資料110 斬奸趣意書(桜田門外の変・坂下門外の変)



     ここには、桜田門外の変と坂下門外の変の、二つの「斬奸趣意書」が収めてあります。
     桜田門外の変の「斬奸趣意書」は、
吉川弘文館発行の『水戸藩史料』によるものと、
     岩崎英重著『櫻田義擧録』によるものとの二種類を収めてあります。
  

 

 

[ 1 ]   桜田門外の変「斬奸趣意書」 (吉川弘文館発行『水戸藩史料』による)
[ 2 ]   桜田門外の変「斬奸趣意書」 (岩崎英重著『桜田義挙録』による)
[ 3 ]   坂下門外の変「斬奸趣意書」 (
吉川弘文館発行『水戸藩史料』による)


 

 

     [ 1 ]   桜田門外の変「斬奸趣意書」(『水戸藩史料』による)
 

 

   櫻田門外の變  斬奸趣意書

 

 


謹て龍野侯執事ニ奉上言候執事御義御賢明ニ被爲在天下之御政道無邪御取計被遊候御義と奉存候間草莽之我々共申上候ハ恐入候得共存詰候義無伏臓別紙ニ相
認奉瀆尊覧候追々御大老井伊掃部頭所業を洞察仕候處權威を恣に被致我意ニ叶ハざる忠誠厚き人々をバ御親藩を始め公卿衆大名御旗本に不限讒誣致し候て退隱幽閉等被仰付候樣取計ひ就中外慮之義ニ付てハ虚喝之猛勢ニ恐怖致し神州之大害を釀し候不容易事を差許し御國體を穢し乍恐叡慮を奉惱勅意にも奉違背候段奸曲之至り天下之大罪人と可申奉存候右罪状之義ハ別紙にて委曲御熟覧御熟慮之程奉祈候扨右樣之奸賊御坐候てハ此上益々將軍家之御政道を乱り夷狄之爲に被制禍害を來し候義眼前にて有之實ニ天下之御安危ニ拘り候儀と奉存候故京師へも及奏聞今般天誅ニ代り候心得ニて斬戮仕候事ニ御坐候毛頭公邊へ御敵對申上候義ニ無之且全く我々共忠憤之餘り天下之御爲と存詰候ての事ニ御坐候間御法之通如何樣御處置被仰付候共御恨不申上候依てハ元主人家譴責を蒙り候樣之儀無之樣奉願候將又此上ハ天下之御政事正道に御復し忠邪御辨別被遊殊更夷狄之御取扱ニ至り候てハ祖宗之御明訓御斟酌被爲在華夷内外之辨得と御勘考被遊勿論聖明之勅意ニ御基き御判斷之程奉渇望候此罪不顧萬死奉申上候恐惶頓首
  月 日                元水戸藩中
                        姓       名
                     元薩摩藩中        
                        姓       名
     伏呈 
      龍 野 賢 侯 執 事
              

 

 



墨夷浦賀へ入港以來征夷府之御處置假令時勢之變革も有之隨て御制度も變革なくてハ難相成事情有之候とハ乍申當路之有司專ら右を口實として一時偸安畏戰之情より彼が虚喝之勢焰ニ恐怖致し貿易和親登城拜禮をも指許し條約を取替し踏繪を廢し邪敎寺を建ミニストルを永住爲致候事等實ニ神州古來之武威を穢し國體を辱しめ祖宗之明訓孫謀ニ戻り候のみならず第一勅許も無之儀を被指許候段奉蔑如天朝候儀ニ有之重々不相濟事ニ候追々大老井伊掃部頭所業を致洞察候ニ將軍家御幼少之御砌ニ乘じ自己之權威を振ハん爲公論正議を忌憚り候て天朝公邊之御爲筋を深く存込候御方々御親藩を始公卿衆大小名御旗本ニ不限讒誣致し或ハ退隱或ハ禁錮等被仰付候樣取計候儀夷狄跋扈不容易砌と申内憂外患追日指迫候時勢ニ付恐多くも不一方被惱宸襟御國内治平公武御合體彌長久之基を被爲立外夷之侮を不受樣被遊度との叡慮ニ被爲在公邊之御爲勅書御下ゲ被遊候歟ニ奉伺候處違背仕尚更諸大夫始有志之人を召捕無實を羅織し嚴重之處置被致甚敷ニ至候てハ三公御落飾御愼粟田口親王をも奉幽閉勿體なくも天子御讓位之事迄奉釀候件々奸曲莫所不至矣豈天下之巨賊にあらずや右罪科之儀ハ委細別紙ニ相認候通ニ候斯る暴横之國賊其儘指置候ハゝますます公邊之御政體を乱り夷狄之大害を成し候儀眼前にて實ニ天下之安危存亡ニ拘り候事故痛憤難默止京師へも及奏聞今般天誅ニ代り候心得にて令斬戮候申迄にハ無之公邊へ御敵對申上候儀にハ毛頭無之何卒此上聖明之勅意ニ御基き公邊之御政事正道ニ御復し尊王攘夷正誼明道天下萬民をして富嶽の安ニ處せしめ給ハん事を希ふのミ聊殉國報恩之微衷を表し伏して天地神明之照覧を奉仰候也  

 

 

