資料410 源義経「腰越状」(『義経記』による)
腰 越 狀 源 義 經
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源義經恐れ乍(なが)ら申上候意趣は、御代官の其(その)一つに撰ばれ、勅宣の御使(つかひ)として朝敵を傾(かたぶ)け、會稽(くわいけい)の恥辱を雪(すゝ)ぐ。勳賞行はるべき所に、思(おもひ)の外(ほか)に虎口(こくう)の讒言(ざんげん)に依つて莫大(ばくたい)の勳功を默止(もだ)せらる。義經犯す事なふして、咎(とが)を蒙(かうぶ)り、誤りなしといへ共、功有(り)て御勘氣(かんき)を蒙(かふぶ)るの間(あひだ)、空しく紅涙に沈む。讒者(ざんしや)の實否(じつぷ)を糺(たゞ)されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず。徒(いたづ)らに數日を送る。此時に當つて永く恩顔を拜し奉らず、骨肉同胞(どうばう)の儀既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、將又(はたまた)先世(せんぜ)の業因(ごうゐん)を感ずるか。悲しき哉、この條、故亡父尊靈再誕(さいたん)し給はずむば、誰(たれ)の人か愚意の悲嘆を申(し)披(ひら)かん、何(いづ)れの人か哀憐(あひれん)を垂れんや。事新しき申狀、述懷に似たりと雖も、義經身體髮膚(しんたいはつぷ)を父母(ぶも)に受け、幾(いくばく)の時節を經ずして、故頭殿(こかうのとの)御他界の間、孤(みなし)子となつて、母の懷(ふところ)の中(うち)に抱(いだ)かれて、大和國宇陀郡(うだのこほり)に赴きしより以來(このかた)、一日片時(へんし)(も)安堵の思ひに住せず、甲斐なき命は存(ぞん)ずと雖も、京都(の)經廻(けいぐわい)難治(なんぢ)の間、身を在々所々に隱し、邊土遠國(へんどをんごく)を栖(すみか)として、土民百姓等(ら)に服仕(ぶくじ)せらる。然(しか)れども幸慶(かうけい)忽ちに純熟して、平家の一族追討の爲に上洛せしむる。先づ木曾義仲を誅戮(ちうりく)の後平家を攻め傾(かたぶ)けんが爲(ため)に、或時は峨々たる巖石(がんせき)に駿馬に策(むちうつ)て、敵(かたき)の爲に命を亡(ほろぼ)さん事を顧みず。或時は漫々たる大海に風波の難を凌(しの)ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍(かばね)を鯨鯢(けいげい)の鰓(あぎと)に懸く。加之(しかのみならず)甲冑(かつちう)を枕とし、弓箭(きうせん)を業(げう)とする本意、併(しかしながら)亡魂の憤(いきどほり)を休め奉り、年來の宿望を遂げんと欲するの外は他事無し。剩(あまつさ)へ義經五位の尉(ぜう)に補任(ふにん)の條、當家の重職(てうじよく)、何事か是(これ)に如(し)かん。然(しか)りといへ共今の愁(うれへ)深く歎(なげき)切なり。佛神の御助(たすけ)に非(あら)ずは、爭(いかで)か愁訴を達せん。是(これ)に因(よ)つて、諸寺諸社の牛王寶印(ごわうほうゐん)の御裏(うら)を以て全く野心を插(さしはさ)まざる旨、日本(ぽん)國中の大小の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を請(しやう)じ、驚かし奉つて、數通の起請文(きしやうもん)を書き進(しん)ずと雖も、猶以(もつ)て御宥免(ゆうめん)なし。夫(それ)我國は神國なり。神は非禮を享(う)け給ふべからず。憑(たの)む所他にあらず。偏(ひとへ)に貴殿廣大の御慈悲を仰ぎ、便宜(びんぎ)を伺ひ高聞(こうぶん)に達せしめ、祕計を廻(めぐ)らして、誤(あやまり)無き旨を宥(ゆう)ぜられ、芳免に預(あづか)らば、積善(しやくぜん)の餘慶家門に及び、榮華を永く子孫に傳へ、仍(よつ)て年來の愁眉(しうび)を開き、一期の安寧を得ん。書紙(しよし)に盡(つく)さず、併(しかしながら)省略(せいりやく)せしめ候ひ畢(おは)んぬ。義經恐惶謹言。 |
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(注) 1. この「源義経「腰越状」(『義経記』による)」の本文は、日本古典文学大系37『義経 |