資料43 平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻
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文政3年(1820)、江戸に不思議な少年が現れた。彼はその |
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仙境異聞(上)一之巻 平 田 篤 胤 筆 記
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文政三年十月朔日夕七ツ時なりけるが、屋代輪池翁の来まして、「山崎美成(やまざきよししげ)が許(もと)に、いはゆる天狗に誘はれて年久しく、其の使者と成りたりし童子の来たり居て、彼(か)の境にて見聞きたる事どもを語れる由を聞くに、子のかねて考へ記せる説等(ことども)と、よく符合する事多かり。吾いま美成がり往(ゆ)きて、其の童子を見むとするなり。いかで同伴し給はぬか」と言はるゝに、余はも常にさる者にただに相ひ見て、糺(ただ)さばやと思ふ事ども種々きゝ持ちたれば、甚(いと)嬉しくて、折ふし伴信友(ばんのぶとも)が来合ひたれど、「今帰り来む」と云ひて、美成が許へと伴はれ出づ。(美成は長崎屋新兵衛といふ薬商人にて、往(いに)し年頃は、予に従ひて有りしが、更に高田与清(ともきよ)に従ひ、今は屋代翁の門に入りて、博く読書を好むをのこなり。家は下谷長者町といふ坊にて、余が今の湯嶋天神の男坂下と云ふ所よりは、七八町ばかりも有るべし。屋代翁の家と、美成が家とは、四五町ばかりも隔たれり。) |
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偖(さて)まづ神誘ひに逢ひたる始めを尋ぬるに、「文化九年の七歳に成りけるとき、池ノ端茅町なる境稲荷(いなり)社の前に、貞意といふ売卜者ありしが、其の家の前に出でて日々売卜するを立寄りて見聞くに、乾の卦出でたり坤の卦出でたりなどいふを、此は卜筮といふ物は、くさぐさ獣の毛を集め置きて擬(うらな)ふ法ありて、其の毛を探り出だし、熊の毛を探り得れば、いかにとか、鹿の毛を探り出づればいかにとか、其の探り出でたる毛により判断する事なるべく思ひて、頻(しき)りに習はまほしく覚えしかば、或日卜者の傍らに人なき時を窺ひ、『いかで我に卜筮のわざを教へて給はれ』と請ひしかば、卜者我を幼き者と思ひて、戯言(ざれごと)したるか、『此は容易に教へがたき態(わざ)なれば、七日がほど掌中に油をたゝへ、火を灯す行を勤めて後に来たるべし。教へむ』と云ふ故に、実(げ)にも容易には伝ふまじく思ひて家に帰り、父母も誰も見ざる間を忍びて、二階に上りなどして密(ひそ)かに手灯(てあか)りの行を始めけるに、熱さ堪へがたかりしかど、強ひて勤め七日にみちて、卜者の許(もと)に到り、『手の此(か)く焼け爛(ただ)るゝばかり、七日が間手灯りの行を勤めたれば、教へて給はれ』と云ふに、卜者ただ笑ひのみして教へざりし故に、いと口惜しくは思ひしかど、詮方なく、倍々(ますます)此のわざの知りたくて、日を送りけるに、(この貞意といへる卜者は後に上方すぢへ行きたりといふ)其の年の四月ころ、東叡山の山下に遊びて、黒門前なる五条天神のあたりを見て在りけるに、歳のころ五十ばかりと見ゆる、髭長く総髪をくるくると櫛まきの如く結びたる老翁の旅装束したるが、口のわたり四寸ばかりも有らむと思ふ小壺より、丸薬をとり出だして売りけるが、(平児代答に五六寸と有れど四寸ばかりなりと寅吉後に云へり)取並べたる物ども、小つづら敷物まで、悉くかの小壺に納(い)るゝに、何の事もなく納まりたり。斯(か)くてみづからも其の中に入らむとす。何として此の中に入らるべきと見居たるに、片足を蹈み入れたりと見ゆるに皆入りて、其の壺大空に飛揚りて、何処(いずこ)に行きしとも知れず。寅吉いと奇(あや)しく思ひしかば、其の後また彼処(かしこ)に行きて、夕暮まで見居たるに、前にかはる事なし。其の後にも亦行きて見るに、彼の翁言をかけて、『其方(そち)もこの壺に入れ。面白き事ども見せむ』と云ふにぞ、いと気味わるく思ひて辞(ことわ)りければ、彼の翁かたはらの者の売る作菓子(つくりがし)など買ひ与へて、『汝は卜筮の事を知りたく思ふを、それ知りたくば此の壺に入りて吾と共に行くべし。教へむ』と勧むるに、寅吉常に卜筮を知りたき念あれば行きて見ばやと思ふ心出で来て、其の中に入りたる様に思ふと、日もいまだ暮れざるに、とある山の頂に至りぬ。其の山は常陸国なる南台丈(嶽)(なんたいだけ)と云ふ山なり。(此の山は、加波山と、吾国山との間にありて、獅子ガ鼻岩といふ、岩のさし出でたる山にて、いはゆる天狗の行場なりとぞ。) |
