資料331 仙境異聞(下) 仙童寅吉物語一之巻


                 

 
         仙境異聞(下) 仙童寅吉物語之巻   平田篤胤筆記考按


 


 高山嘉津間、元の名は寅吉と云ふ。始め山崎美成が方に在りけるが、後には
 己が家に来て、長く逗留する事と成りぬ。其は別に記せる物あれば、此に略
 して、今はただ、問ひに答へたる事のみを記し出でむとす。扨
(さて)其の山
 人に誘はれたる起
(おこ)りを尋ねしかば、
寅吉云はく、「文化九年の七歳なりけるとき、風
(ふ)と卜筮の事を学びたく思ひて、同所茅町なる境稲荷の前に住せる、貞意といひし卜筮者は、其の頃よく卜当りて流行(はや)りける故に、是れにつきて学ばむ事を請ひしかば、幼き者と思ひて戯言(ざれごと)したるか、『七日手灯(てあか)りをともす行(ぎょう)を勤めて、後に来たらば教へん』といふ故に、其の夜より手灯りの行をおこなひ始め、七日にみちて行きたりしに、笑ひて教へざりしかば、残り多く思ひて日を送りけるが、(この卜者は後に上方辺りへ行きたりとぞ)或る日東叡山の前なる、五条天神の辺りに遊びて在りけるに、五十歳ばかりなる翁の、薬を売るが在りて、径五六寸(三四)寸も有らむと思ふ壺より、薬をとり出だして売りけるが、暮れ時になりて、取並べたる物ども、小つづら敷物まで、悉くかの壺に入るゝに、何の事もなく入りたり。斯(か)くて自らもその中に入らむとす。いかで此の中に入らるべきと見居たるに、片足を蹈み入れたると見ゆると等しく皆入りて、其の壺大空に飛上がりて、何所に行きしとも知れず。甚(いと)(あや)しく思ひしかば、其の後また彼処(かしこ)に行きて、夕暮れまで見居たるに、前にかはる事なし。其の後にもまた行きて見るに、彼の老人、『其の方も此の壺に入れ』といふにぞ、いと気味わるく思ひて、辞(ことわ)りければ、彼の翁、かたはらの者の売る、作り菓子など与へて、『卜を知りたくば此の壺に入りて、吾と共に行くべし』と勧むるに、行きて見ばやと思ふ心いで来て、其の中に入りたる様に思ふと、日もいまだ暮れざるに、とある山の頂に至りぬ。其の山は、常陸国なる南台丈(嶽)といふ山なり。(此の山は加波山と吾国山との間に在りて獅子ガ鼻岩といふ石のさし出でたる山なり。)さて幼かりし時のこと故に、夜になりては、頻りに両親を恋しくなりて、声を挙げて泣きしかば、『然も有らば家に帰してむ。必ずこの始末を人に語ること無く、日々に五条天神の前に来るべし。我送り迎ひして習はしめむ』とて、大空を飛びて連れ帰りたり。斯くて我は堅く老人の誡めを守りて、今日までも父母に、此の事を言はざりしなり。さて約束の如く、次の日五条天神の前に行けば、彼の老人来たり居て、我を背負ひて山に至れり。斯(か)くの如くすること日久しかりしが、いつも家をば、広小路なる井口といふ薬店の男子と共に、遊びに出づる風にて出でたりき。さて行きたる山は、久しく南台丈(嶽)なりけるに、いつしか同じ国なる、岩間山に至りて有りけり。爰(ここ)に我『かねて宿願なれば、卜を教へ給はれ』と云ひしかば、『其はいと易き事なれども、易卜は宜からぬわざなれば、まづ余事を学べ』とて、祈祷の為方(しかた)、また符字の記しかた、咒禁その外幣の切りかた、文字の事など教へらる。又或時かゝる事もありき。其は天狗の面をかぶりて、わいわい天王とはやし、赤き紙に天王の二字押したる札をまき散らすを、子共大勢つき行くに、我も其の中に交りてはやし行きたるに、本郷の兼康(かねやす)の先まで行きぬ。然るに日くれ方に其の事を止めて、面を取りたるを見れば、彼の老人なりき。斯くて『家に送り返さむ』とて、家の方へ連れ来たりける。榊原様の表門の前にて、父が尋ねに出でたる事を知りて、『向ふより其の方の父が尋ね来たれり。此の事かならず云ふな』とて、『此の子を尋ね給ふには非ずや。遠く迷ひたると見し故に、連れ来たれり』とて渡せば、父なる者其の名を問ふに、『何処の誰』と、あらぬ名を云ひて別れたり。後に父その所に尋ねたるに、元より偽りなりしかば、其所にさる人は無かりしなり。凡てわいわい天王に札をはりて、銭をとらぬ中に天狗あり。其は日ごとに、彼の老人の送り迎ひしたるなれど、両親はじめ人にはかつて語らず。また我が家は貧乏故に、さしもかまはず、世話なく遊びに出づるを善しとして、尋ねざりしなり。かく山に往き来したること、十一歳の十月までなり。十二、十三の歳には其の事なく、只をりをり見えて、事を教ふるのみなりき。さて父与惣次郎は、我が十一歳になる八月より、煩ひ付きたり。父が病中に彼の人来たりて、『しばらく寺へ行き、経文をも覚え、寺々の有り状(さま)をも見よ』と有りし故に、『出家せむ』と父母に願ひしかば、下谷池ノ端なる正慶寺といふ禅宗の寺に遣はしたり。此の寺より帰りて後に、同所の覚性寺といふ日蓮宗の寺へも遣はし、其の後また宗源寺といふ日蓮宗の寺にいたり、此の寺にて出家したり。然るに文政二年五月二十五日に、師に伴はれて空中を飛行し、遠きからの国々までも行きたるが、またまた常陸国岩間山に至り、種々の行を行ひ、名も師より、高山白石平馬と負はせられ、平馬の二字を書判にして賜はれり。さて去年の八月、一度家に帰り、また師と同道して、東海道を行きて、江の嶋、鎌倉などを見廻り、伊勢大神宮を拝し、其の外国々処々を見廻り、今年三月二十八日に、家に帰りたるなり。
 問ふて云はく、「岩間山といふは、常陸国の何郡に在る山ぞ」
寅吉云はく、「筑波山より北方へ四里ばかり傍らにて、峰に愛宕宮あり。足尾山、加波山、吾国山など並びて、笠間の近所なり。竜神山といふもあり。此の山は師の雨を祈らるゝ所なり。岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗といふなり。岩間山にはもと、十二天狗なりしが、四五十年ばかり以前に、筑波山の麓なる狢打村といふ所の、長楽寺といふ真言僧ありしが、空に向かひ、常に仏道を思惟して有りけるに、或る日釈迦如来、迎ひに来たりて導きける故に、真の仏と思ひて、共に行きたりしかば、釈迦如来と化
(な)り来たれるは岩間山の天狗にて、長楽寺をも其の中に加へて、是れより十三天狗となりたりとぞ。我が師は其の中にて名を杉山そうせうと云ふなり」
  岩間山のこと、彼方の事知れる人々、彼是
(あちこち)に探りたるに、細川長
  門守殿領分にて、岩間村のうち、小名を泉村といふ所にある山にて、十八
  九町ばかり上る山上に愛宕宮あり。宮の後ろの少し高く平らなる地に、本
  宮とて小宮あり。唐銅の六角なる宮にて、上の方は円しといふ。其の宮の
  まはりに、十三天狗の宮とて、石宮十三あり。此はいと旧くは五天狗の宮
  なりしが、後に十二天狗となりて宮十二ありしを、彼の長楽寺といふは、
  修験者にて、常に西に向かひて、大日の真言を唱へたりしが、元より孝心
  ある者にて、其の母が国々の神社、仏刹、旧跡など、見廻りたきよし云ふ
  を、いかで其の事かなへむとて、殊に十二天狗に祈願し、祈願の叶ふまで、
  断食の行を行ひけるに、中間に至り、山下に蹴落されたり。然れどなほこ
  りず、又更に断食の行を為
(し)果して後も、例の如く西に向かひ、阿字観
  して在りけるが、或る日釈尊迎ひに来給へりとて、空に向かひ莞爾として
  飛び去りけるが、後にまた帰り来て、母を背負ひて望みの所々を、五六日
  の内に見廻らしめ、家に帰りて母に云へるは、『いたく草臥
(くたび)れた
  り。長寝するとも、覚むるまで必ず見給ふな』と云ひて、一間に籠りて五
  六日ばかりも覚めざりしかば、母いたく待ちわびて、そとのぞき見るに、
  六畳の間をはばかるばかり大きくなりて寝居たりし故に、母あつと叫びて
  逃退ける。其の声に目を覚まし、傍らの襖を蹴破りて飛び出でたるが、是
  れより後は帰り来たらずといふ。一説には、母を廻国せしめて後に、此の
  事かならず人に語り給ふな、と禁
(いまし)めしかど、母は嬉しきに堪へず、
  密かに人に物語りしかば、飛び出でてふたゝび帰り来たらずともいふなり。
  さて長楽寺が家出しける後に、麓の村々を家ごとに誰とは知らず、是れま
  で十二天狗に膳を十二供へたれど、長楽寺も加はりたれば、今よりは十二
  膳の外に、精進の膳を一膳まして供へよと、触れ廻りける故に、村々にて
  信仰の者ども、講中といふを立て置きて、日々に十三の膳を供へ、拝する
  にも十二天狗並びに一天狗と唱ふるとぞ。愛宕の別当は真言宗にて、祭礼
  は二月二十四日なり。愛宕にも、十三天狗にも、各々膳を供ふるに、天狗
  のは残らず皆食ひてあるとぞ。祭日の前に、別当の水行、なかなか尋常の
  人の得為しがたきわざなりといふ。細川家の留守居役なる岸小平治といふ
  人は、今年七十三歳なるが、国詰めにて若かりし時、天狗になりたる長楽
  寺とは、懇意に交はりて、其の人となりを知れるが、剛強にて正直なる人
  なりしと、其の時の事ども能く知り得て、今も語り出づると、其の親族な
  る人の物語なり。寅吉が物語と思ひ合すべし。
  ○岩間山の天狗の釈迦と化りて、長楽寺を欺き、其の徒に引入れたるに付
  きて、思ひ合すべき事あり。其は今昔物語に云々。
 問ふて云はく、「十三天狗たちの事を、此方にて天狗といひて腹立つまじき
 や。もし彼方にて、何とか外にいふ称
(な)はなきか」
寅吉云はく、「天狗といひても腹立つことなし。其は世の人は、人間界の外なる仙人は云ふに及ばず、悪魔また天狗など、其の外種々の怪しき類ひをば、すべて天狗のわざと云ふ故に、其の通りにて在るなり。然れど彼方にては、天狗といはず、山人と云ふなり。さて十三天狗といふ中に、真の山人なるは、わづかに四人ばかりにて、余は鷲、鳶其の外の物の化
(うつ)りたるにて、真に天狗なり。然るに岩間の別当より出す札守りに、十三の鼻高く、翼ある天狗をかきたるは、笑ふに堪へたる事なり」
 問ふて云はく、「其の方を伴ひたる老人、やがて杉山そうせうなるか」
寅吉云はく、「近きころ山替へして、何処にか行きて、今は其の所在をだに知らず、ときける様にも覚えたり。我にも更に合点ゆかず。当昔のことは、今思へば夢の如くにて、そうせうの分身の様にも思はれ、また別人のやうにてもあり。
(寅吉に始めて問へるをりは其の伴ひたる老人やがて杉山そうしやうと云へるやうに聞き受けたりしかど、後にまた委しく探りたるに右の如く答へたる故に、後に聞きつることなれど此に記す。)
 問ふて云はく、「杉山そうしやうと云ふは、もと何処のいかなる人なりしぞ。
 又そうしやうとは、字を何と書くか知らずや」
寅吉云はく、「もと何処のいかなる人と云ふことは知らず。是れは歴々の天狗
(別本に「山人」)故に、ワケモチノ命と申すなり。字は僧正と書きて、そうしやうと清みて称(とな)ふなり。
  此の後にも度々そうしやうと、清音に称ふよし懇
(ねんご)ろにいへりき。さ
  て現世にいふ所と、称の違ふこと、思ひ当たれることあり。然るは石原正明、
  往年物語のついでに、幽界にをる物の名は、現世の人の名と同じ字なるも、
  何となく称
(とな)へ状(ざま)の違ふものなりとて、其の例をこれかれ語れる
  こと有りしが、心に止まりて、其の後に心を付けて考ふるに、近くは安芸国
  なる稲生
(いのう)平太郎といふ人の所に出でたる物怪の言に、吾れは山本五
  郎左衛門といふ者なり。サンモトとは山本と書くといひ、又その徒に、神野
   
