資料405 安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之三





 

         醒 睡 笑  巻之三                安樂菴策傳  

 

 



      ◇ 文字知顔
(もじしりがほ)

◎或人、小姓を「かすなぎ かすなぎ」と呼びて使はるゝ。客不審に思ひ、其
(その)故を尋ねければ、「さる事あり、春長(はるなが)と書けり。かすは春日(かすが)のかす、なぎは長刀(なぎなた)のなぎよ」と。
◎元三
(ぐわんざん)に利口なる人禮に來(きた)れり。亭坊(ていばう)智德なきゆゑ、こびたる顔に仕なしたがり、對面を遂げ祝儀を述べ、「なにと煮餅(にべう)を參らうか、やく餅(べう)を參らうか」と問ふ。客たゞ「煮餅を給はらん」と。さて膳を据ゑ、齋進(さいしん)を出(いだ)し強ひける時、客「未だ持餅(ぢべう)が候」と。無理に一つ盛りければ、「あら咳病(がいびやう)や」と。
◎振舞なかばに亭主、「鹽打大豆
(えんだだいづ)々々々々」と呼びければ、鹽打豆(しほうちまめ)を持ちて出でけり。又一度呼ぶ時、「いやなし」と申したれば、「不及力(ふきふりき)々々々、不及力」とうなづきたり。客大(おほい)に感じ、家に歸りて人を請(しやう)じ、次第を忘れ、始めに「不及力を出(いだ)せ」といふ。鹽打豆を出(いだ)せり。かさねて乞ふに、「最早(もはや)ない」と答ふる。「鹽打大豆(えんだだいづ)々々々々」と。  あとをさきへ、入らぬ文字あつかひや。
◎「笛のえはちゞみえか、末のゑか、いづれがよい」といふに、「されば定家のかなづかひにも、源氏などにも、ちゞみえを書きたるは」。「いや、よこえがよい」。「何とて」。「笛は横にして吹くほどに」。そばにゐたる禪門うかべたる體
(てい)をし、「げにもげにも、尺八の八もよこえぢや」。
◎備後國
(びんごのくに)に久代(くしろ)とて如形(かたのごとく)の大名あり。土生(はぶ)といふ侍(さぶらひ)を、藝州元就(げいしうもとなり)へ歳暮(せいぼ)の禮儀に遣(つかは)されし。對面あつて、「出雲の國に、雪はいかほど降りたるぞ」とあれば、かの土生手をつき、「雲州の雪は馬足不立(ばそくふりふ)にして、恰(あたか)も鐵をのべたるが如し」と申上げたり。大(おほい)に氣色損じ、「今より以後、此(この)者使(つかひ)に無益(むやく)」とぞ。「唯(たゞ)出雲は大雪にて、馬のかよひも御座ない」と申さんものを。又彼(かの)土生、在郷に住む侍なれば、過半耕作(くわはんかうさく)などしけり。或五月雨(さみだれ)の晴間に、鋤(すき)を杖につき靜(しづか)にありく。百姓行きあひ、「いづれへ」と問ひければ、「田水見行(でんすいけんぎやう)」と答ふ。「田の水を見に行く」というたはまし。
◎醫者にむかつて、「白朮
(びやくじゆつ)とは何を申すや」。「をけらといふ草なり」と。こびたる事におもひ、客をまうけたる席に、中間(ちうげん)、彼(かの)草を、縁のはしに持出(もちい)で、「白朮を掘りて參りた」と言はせ、「其處(そこ)にをけら」というてくすめり。近頃文盲なる人感(かん)にたへ、歸りて中間に敎へおき、態(わざ)と人を呼び振舞ひけるに、中間が打忘れ、「をけらをほりて參りた」と。亭主よういふ顔にて、「そこに白朮せよ」と。
◎作意ある人の犬あり。名を廿四とつけたり。「廿四々々」と呼べば來
(きた)る。「なにとしたる仔細にや」と問ふ。「しろく候(さふらへ)ば」。「さて實(げ)にも實(げ)にも」と感じ家に歸り、白犬をもとめ廿四と呼ぶ。「いかなる心持ぞ」と尋ねられ、「しろう候へば」。
◎革細工のかたへ、侍のもとよりとて、太刀に文
(ふみ)をそへ持來(もちきた)る。 開き見れば、「此(この)日々念を入れ給り候へ」と有り。つひによむ者なし。亭主わざと侍のもとへ行(ゆ)き、直(じき)に尋ねければ、「それこそ誰(たれ)もしるべき文字よ。かしらの日(ひ)はついたちのたち、次の日は二日(ふつか)のつか、「太刀のつかをまきてくれよ」にて、すみたるものを」となり。
◎宗祇
(そうぎ)東國修行の道に、二間四面(にけんしめん)の奇麗なる堂あり。立寄り腰をかけられたれば、堂守(だうもり)のいふ、「客僧は上方(かみがた)の人候(さふらふ)や」。「なかなか」と。「さらば發句(ほつく)を一ッせんずるに、付けて見給へ」と、
  「新しく造りたてたる地藏堂かな」
      「物までもきらめきにけり」
と付けられし。「これはみじかいの」と申す時、祇公、「そちのいやことにあるかなを、出
(た)されよ」とありつる。
◎堺の中濱に道海
(だうかい)とて富める者あり。ちとはれがましき客を請(しやう)じ、朝食(あさげ)の膳を出(いだ)し、末座にきと手をつくね、言ひける事こそ腹筋(はらすぢ)なれ。「西宮(さいぐう)に人(にん)を遣す、大風(たいふう)頻りに吹いて新魚無(む)なり。鹽魚買來(えんぎよばいらい)不及力(ふぎふりき)」。たゞ「西の宮へ人をやりたれば、大風が吹いて新しい魚(うを)がをりない」と言はいで。
◎坊主と弟子といひ談じて、つねづね愚人
(ぐにん)をあひしらひし、その風(ふう)をあてことにし、ちくと文字のある客の時、弟子出でてはゞからず、「水邊(すゐへん)に酉(とり)あり、山に山を重ねんやとは、酒をいださうか」というた。師匠が返答に、「丿乀夕夕(へつぼつせきせき)、人が多いに無用」といふ。賓客(ひんきやく)(とみ)に察し、「玄田牛一(げんでんぎういち)とは畜生めぢや」とて、座敷を立ちたる仕合(しあはせ)なり。
◎ある武將のうらかたに、瘧
(おこり)をわづらへる事あり。侍を使(つかひ)として醫者(いしや)のもとへ、「文(ふみ)までもなし、「女(をんな)ども瘧病(ぎやくへい)にいたはりぬる間、藥調合(てうがふ)の儀頼むといへ。」「畏(かしこま)り候」とて立ちけるが、打忘れ、次にて「瘧の名はべちになきか」と問ふ。「ぎやへいといふぞ。」うなづき行き醫師(くすし)にむかひ、「ぎやていの藥を」と申しけり。をかしく思ひ、「腹(はら)ぎやていか、はらそうぎやていか、知れぬ」と言はるれば、「さる事候。右の脇ちといたくて、後(のち)ふるひ給ふ間、さだめてはらぎやていにて候べし。」「心得たり」とて藥をつかはしたれば、本復(ほんぷく)してんげり。醫者、武將に逢うて右の趣を語りけるに、「さたのかぎり、そいつは觀音經(くわんおんぎやう)を一部いうてあつた」と。
 始
(はじめ)よりおこりといふがよからん。入らぬ御使(おつかひ)のこびたるにて、主殿(しうどの)まで恥をかゝれた。
◎美濃國うるまの大安寺に、般若坊とて狂歌に名を得たるありし。知音
(ちいん)たる人のもとより、此(この)冬の暮行(くれゆき)仕合(しあはせ)なにとかなど、いひ送りたれば、
  「心經
(しんぎやう)の摩訶の下(した)なる般若坊ことし一切くやくなりけり」
◎武士たる人の、殿とのといふが、殿の字の聲はでんと敎ゆる。又月といふ字の聲はぐわちとをしゆる。此
(この)二字をならひ得て、いかさまはれがましき處にて、言ひ出(いだ)さんとたくまれけるが、或時館(やかた)に座敷能のはじまりしを、物見のため人多くあつまりゐけり。其砌のみぎり)、かの武士威儀をけだかくかいつくろひ、「殿原(でんばら)よ殿原(でんばら)よ、それにゐる者どもを、皆縁(ゑん)から下へ月(ぐわち)こかせよ。」
 せんないたしなみさうな。
◎金子
(きんす)と書くべき處に合子(がふし)とかきたり。「是(これ)は」と不審しあへれば、「金(かね)といふ。合(がふ)の字を、時々はせしむると讀むすべをさへ、え知らいで」と、けつく慢じごとは。
◎「あへものゝ菜
(さい)をば、何時(なんどき)も本皿(ほんざら)には盛らず、鉢にても重箱にても盛入(もりい)れて、ひきざいにしたがよいと、庭訓(ていきん)にある」といふ。「いづれの文(ふみ)にありや、つひに見ぬ。」「かくれもない、あへてもつては、後日(ごにち)の恥辱を招くといへり。」
  「たんぽゝのあへ物くふやしたつゞみ
◎脈とては浮中沈
(ふちうちん)をも辨ぜず、七表(へう)八裏(り)九道(だう)二十四の名をさへ知らぬ程の醫者あり。脈をとりて後(のち)病者に問ふ。「胸はいたむ心ありや。」「なかなかあり。」。「左右(さう)であらう、脈に左右(さう)候。さて足はひゆる事ありや。」「いやあたゝかな。」「左右(さう)であらう、脈に左右(さう)ある。頭痛ありや。」「いやなし。」「左右(さう)であらう、脈にあうた」と。この作法にても、お醫師(くすし)樣ではある。
 病人となりて、藥を申しうけんは、こはものぢやの。
◎地蔵講の式目
(しきもく)といふ外題(げだい)を見、大藏といふ人は地(ち)くら講とよむ。武蔵といふ人は地(ち)さし講とよむ。又傍(かたはら)にのぞきゐたる或泉坊(わくせんばう)は、式目の式を或目(わくもく)とよめり。聞事(きゝごと)の。
◎武士たる人、ある神主にむかひ、「そちは神道を心得たるや。」「いな、白張(しらはり)きたるまでに候。」「いたはしや、本來無東西(むとうざい)、何處(いづこ)をなんぼくといふ大事をも知らいで」と笑はれければ、神主、「私(わたくし)は佛歌(ぶつか)・神歌(じんか)・道歌(だうか)を、ぶつかん・じんかん・道(だう)かんにて理(り)をすまし參らする」と申す時、かの武士、「それはふかい事、おもしろさうな」と感ぜられたるにてすうだ。


