資料409 源義経「腰越状」(『平家物語』巻十一による)
腰 越 狀 源 義 經
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源義經恐(おそれ)ながら申上候意趣者(は)、御代官(おんだいくわん)の其一(そのひとつ)に撰ばれ、勅宣の御使として、朝敵をかたむけ、會稽の恥辱をすゝぐ。勳賞おこなはるべき處に、虎口の讒言によ(ツ)てむなしく紅涙にしづむ。讒者の實否(じつぷ)をたゞされず、鎌倉中(かまくらぢう)へ入れられざる間、素意をのぶるにあたはず、いたづらに數日(すじつ)ををくる。此時(このとき)にあた(ツ)てながく恩顔を拜したてまつらず(ン)ば、骨肉同胞の儀すでにたえ、宿運きはめてむなしきににたるか、將又(はたまた)先世(ぜんぜ)の業因の感ずる歟(か)。悲哉(かなしきかな)、此條(このでう)、故亡父(こ・ばうぶ)尊靈(そんれい)再誕し給はずは、誰(たれ)の人か愚意の悲歎を申(まうし)ひらかん、いづれの人か哀憐(あいれん)をたれられんや。事あたらしき申狀(まうしでう)、述懷(しゆつくわい)に似たりといへども、義經身體髮膚(はつぷ)を父母にうけて、いくばくの時節をへず故守殿(こ・かうのとの)御他界の間、みなし子となり、母の懷(ふところ)のうちにいだかれて、大和國宇多郡(うだのこほり)におもむきしよりこのかた、いまだ一日片時(へんし)安堵のおもひに住せず。甲斐なき命は存すといへども、京都の經廻(けいくわい)難治(なんぢ)の間、身を在々所々にかくし、邊土遠國(へんどをんごく)をすみかとして、土民百姓等に服仕(ぶくじ)せらる。しかれども高慶忽(たちまち)に純熟(じゆんじゆく)して、平家の一族追討のために上洛(しやうらく)の手あはせに、木曾義仲を誅戮(ちうりく)の後、平氏をかたむけんがために、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭う(ツ)て、敵のために命をほろぼさん事を顧(かへりみ)ず、或時は漫々たる大海(だいかい)に風波の難をしにぎ、海底にしづまん事をいたまずして、かばねを鯨鯢(けいげい)の鰓(あぎと)にかく。しかのみならず、甲冑(かつちう)を枕とし弓箭(きうせん)を業(わざ)とする本意(ほい)、しかしながら亡魂のいきどほりをやすめたてまつり、年來の宿望をとげんと欲する外(ほか)他事なし。あま(ツ)さへ義經五位尉(ぜう)に補任(ふにん)の条、當家の重職(てうじよく)何事か是にしかん。しかりといへども今愁(うれへ)ふかく歎(なげき)切(せつ)也。佛神の御(おん)たすけにあらずより外(ほか)は、爭(いかで)か愁訴を達せん。これによ(ツ)て諸神諸社の牛王寶印(ごわうほうゐん)のうらをも(ツ)て、野心を插(さしはさ)まざるむね、日本國中の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を驚かし奉(たてまつ)て、數通(すつう)の起請文(きしやうもん)をかき進(しん)ずといへども、猶(なを)以て御宥免(ごゆうめん)なし。我國(わがくには)神國也。神(かみは)非礼を享給(うけたまふ)べからず。嫖憑處他にあらず。ひとへに貴殿廣大の慈悲を仰ぐ。便冝(びんぎ)をうかゞひ高聞に達せしめ、秘計をめぐらし、あやまりなきよしをゆうぜられ、放免にあづからば、積善(しやくぜん)の餘慶(よけい)家門に及び、榮花(ゑいぐわ)をながく子孫につたへむ。仍(よつて)年來の愁眉を開き、一期(いちご)の安寧を得ん。書紙(しよし)につくさず。併(しかしながら)令省略候畢(せいりやくせしめさうらひをはんぬ)。義經恐惶(けうくわう)謹言(つゝしんでまうす)。 |
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(注) 1. この「源義経「腰越状」(『平家物語』巻十一による)」の本文は、日本古典文学大系33 |