資料352 森鴎外の短歌「奈良五十首」  


 

 

        奈良五十首          森 鷗 外

 

 

 

京はわが先づ車よりおり立ちて古本(ふるほん)あさり日をくらす街(まち)
識れりける文屋
(ふみや)のあるじ氣狂(きくる)ひて電車のみ見てあれば甲斐なし
夕靄
(ゆふもや)は宇治をつつみぬ兒(ちご)あまた並居(なみゐ)る如き茶の木を消して
木津過ぎて網棚
(あみだな)の物おろしつつ窓より覗く奈良のともし火
奈良山
(ならやま)の常磐木(ときはぎ)はよし秋の風木の間木の間を縫ひて吹くなり
奈良人
(ならびと)は秋の寂しさ見せじとや社(やしろ)も寺も丹塗(にぬり)にはせし
蔦かづら絡
(から)む築泥(ついぢ)の崩口(くえくち)の土もかわきていさぎよき奈良
猿の來
(こ)し官舍の裏(うら)の大杉は折れて迹なし常なき世なり
  
正倉院
勅封
(ちよくふう)の笋(たかんな)の皮切りほどく鋏の音の寒きあかつき
夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉
(あぜくら)のとはに立つ國
戸あくれば朝日さすなり一とせを素絹
(そけん)の下(した)に寢つる器(うつは)
唐櫃
(からびつ)の蓋(ふた)とれば立つ絁(あしぎぬ)の塵もなかなかなつかしきかな
見るごとにあらたなる節ありといふ古文書
(こもんじよ)生ける人にかも似る
少女をば奉行の妾
(せふ)に遣りぬとか客(かく)よ默(もだ)あれあはれ忠友(たゞとも)
戀を知る沒日
(いりひ)の國の主(ぬし)の世に寫しつる經(きやう)今も殘れり
はやぶさの目して胡粉
(ごふん)の註を讀む大矢透(おほやとほる)が芒(すゝき)なす髮
み倉守
(も)るわが目の前をまじり行く心ある人心なき人
(ぬし)は誰ぞ聖武のみかど光明子(くわうみやうし)(ばう)だにぬがで見られんものか
三毒におぼるる民等法
(のり)の手に國をゆだねし王を笑ふや
蒙古王來
(き)ぬとは聞けど冠(かがふり)のふさはしからむ顔は見ざりき
晴るる日はみ倉守るわれ傘さして巡りてぞ見る雨の寺寺
とこしへに奈良は汚さんものぞ無き雨さへ沙に沁みて消ゆれば
黄金
(わうごん)の像は眩(まばゆ)し古寺(ふるでら)は外(と)に立ちてこそ見るべかりけれ
   
東大寺
別莊の南大門の東西(とうざい)に立つを憎むは狹しわが胸
盧舍那佛
(るしやなぶつ)仰ぎて見ればあまたたび繼がれし首の安げなるかな
大鐘
(おほがね)をヤンキイ衝(つ)けりその音はをかしかれども大きなる音
   
興福寺慈恩會
いまだ消えぬ初度
(しよど)の案内(あない)の續松(ついまつ)の火屑(ほくづ)を踏みて金堂(こんだう)に入る
觀音の千手
(せんじゆ)と我とむかひ居て購讀(こうどく)が焚(た)く香(かう)に咽(むせ)びぬ

本尊をかくす畫像の尉遲基(うつちき)は我れよりわかく死にける男
梵唄
(ぼんばい)は絶間絶間に谺響(こだま)してともし火暗き堂の寒さよ
なかなかにをかしかりけり闇のうちに散華
(さんげ)の花の色の見えぬも
番論議
(ばんろんぎ)拙きもよしいちはやき小さき僧をめでてありなむ
   
元興寺址
いにしへの飛鳥(あすか)の寺を富人(とむひと)の買はむ日までと薄(すすき)領せり
落つる日に尾花匂へりさすらへる貴人
(うまびと)たちの光のごとく
なつかしき十輪院は靑き鳥子等のたづぬる老人
(おいびと)の庭
  
般若寺
般若寺は端
(はし)ぢかき寺仇(あだ)の手をのがれわびけむ皇子(みこ)しおもほゆ
  
新藥師寺
殊勝なり喇叭の音に寢起
(ねおき)する新藥師寺の古き佛等(ほとけら)
  