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さて大抵日々の如く、伴はれ行きたる山は、始めは、南台丈(嶽)なりけるに、いつしか同国なる岩間山に連れ行きて、今の師に付属したるに、まづ百日断食の行を行はしめて、後に師弟の誓状を書かしめたり。「老人の行方、師の名ども、弟(子)のこと」爰に我『かねての念願なれば、卜筮を教へ給はれ』と云へば、師の『そは甚(いと)易き事なれど、易卜は宜(よ)からぬ訣(わけ)あれば、まづ余事を学べ』とて、諸武術の方、書法などを教へ、神道にあづかる事ども、祈禱呪禁の為(し)かた、符字の記し方、幣(ぬさ)の切りかた、医薬の製法、武器の製作、また易卜ならぬ、種々の卜法、また仏道諸宗の秘事経文、その外種々の事を教へらる。其はいつも、彼の老翁の送り迎ひたれど、両親はじめ人にはかつて語らず、教へを受けたる事どもゝ、明かさざれば知る人なく、殊に吾が家は貧しければ、世話なく遊びに出づるを善しとして尋ねず、また十日、廿日、五十日、百日余りなど、山に居て家に送り帰されたる事も、折々有りしかど、いかなる事にか、家の者ども、両親はじめ、我が然(さ)ばかり久しく、家に居らずとは思はで有りしなり。斯く山に往来(ゆきき)しつる事、七歳の夏より十一歳の十月まで、都(すべ)て五年の間なるが、此の間に師の供をなし、また師に従ふ余人にも伴はれて、国々所々をも見回りたり。(此のほどの事を母に問へば、筆、こま、たこなど、持遊びを持来たれりと云へり。) |
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さて十二、十三の歳には往来せず、唯をりをり師の来たりて事を誨(おし)へらるゝのみなりき。然るに父は我が十一歳になる八月より煩(わずら)ひ付きたり。其の病中に師の我に誨へて、「○めしくはぬ病気○先和尚びくににたゝられ、気ちがい和尚の気に入ること、とらならではめしもくはず○ゆうれいをうつ○禅僧問答に来たる○かこひものゝこと、後見、ふぢ寺、根ぎしえん光寺」『禅宗、日蓮宗などの宗体をも見覚えよ』と有りし故に、父母に『我は病身にて商ひ覚束なければ、寺に奉公して後に出家せむと思ふ』と云ひしかば、父母ともに仏を信ずる故に諾(うべな)ひて、此の年の秋より池ノ端なる正慶寺といふ禅宗の寺に預けぬ。此の寺にて彼の宗旨の経文など習ひ宗体をもほぼ見聞きて、極月家に帰れるが、文化十五年の正月より、亦同所の覚性寺と云ふ富士派の日蓮宗の寺へ行きたるが、この二月に父みまかりたり。此の寺に居たる時に或人の来て、『大切なる物を失ひたり』と人に語るを、傍らに聞き居たるに、誰ともなく耳元にて『其は人の盗みて広徳寺前なる石の井戸の傍らに隠し置きたり』と云ふ声聞こえし故に、其の如く言ひしかば其の人驚きて帰りけるが、『果して其処に有りしが不思議なり』とて人々に云ひし故に、彼此(あれこれ)と人に頼まれて卜(うらな)ひ、また咒禁加持なども為たるに、悉く験(しるし)ありし中に富の題付とかいふ物の番を、数度云ひ当てたり。其は来たりて問ふ人々題付と云ふことは言はず、『千番ある物の中、一番を神社に納めむと思ふ。幾番が宜からむと云ふこと、卜ひ給はれ』と云ふ故に卜ひて、『幾番が宜し』と云ひしかば、前後すべて二十二三人に頼まれたるに、十六七人は取れりと云ふ。六七度は当らざれど、其の内五度などは、我がさし教へたる番札は早く人の手に入れる故に外れたりとぞ。斯く在りしかば諸人種々の事を頼み来たりて煩(うるさ)かりし故に、隠れて人に相(あ)はざる様にせしかど、なほ大勢来たりしかば、住持驚き、『此の状(さま)にて世に弘まらむには、寅吉は弱年なれば、我が怪しき術を教へて物する如く人の思はむこと、心遣ひなり』とて家に帰しぬ。此の後一月ばかりは家に居たるが、おとゝし四月よりまた師の教へにて日蓮宗なる宗源寺といふ身延派の寺へ弟子入りして、此の寺にて剃髪したり。然るは彼の宗に剃髪して真の弟子とならざれば、見聞しがたき秘事どもの多かればなり。 |
