資料386 安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之一





 

          醒 睡 笑            安樂菴策傳  

 

 


醒睡笑序
ころはいつ、元和九癸亥(みづのとのゐ)の稔(とし)、天下泰平人民豐樂(にんみんほうらく)の折から、策傳(さくでん)(それがし)小僧の時より、耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端にとめ置(おき)たり。是年(ぜねん)七十にて誓願寺(せいぐわんじ)(いぬゐ)のすみに隱居し安樂庵(あんらくあん)と云(いふ)。柴の扉の明暮(あけくれ)心をやすむるひまひま、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。さるまゝにや是(これ)を醒睡笑(せいすゐせう)と名付(なづけ)、かたはらいたき草紙を八巻(くわん)となして殘すのみ。




         醒 睡 笑  巻之一                安樂菴策傳 


      ◇ 謂被謂物之由來
(いへばいはるゝもののゆらい)

◎虚言
(そらごと)をいふ者を、など、うそつきとは言ひならはせし。さればにや、鷽(うそ)といふ
鳥、木のそらにとまりゐて、琴をひく縁によせ、そらごとをうそつきといふよし。
◎いづれも同事
(おなじこと)なるを、常にたくをば風呂といひ、たてあけの戸なきを、柘榴風呂(じやくろふろ)とは何(なん)ぞいふや。かゞみいるとの心なり。
◎海藻の類
(たぐひ)にお期(ご)といふ藻あり。かのおごも、よく食(しよく)をすゝむる功能あり。さてぞ武家の臺所に、飯(めし)をはからひもり、人にすゝむる役者を、おごとはいふならし。
◎よろづ物のむさき事を、きたないとはいかに。北は水の方
(かた)なり。水なければ萬物(ばんぶつ)淸からず。然(しか)る間(あいだ)、水ないといふに準(なぞら)へ、きたないといふかや。
◎宗祇宗長とつれだち、浦の夕に立出
(たちいで)あそばれしに、漁人(ぎよじん)の網に藻を引上(ひきあげ)たり。「是(これ)は何(なに)と名をいふぞ」と問はれたれば、「めとも申し、もとも申す」と答ふ。時に祇公、「やれ、是(これ)はよい前句や」とて、
  「めともいふなりもともいふなり」
宗長に「つけられよ」とありければ、
  「引連れて野飼
(のがひ)のうしの歸るさに」
牝牛
(めうし)はうんめとなき、牡牛(をうし)はうんもとなくなる。祇公感ぜられたり。宗長の「一句沙汰あれ」と所望にて、
  「よむいろは敎ゆる指の下をみよ」
ゆの下はめなり。ひの下はもなり。
◎隨
(ずゐ)八百とは何をいふ。婿(むこ)が舅(しうと)のもとに行き、慇懃に一禮ありて後、舅のいふやう、「今までは公界(くがい)のむきよし、此後(このゝち)は隨をいだいてあそばれ候へ」と。聟きゝて肝(きも)をつぶし京へ俄(にはか)に隨を買ひに上(のぼ)する。高聲(かうしやう)に「隨を買はん」と呼ぶ。利口なる者行合(ゆきあひ)、龜の子を「いきずゐ是(これ)なり」とて、八百にうりたり。聟悦び座敷へ持ち出(い)で、隨を出(いだ)しまゐらするとて、あゆませたり。それより隨八百とはいふと、をかしや。
◎餅をかちんとは、褐色
(かちん)の手拭にて、髮を包みゆうたる女房の、いつも禁中へ餅を賣りに參りつけたり。餅賣とあれば言葉のさまいやし。いつものかちんが參りたるなど、沙汰あればよろし。
◎餅のちと赤きやうなるを、しんかうといふ事、赤き小豆
(あづき)を上にきする、あかつきといふ縁にていふとなり。
◎河内
(かはち)の國に珍(ちん)といふあり。大和に場(ば)といふあり。二人ながら兵法(ひやうはふ)の上手なりしが、或時仕合(しあひ)をし、雙方片足を落し落され、既に死にのぞむ時、金瘡(きんさう)の上手とて來(きた)る。あまりあわてふためき、其(その)ぬしの足をば取違へ、我(われ)がを人に、人のを我(われ)がに接(つ)ぎかへたり。さるまゝ一人は足長くなり、一人は足短くなり、腰をひきしより、今もかゝるありきの人を、ちんばとはいふよし。
◎いそがばまはれといふことは、物ごとにあるべき遠慮なり。宗長
(そうちやう)のよめる、
   「武士
(ものゝふ)のやばせの船ははやくともいそがば廻れせたのながはし」
◎和州
(わしう)より出づるほてんといふ瓜は、延暦寺傳敎(でんげう)の弟子慈覺大師(じかくだいし)、天長十年四十にて身疲れ眼(め)暗し。命久しかるまじき事を思ひわきまへ、叡山の北谷(きたゞに)に草庵を結び、三年勤め行(おこなひ)して臨終(をはり)を待たれけれは、或夜(あるよ)夢に天人來(きた)りたり。「これ靈藥なり」とて與ふ。その形瓜に似たり。半片(はんぺん)を食す、その味(あぢはひ)蜜の如し。人ありて告ぐるやう、「これ梵天王(ぼんてんわう)の妙藥なり」と。夢さめて口中に餘味(よみ)あり。しかうして後(のち)瘦せたる形(かたち)更に健(すくや)かに、暗きまなじり益(ますます)(あきら)かなり。その半片を土に蒔きければ、まつたき瓜の生ぜし。いまの梵天これなり。元亨釋書(げんかうしやくしよ)に見えたり。
◎瓜の糟づけ奈良づけといふ事は、かすがのあれはよいといふ縁なり。
◎何事も油斷の樣
(やう)に、取合(とりあひ)の遲きを、ぬかるといふなる。俊成卿の歌に、
   「せき入るゝ苗代水やこぼるらんぬかりて道のかわくまもなし」
◎何にても水に入
(い)りたる物を、湯いりとは何しにいふぞや。沖なかでそこねたとの縁にや。
◎こぼれさいはひとはなにをいふ。昔女子
(をなご)三人一つ枕にいねたりし。姉夢見るやう、「我が身の上へ、富士の山がころびかゝると見た」と語れば、人ありて合せける、「それこそ、富みたる男(をとこ)を、もたんずる吉夢(きちむ)なり」と祝ひければ、次の娘いふ、「あれほど大(おほい)なる富士の山が、姉ご一人の身の上ばかりへはころぶまじ。兩方に寐たる者の上へも、かゝりこそせめ」と、嬉(うれし)げにてゐたりしが、はたして三人ながら、目出度(めでたく)富貴の男を得たりし。これより、この言葉はありとなん。
◎物を無用といふ詞
(ことば)のかはりに、よしにせよといふは、
   「あし垣も戸ざしもよしやするがなる淸見がせきは三保の松原」
 此歌にて心得ぬべし。三保の松原の面白き景を詠
(なが)めゐば、關におよばず、えゆくまいほどに、淸見が關はよしにせよとよめり。
◎瘦法師
(やせほふし)の酢ごのみとは、八瀬(やせ)の寺に昔より禁酒にて酒をいれず。僧の中(うち)に酒を好み、えこらへぬあり。常に土工李(とくり)を持ちて行通ふ。若(もし)人問ふ事あれば、「酢にて候」といふ。日を經ずかよひしげし。又問ふ時も同(おなじ)返事なるまゝ、諺にいひならはし、「やせの法師はすごのみや」。
◎なべて上臈
(じやうらふ)がたには、さくちんといふを、禁中にはまちかねとかや。もてあつかひ給ふ事、こぬかといふ言葉の縁にや。
◎わらんべは風
(かぜ)の子と、知る知らず世にいふは何事ぞ。ふうふの間(あひだ)のなればなり。
◎山城の國伏見のつゞきに、法性寺
(ほふしやうじ)といふ在所あり。人「此處(ここ)をば、何とて寺の名を呼ぶぞや。」老(おい)たる男(をとこ)出合(いであひ)、さる事候。昔此地(このち)に庄屋有り、彼(かれ)燒米をすいて食(く)ひ、終日かみくたびれ、頰に含みながらねいりたり。鼠にほひにたより、食破(くひやぶ)り大(おほい)に口をあけけり。其朝(そのあさ)地下(ぢげ)の者どもとぶらひくる中(うち)に、金瘡(きんさう)の上手あり。風を引いてはあしかりなんと、先(まづ)障子を折りて疵(きず)の口にたてしより、ほうしやうじとはいふなり。
◎昌叱
(しやうしつ)のもとへ、燒米を三袋(みふくろ)おくりければ、
   「いち早きこめらうどものなす業
(わざ)を奧齒に入れてかみふくろかな」
 又誹諧に、
        「まはる度
(たび)にぞこめをみせける」
   「さしてなきとがする臼
(うす)に繩つけて」
◎鬼に瘤
(こぶ)をとられたといふ事なんぞ。目の上に大(おほい)なる瘤をもちたる禪門ありき。修行に出(いで)しが、或山中に行暮れて宿なし。古辻堂(ふるつじだう)にとまれり。夜(よ)既に三更(さんかう)に及ぶ。人音あまたして、かの堂に來(きた)り酒宴をなす。禪門おそろしく思ひながら、詮方(せんかた)なければ心うきたる貌(かほ)し、圓座(ゑんざ)を尻につけ立ちて踊れり。明方になり、天狗ども歸らんとする時いふ、「禪門うき藏主(ざうす)にてよき伽(とぎ)なり。今度もかならずきたれ」と、約束ばかりは僞(いつはり)あらん。たゞ質(しち)にしくはあらじとて、目の上の瘤を取りてぞ行きける。禪門寶をまうけたる心地し、故郷に歸る。見る人感じ、親類歡喜(くわんぎ)する事かぎりなし。」
◎朝謠
(あさうたひ)はうたはぬ事とも、又朝謠は貧乏の相(さう)とも言傳(いひつた)へたり。皆僻事(ひがごと)なり。本説(ほんせつ)は、麻をまく時、謠をうたふなといましむる、其故(そのゆゑ)は、麻はふしをきらふほどに。
◎へちまの皮とも思はぬとは、紀の國の山家
(やまが)に、大へち小へちとて、峯高う岸けはしく、羊膓(つゞらをり)なる傳道(つたひみち)、人馬の往來たやすからぬ切所(せつしよ)あり。彼(かの)あたりにつかふ馬は、糠(ぬか)につけ藁につけ、大豆などは申(まをす)に及ばねば、實(まこと)に骨計(ほねばかり)なる樣(さま)なり。さるほどにかしこの馬、皮を剝ぎても、背の跡瘡(あとかさ)の跡、疵(きず)のみにて、何の役にもたゝぬ物を、へち馬(ま)の皮とも思はぬ事にいふならん。
◎世間に下手
(へた)なる者を、饂飩(うどん)くらひと云事(いふこと)は、けしからず饂飩をすく者あり。さすが買うては、食(く)ひともなし。利口になき坊主に向ひ、「そなた我髮(わがかみ)を剃りてたび候へ。もし切られ候らはゞ、饂飩を振舞はれよ。難なく剃られたらば、我振舞はん」といひあはせ剃らるゝに、はや切らずに剃り果(はて)んとするつがひに、ふと立ち、少し切られんとしければ、耳を一ッ落されたり。腹をばたゝで、結句(けつく)悦びぬるは、珍らしき痴漢(うつけ)なるかな。
◎七歩
(しつぽ)とぬるゝとは何事ぞ。されば釋迦誕生の時、阿難陀龍王(あなんだりうわう)は湯を吐き、難陀龍王(なんだりうわう)は水を吐き、此(この)産湯(うぶゆ)にぬれながら、七歩を行(ぎやう)ぜられしより、起りたる言葉ぞかし。淨土の無量壽經に、從右脇生現行七歩(じうゝけふしやうげんぎやうしちほ)といへり。しとゝ濡るゝも七歩となり。
◎鵜のまねする烏
(からす)は、大水(たいすゐ)を飲むとは何(なん)ぞ。
  「水に入
(い)るみちをばしらで山がらす鵜のまねまなぶ浪の上かな」
◎豆腐を串にさして焙
(あぶ)るを、など田樂(でんがく)とはいふ。されば田樂のすがた、下には白袴(しらばかま)を着、其上(そのうへ)に色ある物をうちかけ、鷺足(さぎあし)にのりをどる姿、豆腐の白に味噌をぬりたてたるは、その舞ふ體(てい)に似たるゆゑ、田樂といふにや。夢庵(むあん)の歌に、
  「たかあしを踏みそこなへる面目
(めんぼく)を灰にまぶせる冬のでんがく」
◎僧の米をもちよりて食するを、打飯
