資料35 陶淵明「五柳先生伝」




        五柳先生傳
                  陶淵明 (陶潛)
 
先生不知何許人。亦不詳其姓字。宅邊有五柳樹。因以爲號焉。閑靖少言、不慕榮利。好讀書、不求甚解。毎有意會、便欣然忘食。性嗜酒、家貧不能常得。親舊知其如此、或置酒而招之、造飲輒盡。期在必醉。既醉而退、曾不吝情去留。環堵蕭然、不蔽風日。短褐穿結、箪瓢屢空、晏如也。常著文章自娯、頗示己志、忘懷得失。以此自終。
贊曰、黔婁有言、不戚戚於貧賤、不汲汲於富貴。極其言、茲若人之儔乎。酣觴賦詩、以樂其志。無懷氏之民歟、葛天氏之民歟。
   
       
           

       
  (句読点なしの白文)

先生不知何許人亦不詳其姓字宅邊有五柳樹因以爲號焉閑靖少言不慕榮利好讀書不求甚解毎有意會便欣然忘食性嗜酒家貧不能常得親舊知其如此或置酒而招之造飲輒盡期在必醉既醉而退曾不吝情去留環堵蕭然不蔽風日短褐穿結箪瓢屢空晏如也常著文章自娯頗示己志忘懷得失以此自終
贊曰黔婁有言不戚戚於貧賤不汲汲於富貴極其言茲若人之儔乎酣觴賦詩以樂其志無懷氏之民歟葛天氏之民歟 

 
   

  (注) 1.  本文は、新釈漢文大系16 『古文真宝(後集)』(星川清孝著、明治書院、昭和38年7月20日初版発行、昭和46年5月10日14版発行)によりました。
 ただし、返り点を省略し、句読点を一部改めました。        
   
    2.  ワイド版岩波文庫57『陶淵明全集(下)』所収の本文との異同を示しておきます。 
 (新釈漢文大系本)……(ワイド版岩波文庫本) 
 先生不知何許人……先生不知何許人也
  閑靖少言  ……  閑靜少言。
  黔婁有言  …… 黔婁之妻有言
   
    3.  「黔婁有言」については、星川清孝氏の注に、「劉向の『列女伝』によれば、黔婁の妻が、曾子に『先生(夫のこと)は天下の淡味に甘んじ、天下の卑位に安んず。貧賤に戚戚たらず、富貴に欣欣たらず。仁を求めて仁を得、義を求めて義を得たり。其れ諡(おくりな)して康といはん。』と語った」とあります。
 ただし、『列女伝』には、「欣欣」ではなく、「忻忻」となっています。(注の8に、『列女伝』の「魯黔婁妻」の原文を引いてあります。)  
   
    4.  陶淵明は、東晋の詩人。名は潜、淵明は字。 41歳で彭沢の令をやめるまで13年官途についたが、後再び仕えず、自然を愛し名利をよそに一生を終わった。世に、靖節先生と称せられた。彭沢の令をやめて郷里に帰ったときに作った「帰去来辞」も有名。 427年没、年63。    
    5.   次に、『大辞林』の陶淵明についての記載を引いておきます。
 〇陶淵明(とうえんめい)=(365-427)中国、東晋・宋の詩人。名は潜、字(あざな)は元亮・淵明。五柳先生と号した。役人生活の束縛を嫌って彭沢県県令を最後に「帰去来辞」を賦して辞任し、以後、故郷に帰って酒と菊を愛し、自適の生活を送った。その詩文は、平淡で自然な表現を特徴とし、古来日本でも愛好された。散文「五柳先生伝」「桃花源記」など。(『大辞林』第2版)    
   
    6.  陶淵明の人となりについて、沓掛良彦氏は次のように書いておられます。 

 陶淵明の研究家たちが指摘しているように、この詩人を俗世を避けて田園に平穏に生きる隠逸の人、自然詩人とのみ見ることはわ誤りだろう。ずかな五斗米(ごとべい)のために膝を屈することを拒み、官途を捨てて故郷の田園に隠棲し、みずから窮耕の人となった陶淵明だが、乱世に生きた詩人だけあって、世の動きにはおよそ無関心ではなかった。この詩人のうちに、詩酒徴逐の日々を送り、悠然として南山を見る超俗の高士の姿のみを見るのは、陶淵明を半ばしか理解していないことに なるだろう。反俗の人ではあっても、決して超俗の隠逸詩人ではなく、自然のみならず人間や社会に対する深い関心と、有限の存在である人間というものに深く思いを潜めた、沈痛なもの思いを胸中に抱いた人物なのである。(『壺中天醉歩─中国の飲酒詩を読む(大修館書店、2002年4月10日初版第1刷発行)45~46頁)
   
    7.  星川氏は「五柳先生伝」の「余説」に、「五柳先生の人柄はまことに好ましいので、わが国では徳川光圀が、梅里先生の墓の碑陰に、この文にならって自伝を書いている。この水戸の義公の人柄にもまた、淵明に似た風流瀟洒たるものがあった。これこそ公が後世に敬慕される所以であろう。」と書いておられます。    
    8.   『列女伝』「魯黔婁妻」の原文(『列女伝』巻二賢明伝)
  十一 魯黔婁妻
魯黔婁妻者、魯黔婁先生之妻也。先生死。曾子與門人往弔之。其妻出戸、曾子弔之。上堂、見先生之尸在牖下。枕墼席稿、縕袍不表。覆以布被、首足不盡斂。覆頭則足見。覆足則頭見。曾子曰、「邪引其被、則斂矣。」妻曰、「邪而有餘、不如正而不足也。先生以不邪之故、能至於此。生時不邪、死而邪之、非先生之意也。」曾子不能應。遂哭之曰、「嗟乎、先生之終也。何以爲諡。」其妻曰、「以康爲諡。」曾子曰、「先生在時、食不充虚、衣不葢形。死則首足不斂、旁無酒肉。生不得其美、死不得其榮。何樂於此、而諡爲康乎。」其妻曰、「昔 先生、君嘗欲授之政、以爲國相、辭而不爲。是有餘貴也。君嘗賜之粟三十鍾、先生辭而不受。是有餘富也。彼先生者、甘天下之淡味、安天下之卑位、不戚戚於貧賤、不忻忻於富貴。求仁而得仁、求義而得義。其諡爲康、不亦宜乎。」曾子曰、「唯斯人也、而有斯婦。」君子謂、「黔婁妻、爲樂貧行道。」『詩』曰、「彼美淑姫、可與寤言。」此之謂也。頌曰、「黔婁既死、妻獨主喪。曾子弔焉、布衣褐衾。安賤甘淡、不求美豐。尸不揜蔽、猶諡曰康。」

 [ この『列女伝』の本文は、新編漢文選  思想・歴史シリーズ 『列女伝』(川崎純一著、明治書院・平成8年12月10日発行)によりました。同書には、書き下し文が載っています。]
 なお、 『列女伝』の著者・劉向については、資料124「説苑」(抄)の注をご覧ください。      
   
    9.  資料33に水戸光圀の「梅里先生の碑陰並びに銘」があります。    
    10.  資料93に陶淵明「桃花源記 并詩」があります。
 資料97に陶淵明「帰去来辞 并序」があります。
   
           





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