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(注) |
1. |
上記の「会沢安(正志斎)『諳夷問答』」は、『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められている『日英交通史之研究』(武藤長藏著、内外出版印刷株式会社・昭和12年4月1日初版発行、昭和16年1月25日改訂増補第二版発行、昭和17年8月5日改訂増補第三版発行)に、「日英交通史料(十三)」として収録されている『諳夷問答』(同書469~481頁)によって記載しました。
『国立国会図書館デジタルコレクション』
→ 『日英交通史之研究』(改訂増補第三版)
『諳夷問答』のコマ番号は、294~300/521
なお、『諳夷問答』は、『暗夷問答』と書かれることもあるようです。 |
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2. |
上記の「日英交通史料(十三)」は、初め昭和9年9月1日発行の『長崎高等商業学校研究館年報』に掲載されたもので、この年報に掲載された本文は、『長崎大学学術研究成果リポジトリ』で、鮮明な画像で見ることができます。
『長崎大学学術研究成果リポジトリ』
→ 『日英交通史料(十三)』 |
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3. |
ここに掲げた本文中の図版は、『日英交通史之研究』にあるものを利用させていただきました。 |
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4. |
表記について
(1)(ママ)という文字は、引用者が付したものです。
(2)
〔 〕で示してあるのは、文中の右わきに小さく付記してある文字です。
(3)文字を小さくして表記してある部分は、二行に分かち書きされている部分です。
(4)平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名を繰り返して表記してあります(「しはしは」「しばしば」)。
(5) 文中の「西墨利加」は、「亞墨利加」の誤植と思われます。
(6) 文中の「ゲビスン〔南手ノ〕指ヲ擧テ三タビ示シ」とある〔南手ノ〕は、〔兩手ノ〕の誤植だと思われます。
(7) 文中の「波爾杜瓦爾」の「杜」は、本では手偏になっているのを、手偏ではうまく表記できないので、木偏の「杜」にしてあります。
(8) 文中に「入爾馬泥亞」と「八爾馬泥亞」とが出てきますが、「八」は「入」の誤植だと思われます。
(9) 文中に「爾巴里亞」が出てきますが、これは「巴爾巴里亞 」の「巴」が落ちたものと思われます。
(10) 本文には上に挙げたものの他にも誤植ないしは書き写しの誤りが幾つかあるようですが、今回はこれには詳しく触れていません。 |
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5. |
『日英交通史之研究』所収の『諳夷問答』は、旧水戸藩の漢学者寺門勤氏方に伝わったものを、同じく水戸出身の近藤常明氏が著者武藤長蔵氏の依頼を受けて蒐集されたものの由です。この写本を写した人は、寺門誠氏で、寺門勤氏のご子息とのことです。 |
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『諳夷問答』の「諳」とは「諳厄利亞」(アングリア、つまりイギリス)のこと、したがって、「諳夷」とは諳厄利亞(イギリス)の夷人ということです。 |
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7. |
漢字で表記されている国名・地名を、注の12に挙げた栗原茂幸氏の「「新論」以前の会沢正志斎─註解『諳夷問答』─」という論文を参考に、できるだけ片仮名に直してみます。(誤りがあるかもしれませんので、お気づきの点を教えていただければ幸いです。)
諳厄利亞(アングリア、イギリス) 魯西亞(ロシア) 和蘭(オランダ)
亞墨利加(アメリカ) 都爾格・度爾格(トルコ) 佛郎察(フランス)
伊斯把泥亞(イスパニア) 入爾馬泥亞(ゼルマニア) 波羅泥亞(ポーランド)
止白里亞(シベリア) 雪際亞(スウェーデン) 波爾杜瓦爾(ポルトガル)
翁加里亞(ハンガリー) 河天突天(ケープタウン) 莫臥兒(モンゴル)
新和蘭(オーストラリア) 新諳厄利亞(ニューイングランド)
思可齊亞(スコシヤ、スコットランド) 呱哇(ジャワ) 呂宋(ルソン)
渤泥(ブルネイ) 厄力西亞(ギリシャ) 聖老楞佐島(マダガスカル島を指すものと考えられる) 那多里亞(ナトリア、小アジア・アナトリア高原)
