにて少しも焼けず有りけり。家内大きに驚きて、此の由を申さば偽りと聞こし召さむかと、甚く心を痛めけるが、是非なく其の焦(こげ)たる包紙の反故をもち出でて右の由を訟へたる事あり。神仙の不測かくの如くなれば、寅吉童子が事は疑ふべきに非ず」と語られしとぞ。然すがに章(彰)考館の総裁とありし人とて、よくも弁(わきま)へられたるかな。
廿七日に伴信友来たりて、夜に入るまで予と共に種々の事を探
(たず)ぬる。そは云々の事などなり。此の日山にて、師の夜学するに用ひらるゝ器の事に及びぬ。そは山に月夜木とて、十五六町ばかり放ち見るに、光る木あり。其を細かにして硝子をかゝる形に吹きたる中に入れて、机上に置くに、夜光の玉といふ如く光る物なりといふ物語を為出して、「今その器を作らむ」といふにぞ、「然る木は現世にいまだ見たる事なし、夏になりて光木の出づるを待ちて製せよ」と云へど、何事にても云ひ出しては其の事のみを打ち置かず物せむとする性急ゆゑに、今はなき物と得心しつゝも、「山にては夏に限らず何時にても有り、然れば此の世にも尋ねてなき事は非じ」とて、来る人ごとに尋ぬるにいと煩(うるさ)くぞ覚えける。さて此の事に就きて可笑しき事ありき。然るは其の十日ばかりほどは、余りに光木を欲しける故に、稲雄が戯れて、「わぬしは光木をもて夜光の器を拵(こしら)へむとすれど、我は元より神の御霊によりて、この軀に夜光る物を持ちたれば、然る器は入(要)らず」と云ひしかば、「其はいかなる物をか持ちたる」と問ふ。稲雄わざと驚きたる状して、「わぬし程の人の、此を知らざるか」と云へば、「誠に知らず、其は何物なるぞ」といふ。稲雄すまひて、「此は謾りに云ひがたし」と云へば、「強(あなが)ちに聞かむ」といふ故に、稲雄うべしげに容を改めて、「産霊(むすび)の大神は、我が大人(うし)の常に人に説き諭(さと)さるゝ如く、上なく尊き神にて、其の産霊の徳によりて、かく人を造り成し給ひ、人体の上て方には眼をつけて昼の用を弁へしめ、下つ方には睾丸(きんたま)をつけて夜の用を弁ぜしめ給ふ、いかに尊き御徳ならずや」と云ひしかば、寅吉うち笑ひて、「其は何さまにして夜の用を弁(わきま)ふぞ」といふ。稲雄云ひけらく、「其の用ふる状は、譬へば闇なる所にて物尋ねむとする時など、褌をかゝげ睾丸を手に握りて、ゆらゆらと振るへば、小さく電光の如き光りきらめきわたる、其の光りにて用を弁へらるゝ事なり、此は誰にてもしかする事ぞ」と云へば、寅吉云はく、「そは偽りなるべし、我が睾丸のつひに光りたる事はなし」と云ふ。稲雄笑ひて「然らば振り試みたる事有るか」と云へば、「いまだ試みたる事はなし」と云ふに、「山人たちの、此の事を教へざるはいと麁略(そりゃく)なり、若しくは山人の睾丸は光なきにや」など不審(いぶか)しみつゝ、真顔にいふを、寅吉真信(まこと)にうけて、「然らば夜になりて試し見む」と、日のくるゝを待ちけるが、其の夜闇き所に行きてしきりに振りたれど光り無かりしかば、腹を立て稲雄に攫(つか)みかゝり、「偽りする事は神の甚く悪(にく)み給ふ事なるを、能くも我をば欺きたる」と云ふに、稲雄なほも欺きて、「其は合点行かざる事なり、人として夜に睾丸の光らざるは無きが、わぬしの睾丸のみ光り無かるべき謂(いわ)れなし、若しくはいまだ毛の生えざるには非ざるか」と云ひしかば、寅吉面を和らげて、「毛の生えざる程は光りなきか」と問ふ。稲雄答へて「睾丸の光ると云へど、実は毛にも光りある故に其の光りと互ひに映じて、光りを放つことなり」と云へば、「実に然も有るべし、我が睾丸にはいまだ毛の生えざる故に、光りなき物と見えたり、然は知らず子の偽りせると思へるは、我が誤りなりけり」と云ひて、其の後は毛の生えるを待ち居る状なりとぞ。