(しんの)悪五郎といふ者もあるよしいへり。山本(やまもと)、神野(かみの)
  は云はず、さむもと、しむの、など称ふる事は、定めて由あることなるべく
  思はるゝに付けて思へば、僧正を清みて称ふると云ふ事も、思ひ合さるゝな
  り。
 問ふて云はく、「ワケモチノ命と云ふは、何といふことぞ」
寅吉云はく、「大天狗になりては、其の魂を祭りて、ワケモチノ命とつく事なり。其は在世の時の名を上につけて、たとへば杉山僧正といふ名なれば、杉山僧正ワケモチノ命といひ、長楽寺なれば、長楽寺ワケモチノ命といふなり。何にても名の知れざるは、別持命と名をつけて拝むべし」
  予はかく聞きたれど、美成は死して神となりて後に、ワケモチノ命と云ふこ
  とに聞き受けたり。何れか是なる事を知らず。偖
(さて)ワケモチノ命といふ
  字をば、いかに書くと云ふこと、問ひ漏らしたるが、字は決はめて別持と書
  きて、山々を互に別け持ちたる意なるべし。其は神代の伝にも、野の神、山
  の神、山野によりて持ち別くといひ、速秋津比古
(はやあきつひこ)、速秋津比
  売神
(はやあきつひめのかみ)、川、海によりて持ち別けてなども云へり。此の古
  言の義を思ひ合せて弁ふべし。
 問ふて云はく、「其の魂を祭るとは、如何なる事をすることぞ」
寅吉云はく、「大天狗
(別本に「歴々の山人」)となりては、各々自分の魂を幣(ぬさ)に留めて、日々に拝し祭るなり」
  これまた古意に合へる事なり。其の由思ふ旨あれば、此所に記し出さず。古
  史伝の出づるを待ちて見るべし。
 問ふて云はく、「其の幣の形はいかに作るぞ」
寅吉云はく、「其の幣の切りかたは、尋常の幣と何もかはれる事なく、但し中心に玉を掛けおく。これ魂の印なりとぞ」
 問ふて云はく、「其の玉は何玉にて、如何なる形ぞ」
寅吉云はく、「何玉か知らねど、瑠璃色なる玉を、珠数の如く統べとほして、数は百十二粒、その外に親玉二箇あり。白き緒の打紐にて、総
(ふさ)を下げたる物なり」
 問ふて云はく、「師の竜神山にて、雨を祈ると云ふこと心得がたし。彼の境に
 ては田畠を作らねば、霖旱とともに苦労あるまじき事と覚ゆるを、如何なる心
 にて雨を祈るやらむ」
寅吉あざ笑ひて云はく、「然る謂
(いわ)れなき事を思ふは、人間の心なり。神は申すに及ばず、山人とても、世が悪くては宜しからず。故に彼の境にては、人間界の祈りが肝要なり」
 問ふて云はく、「そうしやうは幾歳ばかりにて、常の衣服はいかなる状の物を
 著らるゝぞ。又常の所行はいかに」
寅吉云はく、「四十歳ばかりにて、髪は生えなりに、腰の辺りまで垂れたるに、真鍮の鉢巻の、図のごとく合ふをはめ、山伏の著る衣袴を著す。緋衣なり。長
(たけ)は常人より五寸ばかりも高し。常は座を組み、ナイ(内伝カ)の印を結び、咒文(イカナル文ゾ)を唱へて居らるゝなり。また太刀をも指すなり」
 問ふて云はく、「袈裟またすずかけありや。頭巾を冠る事有りやなしや」
寅吉云はく、「けさすずかけなし。頭巾は冠ることもあり。然れど人間のよりは余程大きにて、形もやゝ異なり」   
  此は後に問へるなれど、因
(ちなみ)に此(ここ)に記せり。
 問ふて云はく、「その衣服は、いかにして調ふることぞ」
寅吉云はく、「衣服は大天狗達のは、人間
(じんかん)に在りし時に用ひたるを、幾久しく著らるゝ由なり。我々は赤裸にて居ること多き故に、然しも損なふことなし。若しその着物破るれば、師に願ひて、鹿嶋、筑波、岩間山など、其の余の守り札を、国々処々に配り、其の初穂をもて調ひ著するなり。○師も古呂明も古著をも著る。但し女の著たるは著ず。○師の在世の時より著たる物は、麻の如くにも見えて和らかなり。ぬひたるものなり、わろくならず」
  人間に在りし時の衣服を、幾久しく著ると云へるに就きて、思ひ合さるゝ
  事あり。然るは此ころ小嶋惟良ぬしの語られけるは、「江戸小石川牛天神下
  に、堀江平兵衛といふ人あり。この養父も平兵衛といひしが、一人の男子あ
  りしに、今文政三年より二十八年さき、寛政五年に、二十四五歳にて故なく
  家を出でて行方知れず成りしかば、星野源左衛門といふ人の弟を養子として
  在りけるに、
(即ち今の平兵衛これなり。)彼の男子家を出でたるより十一年のち、
  享和三年に、ゆくりなく帰り来たれり。衣服大小はきもの、其の余の物も、
  悉く十一年さきに家を出でたる時のまゝに著て、少しも損なはれず垢つかず、
  髪月代さへに、其の時のまゝにて損なはれざりけり。父母おどろき悲しみて、
  『何処に在りし』と尋ぬるに、『人間界と異なる境に行きて在りしが、一度
  両親に見
(まみ)えむと思ひて来たれり。是れより永く相見する期(とき)
  し』といふにぞ、父母なほも哭
(な)き悲しみて、『いかで止まれかし』と
  云へども、『中々止まり難し』とて聞き入れず。『飯を賜はれ』と云ふ故
  に、膳を出したりしかば、『彼方の飯よりは美
(よ)からず』とて、然しも
  食はず、暇を乞ひて立上がるを、父母その左右に取りつきて止めむとせし
  かど、振放して出でたるが、其の後は来たらずとぞ。
(この事は早く島海松亭と
   いへる人にきゝたりしかど、其の名を忘れて在りけるに此の度寅吉が事に就きて小嶋氏の物語られ
   しなり。)
   