  別紙存意書
皇國千萬世天日嗣連綿照臨し給ひて伊勢之神宮も上古ニ替わらせ給わず神道を尊ひ武力を尚び給ふ事自然之遺風餘烈なれバ古より遠略をのべ給ひ且夷狄之禍有之候得バ精々退攘し給ひし事靑史ニ著しく今更奉稱揚に不及武將之世となりても弘安之蒙古を鏖にし文禄之朝鮮を征する事共神州之武威を海外に輝候義人口に膾炙する所なれバ是又贅言を不待東照宮に至給ひてハ尊王攘夷之御志深く被爲在候ハ不及申上但勃興之御盛時なれバ其初ハ諸蠻來航通商等も許し置れ玉ひしか共諸蠻も畏服して覬覦之念を達する事ならず然る所東照宮終ニ其巨害ある事を洞見し給ひて洋敎之禁を嚴にし給ふ大猷公に至りて益邪徒を驅斥斬戮し三眼の明を四海に布き給ふ事誠ニ千古之英見卓識ニて後嗣遵奉し給ふ處なり扨近時ニ至りてハ夷狄狡謀黠略之者多く出て萬國へ通信貿易し遂に小を併せ弱を制し次第ニ境界廣大に相成候勢に乘じ屢神州をも覬覦するに至る乍去打拂之令有之時ハ格別之事ハ仕出す事も成得ずして打過ぬ天保十三年打拂之令を停め仁恤せられしより頻りに來航し跋扈之態を顯すに至る就中嘉永癸丑墨夷浦賀へ入港威暴を示し難題申掛候以來ハ征夷府之御處置方古今時勢之變革も有之一概に御國威御主張難被遊儀ハ治世之風習左も可有之事ニ候得共申迄も無之夷狄貪惏元より饜事なく殊ニ狡謀譎計を挾み覬覦之念を逞く致候故耶蘇之術中ニ落入り神州之泰否にも拘り候重大之事ニ候得ば華夷之辨和戰の議始終著眼之大基本御廟議御一定之上諸御
衍カ制度御變革無之てハ時勢ニ於て不相叶筈ニ候得共近來諸蠻夷之御扱振推察仕候ニ乍憚一定之御廟算如何可有之哉去る卯年迄ハ追々内備嚴整之御達有之邊海之御守衛被仰付候大名ニ至てハ多年防禦之爲國力を費し被勵忠勤候處不圖も去ル辰年和親交易御取結之上恐多くも征夷將軍之御居城へ夷狄共登城被仰付剩へ御饗應尊敬を被盡候有樣春秋城下之盟を耻る比較にあらず神州古來未曾有之御失體ニて實ニ冠履倒置之御處置と可申驚嘆之至りニ候假令御國政之義關東ニ御任せに相成居候とて斯る重大之事件第一勅許不被爲在候儀を全く掛り之有司數輩之了簡を以て五ケ國へ本條約指許し將軍家御印章之御書翰迄被指遣候始末何程偸安之末俗戰爭に及候を恐怖致候とて天下後世へ對大義名分と申も有之征夷の御任如何可有之哉忝くも武門之列ニつらなり二百年之恩澤に浴し居候てハ不堪悲泣之至候況や德川家譜代恩顧之士東照宮之御神靈ニ奉對沈默傍觀致居候儀廉耻無之と可申决して不相濟事也扨陳する迄も無之天下之所聞見ニ候得共前件夷狄交易之儀如何樣にも勅許申請度所存にて去ル午年春堀田備中守上京致賄賂金錢を以て關白殿下を誑惑致勿體なくも龍顔を可奉暗と陰謀秘計不一方候處今上皇帝聰明絶倫千載不世之聖主に被爲渡皇國開闢以來尊嚴之國體淳厚之風俗今上之御代ニ及び夷狄之爲に消却汚穢被致候てハ第一伊勢神宮御始メ御代々之御神靈ニ被爲對王位之御任不被爲濟尤戰を被爲好候にハ無之國體を不失萬民安堵ニ被遊度との叡慮より賢くも一七日之間供御御絶被遊石清水へ御祈誓被爲籠關東より如何樣被申立候とも一切御許容難被遊萬一非常之節ハ縱令萬里之波濤を越へ孤嶋に終り候共御憾不被爲在候得共泉涌寺を御離れ被遊事ハ難被爲忍と竊ニ宸襟を御濕し被遊候御事傳承仕四海之人民誰か感激悲泣せざらんや當此時神州之命脈累卵よりも危き事なりしが百官群臣忠憤切迫之餘八十八人之堂上方禁中へ馳集り萬死之力を以諫奏を奉り其外有志之大小名勤王之微忠を獻ぜし故三公御始メ彌增し感憤被遊三港之外近畿及び數ケ所之開港并夷狄永住邪敎寺取建等之儀ハ一圓御許容難被遊趣以勅命御下知被爲在尚又内地人心之居り合如何ニ付大小名之赤心も被知食度尤衆議奏聞之上叡慮難被决候ハヾ伊勢大神宮神慮可奉伺との御儀三月廿八日議奏衆より堀田備中守へ御返答書被指下俄ニ下向被仰出候趣之處夷狄ニ内條約之儀既ニ被指許候事故諸大名之赤心有體ニ達叡聞候樣にハ不相成依て表向天下へ意見建白之達ハ有之候得共蔭より某々等を以て專ら西洋之事態を強大ニ主張し交易御指許ハ一時之權宜無御據萬一關東之御旨意ニ違候てハ家々之爲にも不相成と吉凶禍福を以て遊説いたし尚又御三家方へハ御建議之文意認直し候樣御内諭も有之由ニ候得共水戸前中納言殿にハ關東輔弼之名將ニ有之尊王攘夷之御論始終一致之御方故御廟算伺書といふ書一冊當今之急務より將來之害まで丁寧誠實ニ建白被致尾張中納言殿にも御内諭に不泥京師之御旨意ニ本づき御處置無之候てハ不相濟と被申立候よし實ニ難有事と謂つべし其後彌勅許之有無ニ不拘關東之御决斷を以假條約御指許しに相成候趣ニ付御三家にてハ尾張殿水戸殿御三卿にハ田安殿一橋殿御家門にハ越前殿忠誠無二之御方御一同登城に相成將軍家御對顔被願候處御所勞ニて御逢無之依て元老井伊掃部頭初メ御呼出し天子之勅命御遵奉無之假條約御指許しニ相成候てハ將軍家御違勅之罪御遁被遊間敷東照宮以來御代々樣へ御對被遊候ても如何可有之哉各方之了簡承り度旨御一同御演述ニ相成候處御目前にてハ掃部頭始奉畏服候由ニ候得共執頭之威權を以不日に條約指許し恐多くも將軍家を御不忠御不孝ニ奉陷德川氏之御稱號を千百歳之後迄奉穢候のみならず將軍家御大病人事をも御辨無之砌に乘じ無實之罪を羅織し御親戚之御方々を奉禁錮其他正議之大名松平土佐守始兩三人御威光を以て無體ニ隱居爲致候所業惡むにも餘りありと可申且又御幼君之御時節を幸とし御三家方之權勢を摧かん爲御連枝又ハ家老にて本家主家をも押領掌握せんと奸曲之巧みある松平讃岐守水野土佐守竹腰兵部少輔等徒黨ニ引入れ種々奸計を運し且我意ニ隨ひ不申正義之士を貶斥し東照宮以來之美意良法追日破壞に及候事長大息之至りニ候其後八日ニ至り叡憤之餘三家大老之内上京致候樣重き勅書御下ゲに罷成候處御請にも指支尾水兩家之義ハ不束之儀有之愼申付掃部頭儀ハ御用多にて上京難相成且先役堀田備中守等取扱候儀今更致方も無之依て嚴重申付候旨議奏衆迄申立己が逆罪を遁れ可申と相工み間部下總守上京爲致專ら恩威を以押付候所存にて賄賂を用ひ九條殿下を徒黨ニ引入れ内藤豊後守へ命じ御所向取締彌嚴重に致し恐多くも天子御讓位をも被遊候樣奉要候得共三公御初め御賢明之御方にましまし奉輔佐叡慮候ニ付朝威確乎として御撓み不被遊依之無實之御罪申觸し鷹司殿近衛殿三條殿等御落飾御愼被遊候樣取計其他諸大夫始メ何一ツ罪科無之者を召捕關東へ指下しそれそれ非道之處置致し專ら虎狼の猛威を以て天下を屏息せしめ畿内之開港并邪敎寺取建等本條約指許し且ハ靑蓮院宮樣之御英邁を奉忌御失德有之樣申觸し御寺務取放し奉幽閉候所業乍恐玉體にも可奉迫之機顯然にて北條足利之暴横ニ均しく共に天を戴かざる國賊といふべし嗚呼此儘ニ打過なバ赫々たる神州一兩年を不出内地之奸民邪敎に靡き彼か勢焰を助け皇國之奸賊平身低頭して彼が正朔を奉ずる事掌の上に覗るが如し苟も人心有之者實ニ痛哭長大息ニ不堪事ならずや雖然東照宮之御德澤未だ地に不墜御三家御一門にハ尾張殿水戸殿一橋殿越前殿阿波家因州家之如き德川家輔佐之良將も有之外諸侯にも薩州仙臺福岡佐賀長州土佐宇和島柳川等天下之爲忠憤之念日夜怠らざる有名之諸侯も不少候へバ内ハ則ち御家門方將軍家を奉輔佐專ら内政を修め外ハ則有名之諸侯一意忠力を盡し武備を整へなバ神州之耻辱を一洗して叡慮を奉安候事天地神明に誓て疑あるへからず依之當今事態之概略を記して天下之公論折衷を待ち左袒して天下を興起せんと欲する所なり周の衰る婦人すら不恤緯して周家之亡るを憂ひしにまして三千年餘之天恩を戴き二百年來東照宮之恩澤ニ沐浴する者誰か報効の念なからんや草莽之小臣痛憤切齒之餘寝食を不安日夜遺憾を呑て時勢を憂ひしが彼の罪惡追日増長豈唯德川家之罪人のみならんや實神州の逆賊也天地神人同憤之時ニ乘じ天下諸藩之同志と合力同心して天下之奸賊を誅伐し神罰を蒙らしむる者也