此は後に聞きたるが、甚(いと)愚かなる事の、よく思へば、実は己が怜悧のすぐれて、窮理に心深き故に、かくは欺かれしなり。然るは是れより前に人々集ひて、人の髪の毛より火いで、また火気つよき人は其の衣服よりも火の出づるものなる事、また黒猫の毛を闇なる所にて逆に撫づれば、火の出づる事など、語りけるを、寅吉かゝる事聞きては、必ず試し見る性質なれば、我が家に畜(か)ひおく猫は黒き故に、そを捕へて闇き所にてかき撫でたるに、火のきらめき出でしかば、甚く悦びて、常に制すれど、わざと戸をたて、屏風を引廻しなどして、猫の逃げむとするを捕へて撫でけるが、此を山人天狗などの体中より火を出すなどにも思ひ合せて居つる故に、己が心と欺かれたるなり。
廿九日に越後国より、戸田伴七国武といふ、己れが説を信ずる者来たり宿りて、道を問ひけるが、これいと猛き荒男にて、髪、髭は生えたる儘にて、髪をかき上げて笄
(こうがい)と櫛をさしたり。其の形状を寅吉つくづくと見て、「古呂明の顔の柔和になき様なる顔なり」といふ。さて此の男国々をいはゆる武者修行にめぐりて、勝ちも負けもしたる事ども、また神主、出家などと、数々議論をも為たる咄など大音に語りけるが、腰なる提げ烟草入れを取出して、「この根付けはとある修験者と議論して、勝ちたる時に取りたる本尊の聖天(しょうてん)なるが、ろくろぎりにて穴をあけて根付けに為たるなり」と云ふ故に、己れ余りなる事に覚えて、然る英気をくじかむと、態(わざ)と手に取らず、「子はよくも然る穢き物を腰に付ける事かな、余は手にとる事は更なり、目に見る事さへ汚らはしく思ふなり。然るは古学に志を赴くる者は、まづ心に真の柱を立て、常に神の御稜威(みいつ)を受賜はるべく願ふこと故に、身体を清浄に保つべきわざなり。然れば仮初(かりそめ)にも神の悪(きら)ひ給ふ、然る枉々(まがまが)しき物など体に付くべき事に非ず。そは伊勢両宮の神事には更なり、朝廷にても重き神事を行ひ給ふをりは、仏法ざまの事を忌み蕃客の来たれる時、また其の帰れる後にも、塞(さい)の神の祭を為して蕃国の妖神(まがかみ)を追ひ退け給へる古の道を思ふべし。然るに其の古道によりつゝ、然る妖々(まがまが)しき物を身に付けると云ふ事や有るべき。さて余も覚えある事なるが、此の道に入立ちたる程は、外国々の道風なる事どもは、憎く堪へがたくて、子のやうにせま欲しく思ふものなれど、其は荒魂(あらみたま)のすさびにて、長(おさ)らしからぬ態なれば、唯々一人学問して徳行をつみ、願はくば著述をして、自然とその徳化の普く世に及ぶべく勤むる事肝要なり。子の如く荒(すさ)びて二人三人に勝ちたりとも、其の徒も決はめて心よりは服せず、返りて謗(そしり)を招くわざなり。世に一升入る陶器に一升入れば鳴らざるを、中ばに入りては鳴るといふ譬へあり、しか荒び鳴りては、其の譬へを引いていふ人も有るべし。いかで其の像を海にも川にも捨てよかし」と云へば、伴七甚く畏(かしこ)まりて、「実に辱(かたじけ)なき御諭なり、然らば此の像によく祟らぬやうに申し含めて、捨て侍らむ」といふにぞ、余も可笑しくなりて、「子はいと剛なる人と思へば、しか心弱き事をいふ。古学する者の、然ばかりの物に祟られむかと恐るゝ如き、云ふがひなき事やある。殊に其の聖天といふ物は、元より有名無実の物と思はるゝが、祈りて験ある事もあるは、妖魔遊魂のより憑きて見(げん)ずるわざと見えたり。