大安寺
大安寺今めく堂を見に來(こ)しは餓鬼のしりへにぬかづく戀か
   
白毫寺
白毫(びやくがう)の寺かがやかし痴人(しれびと)の買ひていにける塔の礎(いしずゑ)
踊る影障子にうつり三味線の鳴る家の外
(と)に鹿ぞ啼くなる
醉ひしれて羽織かづきて匍ひよりて鹿に衝かれて果てにけるはや
春日
(かすが)なる武甕椎(たけみかづち)の御神(おんかみ)に飼はるるしかも常の鹿なり
旅にして聞けばいたまし大臣
(おとど)原獸(けもの)にあらぬ人に衝かると
宣傳
(せんでん)は人を醉はする強(し)ひがたり同じ事のみくり返しつつ
ひたすらに普通選擧の兩刃
(もろは)をや奇(く)しき劍とたふとびけらし
(さと)らじな汝(な)が偶像の平等(びやうどう)にささげむ牲(にへ)は自由なりとは
富むといひ貧しといふも三毒の上に立てたるけぢめならずや
貪慾
(どんよく)のさけびはここに帝王のあまた眠れる土をとよもす
なかなかに定政
(さだまさ)(さか)しいにしへの奈良の都を紙の上に建つ
現實の車たちまち我を率
(ゐ)て夢の都をはためき出でぬ
 
                   
(大正11年1月1日『明星』)
 
  

 

 

  (注) 1.  上記の「奈良五十首」は、『鷗外選集 第10巻』(岩波書店、1979年8月22日第1刷発行)所収の本文によりました。    
    2.  「奈良五十首」の初出は、大正11年(1922)1月1日発行の雑誌『明星』です。    
    3.  上記本文の読み仮名は、『鷗外選集 第10巻』の本文の通りにしてあります。
 ただし、常用漢字を旧漢字に改めました。
   
4.  「奈良五十首」について、『鷗外選集 第10巻』巻末の「解説  詩人としての鷗外─『於母影』『うた日記』『沙羅の木』短歌連作─」で、解説者の小堀桂一郎氏は、次のように書いておられます。詳しくは同書を参照してください。同書325~7頁。なお、下線を施した部分は、傍点がついている個所です。)

 
以上、結局「我百首」の前段階といふべき三作(引用者注:「一刹那」「舞扇」「潮の音」を指す)に比して、制作年代も十年余りを距て、作風もこれらとは質を異にするものである「奈良五十首」は注目に値する。これは大正十一年一月に第二次「明星」の第一巻第三号に発表されたものだが、内容から言へば、これは大正七年から大正十年にかけて、毎年晩秋に帝室博物館長として正倉院開封のため奈良に出張した、その時の経験を、謂はばみためておいたもので、その上でこれは連作としての入念な配慮の下に再構成された文字通りの連作である。
 この作品には丁度『うた日記』に対する『陣中の竪琴』、『沙羅の木』に対する富士川氏の研究に匹敵する様な、平山城児氏による註解『鷗外「奈良五十首」の意味』といふ労作がある。実際この連作はこの様な適切な註解を参照しつつ読むとき初めてその真価を理解し味はふことができる、といふよりも註解なしでは篇中のどの一首もその本来の味はひに達することができない、といふべきほどであり、その意味でここでは如何なる解説も畢竟無力である。平山氏の丁寧な註解を逐一参照されるに如くはないことになる。
 ただ一言「奈良五十首」の鷗外文業全体の中での位置について述べておくならば、この連作は彼の文藝の面でのまとまつた創作では最後のものだといふことである。同じ第二次「明星」には創刊号(大正十年十一月)から「古い手帳から」が連載され、鷗外の死によつて中断されてゐるので、これが本来の絶筆・遺稿といふべきものだが、性格を言へば備忘録の如きもの、一種の随筆であらう。彼の文学的営為の最後の作品はこの「奈良五十首」である。(以下、略)
    5.  笠間選書『鷗外「奈良五十首」の意味』(平山城児著、笠間書院 1975年1月発行)は、現在版元品切の由です。(2010年12月18日現在)       
    6.  資料349に「森鴎外の短歌「一刹那」」があります。    
    7.  資料350に「森鴎外の短歌「舞扇」」があります。    
    8.  資料351に「森鴎外の短歌「潮の音」」があります。    
    9.  資料347に「森鴎外の短歌「我百首」」があります。    
           



    

    
      

 
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