(だはん)とはいかでいふ。だとは、だしあはせたる心なり。八人の爐打(ろわをだす)、火の字の分字(わけじ)なり。
◎ある人、北野に籠りて本地
(ほんぢ)を祈りければ、 
  「かくらくの泊瀬
(はつせ)のてらの佛こそきたのゝ神とあらはれにけれ」
◎鰯
(いわし)をば上臈(じやうらふ)がたの言葉に、むらさきともてはやさるゝ。むらさきの色は、あゐにはましたといふ縁(ゑん)とや。されば下主(げす)らしき鰯も、其人(そのひと)のすきなれば、鮎(あゆ)の魚(うを)に勝(まさ)るよのう。
◎理をば非になし、非をば理になし、顔をあかめ興
(きよう)をさまし、むざと物ごとに横さまにわめく者を、なべて世の人、「あれはいかいどろふみよ」といふ事、跣足(はだし)ぢやとの縁語なり。雄長老(ゆうちやうらう)
  「春雨の風にしたがふかいだうはしるくなれども早
(はや)かわきけり」
◎あわてふためき、前後を忘
(ばう)じたるを、とち目になつて尋ねたは、とち目になりて走歩(はしりあり)きたるは、などいふ事、何のゆゑぞや。昔或者木から落ちて、目をつきやぶり悲しめば、人彼をあはれみ物をとらする。さる程に、はじめよりも富貴(ふうき)になりぬ。うつけ是(これ)を見、羨(うらやまし)き心出來(いでき)、態(わざと)山に行き、無理に落ちたれば、不思議に大(おほい)なる岩に、頭のあたり打破(うちわ)り、目の玉ぬけたり。探りて見(み)(きも)をつぶし、玉を尋ね這(は)ひまはるに、折節(をりふし)(とち)一ッ手にあたるを、玉と思ひ押入(おしいれ)たる。ほんの玉には無かりしを入れたれば、とち眼になりたる事よ。あまり痛み悲しみ泣き居ければ、橡ほどの涙をながすともいふよし。
◎月次
(つきなみ)の連歌にて、宗匠たる人、朝朗(あさぼらけ)と云(いふ)(ことば)をせられたれば、句がら面白しと、一座皆感ずるを聞きゐて末座(ばつざ)より、夕ぼらけと五文字を出(いだ)すに、宗匠、「あらめづらしや」といはれぬ。又其儀ならば晝ぼらけとなほしけるを、宗匠、「それは猶(なほ)いな言葉ぞ」とおつこめたるに、右の作者うく、「これこれ我はして、人のほらけやきらふらん」。
◎遣唐使唐土
(もろこし)にある間に子あり。日本へ歸る時、妻は「此子(このこ)乳母(にうも)はなれん程には、迎へ取るべし」とちぎりて歸朝しぬ。遣唐使のくるごとに、消息を尋ぬれどおとなし。母大(おほい)に恨み、兒(ちご)の首に簡(てがみ)をゆひつけ、縁あらば親に逢ひなんと、海になげ入れ歸りぬ。父難波(なには)の浦を行く。沖より浮びて物の見ゆ。馬をひかへてみれば、四ッばかりなる兒(ちご)なり。大(おほい)なる魚(うを)の背(せなか)にのれり。取らせ見ければ札あり。我子にこそありけれ。いひ契りし兒をとはぬを、母が腹立(はらたて)て海に投入れしが、縁ありて魚(うを)に乘りきたるなめりと、哀(あはれ)覺え、いみじうかなしくて養ふ。此(この)よし書きやりたれば、母も聞きて、今は亡物(なきもの)にと思ひけるに、希有(けう)の事とて悦(よろこ)びける。此子(このこ)成人(おとな)になり、手をよくかけり。魚(うを)にたすけられたるゆゑ、名を魚養(うをかひ)とぞつけたる。七大寺の額(がく)どもは、これが皆かきたるなり。あな面白の由來や。
◎旦九郎といふ兄あり。性鈍
(どん)にて富(とめ)り。田九郎(でんくらう)とて弟(おとゝ)あり。性(せい)さかしくて貧しく、或時弟(おとゝ)(かま)をもとめ庭にて湯をわかす。たぎりゐける處へ兄來(きた)るに、其釜をぬき、出居(でゐ)の火もおかぬ路(みち)にかけぬ。旦九郎見つけ、「是(これ)は火もなうてたぎる事如何(いか)に」とあれば、弟(おとゝ)「それこそ此頃(このごろ)(きた)り候(さふらふ)、火もなくて湯の沸く寶なれ」と語るにぞ、兄肝(きも)をつぶして金(きん)十枚に買ふ。金(かね)を渡して後、洗ひてかくるに沸かず。腹立(ふくりふ)し問へば、「其儘(そのまゝ)水を入(いれ)給はゞ、沸き候(さふら)はん物、洗はせ給うたほどに、今からは湯沸くまじき」とて歸りぬ。又或時馬を一疋(ぴき)買うてつなぐ。其厩(そのうまや)に、金(きん)を二枚入れて置きけり。旦九郎來(きた)り、「馬はいづれより」と問ふ。弟(おとゝ)(まを)しける、「是こそ世にためしなき名馬に候へ。三日に一度は、かならず金(こがね)を糞(ふん)に仕(つかまつり)候。」又嘘をつくとて叱る。「馬のゐるあたりを御見(おんみ)せ候へ」と、人をして見するに黄金(わうごん)あり。「今は疑(うたがひ)なし。我にくれよ。其價(そのあたひ)金子(きんす)五十枚つかはさん」とてもらひたり。馬屋の結構(けつこう)にしたるに、兩端綱(りやうはづな)につながせ、今や今やと待つに其樣子なし。大(おほい)に嗔(いか)りて、田九郎をよびはをぬくに、「いやいや、板の上に繋がれし故、心たがひてあり。此後は中々奇特(きどく)あるまじき」とぞ申したる。是より、うつけを旦九郎とは云ふなり。
◎娘一人に聟三人と云ふ事は、昔富める人の、女
(むすめ)をもちたりしが、或時舟遊(ふなあそび)に出でぬ。如何(いかゞ)したりけん、娘船端(ふなばた)を踏外(ふみはづ)し水に落入(おちい)りぬ。父母(ふぼ)驚き悲み、高札(かうさつ)をうつやう、「此娘を救(たす)けたらんを、必ず聟にせん」とあり。占(うらなひ)する者來(きた)り、いづくの程に其姿あり」と敎ふ。又河だちの上手(じやうず)一人來(きた)り、「我とりあげん」というて、即ちいだきあげたり。されども息たえてなし。時に醫者(くすし)(きた)り藥をあたへ、二度(ふたたび)(よみがへ)りぬ。其後(そのゝち)卜人(ぼくじん)云ふ、「我(われ)(はじめ)娘のあり處(どころ)を云ひてあればこそ、とりあげたれ。婿にならん。」又水練(すゐれん)が云ふ、「我(われ)(だ)きあげずんば、何(なん)として蘇生すべき。我婿にならん。」又醫師(くすし)いへらく、「我(われ)藥をあたへずんば、爭(いか)で二度(ふたゝび)(じゆ)を保つべき。我婿にならん。」と爭ひ、所の地頭(ぢとう)に伺ひければ、批判(ひはん)左右(さう)なく濟ます。終(つひ)には都にのぼり、多賀の豐後守(ぶんごのかみ)に義をうけければ、「さる事あり、欲界に生(しやう)をうくる者、凡(およそ)三百六十種としるせる中(なか)に、人これが長(をさ)たり。婚合(こんがふ)の法(はふ)(かたち)をまじふるにあり。しかる時は、水練の者、娘に身をそへ膚(はだ)をふれたり。是(これ)をこそ尤(もつと)も婿にとるべき」と掟(おきて)しぬ。
◎丹後國
(たんごのくに)與謝郡(よさごほり)に、あさもがはの明神(みやうじん)と申す神います。是は昔、浦島の翁(おきな)の神になれるとなん云傳(いひつた)へたる。
◎或人云
(いは)く、貫之が年比(としごろ)すみける家の跡は、萬里小路(までのこうぢ)よりは北、とみの小路(こうぢ)よりは東の角(すみ)也。
◎京にて乘物をかき、或
(あるひ)は庭にてはたらく男を、六尺とはなどいふならん。さる事候。屋敷につけ家につけ、たゝみにつけ、一切竪横(たてよこ)(あひだ)をさだむるに、田舎のは一間(けん)を六尺にとる法なり。都のは間尺(ましやく)を六尺三寸にとつて、一間(けん)とする法なり。されば亭主をば都六尺三寸の間にとり、使はるゝ男をば田舎六尺の間(ま)にとる。其故は、主人たる人の心と下男の心と、ものごとはらりとちがひて、まにあはぬ故に、かの下人を六尺とはいふとなり。
◎世話に鬼味噌と云ふはなんぞ。或山寺に、修行底なき僧、老年を久しく住せしが、かれ圓寂の後看坊
(かんばう)をすゆるに、一夜(いちや)をあかしてみれば跡なし。幾人も右の如くなるまゝ、恐れて彼寺(かのてら)に住せんといふ者なし。或時行脚(あんぎや)の比丘(びく)(きた)るに、件(くだん)の旨(むね)を語りきかする。即ち「我ゐてみん」といふ。あないたはしや、又とられん事よとは思ひながら、寺をわたしぬ。件(くだん)の看坊(かんばう)しんしんと座す。三更(かう)の後(のち)僧一人來(きた)れり。「そちは誰(た)そ。我は此(この)前住(ぜんぢう)也」と。「汝世を去つてほどありと聞く、如何(いか)なれば再來する。」「我汝を憐(あはれ)み、一鉢(ぱつ)の飯(めし)を與へんため」と。「不思議や、亡魂の作法に終(つひ)にきかず」といふ。彼靈(かのりやう)、「我は鬼にもなり、畜生乃至(ないし)食物(しよくもつ)にも、神通無碍(じんづうむげ)なり」とかたる。「さらば湯づけを出(いだ)し、燒味噌をそへてふるまはれよ。」「やすき事」と身を變じ、燒味噌となりしを口へ入れ、一嘗(ひとなめ)にしけり。其後(そののち)は、彼寺(かのてら)に何(なに)の祟(たゝり)もなければ、案の外(ほか)(わづらひ)なく住みぬ。此(この)いはれにより、音はおそろし、左右に聞えさせる手柄も奇特もえせぬ者を、「あれは鬼味噌ぢや」と、一口にはいふよし。
◎芋掘僧とは、いかなる因縁ありていふ詞
(ことば)ぞや。されば巨細(こさい)あり。たとへば、いづれの佛地(ぶつち)にても、一寺一院と相續する程の所には、或(あるひ)は山林、或は田村(でんそん)、分々(ぶんぶん)に似合の資糧(しらう)あり。又は校割(かうかつ)の靈寶財祿(れいはうざいろく)あり。皆これ供養三寶法鐘讀誦、大乘妙行解第一議、爲六趣四生也。爾(なんぢ)をば、四沙門乃中(ししやもんのうち)、纔(わづか)汚道比丘(をだうびく)にても計縁勝劣1(ゑんしようれつをはかる)、師となり弟子となすべき法用なるを、末世(まつせ)の此(この)作法悉(ことごとく)(これをそむき)、法器をばさらにえらばず、唯我姪我從子(たゞわがをひわがいとこ)などいつて其(その)親類をたづねいだし、寺院を他人に、誤りても不讓(ふじやう)を法とする儘(まゝ)、山の芋はつるをたゞしてこそ掘るなれば、芋掘僧といふならん。
◎娑婆
(しやば)で見た彌次郎かともいはぬとは、何(なん)ぞ。往(いに)し頃佐渡の島に銀山(かなやま)出來(いでき)、人多く集りぬ。其時一人の聖(ひじり)ありて、十穀をたち禁戒をまぼり、六時不退の稱名(しようみやう)たゆる事なく、生佛(いきぼとけ)とはこれならん。參れや拜(をがめ)やとて、晝夜(ちうや)のわかちなく、男女(なんによ)袖をつらぬる中(うち)に、彌次郎といふ者、其(その)道場をはなれず給仕しけり。彼聖(かのひじり)、年月を經て後、頻(しきり)に入定(にふじやう)せんと披露する。各(おのおの)落涙(らくるい)し名殘(なごり)を惜(をし)む。來(きたる)二十日をかぎり、時を定め山の原に大(おほい)なる穴をほり、法衣(はうえ)を著(ちやく)し入りすまし、外より土をよせ、かたく埋(うづ)みをはんぬ。奇特なる行狀なりし。傍(かたはら)に沙汰するをきけば、金掘(かねほり)を頼み過分に物をとらせ、拔道(ぬけみち)を掘りおき、其身は恙(つゝがな)くおこなひうせたる、などいふ者もありけり。斯(かく)て三年を過ぎ、彼聖(かのひじり)を信仰せし彌次郎越後に渡り、さる所にて件(くだん)の聖にあひぬ。疑ふべくもなし。すなはち近くより、「そなたはそれではなきか。」聖(ひじり)、「いやそちをば夢にも知らぬ。我もさいふ者でもなし」と爭ふ。俗、あらゝかに證據をひき叱る時、かの聖、「げにもげにも、よく思ひあはすれば、娑婆で見た彌二郎か」と申したりき。それより此(この)言葉はありといふ。