凡て妖物は然る事あれかし、寄添はむ人の心に透き間のあらば、付け入らむと窺ふ物なり」といふ折ふし、傍らに田河利器、竹内健雄、寅吉も居たれば、「皆はいかに思ふ」といふに、利器と健雄とは、戸田に初めて逢ひしかば、聊か心をおき、唯(いら)へかねて在りけるに、寅吉は少しも心おかず、「誠に言ふ如く元より無き物と云へども、形を作りて祈り立つれば、妖魔の類より憑きて、種々の変を見ずるものぞと師も言はれたり。偖(さて)また其の像は海河へ捨つること宜からず、鋳潰すべき物なり。然るは海河に捨てたる物と云へども、遂に陸に上がる期(とき)ありて、網にかゝりなどもして上がる時は、霊像よとて、世の人は信じさわぐ物なりと云ふことも聞きたり。然ればまた後世の愚人を惑はすわざなる故に、鋳潰すに及(し)くはなし」と云へば、伴七も実(もっと)もと悟り、「然らば鋳潰して捨つべし」と云ひてぞ帰りける。
十二月朔日に塙氏の塾生佐藤甚之助来たりて、余にひそかに逢はむと云ふ。此は去年の夏より知る人なれば出でて逢ひけるに、「先頃より温故堂にて、をりをり屋代氏の言を聞くに、奇
(あや)しき童子ありて、幽界の事どもを語るが、君の常に説かるゝ趣に符合の事ども多きよし聞きたり。然る事侍るか」と問ふに、「実に然る事あり」と云へば、甚之助云はく、「其の事に就きて申すべき事あり。然るは此のごろ我が神学の師大竹先生がり物しけるに、何某といふ神職の来たりて、君を散々に誹謗しける中に、幽界の事を語る童子の事も、『平田は山師なる故に教へて言ひしむる事ぞ』と云ひ、また石笛の事をも云ひて、『彼の笛は神感にて得たりなど云へども偽りなり、我が知れる古道具屋の久しく持ちたるを請ひ求めて、しか云ひ触れたる故に、其の者は甚く怒り居る』よし語るを、大竹先生聞きていたく心苦しく思はれ、何某が帰れる後に、『我は平田といまだ知る人ならねど、今の世の神の道を盛んに弘むる人とては此の人なり。然るにかるゝ悪評をうくる態ありては、同じ道をたどる我らも共に心恥かしく、且つはいと惜しき事なれば、子は平田氏と知る人なり、行きて我が旨を伝へよ』と云はるゝ故に、石笛の事はかねて承り置きたれば弁へつれど、童子の事はいまだ旨を承らざる故に、この事申さむ為に来たれり」といふにぞ、己れ形を改めて、「誠に同志の徒(とも)どちは斯くこそ有るべけれ、大竹氏の我を思ひ給ふこといと辱し、然は有れど、彼の童子は己れ元より知る者に非ざりしを、前に山崎美成が許に居る時に、既(はや)く我が説と符合する事ども云ふ由を、屋代翁の聞き出でて、我を伴ひ問答せしめたるが始めにて、今は我が許に置く事とは成りしなれば、然るねぢけ人はよしいかに云ふとも、元より知る人ぞ知るぞにて、幽(ひそ)かに恥じること無ければ、何でふ事はあらじ、此の事よく大竹氏に謝して給はれ」と云へば、佐藤氏は心得て帰りぬ。
  己れは何ちふ因縁の生まれなるらむ。然るは藁の上より親の手に
 のみは育てられず、乳母子よ養子よと、多くの人の手々にわたり、
  二十歳を過ぎるまで苦の瀬に堕ちたる事は今更に云はず、江戸に
  出て今年の今日に至るまでも、世に憂しと云ふ事のかぎり、我が
  身に受けざる事は無けれど、是れぞ現世に寓居
(かりずまい)の修行
  なれど、世の辛苦をば常の瀬と思ひ定め、志を古道に立て、書を
  読み、書を著はし、世に正道を説き明かさむとするに就きては、
  目に見えぬ幽界は更なり、鳥獣虫魚、木にも草にも心をおきて、
  憎まれじと力
(つと)むれば、況(ま)して世の人には我が及ぶたけ
  の、所謂陰徳をつむを常の心定めとして、人はよしいかに云ひ思
  ふとも、幽
(ひそ)かに恥じる事はせじと、仮りにも人の為に宜(よ)
   