亞剌皮亞(アラビヤ) 巴爾巴里亞(バルバリア、北アフリカのこと)
亞弗利加(アフリカ) |
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8. |
〇会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=江戸後期の儒学者。名は安(やすし)。水戸藩士。藤田幽谷に学ぶ。彰考館総裁・弘道館総教。著「新論」で尊王攘夷を唱え、幕末期の政治運動に大きな影響を与えた。(1782~1863)(『広辞苑』第6版による)
〇会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=(1782~1863)幕末の儒学者。水戸藩士。名は安(やすし)。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彙篇」など。(『大辞林』第二版による) |
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9. |
瀬谷義彦先生が、『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)に、この事件について「大津浜異人上陸」という項目で大変分かりやすく書いておられますので、少し長くなって恐縮ですが次に引用させていただきます。
1824年(文政7)5月28日、2隻の小舟に分乗した異国人12人が本船を離れ、水戸藩領大津浜(現・北茨城市)に上陸した事件。これは鎖国日本にとって、かつてない大事件であって、翌年2月、幕府が全国に布告した異国船に対する無二念打払令(むにねんうちはらいれい)は、この大津浜の一件が動因となったともいわれている。国籍不明の異国船の水戸藩領沿岸への接近は、とくに19世紀はじめころから頻繁となり、1823年6月、那珂湊に異国船が近づいたときは、藩では、鉄砲隊や筆談役まで急行させて防備にあたらせるという騒ぎであった。そのわずか1年後の突然の異人上陸であるから、水戸藩の騒ぎは大きかった。
水戸藩では大津を直接治めていた付家老の中山氏の報告により、先手物頭(さきてものがしら)や筆談役、大筒(おおづつ)係など総勢230人あまりが大津へ出動して、まるで戦争に臨むような騒ぎであった。筆談役の1人に選ばれた学者の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、筆談の結果、それがイギリス人であることを知った。水戸藩の報告を受けた幕府でも、代官古山善吉(ふるやまぜんきち)や蘭学者の通訳吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう)ら40人近い1隊を現地に派遣して、尋問にあたらせた。その結果、上陸イギリス人は捕鯨船員であることを確認し、野菜・鶏肉そのほかを与えて6月11日、全員を解放して本船に帰した。(同書、174~175頁) |
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10. |
『水戸市史』中巻(二)の第11章 寛政・文化文政期の藩情「第2節 文化文政期の政情」に「異人大津浜上陸」の項があり、そこには次のようにあります。
文政七年の四、五月ころになると、またまた異国船の出没がはげしくなり、五月二十八日には、大津(北茨城市)の浜へ、異人一二人が上陸するという、水戸藩でもはじめての事件が起こった。
大津は附家老中山氏の知行地だったので、中山氏の多賀郡手綱(高萩市)の陣屋から役人を派遣して上陸の異人を軟禁し、水戸と幕府に急使を出して事件を知らせた。水戸へは二十九日急使が届き、早速評定所か先手物頭庄勘衛門らをはじめ、目付・徒目付・筆談役、大筒役ら数十人の武士が現地に急行した。また大津のほか川尻・湊へも大筒役などを交えた一隊が派遣された。中山氏も多数の武士を出し、郷士や猟師らも動員され、大津の浜はさながら戦場のようであった。異人らは二艘の船を大津浜三町ばかりのところへとどめおき、伝馬船二艘に乗って一二人が上陸した。中山氏の出動状況を記した「異国船御手当控」によれば、二十八日午の刻(午後一時ころ)あたりから夕刻まで、大筒(大砲)を数度打つ音が聞こえ、二十九日もまた大筒の響きが天地を震わし、戸障子へ響き、雷をあざむくばかりだったという。
