(注) | 1. |
上記の本文は新釈漢文大系 22
『列子』(小林信明著、明治書院昭和42年5月25日初版発行、昭和46年5月25日8版発行)によりました。 ただし、本文に付けてある返り点・句読点は、省略しました。 |
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2. | 上記の新釈漢文大系 22 『列子』には、書き下し文・通釈・語釈があります。 | ||||
3. | 上記の書き下し文は、新釈漢文大系 22 『列子』及び新釈漢文大系 8『荘子 下』の書き下し文を参考に、引用者が書き下しました。 | ||||
4. |
「雞可鬭己乎」は、新釈漢文大系 22
『列子』では「雞(にはとり)鬭(たたか)はしむ可(べ)きや、と。」(「鶏は闘わせることができるようになったか」と尋ねた。)と読んであります。 なお、この部分は、新釈漢文大系 8 『荘子 下』(遠藤哲夫・市川安司著、明治書院昭和42年3月25日初版発行、昭和45年9月15日7版発行)には、「鶏已乎」となっていて、「もう蹴合いに使えるようになったか」と訳し、その語釈に、「鶏已(すで)に用う可きかの意。列子は「鶏可闘已乎」に作る。一説に「已」は可の字の誤りと」と出ています。(この新釈漢文大系の『荘子 下』では、『列子』の「己」が「已」と なっています。「已」が正しいのでしょうか。) なお、『荘子』には、「爲周宣王」が「爲王」、「方虚驕而恃氣」が「方虚憍而恃氣」、「猶應影響」が「猶應嚮景」、「己無變矣」が「已無變矣」、「反走耳」が「反走矣」となっています。(『荘子』の本文は、新釈漢文大系 8 『荘子 下』に拠っています。) |
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5. |
「木鶏」という言葉は、69連勝を続けていた横綱双葉山が、昭和14年1月15日、春場所の4日目の国技館で安藝ノ海の外掛けに敗れたときに、「イマダ モッケイタリエズ フタバ」という電報を打ったことで、特に有名です。双葉山は、かつて安岡正篤氏から『列子』『荘子』の木鶏の話を聞き、深く心に留め木鶏たらんと努力していたということです。 なお、注10~注14をご覧ください。 漢文では「ぼくけい」と漢音で読むようですが、私たちは普通「もっけい(もくけい)」と、「木」を呉音で読んでいます。(木:ボク(漢音)、モク(呉音)) |
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6. | 『安岡正篤「一日一言」』というサイトに「名横綱双葉山と木鶏の逸話」が出ていましたが、残念ながら今は本を買わないと見られなくなりました。 | ||||
7. | 〇木鶏・木雞(もっけい)=〔荘子達生〕木製のにわとり。強さを外に表さない最強の闘鶏をたとえる。(『広辞苑』第6版による。) | ||||
8. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「双葉山定次」の項があり、彼が「われ、いまだ木鶏たりえず」と言ったことについても触れてあります。 | ||||
9. | 資料424に「「望之似木鶏矣」(『荘子』外篇 達生第十九より)」がありますので、参照してください。 | ||||
10. | 『文藝春秋』平成24年12月号に、安岡正篤氏の孫にあたる安岡定子氏が、「祖父、安岡正篤と論語」という文章を書いておられ、その中に双葉山の木鶏に触れた部分がありますので、引かせていただきます。 相撲と言えば、祖父は双葉山と深い親交がありました。連勝が六十九で止まった双葉山が「イマダモクケイタリエズ」という電報を祖父に送ったというエピソードはよく知られています。木鶏は、『荘子』に出てくる挿話です。軍鶏がまるで木彫りの鶏のように、他の鶏の声に動じることなく、どんな鶏を連れてきても、応戦するものがなく、姿を見ただけで逃げてしまうほど鍛錬を積んで初めて強くなるのだという話です。祖父はあるとき酔った勢いで双葉山に「君はまだまだだめだ」と話し、この木鶏の話を引いたそうです。話を聞いた双葉山は、すっかり感銘を受け、祖父が書いた木鶏という字を額に入れて、朝晩静座してして修行をしたといいます。(381頁) ここでは、「双葉山が「イマダモクケイタリエズ」という電報を祖父(引用者注:安岡正篤)に送った」となっています。(2012年11月20日付記) |