      ◇ 落 書
(らくがき)

◎田中
(たなか)の眞宗(しんそう)とかや云ふ者、ちひさき茄子(なすび)の茶入(ちやいれ)を所持し、けしからず祕藏して出(いだ)しければ、
  「二服さへいらぬ茶入の生茄子
(なまなすび)あへてその身のかほよごしかな」
◎さやの宗久
(そうきう)といふ者、初花(はつはな)の茶入を持ちてゐたりしに、或人、三好松山殿(みよししようざんどの)を頼みて、其(その)威光をかり、見度(みた)きよし催(もよほ)しけるに、
  「ものしらぬ人のしわざかはつはなに松山風をふかせきぬるは」
◎信長公諸大名をよせ給ひ、馬揃
(うまぞろへ)あそばし、思ひ思ひの出立(いでたち)花やかなりし風情(ふぜい)にて、綺羅(きら)をみがき、あたりを輝かせば、古(いにし)へも例(ためし)まれなる事と沙汰しあへり。即(すなはち)主上(しゆじやう)も簾中(れんちう)より叡覽(えいらん)なされし。
  「金銀をつかひすてたる馬ぞろへ將基
(しやうぎ)に似たるわうのけんぶつ」
◎信長公、始めて京都に石垣の普請
(ふしん)仰せつけられ、毎日石をひく音喧(かまびす)しかりければ、
  「花よりもだごの京とぞなりにける今日もいしいし明日もいしいし」
◎信長公、洛中に御普請の時、餘國
(よこく)よりも都へ方角近き故、江州(がうしう)の衆殊更(ことさら)苦勞あれば、
  「なまなれの鮓
(すし)にも似たる近江衆いしを重しと持たぬ日もなし」
◎攝津國
(つのくに)高槻(たかつき)の城主たりし和田といふ侍(さぶらひ)、信長公御前(ごぜん)、世に越えて出頭(しゆつとう)がほなり。
  「信長のきてはやぶるゝ京小袖わたがさしでて見られざりけり」
◎山門
(さんもん)より三井寺を打破(うちやぶ)り、鐘を叡山へ取りし時、
  「三井寺の兒
(ちご)ははしろになりぬらんつくべき鐘を山へとられて」
◎美濃國
(みのゝくに)にて、土岐殿と齋藤山城守(やましろのかみ)取合ひて、終(つひ)に土岐殿方(ときどのがた)まけになりし頃、
  「とき晴
(はれ)とのりたてもせぬよの袴(はかま)みのは破れてひとのにぞなる」
◎信長公の御前
(ごぜん)にて、直(たゞち)に理を御(おん)すましなされたりし公事(くじ)あり。出頭人(しゆつとうにん)の馬丞(うまのじよう)といふを頼み、今一度對決のあるやうにと、馳走ぶりするを聞いて、
  「ぜにくつわはめられけるか馬丞
(うまのじよう)人畜生(にんちくしやう)とこれをいふなり」
◎秀吉公の御時、ならかしといふ事あり。貸したる者本
(もと)を失墜せし上に、猶(なほ)放埓(はうらつ)のはたらき罪科(つみとが)輕からずとて、再(ふたゝび)黄金(わうごん)を出(いだ)させ給へば、
  「奈良かしやこの天下殿
(てんかどの)二重どりとにもかくにもねだれ人(びと)かな」
◎攝津國
(つのくに)蟻岡の城を、信長公とりまきておはせしに、
  「君にひくあらきの弓のはずちがひいるもいられぬあり岡の城」
◎越中の大守
(たいしゆ)神保殿(じんぼうどの)は、美濃の土岐殿の聟にてありし。其(その)御臺(みだい)、我意(がい)にまかせて、よろづ作法みだりなりければ、
  「神保が家はやぶれの窓しやうじみのうすがみのはり異見かな」
◎江州
(がうしう)六角(かく)佐々木四郎と三好家ととりあひ、鴨川迄出(いで)らるれども、三好家のつよくして、佐々木退(しりぞ)かれぬる時に、おうていはなし
  「世中
(よのなか)をしらうしらうといひけれど鴨川までもしようていはなし」
◎伊勢の桑名にて、法華宗門
(ほつけしうもん)の中(うち)、一致勝劣の爭論出來(いでき)、所をさし日を定め、雙方對論の上に、兎(と)やありけん、頭(かしら)をくはせ、組んづ轉(ころ)んづ﨟次(らふじ)なかりつるが、勝劣方の僧、一致方の坊主のふぐりを、したゝかにしめければ、その痛(いたみ)堪えへがたきなど沙汰する時、
  「法門のその勝劣はしらねどもきんをしむるはいつちめいわく」
◎紀州根來
(ねごろ)より、普光院御所(ごしよ)へ言上(ごんじやう)し、覺鑁(かくばん)の大師號(だいしがう)を望み、方兄千貫つみ奉らんとまで才覺ありつれども、頻(しきり)に高野山よりさゝへにて、成就(じやうじゆ)せざりしを、
  「千貫でござれどならぬ大師號御所はねごろにおぼしめせども」
◎紀伊國
(きのくに)にて湯の川といふ侍(さぶらひ)、諸大夫(しよたいふ)になられたれば、
  「ゆのかはがくないの少輔
(せう)になるならば蜜柑(みかん)かうじは近衛關白」
◎宗長
(そうちやう)は江州(がうしう)にて進藤といふ武士の養子也。生得(しやうとく)は駿河島田鍛冶の子なりしゆゑ、
  「ひん拔
(ぬき)は進藤ごには似たれどもよくよくみれば島田かぢなり」
◎山崎にて、上
(かみ)の殿へ、下(しも)の殿の日記箱を取りて、おきなにと乞へどもわたさず。後(のち)にはいさかひになる。宗鑑、
  「しもの殿はつをはなつておこひあれ上
(かみ)なる筥(はこ)の下(くだ)らぬはなし」 
◎甲斐國
(かひのくに)武田信虎公の息女(そくぢよ)を、菊亭殿(きくていどの)へ契約ありしが、まだ聟入も無き先に、信虎公菊亭殿へおはしける時、
  「むこいりをまだせぬ先
(さき)のしうと入(いり)きくていよりもたけた入道(にふだう)
◎三井寺に一山相談
(いちざんさうだん)の事ありて、幾度(いくたび)も鐘をつき集會はあれども、つひに落着(らくちやく)はなかりし。
  「山でらの春の談合來てみればよりあひのかねに腹やへるらん」
◎諸行無常を、無常諸行と書きたる卒都婆
(そとば)のわきに、
  「無常とはいかなる人の諸行ぞやそとははづかし内にたておけ」
◎荒木攝津守
(つのかみ)蟻岡の城を退出の跡に、ありつる女房達を皆々車にてひかれ、信長公より御成敗(ごせいばい)の砌(みぎり)
  「荒木殿國をば人にくればとりあやしやけふのはたものゝ音」
◎いつの比
(ころ)かとよ、日吉大夫(ひよしたいふ)、山城のへたがつぼといふ所にて、勸進能ありつるに、うちつゞき雨ふりけるを、
  「能はたゞ上手
(じやうず)ときけど下手(へた)がつぼ日吉といへど雨は降りけり」
◎奈良の春日山
(かすがやま)に、朽木(くちき)のしたゝかなるが轉びて、いくらともなくあり。それを禰宜(ねぎ)衆の中(うち)より、忍び忍びとるなどぞと沙汰しけるに、
  「風ふけばおきつ轉びつ禰宜達の夜半
(よは)にやきみに一人行くらん」
◎祇公
(ぎこう)、周防(すはう)の山口へ下向(げかう)ありつれば、
  「都よりあきなひそうぎ下りけり言の葉めせといはぬばかりに」
◎妙心寺の僧に金藏主
(きんざうす)といふあり。賀茂の競馬(けいば)を見物に行き、かへりに印地(いんぢ)のある所にて、負くる方をひいきし、つよみ過ぎ鎗(やり)につかれぬれば、
  「五月
(ぐわつ)五日(か)競馬かへりの金藏主鎗(やり)につかれてひしやとこそなれ」
◎大頭
(だいがしら)勸進舞のわきに、笠屋つれに池淵(いけぶち)といふ者なりしが、折節(をりふし)わるう雨ふりし。
  「雨ふらばかさやをきせよ大頭
(だいがしら)こゝもかしこもいけぶちとなる」
◎慈眼視衆生
(じげんししゆじやう)、福壽海無量(ふくじゆかいむりやう)をば、二句の偈(げ)といふなり。此文(このもん)を卒都婆に皆無量と書いたり。則ち並べて此歌を、
  「觀音の福壽の海はみなにする誰
(たれ)もかけかしあらにくの偈(げ)や」
◎美濃國
(みのゝくに)墨股(すのまた)に、岸といふ侍(さぶらひ)あり。幾春(いくはる)もかはらぬ色の袴(はかま)きて出仕するを、
  「我みても久しく成りぬすのまたの岸がはかまは幾代
(いくよ)きぬらん」
◎大頭
(だいがしら)彦左衛門と弟子の黑助と、何事にやあひだあしくなり、中を違(たが)ひたる時、
  「まひまひの師弟の中もこくすれば大夫
(たいふ)も今はないがしらなり」
◎越中神保殿
(じんぼうどの)の内に、寺島牛介(てらじまうしすけ)といふ侍(さぶらひ)あり。越後の長尾と取合の時、牛介長尾へ心變(こゝろがはり)するに、
  「牛介がこつていつかで敵をせば後
(のち)はうなめがたをれなるべし」
◎京にて日吉大夫能をするに、浮舟の始
(はじま)りてより、こゝを先途(せんど)とふりければ、何者やらん歌をよみ、舞臺へなげあげし。
  「名は日吉能するたびに雨ふりて芝居のうちにうきふねをこぐ」
◎家康將軍に對し、石田治部少輔
(いしだぢぶのせう)心替りつかまつり、關が原陣にかけまけ捕人(とらはれびと)となり、頭(かうべ)をはねられし時、雄長老(ゆうちやうらう)
  「大垣の陣のはりやうへたけにてはやまくれたるちぶのせう哉
(かな)
◎天正十八庚寅
(かのえとら)三月朔日(ついたち)、大相國(だいしやうこく)秀吉公、小田原北條左京大夫(さきやうたいふ)氏直(うぢなほ)退治の爲駿河に長陣(ながぢん)ありし時、裾野にて、「曾我兄弟が乘りし馬に、水より外(ほか)かふ物なしといひけるも、今身の上に覺えぬる」と歎くをきゝて、由己(いふき)
  「在陣をするがのふじの山よりもたかねにかふは馬のまめかな」
◎同
(おなじく)三月二十九日山中(やまなか)の城を責落(せめおと)されたれば、其勢(そのいきほひ)に恐れ、箱根足柄の城をあけのきけるに、
  「山中をせむればあくるはこね山にぐるもはやきあしがらの敵」
◎西陣といふは、絹屋のあまたある所なるが、一歳
(ひととせ)黑舟わたらず絲高直(かうぢき)なる故、手前不如意(ふによい)なれば、孝養(けうやう)のいとなみも調(とゝの)へがたし。さるによりまづ暫(しばらく)は、月忌(ぐわつき)の僧衆(そうしう)もおはするなと申しあへる時、
  「西陣にいかなる敵のあるやらんときもあげけりはたもあげけり」
◎上京
(かみぎやう)に誓願寺(せいぐわんじ)のありし時、事の惡縁によりて炎上せしが、戒光寺(かいくわうじ)の釋迦堂をばかりて、かりやにせよやと毀(こぼ)ちとりて、彌陀(みだ)を置きたりし時、前(さき)の山科殿、
  「釋迦むりに彌陀に御堂
(みだう)を取られけりあなんむさうや何とかせうと」
◎慶長十九年の冬、源將軍
(みなもとのしやうぐん)大阪の城へよせさせ給ふとき、日本(につぽん)六十餘州も軍兵(ぐんぴやう)一騎も不殘(のこらず)出陣ある。本陣は天王寺の茶臼山にてありしを、何者やらん、
  「大將はみなもとうぢの茶うす山ひきまはされぬものゝふぞなき」
◎後柏原院
(ごかしはばらゐん)の御宇(ぎよう)に、松木殿(まつきどの)天氣にかなはせ給ひて、即(すなはち)儀同(ぎどう)になさせ給ひければ、
  「權門にひきまはされてめでたやれ松は茶臼のしんきたう殿」
◎駿河の今川殿を松の下の弟子にとり、鞠稽古
(まりけいこ)の時、雄長老(ゆうちやうらう)
  「今川がくゝりたてたるするが鞠松の下近くよりてけられな」
◎越前朝倉殿に子息十二人あり。金吾は十二番目也。四番目を小太郎といひ、五番目を五郎と云ふ。五人張
(ごにんばり)をひかれし強弓(つよゆみ)なり。或時兄弟寄合(よりあひ)給ひ、雙方の侍衆(さぶらふしゆ)相撲(すまふ)をとるに、小太郎方勝ちぬ。小太郎弟にむかひ、「參(まゐ)りた參りたの」と名乘られし。五郎無念に思はれ、近々とより、一刀(たう)に小太郎を切殺されし。小太郎女房尼になりて後、遺恨やまず、人數(にんじゆ)を催し、五郎の館(たち)へ押寄せ、遂に國に置かれざりし時、
  「越前にものきれ二ついで來たりあまくにたちに五郎入道
(にふだう)
◎昔能登の大守
(たいしゆ)畠山殿の不慮の取合(とりあひ)出來(でき)、合戰のありつる。陣のはりやう、一番に松浪、二番に小島(こじま)、三番に梶(かぢ)と三段なりしが、先(さき)の松浪敗軍し、次の小島討たれければ、先(さき)崩れたりとも、三段目の梶がすけたらんには、大事有るまいものをと沙汰せし時、
  「おき津舟小島がさきにしづみしは松浪あらく梶よわきゆゑ」
◎美濃國
(みにゝくに)土岐の二郎は、齋藤山城守(やましろのかみ)婿にてありしを、たばかりて害しまゐらせたれば、
  「とき世とて婿を殺すはみのをはりむかしはをさ田今は山しろ」
◎後陽成院
(ごやうぜいゐん)御即位の日をうけたまはり、聞く者市(いち)をなして參りたるが、晝(ひる)より暮(くれ)に及び、夜ふけても儀式ばかりに過ぎ、時うつりければ、
  「暮るゝ迄おしねやしたる御
(ご)そくいひ世々の繼目(つぎめ)を違(たが)へじが爲」