 

 

 

 

 

 

 

 



(注) 1. 本文は、『水戸藩史料 上編 坤』(吉川弘文館、昭和45年12月25日
     発行)によりました。(「上編巻三十 萬延元年庚申の部三」のうちの
     「櫻田門外の要撃」)
    2. 変体仮名は、「而」「尓」「奈」「須」「王」「徒」「阿」「満」などの
     崩し字が使われていますが、普通の平仮名に直して表記しました。
    3. 平仮名二字の繰り返し符号(「く」を縦に伸ばした形のもの・くの字点)
     も、普通の仮名に直して表記しました。
    4. 本文の、他の文献との比較対照による誤植・脱字等の確認は、行っ
     ておりません。[2]として、岩崎英重著『櫻田義擧録』所収の「斬奸趣
     意書」を載せてあります。
    5. 『水戸藩史料 上編 坤』の、「斬奸趣意書」を引用してある箇所を、
     少し引いておきます。
          …………
      是の時稻田正辰は奮闘して其の場に死し
時に年四十七有村兼清廣岡
      政則は直弼の首級を提げ去りしが身數創を負ひ廣岡は辰ノ口に於

      て自殺し時に年
十九有村同所遠藤但馬守の辻番所に於て自殺し時に
        年二十一
山口正鯉淵鈴陳は孰れも重傷を被り八代洲河岸に於て自殺
      せり
正年二十九鈴陳年五十一 森直長大關増美森山政德杉山當人は細川
              越中守の邸に自首し齋藤一德佐野光明黑澤勝算蓮田正實は閣老
      脇坂安宅の官邸に自首し斬奸主意書を呈出して素志を表明せり其
      の書に曰く
        謹て龍野侯執事ニ奉上言候……
          ……
           伏呈
             龍 野 侯 執 事
      其の副書二通あり是れ各懷中せし所のものなり其の文に曰く
        墨夷浦賀へ入港以來征夷府之御處置假令時勢之變革も有之……  
           …… 
         ……伏して天地神明之照覧を奉仰候也
          別紙存意書
        皇國千萬世天日嗣連綿照臨し給ひて……
           ……
         ……天下之奸賊を誅伐し神罰を蒙らしむる者也

       佐野光明は重傷を以て同日脇坂邸に死す
時に年二十二齋藤一德黑
       澤勝算蓮田正實は更に細川越中守へ預けらる  
                     (『水戸藩史料 上編 坤』 p.814~823)
    6.
「桜田門外の変図」(蓮田市五郎画)・部分 が、茨城県立図書館
     ホームページの「所蔵品紹介」のページに紹介されています。
       大洗にある
「幕末と明治の博物館」に、襲撃に参加していた蓮田市
     五郎の描いた
「桜田門外襲撃図」が展示されています。 
    7. 『燈影舎』のホームページに、
「鼎談 井伊直弼を語る[1][2]」があ
     ります。直弼のご子孫の方が大老井伊直弼について語っておられます。
      
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)

       
                ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 
 

[ 2 ]  桜田門外の変「斬奸趣意書」(『桜田義挙録』による)