      ◇ 不文字
(ふもじ) 

◎朝倉の山椒
(さんせう)を一袋持たせ、侍のもとへ音信(いんしん)に遣しけり。折節かの侍(さぶらひ)途中にて行きあひ、文(ふみ)そへて上げければ、「そちの見る如くなるまゝ、返事に及ばず。又一袋の御重寶(ごちようはう)、悦入(よろこびい)り候」よし、使(つかひ)聞屆け、道の二三町も行きしが、よくよく思へば、今のことばがすまぬ。今一度ことわらんと、息をつきかねはしり戻りぬ。馬をとゞめ問はせけるに、「今の一袋は御重寶では御座ない、朝倉と申す山椒にて候」と。
 これなんふしぎの御重寶。
◎脾胃
(ひゐ)の虚(きよ)したる人にやありけん、平胃散(へいゐさん)を調合し服せん事を望み、常に頼める醫師(くすし)のもとへ、「比叡山のはうを書きて給はれ」と申送れる。醫師やがてさとり、「比叡山の方(はう)の義承り候。王城より艮(うしとら)にあたれり」と返事しけり。
◎元日にかんをいはふ處へ、數ならぬ者禮に來
(きた)る。亭主「膳を出(いだ)せ」といふに、そのまゝまゐりたり。亭嬉しげに、「積善(せきぜん)の餘慶(よけい)ぢや」など感ずるを聞き、さてはかやうに、下には芋大根を盛り、中に餅、上に豆腐くゝたちを盛るをば、積善のよけいといふ事よと覺えて立ち、件(くだん)の者又さる方(かた)へ行(ゆ)く。膳出(いで)たり。見れば今度のは、豆腐とくゝたちを下に盛り、中に餅、上に芋大根を盛りたり。箸をもちてほめけるは、「さても此(この)餘慶の積善は、一段あたゝかに出來まゐらせ候よ」と申しけり。
◎同じやうなる者三人伴
(ともな)ひて、貴人(きにん)のもとに行き、まづ上座(じやうざ)の者、「とく罷出(まかりい)で候はんを、我等の子持が乳に癰(よう)出來、なほりては平癒(へいゆ)し、平癒してはなほり、正月より此(この)三月まで、それに取りまぎれ參りおくれたる」といひければ、次に座したるが膝をつき、「こゝな人は、お前でさやうのかた事を申(まをす)物か、なほるとはへいゆ、へいゆとはなほる事なり。一つ言葉をくり返し、何事ぞや。さやうの丈尺(ぢやうしやく)かさねてつかはしますな」といふを、其(その)次の者聞きて、「さてもお身の丈尺ことばはなんぞ、大工やなどの上にこそいふ言葉言ならんめ。御身(おんみ)達がかた言(こと)をいふを聞いて、己(おれ)が顔はそのまゝ赤(せき)はんしたり」と。
◎人皆歳末
(さいまつ)の禮とて持參しゆく。たちざまに、「來春(らいしゆん)はおぼしめすまゝの御祝儀申さん」といふを聞き、文盲なる者口眞似し、さきざきにて、「來春(らいしゆん)はおぼしめすまゝに御座らう」と申せし。
◎三人行合
(ゆきあ)ひて、一人がいふ、「さてさて昨日のなゆは。」又一人いふ、「なゆではないじゆしんがほんぢや。」今一人が、「なゆやら、じゆしんやら知らぬが、世はねつするかと思うた。」
◎手跡
(しゆせき)の讃歎(さんだん)ある席にて、口あればいふ事と、「伏見院殿又後奈良院殿後柏原院殿のは、皆勅筆(ちよくひつ)と仰せ候が、近衛殿のをば、なにとて勅筆とは申さぬぞ、不審な。」
   「我身の恥をわれとあらはす」
  「犬櫻
(いぬざくら)さかでも春を送れかし」
◎ある侍中務
(なかづかさ)になられたといふ時、百姓ども祝儀とて、料足(れうそく)十疋(ぴき)(づゝ)つなぎあつめ、禮に持出(もちいで)しが、又廿日ばかり後、訴訟のむねありて中務に參る。門の傍(かたはら)に並居(ならびゐ)て聞きければ、客人のわたり候が、小姓をよび出(いだ)し、「中書(ちうしよ)は内に御入(おんいり)あるや」と問はれしを、百姓目まぜし私語(さゝや)きいふ、「中務がほどもなきに、中書になられたは、南無三寶(なむさんばう)百召出(めしいだ)いてつくばはうずよ」と。
◎始めて奉公に出
(いづ)る侍のありしが、奏者(そうしや)する人に「御名字(ごめうじ)は」と問はれ「磯貝(いそがひ)」と答ふ。「磯は」といへば、返事なし。「さだめて磯邊の磯なるべし。がひは」とたづぬれば、「よからうやうに」と。「しりがひがよからう」といふ時、「せめてむながひのがひにしてくだされよ」と。されば、時頼禪門も、
 「よみかきのことさらいるは弓矢より急度
(きつと)注進(ちうしん)急度囘文(くわいぶん)
◎仲間
(ちうげん)どものあつまりて、人の名(な)苗字(めうじ)を沙汰しけるが、一人いふやう、「おれが殿(との)は、名を三度つかれたが、皆こしから下への事ばかりぢや。始めに次郎四郎、二番に次兵衛(じびやうゑ)、三度目に修理太夫(しゆりのだいふ)」を、しりの大夫(だいふ)とうはさしたり。
◎奉公する人の問ふ樣
(やう)は、「某(それがし)が頼みたる殿を、下野(しもつけ)といふ者もあり、野州(やしう)といふやからもあり。いづれがよいぞや。」「どちも大事なし」と。大(おほい)に合點(がてん)せしが、或座敷に出(い)でて、しもつけの花のいけたるを見つけ、きつと手をつき、「さてさてこの野州はよういかり參らせたよ」と。
◎逸興
(いつきやう)參會の物語に、「此(この)家中(かちう)のおとなは、伯耆(はうき)下野(しもつけ)とて兩人あり。されば伯耆なれば伯州(はくしう)といふは聞えたが、下野(しもつけ)を野州といふが、ちつともすまぬ」と。
◎物はかゝねど利口な者に、「てんびんとは何
(なん)とかくぞや。」「繼母とかく」と答ふ。「夫(それ)は不都合なる事」といふ。「さればこそ、唐(もろこし)から本(ほん)の文字はあらうとまゝよ、まゝはゝと書くがよい、なぜになれば、くへどくはねどたゝきたがる。」
       「たゝいてはすりたゝいてはすり」
   「髮惜
(をし)むうひ子を膝にだきのせて」
◎服部
(はつとり)といふ侍に文字を問ふ。つひに苗字(めうじ)のこたへやうを知らず。人をしへて「ふくべと書く」と。「ふくべとはへうたんの事かや。」「なかなか。」ある者「御苗字のはつとりとは。」「それこそへうたんと書き候。」親當(しんたう)
 「世の中に書くべきものはかゝずして事をかくなり恥をかくなり」
◎いろはをもよまぬ者ありて、「常に、人の酒飯
(しゆはん)といふは何事ぞや。」「酒(しゆ)はさけとよむ。飯(はん)はめしとよむぞ。」「忝(かたじけな)し」と覺え、ある振舞の座にて、「今日のもてなしは、酒飯(しゆはん)ともに出來まゐらせた」とほむる。彼がそだちをよく知りたる者あり。「酒飯とはなんぞ。」「酒(しゆ)はさけ、飯(はん)はめし。」「さてともには」と問はれ、「椀(わん)折敷(をしき)で御座あらうまでよ」と。
◎物かく者をたのみ、文
(ふみ)一つあつらへ、あて處(どころ)をとへば、「新のくと書きてたまはれ。」「新六とこそかゝるれ、のくといふては知らぬ。」「さてそなたはあさましや、六日市(むいかいち)のむいの字をさへえ知らいで」と。
◎小豆餅
(あづきもち)のあたゝかなるを、夜咄(よばなし)のもてなしに出(いだ)す。その席におく山の者ありし。中老ほどの人、餅を見る見る、とかく夜食はおほく食ふが毒にてあるよし、いふをきゝ、さては餅のことぞと思ひ、彼(かの)山賤(やまがつ)在所にて、晝の雜掌(ざつしやう)に、大豆の粉(こ)をそへ餅をいだす時、「かまへて皆おきゝあれ、さる人のいはれしが、此(この)夜食は多く食ふが毒にて候」と。
◎目くすしに出でんとする人、銘を書くべきあてもなければ、包紙を澤山に折りて、人を頼み、みなみな紅梅散
(こうばいさん)とかゝせもつ。風眼(ふうがん)にも、うつひにも、一ッ銘ばかりうちし故、侮(あなど)り笑ひけるまゝ、旅宿(りよしゆく)にて銘をたのむ。「いかゞ書かん」と問へば、「牛黄圓(ごわうゑん)」とのぞむ。「目の藥にはいなものや」といはれて、「それならば木香丸(もつかうぐわん)」と所望した。
◎山家
(やまが)に、信國(のぶくに)の脇差をもちたる者、銘をしらず。淨土宗の僧によませたれば、「しなけきとよむ。しなは信濃のしな、けきは舎衛國(しやゑけき)のけき」と、いひつるあさましさよ。