      ◇ ふはとのる

◎忿怒
(ふんぬ)の前には、不動(ふどう)劍をひつさげて、降魔(がうま)の儀を示す事あり。さればにや昔五山(ござん)の僧に、幸藏主(かうざうす)とて兵法(ひやうはふ)の道に達せし人あり。都に上(のぼ)る達者、皆一打(うち)二打(うち)うたぬはなかりしに、或時(あるとき)奧山流の兵法者(ひやうはふしや)上洛しけり。例の如く仕合の日さだまりぬ。京中知るも知らぬも、悉(ことごと)く物見に出づるに、幸藏主は鎗(やり)、兵法者は太刀にて向ふ。鎗をさつと振廻すを見て、其儘(そのまゝ)太刀を投捨て問訊(もんじん)しけり。「こは何事ぞや」と問へば、幸(かう)の鎗先より火焰(くわえん)出(い)でたり。活身(くわつしん)の摩利支天(まりしてん)なり。たつときに太刀をすつ。」といひければ、幸(かう)(おほい)に悦喜(えつき)し、みづからすゝめて、彼(かの)兵法者に弟子ども數多(あまた)ひきつけたり。のせすまいた上手(じやうず)
◎仁物
(じんぶつ)らしき男、朸(あふこ)の前後に鯛(たひ)を入れになひ、「鯛は鯛は」と賣りけるを、或家(あるいへ)の主(ぬし)よび入れて、「けしからず寒き日也。まづちと火にもあたり、茶をも飲みておとほりあれ。ちらと一目見しより、これはたゞならず、古(いにし)へはさもありし御身(おんみ)なりしが、思はずも世におちぶれて、かゝる業(わざ)をもし給ふにやと、涙をこぼし候(さふら)ひぬ」といひければ、靜(しづか)に火にあたり、茶など飲みて、立ちざまに大(おほい)なる鯛を一つ、亭主が前に差出(さしいだ)したり。「こは何としたる事」と、しんしやくしければ、「いや、今日(けふ)は心ざす先祖の、頼朝の日なり。」
◎始
(はじめ)は、鍛冶にてありつる者、傍(かたはら)に鞠(まり)を好いてけたり。天然と器用ありければ、人皆ほめそやすにより、家職(かしよく)をすてゝ飛鳥井殿(あすかゐどの)に出入(でいり)し、葛袴(くずばかま)と沓(くつ)をゆるされ、田舎へ下らんと催す時、知音(ちいん)の者異見し、「そちは生れつきいつくしく、自然と殿上人(てんじやうびと)の形あり。とてもの事に、其風(そのふう)を似せよ」といふに同心し、五體つけの具をひた物しけり。既に位らしき樣(やう)になりすましたると思ひ、或ところに行きたれば、人々かのあたまの逸興(いつきよう)を見つけ、不審しあへり。刀の中心(なかご)にてやきたるゆゑに、備前長舟祐定(びぜんをさふねすけさだ)作といふあとあり。さすが俄(にはか)になほさんよしもなければ、又もとの鍛冶になりぬる事よ。
◎卜都
(ぼくいち)檢校(けんげう)、叡山にて大衆集會(だいしゆしふゑ)の砌(みぎり)平家ありし。「山法師をりのべ衣(ごろも)うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ」とあるを、「いかに心の涼しかるらん」となほしてかたりけり。其時(そのとき)大衆(だいしゆ)あつと感じ、平家過ぎて同音にほめつるを、大(おほい)に慢じ山を下(くだ)りたるが、思(おもひ)の外俄(にはか)に日の暮れぬるまゝ、灯(ひ)のあるをたより宿をかりぬ。亭(てい)(いで)て挨拶し、即(すなはち)一句所望(しよまう)せしを、侮りて、あそここゝおとしかたりける時に亭主、
  「うぐひすの聲ばかりして一の谷平家はおちてきかれざりけり」
此歌を吟ずるまに、もとの如く天地あきらけし。是
(これ)は此(この)檢校自慢の心より、天狗の所爲(しよゐ)なりとぞ。
◎足利にての事なるに、「鹽
(しほ)は鹽は」とよんで、いかにもいつくしく若き商人(あきうど)來れり。こざかしき學侶(がくりよ)一人出合(であひ)いひけるは、「たゞさへも道を二里三里とは、たやすく歩行なりさうもなき、いうにそだちの姿なるが、此(この)重き物を持ちては、何としてありかれるや」などかたり、時刻うつり、やうやうかへらんとするとき、升(ます)に鹽をはかり僧に與へぬ。「こは何の故ぞ」と問ふ。「しんはなきよりといへり、われならで誰(たれ)とはん。次信が日なり。こゝろざしに參らする。」
◎悴侍
(かせさぶらひ)の妻あり、不思議に夫にはあなれぬ。日頃かれが頼みし寺によせて追善の營(いとなみ)をなせども、しかじかの事もなかりし。七日(か)にあたる今日位牌の前に參り、愁涙(しうるゐ)袖をしぼりけるに、住持(ぢうぢ)(いで)あひて言はるゝやう、「冥途はきりもなくはれがましや、あらゆる大名小名(せうみやう)のつきあひにて候に、二字をうけたる人の、挾箱(はさみばこ)一ッ持(もた)せぬ程なれば、身すぼらしく候と、慥(たしか)に經文(きやうもん)に見えてあり」と示しければ、「いたはしや、なりがわるかうず」とて唯一ッある挾箱をぞ施しける。
◎壁に耳ありといふ事を忘れ、「そんでうそれは、中々人ではない」といひ出
(いだ)しけるが、後(うしろ)をみれば其仁(そのじん)ゐたり。肝(きも)をけして「唯(ただ)生佛(いきぼとけ)ぢや」といふ。謗(そしら)るゝ人褒むるを聞いて悦び、そのまゝ阿彌陀の印を結びたることよ。
◎奉公人のはてとおぼしきが、宿をかり、四方山
(よもやま)の事を語りつくしけり。亭(てい)ほめて、「いかさまたゞの人とは見え候はず。もはや休給(やすみたま)へ、夜着(よぎ)をまゐらせんや」といふ。「いや、いかほどの野陣(のぢん)山陣(やまぢん)をしつけ、せうせうさむき事をば知らず、無用」というて着のまゝ寢(いね)けるが、夜更(よふ)くるにしたがひ、ひたもの寒し。時に「亭主亭主、是(これ)の鼠には、足をあらはせたか」と問ふ。「いや、さやうの事はなし」と答ふ。「それならば、莚(むしろ)を一二枚きせられよ。鼠が着た物を踏まば、むさからうずに」と。
  「身ひとつは山の奧にもありぬべしすまぬこゝろぞおき所なき」
◎十許
(ばかり)なる娘の容顔美麗なるに、女房達二三人打添ひてゐけるを、人みつけ、「是(これ)はこなたの御息女(ごそくぢよ)候や、さてさて、いつくしさはかりなき花のかたちは、名に聞きし楊貴妃(やうきひ)李夫人(りふじん)もかくこそありつらめ」などほめければ、親父是(これ)を聞いて、「さればよ、此娘はそのまゝ母の顔ぢや」と。
◎或人連歌の席に句を出
(いだ)し、けしからず慢じたる顔を見つけ、脇から「生天神(いきてんじん)」と云うて膝をつきければ、「あまりなつかれそ、社壇がゆるぐに」と申され事(ごと)は。

