(注) | 1. |
首級水戸携行説については、久野勝弥氏に「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、茨城県郷土文化研究会・平成16年3月31日発行)という文章があって、詳しい検証が見られます。
なお、この文章に、「大老井伊掃部頭直弼台霊供養塔由来」の一部が原文のまま引用されていて参考になります(引用は必ずしも厳密ではありませんが)。 |
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2. | 久野氏のこの文章にも紹介されていますが、『これが水戸黄門だ!』(日之出出版、平成15年11月19日発行)の中に、久野氏の「「水戸黄門」と松下幸之助(高橋三郎聞き書き)」という文章があって、そこに、大老の御首級が建碑の年の暮れに三木氏たちによって井伊家の菩提寺である世田谷の豪徳寺に秘密裡に埋葬されたという、「直弼台霊供養塔」建碑に当たった石材店の高橋三郎氏からの聞き書きが紹介されています。 | ||||
3. | 山本秋広氏著『水戸徳川家と幕末の烈公』(紀山文集 第三巻、山本秋広昭和43年2月1日発行)の中に、司命丸の高倉伴介氏が生前、広木松之介が大老の首級を甘酒樽に詰めて水戸に持ち帰ったという話をしておられた、ということが紹介されています。 | ||||
4. |
供養塔をお建てになった三木啓次郎氏は、昭和20年代に水戸徳川家の家令を勤められた方で、水戸光圀公の生誕に関係した三木仁兵衛之次(ゆきつぐ)の御子孫に当たられる方だそうです。 前記の久野氏の「「水戸黄門」と松下幸之助(高橋三郎聞き書き)」 には、三木氏と松下幸之助氏との出会いとその後の交流が紹介されていて、興味深いものがあります。 三木啓次郎氏は、供養塔建碑の4年後、昭和47年に95歳で逝去されました。( ここで、なぜ<「水戸黄門」と松下幸之助>かについて触れておきますと、松下幸之助氏の「ナショナル」がテレビで何か放映したいという話があった時、三木啓次郎氏が、「明るいナショナル」のイメージから、正義は明るく正しく世の中に行われなければならないという考えから、水戸黄門のドラマ化を推薦した、といういきさつがあるのだそうです。松下幸之助氏は、「“水戸黄門”が続く限り責任を持ちましょう」と語られたという話です。) |
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5. | 碑陰の
「大老井伊掃部頭直弼台霊供養塔由来」の本文は、1行が58字分で全13行。標題が1行、日付・発起人氏名が各1行で、合計16行です。 本文は書き出し(段落の始め)が1字下げ、読点・句点のところがそれぞれ1字空けになっています。従って、空字を除いた碑陰の総文字数は、題字16字、本文673字、日付10字、署名20字の合計719字です。 |
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6. | 資料68に「広木松之介伝(『桜田烈士伝』より)」があります。 | ||||
7. | 資料110に [1] 桜田門外の変「斬奸趣意書」があります。 | ||||
8. | 桜田門外の変について書かれた比較的新しいものには、吉村昭著『桜田門外ノ変』 (新潮社、平成2年8月20日発行)があります | ||||
9. | 『常陽藝文』2005(平成17)年3月号に「[藝文風土記] 実録・桜田門外の変」が載っています。 | ||||
10. |
ここで、井伊大老の首級についての一般的な解釈を、久野勝弥氏の「井伊大老首級始末異聞」から要約して紹介しておきます。 大老の首級を刀の先に突き刺して掲げ現場を離れた薩摩藩士有村次左衛門は、直弼の側小姓に背後から斬りつけられて重傷を負い、遠藤但馬守の役宅前で動けなくなり、自刃した。大老の首級は遠藤家の邸内に運び込まれた。井伊家では首級の返還を求めたが、遠藤家では幕府の検視が済まぬうちはお渡しできぬと断った。井伊家では再び公用人二人が遠藤家に赴き、家臣・加田九郎太の首級として返還を求め、受取の一札を差し出して首級を持ち帰った。そして、藩医・岡島玄達が首と胴体とを縫い合わせて、井伊家の菩提寺である豪徳寺に葬った。 これが、 『桜田義挙録』(岩崎英重著、吉川弘文館・明治44年刊)以来の一般的な見方というわけです。 しかし、名目上、加田九郎太のものとされ、実は井伊大老の首といわれる首級は贋物で、本当の大老の首級は水戸に運ばれたのだという説が、早くから巷間にささやかれていたわけです。