◎侍めきたる者の主
(しゆ)にむかひ、「おかべのしる、おかべのさい」といふを、「さやうの言葉は、女房衆の上にいふ事ぞ」と叱られ、げにもと思ひゐけるが、或時主(しゆ)の上臈(じやうらふ)にともして、ふるまひより歸りたるに、主人座敷の始終をとはる。「朝食(あさめし)の上にはやしの候ひつる」と語る。「謠(うたひ)はなになになど」とありしかば、「しかとは存ぜず候。何もとうふごしに承りてあるほどに」と。
◎月迫
(げつぱく)になり、殿の臺所とゝのひがたし。せんかたなさに家老の人たくみ出(いだ)し、有力(いうりよく)なる百姓のもとへ行き、「そちは貞心に事をさたする條(でう)、重寶の者なり。歳の暮の祝に苗字を遣(や)るべき旨なり。目出度(めでたき)事や」といふ。「いや、たゞ今の分にて、御許容あるやうに御取成(おとりなし)を頼む」といへど、とかくいひなし、同心させけり。
「さりながら、それは禮儀いかほど入り候はんや」と尋ぬる時、「三十石ほどがよからう」とあれば、なかなか隔心
(きやくしん)のけしきなるまゝ、さらば二十石にてもくるしかるまじきになりぬ。「扨(さて)苗字は野々村といふべし」と。「さらば御禮申さん」と、老父苗代(めうだい)に惣領を遣(つかは)す。遠侍(とほざむらひ)までは伴(とも)せしが、彼(かの)家老が袖をひかへ、「是非きはまる處(ところ)十石になされよ。よく思案仕るに、野々村とたまはりても、野々は生得(しやうとく)家に傳はる、村ばかりこそくだされ、十石の外(ほか)はとゝのへまい」とぞ申しける。
◎「昨日は一日、妙圓寺といふ寺に遊びつるは」とかたる。「ついにきかぬ寺なり。妙は妙法の妙にてあらうず、ゑんは。」「ぬれゑんぢや。」「いやとよ、かきやうは。」「蕨繩
(わらびなは)のまはしがき。」「こゝな人は、字の事を問ふに」といへば、「ぢは砂地ぢや」と。
◎風呂をば、いづくにあるも、洗湯
(せんたう)といふとばかり心得て過しけるにや、ある大名の内風呂をたかせて、人々入りけるなかば、「なにと風呂はたつや」と尋ね給ふ時、くだんの合點者(がてんしや)、「いづれの洗湯へも入りまゐらせたが、これやうに、ようたつ洗湯はをりない」とぞ申しける。
◎あなたこなた、年頭の禮にありきけるさきざきにて、持參の扇を見ては、亭主のことばに、「五明
(ごめい)はかたじけなや」と禮あるを聞き、さてはなにゝても、正月の持參は、みな五明といふものなりと合點(がつてん)し、其(その)身はもとより塗師(ぬし)の上手なりければ、上々の茶桶を持參するに、袂(たもと)より取出(とりいだ)し奏者にむかひ、「是(これ)は我等の五明で御座ある」と、持ち行くほどの處にていうたと。
     あきた殿の發句
(ほつく)に、
  「ひらかぬは風のつぼみの扇かな」
     三光院殿、
  「秋風を腰にさしたるあふぎかな」
◎「御札
(ぎよさつ)の如く」と文(ふみ)をよむ。かたはらに聞く者とふ、「御札のごとくとは、何(なに)といふこゝろぞや。」「人のもとへ文をやりたる、其(その)返事(へんじ)のことばぞ」と敎ふる。しばらく首肯(うなづ)きゐて、大道(たいだう)をありくに、知る人はたと逢ふ。「さてもお久しや」と言葉をかけたれば、「ぎよさつのごとく」と申しけり。
◎人
(ひと)客を得て、菓子に蜜柑を持出(もちいで)、「これは庭前(ていぜん)のにて候」といふ。客とりて見、「さてさて新しや、店(たな)などにあらんは、いかでかやうには候べき」と、大(おほい)に感じけるを、面白き時宜とや聞きなしけん、今度客にふるまひのあげくに、麩(ふ)をにしめて重(ぢう)に入れ、其(その)席へもち出で、「これは庭前の麩で候ふ」と申したは。
◎八景のうちに、遠寺の晩鐘とは、村里とほき山寺に、入相
(いりあひ)の鐘の聲、つくづく聞くも面白やなどいふを、こびたることゝ思ひゐしが、或時客に寺へ行き、夕陽(せきやう)西に傾(かたぶく)頃より碁をうちはじめ、火をともせども立つ事を忘れたるに、初夜の鐘も早(はや)とく鳴りぬるとはいはいで、「もはや皆おたちあれかし、遠寺(ゑんじ)の晩鐘もとく鳴つた」と。
◎此
(この)四十年許(ばかり)以前、江州永原(がうしうながはら)に祈禱連歌ありし。其(その)日、京より永原へ行き、侍一人道の邊(ほとり)の石に腰かけやすむ砌(みぎり)、杖をつきたる白髪(しらが)の老人、靜(しづか)にあゆみよりて、いろいろの事かたり、「我は今朝とくより先程まで、連歌の有りつるを聞きてゐたり。面白き句のありしよ。
       「おぼろおぼろに鐘ひゞくなり」
  「老いぬれば耳さへもとの我ならで」
(これ)に心なぐさみぬ」と、立行(たちゆ)き給ふ其(その)けしき常ならねば、侍も心ありけり、跡を偲び送りけるが、つひに見うしひぬ。まがふべくもなき、北野の神ならんと沙汰しあへりき。
 「老
(おい)ぬれば人の敎(をしへ)を初音にてわれとは聞かぬ山ほとゝぎす」
 「いつの日のいつの時より聞きはてん我
(わが)すむ山の入相の鐘」
◎人ありて作善
(さぜん)をつとむる毎(ごと)に、僧と同じく、大俗(だいぞく)列坐し齋(とき)を給はるを、何者のいひ出(いだ)しけん、「鬚僧(ひげそう)」とこれを呼ぶ。此(この)ひげそうといふを、おぼえそこなうて、しかもこばかしたがる者あり。堺にての事ぞとよ、ある禪門(ぜんもん)十德の袖の長きを着、知人に行きあひぬ。「いづれへ」と問ふに、禪門「今朝はひらのやへ齋(とき)ありて、會下僧(ゑげそう)に行くは」と。
◎ちと假名をもよむ人のいひけるは、「此程
(このほど)、徒然草をさいさい見てあそぶが、おもしろう候よ」とありしかば、其(その)座に居たる者のさしいで、「かまへて口あたりよしと思うて、多く御(おん)まゐるな。つれづれ草のあへ物も、すぐれば毒ぢやと聞いたに」。
◎乘物をじようぶつといふも、又魚
(うを)をぎよぶつといふも、一つことにや思ひけめ。十人ばかりつれだちて、振舞のかへるさに、くだんの者いひけるは、「各(おのおの)はぎよぶつぢやほどに、さきへ御入(おんいり)あれ。我々はかちにて候ほどに、靜(しづか)にまゐらうずよ」と。
◎禪宗の檀那と、一向宗の檀那と寄合
(よりあひ)かたりゐ、「なにといふ事に、お御堂(みだう)の、御(お)よりあひの、おさんだんの、おすゝめのと、なにゝも、おの字をつけてはいふぞや」と問ひければ、「こちの宗旨ばかり、おの字をいふでもあるまいぞ、そちの家にも、おの字を付けていふは」と。「何物につけたぞ」と。「をしやう樣といふはさて」。
◎人あつまりゐたるついで、「膏粱
(かうりやう)の美食とて、あまり活計(くわつけい)も過ぐれば、脾胃(ひゐ)の虚損(きよそん)となる。されば口所嗜不隨也(くちたしなむところしたがふべからざるなり)とも、書きたるは」といふ時、「膏粱の美食といふ物を見た事がない。」「肉食(にくじき)の事よ。」「それならば、我等が隣の亭主は、いかい肉食(にくじき)をする人ぢや。」「して何を食ふぞや。」「毎日餅を七ッ八ッほどづつ食ふ。」
◎京都四條の河原にて、將棊
(しやうぎ)の馬を拾ひたる者あり。何(なに)とも知らで主(あるじ)に見せたれば、「是(これ)は双六(すごろく)の碁石といふ物なり」と。
◎南無の二字ばかりを、いかゞしてかは見知りたる。其
(その)餘の文字は闇なる男、天神の名號(みやうがう)のかゝれるを見、「なむあみだ佛」とよみかぞへければ、文字あまれり。あげくにいふ、「此(この)念佛はちと長いよ、融通念佛(ゆづうねんぶつ)か知らぬ」と。
                       蓮 生 法 師
(れんしやうほふし)
 「約束の念佛(ねぶつ)は申すまでぞかしやらうやらじは彌陀(みだ)の計(はから)ひ」
 「極樂に剛
(がう)のものとや思ふらんにしにうしろを見せぬ熊谷(くまがひ)
                                     