      ◇ 鈍副子
(どんふくす)

◎鈍なる弟子齋
(とき)に行き、檀那、汁菜(しるさい)をとゝのへてもてなせども、あへて感ずる事もなし。坊主傳へきいて、「汝うつけたり。明眼論(みやうげんろん)に云(いふ)、一日師檀百劫結縁(いちにちしだんひやくごふけちえん)一度赴請師僧以其檀那如親子(いちどしやうにおもむいて しそうそのだんなをもつてしんしのごとくせよ)とも書(かゝ)れたり。人の賞翫(しようぐわん)するをも知らず、むざとたまはる曲事(くせごと)ぞや。膳にむかひ箸を手に持ち、『御造作(おざうさ)』などいひてくへ」と指南せり。尤(もつとも)と同じ、明朝(あくるあさ)(とき)に行き、「例のうつそりぞ。燒鹽(やきしほ)(ばかり)にてよし」とて膳をすゑけるに、敎(をしへ)の如く、弟子箸をきつと持ち、言ふやう、「飯(めし)は御造作(おざうさ)に、お汁ばかりがよう御座あらうものを」と。
◎小姓
(こしやう)をおきて、試みに始(はじめ)て茶を碾(ひか)する、事の外あらし。「是(これ)は」と叱りたる時、ちと座をしさり、「それはまづあらひきで御座る」と。「扨々(さてさて)おのれは、日本(につぽん)に又二人ともあるまいうつけや」とあれば、又きつと手をつき、「いや、日本も廣う御座る程に、お尋ねならばまだも御座らう」と。
◎日本一
(につぽんいち)の鈍なる弟子が、師の噂(うはさ)をいふやう、「坊主の、いつもいろいろの事をいうて叱らるゝ中(なか)に、近頃聞えぬ無理を三ついはるゝ。一つは、『先(まづ)(おのれ)を、なんぼうの辛苦(しんく)にて人にないた』と仰(おほせ)ある。我が犬の子にてもあらばこそ、性得(しやうとく)人の子にてあるを、人にないたとは何事ぞや。二つは、『いかほど氣をつくして經を敎へし其(その)恩を、仇に思ふ』との折檻(せつかん)、これもいはるゝ處道理にてはあれども、其(その)ならひよみたる經を、一字もわれがおぼえばこそ、皆忘れ果てたるまゝ、少(すこし)も恩とは思はぬなり。三つは、『寺屋敷・資材・雜具(ざふぐ)殘りなく、汝にとらするは』と仰(おほせ)あれども、これ又少(すこし)も恩とは思はぬ。むづかしいに、取つておかへりあらうまでよ。さあれば三つながら、一つも坊主の道理はない」と。
  「あだをさへ恩にてむくふいはれあり恩を忘るゝ人は人かは」
◎ある寺の院主
(ゐんしゆ)に知音(ちいん)の人ありて、門前までおとづれられけるを、弟子出(いで)て見つけ、そのまゝ方丈に行き、「ものゝ、御出(おんいで)にて候(さふらふ)」といふ。院主大いに腹をたて、「ものとは誰(たれ)が事ぞ。さてもうつけを盡(つく)す奴(やつ)かな。いざわれ出(いで)て見ん」とて、窓よりそと覗き、つくづく見るに、顔ばかり覺え、つひに名をば打忘れ、弟子に向ひ、「まことにものぢやよ」といへり。
◎洛陽
(らくやう)にて淨土宗の寺へ、或(ある)尼公(にこう)の參られ、一人の弟子を呼出(よびいだ)し、「十念を受けたきよし披露してたび候(さふら)へ」とありしかば、心得たるとて方丈に行き、「下京にて、何(なに)といふ人の女人(によにん)の參りにて」と申(まをし)もあへぬに、長老はを出(いだ)し、「上臈(じやうらう)とか、女房とこそ申すべけれ。女人といふ事やある」と大(おほい)に叱られ、弟子の返答に、「そなたは、我に阿彌陀經を敎へて、善男子善女人(ぜんなんし ぜんによにん)といへというておいて、今は又さういはぬとは、一事兩樣(いちじりやうやう)なる事を」など、さんざんにからかひて表へ出(いで)ける時、尼公赤面し、「笑止や、お機嫌のあしきをと、すぐ下向(げかう)せんや」と申されたれば、弟子いふ、「いや苦しうも候はず、ちと女房ごとの出入(でいり)で御座ある」と。
◎三井寺に貧
(まづし)き僧ありしが、寺内(じない)の兒(ちご)に思(おもひ)を寄せ、詮方(せんかた)なくあこがるれども、言ひよらん縁(えにし)さへ稀にて過ぎけるに、かの兒の後見(こうけん)の法師聞きつけ憐みて、「先(まづ)せめて兒の、言葉になりとかけたきまゝ、「いつの日の入相(いりあひ)の頃、つぼの内なる梅のもとにきたりゐよ。今を春邊(はるべ)と花のかほばせ、御覽ぜよかしなど、誘出(さそひいで)んずる時、『あれなる花の本のは、何者ぞや』と兒尋ね給はゞ、『梅法師で御ざある』といへ」と敎ふる。切なき志やとかんじ、行きてゐければ、案の如く伴ひ出(いで)て、「あれなるは」と兒の問はれければ、「梅づけで御座ある」と申したり。
  「人ならばうきなやたゝんさよふけて我
(わが)手枕(たまくら)にかよふ梅が香」
◎磨師
(とぎや)に、ある小名(せうみやう)の刀をあつらへ、程ふりて後(のち)宿をとひよられければ、お目にかけんと持出(もちいで)たり。さつとぬき見る見る、「さてもあら下手(へた)や、あたら一腰(こし)をすてたよ」と腹立(ふくりふ)し、小姓にわたさる。亭主赤面しながら門送(かどおくり)して、彼袂(かのたもと)をひかへ、「殿樣は私(わたくし)をさんざんにおほせ候が、下手(へた)がこれやうに、大(おほき)な家をもつ物で御ざるかや。」
◎ひたいかい雷震
(らいしん)といふ觀音經(くわんおんぎやう)の文(もん)を、何としても忘るれば、師匠餘(あまり)の事に、弟子が額(ひたひ)をつかまへて、「こゝの事を思ひ出(いで)よ」と敎ゆるに、又忘れて、おのが額(ひたひ)をとらへ、「こゝかいらいしん」とよみし事、申しふりたるどんふくすや。
◎病癒えて後、よろこび事の振舞あり。酒盛のなかば、臺の物に鶴のつくりたるを取上げ、「鶴の舞を見ばや」などはやされ、よきふりに舞
(まひ)收めしを見、一腑(ひとふ)ぬけたるおかた立ちて、床(とこ)にたてたる矢をとり手に持ち、「やまひを見ばや」などはやされ、又矢を一つとりそへ、二つの矢の根をつぎ合せ、羽のかたを左右へなし、「ながやまひを見ばや」など舞をさめぶりは。
◎うつけらしき坊主の方
(かた)へ、折節は出入(でいり)する農人(のうにん)ありし。道ゆきぶりにあひあふ。見れば不淨をになへり。件(くだん)の出家、「そちは骨折や、今より後、かまへて田畠(たはたけ)に糞(こやし)をせんと思ふなの、其代(かはり)におれが仁王經(にわうきやう)をよまうぞよ。」
◎いはんかたなき鈍なる弟子あり。檀那のあつまりて、茶うけなどある座敷に、年さんだんのあるは常のならひなり。しかるに彼
(かの)弟子、やゝもすれば、いまだ三十の者をば四十と見そんじ、五十許(ばかり)の者をば、六十あまりと見そこなうて笑はるゝを、坊主聞きかね、「さてうつけに藥がないとは實(まこと)や、我も人も年のよりたきはなし。誰(たれ)をも若いといはんこそ本意(ほい)ならめ。あなかしこ、粗忽(そこつ)に人を年よりといふな」と敎へられ、あけの日彼(かの)弟子使僧(しそう)に行き、女房の子を抱(いだ)きゐるを見つけ、「此(この)御子息はいくつにてありや。」「是(これ)は今年むまれ、かた子でおいりある」と答へけり。弟子「さてかた子には若く御座あるよ」と。
◎鈍なる男、兵庫の町をとほりけるに、黑犬の大
(おほい)なるが出(いで)て、したゝかに臑(すね)を喰(くら)ひけり。「あら悲(かなし)や」といふ聲聞きつけ、犬の主(ぬし)おひちらしぬ。此男、詮方(せんかた)なく無心なる事に思ひつゞけ、尼が崎まできたりしが、黑き狗兒(ゑのこ)のあるを見つけ、ひた物けつふみけるを、主人出合(であひ)、「これはくせものなり。何の咎(とが)にさやうにはするぞ、打て擲(たゝ)け」と人集りたれば、「眞平御免(まつぴらごめん)候へ、兵庫で足を黑犬にくらはれたる、無念の腹をいんとて蹴(け)た」とこそ。
◎塔頭
(たつちう)の僧、途中より客をつれだち歸る。小僧出(いで)て、「爰(こゝ)なる縁には虱(しらみ)が候」といふ。坊主目(め)をして、「其(その)やうな事を、高くは言はぬ物ぞ」と叱られし。かさねて立寄り、虱と思ひしをしづかに見、坊主にむかひ、さゝやき、「虱ではおりない、わたかみのおちたで御ざつた。」
  「しらみほど世をへつらはぬ物はなし貧なる者になほも近づく」
◎石州
(せきしう)銀山にての事ぞとよ。常によりあひぬる者一人入道し、法名を芝恩(しおん)とつく。友達に鈍なる男ありて、つひに芝恩といふ名を忘れ、「お禪門(ぜんもん)お禪門」と呼ぶ。禪門腹立(ふくりふ)し、「しをんといふ草あり。見られたことはなきか。」「いやまだ見ぬ」と。「さらば見せん」とてつれだち、ある人の前栽(せんざい)へ行き、しをんとしやがと花さきてありしを、「これはしをん、これはしやがといふ」と敎へ、「このしをんの花の名をよく覺ゆれば、我が名と同じことぞ、忘れ給ふな」といひふくめてかへりぬ。件(くだん)の男領掌(りやうしやう)しけるが、又二三日ありて後よりあひし時、しをんをば打忘れ、「さてもしやがお久しい」と申したり。
◎福は宿善
(しゆくぜん)の果(くわ)なれば、鈍なる人にまゝたのしきあり。境(さかひ)にてさる町人家を建てしが、藏にも居間にも對面所にも、唯九間(けん)四方のぬり屋一つつくり、戸口を都合一つあけゝり。見る人笑ひさんだんする。知音(ちいん)の者笑止(せうし)がりて、此大(おほき)なる家に出入口一ッあらんは、むげに不覺のいたりなり。火事といひ何はにつけ、せめて裏と表に二ッなうては、かなはぬ事や」といひければ、彼(かの)亭主の返答に、「せんない異見や、われは一口(ひとくち)さへあけまいと思うたもの。」夢庵(むあん)
       「いかなる罪のいまむくふらん」
  「くちなしに咲くこそ花も悲しけれ」
◎小僧あり、小夜
(さよ)ふけて長棹(ながざを)をもち、庭をあなたこなたとふりまはる。坊主是(これ)を見付(みつけ)、「それは何事をするぞ」と問ふ。「空の星がほしさに、うち落さんとすれども落ちぬ」と。「扨々(さてさて)鈍なる奴(やつ)や、それほど作(さく)がなうてなる物か、そこから棹がとゞくまい、屋根へあがれ」と。
  お弟子はとも候へ、師匠の指南
(しなん)ありがたし。
  「星一つ見つけたる夜
(よ)のうれしさは月にもまさる五月雨(さみだれ)の空」
◎始
(はじめ)て奉公する者あり。お殿樣、おわかう樣、おかみさま、何にもおをつくる。主人かれに向ひ、「むざとおの字をつけまい、聞きにくし」とあり。此後(このゝち)膳をすゑ跪(ひざまづ)きゐけるが、主(しゆ)の髯(ひげ)に飯粒(いひつぶ)つく。右の男、「殿さまのとがひに、たいつぶがついた」と。
◎二番にかまへられたる聟殿、舅
(しうと)のかたへ始(はじめ)て行(ゆ)きいたるを、友の敎へけるやう、初對面に物をいはずば、うつけとこそ思ふべけれ。相構へなにとぞ時宜をでかせよ。」「心得たり」とうけごひつるが、一言(いちごん)の挨拶もなし。既に座を立たんとする時、聟殿がいひ出(だ)すやう、「なにと舅殿(しうとゞの)は一抱(かゝへ)ほどある鴫(しぎ)を、御らんじた事はおりないか。」「いや見たる事はおりない。」「私(わたくし)も見まゐらせぬ」と。いはぬはいふに勝(まさ)るとやらん。
◎うつけめける亭主の腰まはりへ、下司
(げす)、あやまちに水をこぼしぬ。果せず是(これ)を叱る。其(その)申樣、しきに腹がいたい。「此(この)水は疊の上なればこそ苦しからね。又此(この)月が霜月なればこそ大事なけれ、このこぼれ物水なればこそあれ、もし疊がわが身で、此(この)月が師走で、此(この)水が油ならば、そもそもよい物か、しはす油はかゝらぬ事といふなるに。」
◎旅人
(りよじん)寒夜(かんや)の物うさに、古疊を一でふ所望してきせられ、
  「下にしき上にもきたる古だたみ二條殿とや人の見るらん」
◎大客
(おほきやく)のあらんよしを舅聞きつれ、俄(にはか)に造作をする故、材木をえらばず、節穴おほしとて氣の毒に思へり。彼(かの)娘夫に敎ゆるやう、「見舞にゆかれんに、ふしあなの事を申されば、短册や色紙にて張りたまへといはれよ。尤(もつとも)に思ひ行く。案の如くの時宜なりき。舅大(おほい)に悦(よろこ)び、「此(この)年月(としつき)、婿をうつけといひつるはうそや」と。其後(そのゝち)舅に腫物(しゆもつ)出來(でき)たり。又見舞に行き、見參(みまゐ)らして、「もし藥を知り給はめや、唯(たゞ)腫物(しゆもつ)の上に、短册色紙をおしたまへ」と。
◎「人喰
(くら)ひ犬のある處へは、何とも行かれぬ」と語るに、「さる事あり、虎といふ字を手の内に書いて見すれば、喰(くら)はぬ」と敎ゆる。後(のち)犬を見、虎といふ字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮(せん)もなく、ほかと喰(くら)うたり。悲(かなし)く思ひ、或(ある)僧に語りければ、「推(すゐ)したり、其(その)犬は一圓文盲(いちゑんもんまう)にあつたものよ。
◎京にてくちわきしろき男、ちと出家をなぶり、理屈につめてあそびたやと思ひつゝ、さがしき人に向ひ問ふ。「やすき事なり、敎へん。汝
(なんぢ)沙門(しやもん)にあうた時、お僧はいづくへといふべし。さだめて『風にまかせて』といはれんずる、其時『風なき時はいかん』といへ、やがて閉口すべし。」此敎(このをしへ)を得、或朝(あるあさ)東寺(とうじ)の門前にて出家に行逢(ゆきあ)ふ。「お僧はいづくへ」と問ふ。僧の返事に、「たちうりの勘介(かんすけ)が所へ齋(とき)に行(ゆ)く、何ぞ用ありや。」男とつてにはぐれ、「あらお僧は、風にはおまかせないの」と。
◎越中に井見の庄殿
(しやうどの)といふ大名あり。世にすぐれたるうつけなりし。母儀(ぼぎ)常にくやみ歎(なげき)給ひしが、ある時の見參(けんざん)に、「笑止(せうし)や、そなたは内の者侮(あなど)り、何事もいひたきまゝにいうて、道なき作法と聞く。ちと折節は齒をもぬき折檻(せつかん)もあらば、さほどまではあるまじき物を」と敎訓あれば、「心得たり」とうけがひ、是非ともに一(ひと)はぬかん物をとたくまれし。去程(さるほど)に、八朔(はつさく)の禮とて諸侍(しよさぶらひ)出仕(しゆつし)ある。家老の人申樣(まをすやう)、「今日(こんにち)の御祝義千秋萬歳(せんしうばんざい)、ことに天氣能く」と祝ふなかばに、彼(かの)大名、「なにと御祝義天氣もよしと、左樣(さふ)いひたきまゝにはいはせまいぞ。」
◎わかき男の聟入するといふに、知音
(ちいん)の者異見し、「かまへて時宜を出(で)かせ」。心得たる由(よし)にて行きしが、一圓言(こと)のはなし。あまり本意(ほい)なく思ひ、立樣(たちざま)に手をきつとつき、「此(この)中柱はこなたので御座あるか、どれからまゐりたるぞ」。
◎田舎より主從二人始
(はじめ)て上洛し、京の町に逗留せし。休息の後見物に出(いづ)る。下人(げにん)にむかひ、「都はいづれも同樣なる家作(やづくり)なり、よくよく目印をせよ」と敎ふる。「心得たり」と領承(りやうじやう)せしが、晩にのぞみ宿を知らず。主(しゆ)腹をたて叱る。返事に、「いや門の柱に、唾(つば)にて書付を、慥(たしか)に仕(つかまつ)りしが、消えて見え候はず。其(その)上に猶(なほ)念を入れ、屋根の上に鳶(とび)の二ッありしを目付にしたりしが、それもゐな事で見えぬと。
◎不斷光院
(ふだんくわうゐん)の住持(ぢうぢ)近衛殿へ參られし時、三方(ぱう)を許すとあれば、其後(そのゝち)常に三方にて齋非時(ときひじ)を給はれり。此由(このよし)三藐院殿(さんみやくゐん)聞召(きこしめし)給ひ、
   「かり初
(そめ)にゆるすといひし三方(さんぱう)を不斷(ふだん)くはふはむえきなりけり」
◎筆者を頼み、伊勢物語を寫させけるに、昔男と云
(いふ)を假名(かな)にむし男と書き、かの字を落したり。主人見付(みつけ)、「最初の三字の内をさへおとされたるや」と腹立(ふくりふ)する時、彼(かの)かきて云(いふ)、「ひた物書きゆかば、如何程(いかほど)も末にいや字の候はんを、たしに仕(つかまつり)候はん」と。