 
  櫻田門外の変  斬奸趣意書


       
自 訴 状
謹で脇坂侯執事に奉言上候(此の冒頭はこの時に書き入れしなるべし)執事御儀、御賢明に被爲在、天下之御政道無邪、御取計被遊候儀と奉存候間、草莽之我々共、申上候は恐入候得共、存詰候儀無伏臓、別紙に相認奉入尊覧候、追々御大老井伊掃部頭殿所業を洞察仕候所、權威を恣にいたし、我意に不叶ば、忠誠厚き人々をも、御親藩を始、公卿衆大名御旗本に不限、讒誣いたし、退隱幽閉被仰付候樣取計、就中、外虜之儀に付ては、虚喝之猛勢に恐怖いたし、神州之大害を釀し、不容易事共差許し、御國體を穢し、乍恐奉惱叡慮、敕意にも奉違背候而已ならず、御讓位之儀を企候奸曲、天下の大罪人と可申、奉存候、右罪状之儀は、委曲別紙に認候故、御懇覧御賢察之程奉願候、扨右等之奸賊御座候ては、此上將軍家之御政道を亂し、夷狄の爲に被制、禍害を成し候儀、眼前に有之、實に天下の御安危に拘り候儀と奉存候故、此度天誅に替候心得にて、誅戮仕候事に御座候、毛頭公邊へ御敵對申上候儀には無之、全く我々共忠憤之餘り、天下之御爲を存詰、候ての事に御座候、嚴刑之御所置被遊候とも、御恨不申上候、依ては、元主家譴責を蒙候樣之儀、無之樣奉願候、將又此上は、天下の御政事正道に御復し、忠邪御辨別被遊、殊更夷狄之御扱に至候ては、祖宗之御明訓御斟酌被爲在、華夷内外之辨、得と、御勘考被遊、御國威を損じ不申樣、御判談之程、奉渇望候、此段罪不顧萬死奉言上候。恐惶頓首
(別紙)皇國千萬世天日嗣連綿照臨し給ひて、伊勢の神宮も上古に替らせ給はず、神道を尊び、勇武を尚び給ふ事、自然の遺風餘烈なれば、古より遠略を展べ給へ且夷狄の禍之あり候得者、精々退攘し給ひし事、靑史に著る、今更奉稱揚し奉るに及ばず、武將の世になりては、弘安の蒙古を鏖にし、文禄の朝鮮を征する事共、神州の武威を海外に輝し候儀人口に膾炙する所なれば、是亦贅言を待たず、東照宮に至り給ひては尊王攘夷の御志深くあらせられ候は申上るに及ばず、勃興の御盛時なれば、其初諸蠻夷來航通商等をも許し置れ給ひしかども、諸蠻夷も畏服し覬覦の念を達する事あたはず、然る所東照宮終に其深念ある事を洞見し給ひて、洋敎の禁を嚴にし給ふ、大猷公に至り益邪敎を驅斥斬戮して、三眼の明を四海に輝し給ふ事、誠に千古の英見卓識にて、後嗣の遵奉し給べき所なり、扨近時に至り候ては、夷狄に狡計黠略の者多く出て、萬國へ通信貿易し、遂に小を併せ弱を制し、次第に境域廣大に相成り候勢に乘じ、屢神州をも覬覦するに至る、去ながら打拂の令之ある時は格別の事は仕出す事も成得ずして打過、天保十三年打拂の令を停め仁恤せられしより、頻に來航し、跋扈の態を顯すに至る、就中、嘉永癸丑、墨夷浦賀へ入港、威暴を示し、難題を申掛候以來、征夷府之御處置方、古今時勢之變革も之あり、一概に御國威を御振張遊ばされ難き儀は、治世の風習、左も之あるべき事に候得共、申までも之なく、夷狄貪婪、元より饜足事なく、殊に狡謀譎計を挾み、覬覦の念を逞く致し候故、詰り耶蘇の術中に陷り、神州の泰否にも拘り候、重大の事に候處、華夷の辨、和戰の議、始終着眼の大基本、御廟議御一定の上、諸御制度御變革無之ては、時勢に於て相叶はざる筈に候得とも、近來諸蠻御扱振推察仕候ては、憚ながら一定之御廟算如何之あるべくや、去る卯年までは、追々内備嚴整の御達も之あり、邊海の御守衛仰付られ候大名に至候ては多年防禦の爲に國力を費し、忠勤を勵まし候所測らずも、去る辰年、和親交易御取結之上、恐多くも征夷將軍之御居城へ夷賊共登城仰付られ、剩へ御饗應尊敬を盡され候有樣春秋城下の盟を取るの比較に非ず神州未曾有の御失體にて實に冠履倒置の御處置と申すべく、驚嘆の至りに候、縱令へ御國政之儀は、關東へ御任せに相成居迚、斯る重大の事件、第一勅許もあらせられず候儀を、全く懸りの有司數輩の了簡を以て、五ヶ國本條約差許し將軍家御印章の御書翰迄も差遣され候始末、何程偸安の末俗、戰爭に及び候儀を恐怖致候迚天下後世へ對し、大義名分と申も之あり征夷の御任如何可有之や辱くも武門の列に連り、二百年の恩澤に浴し居候ては、悲泣の至堪へず、況や德川家譜代恩顧の士、東照宮の神靈へ對し奉り、沈默傍觀致し居候儀、廉耻之なくと申べく、决して相濟ざる事なり、扨陳るまでも之なく、天下の聞見する所に候へ共、前件夷狄交易の儀、如何樣にも勅許申度所存にて、去る巳年春、堀田備中守上京致し、賄賂金錢を以て、關白殿下を誑惑致、勿體なくも 龍顔をも暗し奉るべくと、陰謀秘計一方ならず候處、今上皇帝聰明絶倫千載不世出の 聖主に渡らせられ、皇國開闢以來、尊嚴の國體、淳厚の風俗、今上の御代に及び、夷狄の爲めに消却汚穢致され候ては、第一伊勢の神宮御初、御代々の御神靈に對せられ、帝王の御任濟させられず、尤も戰を好ませられ候には之なく國體を失はず、萬民安堵に遊され度との 叡慮より、賢くも一七日の内、供御御絶遊ばされ、石清水等へ、御祈誓籠させられ、關東より如何樣申立られ候共、一切御許容遊され難く、萬一非常の節は、假令萬里の波濤を越、孤島の中に終はり候共、御憾在せられず候得共泉涌寺を御離れ遊ばされ候事忍ばせ難くと、窃に 