 にしにむかつてうしろみせねば(異本)
◎永玄(えいげん)といふ禪門あり。人來りて、「そちの名の永はながいであらう。玄はくろげんか」と問ふ。「いや、しろげんといひし。」知音(ちいん)する者きゝつたへ、笑止に思ひ、「此(この)後げんを問はゞ、みなもとゝいへ。」「がつてんがつてん。」案のごとく源を問ふ時、「むなもと」と答へつるこそ。
◎了有
(れうう)と名をつけて、「了はと人の問はゞ、耳かき了と答へよ。」「こうこう、おぼえやすきよい字ぢや」と迄はほめつるが、了はと問はれ、「みゝかきでござる」といひけり。
◎一圓不文字
(いちゑんふもんじ)なる侍、小知行(こちぎやう)の代官になりてわめきありく。ちと卑墮涙(ひだるい)とおもふ折節、庄屋のもとに立寄りたり。「麥飯(ばくはん)の候、出(いだ)し候はんか」といふに、「いや嫌(きらひ)に候」とて立ちぬ。そこもとありき、「麥飯(ばくはん)とはなにぞ知らぬ」と語る。麥のめしの事と聞き、さらば又行きてくはんと思ひ、庄屋が家に入(い)りつれば、人を出(いだ)し、俄(にわか)に下風(げふう)の起り難儀さに、火にあてあぶる由(よし)いへば、彼(かの)代官、「その下風ならば、あぶるまでもなし、そのまゝすゑよ、食はん」とぞ申したる。
◎ある者の子息
(むすこ)、百人一首を本(ほん)にむかひ、たうたうとよみければ、親にて候(さふらふ)人申されたる、「やれ、靜(しづか)によめ。それやうなる物は、返點(かへりてん)のならひがむづかしいに。」
◎古田織部
(ふるたおりべ)の數寄(すき)に出(いだ)さるゝほどの物をば、其道(そのみち)を學ぶも、學ばぬも、天然と賞翫し、もてあつかひし故、中酒(なかざけ)に座敷へ用ひられつる盃までも、なべて人(ひと)織部盃(おりべさかづき)といひふるゝ。さるまゝ、京に三八といふ者あり。扨(さて)は盃をば、いづれも織部(おりべ)といふ物ぞと合點(がてん)しゐたり。或時(あるとき)三八が顔あかく、機嫌よさうなるを、人見つけて、「そちはあらけなく醉(ゑ)ひたる體(てい)ぞ」といへば、「道理かな、今朝の振舞(ふるまひ)に、汁の椀の織部(おりべ)で、つゞけさま三盃飲みたるもの。」
◎東寺のならびに遍照心院
(へんぜうしんゐん)といふあり。つくり庭をあまり人の見たがるがいやさに、番衆(ばんしゆ)おかれたれば、竹杖など持ちいましむる。望(のぞみ)のかた、「そと見度(たし)」とて立寄れば、「いやいや庭へ行くまい、殺生禁斷(せつしやうきんだん)ぢやに」と。
◎京よりいたらぬ者ども、つれたち石山寺に參り、縁起を所望してよませ聞き、「抑(
そもそも)(この)石山寺は、前に湖水あり、うしろに山あり、峯に塔あり、谷に塔あり、二王門あり。」既によみはてぬる時、一人が申しけるは、「誰人(たれびと)の建立(こんりふ)とこそ存じつるに、扨(さて)は飛鳥井殿の建てさせ給ひて候よのう。」「その願主(ぐわんしゆ)は、なにの合點(がつてん)よりいふぞや。」「其(その)事よ、縁起の次第が、いづれの言葉にも、なにあり、かあり、ありありとよまれたほどに、さうかと思うて。」
◎「そちの親の煩
(わづらひ)は、何にてありつるぞ」と問はれたれば、「其(その)事に候、我等が親の病(やまひ)を、京の大いん達に見せたれば、にやくをとりて見、『病(やまひ)はやうかんぢや、屋いひの灸(きう)を、百やうにしたらよからう』とて、ひたものすゑたれば、あげくにしきよく仕(つかまつり)て候」と。
◎こびたる顔の亭主いふ、「餅をやいてくひたい」と。「いくつやき參らせう」と問うたれば、「昔よりさだまつてある事よ、心經
(しんぎやう)にも、もちやけ六ッくはうとこそ。」
◎夏の振舞に、燗をしたる酒と冷酒
(ひやざけ)と出(いだ)し、「いづれをなりとも」と酌する者いひけり。座上(ざじよう)になほりゐたる宿老(しゆくらう)いはれけるやう、「今時こそ、酒を自然冷(しぜんひや)にて飲む人あれ。昔は大名小名(せうみやう)おしなべ、燗をして飲まぬはなかりし」と、實(まこと)らしくいひてうけられけるを、下座(げざ)より、「なんぞ、書物に候や」と尋ぬれば、「なかなかの事、靜(しづか)の舞に、臣も君も此(この)舞を、かんぜぬ人はなかりけり。」
◎ある男二三人つれだち、誓願寺
(せいぐわんじ)にまゐりけるが、外陣(げぢん)にある額の六字を見、「誓願寺の額ならば三字こそあらんめ、なんぞ三あまりたるは」といふ。一人が、「あれをえよまぬか、せいぐわんじとのさまと、かきたるは」と申したるこそをかしけれ。
◎一宇の御堂
(みだう)造立(ざうりふ)すでに成就し、棟札(むなふだ)をかゝんと、法印(ほふいん)(い)でて筆を染め、いはれけるは、「此(この)おもてにあらゆる佛菩薩、竝(ならび)に日本の神々をかきつくるは」とあれば、かの大工、「わたくしをも、諸神(しよじん)のうちへ入れてあそばし候へ」といふ。法印大きに笑はせ給ひ、「なにとて、さやうに道もなき事をいふぞ」とたづねられし時、「我も神の内なるまゝ、くるしからず。」「なにとして神にはなりたるや」と尋ねらるゝに、大工かしこまり、「私(わたくし)こそ、若狹(わかさ)のかみにて候ほどに。」