      ◇ 無智之僧
(むちのそう)

◎幼少より、つひに經
(きやう)にむかうたる事もなかりし坊主、千部の經に座列するあり。よく案内(あんない)知りたる人、そと近寄り、「そちは何事をいうて、一座の役をば勤むるぞや。」「さればとよ、一首歌をよみたるが、それを吟じてすますは、われ師匠に習ひて、覺えたる文(もん)唯一つあり。いはゆる阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)也。此外(このほか)は無し。」「其(その)歌は」と問はれてなん、
  「あのくたら三みやく三ぼだいこそ佛なれのこる文字ともおとなたてして」
  恥といふ事を知らぬ、あのくたらよみややれ。
◎大般若を轉讀
(てんどく)の施主(せしゆ)あり。かたちばかりは出家の身、よむべきあてはなけれど、いかやうにも座をはり、布施(ふせ)を得たき望(のぞみ)あるゆゑ、法衣(はふえ)をまとひ膝を組み、人々大般若波羅蜜多(だいはんにやはらみつた)と高聲(かうじやう)によめば、經をひろげおなじ調子にあげ、「大(だい)だんな三藏ほつしめが、ようない物をもてきておいて、人に難儀をかくるはや」といへども、人は聞かなんだげな。
◎海邊の者山家
(やまが)に聟を持ち、いんしんに、蛸(たこ)と辛螺(にし)と蛤蜊(はまぐり)と三色(みいろ)を持たせやりたり。其文(そのふみ)をよむ者もなく、三色(みいろ)を見しりたるなし。文(ふみ)をば物識(ものしり)の出家を頼みてきけやとて、わざと遠路を行きて見せければ、うちうなづきていふやう、「何もいんしんの物は無いか」といふにぞ、三色(みいろ)迄候へども、其(その)物をも見しらぬまゝ、これへ持ちて參りたり」といへば、「一目見ん」とて見れば、山賤(やまがつ)よりも猶(なほ)劣れり。されど口はかしこくて、文(ふみ)をひろげ、聟殿へ申す、「娘の大切さに、龍王のものねこぎにして十許(ばかり)、鬼のきくぶし三十許(ばかり)、手ごろのつぶて百ばかり、三色(みいろ)ともに山海の珍物(ちんぶつ)」とぞよみける。
           「此
(この)みの果(はて)はなにとなるらん」
   「海士
(あま)の屋の軒より高き貝のから」
◎人ありて千部の經を執行
(しゆぎやう)せらる。施物(せもつ)は米二石(こく)なり。志(こゝろざし)の沙門(しやもん)は、兼日(けんじつ)より集會有るべき旨(むね)(ふれ)あり。又ある一村(ひとむら)に本覺坊(ほんがくばう)法藏坊(ほふざうばう)とてあり。多寺(たじ)の中(うち)に法藏坊は、法華八軸(ほつけはちぢく)をそらに誦(じゆ)する達者なり。本覺坊は妙法(めうほふ)の二字をもおぼえず。此觸(このふれ)まはりてより、本覺思ひたくむやう、二石の米をとりにがさんは不覺なるべし。所詮(しよせん)法藏坊を頼み、我(わが)むかふの座になほしおき、大衆(だいしゆ)まねをせんに仔細あらじと出仕をとぐる。かくて導師(だうし)經をはじめければ、本覺よみけることは、「法藏坊はおれを見る、おれは又法藏坊見る」とよむに、少(すこし)も讀經(どきやう)にたがはず。さりながら經はやくちになれば、導師磐(けい)をうちきると、本覺ひとり「法藏坊(ほふざうばう)」といひけり。「なんぞ」と返事あれば、「山椒(さんせう)をまゐるか」と。
◎同
(おなじく)千部講讀(かうどく)の請狀(しやうじやう)まゐりけるに、一文不知(いちもんふち)の經たつ坊あり。つかふ小者(こもの)を松若(まつわか)といふに向ひて、「此度(このたび)の出仕生涯(しやうがい)の大事とおぼゆるぞ、おのれねぶりをとゞめ、我がうしろの方(はう)にきつとゐよ。もしよぶに返事遲くば、曲事(くせごと)ならん」といひつけ、かくて大衆(だいじゆ)の席につらなり、讀經(どきやう)すでにはじまり、序品(じよほん)第一とつくるから、かの經たつ坊、「松若(まつわか)々々」と如何(いか)にも靜(しづか)にいふ。連讀少しも違(ちが)はざりしが、經しどろ讀(よみ)の時、例の磐(けい)をひしとうちきる。彼坊(かのばう)が唯一人「松若」と讀みたり。松若「やつ」と返事するに、「お湯のまう」と。
◎博奕
(ばくち)に打負け詮方(せんかた)なき者、冬の暮(くれ)髮を剃りて法師となり、法華宗の寺に行き、「座敷の掃除をも仕(つかまつ)り候はん」といふ時、「經をばおぼえたるや」と問はれ、「なかなかの事」と答ふ。「さらばまづおきても見よ」とありけり。其(その)晩景(ばんけい)檀那のもとより使者來(きた)り、「明日(みやうにち)は親の年忌なる條(でう)、僧衆十人にて一部經をつとめ給へ」となり。彼(かの)あたらし坊主、終夜(よもすがら)工夫するに、經をよむべきやうなし。我わかき時藥屋に奉公し、藥種の名をおぼえたり。これにて筈(はず)をあはせんと思ひ、既に妙法蓮華經と始(はじま)りける時、その儘彼人(かのひと)つくる、「桔梗(きゝやう)・人參(にんじん)・續斷(ぞくだん)・白朮(びやくじゆつ)・干姜(かんきやう)・木香(もくかう)・白芷(びやくし)・黄蓮(わうれん)」といひけるを、藥屋の亭主聽聞(ちやうもん)して、「あらありがたや、われわれがうりかふ藥種は、皆法華經の肝文(かんもん)にてあるよな」と、彼(かの)坊主をひた物をがみしも。
◎剃髮染衣
(ていはつぜんえ)の僧祕鍵(ひけん)をならふ。「眞言(しんごん)は不思議也、觀誦(くわんじゆ)すれば除無明1(むみやうをのぞく)」と敎へけるに、「いやそれはかたことさうな」と疑ふ。「大師(だいし)の言葉これなり。そちは又なにと讀まんや。」彼(かの)僧「我はたゞ勸進すれば、もみをもらふであらう」となほしけり。