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と記して上包みの紙に、白石丈之進内同平馬とぞ書きたりける。爰に古呂明に伴はれて、岩間山に行き師に見(まみ)えしかば、なほ種々の事ども教へ授けらる。 |
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十月六日に屋代翁より、けふ夕方に美成が寅吉を伴ひ来たるよし云ひ遣はされたるに、訪(おとな)ひてまた種々の事どもを尋ね、さて美成に、「此の童子山風の誘ひ来つれば、疾(と)く帰らむも計りがたし。我が方へも、いかで伴ひ呉(く)れよ」と言へば、「明日伴はむ」と云ふに、甚(いと)嬉しく、佐藤信淵(さとうのぶひろ)、国友能当(くにともよしまさ)なども寅吉に逢はまほしく云ひし故に、其の夜に消息すれば、皆悦びて七日に早く来集(つど)ひつ。童子が好むべく覚ゆる菓子、その外とも取りよそへ、小嶋主よりは童子に饗(もてなし)せむ料にとて鮮(さや)けき魚など賜はりて待ちけるに、夕方に美成より手紙をもて、「今日は伴ひかぬれば、時を見て伴ひ侍らむ」と、云ひ遣はせたるに、集へる人々空しく帰りぬ。我が家の者どもゝ、今や来たると待ちけるに、斯く在りしかば、いと本意(ほい)なしと力を落す。己れつらつら思ふに、「美成言(こと)宜(よ)くは云へど、我が方へ遣はすを惜しむ状に見ゆれば、遂に連れ来たらじ。其の間にもし山に帰りてば、弟子どもゝ本意なく思ふらむ。振りはへて彼が宅へ物せむ」と、八日の昼まへに、妻と岩崎吉彦、守屋稲雄とを連れて美成がり行きて、「昨日は待ちて在りけるに来ざりしかば、本意なく思ふ故に、家内の者ども連れて来たれり。いかで童子に逢はせ給はれ」と云ひ入るゝに、美成が母出でて、「美成は外へ出でたり。童子は今朝その母の方へとて出で行きたり」と云ふに、また力なく帰れるが、(後にきけば、此の時童子は奥に居て、己れが店まで行きたるを見聞きしつれど、隠れ居よと私語(ささや)く故に、逢はまほしくは思ひしかど、詮方なかりしと云へり。)途にて連れたる者ども、みな「童子は母の許へ行きたる由なれば、彼の方へ直ちに尋ね給はばいかに有らむ」と頻りに勧むるにぞ、己れも然る事に覚えて、七軒町へは間遠からねば、皆うち連れて尋ねつ。 |
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辛ふじて其の家を探り得たるに、裡住居(うらずまい)のただ一間ある家にて、母のみ居たり。「寅吉が来つるか」と問ふに、兄といさかひて下田氏へ行きたる後は、たえて来たらざる由にて、美成が許に居る事さへも知らざりけり。然れば美成が方にて、母が方へとて出でたりと云へるは、早く偽りにぞ有りける。直ちに帰らむも憾(うら)めしければ、寅吉が生立(おいた)ち、また異人に誘はれたる事の始末など問ふに、生立ちの事は委しく語りしかど、神誘ひに成りたる始末をば、此の頃になりて人の言ふによりて、ほぼ知りたる趣なり。偖(さて)この日も遂に童子に逢はで空しく帰りぬれど、母の物語りに、童子の生立ちなど種々聞きたるに、なほ種々問ひ(ママ)まほしく思ふ心いや増さりて、美成がしわざの心憎くは思へど、此は彼が心を取るにしかじと、物など贈り、また屋代翁にも頼み、親から行きもして心を取りしかば、十日の昼なりしが、手紙をもて「明日の夕方参るべし」と云ひ遣はせたり。此の時しも佐藤信淵来合ひたるが共に悦び、「七日の日に国友能当が吾と共に遠き四ツ谷の里より、態(わざ)と来たりて空しく帰れること気の毒なり。我が方より明日つとめて消息せむ」と云ひて帰りぬ。
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