からぬ事を為たりと思ふことは無きに、上の件の如く作り言(ごと)
   
さへして、我を謗(そし)り憎む人も多かりと聞こゆるは、いかなる
  由ならむ。別に□□といふ人は、今までかつて名も面も知らぬ人な
  れば、憎みを受くべき覚えはなきに、然る作り言して誹ることは、
  いかなる意ならむ。また此の後に上総国中原村なる、玉依姫社の神
  主、弓削春彦が来て、我が許へ来ざる前にかねて知人なれば、□□
  が許に立ちよりけるに、余が事に及びて、大竹氏にて云へる如く、
  甚く謗りて、「『此のほど彼の童子は召し捕らへられ、平田も其の
  事にて御尤
(とがめ)を受けたり』と語りし故に、心ならず彼所(かし
  
こ)より急ぎ参りつ」と、余が事なき体を見て悦びつゝぞ語りける。
  彼の人のしか人ごとに我を謗り聞かすること、返す返す不審なり。
  余は彼の人に罪犯さずとは思へども、道の長手に這居る小虫を、心
  とはなく沓
(くつ)の下に踏み過(あやま)つ事も有れば、若しくは彼
  の人にもさる類の過ちはせざりしか覚束なし。もし然もあらば我過
  ちけり、思ひ宥めてと人々云ひつぎ給ひねかし。此の外にも童子の
  事につきて、我を誹れる人々多かる中に、「平田は自説を弘めむと
  して大妄説を作り、故鈴屋翁は幽界にて天狗と成られ、其の使者な
  る童子を遣はせて、年ごろ我が説きたる説
(こと)どもの、よく幽界
  の有り状に符合する由を云ひ遣はされたりと披露す、いと憎き事な
  り」と云ひふれ、或は「神世文字の書を著せるによりて、其の字を
  真
(まこと)の物にせむとして、幽界の字の事をも童子に教へて云は
  しむるなり」など云ひ触るゝもあり。又かゝる言を朋友弟子どもな
  どの聞き伝へて、然る人のさかしら故に我に思
(おも)ほえざる災難
  あらむかと気遣ひて、とく童子を逐ひてと勧むる人も多く、また常
  に我が許に来通ひつゝも、漢意
(からごころ)うせず幽界の理りをよく
  も心得ざるきはゝ、童子の言を疑ひ、世のさかしら言に率
(まじこ)
  らるゝも多かるに、己れさへもをりをり心のたゆたふ事も有りしは、
  実
(げ)にも人の口ばかり恐るべき物はなきなり。
二日に鈴木敬貞近ごろ久しく見えざるが来たれり。
(呼名を吉兵衛といひて、商人なり。)然るはこれが妻を常石(とわ)といふ、六十歳あまりなるが、老女には珍しく、夫と同じ様に元より仏道を嫌ひて神を尊み、余が説を信じて年ごろ来たり通ひ、講説を聞きたるが、性質強悍猛固なるに、決はめて美詞滑稽をもて夫の心を和らぐる才もありしかば、己れ戯れて於須女老嫗(おずめおうな)と名付けたるが、此のごろ甚く煩(わずら)ひて今をかぎりと見ゆるに、我が許に幽界に仕ひたる童子の来たり居て、種々語るを己れが信ずと聞きて、深くあやしみ、「『若しくは先生の学事の今弘まらむとするを妬(ねた)む妖魔の、然る童子を遣はせて、まづ師の旨に応(かな)ふ言を云はしめ、漸くに災難あらしむる結構には非ざるか』と、深く案じて『師に此の言を申し給へ』とて、今日わざと吾を遣はせ侍りぬ。彼が言も理りある事と覚ゆるを、いかに然る事と思ひあたり給ふ事は侍らずや」と云ふにぞ、己れ甚く感じて、「我も既(はや)くより然る心つきて、今も常に心をつけて伺ひ居れば、謀らるゝ事は非じ」とて、我が思ふ旨を委しく語り、「夢々案じ過ごすこと勿れと云へ」といひて帰しぬ。此は老嫗の言ながらも、実理に合へる物思ひなりけり。敬貞が帰れる後に、門人どもに此の事を語るを、寅吉きゝ居て、「前にも申せる如く親しく使ふる我さへに、師の邪正を知ること能はず、またかく成れる事の善きか悪しきか弁へねば、まして現世の人の然る疑ひは尤もなる事なり」と云へりき。(此の時始めて、於須売嫗が病の事をきゝて、尋ねむと思ふほどに、四日の日に死(みまか)りぬと告げ来たる。今際(いまわ)までも此のことを案じて在りしとぞ。)
三日に伊勢内宮の内人、荒木田末寿(すえほぎ)神主来たる。此は己が旧相識の人なり。(常の呼名を益谷大学太夫といふ人にて、故鈴屋翁の弟子なるが、所謂旦家廻りにとて、江戸に来たれるなり。)「童子の事を、彼是にて伝へ聞きたるに、いと不審(いぶか)しく思ふを、委しく聞かむ」と云ふ故に、此ごろ筆記したる物どもを示(み)せ、また寅吉が書を物する状をも見せけるに、此れも深く感じて行きけらく。「此の童子の仕ふるは、実に神仙の正しき物と見えて、いと穏やかに聞こゆるを、山人も国所によりては荒々しく人をおどし誑(たぶら)かす事と見えたり。然るは駿遠参あたりに天狗と聞こゆるは、多く手火など燭し連れて人をおびやかすを、常のわざとして、いと憎き物なり。往(いに)し文化七年の夏のころ、由ありて僕二人つれて秋葉の山を夜行せる事ありけるに、例の如く峰より峰に手火をいと数多(あまた)ともし、今遠山に見ゆると思ふに、やがて目前に来たりなどして驚かし、又は山鳴り、大木を抜き倒す如き有り状などして、おびやかしける故に、僕らが甚く恐れて進み得ざりしかば、己れ挟み箱に腰かけ居て大音に、
  安国と安らけき世に熒
(かがり)なす、かがやく神は何の神ぞも
と詠じて、『我は伊勢大御神の内人にて、神用にて此所を通るとは知らざるか』と呼ばはりしかば、手火も忽ちにきえ、林の動
(とよ)む事も止みたることあり」と云へり。