      ◇ 文之品々
(ふみのしなじな)

◎根來
(ねごろ)にて、岩室(いはむろ)の梅松とかや聞えし若衆(わかしう)に、ぎこつなき法師の思(おもひ)をよせながら、いひよらんたよりもなければ、せゝりがきする人をかたらひ、「文(ふみ)を一つかきてくれられよ。文章の事は我このまん」となり。ともかくもと、筆を染めうかゞひゐければ、「己(おれ)はそなたにほれたげな。戀の心か頭(かしら)がいたい」と。
◎靑蓮院殿
(しやうれんゐんどの)へ出入する筆匠(ふでゆひ)あり。尊鎭門跡(そんちんもんぜき)に言上(ごんじやう)するやう、「別して御中(おんなか)よき其(その)なにがし殿へ、擧狀(きよじやう)を一通下されよかし」と。御領掌(ごりやうじやう)(ばかり)に打過(すぐ)る。折々是(これ)を望めば、あまりさり難きまゝ、「心得たり」とて遣し給ふ文體(ぶんてい)、「此(この)筆匠それへ參り候。ぬしは上手と申候。」  さはらずしてすうだ。
◎侍たる人右筆
(いうひつ)をよびて、「此(この)ほどは久不懸御目滿足仕候(ひさしくおんめにかゝらずまんぞくつかまつりさふらふ)」とかけと。「それはいかゞさふらはん」とて、筆をもちゐけるに、「それならば、よくきこゆるやうに、此(この)程はおめにかゝらず、本望に存じ候。」
◎さる處にて、「釋迦の文
(ふみ)を見たは」とかたる。聞く人感じ、「聲聞(しやうもん)・緣覺(えんがく)・羅漢(らかん)の内(うち)、誰々へのあて所ぞや」。「耆婆(ぎば)が方へのふみなり。」「さては竹はしに梵字か、文章いかにや」と問ふ。「其(その)事よ、紙は日本一の播磨杉原(はりますぎはら)に、鳥飼樣(とりかひやう)をもつて、いかにも墨をかうかうと、此(この)程は久不懸御目候(ひさしくおめにかゝらずさふらふ)、四五日以前靈鷲山(りやうじゅゆせん)の麓にて風をひき、咳氣(がいき)散々に候。藥一二貼可給候(てふたまはるべくさふらふ)(かしく)。耆婆殿(ぎばどの)まゐる。釋迦判。」
◎かせ侍
(さぶらひ)のもとより知音(ちいん)の方へ文有り。ひらき見れば、筆たてに日の字ありて、その下に「四五斗たまはり候へ」とかきたり。何とも合點(がつてん)ゆかぬとて文を返しぬ。後に見參(げんざん)して、「以前の文の内、なに用のありつるぞ、つひによみえずして、本意(ほい)なき」よしかたらられければ、「そなたは隨分の人にてあるか。七日(なぬか)のぬかといふ字さへ、見しりあらぬか」と。
◎祖父
(そふ)と祖母(そぼ)と何事をかいさかひけん、さうなく祖母を追出(おひだ)しけり。しかはあれど、老(おい)たるを愛するものなければ、日にそひて互になつかしく思ふ折節、魚(うを)をうる商人(あきうど)來れり。祖父よろこび、「其(その)里のそれとたづね、この文をとゞけて給ひ候へ。もし又返事のあらば、たちよりて、とりたび候へ」などいひふくめけるが、姥(うば)文を見てあめやさめと泣き、久しくもあはぬに、文章のあがりたる事やと感じ、返事とてたのみわたす。商人かへるさに、祖父にわたしてあれば、とちほどなる涙をながして手をはなさず。商人あはれさに、文のやうを尋ね聞く。祖父のかたよりは、いばらに小石を包みそへつかはしぬ。うばが方(かた)よりは、其(その)中へ糠(こぬか)を包みそへてかへしぬ。「むばら戀し」とあるに、「むばら戀しくばこぬか」と、互にかよふむつまじさよむもかくもおなじ心なる、濱の眞砂(まさご)の數々や。
 「年よれば腰にあづさの弓をはりしわのいる矢にしゝぞ少なき」
     莊子
(さうしに)壽者多(いのちながきものははぢおほし)
 「長かれとなに祈りけん世のなかのうきめ見するは命なりけり
     「をしまれぬ身の殘るかなしさ」
 「あやにくに道ある人はとゞまらで」
     樂天
(らくてんが)、今朝向鏡看疑是逢別人1(こんてう
       かゞみにむかつてみれば、うたがふらくはこれべつじんにあふかと)

 「ますかゞみむかひて見れば我
(わが)すがたしらぬ翁(おきな)にあふ心地する」
 「老
(おい)にけり今年ばかりと詠(なが)むれば花よりさきにちるなみだかな」
◎「兎角
(とかく)當世は、文章の短(みじかき)がはやる」といふを聞きて、侍たる人の方(かた)より、知音(ちいん)の僧へ遣(つかは)したるとなん。
  送進
(おくりまゐらす)る十八本松茸、恐惶謹言(きようくわうきんげん)
     圭侍者
(けいじしや)へ  
                    平井の伊賀入道
(いがにふだう)
◎又商人
(あきびと)、遠島(ゑんたう)より古郷(ふるさと)へたよりありといふ時、妻のもとへ、文ならびにいんしんをしけるが、「態(わざと)一筆(ふで)、針三本、千松泣かすな、火の用心、かしく」とも書いたり。
◎さもとらしき女房の、下主
(げす)などつれたるが、淸水寺にまうで來て、舞台のこなたかなた立休(たちやす)らひしが、順禮の矢立(やたて)をさし、侍めけるあるを見つけ、下主をつかはし頼むやう、「近頃はゞかりおぼえ候へども、人のくれし文の返事(かへりごと)を、誰(たれ)たのまん者もなし。ひたすらにふちをえん」とあれば、とやかうの斟酌におよばず、かたはらにいたりぬ。女房懷(ふところ)より料紙とりいだしわたし、いろいろのぶんを好む。かの順禮は、いろはをさへならはぬ者なりしが、今度西國物詣(さいこくものまうで)の樂書(らくがき)をせんまでに、「筑後の國の住人柳川(やながは)のなにがし」と、これよりほかは一字もなし。くろみすぐるほど、紙一かさねに書きくどきたる文のうち、いづれもいづれも、「筑後の國の住人柳川のなにがし」と、うはがきともにこれなれば、戀のさめたる風流や。
◎文盲なる人、弓懸
(ゆがけ)をかりにやるとて紙をひろげ、手のひらに墨をつけ、ひたとおし、腕首のかたに細き筋をまはし書きて、これをお貸(かし)あれというて、持(もた)せつかはしたり。見るにうなづき、弓懸(ゆがけ)を貸せといふ事の返事(へんじ)せんといふまゝ、皿と椀のなりを書きて戻しけり。借りにやりたる仁(じん)合點(がつてん)し、「さらはぬという事の、是非におよばぬ。」


      ◇ 自 墮 落
(じだらく)