これについては、俗説だとして否定する史家が多いそうですが、中には簡単には否定できないと考える人もいるわけです。 昭和43年に「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」が建てられる少し前に、妙雲寺の広木松之介の広木家の墓地から、広木家ものではない骨壷が発見されました※。同じ妙雲寺の檀家である三木啓次郎氏に話したところ、三木氏は、その骨が松之介に関係する者が隠した井伊大老の首の骨に間違いないと考え、寺の住職と広木家の了解のもとに井伊家側に返還を申し出ました。しかし、井伊家からは、直弼の首級は当初より豪徳寺に埋葬されているから、そのお骨は水戸の方で供養してください、と断られたということです。 この骨がその後どうなったかについての話は、(注)の2に簡単に触れてあります。(なお、この件の詳細については、久野勝弥氏の「井伊大老首級始末異聞」をご覧ください。) ※ ここには、妙雲寺の広木松之介の広木家の墓地から骨壷が発見されたとありますが、網代茂著『水戸綺談』 (新いばらきタイムス社、1992年7月15日発行)には、このことに関して次のように書かれています。 “首級”は本行寺ご本堂の床下に埋められていた 井伊大老の“首級”をめぐる耳よりな話を、4月12日開かれた三の丸小昭和14年卒同窓会の席で聞いた。岡野康(きよし)さん(水戸市見和町=三協建設社長)がお参りした日蓮上人のふるさと、千葉県天津小湊町の清澄寺(きよすみじ)別当である本県出身の小林日芳さん(本名栄雄=水戸中学校昭和9年卒・77歳)から、宿坊に泊って親交を温めた夜、“大老首級の発掘”に立ち会った話をうかがったというのである。 あらためて小林さんに取材したところによると、──話は20数年前にさかのぼる。 昭和42年当時、笠間の真浄寺住職で県宗務所長だった小林さんのもとへ、桜田浪士広木松之介の縁者である広木妙諦尼から、大老の首級を市内袴塚町、日蓮宗本行寺ご本堂廊下の下に埋めたという祖先からの言い伝えを確かめてみたいとの相談。それではと、ここぞとおぼしき個所を掘ったところ、しゃれこうべが出てきた。ねんごろに供養、広木松之介が眠る同じ日蓮宗妙雲寺の前記の『台霊塚』となったのである。 この時、祈祷したのが、河和田1丁目の妙真寺住職の鈴木国守さん(48歳)「荒行を終えて、はじめての祈祷だったので、よくおぼえています。あの供養祭は43年でした」。 幕吏のきびしい追捕を逃れて、広木松之介・花の姉弟が一時身をかくしていたのが本行寺であったことからも、人知れず“大老首級”を本堂下に埋めた、というのは合点のゆく話だ。 姉の花は、同寺の僧と夫婦になり、山形県の大堂寺で亡くなったという。(1992年4月16日)(「桜田浪士、幕末からのテレパシー 井伊大老“首級”のナゾ 湖底に消えたあのピストル」という文章の「追記」。同書、220頁。)(2009年5月8日追記) |
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11. |
ここに、参考書をまとめて挙げておきます。 (1) 久野勝弥「「水戸黄門」と松下幸之助(高橋三郎聞き書き)」(『これが水戸黄門だ!』所収、日之出出版、平成15年11月19日発行) (2) 久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号所収、茨城県郷土文化研究会・平成16年3月31日発行) (3) [藝文風土記]「実録・桜田門外の変」(『常陽藝文』2005(平成17)年3月号) (4) 山本秋広著『水戸徳川家と幕末の烈公』(紀山文集 第三巻、山本秋広昭和43年2月1日発行) (5) 「広木松之介伝」(綿引泰著『桜田烈士伝』所収、郁文館・明治30年11月発行。1976年9月に綿引堂人が復刻した『桜田烈士伝』があります。) (6) 岩崎英重著『桜田義挙録』(吉川弘文館、明治44年刊) (7) 吉村昭著『桜田門外ノ変』 (新潮社、平成2年8月20日発行) (8) 網代茂著『水戸綺談』 (新いばらきタイムス社、1992年7月15日発行) |
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12. |
『燈影舎』のホームページに、「鼎談 井伊直弼を語る[1][2]」があります。 直弼のご子孫の方が大老井伊直弼について語っておられます。 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30) |