宸襟を御濕し遊され候御事に仄かに拜承仕候、吁嗟、海内の人民、誰か感激悲泣せざらんや、此時に當りて神州の命脈實に累卵より危き事なりしが、百官群臣、忠憤切迫の餘り、八十八人の堂上方禁中に馳集り、萬死の力を以て、諫奏を奉り其他有志の大小名勤王の至忠を献ぜし故、三公御初、彌增感憤遊され、安政乙卯三港、其外近畿及數ヶ所の開港、並夷狄永住、邪敎寺取建等の儀は、一圓御許容遊され難き趣は、敕命を以て御下知在せられ、猶又内地人心の居合如何に付、大小名の赤心も知し召させられ度、尤衆議奏聞の上、叡慮决せられ難く候はゞ、伊勢大神宮神へ御神慮伺ひ奉るべしとの御儀にて、三月二十八日、議奏傳奏衆より、堀田備中守へ御返答差下され、俄に下向仰出され候趣の處、夷狄へ内條約の儀は、既に指許され候事故、諸大名の赤心有體に 叡聞に達候樣には相成らず、之に依て、表向天下へ意見建白の達は有之候へ共、蔭より某等を以て、專ら西洋の事態を強大に主張し、交易御指許は一時の權宜御據處なく、萬一關東の御趣意に違ひ候ては、家の爲に相成ずと吉凶禍福を以て、遊説致し、猶又御三家方へは、御建議の文意認直し候樣、御内諭有之由に候得共、水戸前中納言殿には、關東輔弼の名將に之あり、尊王攘夷の御論、始終一致の御方故、御廟算伺書と云一冊、當今の急務より將來の大害まで、丁寧誠實に建白致され、尾張中納言殿にも、御内諭に泥まず、京師の御趣意に基き、御處置之なく候ては、相濟まずと、申立てられ候由、實に有難き事と謂つべし、其後、彌、敕許の有無にかゝはらず關東の御决斷を以て、假條約御許に相成候趣に付、御三家にては、尾張殿水戸殿、御三卿にては田安殿、一橋殿、御家門にては、越前殿、忠誠無二の御方、一同登城に相成、將軍家御對顔願はれ候處、御所勞にて、御逢無之、依て、元老井伊掃部頭初、御呼出、勅命御遵奉無之、假條約御差許に相成候ては、將軍家御違勅の罪、御遁れ遊され間敷候、東照宮以來、御代々樣へ御對し被遊候ても、如何之あるべきや、各方の了簡承り度旨、御一同御演述に相成候處、御目前にては、掃部頭初、畏服いたし候由に候へども、執頭の威權を以て、不日に條約さし許し、恐多くも將軍家を御不忠御不孝に陷いれ候り、德川御家御稱號を、千百歳の後までも、穢し奉り候のみならず、將軍家御大病人事をも辨へ之れなき御砌に乘じ、無實の罪を羅織し、御親戚の御方々を禁錮し奉り、其他正議の侯伯松平土佐守始、三人御威光を以て、無體に隱居致させ候所業、惡むにも餘りありと申べく、且又御幼君の御時節を幸として、御三家方の權威を摧かん爲、御連枝又ハ家老にて、本家主家をも押領せんとの、奸曲の巧なる、松平讃岐守、水野土佐守、竹腰兵部少輔等、徒黨に引入れ、種々の奸計を運し、且つ我意に隨ひ申さゞる正議の士を貶斥致し、東照宮以來の美意良法、追日破壞に及び候事、長太息の至りに候、其後八月に至り、 叡憤の餘り、三家大老の中、上京致し候樣、重き勅書御下げに罷成候處、御請にも差支、尾水兩家の儀は、不束の儀これあり、愼申付、掃部頭儀は、御用多にて、上京相成がたし、且つ先輩堀田備中守等、取扱の義、今更致方も無之依て嚴重申付候旨、議奏衆まで申立、己が逆罪を逃れ申べくと相巧み、間部下總守を上京致させ專ら恩威を以て押付候所存にて賄賂を用ひ九條殿下を徒黨に引入れ、内藤豊後守へ命じ、御所向取締彌嚴敷致し恐れ多くも御讓位をも遊され候樣要し奉り候へ共三公方御賢明にましまし聖主を輔佐し奉候に付、朝威確乎として御撓み遊されず、之に依て無實の御罪を申觸し、鷹司殿近衛殿三條殿等御落飾御愼み遊され候樣取計ひ、其他諸大夫初何一つ罪科これなき者を召捕、關東へ差下し、夫々非道の所置いたし、專ら虎狼の猛威を以て、天下を屏息せしめ、畿内の開港、並に邪敎寺御取建等、本條約指許し、且つは靑蓮院宮樣、御英邁を忌奉り、御失德これある樣申觸し、御寺務取放し、幽閉し奉り候所業、恐ながら 玉體にも迫り奉るべきの機顯然にて、北條足利の暴横に均しく、倶に天を戴かざるの國賊と謂ふべし、嗚呼、此儘に打過なば、赫々たる神州一兩年を出でず、内地の奸民、邪敎に靡き、彼が勢焰を助け、皇國の奸賊、平身低頭して、彼が正朔を奉ぜむ事、掌の上に覗るが如し、苟も人心之れある者は、實に痛哭長大息に堪ざる事ならずや、然と雖も、東照宮の德澤未だ地に墜ず、御三家御一門には、尾張殿、水戸殿、一橋殿、越前殿、阿波殿、因幡家の如き、德川家輔佐の良將もこれあり、外諸侯にも、薩州、仙臺、福岡、佐賀、長州、土佐、宇和島、柳川等、天下の爲め、忠憤の念、日夜怠らざる有志の諸侯少なからず候へば、内は則ち御家門方、將軍家を輔佐し奉り、專ら内政を修め、外は則有名の諸侯、一意忠を盡し、武備を整へなば、神州の耻辱を一洗して、叡慮を安じ奉り候こと、天地に誓て疑あることなし、依て當今の事態、概略を記して、天下の公論折衷を待て、左袒して天下を興起せんと欲する所なり。周の衰ふる婦人すら不恤緯して、周室の亡ぶるを憂へしに、まして二千年餘の天恩を戴き、三百年來、東照宮の恩澤に沐浴する者、誰か報效の念なからんや、草莽の小臣痛憤切齒の餘り、寝食を安ぜず、日夜遺恨を呑で、時勢を憂へしが、彼の罪惡日を追て増長せば豈啻德川御家の罪人のみならず、實に神州の逆賊なり、然則天地神人同憤の時に乘じ天下諸藩の同志と合力同心して、天下の奸賊を誅伐し神罰を蒙らするもの也。