◎洛陽に壽桂
(じゆけい)といふ坊主落墮し、姪女(めひ)なりける比丘尼(びくに)を妻にもちて居けり。越方(こしかた)の等閑(とうかん)なきに、宿を尋ねおとづるゝが、かの壽桂案の外隔心(きやくしん)し内へよばざりければ腹立(ふくりふ)のあまり、 元 理(げんり)
  「
秘藏して人に見せぬはめいのものあまくになれば身をもはなたず」
◎世度卑
(せとひ)なる出家あり。一人の弟子にいふ、「明日は吉野の花見に行かん、先途(せんど)程遠し、曉よりおきて出立を用意せよ。」「心得たり」と夙(つと)におき、酒飯とゝのへ戸を叩きければ、坊主、「いまだ夜ふかなり」とて起きず。さる程につねづね弟子にかくし、いねざまには燒味噌と號して鷄の玉子をとゝのへ、肴に用ひて酒をのむ事を、心に無心に思ひゐけるが、その時こらへかね、「夜(よ)が深いか淺いかは知らぬ。燒味噌がてゝは、もはや三番ないた」。
◎つねに人みな「干鮭
(からざけ)は、身をあたゝめてよき藥」などいふを聞きて、我も養生に食ひたき事やと思ひ、老比丘(らうびく)、うつけたる中間(ちうげん)にむかひ、「藥にちといる事あり。干鮭(からざけ)といふ物を買うてきたれ」とて、代を三百わたしけり。すなはち買ひ求めて來りぬ。をりふしあしく客のある座敷へ、くだんのうつけ、によつと差出(さしい)だしけるに、老比丘赤面し、「その干鮭(からざけ)を、すぐに泉水へはなせ」と申されたり。
◎いもほり僧のありつるが、秋の最中
(もなか)の月澄(つきすみ)に、百姓出(いで)て田を守(も)りゐたり。夜ふけ物音せぬみぎり、笠をき、白き帷子(かたびら)をはしをりたる男、さうけと手桶とを持ちて來りぬ。百姓、不審なる物に思ひとがめければ、彼(かの)男いふ、「俗人鰌(どぜう)すくふに、何(なに)の僻事(くせごと)があらうぞ」と。
◎板がへしをせんと、屋根葺
(ふき)二三人やとひ出(いだ)し、既に板をまくりけるが、葺きし天井をのぞけば、摺鉢(すりばち)になから程膾(なます)の見ゆる。「お坊主、埃(ほこり)がするに、これなる膾をとり給へ」と。坊主きいて、「それは門前の者が、昨日持てきて質においたが、まだうけぬ物ぢやよ」と。
◎ひそかにつかはす使の小者、ひさしく病に臥しけり。詮方
(せんかた)なくて、坊主みづから魚屋(うをや)に行く。いかにも夜(よ)ふけしづまりたるに、門をたゝく音せり。内より「誰人(たれびと)ぞ」と高聲(かうしやう)に咎(とが)めければ、「在家屋(ざいけや)から魚(うを)買ひに來た、戸をあけよ」と。 
◎窮貧の沙門
(しやもん)にて、年もまた至極せるが、しかと給仕の人もなければ、自身白き手拭にて頭をつゝみ魚(うを)の店にのぞめり。折節何も魚(うを)の類(たぐひ)なく、唯(たゞ)鱏(えひ)といふ物、大と小とぞありける。亭主「お出であれ」。「それに候ふてふはんなりの魚は、いくいくらにてあるぞ」。小はやすく大は高(たか)なるよし。「合點(がつてん)で候、小をば其方(そち)のいふ如く買はうず、大なるをば寄進せられよ」と。
◎鱛
(えそ)を反古(ほうぐ)につゝみやき、飯にそへて食せんとする時、旦那來れり。坊主れうけんなく膳をもちて立ち、酒を出(いだ)し振舞ぬ。其後(そのゝち)種々思案し、或時反古(ほうぐ)に大根を包み燒きふるまひて、以前のにまぎらかさんとたくみ、件(くだん)の檀那を請待(しやうだい)する。即(すなはち)領掌(りやうじやう)し、時分に來りしが、かの燒く體(てい)を見、座敷へ率爾(そつじ)に入らずたゝずむ。姥(うば)のあるが出(いで)ていふ、「いや、あれは鱛(えそ)ではをりない、大根ぢやに御座あれ」と。
 このまへのがいよいよ鱛
(えそ)にすうだ。
◎あまりに齋
(とき)を食過(くひすご)して、腹便々(べんべん)と歸るさに、持ちたる數珠(じゆず)を落しながら、うつむかんやうなきまゝに、足の指にて挾みつゝ、「數珠御免あれ」と申せしも、ちとじたらくの類(たぐひ)かや。
◎僧俗ともに交
(まじは)り語り慰(なぐさ)む座敷にて、或坊主急に咳(しはぶき)をしけるが、喉(のど)より痰(たん)のかたまりたる樣なる物を吐きいだしたり。そばにゐたる男の取りて見れば、蛸(たこ)なり。「是(これ)は異なものが出た」と、口をそろへていひければ、「されば喝食(かつしき)の時食うてあつたが今出た。常に蛸は消えかぬるといふが、誠ぢやよ」。
◎都の寺に檀那朝
(あさ)とく參り、本尊を拜し、茶堂(さだう)の傍(かたはら)にて數珠を繰り、佛名(ぶつみやう)を念じゐけるが、爐にかけたる釜の湯おびたゞしく煮えあがりて、蓋をたゝく。釜と蓋とのあひだに、なにやらん見ゆる物あり。蓋を取りたれば、蛸なり。「これは何ぞ、蛸ではなきや」といふ時、坊主の返事、「さる事も有るべし。昨夜(ゆふべ)蛸藥師の水をくみよせて、茶の湯をしかけさせた程に」と。
◎大名の家に奉公の望みをかけたるが、漸
(やうやく)調ひぬれば、奏者について出仕をとげし次手(ついで)に、伜(せがれ)を御目(おめ)にかけたき旨申しふくむる。即(すなはち)つれて禮儀すみけり。時に主たる人、「そちは近き頃の落墮(らくだ)といふが、成人の子は、なにと、養子か」と問はれて、「いや喝食(かつしき)でのせがれ」と申しあぐる。
◎學跡をものぞきける程の沙門
(しやもん)、鰻を板折敷(いたをしき)の裏に置き、ながたなにてきる處へ、思(おもひ)もよらぬ檀那參りたり。少しも色をたがへず、「世界みな不思議を以て建立(こんりふ)す。されば連々山の芋が鰻になると、人のいうてあれど、さだめて虚説ならんと疑ひしが、これ御覧ぜよ。山の芋を汁にして食はんとおもひ、取寄せおきたれば、見るがうちに、かやうになりて候は。何事ももの疑(うたがひ)めさるゝな。これ御覧ぜよ」とぞ申されける。
◎ある一人坊主、烏賊
(いか)を黑韲(くろあへ)にしてたまはる處へ、ふと人來れり。口をぬぐはん料簡もなかりつるに、「そなたの口は、なにとて黑いぞや、鐵漿(かね)をつけられたか」と問ふ。「いや、あまり寒さに、只今燃えさしを一口くうた」と。
◎一日の精進を千日とも思ひ、こらへかぬるひとはまゝあり。さるあひだ、ひとりの老人、他事
(たじ)なき知音(ちいん)のもとに終日(ひねもす)物語し、暮に及んで座を立つ時、「明日は我(わが)親の日なり。無菜(ぶさい)の齋(とき)を參らせんや」と亭のいひければ、手をあはせ、「眞平(まつぴら)御免あれ、私(わたくし)の親の日さへ難儀するに、そなたの親の精進までは、のういやゝ」とぞ申しける。
◎信心ふかき人、山寺に詣で、ある僧坊に宿をかり、本堂の觀世音に通夜しけるついで、老僧に對面し、「此
(この)寺家(じけ)に法師いか程候や。中にも勤行不退(ごんぎやうふたい)のかたやある」など、委細に尋ねければ、老僧の返答に、「この寺に尊(たふと)い者は我(わが)親子、隣の坊主の聟舅(むこしうと)」。 
◎天に目なしと思ひ、ぬた膾
(なます)を食ひぬる處へ、檀那來り見つけたれば、ちと物よみたる僧にやありけん、「よき砌(みぎり)の入堂(にふだう)なるかな、こゝに歴劫(りやくごふ)不思議の法味(ほふみ)あり。まづ天地の間(あひだ)に七十二候(こう)とて、時のうつるに應じ、物のかはり行く奇特(きどく)を申さん。田鼠(でんそ)化して鶉(うづら)となり、雀海中に入りて蛤(はまぐり)となり、鳩變じて鷹となるといふ事あるが、愚僧が菜(さい)にすわりたる韲物(あへもの)、變じてぬた膾(なます)と眼前になりたる、此(この)奇特を御覧ぜよ」と。
◎ある僧喉痺
(こうひ)にてはなく、喉(のど)をいためる有り。心やすき人の見舞ひ、「何(なに)ぞ物のたちて、苦しめるにや」と問はれけるに、「さのごとし。」「さらば、かやうの事よく呪(まじな)うて、癒(いや)す修行者あり。彼を誘ひきたらん」と同道せり。時になほす人、「竹のをれかや、魚(うを)の骨かや、その物により觀念かはれり」と。僧息の下より、「竹ではあらうずれども、厭勝(まじなひ)は魚の骨の心持にて御沙汰候へ」と。
◎或檀那寺に參り、しばらく雜談
(ざふたん)し、たちさまに、「明日無菜(ぶさい)の齋(とき)を申さん」といへば、庫裡(くり)からめうが楚忽(そこつ)に出(いで)ていひける、「幸(さいはひ)の事や、明日(あす)はお坊樣の精進の日ぢや。」
 僧の方
(かた)より檀那をよばんに、いふべき仁義ではをりないか。
 仁王經
(にんわうきやうに) 比丘 地立 白衣 高座(びくちりふびやくえかうざ)。 白衣は俗なり。
  「世のすゑは墨の衣
(ころも)も武士(ものゝふ)の奴(やつこ)となれる法(のり)ぞかなしき」
    中峯和尚修行記
(ちうほうをしやうのしゆぎやうのきに) 身着法衣思染俗塵1(みにはほふえをきれども、おもひはぞくぢんにそめり)
  「墨染の衣に似たる心かと問ふ人あらばいかゞ答へん」
  「遁世の遁の一字を書きかへて昔は遁
(のが)れ今はむさぼる」
◎坊主いつも、鮎の名を剃刀
(かみそり)とつけて、箱に入れもとむるを、常の事なれば、小者よく知りたり。ある時彼(かの)僧河を渡るに、鮎の多くありくを見て、小者後(あと)より、「御坊樣(ごばうさま)、いつも祕藏して、こなたの入物(いれもの)にある剃刀がありくに、足を切り給ふな」といひければ、坊主、「今は八月なり。剃刀がいかほどあると錆(さび)ようほどに、足は切れまいぞ」といへり。
◎昔より八瀬
(やせ)の寺は禁酒なり。寺中(じちう)に酒を好む僧のたくみて、經箱をさゝせ角(すみ)をとり、いかにも結構に塗らせ、上に五部の大乘經(だいじようきやう)と書付け、それをかよひにしけり。酒をとりてくるに、人「それは」と問へば、「是(これ)は五部の大乘經なり。京にいたゞかん事をねがふ檀那あり。其(その)故に折々もちてゆき通ふ」と答ふ。あまり京通(きやうがよひ)のしげければ、人あまねく推(すゐ)してけり。或時内の者、經箱をもちかへる途中にて、酒のにほひをきゝ、飲みたさやるせなし。そと口をあけ、たまはりぬ。そろそろ寺にかへるに、「それはなんぞ。」常の如く「經にて候」といふ。「さらばちといたゞかん」とて手にとりふりて見、「まことにお經やらん、内に五ぶ五ぶといふ聲がする。」
◎僧俗よりあひての物語に、今程は事の外
(ほか)(ふな)がやすきよし、坊主のいはれけるを、俗いふ、「奇特(きどく)な事や、こちさへ知らぬと、あてたれば。」「いや、われは知らぬ、寺中(じちう)の取沙汰(とりさた)ぢや」と。
◎ある出家、ふかく隱して鯰
(なまづ)を食ひける處へ、ふと檀那來れり。爲方(せんかた)なさに、皿ともに頭(あたま)へうつぶけ、手にておさへたれば、頰(ほゝ)から頤(おとがひ)へ汁のながるゝを見つけ、「こなたには腫物(しゆもつ)ができまゐらせたか」と問ふ。「をう」といへばよかりしを、あまりに膽(きも)をつぶし、「いや、俄(にはか)にぬた膾(なます)ができて候」といひけり。