      ◇ 祝過
(いはひすぐ)るも異な者(もの)

◎しけからず物毎に祝ふ者ありて、與三郎といふ中間
(ちうげん)に、大晦日(おほつごもり)の晩いひ敎へけるは、「今宵はつねより疾(と)く宿に歸りやすみ、明日(あす)は早く起きて來(きた)り門(もん)を叩(たゝ)け、内より『たそや』と問ふ時、『福の神にて候』と答へよ。すなはち戸を明(あ)けて呼入(よびい)れん」と、懇(ねんごろ)にいひふくめてのち、亭主は心にかけ、鷄(にはとり)の鳴くと同樣に起きて、門に待ち居けり。案の如く戸を叩く。「たそたそ」と問ふ。「いや與三郎」と答ふが無興(ぶきよう)なかなかながら、門をあけてより、そこもと火をともし若水を汲み、かんをすゆれども、亭主顔のさまあしくて、さらに物いはず。中間(ちうげん)不審に思ひ、つくづく思案しゐて、宵に敎へし福の神を打忘(うちわす)れ、やうやう酒を飲む頃に思出(おもひいだ)し、仰天(ぎやうてん)し、膳をあげ座敷を立ちざまに、「さらば福の神で御座ある、お暇(いとま)申しまゐらする」というた。
◎和泉國
(いづみのくに)に寺門といふ在所あり。一人の百姓(ひやくしやう)名を好みて、貧乏(びんぼふ)とつきたり。又一人は夷(えびす)とつく。其所(そのところ)の地頭(ぢとう)、元日にもし貧乏禮始(れいはじめ)にや來(きた)らんといやがり、出(い)でちがひて氏神へ參りしが、下向(げかう)する道にて、夷(えびす)に行(ゆ)きあうたり。「夷はどちへ。」「其方(そなた)より出(で)て參る」と。あら氣がかりやと歸りいたれば、又貧乏に行(ゆ)きあへり。「貧乏はどちへ。」「殿へまゐる」と申しつる事よ。忌(い)むといふ字は、己(おの)が心とかきたり。
  「びんぼふの神も出雲
(いづも)に行(ゆ)くならば十月(ぐわつ)ばかり物は思はじ」
◎ある女房の許
(もと)につかはるゝ下主(げす)の、名を福といふ有りき。大年(おほとし)の夕(ゆふべ)下主にむかひ、「そちは宵から宿へゆきてやすみ、明日(あす)は疾(と)く起來(おきゝた)り、門(もん)を叩(たゝ)け」と暇(ひま)をやりぬ。夜(よ)もふけすぎて、五更(かう)に及べどもきたらず。されども門を叩く音せり。すはやと思ひ、「誰(た)そ」といふに返事なし。あまりにたへかねて、「福かやれ」といひければ、「いや與三郎でござる。何しに福であらう。福は宵からよそへいた物を」とぞつぶやきける。雄長老(ゆうちやうらう)
  「鬼は内福をばそとへ出(いだ)すともとし一ッづゝよらせずもがな」
 也足
(やそく)の判(はん)、「尤(もつとも)(きよう)あり。されども假令(たとひ)年は一二よらせ候とも、福を外へ出(いだ)さん事、いかゞと申すべくや、一笑(せう)々々。」
◎貧乏神
(びんぼふがみ)とわりなき知音(ちいん)の者ありしが、ちと酒に醉(ゑ)ひて壁にもたれ、坐睡(ゐねぶ)りしけるみぎり、肩から物が何とも知れず、どうと落ちけり。目をさまし手をあはせ、「やれやれ嬉しい事や、此(この)年月(としつき)かたにゐたる貧乏殿が、今日(けふ)といふ今日おちて、我身をはなれたよ」と合點(がてん)せしが、誰(たれ)いふとも知れず、「あまり多く寄合(よりあひ)、そちが坐睡(ゐねぶり)する間(あひだ)、油びやうしを踏むとてとりはづし、一人(ひとり)落ちにき。いまだ果(はて)はないぞ」といへり。何(なに)と心に祝うても笑止(せうし)や。雄長老(ゆうちやうらう)
  「大(おほい)なる柹(かき)うちはがな二三ぼんびんぼふ神をあふぎいなさん」
 也足
(やそく)の判(はん)、「柹團扇(かきうちは)は貧乏神のつくといへば、二三本にて煽(あふ)ぐ事如何(いかが)、彌増(いやまし)に長居(ながゐ)すべくや」。
◎ある者、正月
(しやうぐわつ)二日(か)の夜(よ)、夢に思ひよらず、我身に癩瘡(らいさう)いできたる體(てい)を見、目さめつくづく案ずるやう、かれをば物よしといふなれば、仕合(しあはせ)なにはに物よからうはしかやと、その分(ぶん)にてよかりしを、なほうたてしき事に思ひつゞけ、卜占(うらかた)する人の許(もと)に行(ゆ)き、「過ぎにし夢をあはされよ」といへば、書物取出(とりいだ)し算などおき、あげくに、「過ぎし夜(よ)の夢のやう、さだかに語り給へ」といふ。さる事よと、ありのまゝ告げければ、卜人(ぼくじん)つくづく思案する體(てい)にて、「後(のち)たゞ養生をめされよ、生身(いきみ)ぢやほどに、ほんはあるまい」と判じける。
◎商人
(あきうど)の、常に祈念を頼みて行きかよふ寺あり。四國の方(かた)へくだる朝、今日(けふ)舟の出(い)づるまゝ暇乞(いとまごひ)に參りたる由(よし)いひければ、院主(ゐんす)の口上(こうじやう)、「とくより田舎への下向(げかう)と聞きて、祈禱の旨ゆるがせなし。今朝(けさ)もとくからおき、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)をいかうよみたるぞなう。」
◎六十におよぶ僧ありしが、歳の暮に風を少しひきければ、元日にてもあれ、たき火によせ、背中をあぶらんには過ぎじと思案し、一人ある小僧にいひつけて、火をたかせけり。小僧、「みられぬ今日のせなかあぶりや。正月とて我如
(わがごと)き者どもの、互(たがひ)に遊びくるふ日なるに」と、腹を立つ立つ薪(たきゞ)をくべ、ひた物火をふきければ、坊主の頭(あたま)より着たる物にいたり、悉(ことごと)く灰にまぶせり。老僧つくづく見て氣にかゝり、小僧に、「いはうて、はいかいの發句(ほつく)をせん」とあれば、「なかなかよからん」といふ時、
  「小僧めがふくとくわれにふきかけて」
小僧やがて、「わきを仕
(つかまつ)らん」とて、
  「坊主を見ればはひにこそなれ」
とつけたり。いらぬ祝ひごとや。
◎有馬の湯に入
(い)りける者、宿主(やどぬし)と語るついでに、「鷄(にはとり)は、羽音(はねおと)をばたばたとして、『とつてかう』となくといふは、まことかや」といふ者ありしに、宿主「いやとよ、有馬の鷄は一向よそのとかはりて、元日の曉より、歳の暮の夜明(よあけ)まで、羽音(はおと)をかさかさとして、『かつけこう』となくなり」とぞ。
 身を思ふから道なき事を。
◎信濃國
(しなのゝくに)より出づるなる、からむしとも、又は眞苧(まを)ともいふ麻を、せんとつくる所あり。その一村(むら)に行(ゆ)きかゝり、商人(あきうど)一夜(や)の年をこゆるに、所のならひにや、元日に宿主(やどぬし)のいふことば、「あさましや。ことしは子どもにおくれて」と二三度こそ申したれ。おもひ内にある事を、色外(そと)に祝ふ言葉ぞや。
◎行暮
(ゆきく)れて旅人立寄り、一夜(や)の宿をかりし。亭主出合(いであ)ひ物語の序(ついで)に、「客は如何(いか)なる藝能の候(さふらふ)ぞ」。「ちと歌道を心得てあり」と。「さらば、幸(さいはひ)の仕合(しあはせ)也、子を數多(あまた)もちたるに、祝うて、發句(ほつく)を沙汰あれかし」と望む時、
  「むす子たちかしらかたかれ石ぼとけ」
◎窮貧
(きうひん)の者ありて、五つ六つなる子に向(むか)ひ、「明日(あす)元日の明方(あけがた)に、われわれ錢(ぜに)を手に持ち、目にあてゝゐる時、『あれ父(とゝ)の、錢(ぜに)の中(なか)から、目を見出(みいだ)いて御座あるは』といへ」と念頃(ねんごろ)に敎へおき、あけの日錢(ぜに)を目にあて、子息(むすこ)が方(かた)を見れども、いとけなければ忘れはて、夢にだも思出(おもひだ)さず。あまりたへかね、指にて錢の眞似(まね)をし、しきりに「千代松よ、昨夜(ゆふべ)から敎へたる事をいへ」といふ時、ちとかたちを思出(おもひだ)して、「父(とゝ)の、穴の中から、目見だいてや」というたる。其年(そのとし)秘所(ひしよ)に行(ゆ)く。
◎江州
(ごうしう)の坂本に侍(さぶらひ)あり。元日の夜(よ)、湖をひき傾けて呑むと夢見る。目さめて思ふ、水は方圓(はうゑん)の器(うつは)にしたがふなれば、思ふに、思ふ事かなはんといふ告(つげ)なるかやと此(この)心占(こゝろうら)にてよかりし物を、わが身は比叡(ひえ)の山風(やまかぜ)に吹かれ、行く道とほく占方(うらかた)の上手(じやうず)といふに立寄りぬれば、淸明流(せいめいりう)の博士(はかせ)、「まづ夢の相(さう)をおかたりあれ、其(その)言句(ごんく)にたより吉凶を申さん」と。件(くだん)の樣(さま)をありの儘なり。時(とき)支干(しかん)をかんがへ調子(てうし)をはかり、書籍(しよじやく)を巻(まい)つ開いつして、あげくに、「まづ案じても御覽ぜよ。寒夜(かんや)には水を一口二口のむだにも、腹中にあたるはならひぞかし。いはんや湖水を皆のむとあれば、よきに養生なされよ。大略(たいりやく)腹を煩(わづらひ)給ふ事あらん」と申しあへり。無興(ぶきよう)の。
◎和泉國
(いづみのくに)に大島といふ在所あり。其(その)庄屋が惣領(そうりやう)の子六歳なり。小弓に小矢(こや)をとゝのへ持(もた)せけるが、元日の朝、矢を一つはなし俵にいつけて、「父(とゝ)よ父(とゝ)よ、俵をゆうた」と。親大(おほい)に悦(よろこ)びて、「さてさてめでたや、ことしは尺の穗丈(ほたけ)も長く實(み)のりて、をさむる俵のかずかずをいはん事よ」と祝ひぬ。もはやこれにておきもせで、「今一度矢を射て見せよ」と望み侍り。子息(むすこ)ほめられ、心よげに又射たりしが、今度は門の戸にあたれり。「父(とゝ)よあれ見よ、戸をゆうたは」とぞ敎へける。射たといふ事、わらはべの詞(ことば)に、ゆうたといふにや。
◎商人
(あきうど)、元日に、惠方(ゑはう)より持ちきたる若夷(わかえびす)をむかへんと思ひ、まちゐたれば、案の如く歳德(としとく)の方(はう)より賣る者來(きた)れり。家(いへ)の内へよびいれ、「うけん」といふに、折しも其朝(そのあさ)小雨ふり、版(はん)にすりたる紙ぬれけり。賣主一枚取(とり)て見て、「是(これ)はめでたい」。懷(ふところ)へ入れ、又取(とり)て見ては懷(ふところ)へ入れ、やうやく皆になる時分、ちとぬれたる一枚あるを、「是(これ)はなまめでたう候」というてわたしたり。うくる者とりて見、「このゑびすはぬれて候は」といひければ、「それこそ、そちでおあぶりあれ」と。
◎春の始
(はじめ)の朝(あした)より、千秋萬歳(せんずまんざい)とも、又鳥追(とりおひ)ともいふかや、家毎にありきて慶賀をうたふに、「千町(ちやう)萬町(ちやう)の鳥追が參(まゐつ)た」というて、或(ある)門の内へ入らんとしければ、戸のわきに、子を生みて人におそるゝ犬ありしが、不圖(ふと)向臑(むかうずね)をしたゝかくらひけるまゝ、「あらたのしや」といふを、いたさに、「あらかなしや」と。
◎元三
(ぐわんさん)をいはひ、膳部(ぜんぶ)とりあつめ、目出たいなと、いろいろしたゝめてすわりぬ。盃(さかづき)あなたこなたとめぐるなかば、十ばかりなる惣領(そうりやう)、ふと座を立ち、親の汁に殘れる鯛(たひ)の頭(かしら)をとりて、手がひの犬をよび、「これはとゝのかしらぞくらへ」といふに、七ッ八ッなる女(むすめ)の走行(はしりゆ)き、母のくひ殘せる魚(うを)の骨をもちて出(いで)、「これはかゝの骨ぞ、くらへ」といひし。無興(ぶきよう)の。
◎こびたる禪門
(ぜんもん)、山林に行暮(ゆきくれ)て一宿(しゆく)せり。亭坊(ていばう)向顔(かうがん)の後、「其方(そなた)はいづれの道をか、心にかけ給ふや」と問はれ、「打成一片(だじやういつぺん)歌の道に嗜(たしなみ)あり」と。「さあらば我が身老衰(らうすゐ)せり。松鶴(しようかく)の齢(よはひ)によそへ、目出たう發句(ほつく)を」とありしに、暫(しばらく)案じて後(のち)
  「この寺の坊主を松につるすかな」
◎町人の物いはひするあり。大晦日
(おほつごもり)に薪(たきゞ)をかひ、庭なる棚につませけるが、何とやらん崩れさうなり。亭主あやふき事に思ひ、下主(げす)にむかひて、「もし五ヶ日(にち)の内に、あれなる薪(たきゞ)がくづるれば、崩(くづ)るゝといふな、薪(たきゞ)がめでたうなるといへ」とをしへけるが、はたして元(ぐわん)三のかんをいはふ時崩れかゝれり。亭主「なう與二郎、薪がめでたうなるは」とよぶ。與二郎はしりきたり、「まかせておけ、與二郎がをらう間は、なにともあれ、めでたうはなすまいぞ」と。
◎大晦日
(おほつごもり)に、六ッになる子息(むすこ)を近づけ、「元日の朝、わが頭巾(づきん)を手に持ちたらば、『とゝの、あれともかうも頭巾を持(もち)たれば』といへ」と敎へおきて、明朝頭巾を手に持ち、かぶりたきをこらへ、あちこちし見せければ、子息(むすこ)、「てゝは、ともこもせうとおほせあつたが、ともかうもえおしやらぬの」と。
◎陸奥
(みちのく)の者を中間(ちうげん)に置きたり。亭主大晦日(おほつごもり)に、「明天(みやうてん)早朝には、何事をも祝言許(ばかり)いふべし。あやまつて不吉の儀(ぎ)いはぬやうに」とぞ敎へける。件(くだん)の男手水(てうづ)をつかひさし、「餅ぶんだしなされよ、燒き申さう」といふ。亭主大(おほき)に腹を立て、いろりの際(きは)にありし木を打ちつけたり。中間(ちうげん)(かさ)ねて、「爰(こゝ)な旦那の、なげきしなさるゝはの。」
◎人にすぐれて物いはふ侍
(さぶらひ)、「今夜(こよひ)の夢に、梟(ふくろふ)が家の内へ飛入(とびい)りたると見たは」とあれば、被官(ひくわん)の候(さふらふ)て、「夫(それ)は目出度(めでた)し、鬼は外へ、ふくろは内へと、申しならはして候程にといへば、侍大(おほい)に悦喜(えつき)し、小袖を一重(かさね)つかはしけり。如何(いか)にも鈍なる朋輩(はうばい)(これ)を見、我にも夢物語せられよかし、氣にあふやうにいうて、小袖をとらん物をとおもひ居つるが、彼(かの)主人ある朝、又此昨夜(このゆふべ)、われがあたま落つる落つると夢見たは」と語るに、彼(かの)鈍なる男ふと出(いで)て、「それこそ目出た、まさ夢まさ夢」とぞ申しける。
◎尾州
(びしう)に米野(よねの)與兵衛といふ武士あり。たゞ事ならず物忌(ものいみ)する人なりし。熱田大明神を信仰し、折々參詣の度(たび)、先へ侍をはしらせ、右の方(かた)に不吉の物あれば、右へ向きて「たんぽゝ」といふ。すははち彼(かの)人顔を左にし行(ゆ)き、左の方(かた)に不吉の物あれば、左へむきて「たんぽゝ」といふ。すははち彼(かの)人顔を右になして行(ゆ)く、奇妙の仕合(しあはせ)なりし。ある時の參(まゐり)に、道に、雁(かり)の生(いき)たるがえ立たずしてゐたり。すなはち右の與兵衛、急度(きつと)(かり)をつかまへ、「是(これ)はかりがね、いやなもの、かしがねなればよいが。」又とりまはし、「是はがんすまぬ物、いまいまし、唯(たゞ)もていて捨てよ」といへる、をかしや。
◎鍛冶屋の土佐といひて西洞院
(にしのとうゐん)にありし。物いはふ事人に過ぎたり。年の暮に孫の七八なるを近づけ、「元日に我が顔を見、『日本(にほん)のかなとこは、みなぢいのかなとこ』といへ」と、懇(ねんごろ)にをしへし。あくる朝、「やれ松千代、昨日(きのふ)の事は」と問ふ時、「日本(にほん)のかなしみは、みなぢいのかなしみや」といへり