大津へ派遣された筆談役は、いずれも幽谷の門人の会沢正志斎と飛田逸民(武明)の二人であった。この時の情況を記した逸民自筆の「異舶筆譚雑記」によれば、彼らは二十九日水戸彰考館退館後、異人の上陸のことを知らされ、筆談役の命を受けて、夜九つころ(十二時ころ)水戸を出発して、翌晦日は石町(高萩市伊師)へ宿し、六月一日七つころ(午後四時ころ)大津へ着いたが、途中砲声を聞いたという。異人との筆談は三日になって行なわれた。七日には幕府代官古山善吉や蘭学者の通辞吉雄忠次郎、天文方高橋作左衛門ら一行が到着して、異人の訊問に当たった。その結果、異人一行は英国捕鯨船員で、薪水を乞うための上陸であったことがわかり、幕吏の指図で十一日に釈放することとなった。これについて「続水戸紀年」は「何ゾ温柔ニ処シテ免シテ帰ラシムルヤト云テ、士人憤激シテヤマズ」と記しているが、幕吏の処置を手ぬるしとして憤激する者のあったことは、正志斎や幽谷らの態度をみても明らかである。(同書、464~465頁。この項の筆者は瀬谷義彦氏。なお、『水戸市史』中巻(二)は、水戸市役所・昭和44年9月10日発行。) |
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11. |
江戸幕府の命によって大学頭林復斎らが編纂した対外関係史料集『通航一覧』第五(国書刊行会、大正2年8月25日発行)に、この事件に幕府及び水戸藩がとった処置の有様が詳しく記録されています。
『通航一覧』巻之二百六十一 諳厄利亞國部十 〇狼藉始末常陸國大津濱
『国立国会図書館デジタルコレクション』
→ 『通航一覧』第六 コマ番号
232~237/276 |
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12. |
異国船に与えた品物は、上記の『通航一覧』によれば、次のようになっています。(「巻之二百六十一」に出ています。『通航一覧』第六 のコマ番号
236、237/276)
(1)文政7年7月19日の柳橋藤蔵の書状によれば、 此方より遣候品々、米二斗、喰二鉢、青梅・薩摩芋・枇杷・李・葱、いつれも一籠宛、鷄十二羽相添遣申候
(2)「申諭」書のあとに記載されているもの
異国人江被下候品々
一 りんご三百五十、一籠 一 枇杷四升、一籠
一 大根一把五十本つゝ、十把 一 さつま芋三十二本、一籠
一 鷄、十羽 一 ひよう、一籠 一 酒五升入、一樽
以上
ここに出てくる「喰二鉢」「ひよう、一籠」とは、何のことか不明です。お分かりの方がおられましたら、ぜひお教えください。(2016年5月8日記)
〇「ひよう」について
2018年6月30日、茨城大学図書館で開催された土曜アカデミーの「古文書寺子屋へようこそ!─ 次のもう一歩 ─ 」 という公開講座で、宮城県から来られたというあるお方から、 「ひよう」とは山形県などで食用にされている雑草のこと、と教えていただきました。ありがとうございました。
調べてみると、フリー百科事典『ウィキペディア』の「スベリヒユ」の項にも、
「スベリヒユおよびその近縁の種は健康食品としても使われるω━3脂肪酸を多量に含む植物として知られている。山形県では「ひょう」と呼び、茹でて芥子醤油で食べる一種の山菜として扱われており、干して保存食にもされた。また、沖縄県では「ニンブトゥカー(念仏鉦)」と呼ばれ、葉物野菜の不足する夏に重宝される。」
と出ていました。
試みに手元の辞書を引いてみると、『広辞苑』にも、
ひょう【莧】 〔植〕ヒユの訛。
と出ていて、「ヒユ」の項を見ると、
ひゆ【莧】ヒユ科の一年草。インド原産で古くから栽培。葉の高さ約1㍍。葉は菱形で柔軟、赤色を帯びるものもある。夏から秋、黄緑色の小花を穂状に付ける。葉はゆでて食用とする。日本にも類似の野生種が数種ある。また、広くはヒユ属(学名アマランサス)植物の総称で、食用作物や観賞用のハゲイトウなどを含む。ヒョウ。ヒョウナ。〈季・夏〉〈本草和名〉
と出ていますが、説明ではもちろん、挿絵を見ても、スベリヒユとは全く違うようです。広辞苑の「すべりひゆ」の説明には、
スベリヒユ【滑莧】 スベリヒユ科の一年草。世界の暖地に普通の雑草。茎は地をはい、暗紅色。葉は多肉で対生し、楕円形。夏、鮮黄色の五弁の小花を開く。果実は熟すと上半部が帽状にはずれ、種子を多数放出。茎・葉は食用、また、利尿・解毒剤にも用いる。イハイズル。漢名、馬歯莧。〈季・夏〉
と出ています。
『日本国語大辞典』には、
ひゆ【莧】〖名〗「ひゆ(莧)」の変化した語。〔いろは字(1559)〕
ひゆ【莧】〖名〗ヒユ科の一年草。インド原産で、古くから栽培されており、現在でも、ときに蔬菜として畑で栽培される。高さ約1メートル。葉は長柄をもち菱形卵形で緑・紅・暗紅色または紫斑のあるものなど変化が多い。夏から秋にかけ、茎頂および葉腋に、ごく小さな黄緑色の花が球状に密集してつらなった花穂をつくる。果実は楕円形で横に裂け、種子は黒褐色。漢名、莧。ひょう。ひょうな。ひゅう。ひゅうな。《季・夏》〔本草和名(918頃)〕