      ◇ 淸 僧
(せいそう)

◎人跡絶えたる山中に一宇(いちう)の堂あり。甍(いらか)やぶれては霧不斷の香(かう)をたく境界(きやうがい)なれば、世にあらん人の、晝だにも立寄るべきよしもなきに、いかなる不惜身命(ふしやくしんみやう)の行者なれば、此(この)佛閣にはすめると、あはれむ者も多かりし。又惡性(あくしやう)の者あり、うたがひ思ふ。あれほど怖(おそろ)しき處に、何(なん)としてひとりはすまれん。唯(たゞ)女房のある物よと、嵐冷(すさま)じき冬の夜(よ)立聞(たちぎき)をしけり。彼(かの)僧、終夜(よもすがら)の語(ことば)に、「そなたがゐればこそ、此(この)寒夜(さむよ)にもあたゝかなれ、いとほしの人や」といひけり。紛(まぎれ)もなき夫婦(めのと)にこそと、人あまた押入(おしいり)て見れば、何もなし。「坊主の愛せらるゝ物は何ぞ」と問ふに、「これなん、我が伽(とぎ)なり」といつて、三升ほど入(い)る大德利をば出(いだ)しつる。
◎禪に一路とて得法
(とくほふ)の僧ありし。和泉(いづみ)の國大鳥の邊(あたり)に草庵をむすび、友もなく星霜をおくらる。財寶とては、手どりとかやいふ、ちひさき釜に口のあるを所持し、朝夕の煙を立てられき。或時たはぶれて、
 「手どりめよおのが小口
(こぐち)のさし出でて雜水(ざふすゐ)にたと人にかたるな」
 「身をかくす庵
(いほり)ののきの朽ちぬればいきても苔の下にこそあれ」
 「月は見ん月には見えじながらへてうきよをめぐる影も恥かし」
◎百三十年あまりの跡かとよ、筑前國
(ちくぜんのくに)宰府(さいふ)の天神の飛梅(とびうめ)、天火(てんくわ)にやけてふたゝび花さかず。こはそも淺ましき事やと人皆涙をながし、知るも知らぬも集りて、思ひ思ひの短册をつけ參らする中に、權校坊(ごんきやうばう)とて、勇猛精進なる老僧のよめる歌こそ殊勝なれ。
 「天
(あめ)をさへかけりし梅の根につかば土よりもなど花のひらけぬ」
短册を木の枝にむすびて、足をひかれければ、すなはち緑の色めきわたり、花さく春にかへりしことよ。人々感に堪へで、かの沙門を、神とも佛とも手を合はせし。梅はこれ我が愛木と賞ぜさせたまひ、
 「いづくにも梅だにあらば我とせよたとひ社
(やしろ)はありとなしとも」
 「梅あらば賤
(いや)しきしづがふせやにも我立ちよらん惡魔しりぞけ」
◎さしもたつとき老僧のもとへ、松茸のさかりなるを人のおくりたり。とりはやし褒めゐける處に、そこつなる小僧の出
(いで)て、松茸一つ取りあげ、「これはそのまゝ、これの地藏のあたまに似たは」と申しければ、老僧涙をながし、衣(ころも)を著(ちやく)し、地藏の前に參り、「今小僧めが申せし狼藉を、眞平(まつぴら)我に對してゆるし給へ」とかなしまれしは、思ひやられて有難(ありがた)や。
◎栂尾
(とがのを)の明惠上人(みやうゑしやうにん)は、春日大明神直(じき)に御言葉をかはし給ひしが、
 「けがさじと思ふ御法
(みのり)のともすれば世わたる橋となるが悲しき」
◎大和國龍門
(りようもん)の聖(ひじり)といふあり。聖と親しき男の、明暮(あけくれ)鹿を殺すに、照射(ともし)といふ事をしける。暗き夜(よ)ねらひがりに出(いで)たり。目をあはせたれば、鹿ありとておしまはしおしまはしするに、慥(たしか)に目をあはせたり。火串(ほぐし)に引(ひつ)かけ、矢をはげ射んとふりたて見るに、此(この)鹿の目の間(あひだ)、例の目の色に替りければ、怪しと思ひ弓を引きさし、矢をはづして火をとり見るに、鹿の目にはあらず。ちかくより見れば、身は一定(いちぢやう)の革なるが、靜(しづか)に火をふき見れば、此(この)聖の目のうちたゝき、鹿の皮を引きかづきふし給へり。「こはいかに」といへば、ほろほろと泣きて、「わぬしが制する事をきかず、いたく鹿を殺す。我(われ)鹿にかはりて殺されなば、さりとも少しは留(とゞま)りなんと思へば、かくて射られんとしてゐるなり。」男ふしまろび泣き、即(すなはち)胡簶(やなぐひ)皆うち折りくだき、髻(もとゞり)(きつ)てつかはれてぞゐける。
◎昔もろこし寶誌和尚
(はうしをしやう)といふあり。道德おはしければ、帝(みかど)、彼(かの)姿を影(えい)にかき留めんとて、繪師三人を遣し給ふ。三人めんめんにうつすべきよし仰せふくめらる。和尚へ參り、かく宣旨(せんじ)を承りまうでたるよし申せば、しばしといひて、法眼(はふげん)の裝束(しやうぞく)し出合(いであ)ひ給へるを、三人各(おのおの)かくべき絹をひろげ、既に筆をくださんとするに、聖「しばらく、我(われ)(まこと)の形あり、それを見て寫すべし」とあり。左右(さう)なくかゝず御顔を見れば、大指の爪にて額(ひたひ)の皮をさしきりて、皮を左右へ引きのけたるより、金色(こんじき)の菩薩の顔をさしいだしたり。一人は十一面觀音と見る。一人は聖觀音(せいくわんおん)と拜み奉りつる。見るまゝに寫し奉り持參(もちまゐ)りたれば、御門(みかど)驚き、別の使をたてゝ問はせ給へば、かい消(け)つやうに失(う)せ給ふ。
◎天竺に一寺あり。住僧多し。達磨和尚、僧どもの行
(おこなひ)を見給ふに、念佛するあり。或房、に八九十許(ばかり)なる僧、只二人碁を打つ外は他事なし。達磨、件(くだん)の房を出で他の僧に問ふ。答言(こたへていはく)、「此(この)二人若(わかき)より圍碁の外する事なし。仍(よつ)て寺僧いやしみ、外道(げだう)の如く思へり」と言ふ。和尚聞きて、定めて樣(やう)あらんと思ひ、彼(かの)老僧の傍(かたはら)にて碁打つ樣を見れば、一人は立ち、一人は居(ゐ)ると見るに、忽然として失せぬ。あやしく思ふ程に、立てるは歸り居ると見れば、又居たる僧失せぬ。さればこそと思ひ、「圍碁の外他事なしと承る。其(その)故を聞き奉らん」との給ふに、答言(こたへていはく)、「年來此(この)事より外はなし。但(たゞ)黑勝つときは我(わが)煩惱勝ちぬと悲(かなし)み、白勝つ時は菩薩勝ちぬと悦ぶ。打つに隨ひて煩惱の黑を失ひ、[忽ちに]證果(しやうくわ)の身となり侍るなり」と云々(しかじか)
 「山のはにさそはゞ入らん我もたゞうきよの空に秋の夜の月」
解脱上人
(げだつしやうにん)の、「世に隨へば聖(ひじり)あるに似たり。俗にそむけば狂人の如し。あな憂(う)の世中や、一身いづれの處にかかくさん」とかゝれしを、右の歌に引合はせて、衣の袖をしぼりにき。
  

