資料351 森鴎外の短歌「潮の音」  


 

 

         潮 の 音               森 鷗 外

 

 

 

さと開く大戸のうちの千人(せんにん)の客にまじれる君をまづ見る

我にあり卑吝
(ひりん)の心たはやすく切れむといふにたゆたふ刹那

眞晝日に若葉かがやく枝巻
(えだま)きて眠れる蛇の鱗と共に

わが血もて造ると叫び熔金
(ようきん)の赤き流(ながれ)を鑄型(いがた)にそそぐ

春の雨圍
(かこひ)の沈默(しじま)香盒(かうがふ)の堆朱(つゐしゆ)をすべる眞白きおよび

聖等
(ひじりら)が唾(つ)にて錬りたるコンフエツチ心の鬼を打てど怖れぬ

(たむた)ける白髮(しらが)の翁圏(わ)の外に跳り出でよと我に敎ふる

鏗爾
(かうじ)として聲は收る四手(ししゆ)の奏あああすよりは君は人妻

あだにのみ尋ねし奇靈
(くしび)こたびこそ此戸の奥にあらめとおもふ

(せん)拔きて忘れし瓶(かめ)の香水のかをりうせたる水を掬(すく)ふや

ゆるやかに舟の艣
(ろ)は鳴る苫(とま)に臥しわれ物思ふ舟の艣は鳴る

相語る聲うやうやし道に逢ふ角
(つの)ある人と角ある人と

日一日けふも事なしこもりゐて何ともわかぬ壁の色見る

女いふ何を恃みて打出でしわれいふ恃むことなきを取れ

右ひだり鬱
(うつ)たる林ひと筋の軌道を照す夏の眞晝日

靑鬼
(あをおに)の情緒(じやうちよ)あらぶる一刹那あはやたじろく赤鬼(あかおに)の意志(いし)

自然
(しぜん)をぞ此子にめづる裳をかかげ何すとなしに日ねもす跳る

わぎもこが捕へし蝶に留針
(とめばり)をつと刺すを見て心をののく

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(くわうこく)の電燈にくし道筋といふ道筋の眞向ひに照る



 
                     
(明治41年8月1日『明星』)
 
  

 

 

 

(注)1. 上記の「潮の音」19首は、『鷗外選集 第10巻』(岩波書店、1979年8月22日第1
       刷発行)
所収の本文によりました。
     2. 「潮の音」の初出は、明治41年(
1908)8月1日発行の雑誌『明星』です。
     3. 上記本文の読み仮名は、『鷗外選集 第10巻』の本文の通りにしてあります。
      ただし、常用漢字を旧漢字に改めました。
     4. 資料349に「森鴎外の短歌「一刹那」」があります。

     5. 資料350に「森鴎外の短歌「舞扇」」があります。
     6. 資料347に「森鴎外の短歌「我百首」」があります。
      

 

 

 

 


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