スベリヒユ【滑莧】 スベリヒユ科の一年草。各地の田畑や路傍に生える。全体に肉質無毛、紫赤色を帯びる。茎は地をはい上部は斜めにはい上がる。葉はへら状くさび形で対生。夏、茎の上部の葉腋に小さな黄色の五弁花を開く。果実は球形の蓋果で上半部がとれ黒い細かい種子を落とす。茎、葉は利尿・解毒薬に用いられ、若いうちはあえ物やひたし物にして食べられる。《季・夏》〔多識編(1631)〕 補注
「日葡辞書」には「Suberibiǔ (スベリビュウ)」とある。
と出ていました。
一応の結論:そうすると、外国船に与えた「ひよう」がスベリヒユなのか、栽培される蔬菜としてのヒユ(ヒョウ、ヒョウナ)なのか、ということになりますが、文政7年7月19日の柳橋藤蔵の書状に出ている「ひよう」は、一般に雑草とされているスベリヒユのことではなくて、蔬菜として栽培されたヒユ(ヒョウ、ヒョウナ)のことだろうと思われます。
なお、別のお方からも、「ひよう」について教えていただき、『和漢三才図絵』にも、「ひゆ 莧菜 ヒヱンサイ 和名 比由」 として挿絵とともに漢文の解説が出ていることを教えていただきました。(『和漢三才図絵』には「すべりひゆ 馬莧 マアヽ ヒヱン」についても出ています。)
ありがとうございました。(以上、2018年7月3日付記)
『和漢三才図絵』は、国文学研究資料館のホームページで見ることができます。「ひゆ 莧菜」「すべりひゆ 馬莧」は、「巻第百二 柔滑菜」のところに出ています。
国文学研究資料館
→ 『和漢三才図絵』
→ 「ひゆ 莧菜」 (2817/3337)
→ 「すべりひゆ 馬莧」 (2818/3337)
〇「喰」について
文政7年7月19日の柳橋藤蔵の書状に出ている「喰二鉢」については、あるお方に次のようなことを教えていただきました。ありがとうございました。
結論から申しますと、「喰」は「飯」の誤写ではないかと考えられるということです。
ある文書に、イギリス船へ下した品々として、梅や夏だいこん、さつまいも、りんご、にはとり、酒、びわ、ひやうな、などとともに、「飯 水」と書いたものがあり、このことから柳橋藤蔵の書状に出ている「喰二鉢」は、米二斗とは別に、炊いた米(飯)を送っていた可能性が考えられる、というわけです。
「二鉢」の鉢は飯櫃のことと考えられ、「喰二鉢」はもともとは「飯二鉢」で、炊いたご飯を飯櫃二つに入れて送ったものと推測されるわけです。このことを、現在のところの結論としておきたいと思います。(2018年7月14日付記)
なお、注18に掲げた、水戸の町年寄・加藤松蘿が書き写した 『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』に、「めしハ至て少々用候由」「飯をくふニはしいらす」「飯はち一ツへあまた集り喰ふ也」とあるのも参考になると思います。(2018年7月21日付記) |
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13. |
『東京都立大学法学会雑誌』第30巻第1号(平成元年(1989)7月15日発行)に、栗原茂幸氏の「「新論」以前の会沢正志斎─註解『諳夷問答』─」という論文が載っていて、詳しい註解が見られます。
栗原氏によれば、現存している『諳夷問答』は三本だと思われ、無窮会図書館所蔵の『諳夷問答 弁妄
附』一本と彰考館所蔵の『諳夷問答畧記 弁妄
附』二本だそうです。このうち後者の一本は虫食いが甚しく閲覧できなかった由です。 |
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14. |
東京大学史料編纂所データベース所収の「外務省引継書類1026 『通航一覧』」の中に、手書きの『通航一覧』があり、そこに「喰貳鉢」の部分が出ています。
東京大学史料編纂所データベース
→「史料の所在」の「所蔵史料目録データベース」
→ 「通航一覧」で検索
→ 「9 貴重書・外務省引継書類1026 『通航一覧』」の「全表示」をクリック
→ 152(260,261,262)の「イメージ」をクリック(内容・諳厄利亜国部九(狼藉始末肥前国長崎)・諳厄利亜国部十(狼藉始末常陸国大津浜)・……)
→ 00000059
「通航一覧」柳橋藤蔵書状(部分)
59/98
(2018年7月21日付記) |
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15. |
月刊アーカイブ:2014年5月というところに、「会沢正志斎『新論』関連文献」が出ていて参考になります。 |