 

 

  (注) 1.  上記の「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之一」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:東方書院・昭和6年1月31日発行、仏教文庫10)によりました。

 『国立国会図書館デジタルコレクション』

  『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:東方書院・昭和6年1月31日発行、仏教文庫10)
 この『醒睡笑』は、画像がやや不鮮明であるため、ルビを読みとれない部分があり、他本を参照して読みを付けた部分がありますので、この本としての読みに(そして一部の本文に)正確さを欠く恐れがあることをお断りしておきます。
   
    2.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、ここでは文字をそのまま繰り返して表記してあります。(「かすなぎかすなぎ」「げにもげにも」「實(げ)にも實(げ)にも」「なかなか」「つねづね」「殿原(でんばら)よ殿原(でんばら)よ」「よくよく」……など)    
    3.  版本には、巻之三の初めに、次の一条があるそうです。岩波文庫の注釈には「この一条は、版本に存し、広本系の写本には無い。寛永五年の献呈本以後の収録であろう」(『醒睡笑(上)』185頁)とあります。

 六十ばかりの、いかにも分別かしこ顔の禪門、わが子に材木の注文書かするとて、「まづ、材木の事と、口に書け」とこのむ。その時むすこ、「材の字、何と書き申すぞ」といへば、「まづ木偏に書け」。「さて、つくりは」と問へば、「つくりは仮名で書け」というた。あげくに、「それほど鈍では、何事も成るまい」と申された。
   
    4.  最後に出てくる「世に隨へば聖(ひじり)あるに似たり。俗にそむけば狂人の如し」という言葉は、普通の本には、「世に隨へば望(のぞみ)あるに似たり。俗にそむけば狂人の如し」となっていますので、特に付記しておきます。    
    5.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、上記の『醒睡笑』のほか、次の『醒睡笑』を見る(読む)ことができます。
 『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:丁未出版社・明治43年12月28日発行、丁未文庫3)
 抄本で、全文は出ていません。巻末に、探華亭羅山編『軽口浮瓢簞』から42の話が載せてあります。
   
    6.  私たちが知っている『醒睡笑』の話は、原文を読んでも分かりやすいものが多いのですけれども、一般的には、注なしでは全く意味のとれない話が多いように思われます。

 そこで、注釈のついた本を次に挙げておきます。
 〇岩波文庫『醒睡笑』上・下(鈴木棠三校訂、1986年発行。1964年刊の角川文庫『醒睡笑』上・下の新増補版)
 ※ 岩波書店のサイトから、岩波文庫『醒睡笑』上・下(鈴木棠三校訂)の紹介文をひかせていただきます。   
 表題は「睡りを醒まして笑う」の意味で、落語家の祖、安楽庵策伝(1554-1642)和尚が説教用に編集し、京都所司代に献呈した戦国笑話の集大成。8巻、1030余の笑話を収めた質量ともに一級の笑話集で、説話研究上の好資料でもある。また、近代の落語に多くの材料を提供した最古の咄本としても高く評価されている。 
 〇東洋文庫31『醒睡笑 戦国の笑話』(鈴木棠三訳、平凡社』昭和39年11月10日初版第1刷発行)。現代語訳と注で、原文はない。また、全文ではない。
   
    7.  〇醒睡笑(せいすいしょう)=咄本(はなしぼん)。安楽庵策伝作。8巻。作者が幼年時代から聞いていた笑話・奇談など1000話余を京都所司代板倉重宗の所望によって、1623年(元和9)滑稽味を加えて書きおろし、28年(寛永5)献じたもの。寛永(1624-1644)年間に300話余を抄出した略本3冊を刊行。
 〇安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)=江戸初期の淨土僧・茶人・笑話作者。落語の祖といわれる。京都誓願寺竹林院の住持。のち、寺域に茶室安楽庵を結ぶ。「醒睡笑」を著して京都所司代板倉重宗に呈した。(1554-1642) (以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    8.  資料386に、「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之一」があります。    
    9.  資料402に、「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之二」があります。    
    10.  「浄土宗西山深草派総本山 誓願寺」のホームページに、「落語の祖 策伝上人」の紹介ページがあります。    
    11.  フリー百科事典『ウィキペディア』「醒睡笑」の項があります。    
    12.  岐阜市ゆかりの”落語の祖” 安楽庵策伝上人を顕彰するため、その命日に、かつて住職を務めた淨音寺で、毎年落語会が開かれているそうです。
 『ウィキペデイア』→ 淨音寺
   
    13.   駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」のホームページに、『醒睡笑』の寛永版の影印を翻刻した(活字におこした)本文があります。底本は、笠間書院1983.2発行の笠間影印叢刊:72-74  策伝著『醒睡笑』だそうです。

 「情報言語学研究室」
  → テキストデータ
  → 「(4)上代・中古・中世文学資料テキストデータ」の「31,寛永版『醒睡笑』」
    → 酔生書菴蔵・寛永版の影印翻刻『醒睡笑』  
   






   
                                                        
                           
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