資料33 梅里先生の碑陰並びに銘




        梅里先生の碑陰並びに銘


  先生常州水戸産也其伯疾其仲夭先生夙夜陪膝下戰戰兢兢
其爲人也不滞物不著事尊神儒而駁神儒崇佛老而排佛老常
喜賓客殆市于門毎有暇讀書不求必解歡不歡歡憂不憂憂月
之夕花之朝斟酒適意吟詩放情聲色飲食不好其美第宅器物
不要其奇有則隨有而樂胥無則任無而晏如自蚤有志于編史
然罕書可徴爰捜爰購求之得之微遴以稗官小説摭實闕疑正
閏皇統是非人臣輯成一家之言元祿庚午之冬累乞骸骨致仕
初養兄之子爲嗣遂立之以襲封先生之宿志於是乎足矣既而
還鄕即日相攸於瑞龍山先塋之側痤歴任之衣冠魚帶載封載
碑自題曰梅里先生墓先生之靈永在於此矣嗚呼骨肉委天命
所終之處水則施魚鼈山則飽禽獸何用劉伶之鍤乎哉其銘曰
月雖隱瑞龍雲光暫留西山峯建碑勒銘者誰源光圀字子龍
   
       


  (注) 1.  本文は名越時正著『水戸光圀』(日本人のための国史13・日本教文社刊、昭和41年2月25日初版発行、昭和42年6月20日4版発行)所収の「梅里先生碑陰銘」によりました。      
    2.  改行は、碑陰の拓本の写真によって、碑陰の通りにしました。    
    3.  この文章は、陶淵明の「五柳先生伝」に倣って書かれたものです。(資料35 に「五柳先生伝」があります。)    
    4.  「梅里先生碑」については、宮田正彦著『水戸光圀の『梅里先生碑』』(水戸の碑文シリーズ3、平成16年3月31日水戸史学会発行)に、詳しい解説があります。    
    5.  『黄虎洞中國文物ギャラリー』で、梅里先生碑陰の拓本(38「梅里徳川光圀、壽蔵碑原拓」)の画像を見ることができます。
 また、上掲の宮田正彦著『水戸光圀の『梅里先生碑』』にも、拓本の写真が掲載されています。
   
    6.  本文の読みの一例を付記しておきます。(括弧内の読み仮名は、現代仮名遣いにしてあります。)

先生は常州(つねしゅう)水戸の産なり。 其の伯は疾(や)み、其の仲(ちゅう)は夭(よう)す。 先生、夙夜(しゅくや)膝下(しっか)に陪(ばい)して戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)たり。其の人と為(な)りや、物に滞(とどこお)らず、事に著(ちゃく)せず。神儒を尊んで神儒を駁(ばく)し、仏老を崇(あが)めて仏老を排す。常に賓客(ひんかく)を喜び、殆んど門に市(いち)す。 暇(いとま)あるごとに書を読めども、必ずしも解することを求めず。歓びて歓びを歓びとせず、憂ひて憂ひを憂ひとせず。 月の夕(ゆうべ)、花の朝(あした)、酒を斟(く) んで意に適すれば、詩を吟じて情を放(ほしいまま)にす。声色飲食(いんし)、其の美を好まず、第宅(ていたく)器物、其の奇を要せず。 有れば則ち有るに随つて楽胥(らくしょ)し、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり。蚤(はや)くより史を編むに志有り。 然れども書の徴すべきもの罕(まれ)なり。爰(ここ)に捜(さぐ)り爰に購(あがな)ひ、之を求め之を得たり。微遴(びりん)するに稗官(はいかん)小説を以てす。実(じつ)を摭(ひろ)ひ疑はしきを闕(か)き、皇統を正閏(せいじゅん)し、人臣を是非し、 輯(あつ)めて一家の言を成す。 元禄庚午の冬、累(しき)りに骸骨を乞ひて致仕(ちし)す。 初め兄の子を養ひて嗣(し)と為し、 遂に之を立てて以て封(ほう)を襲(つ)がしむ。先生の宿志、是(ここ)に於てか足れり。既にして郷に還り、即日攸(ところ)を瑞龍山先塋(せんえい)の側(かたわら)に相(そう)し、 歴任の衣冠魚帯を痤(うず)め、載(すなわ)ち封(ふう)じ載ち碑し、自(みずか)ら題して梅里先生の墓と曰ふ。先生の霊は永く此(ここ)に在り。 嗚呼(ああ)、骨肉は天命の終る所の処に委(まか)せ、水には則ち魚鼈(ぎょべつ)に施し、山には則ち禽獣に飽かしめん。 何ぞ劉伶(りゅうれい)の鍤(すき)を用ひんや。其の銘に曰く、
月は瑞龍の雲に隠ると雖(いえど)も、光は暫く西山の峯に留(とど)まる。 碑を建て銘を勒(ろく)する者は誰(たれ)ぞ、源(みなもとの)光圀、字(あざな)は子龍(しりょう)。

 (読みの注)
 (1) 「常州」は、普通は「じょうしゅう」と読むところだが、「上野國」(こうづけのくに)を「上州」(じょうしゅう)と呼ぶので、それと区別するために「つねしゅう」と読む。(上掲の宮田正彦著『水戸光圀の『梅里先生碑』』の教示による。)
 ただし、「じょうしゅう」と読む人も勿論いるし、それも間違いではない。
 (2)  「声色飲食」の「飲食」は、「いんし」と読む。 宮田氏の上掲書によれば、水戸では昔から「飲食」を「いんし」と読み慣らわしてきたそうである。 漢和辞典によると、「食」の「しょく」は、食べる ・食べ物、 「し」は、食わせる ・めし(飯)、とある。
 『論語』の雍也篇に「一箪食 」と あって、これも「いったんのし」と読んでいる。  
 (3) 「楽胥」は、「らくしょ- し」と読んだが、「胥」は語調を整える助辞で意味はないので、「胥」を読まずに、「たのしみ」(動詞の連用形)と読む人もいる。
 (4) 「子龍」は、「しりょう」と読んだが、「しりゅう」と読む人もいる。 漢和辞典によると、「龍」の漢音は「リョウ」。 「リュウ」は慣用音である。
   
    7.  『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』の中にある『維新資料画像データベース』に、「水戸光圀公之肖像及書」(資料#00852)があります。
 画像をクリックすると、拡大画面になります。 
 参考までに、この画像の序と詩とを次に記しておきます。

  重陽日酒泉氏訪予西山
  草廬既遘心降握手寒暖
  相與優游詩彼酒此官事
  無鹽速捶驪駒孟冬初五
  臨別追餞聊賦鄙詞九言
  以代陽關三疊


 邂逅相視垂靑兩懽然
 談笑未盡匆匆促別筵
 山圍水流共賞樂仁智
 雨夜月夕對酌試聖賢
 勿諼雁行常陽雲霞境
 自此霓望江東日暮天
 子歸告史臣成功何歳
 歳不待人我去薦墓前
           西山


 これは、『常山文集』巻之十五に収録されていますが、一部字句に異同があります。
            (『常山文集』巻之十五)
酒泉氏訪予西山草廬…酒泉弘訪予西山草廬
孟冬初五………………仲冬初五
聊賦鄙詞九言…………聊賦九言
西山……………………なし
 なお、『常山文集』には返り点がついています。
   







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