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16. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、会沢正志斎の項があります。
『ウィキペディア』
→ 「会沢正志斎」 |
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17. |
資料136に「会沢安(正志斎)『及門遺範』」があります。
資料175に「会沢正志斎「時務策」」があります。
資料426に「会沢正志斎『新論』巻上(読点のみの本文)」があります。
資料427に「会沢正志斎『新論』巻下(読点のみの本文)」があります。 |
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18. |
『ようこそ大船庵へ』というホームページに、「文政七年七月十九日 柳橋藤蔵書状」が出ています。 『ようこそ大船庵へ』のトップページにある「古文書コーナー」をクリック → 「古文書を楽しむ」の「22 江戸後期異国船渡来記録」 → 「江戸後期異国船の渡来記録(下の「江戸後期主要異国船記録1-3へ」をクリック
→ 「江戸後期主要異国船渡来記録1」の「1824年(文政7年3月)」の右端の(▶▶通商一覧)をクリック →「文政七年イギリス鯨漁船常陸大津へ上陸」 (文政七年七月十九日 柳橋藤蔵書状」
(2017年10月25日付記) |
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19. |
茨城県立図書館デジタルライブラリーの松蘿館文庫に、水戸の町年寄・加藤松蘿が書き写した 『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』の原文と翻刻文とが、カラー画像で見られ、大変参考になります。
茨城県立図書館デジタルライブラリー
→『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』
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20. |
北茨城市大津浜の現地に立てられている北茨城市による案内板の文言を、次に書き写しておきます。
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異 国 人 上 陸 文政七年(一八二四年)三月二十八日 二そうの英国捕鯨船が、常陸大津浜沖に現れて碇泊、鉄砲を持った十一名の船員が二隻のボートに分乗して富岡海岸に上陸してきた。はじめて見る巨大な黒船と異人の姿に村人たちは驚きあわて、平和な浜は忽ち大騒ぎとなった。 急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢によって船員は捕えられ浜辺の民家に監禁されたが、一部の船員が逃亡を企てたゝめ洞穴に押し込めた。沖合の本船は数十発の大筒空砲を轟かせ威嚇しながら船員の身柄引渡しを要求したが、拒否された為、上陸船員を残して退去、その後数日して、こんどは五そうの船団となって現れたが再び退去した。 水戸藩からも出陣の兵が送られ幕府代官の下向によって取調べが行なわれた。結果船内に病人が出て、野菜等の補給の為の上陸とわかり、六月十日薪、水、食糧など給与し、ボートにて退去させた。 この事件を知った水戸の藤田幽谷は一子東湖を大津浜に送り異人たちを斬るべく計ったが時すでに釈放のあとで果たせなかった。「常陸なる大津の浜にイギリスの船をつなぐと君はきかずや」の一首はその時の歌である。 異人たちは二十日ほどの囚われの中で画をかき、相撲などとって里人と親しくなった。洞穴のそばに梅の老木があった。人呼んでイギリス梅という。昭和のはじめに枯死し、今は面影をとゞめていない。 これ以後も常磐沖には、外国船が出没し、沿岸各藩の海岸防備は厳重をきわめた。 嘉永六年ペリーの浦賀来航に先立つ約三十年前の事件であった。
北 茨 城 市
城民俗学会北茨城支部 資料提供 |
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大津浜事件の詳しい資料
『レファレンス協同データベース』に、「大津浜事件の詳しい資料、研究論文、小説、郷土資料などがあれば知りたい」という質問があって、それに対する茨城県立図書館の回答が出ていて参考になります。
『レファレンス協同データベース』
→ 大津浜事件の詳しい資料、研究論文、小説、郷土資料などがあれば知りたい」(2018年7月26日付記) |
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