 

  なほ一同も各其懷中せる『素懷痛憤書』と題せる斬奸状を呈した。

 

 

墨夷浦賀に入港以來、征夷府の御處置、假令時勢の變革も有之、隨て御制度之變革も、なくて叶はぬ事情有之とは乍申、有司專ら右を口實として、一時偸安、畏戰の情より、彼が虚喝の勢焰に恐怖し、貿易和親、登城拜禮をも差免し、條約を取替し、踏繪を廢し、邪敎寺を建、ミニストルを永住爲致候事、實に神州古來の武威を穢し、國體を辱しめ、祖宗の明訓孫謀に戻り候而已ならず、第一勅許も無之儀を、差免候段、天朝をも奉蔑如候儀に有之、實に不相濟事に候追々、大老井伊掃部頭殿所業致洞察候處、將軍御幼少の御砌に乘じ、自己の權威を振はんが爲、公論正議を忌憚り候て、天朝公邊の御爲筋を、深く存入候御方々御親藩を始め、公卿衆大名御旗本に不限、讒誣致し、或は退隱、或は禁錮等、被仰付候樣取計候儀を夷狄跋扈不容易砌と申、内憂外患逐日差迫る時勢に付、恐多くも被惱宸襟、御國内治平、公武御合體、彌、長久の基を被爲建、外夷の侮を不受樣、被遊度の叡慮に被爲在、公邊の御爲、勅書御下し被遊候歟に奉伺候處、違背仕、尚又諸大夫始、有司の人々を召捕、無實を羅織し、嚴重に所置被致、甚敷に至り候ては、三公御落飾御愼、粟田口親王をも奉幽閉候のみならず、勿體なくも、天子御讓位の事迄奉釀件々、奸曲無所不至候矣、豈天下の巨賊にあらずや、右罪状の儀は、委細別紙に認候通、斯る暴横の奸賊、其儘差置候ては、益公邊の御政體を亂り、夷狄の大害を來し候儀、眼前にて、天下の安危存亡に拘り候事共、痛憤難默止、京師へも及奏聞、今般天誅を加へ候心得にて令斬戮候、勿論公邊に御敵對申上候儀は、毛頭無之、何卒此上は聖明の勅意に御基き、公邊の御政事正道に御復し、尊王攘夷正誼明道、天下萬民をして、富岳の安に處せしめ、玉はん事を希ふのみ、聊殉國報恩の微忠を表し、伏て天地神人の照覧を奉仰也(此の書は、右の別紙と共に十八士、いづれも懷中せるにて、大關等が細川家に出せるも亦同一なりと知るべし)  

    