また我が遠き縁者に、浜田三次郎と云ふあり。これが妹婿、能勢平蔵とい
  ふ町同心ありけり。男子二人、女子三人有りけるに、五十年ばかり前に、
  平蔵故なく家を出でて行方知れず。此れによりて家断絶に及びたる故に、
  五人の子等は、三次郎方に引きとり養育して、男子一人は他家へ養子に遣
  はして、高橋太右衛門といふ。然るに今より六七年以前に、平蔵のもと召
  仕ひたる老女の、近在に居るが、太右衛門方に尋ね来たりて云ひけらく、
  「父上平蔵君、むかし家を出で給ひし時の衣服有り状そのまゝにて、我が許
  に来たり給ひ、『我今は此の世ならぬ界に入りて在り。子等をば折々見る
  こと有れど、物言ひかくること能はざる故に、さて過ぎぬるなり。今こゝ
  に来たれることは、我家を出でたりしかば、死にざれども死にたりと為て、
  出でたるを当日と定め、仏法風の戒名までを負ひたり。此れによりて高く
  昇り進むこと能はず。其の方太右衛門方に行きて、此の事を語り、戒名を
  つけて死人のあしらひする事を、止むべき由を言ひ伝へ呉れよ』との御言
  なり」と、泣々云へりと、三次郎物語なりと語られき。此の外にも多く、
  幽境より年経て帰れりと云ふ人の事を伝へ聞けるに、皆本の衣服有り状に
  て、帰れりと云へば、寅吉が物語に、人間
(じんかん)に在りし時の衣服を、
  幾久しく著ると云ふこと、真に然有るべく思はるゝなり。
  ○国々処々に、守り札を配りに出づるといふ事も、此の後に「金銭はいか
  にして有るぞ」と問ひしかば、「札配り、ワイワイ天王などに出でて、受
  けたるを遣ふ」よしいへり。又「札一枚にて、一歩もとり来たる事あり」
  とぞ、かつて天狗に誘はれたる者の言とて、聞きおけることあり。或人
  「銭はいかにして得るぞ」といへれば、答へて、「其は町中を卑しき巫祝
  やうの者が、天狗の面をかぶり、子どもを集め、『ワイワイとはやせ、は
  やせや子ども、天王様ははやすがおすき、けむくわをするな、天王様はく
  むくわをきらひ、それまくまくぞ』などいひて赤き紙を小さく切りたるに、
  天王の二字をおしたる札を、まき散らす者あり。また同じ札を家ごとに門
  口に張りて、後より初穂を乞ひてまはるを、初穂を与へざれば、彼の札を
  とりゆくあり。また其の中に、家ごとに張りて行きはすれど、初穂を乞ふ
  ことなく、与ふればうけ、与へざれど乞はざるもあり。また世間の小児の
  もて遊ぶ、彩色摺りに為たる、細かなる絵をまき与へ、また神宮山々の守
  り札などを配りて、初穂をもらふものあり。然る者にもなりて出づる」よ
  し云へりとぞ。既に寅吉も下山の時に、其の師が鹿嶋の神庫にある所の版
  木を借り来て、岩間山にて、師の手づから摺れりといふ。図
[以下闕]
  かくの如き守り札を持ち来たれり。紙は寅吉師命を受けて、ふもとなる垣
  岡宿といふ所へ行きて、買ひ来たりしとぞ。下山の時は、百枚斗り有りし
  が、残り少なになれる故に、翻刻せまほしきよしいへる故に、美成こゝろ
  得て木を与へしかば、手づから彫刻せり。右の札の名を、矢大臣といふと
  ぞ。此の札は、世に鹿嶋の事ぶれといふ者の配る札なり。然れど或る人の
  言に、事ぶれの配るは、天津祝詞太祝詞所といふ字はなしと云へり。かゝ
  る事どもを思ひつづけて、深く考ふべし。
 問ふて云はく、「遠江国にて、異人に誘はれたる者、帰り来て語れるは、彼
 の界にも金銀銭ともにあり。小判、小粒、南鐐も不足なく遣ふ故に、いかに
 して有るぞと問ひしかば、異人すなはち一箇の白玉を出して、其の者の目に
 あてしめ、海中また陸地にも、人知らず棄
(すた)れ落ちたる通用金銀の、お
 びただしく有りしを見せて、此はみな人知らず棄りたる物ゆゑに、拾ひて再
 び世に通用さする事、我等が任なりと云へる由なり。然る事は無かりしか」
寅吉云はく、「然る事は見ざれども、此の世に通用の金銀いかほどもありて、思ひ合せらるゝ事あり。其は通用の金の多く入用なる時は、忽ちに何処へか行きて持ち帰るを、折々見たり。決はめて海陸に棄りたるを、拾ひて来るなるべし」
 問ひて云はく、「大天狗たち、並びに其の方どもの常に居る所に、家を建て
 ゝ有りやいかに」
寅吉云はく、「家を建てむと思へば、一夜にも建てらるれど、常には山に住み、また雨降りの時などは、宮に住むなり。十三天狗の居所は、岩間山の愛宕宮なり」
 問ふて云はく、「十三天狗に各々使者三四人づつ有りと聞こえ、岩間の愛宕
 宮はすべて二間ばかりと聞きたるに、狹くは非ざるか」
寅吉云はく、「宮も家もいかに小なりとも、大勢入りても狹からず。人数に従ひて、広くも狹くも思ふまゝになる物なり」
  この条は、後にふと心付きて問へるなれど、因
(ちなみ)にこゝに記せり。さ
  て此の語によりて、家々に神棚を挙げて、小宮を置きて、八百万神を招
(お)
   
ぎ奉れども、狹しと為たまはず。霊屋(みたまや)に先祖代々親族を鎮めおけ
  ども、狹しとせざる理りをも思ふべし。
 問ふて云はく、「其の愛宕宮には参詣の人も大勢あるべく、また神主か別当
 などの神前に勤めを行ひたる時などは、大勢の天狗たちは何処に隠れをるぞ」
寅吉云はく、「参詣の人が大勢来ても、別当が来ても、向ふより此方は見えず、此方大勢の目よりは向ふが見ゆるなり。我等があちらに在るほども、師のよしと声かけざれば、見る事能はず。また下がれと声をかくれば、見る事能はず。其は常に師に伴はれて何処まで行くに、我が方よりは人々を見れども、人々は我等が傍らに来て居るとも知らず、我も今は人間
(じんかん)に帰り来たれる故に、かく御目に掛かれども、今にも彼方へ入りては、御側に来たり居ても、皆様は見給ふこと能はず。殊に自由自在の物ゆゑに、建てるとも見えざるに、障子からかみなども立てゝ、現世の住家の如く、大なる家に住むこともあり。家ぞと思ふに忽ちに山にて、其の山も岩間山と見るまゝに、外の山なる事もあり。如何にして然る事か、更に今に思へば夢の如く、其処も居るがまにまに替はることある故に、何ともおぼろの様にて、しかと弁(わきま)へては申しがたし」
 問ふて云はく、「十三天狗、各々銘々の名は何といふぞ。又並び座したる時
 の階級はいかに」
寅吉云はく、「銘々の名は何と云ふやらん知らず。常に並び座する時は、階級なけれども、幣を立ておきて祭るには、階級を正して立てるなり」
 問ふて云はく、「其方を見れば、常の野郎あたまなり。彼方にても其の通り
 なりや」
寅吉云はく、「彼方へ行きたる時には、誰やらむ大勢よりて、髪の毛を皆むしりたり。其の後は生えなりにて使はれ居たるが、三月家に帰りて後に、野郎になれるなり」
 問ふて云はく、「大天狗たち、常に食物は喰はざるか。また喰ふものなるか」 
寅吉云はく、「自由自在なる故に、食物はいつと云ふ時なく、食ひたき物は、速やかに前に来たるを食ふなり。殊に十三天狗は、毎日村々より各々へ膳を供へる故に、其を我等弟子中までが十分に食ふことなり。然れども現世の供物は、減ることなく其の儘にて有るなり。減ることなくても、天狗の方にては食ふなり。もし不思議に思ひ給はば、我が彼方へ行きたる後に、何ぞ食はせたく思はむ物を、棚へ供へ置き給ふべし。此の後に来たれる時に、其の礼を申すべし」
 問ふて云はく、「食物をみづから煮炊きて食ふことはなきか」
寅吉云はく、「みづから煮炊く事もあり。然れど岩間山へは、村々の信仰者より膳を供ふる故に、其れにて沢山なれば、煮炊きすることなし」
 問ふて云はく、「煮炊きする時の鐺
(なべ)釜などは、如何して有るぞ」
寅吉云はく、「彼方にも、其の様な物も何もかも有り。もしなき物の入用なる時は、誰が家にても、人家に行きて借り持ち来て、用がすみて持ち行きて返すなり。然れど人家にも其の儘ある故に、人は知ることなし」
 問ふて云はく、「魚鳥・五辛の類ひをも食ふか」
寅吉云はく、「魚鳥ともに煮もし焼きもし、生にても食ふなり。ただ四足の類ひは、神のきらひ給ふ故に、決して食はず。甚だしきの穢
(けが)れなり。凡て神のきらひと立てゐる事は、推すことせぬがよし。魔道に入ると云ふことなり。臭き物にては、ねぎばかりは食ふなり」
 問ふて云はく、「我幼くて、出羽の秋田に在りしとき、或る人の異人に誘はれ
 て、八十日余にして帰れるが、物語を聞きたるに、『途中にて飢ゑたりし故に、
 其の事を云ひしかば、伴ひたる異人懐より大きさ指ほどある物の、味甘く、ボ
 ウロといふ作り菓子の如き物を出して、食はしめたるに、其れより帰るまで飢
 ゑを覚えず』と云へり。少しばかり其の残りの有りしを見たるに、薄黒く、に 
 つたりとしたる物のやうに覚えたり。然る物はなきか」
寅吉云はく、「其はアリといふ物にて、いちご、桑の実、梅、りんご、ゑびかつら、柿の実、桃の実、梨の実など、栗は水けなき故にわろし。皮もむかず入れる。其の余
(ほか)くさぐさの甘き菓を集めて、堅き岩の凹(へこ)まして雨雪の入らぬ所へ、久しくおけば、自然と熟して、とろりと成りてわき上がり、水は上に浮きて、上水は甘き故に飲みて、正味の所は、蕨粉を煉りたるが如く、底に堅まるを、上水をした(漉)み、飴を引きのばす如くすれば白くなる。其を日に干し堅めたる物なり。滓をば布につゝみてこし去り、すておけば自然と堅まる。もしかはらんとする時に、とくり(徳利)に沸湯をつぎて、さし入れおけば、即ちなほるなり。○本づくりは、水にても酒にても。○アリは水に交じらず。○アリを作る近所に、銀杏の木あればかはる。ギンナムとは、誠にかたき同志のやうなり。此の外に昆布の様なる物にて、甚だ高直の物あり。此れもアリと同じく、二百日ばかりは飢ゑざる物なり。また田螺(たにし)を干して、食物に用ふるに、此れもよく飢ゑざる物なり。○田螺は三つづつ三度に九つ喰ひて腹ふくれる。○田螺と餅米の粉と粉にして腹へらぬ薬」。是れより遥か後に、十一月十一日、蜜柑を与へたれば、其の水をしぼりて掌にうけて、酒に准へて呑むゆゑに、「蜜柑酒と云ふは此れをもて作り、ぶどう酒といふはぶどうにて作る物なり。此れにてアリは成るまじきか」と問ひければ、寅吉云はく、「ぶどう、みかむも用ふるなり。さてアリは、熊も猿も、岩穴に作り置くものなり」といふ故に、「其はいかに」と問ひしかば、寅吉云はく、「我が山にて、熊や猿の作り置けるを見たる事あり。其を取りて喰ひたることもあり。熊は掌に付けて嘗(な)めるものなり。其れに就きて、山にてきける物語あり。或所の人、冬のころ山にふみ迷ひけるに、したゝかに雪ふり積りて、出づべき道も知らず、飢ゑて死ぬべくなりけるに、大きなる熊出で来たれり。其の人恐れて、我を食ひころすならむと思へるに、衣をくはへて、肩に引きかくる故に、心ありてならんと思ひて、負はれ行きけるに、奥山の其の住む穴に連れ入りて、穴に貯へたる物を、掌につけて嘗めさせたるに、甘くして飢ゑをしのげり。其の後日々に、其の掌を嘗めさする事、右の如くして養ひ置きたり。さて雪の消えたる時に、また背負ひて、穴より出だしたる故に、里に出でむとせし処に、猟人登り来たり。其の人を見て、『いかにして、山に久しく生きて在りしぞ』と問ふ。其の人右の事ども具(つぶさ)に語りしかば、猟人『いかで、其の穴ををしへよ』といふ。其の人熊の恩を思ひて云はざりしかば、猟人『さらば汝を打殺さむ』とて、近く鉄炮をむくる故に、止む事を得ず告げるに、彼の熊とく知りて、飛ぶが如くに駈け来たり、其の人をみぢんに引きさき、猟人をば引きさかず、ただ鉄炮斗りを折りまげて走り去れりとぞ」○出羽国雄勝郡本木村の、幸太といふもの、中仙道村に行くとて熊穴に入る……
 問ふて云はく、「アリは此方にて拵へて、成るまじきか。昆布の様なる物は、
 熨斗鮑
(のしあわび)には非ざるか。また田螺は生で干すか、ゆでて干すか。ま
 た粉にして食ふか、其の儘に食ふか」