『仙境異聞』(上)一之巻 終

                                 
 

  

 

 

  (注) 1.   本文は、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』(子安宣邦 ・校注、2000年1月14日第1刷発行) により、(上)の一之巻を掲げました。
 ただし、本文中の会話等を示す鉤括弧(「 」『 』)は、読みやすさを考慮して引用者が付けたもので、文庫の本文には付いていません。その関係で、鉤括弧(「 」『 』)内の読点を句点に改めたり、会話文末の読点を省いたりしたところがあることを、お断りしておきます。
 なお、<『仙境異聞』(上)一之巻 終>も引用者がつけたもので、岩波文庫にはついていません。
 
 
    2.  文庫の本文には校注者・子安宣邦氏による後注が付いていて、読むうえで大変参考になります。また、巻末に解説(『仙境異聞』─江戸社会と異界の情報)もあります。      
3.  岩波文庫の底本は、『平田篤胤全集』第八巻(内外書籍、昭和8年刊)所収の平田家蔵本の由です。
    4.  上記本文の「おぼろおぼろ」「ざわざわ」「くるくる」「わいわい」などの繰り返し部分は、文庫では「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字になっています(文庫本文は縦書き)。  
    5.  寅吉の通った「岩間山」とは、茨城県岩間町にある「愛宕山」(標高305m)のことです。
 岩間町は、平成18年3月19日、町村合併により笠間市になり、岩間町という町名が消失したようです。愛宕神社の住所を検索してみると、西茨城郡岩間町泉であったものが、笠間市泉という新住所になっていました。

 なお、寅吉が初めに行った
山は、「常陸国なる南台丈(嶽)(なんたいだけ)と云ふ山なり。(此の山は、加波山と、吾国山との間にありて、獅子ガ鼻岩といふ、岩のさし出でたる山にて、いはゆる天狗の行場なりとぞ。)」とありますが、岩波文庫の注に、「南台丈=難台山(男体山)。筑波山塊東列山地の主峰。山頂に奇岩がある。難台山は愛宕山(岩間山)とともに古くからの修験の行場であり、周辺には多くの修験道系の寺院がある」とあります。
  → 参考:愛宕山周辺の地形図  
 
    6.  「篤胤歌碑」について
 
2001(平成13年1月に、茨城県岩間町の愛宕山に建てられた「篤胤歌碑」については、資料46に 岩間 ・愛宕山の 『「篤胤歌碑」について』 がありますので、ご覧下さい。
 「篤胤歌碑」は、 上に掲げた『仙境異聞 』の中の、篤胤が岩間山(愛宕山)に出かける寅吉に贈った和歌5首を刻した歌碑です。
  