(注)1. 本文は、岩崎英重著『櫻田義擧録 全壹册』(吉川弘文館、明治44年7月
   13日発行・明治45年1月20日訂正5版発行・明治45年3月1日訂正7版発行・
   大正元年9月1日第10版発行)によりました。(同書、下篇222~232頁)
     なお、『櫻田義擧録』は、扉に『維新前史 櫻田義擧録』とありますが、奥付
   には単に『櫻田義擧録』となっています。
  2. 自訴状(斬奸趣意書)は、同書の「下篇 第六 烈士の最期及び其処分
   五 四士脇坂家へ自訴す」に収められています。
  3. 上記の『櫻田義擧録 全壹册』は、総ルビになっていますが、ここでは
   ルビをすべて省略しました。
     また、一部に施されている返り点も、省略しました。
  4. いわゆる繰り返し符号(踊り字)は、普通の仮名に直してあります。
 (「追々」の「々」は平仮名の「こ」を続け書きしたような形のもの(二の字点)、
   「御賢明にましま し」の後の「まし」は、平仮名の「く」を縦に長く伸ばした形
   の繰り返し符号(くの字点))
  5. 本文の「(別紙)」中に、5か所だけ闕字があります。
        勿體なくも 龍眼をも   不世出の 聖主    遊ばされ度との
        叡慮窃に 宸襟を 有體に 叡聞に達候  
  6. 本文の「(別紙)」としてある部分の中ほどにある「恐多くも將軍家を御
   不忠御不孝に 陷いれ候り、德川御家御稱號を、千百歳の後までも、穢し
   奉り候のみならず」の「陷いれ候り」は、原文「陷
(おとし)いれ候(たてまつ)り」
   とルビが振ってあります。
  7. 「自訴状」の中に「敕意」、(別紙)の中に「敕許」「敕命」と、「敕」の字体
   の漢字が用いられています。(別紙)の中には、「勅許」「勅命」「勅書」と、
   普通の「勅」も出ています。ここでは、これらは『櫻田義擧録 全壹册』の
   通りにしてあります       
  8. ここに採録した部分の前後の文を示しておきます。
               (前略)  
      かくて齋藤は、一同を代表して、自訴状及び別紙を捧げた。其れは
            自  訴  状
       謹で脇坂侯執事に奉言上候……
                  ……不顧萬死奉言上候。恐惶頓首
       (別紙)皇國千萬世天日嗣連綿照臨し給ひて、……
                  ……天下の奸賊を誅伐し神罰を蒙らするもの也
       なほ一同も各其懷中せる『素懷痛憤書』と題せる斬奸状を呈した。
        墨夷浦賀に入港以來、征夷府の御處置、……
         ……伏て天地神人の照覧を奉仰也(
此の書は、右の別紙と共に
         十八士、いづれも懷中せるにて、大關等が細川家に出せるも亦同一なりと知るべし

       とある、此際佐野も右の斬奸状を懷中して居ると云ふので、かの秋山が
     介抱してそれを取出したが、何分夥しい出血で、秋山の裃衣服共、血塗
     れになつたとの事である。
         其中奥から粥が出て、一同に饗應せらる、何れもは心地好く、其粥を
      食したが、たゞ佐野のみは、最早食事も成り兼ねた容子であつた。
  
                     (以下、略)        (同書、下篇 222~232頁) 
 

               ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※




[ 3 ]   坂下門外の変「斬奸趣意書」 (『水戸藩史料』による)