  (注) 1.  上記の「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之一」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:東方書院・昭和6年1月31日発行、仏教文庫10)によりました。

 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
  
『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:東方書院・昭和6年1月31日発行、仏教文庫10)
 
この『醒睡笑』は、画像がやや不鮮明であるため、ルビを読みとれない部分があり、他本を参照して読みを付けた部分がありますので、この本としての読みに(そして一部の本文に)正確さを欠く恐れがあることをお断りしておきます。
   
    2.   平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、ここでは文字をそのまま繰り返して表記してあります。(「これこれ」「今や今や」「いやいや」「しんしん」「げにもげにも」など)
        
   
    3.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、上記の『醒睡笑』のほか、次の『醒睡笑』を見る(読む)ことができます。
 『醒睡笑』(安楽菴策伝著、東京:丁未出版社・明治43年12月28日発行、丁未文庫3)
 抄本で、全文は出ていません。巻末に、探華亭羅山編『軽口浮瓢簞』から42の話が載せてあります。
   
    4.  私たちが知っている『醒睡笑』の話は、原文を読んでも分かりやすいものが多いのですけれども、一般的には、注なしでは全く意味のとれない話が多いように思われます。

 そこで、注釈のついた本を次に挙げておきます。
 〇岩波文庫『醒睡笑』上・下(鈴木棠三校訂、1986年発行。1964年刊の角川文庫『醒睡笑』上・下の新増補版)
 ※ 岩波書店のサイトから、岩波文庫『醒睡笑』上・下(鈴木棠三校訂)の紹介文をひかせていただきます。   
 表題は「睡りを醒まして笑う」の意味で、落語家の祖、安楽庵策伝(1554-1642)和尚が説教用に編集し、京都所司代に献呈した戦国笑話の集大成。8巻、1030余の笑話を収めた質量ともに一級の笑話集で、説話研究上の好資料でもある。また、近代の落語に多くの材料を提供した最古の咄本としても高く評価されている。 
 〇東洋文庫31『醒睡笑 戦国の笑話』(鈴木棠三訳、平凡社』昭和39年11月10日初版第1刷発行)。現代語訳と注で、原文はない。また、全文ではない。
   
    5.   〇醒睡笑(せいすいしょう)=咄本(はなしぼん)。安楽庵策伝作。8巻。作者が幼年時代から聞いていた笑話・奇談など1000話余を京都所司代板倉重宗の所望によって、1623年(元和9)滑稽味を加えて書きおろし、28年(寛永5)献じたもの。寛永(1624-1644)年間に300話余を抄出した略本3冊を刊行。
 〇安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)=江戸初期の淨土僧・茶人・笑話作者。落語の祖といわれる。京都誓願寺竹林院の住持。のち、寺域に茶室安楽庵を結ぶ。「醒睡笑」を著して京都所司代板倉重宗に呈した。(1554-1642) (以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    6.  資料402に、「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之二」があります。
 資料405に、「安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之三」があります。
   
    7.  「浄土宗西山深草派総本山 誓願寺」のホームページに、「落語の祖 策伝上人」の紹介ページがあります。    
    8.  フリー百科事典『ウィキペディア』「醒睡笑」の項があります。
   
    9.  岐阜市ゆかりの”落語の祖” 安楽庵策伝上人を顕彰するため、その命日に、かつて住職を務めた淨音寺で、毎年落語会が開かれているそうです。
 『ウィキペデイア』→ 淨音寺
   
    10.   駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」のホームページに、『醒睡笑』の寛永版の影印を翻刻した(活字におこした)本文があります。底本は、笠間書院1983.2発行の笠間影印叢刊:72-74  策伝著『醒睡笑』だそうです。

 「情報言語学研究室」
  → テキストデータ
  → 「(4)上代・中古・中世文学資料テキストデータ」の「31,寛永版『醒睡笑』」
    → 酔生書菴蔵・寛永版の影印翻刻『醒睡笑』        
   


 

 
         


  


                                                                                   
                                  
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