 
    7.  『仙境異聞 』現代語訳というホームページで、『仙境異聞 』の全文を、現代語訳で読むことができます。
 
現在は見られないようです。2017年10月29日
 
    8.  上記の岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』に収められている「勝五郎再生記聞」は、武州多摩郡の農民源蔵の息子勝五郎という8歳の子どもの「生まれ変わり体験」の、同じく篤胤による記録です。  
    9.  平田篤胤(1776-1843)=江戸時代後期の国学者。国学の四大人(荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤)の一人。通称、大角・大壑。秋田藩士、のち松山藩士。江戸に出、致仕して本居宣長死後の門人となる。激しい儒学批判と尊王思想が特徴で、宣長の古道精神を拡大強化し、宣長系の正統派からは嫌われたが、中部・関東以北の在方の有力者に信奉され、一大学派をなした。その影響力はきわめて強く、幕末尊攘運動に大きな感化を及ぼした。弟子に佐藤信淵・鈴木重胤らがあり、著書に『古史徴』『古道大意』『霊能真柱((たまのみはしら)』『玉だすき』『古史伝』など多数がある。
 
<角川書店『角川日本史辞典』第2版(昭和41年12月20日初版発行・昭和49年12月25日第2版初版発行)によりました。なお、著書名その他、記述を一部引用者が補ったところがあります。 

 ○ 平田篤胤については、『国立歴史民俗博物館』のホームページに、参考になる記事があります。
 『明治維新と平田国学』展(第1回~第14回) [「ほっとひと息(展示の裏話)」のコーナー]
 
歴博プロムナード『平田国学と千葉県』
 
(以上のことは、備中處士様の管理する掲示板『九段塾/靖國神社の正統護持のために』の中のスレッド「平田篤胤大人遺文」から教えていただきました。)

 ○遠藤潤氏のブログに、 宮地正人編『平田国学の再検討(1)』についての紹介記事があります。(現在は見られないようです。2017年10月29日)
 
    10.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「平田篤胤」 の項があります。      
    11.  〇屋代弘賢(やしろ・ひろかた)=江戸後期の考証学者。幕府右筆。号は輪池りんち。塙保己一はなわほきいちに国学を、山本北山に儒学を学ぶ。該博な学識によって正続「群書類従」編纂に従事。蔵書5万巻。著「古今要覧稿」。(1758-1841)
 〇国友藤兵衛(くにとも・とうべえ)=江戸後期の鉄砲鍛冶・発明家。近江の国友村の人。号は一貫斎。代々幕府の御用職。オランダ製空気銃見て「気砲」を考案。また、天体望遠鏡を製作して太陽の黒点を観測。著「気砲記」など。(1778-1840)
(『広辞苑』第6版による。)         
 ※ 国友鉄砲鍛冶(くにとも・てっぽうかじ)=近江坂田郡国友村の鉄砲鍛冶。戦国時代の末、鉄砲の需要増大とともに和泉の堺と結んで繁栄。豊臣秀吉・徳川家康は知行を与えて直接に保護・掌握したが、1617年(元和3)知行を返上し幕府御用鍛冶職となる。泰平により衰退したが、後期に出た国友藤兵衛は1840年(天保11)63で死ぬまで科学者として風砲(空気銃)・天体望遠鏡はじめ数多くの発明、太陽黒点の観測などを行ない多くの著書を残した。
(『角川日本史辞典 第二版』昭和49年12月25日第二版初版発行による。)
 ○ 「 
国友藤兵衛」については、『kotobank (コトバンク)』に、『朝日日本歴史人物事典』からの詳しい解説があります。
 
『kotobank (コトバンク)』
     → 国友藤兵衛

 なお、有馬成甫著『一貫斎国友藤兵衛伝』(武蔵野書院、昭和7年刊)があるそうです。
 
    12.  国立国会図書館デジタルコレクションに、写本『仙境異聞』があります。
 
国立国会図書館デジタルコレクション 
  → 
写本『仙境異聞』一之巻 ((上)一之巻です)
  → 写本『仙境異聞』二之巻 ((上)二之巻です)

  → 写本『仙境異聞』三之巻 ((上)三之巻です)
 