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11. | 安岡正篤著『人間を修める』(致知出版社刊)に、『列子』と『荘子』の木鶏のことに触れた あとに、次のように書いておられます。 大変おもしろい話でありますが、私はこの話を往年の名横綱双葉山関にしたことがありました。これは双葉山関自身が『相撲求道録』という本に書いておりますが、まだ横綱になる前の大変人気が出てきた頃でした。双葉山を非常にひいきにしていた老友人に招かれて一緒に飲んだことがあるのです。なにしろ私もまだ若かった頃ですからつい一杯機嫌で、“君もまだまだだめだ”と申しましたところ、さすがに大横綱になるだけあって私もそのとき感心したのですが、“どこがいけないのですか”と慇懃(いんぎん)に尋ねるのです。そこで私が木鶏の話をいたしましたところが、大層感じ入ったらしく、それから木鶏の修行を始めたのです。その後は皆さんもご存知のようにあのような名力士となって、とうとう六十九連勝という偉業を成し遂げたのであります。なんでもそのとき、私に木鶏の額を書いてくれということで、書いて渡したのでありますが、その額を部屋に掛けて、朝に晩に静座して木鶏の工夫をした。本人の招きで私も一度まいりました。 今度の大戦(第二次世界大戦)の始まる直前のことでありますが、私は欧米の東洋専門の学者や当局者達と話し合いをするためにヨーロッパの旅に出かけました。もちろんその頃はまだ飛行機が普及しておりませんから船旅ですが、ちょうどインド洋を航行中のときでした。ある日、ボーイが双葉山からの電報だと言って室に飛び込んできました。なにしろ当時の双葉山は七十連勝に向かって連戦連勝の最中で、その人気は大変なものでしたから、ボーイもよほど興味を持ったらしい。そして“どうも電文がよくわかりませんので、打ち返して問い合わせようかと係の者が申しておりますが、とにかく一度ご覧ください”と言う。早速手にとってみると「イマダモクケイニオヨバズ」とある。双葉山から負けたことを報せてきた電報だったのです。なるほどこれでは普通の人にはわからぬのも無理はありません。この話がたちまち船中に伝わり、とうとう晩餐会の席で大勢の人にせがまれて木鶏の話をさせられたのを覚えています。その後双葉山の木鶏の話が自然に広がり、あちらこちらに鶏ならぬ人間の木鶏会ができました。しかし、これは結構なことです。 この文章は、『安岡正篤「一日一言」(致知出版社─安岡正篤先生のページ)』というサイトの「名横綱双葉山と木鶏の逸話」(安岡正篤『人間を修める』致知出版社刊)によりましたが、今は繋がらないようです。(2023年7月6日付記) |
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12. | 時津風定次著『相撲求道録』(黎明書房、昭和31年8月30日初版発行)には、次のように出ています。 わたくしが安岡正篤先生にお近づきになりましたのは、神戸の友人中谷清一氏の引合わせによるも のでした。 中谷清一氏のお父さんは証券業者で、神戸の商工会議所の会頭までされた、あちらではかなり著名な実業家でありましたが、かねて父子ともに安岡先生への熱心な傾倒者で、そんなところから、先生とわたくしとの御縁もむすばれたわけです。 東京で先生にはじめてお目にかかったのは、たしかわたしの大関時代であったかと思います。先生に はそれからしばしばお会いする機会があり、そのたびごとにいろいろなお話を承ったわけですが、もともと学校らしい学校にもいっていないわたくしとしては、先生のようなすぐれた方に親炙する機会にめぐまれましたことは、このうえもなくありがたいことで、わたくしはそういうさいには、含蓄のふかい先生のお話に、つとめて耳をかたむけるよう心がけてきました。 御自身がそれを意識していられたか、どうかはわかりませんが、先生もわたくしのために、なにくれとなく、よいお話をしてくだされ、酒席でのそれでも、なんとなく体に しみいるような感じでありました。先生のお話によって、人間として力士としての心構えのうえに影響をこう むったことは少なくなく、こころの悩みもおのずから開けてゆく思いを禁じえなかったのです。 先生にうかがったお話のなかに、中国の『荘子』や『列子』などいう古典にでてくる寓話「木鶏の話」というのがあって、それは修行中のわたしの魂につよく印象づけられたものですが、承ったその話というのは、だいたいつぎのような物語なのです。── 「そのむかし、闘鶏飼いの名人に紀渻子という男があったが、あるとき、さる王に頼まれて、その鶏を飼うことになった。十日ほどして王が、 “もう使えるか” ときくと、彼は、 “空威張の最中で駄目です” という。さらに十日もたって督促すると、彼は、 “まだ駄目です、敵の声や姿に昂奮します” と答える。それからまた十日すぎて、三たびめの催促をうけたが、彼は、 “まだまだ駄目です、敵をみると何を此奴がと見下すところがあります” といって、容易に頭をたてに振らない。それからさらに十日たって、彼はようやく、つぎのように告げて、王の鶏が闘鶏として完成の域に達したことを肯定したというのである。── “どうにかよろしい。いかなる敵にも無心です。ちょっとみると、木鶏(木で作った鶏)のようです。徳が充実しました。まさに天下無敵です”」 これはかねて勝負の世界に生きるわたくしにとっては、実に得がたい敎訓でありました。わたくしも心ひそかに、この物語にある「木鶏」のようにありたい─その境地にいくらかでも近づきたいと心がけましたが、それはわたしどもにとって、実に容易ならぬことで、ついに「木鶏」の域にいたることができず、まことにお恥ずかしいかぎりです。 (中略) わたしが昭和十四年の一月場所で安芸ノ海に敗れましたとき、酒井忠正氏と一夕をともにする機会にめぐまれ、北海道巡業中にとった十六ミリ映画をお目にかけたりなどして、静かなひとときを過ごすことができました。氏はその夜のわたくしを、「明鏡止水、淡々たる態度をみせた……」(酒井忠正氏著『相撲随筆』)云々と形容しておられますけれども、当のわたしにしてみれば、なかなかもってそれどころではありません。「木鶏」たらんと努力してきたことは事実だとしても、現実には容易に「木鶏」たりえない自分であることを、自証せざるをえなかったのです。かねてわたしの友人であり、また安岡先生の門下である神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏にあてて、 「イマダ モッケイタリエズ フタバ」 と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。わたくしのこの電報はただちに中谷氏によって取次がれたものとみえて、外遊途上にあられた安岡先生のお手もとにもとどいた由、船のボーイは電文の意味がよく呑みこめないので、 「誤りがあるのではないだろうか」 と訝りながら、先生にお届けしたところ、先生は一読して、 「いや、これでよい」 といって肯かれたということを、後になって伝えきいたような次第です。 (同書、「交わりの世界」の章の初めの「木鶏の話」の162~167頁) |
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13. |
時津風定次著『相撲求道録』(黎明書房、昭和31年8月30日初版発行)の巻末に、竹葉秀雄氏の「あとがき─双葉関のこと─」があり、そこで竹葉氏は次のように書いておられます。 六十九連勝で、安芸海に敗れたとき、すぐ、 「サクモヨシチルモマタヨシサクラバナ」 と打電したら、おりかへし、 「ワレイマダモツケイニアラズ」 と返電してきた。モツケイは木鶏のことである。 そして更に敗れた。 「サミシイデススグオイデコフ」 と言ふ電報がきたので、すぐ上京した。品川駅から弟子が連絡に乗り込んできて自動車で迎へられ、他の人を全部退けて二人ぎりで会ったのであった。彼は直ちに、 「つづけて取るのがよいか。やめるがよいか。知らして下さい」 といふ。必死の言葉を私は感じた。 「取れると思ふか」 「思ふ」 「よし取るべきだ!」 暫く双方無言、そして私は言った。 「今までは谷川の清流だった。清らかに流れたのであった。これから大海にならねばならぬ。汚れや濁りを容れて碧く湛へる、底の知れない大海に」 そしてまた言った。 「世間の声はどうであらうと、自分を信じて絶対取るべきである。然し今のこの生活が、心を緩めるものがあるのではなからうか。今一度、夫婦で手鍋をさげた生活からやりなほす必要がありはしないか」 じっと聞き入り、考へつめてゐた彼は、急に眼を開いて、ぐっと私を見つめ、私の手を握って、 「やります」 と言ひきった。大粒の涙が卓上に落ちた。私も泣いた。私は心から偉いと思った。 それから彼は妙音の滝に飛んだのである。 (同書、220頁。「木鶏」は、傍点が施されている語です。) |
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14. | 元双葉山の記述によれば、「イマダ モッケイタリエズ」という電報は、安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏を共通の師とする、神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏の二人の友人に宛てて打電され、恐らく中谷清一氏によって安岡正篤氏に取り次がれたもの、ということになります。 ただし、安岡正篤氏の孫にあたる安岡定子氏が、『文藝春秋』平成24年12月号に書かれた「祖父、安岡正篤と論語」という文章には、「モッケイ」ではなく、「イマダモクケイタリエズ」となっており、安岡正篤著『人間を修める』(致知出版社刊)には、「イマダモクケイニオヨバズ」となっています。 また、竹葉秀雄氏の文章によれば、氏が双葉山に送った電報に対する返電として、双葉山から「ワレイマダモツケイニアラズ」という電文が送られて来た、となっています。 元双葉山の記述のように「イマダモクケイタリエズ」だったのか、あるいは「イマダモッケイタリエズ」、あるいは「イマダモクケイニオヨバズ」、「ワレイマダモツケイニアラズ」だったのか、ちょっと疑問が残ります。 (2012年11月24日付記) |
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15. | 〇資料424に「望之似木鶏矣」(『荘子』外篇 達生第十九より)があります。 〇資料433に「力士規七則」があります。 〇資料434に「双葉山69連勝前後の星取表」があります。 〇資料413に「横綱双葉山肖像誌(妙法寺境内の日蓮聖人像台座裏の刻文)」があります。 |