寅吉云はく、「此方にても成るべし。昆布のやうなる物は
熨斗鮑には非ず。田螺は殻のまゝゆでて干して、其の儘にかみ食ふなり」
 問ふて云はく、「大天狗になりては、いつまでも死せざるか」
寅吉云はく、「彼の境に入りては、二百歳、三百歳、また五百歳、千歳など様に、各々定まりて、其の定まりたる歳数を記して、封じて祭り置くなり。さて幾つになりても、天狗に成り定まりたる年の形にて年よらず、定まりの年数をはりては、忽然と老衰(おとろ)へ消(よわ)りたる身を隠して神となる。これ人間にて云はば死せるが如し」
 問ふて云はく、「然様(さよう)に一期の年数をば、いかにして知ることぞ。卜
 または御籤などを取りて定むるか」
寅吉云はく、「卜も御籤も用ひず。彼の境に入りたるとき、風(ふ)と心にうかべる歳数を筥に封じて、其の前に幣を立て、日々に拝するなり。我もあちらの物と定まりては、二百歳の齡なり」
 問ふて云はく、「天狗には、一日に三熱の苦しみとて、身内より三度火燃えい
 で、或は天道より鉄湯を飲ましめ給ふ事も有るときけり。其の事ありや無しや」
寅吉云はく、「其の苦は、我が山の十三天狗などの、正天狗にはなし。世に魔をなす天狗、また魔物、行人天狗、又は慢心にて魔天狗の境に引き入れられたる徒など、其の苦を受けると聞きたり」
 問ふて云はく、「行人天狗といふは、いかなる天狗をいふぞ」
寅吉云はく、「此は世にいくらと云ふことなく多く有りて、いたづらを為すものなり。日光は行場故に、殊に夥しきなり」
 問ふて云はく、「日光の古峰が原の、前鬼隼人といふ者は、現世に在りて天狗
 を首領する者ときけり。知りたるか」
寅吉云はく、「こぶが原なる前鬼隼人と云ふものは、行人天狗どもの宿なり。其の故に世間にて、神隠しの人など有るときは、隼人を頼むなり。隼人は天狗を使ふに非ず。日光山は天狗の行場にて、隼人が家を宿とする故に、隼人が天狗を頼みて尋ねさする訣(わけ)なり」
 問ふて云はく、「
行人天狗も、後には正しき山人となるか」
寅吉云はく、「此等は容易に正しき山人に成ることなし。然れど偶
(たま)には成るも有りとぞ。其の故は、元より悪き性(さが)にて、遂に其の性直らざればなり。但し自在のわざはなる物なり」
 問ふて云はく、「師に伴はれて行くに、大空をのみ行くか、地をも行くか」
寅吉云はく、「地を歩き行くことも有れど、遠くへ行くには、大空をかけり行くなり」
 問ふて云はく、「大空を行くに足にて歩むか、又は矢の如くついと行くか。
 絵にかける如く、雲に乗りて行くか。其の心もちはいかに」
寅吉云はく、「大空に昇りては、雲か何か知らねど、綿を蹈みたる如き心持ちなる上を、矢よりも早く、風に吹送らるゝ如く行く故に、我等はただ耳のグンと鳴るを覚ゆるのみなり。上空を通る者もあり、また下空を通る者もあり。譬へば魚の水中にあそびて、上にも游(およ)ぎ、底にも中にも、上下になりて游ぐが如き訣なり」
 問ふて云はく、「大空に飛び上がる時に、高山の峰か、又は高樹の梢などより
 昇るか」
寅吉云はく、「自由自在なり。何の事もなく飛び上がるなり」
 問ふて云はく、「大空は寒き所を通るか、熱き所を通るか」
寅吉云はく、「まづ大地を上りては、段々に寒くなるを、寒き所の極みを通り抜けては、殊の外に熱きものなり。さて多くは寒き所と、熱き所の間を通る故に、腰より下は水に入りたる如く寒く、腰より上は焼ける如く熱し。また其処をなほ昇りて、熱き所ばかりを通る事も多かる故に、髪はちぢれて螺髪(らほつ)の如くになる。又かの寒き所ばかりを通る事もあり。さてしたゝか上に昇りては雨ふり風吹くこともなく、天気いと穏やかなるものなり」 
 問ふて云はく、「元文年中の事なるが、比叡山に御修理ありし時に、木内兵左
 衛門とて、神隠しに逢へる人あり。其の人帰り来て後に云へるは、『伴ひたる
 異人、丸き盆の如くなる物の上の方に柄の付きたる物を出して、兵左衛門を乗
 らしめ、肩に両手をかけて推し付けるやうに覚えけるが、其の儘に地を離れ虚
 空へ高く上りたる』由を云へり。其の方の師は自在の身なれば、大空を行くこ
 と然
(さ)も有るべきなれども、未熟の其の方などの、虚空へ高く上る事叶ふべ
 くも非ず。もし兵左衛門が乗りたる盆の如き物などを用ひて、伴ふには非ざる
 か」
寅吉云はく、「遂に然やうの器を用ひたる事なし。仰せの如く、我は自在も何も出来ず。未熟なれども、師にいかなる術か有らむ、進退ともに、師に従ひだにすれば、空行も自由になりて、譬へば雁鴨など、一つがとび上がれば、群鳥その後につきて飛び上がる如く、師に就いては何処までも行かるゝなり」
 問ふて云はく、「讃岐国象頭山に鎮(しず)まり座(ま)す神の紋に、羽団扇(は
  うちわ)
をつけ、また旧く図(か)き伝へたる鞍馬山の僧正坊の絵も、手に羽団
 扇を持ちたり。これ決はめて由ある事ならんと、古書に考へて種々思ふ旨あり。
 師はいかに、羽団扇は持たれざるか」
寅吉云はく、「羽扇(はうちわ)は座右を放たずおきて、空行のをりはまづこの団扇をもて空をさして、目的を定めて飛び上がり、空より下る時もこの団扇をさし、其の所を見定めて下る。譬へば羽団扇は、樴(くい)の如き物なり。然れど空行のうち、常に此れをもて(くい)のごとく用ふと云ふにてはなし。唯昇る時と下る時とに用ふのみなり。下る時など、此の目的一分も違へば、下にては四十里、五十里ばかりの道は、忽ちに違ふ故に大切のわざなり。其は高みより礫をおとしてだに、寸分を違はず、糸を引きたる如くは落ちざるものなり。是れをもて羽扇を用ふわざの、大切なる事を知るべし」
 問ふて云はく、「羽扇は、大空を昇り下りの時のみに用ふる物か。余に用ふ道
 ありや。其の図はいかに」
寅吉云はく、「羽扇の用はなほ有り。まづ形は、[闕]    かくの如くにて、羽は十一枚なり。雁股(かりまた)に図のごときさやを入れて、真紅のふさを下げて、空行の途中は更なり、住座のときも、妖魔の仇をなし向かふ時に、さやを取り、羽先をもちて、手裏剣(しゅりけん)をうつ如く打ちつくるなり。それ故に羽元に、孔雀のとさかの毛をさし交へて、打ちつくる時に、水にても唾にても、其の毛にひたし付けて打つなり。孔雀の頭毛ほど毒なる物はなく、鴆毒(ちんどく)といふも此の事なる由きゝたり。また悪鳥悪獣などに、うち付けて殺すことも有るなり。右の如く用ある物ゆゑにいくらも作りて有り」 
 問ふて云はく、「この団扇に用ふる羽は、何鳥の羽ぞ。鷲の羽には非ざるか」
寅吉云はく、「何鳥の羽なるか知らず。此の春下山する時に、其の羽を二三本持ち来たれるが、此の毛我が家の者どもに、焼き捨てられたり。高みより落ちてけがをせず、水におぼれず、天気を見る書も焼かれたり。(○女仙民二郎に羽うちはを与ふ。)」
   