    13.  『仙境異聞』(上)二之巻から三之巻にかけては、篤胤と寅吉との問答が記録されていますので、その体裁を見るために、二之巻の最初の部分だけを引いておきます。
   ○予寅吉に初めて逢ひける時、その脈を診、また腹をも察(み)たりけるに、何やらむ懐に紐の附きたる物あるを、大切にする状(さま)なり。守袋なるべく思ひて在りけるに、其の後もをりをり懐の透き間より其の紐の見ゆるが、或とき取落したるを見れば、黒き木綿のさい手を畳みたる物の如し。「其は何ぞ。いとも大切なる物と見ゆるは」と云へば、  
寅吉云はく、「此は古呂明の頭巾なるが、下山の時に此を授けて、『汝しばらく人間(じんかん) に出づる故に、我が多年冠れる頭巾を与ふ、寒風の節こを冠れば、邪気に当る事なからむ』と、授けられたる故に、今日まで大切に肌を放つこと無かりしなり。
  とて取出でたるを見れば、俗に山岡頭巾といふ物にて、いと古び油つきて見ゆる故に、「髪に 油を付けて結はざる人の頭巾に、油の附きたること合点ゆかず。偖(さて)また此れと異なる頭巾は無きか」と問へば、
寅吉云はく、「此は髪の油に非ず。総身の精気の上りて凝(こ)りしみたるなり。凡て精気は滝にうたるれば、一旦は下がれども、下がり切(つめ)てはまた上り、上りてはまた下がるなり。上達の人ほど、上る精気強し。夫故(それゆえ)に此の頭巾は我等ごとき未練の者の、邪気除(よ)けともなるなり。偖また水行の時は、必ず手巾か何ぞ頭の真中に当て冠らでは、寒気を引込むものなり。偖外に此の世に見ざる頭巾は、寒気の時冠る芒(すすき)の穂にて作れる、図の如き頭巾あり」 (引用者注:岩波文庫本に頭巾の図なし。)
  ○問ふて云はく、「杖は神世より由ある物にて、神にも奉り、古き神楽の歌にも、『此の杖は我がには非ず山人の、千歳を祈り切れる御杖ぞ』とも有りて、山人も杖をば止事(やごと)なき物にして、祝言(のりとごと)しつゝ切るにやと思ふを、いかに杖は用ひざるか」  
  寅吉云はく、「杖は朴の木にて、棒の如く太く作る。竹の杖もあり。然れど杖を力にして歩行すると云ふ事には非ず。さて杖を切るに祝言あるか其は知らず」
  ○問ふて云はく、「山人たち螺貝(ほらがい)を吹く事は無きか」  
 寅吉云はく、「彼方にては用ふる事なし。然れど山伏の貝を吹く事は、魑魅、妖魔を除(さ)るわざにて、上代よりの習ひなりと云ふ事は聞きたり」 ……
 
    14.  『仙境異聞』(上)二之巻が資料109にあります。
 『仙境異聞』(上)三之巻が資料330にあります。
 『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 一之巻が資料331にあります。
 『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 二之巻が資料332にあります。
 
    15.  国土地理院の地図閲覧サービスによる愛宕山周辺の地形図があります。            
    16.  岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の校注者・子安宣邦氏の『子安宣邦のホームページ』があります。  
    17.  岩波書店の、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の紹介文を、次に引用しておきます。
 
 文政3年、浅草観音堂の前にふいに現れた少年寅吉。幼い頃山人(天狗)に連れ去られ、そのもとで生活・修行していたという。この「異界からの帰還者」に江戸の町は沸き、知識人らが連日質問を浴びせかける。彼らへの応答から次第に構成されてゆく「異界」のすがた。江戸後期社会の多層的な異界関心の集大成的な記録。
 
    18.  資料366に 平田篤胤「勝五郎再生記聞」があります。  
    19.  遠藤潤氏による『平田篤胤研究文献目録(暫定版)』があります。  
    20.  2021年(令和3年)9月5日(日曜日)の読売新聞茨城版に、茨城ミステリー紀行5 「天狗に連れられ山で修行」天狗小僧・寅吉(笠間市)が載っていて、そこに次のようにあります。(担当:伊藤譲治記者)
 「400里(約1600㌔)離れた女ばかりの国・女島に行ったなど、荒唐無稽な体験も語っているため、篤胤らを「山師」などと批判する人もいた。しかし、水戸藩の儒者で彰考館総裁を務めた立原翠軒(すいけん)は「世間の生半可な儒者たちは疑うが、私は幽界にいざなわれた人の例を数々見聞きしているので、一点も疑う心はない」と語り、寅吉と篤胤を擁護したという。」
 「寅吉はその後、どうなったのか。「仙境異聞」には記されていないが、下総国(しもうさのくに)(現・千葉県北部周辺)で医者になり、静かに生涯を終えたと言われている。」
(2021年9月7日追記)
 
                      

      
          

          
    
    

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