問ふて云はく、「むかし源義経、いとけなくて牛若丸といひし時に、山城国鞍
 馬山に居られしに、彼の山に住む僧正坊といふ異人に武術の奥義を習ひ受けら
 れたる由、ふるき書に見えたり。山人も武術を習ふ物なるか」
寅吉云はく、「我が部の武術稽古場は、加波山にありて専要と習ふは剣術、次に棒の稽古なり。また石打ちの稽古もあり」
   問ふて云はく、「剣術、棒などの稽古の為方はいかに」
寅吉云はく、「剣術稽古の始めには、まづ豆を抓
(つま)みて口に含み、一粒づつ吹き出して、太刀にて打ちおとし、千粒みな打ち落すやうになりて後に、二粒づつ吹き出して打ち落し、後に三四粒づつも吹き出し両刀にて打ち落し、此の稽古よく上達して後に、甲冑を着て真剣の試合をなす。但し幾太刀合すといふ定まりありて、傍らに其を見る人居て、引分くるなり。試合するどちは、互ひに勝負にのみ心速りて、幾太刀合せたりとも知らず戦へばなり。棒の稽古は、まづ[闕]         図の如く九字を切る形に習ひ始めて、よく練熟したる上にて種々の形を教へ、然して後に試合の稽古なり。さて石打ちの稽古は、一刀或は二刀を持ちたる者と礫をうつ者と立合ひて、礫をうつ者は面に打ちあてむと、透き間もなく打ち出づるを、悉く太刀にて受け留める事なり。余の武術は唯見たるばかりなれど、石打ちばかりは少しく習ひたり」
   問ふて云はく、「甲冑の製作はいかに。革具足か、竹具足には非ざるか」
寅吉云はく、「甲冑はこちらのと違ふことなしと覚えたり。さて保呂
(ほろ)をも背負ふことあり」
   問ふて云はく、「保呂の状はいかに」
寅吉云はく、「
[闕]  」 
   問ふて云はく、「彼方に弓もあるべし。其の状はいかに。其の稽古は無きか」
寅吉云はく、「常の弓は弦また矢の製作も此方のと異
(かわ)りなく、大弓も半弓も有りて、其の稽古もあり。左にても右にても、勝手次第に引くなり。外に大弓にて引く管矢(くだや)あり。また半弓にて射る二羽の箭(や)もあり」
   問ふて云はく、「弓の稽古はあづちに的をかけて射るか。また巻藁の稽古もあ
 りや」

寅吉云はく、「的、
巻藁などにて稽古する事はなく、鎖帷子を著て、面をあてたる人向ふになりて、東西南北に逃げ廻るを、追廻して射留めむとす。それ故に稽古のには、先にむくろじを付けてあり。容易に中(あた)らざる物なり。百本に二三本も射中るやうになれば、的を定めては、百本に百本あたる物なり」
   問ふて云はく、「管矢といふは、いか様に製する矢ぞ」
寅吉云はく、「
管矢は常の矢の長さにてわたり、常の矢の入るぐらいの竹を割りて、よく節をとり、矢鏃三四寸ばかりを、同じ太さの鉄管に為て、先は丸ぎりの如くに刃をつけ、鉄管と竹管と合ふ所はいふに及ばず、すべて四ヵ所ばかりに鉄たがをかけ、四つばかり穴をあけて有り。然らざれば管に風入りて重くなればなり。さて此の管矢の中に、常の矢の太さなる矢の管矢より三四寸ばかりも短き矢の、[闕] 図の如きを入れて射放てば、管矢グンと鳴りて、中りたる物を砕き止まり、中なる矢は向ふへ射抜かるなり。大魚猛獣などに射中てゝ、甚だ便宜しき箭なり。また鉛玉を射ることもあり」
   問ふて云はく、「半弓にて射る二羽の矢は、いかに作るぞ」
寅吉云はく、「
半弓は常の如くなれど、推し出しの竹を常に弦に通してあり。矢は[闕]       図の如く作り、矢筒に納れて夥しくたくはへ、さて握り手に持ちたるは、木の中を右の矢の入るべく、[闕]             図の如くつくりて矢を入れ、推し出しの竹にて射出すなり。此は軍陣にも用ひ、また鳥魚をとるにも用ふるなり。また二寸余りの管に針を多く入れて、握り手に持ちたる木の中に入れて、右の矢を射出す如く射れば、軍陣には目つぶしとなし、小鳥の群居る所に射て、取る事にも用ふるなり。豆を入れても、小石を入れても同じ事なり。また右の矢ばかりを、手裏剣の如く用ふる事もあり。然れど手裏剣に用ふるよりは、半弓にて射るかた目当違はで宜しきなり。さて管より射出す矢玉、また此の二羽矢をも、雨の降る如く射出すを太刀もて切り払ひ、棒をもて打ち払ひ、試合する事あり。上手の試合は軍(いくさ)を見る心地して、実に面白き物なり」
   問ふて云はく、「鳴弦とて弓弦(ゆみづる)を鳴らして、妖魔を避くる事はなき
 か。また蟇目とて 図 かゝる矢を射る事は無きか」

寅吉云はく、「
鳴弦の事ありや無きや、いまだ知らず。蟇目法といふは有りて、我も既に其の伝を受けたれど、然様の矢は用ふる事なく、桑弓に雉子の羽をはぎたる萩の矢をもて行ふなり」
   問ふて云はく、「真々木の弓とて、槻木、梔木、梓木、真木などの類ひをもて、
 製を加へず其の儘に弓に用ふる事はなきか」

寅吉云はく、「
[此処原本二行闕] 」
   問ふて云はく、「相撲のわざは今は遊事の如く成りたれど、古く名高き勇士た
 ちの各々角力を取られたるは、軍
(いくさ)に出て組討ちの勝負の為と聞こえて、
 宜
(むべ)なる事に覚ゆるを、後には聞こえずなりぬ。軍用に此のわざを習ふこ
 とは無きか。また柔術、馬術などはいかに」

寅吉云はく、「
角力は力競べの戯れに為ることは有れど、軍用に稽古すると云ふことは聞かず。柔術もなく、馬に乗ること無ければ、馬術といふもなし。但し馬は乗るべき物に定まりたれば、気相だによき人はいかなる荒馬をも、乗り静めらるゝ物ぞと聞きたり」
   問ふて云はく、「彼の境の太刀は剣なるか、片刃なるか。其の作り状はいか
 に。また師は常に帯刀せらるゝか」

寅吉云はく、「
もあり、片刃の刀もあり。師も他境に出づる時は、かならず帯剣せらるゝなり。其の状は、[闕]         図の如くにて、柄は身より打付けに為たるなり。人々の刀も大抵かくの如し。さて師の差料(さしりょう)を、或時師の見ざる間にそと抜きて見たりしかば、大雨ふりし故に、師は速やかに帰りて叱られたりき」
   問ふて云はく、「鉄炮はなきか」
寅吉云はく、「
鉄炮もあり。然れど火を用ひざる鉄炮にて、百匁の鉄玉を三里うち放つ鉄炮なり。音はさしも高からず」
   問ふて云はく、「其の鉄炮の製作は知りたるか」
寅吉云はく、「
 形製作は、[闕]         図の如くにて、ねぢを廻し、こめて打出す鉄炮なり。風嚢に三百匁の風こもるなり。其の風を一度に出すときは、大木を折り、山をもつらぬく故に、袋に風をつもり出すしるし有りて、遠くも近くも、心当りを定めて打出すなり。玉に書状を付けて、岩間山より筑波の山人に贈りたる事もあり。岩間より筑波山まで、直径二里足らずも有るべし。此の製作を委しく知れる由は、或時師の居ざる間に、其の製作を知りたく、取りくづして中を窺ひ、砂を吹きこめて見たりしかば、具合を損じて、甚(いた)く叱られたる事有ればなり」
   問ふて云はく、「かねて異人に伴はれたる者の言をきけるに、『途中にて行き
  逢ふ人に唾をしかけ、又は突きたをし、或は傍らに立ち居て印を結び、咒文な
 ど唱へて喧嘩をさせ、また或は行き逢ひたる人に頭をたれ、礼をなして通るこ
 とも有るに、しか為られたる人々知ることなく、突き倒されたるは、石につま
 づき坂を踏みはづしたると思ひ、喧嘩を咒はれたるは、互に口論を仕出して終
 には喧嘩となり、唾を為かけたる人、礼を為たる人、ともに知ることなく通る
 故に、其の由を問へば、異人答へて、「唾をしかけ突き倒し、喧嘩などさする
 は穢れたる人、慢心ある人、敬
(つつし)みなく信心うすく神の守護なき徒なり。
 礼を為たるは徳行篤く、敬み深く、神の守護ある人々なり」と云へり』とぞ。
 然る事もありや」

寅吉云はく、「
然る事あれども、其は十三天狗の如き、正天狗のわざに非ず。位のひくき天狗たちのわざなり。但し慢心なく、敬み深く、慈悲心ありて正しき人をば、天狗の方にては、何れも敬ひ尊ぶことなり。凡て天狗道に入りては、いかなる尊き人と云へども、現世の人よりは位卑くなるが、大天狗になりては、段々に世人より位高くなるなり」
   問ふて云はく、「天狗の位は、いかにして定まるぞ」
寅吉云はく、「
行の重なるに従ひて位上るなり。十二天狗の如き大天狗となりては、正一の位なり」
   問ふて云はく、「其の位は何より受くることぞ」
寅吉云はく、「
何より受くると云ふことは知らず」
   問ふて云はく、「天狗も神を信仰するか。また諸社へ参詣もするか」
寅吉云はく、「神々
ば悉く信仰して、常に拝をなし、また諸社に参詣する事もあり」
   問ふて云はく、「神拝する仕方はいかに。柏手を拍つか」
寅吉云はく、「柏手をうつに、天の御柱と云ひて大きく一つ拍ち、国の御柱といひて小さく一つ拍ちて、八百万神たちこれにより給へと唱へて祈願を為すなり。祈願をはりて後に、国の御柱といひて小さく一つ拍ち、天の御柱といひて大きく一つ拍ちて、八百万神もとの宮へ帰り給へと唱ふ。神拝に天の御柱、国の御柱といへば、神々へ祈願よく届きて、聞き入れ給ふなり。また日向の御柱、これは身そゝぎの時唱ふることあり、これは清めなり。出雲の御柱とも唱ふることあり、これは大社大国様の御事なりとぞ」
   問ふて云はく、「毎朝日に向かひて拝をなし、東の気を呑むことはなきか」
寅吉云はく、「朝起きると直ちに、顔を洗ふことなく、手の平に何やらむ字をかきて顔洗ふ状をなし、手に
[闕]   図の如き笏の本にて口中に楊枝を用ふ状をなし、づいと一町ばかり日に向かひてすゝみ行き、後じさりに元の所まで帰りて、立ちながら笏を前にあて、笏にとどくほどかしらをさげて拝するなり。頭は尊き物ゆゑに下にべたと付けぬものとぞ。すゝみ行くとき気を呑むか呑まざるか、其れは知らず。此の事をしまひて、神前に向かひ拝し終りて、神前に水の字を、[闕] 図の如く人さし指にて書く真似して退き、さて後に顔を洗ふなり」         
   問ふて云はく、「十三天狗誰れも其の通りなるか」
寅吉云はく、「
誰れも此の仕方はかはることなし」
   問ふて云はく、「仏を信仰し、朝々念仏題目など唱へ、また数珠をつまぐる事
 はなきか」

寅吉云はく、「彼方は両部ゆゑに、神棚にならべて、両部の仏もかざりて有れど、念仏題目ともに唱ふる事なく、また数珠をつまぐる事もなし。ただ
朝々神拝終りて後、直ちに西に向かひて、西方牟尼ハン仏と一篇となへて、よく見つめ、桑の木の二尺ばかりなるをエイと云ひて投げつけて退くなり。牟尼ハン仏とはアミダのことなりとぞ」
  問ふて云はく、「桑の木を西に投げつくるは、何の為なるぞ」
寅吉云はく、「
何の為と云ふことは知らず」
  問ふて云はく、「神拝に両手をそろへ、掌を上にしていただく事はなきか」
寅吉云はく、「
朝日に向かひて、一町ばかり進むとき、また神拝の時にも、其のわざをして、肩へ引きかぶる様にするなり」
  問ふて云はく、「天狗は殊に愛宕(あたご)の神を信仰するならんと思ふよしあ
 り、信ずるやいかに」

寅吉云はく、「
愛宕に限らず、何にても其の山の神を大切に信ず。されど火の行をする故に、愛宕をば常に信仰するなり」
 問ふて云はく、「火の行をするとて、何故に愛宕を信仰することぞ」

寅吉笑ひて云はく、「知れた事を問ひ給ふ物かな、愛宕は火の神加具土命
(かぐつちのみこと)なる故なり」
 問ふて云はく、「火の行の状はいかに」
寅吉云はく、「火つるぎとて、腕の太さなる炭を長く一町ばかりの所におこし、加持して幣をかざすに焼けざる時に、片端より一つづつこき行くなり。また衣を著たるまゝ、其の上を徒足
(かちあし)にてあゆむ。此れ即ち火わたりなり。火の勢ひにて一尺ばかりも火上に衣の裾ひらめくなり。火を手足にかくる時に、熱からんなど思ふ臆病心ありては、やけどをするなり。一向に然る念なく踏みも抓(つか)みもするなり」○火の行など、すべて怪しき事は、そんな事といへること。○また山人の行は、人間の為にするといへること。
 問ふて云はく、「其の外にも種々の行ありや」
寅吉云はく、「いかにも
種々の行あり。まづ其の時々の時候の服を、一つならでは著せず。決して重ね著する事なし。夏はひとへ物、春秋は袷、冬は綿の入りたるを著す。また冬ひとへ物、夏綿入れを著る行もあり。天狗道を修し始むるには、まづ百日断食の行なり。堪へがたく苦しきものなり。我が勤めたる時に、四五日ばかりも過ぎてひもじさ云はむかたなく、堪へがたき故に、密かに人にもらひて結びめしを一つ食ひたれば、したゝかに叱りて山下へ七度蹴落し、さて山の木にしばりつけて為直させたり。かくて夜とも昼とも知らず、日の多く立ちたると思ふと、頻(しき)りにひもじさ堪へがたく、前に栗の実一つ落ちたるを見たれば甚だ食ひたく思ひ、額より膏汗出でしかどしばられたる故にせん方なく、遂にこらへおほせたり。程すぎては然ほどになき物なり。其の後は死にたる如くにて、ふと目を覚ましたれば、はや百日立ちたり。されどもやうやう七日ばかりも立ちし様に思はれ、今思ふにも百日断食の行の早く済みたる事、これまた更に合点ゆかず。殊に不測なるは、此の行を始むる前に師より怠りなく行を力(つと)むべき由の誓詞を案文して、我が小指の爪を師の手でおろし抜かれたるが、其の痛さ堪へがたかりし事は慥かに覚えたるに、行をへ夢覚めて見れば爪も其の儘にあり。此の後師に従ひ居るほどは、折ふし手一合の行、さては寒水に七度入りて熱湯に三度入る、これ年に四度の行なり。さて年ごとに寒中三十日の水行あり」
 問ふて云はく、「百日断食の行を畢へたる後に、定めてつかれよわるならむ。
 其の状はいかに」

寅吉云はく、「身は干からびたる様になりて、筋骨あらはれ、力なくて動くこと叶はず。歩行せむと思へど足立たず。手に物も取られず。物言はむとすれど舌は働かず、耳も聞こえず。幾日とも限りなく眠られて、眼を覚ます事なし。其の間に、夢か現か、誰がわざとも知れず、食物しきりに口に入るを夢中にて食ふやうに覚えたり。さて数十日眠りたると覚えて、後に覚むれば現世の事は更に忘れて、生を替へたるが如くに彼方の心となる。これ修行の始めなり。凡て此方に来ては、もと此方にて有りし事も思ひ出でらるれど、彼方に在りては、此方にて有りし事どもは夢の如く忘るゝなり。又こなたに来て、彼方の事を思ふにも夢の如きこと多し」
 問ふて云はく、「日々に寒水に七度、熱湯に三度入る行の状はいかに」
寅吉云はく、「極寒の水に長く息をつめて七度ひたり、寒さ堪へがたく成れる時に熱湯に入るなり」
 問ふて云はく、「其の熱湯は何に沸かすことぞ。据風呂なるかいかに。焼けた
 だるゝ事はなきか」

寅吉云はく、「かたき石山を一間に二間ほどに、風呂の如く掘りて、鉄にて
[闕]    図の如く作れる物に水を入れて、上なる穴より鉄棒二本にて、[闕]    図の如く攪きまはせば、鉄棒と器のふちときしり合ひて火の如くなりて熱湯となる。其の湯を、彼の掘りたる所に入るゝなり。但しかくして沸かすことは手間どる故に、また傍らにかまどを作り、火を焚きてかの鉄器をかけ、幾はいも湯を沸かして、彼の掘りたる中に入れ、湛え、風呂の中の両傍に、[闕]   図の如く壺に火を入れて、並べ置けば、湯はますます沸きたぎる。其の時に、師まづ加持を為して赤裸にて眼をとぢ、[闕]   図の如く端より端へくぐりて出づるなり。入りたる程は甚だしく熱く堪へがたき様なれども、出でては少しもただるゝ事なし」
 問ふて云はく、「寒中の水行は何処にてするぞ。其の仕方はいかに。断食にて
 するか」

寅吉云はく、「寒中の
水行は、筑波山の白滝、不動の滝、日光山のけごんの滝などなり。其の中に筑波の滝は凡人また山伏なども行をする故に、おほくは日光山の華厳の滝にて行ふなり。赤裸に単(ひとえ)物を一枚著て、腹は鳩尾(みぞおち)の所と足の土ふまずと手くびの所と額をば、太縄にて結びて、頭巾か手拭などを冠り、日の出づるより日の入るまで滝に打たれ居て、夜は滝を出て寝るなり。食物も食ふなり。水行の功つもりては、白き団子ほどの物のふはふはしたるを吐くものなり。其の後まめになる。目をまはせば人々あたゝめる。常に目をまはせばとふがらし水にてよみがへる」
 問ふて云はく、「其の所に寝るか、常の住所(すみか)に帰りてねるか」
寅吉云はく、「
常の住所に帰らず、其の山に寝るなり。土の平らかにひくき所にて、松葉を熊手もて攪き集めて夥しく燃し、白く灰になりて土の熱く焼けたる所へ、樹葉松葉の落ち腐りて平たくこごりたるを持ち来て、厚くしき、連れの者ども赤裸となりて、其の著物を二枚ばかりも並べ敷きて、其の上に、たとへば五人の連れなれば、三人が寝ころぶと一人が残り居て、二枚の著物を三人の肌に引きかけて、其の上にまた松葉樹葉のこごりたるを、夥しく積みかけて、能々(よくよく)おし付け、さて残りたる一人が、尻の方からむぐり入りて寝るなり。毎夜に替る替るかくの如くするなり。夜半ごろまでは大分温かなれども、明方には歯をたゝくほど寒し。夜が明ければ直ちに滝に入ること、右に云ふが如し」
 問ふて云はく、「大塚町に石崎平右衛門といふ者あり。此の人若かりし程に筑
 波山に住む天狗に誘はれて、数年仕へたりしが、其の後帰り来たりしかど、世
 渡る道を知らざる故に、日光山に行きて林蔀といふ者に頼みて、天狗に世渡り
 の事を願ひたりしかば、十露盤
(そろばん)にて卜ふ事を教へたり。平右衛門その
 卜に妙を得て、云ふこと悉く当らずと云ふことなく、もし自分に卜ひ得ざる事
 ある時は、林蔀かたへ問ひ遣れば、蔀は筑波山の天狗に問ふて告げ遣はす由な
 り。此の蔀が言に天狗は殊に堅魚節
(かつおぶし)を好むものと云へりとぞ。実に
 然るものなりや」

寅吉云はく、「能くも知り給へる物かな。
堅魚節は精分を益す物なる故に、殊の外に好むなり。百日の行ならで、常に断食の行をする時も、鰹節と田螺ばかりは食するなり」
 問ふて云はく、「妖魔のたぐひ樹霊、天狗などの、殊に嫌がりて逃げる
物あ
 り。其を焚くときは、妖物
(まがもの)決して災ひをなさず。我これを伝授した
 り。何ぞ妖魔また天狗の恐るゝ
物はなきか」
寅吉云はく、「彼方にて行などのときに、障礙をなす魔のある時に焚く香あり。山の赤土、白檀、軽粉、薫陸、樒の葉の五味なり。是は殊の外に悪魔の嫌ふ物なる故に焚くなり。但し此は大切の事なり」
 問ふて云はく、「むかし享保年中の事なるが、備後国に稲生平太郎とて十六歳
 の若者ありしが、剛強類ひなき人なりしに、此の国に比熊山とて魔所といひ伝
 へて登る人なく、木の葉一枚とりても祟りを為す恐ろしき山の有りけるに登り
 て、魔の宿る樹と云ひ伝ふる木に印して帰れるに、其れより平太郎家に妖怪あ
 らはれて、三十日の間、千変万化して悩ませむと為たれど、平太郎少しも恐れ
 ざりしかば、其の妖物遂に立ち去れるが、其の去る時に形を現して、『我は山
 本五郎左衛門とて妖魔の首領なり。我と同じ事をなす、神野悪五郎といふ者も
 あり。凡て男子十六歳になる時は、人によりて災ひあり。そは我等が為すわざ
 なり。我比熊山にて汝を見て災ひせんとて来たりしなり。今帰るを見よ』とて、
 現世の武家の如き供立てにて、駕に乗り雲に入りて西に去れる事あり。此は天
 狗とも聞こえず、何物ならむ。かゝる物は見ずや聞かずや」

寅吉云はく、「然様の名はきゝ及ばず。されど世に、悪魔は夥しく有れば、其の中に然様の名ある悪魔も有るべし」
 問ふて云はく、「世に悪魔夥しく有りとは、如何なる事ぞ。悪魔は天狗とは異
 なるか。其の住所はいづこならむ」

寅吉云はく、「
悪魔どもは何処に住むと云ふことは知らねども、各々群々ありて、其の伴類(ともがら)夥しく、常に大空を飛行し廻りて、世に障礙をなし、悪しき人をばますます其の悪を長ぜしめ、善き人をば其の徳行を妨げて悪に赴かしめ、人々の慢心怠慢を見込みて其の心に入り、種々の禍難を生じて其の心を邪にまげしめ、仏菩薩とも美女美男ともなり、地獄極楽、其の外何によらず、人々の好む所に従ひて、其の形象をも現してたぶらかし、悉く我が伴類に引き入れ、世を我が儘にせむと計らふ物なり。我が正目(まさめ)に見たるは、其の状下に図するが如くにて、輿を推す物を大力といふ。形は此の二種に限らねど、正しく見覚えたるはかくの如し。外に一人かけるは何といふやらん知らず。著たる物の図は此くの如くにて、[闕]       耳にくさり下がりたり。手に糸を出す。下に垂れたる所を、両手に握りて障礙をなす。頭は針金の如くにて、其は髪の如くにも見え、また冠り物の如くも見ゆるなり。手より糸を出し引きかける。善人にはかゝらず。また人々の家々をのぞきあるく。魔に虫たかる、虻の様なり。シヤリ骨を首にかけたる魔もあり。神の人を扶け給ふも、此のわけなるべし。世人悪魔の多きことを知りたらば、道徳をつむべしと師説なり。さて天狗といふ物は、深山におのづから出で来たるあり。また鷲・鳶・烏・猿・狼・熊・鹿・猪、その余何によらず鳥獸の年旧りたるが化(な)るあり。鳥は手足を生じ、獣は羽を生ずるなり。また人の死霊の化るあり、生まれながら成るあり。但し人の成れるには邪と正とあり。邪天狗はやがて妖魔の伴類なり。世には右種々の物のわざを、総て天狗のわざと云ふなり。さて我が師の如きをも、世には天狗といふ故に姑(しばら)く天狗とは云へども、実は天狗に非ず、山人といふ物なり。さて大空に右種々の物どもの飛行し廻る道あること、国土の道の竪横にあるが如し。火見櫓をおし倒し、半鐘をはづしなどするは、皆かの大力らがわざなり。力いかほど有りと云ふこと、測り知られざる故に大力と云ふなり。此れほど恐ろしき物なし。世に鬼と云ふも此等の類ひなり」
 問ふて云はく、「仙人と山人とは異なるか。日本にも役行者(えんのぎょうじゃ)
 どは正に山人にて、仙人ときこえ、また旧く楊勝仙人、久米仙人など云へる類
 おほく有りしが、今も仙人と称する物はなきか」

寅吉云はく、「唐のを仙人といひ、日本のを山人といふ。同様の物なれども、日本にては仙人といはず。
楊勝仙人、久米仙人など云ふは旧く有りしか知らねども、我は聞き知らず。役行者は、今は此の国に居ぬと聞き及べり。山人は唐へも行き、仙人もこちに来たること、双岳、古呂明も本は唐にありき。其の時の名なり。なほ実名あり」
 問ふて云はく、「下総国東葛西領新宿といふ所に、藤屋荘兵衛といふ者あり。
 
先年此の者の家に、富士山に住む常明といへる山人の来たりて、二三日逗留し、
 三社の託宣の如き物を記して与へたる事あり。此の山人を知れるか」
寅吉云はく、「それは富士山には有るべからず。大山に住む山人の名なり。大山を富士と聞き違へ給へるなるべし」
 此は、往年、
下総国葛飾郡柏井村に住する門人、中尾玄仲といふ者の物語にて、
 富士山の山人と聞き覚えたるを、寅吉が此くの如くいふ故に、玄仲が許へ、態
 
(わざ)と人を遣りて、なほ委しく問はしめたるに、書付けて遣はせけるは、「彼
 の荘兵衛、常に大山の神を信仰せしが、一日午
(うま)の時にもならんと思ふ頃
 に、『今日大山参りに行く』とて、支度する故に、家内の者ども、『今日は遅
 くなりたれば、明日にせよ』と止むれども、『思ひ立ちし事なれば、止むる事
 勿れ』とて立出でたるは午の時過ぎなり。斯くて十八九町も行きしに、向ふよ
 り柿色の衣
(きぬ)著て、髪長く山伏のごとき人の、凡人より眼大きくすさまじ
 げなるが来て、荘兵衛に詞をかけ、『其の方大山に参詣するとて金弐歩持ち出
 でたれど、壱歩は通用せざる金なり。我それを銭に替へて遣はすべし。此方へ
 渡すべし』と言ふにぞ、何の心もなく渡しけるに、眼前に消え失せたる如く見
 えず成りぬれば、荘兵衛いと不測に思ひつゝ徐然
(おもむろ)に行きしに、彼の
 異人何処よりか出で来て、『銭と替へて来たれり。大山に連れ行くべし。目を
 閉ぢて我が背に負はれよ』と云ふにぞ、荘兵衛背に負はれしかば、其のまゝ空
 に昇るよと思ふにやがて大山の麓に至りぬ。さて山に上りて社を拝み、御札を
 戴きて、『此処に来たるべし。我こゝに待ち居て送り遣はすべし』といふ。荘
 兵衛その如くして麓に至れば、未
(ひつじ)の時すぎなり。斯くてまた眼を閉ぢ
 よとて、背に負はれて忽ちにはじめ逢ひし所に来たりて、『是れより一人にて
 帰るべし。遠からぬ内に汝が家に行くべし。よく清め掃除して待てよ』とて別
 れ去りける。さて五六日過ぎて、門口より『荘兵衛宿に居るか』と云ひつゝ、
 案内もなく彼の人来たりて奥に通り、『汝は正直なる者ゆゑに来たれり。我は
 常昭といふ者なり。酒呑みかはさん。火を燧
(うち)かけて持ち来たれ』とて、
 二人にて汲みかはし親しく語らひて、五六日ほど逗留しけり。其の間にきゝ伝
 へて、訪ひ来たる人の多かる中に心にさげすみ、試し見んなど思ひて来る者を
 ば、疾く知りて、『今外より入り来る何某と云ふ者は、我をさみして試し見ん
 とて来たれり。いと穢き奴なり』と唾して忌み憎みけるとぞ。逗留の内に、荘
 兵衛『いかで尊き物を書きて授け給へ』と乞ひけるに、雨降りて闇き夜に、燭
 火もなく筆を執り、ただかき廻すやうに見えしが、忽ちに鹿嶋、香取、息栖
(い
 きす)
三社の神号をかき、下に託宣の如き物をぞ書きたりける。此は隣家なる次
 郎兵衛といふ者も、彼の人を信じける故に書きて与へける。其の帰る時に、長
 々逗留して世話になれるよし、厚く謝して、『此の後汝等が家に火災なき様に
 すべし。然れども此の家に常に住すること叶はねば、火災の有らん時は、富士
 の方に向かひて我が名を呼ぶべし』と云ひて出でにけり。其の後新宿に火災の
 有りけるに、荘兵衛が家にては、火の近きまゝに狼狽して呼ぶことを忘れたり
 しかば焼けたり。隣家なる次郎兵衛は、四方の軒端に火の燃え付きたる程に思
 ひ出して、富士の方に向かひ『常昭様常昭様』と呼びけるに、誰が消すともな
 く消えにけり。また其の後雨夜に荘兵衛が屋根に、砕くるばかりに物の落ちた
 る音しけり。『何やらむ』と立ち出でて見れば、苞に一箇の丸き石を包みて有
 りし故、不思議に思ひて取り納め置きたり。其の後次郎兵衛が宅に、常昭来た
 りて、『先頃鹿嶋社に御使に参る時、荘兵衛が家に土産を置きたり。雨の降る
 夜なりし故に人の知りたりや否や』と問ふ。次郎兵衛『しばし入りて休み給へ』
 と云ふに、『今日も急ぎの御使なれば立寄りがたし』とて、其のまゝ見えず成
 りにけり。また其の後、この荘兵衛が親類なる、江戸神田に住する、何某とい
 ふ者、神隠しに成りたるが、帰り来て後に、荘兵衛方に来たりて云ふやう、『先
 年此の家に来たりしは、常昭といふ人にては無かりしや』と問ふに、人々驚き
 て、『其の人を知れるか』と問ひければ、『其の人今は富士山の下に隠居して、
 仕へを勤めず』と語りけるとぞ。藤屋は今も荘兵衛といひて、六十五六歳なる
 が、此は常昭と交はりし荘兵衛が子にて、此の者の十二三歳の時なりしと、今
 も覚え居て語る。彼の書きたる神号も、今に秘蔵して持ちたりと記して、其の
 神号を、先年摸写し置きたるを、再び摸写して遣はせたり。其の書体は、
[此処
  一行闕]

 此くの如くにて、下に云々と記し、末に田村氏、日向国坂野上常昭山人と書き
 たり。本は田村氏にて、日向国坂上といふ所の産なりけむが、山人になりて、
 大山の神に事
(つか)へ、其の後に富士山の麓に隠居したりと聞こゆ。予は富士
 に住むとのみ聞き覚えけるに、寅吉が『大山の山人なり』と云へる事甚
(いと)
 奇なり。年数を推し考ふるに、常昭山人、しばらく大山の仕へを退きて、富士
 の下に隠居したるが、近ごろ再勤
(またつと)むる事となれりと見ゆ。然らでは
 寅吉が、大山の山人と知るべき由なければなり。殊に奇なるは彼の摸写したる
 神号を見て、「常昭の書と違へるやうに見ゆ」と数々
(しばしば)云へり。三転
 の摸写なれば然も有るべくこそ。さて此の後寅吉が己れと書きたる物どもを
 見れば、神風野福、神野心悪、鬼野心神など様に、辞にかくの字に野をかけ
 り。常昭山人が書にも、辞の所に野字を六つまで書きたるは、不測に符合し
 て甚奇なる事なりかし。
 問ふて云はく、「旧き書等に名の聞こえたる天狗に、鞍馬山の僧正坊、愛宕山
 の太郎坊、比良山の次郎坊、伊都奈
(飯綱)山の三郎坊、富士山の太郎坊、常陸
 の筑波法印、上野の妙義坊、彦山の豊前坊、比叡山の法性坊、伯耆の大山に住
 む伯耆坊などいふ類ひの天狗と名に負へるもの夥しく、然る山々の天狗を知ら
 ざるか。また山々に各々山人も多かるべし。知りたるは無きか」

寅吉云はく、「世に天狗と称するもの、高山といふ高山に住まざるはなく、奇の中に邪なるも正なるも有るよし、又その邪天狗の中に実は悪魔なるも有るべく、また山人も住すべし。但し越中
国の立山はことに高山なれども、仏法のみの山なる故に正しき天狗は住せず、悪魔のみ住すと、同友白石左司馬が物語なり。然れど此は左司馬がいへる言なれば、記し留め給ふべからず。さて其の山々の天狗山人など、各々別界なる故に名を知れるは更になし」
 問ふて云はく、「左司馬はもと何処の人にて、何頃(いつごろ)より僧正の弟子に
 成りたるぞ。歳はいくつ計りなるぞ。又この人仏法は嫌ひなるか」
寅吉云はく、「左司馬は二十歳ばかりと見えたり。本は妙義あたりの社人なりしとぞ。彼の境の人となり極りたるは、二十歳の時にて、元禄十三年三月三日よりの事と聞きたり。元は仏法ずきにて有りけるが、道に入りて後に好まず成れる由なり」
 問ふて云はく、「唐土に居る仙人といふ物は、此方へも来ること有りや。そち
 は見たること無きか」

寅吉云はく、「 我が師など、唐へも何処の国々へも行くこと有れば、唐土の仙人の、此の国へ来ることも有るべし。何処の国か知らねども、師に伴はれて、大空を翔
(かけ)りし時、いさゝか下の空を、頭に手巾か何か、たゝみて載せたる様にしたる老人の、鶴に駕(の)りて、歌を吟じて通れるを見たり。其の歌は符字のごとき物なり。これ仙人なりしとぞ。此の外には見たることなし」
 
問ふて云はく、「神の御形は、山人天狗、また其の方などの眼に見え給ふこと
 は無きか」

寅吉云はく、「師などの眼に見え
給ふ事もあるか、其は知らず。我等は神の御形をかつて見たること無けれど、折々金色にて幣束の形の如く見なさるゝ物の、ひらひらと大空を飛ぶことあり。此は神の御幸なりとぞ。其の節(とき)は誰も地に畏(かしこ)まりて拝するなり」
 問ふて云はく、「長楽寺が迎ひに、天狗の釈迦仏に化りて来たれるといへば、
 余の仏にも、また神にも化る物なるか」

寅吉云はく、「仏には、何仏にも化れども、神には化ることなし」
 問ふて云はく、「何故に仏には化れども、神には化らざるや」
 或人傍らに居て、「神は尊く、仏は賤しき物故に、神にはばけず、仏に化るな
 らむ」と云へば、

寅吉云はく、「然らず。仏は各々像ある故に、其の像を真似て化れども、神には御像を立てざる故に、真似て化るべき様なし。仏に化るばかりならず、地獄極楽の有り状をも現はす。是れまた絵に書きたるを真似てなり。吾も地獄極楽の有り状を現はせるを見たる事あり」

                                     
                                         『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 一之巻 終         
                                                                 

 

 

 

 

  (注) 1.  資料330「平田篤胤『仙境異聞』(上)三之巻」に続く 「(下)一之巻」です。初めに、<(外題)「仙境異聞下」 仙童寅吉物語 一之巻>とあります。
 『仙境異聞』(上)一之巻」が資料43にあります。
 『仙境異聞』(上)二之巻が資料109にあります。
 『仙境異聞』(上)三之巻が資料330にあります。
 『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 二之巻が資料332にあります。
 
    2.  本文は、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』(子安宣邦 ・校注、2000年1月14日第1刷発行) によりました。
 ただし、(上)の一之巻・二之巻・三之巻と同様、本文中の会話等を示す鉤括弧(「 」『 』)は、読みやすさを考慮して引用者が付けたもので、文庫の本文には付いていません。その関係で、鉤括弧(「 」『 』)内の読点を句点に改めたり、会話文末の読点を省いたりしたところがあることを、お断りしておきます。 
 また、「
『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 一之巻 終」も引用者が付けたもので、文庫の本文には付いていません。     
 
    3.  文庫には校注者・子安宣邦氏による後注が付いていて、読むうえで大変参考になります。
 また、巻末に解説(『仙境異聞』─江戸社会と異界の情報)もあります。
 
    4.  掲載本文の「わいわい」「をりをり」「またまた」「なかなか」などの繰り返し部分は、文庫本文では「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字になっています(文庫本文は勿論縦書きです)。        
    5.  岩波文庫の底本は、『平田篤胤全集』第八巻(内外書籍、昭和8年刊)所収の平田家蔵本の由です。  
    6.  岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の校注者・子安宣邦氏の『子安宣邦のホームページ』 があります。        
    7.   資料366に 平田篤胤「勝五郎再生記聞」があります。  

 



     
           
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