       坂下門外の変    
斬奸趣意書

申年三月赤心報國之輩御大老井伊掃部頭殿ヲ斬殺ニ及候事毛頭奉對幕府候て異心ヲ挾候儀ニハ無之掃部頭殿執政以來自己之權威を振ひ奉蔑如天朝只管夷狄ヲ致恐怖候心情より慷慨忠直之義士を惡み一己之威力ヲ示さんが爲に專ラ奸謀を相廻らし候體實ニ神州之罪人ニ御坐候故右之奸臣を倒候ハヾ自然幕府におゐて御悔心も被爲出來向後ハ天朝を尊ひ夷狄を惡ミ國家之安危人心之向背に御心を被爲付候事も可有之と存込身命を投候て及斬殺候處其後一向御悔心之御模樣も相見不申彌御暴政之筋而已ニ成行候事幕府之御役人一同之罪ニハ候得共畢竟御老中安藤對馬守殿第一之罪魁と可申候對馬守殿井伊家執政之時より同腹ニて暴政之手傳を致され掃部頭殿死去之後も絶て悔悟之こゝろ無之而已ならず其奸謀讒計ハ掃部頭殿よりも趨過し候樣之事件多く有之兼て酒井若狹守殿と申合堂上方ニ正議之御方有之候得ハ種々無實之罪ヲ羅織して天朝をも同腹之小人而已ニ致さん事を相謀り萬一盡忠報國之もの烈敷手ニ餘り候族有之節ハ夷狄之力をかり取押へるとの心底顯然ニテ誠ニ神州之賊とも可申此儘に打過候テハ奉惱叡慮候事ハ申ニ不及於幕府も御失體之御事而已ニ成行千古迄も汚名を被爲受候樣ニ相成候事鏡ニかけて見る如く不容易御儀と奉存候此上當時之御模様之如く因循姑息之御政事而已にて一年送りニ被爲過候ハヾ近年之内ニ天下ハ夷狄亂臣之ものと相成候事必然之勢ニ御坐候故旁以片時も寢食を難安右ハ全く對馬守殿奸計邪謀を專らに被致候所より指起り候儀ニ付臣子之至情難默止此度微臣共申合對馬守殿を斬殺申候對馬守殿罪状ハ一々枚擧に不堪候へ共今其端を擧て申候此度皇妹御縁組之儀も表向ハ天朝より被下置候樣ニ取繕公武御合體之姿を示し候得共實ハ奸謀威力を以て奉強奪候も同樣之筋ニ御坐候故此後必定皇妹を樞機として外夷交易御免之勅諚を推て申下し候手段ニ可有之其儀若し不相叶節ハ竊ニ天子之御讓位を奉釀候心底ニて既ニ和學者共へ申付廢帝之古例を爲調候始末實ニ將軍家を不義ニ引入萬世之後迄惡逆之御名を流し候樣取計候所行ニて北條足利にも相越候逆謀ハ我々共切齒痛憤之至可申樣も無之候扠又外夷取扱之儀ハ對馬守殿彌増慇懃丁寧を加へ何事も彼等か申處ニ隨ひ日本周海測量之儀夫々指許し皇國之形勢悉く彼等ニ相敎へ近頃品川御殿山を不殘彼等ニかし遣し江戸第一之要地を外夷共ニ渡し候類ハ彼等を導き我國をとらしめんも同然之儀ニ有之其上外夷應接之儀ハ段々指向ニて密談數刻ニ及ひ骨肉同樣に親睦致候て國中忠義憂憤之者を以て却て仇敵之如くニ忌嫌ひ候段國賊と申も餘りある事に御坐候故對馬守殿長く執政被致候ハヽ終ニハ天朝を癈し幕府をたおし自分封爵を外夷ニ請候樣相成候儀明白之事ニて言語同斷不屆之所行と可申候既ニ先達てシイホルトと申醜夷ニ對し日本之政務に携り呉候樣相頼候風評も有之候間對馬守殿存命ニてハ數年を不出して我國神聖之道を廢し耶蘇敎を奉して君臣父子之大倫を忘れ利慾を尊ひ候筋而已ニ落入外夷同樣禽獸之群と相成候事疑なし微臣共痛哭流涕大息之餘り無餘儀奸邪之小人を令殺戮上ハ奉安天朝幕府下ハ國中之萬民共夷狄に成果候所之禍を防き候儀に御坐候毛頭奉對公邊異心を存候儀ハ無之候間伏て願くハ此後之所井伊安藤二奸之遺轍を御改革被遊外夷を掃攘し叡慮を慰め給ひ萬民之困窮を御救ひ被遊候て東照宮以來之御主意ニ基き眞實ニ征夷大將軍之御職を御勤被遊候樣仕度若も只今之儘ニて弊政御改革無之候ハヽ天下之大小名各幕府を見放し候て自己之國のみ相固め候樣成行候ハ必定之事ニ有之外夷之御扱さへ御手に餘り候折柄如何御處置被遊候哉當時日本國中之人心市童走卒迄も夷狄を惡み不申もの壹人も無之候間萬一夷狄誅戮を名として旗を擧候大名有之候ハヽ大半其方へ心なびき候事疑無之實ニ危急之御時節と奉存候且皇國之風俗ハ君臣上下之大義を辨ひ忠烈節義を守り候風習ニ御坐候故幕府之御處置段々天朝之叡慮ニ相背き候處見受候ハヽ忠臣義士之輩一人も幕府之御爲に身命を投候もの有之間敷幕府ハ孤立之勢ニ御成果可被遊候夫故此御改心之有無ハ幕府之興廢ニ相拘り候事ニ御坐候何卒此度勘考被遊傲慢無禮之外夷共を疎外し神州之御國體も幕府之御威光も相立大小之士民迄も一心合體仕候て尊王攘夷之大典を正し君臣上下之義を明にし天下と死生を倶に致候樣御處置希度是則臣等身命を投ち奸邪を殺戮して幕府要路之諸有司ニ懇願愁訴仕候所之微忠に御坐候恐惶謹言
                 

 

(注) 1. 本文は、『水戸藩史料 下編 全』(吉川弘文館、昭和45年12月25日発行)に
       よりました。(「下編巻四 文久二年壬戌の部一」の「坂下門外の變」)
     2. 変体仮名は、「而」「可」「尓」「古」「奈」「須」「阿」などの崩し字が使われてい
      ますが、普通の平仮名に直して表記しました。 
     3. 坂下門外の変=井伊直弼の後をうけた老中安藤信正の公武合体の政策に
               反対して、水戸浪士ら6人が、文久2年(1862)1月15日、坂下門外で
          信正を襲撃した事変。信正は負傷、老中を辞職。
 (『広辞苑』第6版による)
       坂下門外の変=1862年1月15日、水戸浪士を中心とする尊攘派が江戸城坂
          下門外に、老中安藤信正を襲い負傷させた事件。信正が公武合体論を唱
          え、和宮降嫁を実現させたことに憤激したもの。
(三省堂『大辞林』による)
    4. 安藤信正(あんどう・のぶまさ)=幕末の老中。陸奥磐城平藩主。対馬守。井伊
           直弼死後、政務を主導し幕政の中心となる。公武合体を図り、その外交が
           攘夷論者に憎まれ、文久2年(1862)1月に坂下門外で襲撃されて負傷。
          (1819~1871)
 (『広辞苑』第6版による)
       安藤信正(あんどう・のぶまさ)=[(一八一九~一八七一)]幕末の老中。磐城(い
          わき)国平(たいら)藩主。公武合体を図り、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を
          実現。文久二年(一八六二)江戸城坂下門外で尊王攘夷(そんのうじようい)
          派の水戸浪士に襲われて負傷し、老中を辞職。
(小学館『大辞泉』による)
     5. 『水戸藩史料 下編 全』に掲載されている「坂下門外の変の斬奸趣意書」前後
      の文を、一部を省略して引いておきます。
       文久二年壬戌正月元日春日神社の神鏡故なくして破裂す是の日江戸大雪終日
       歇まず會々飛語あり曰く水戸藩士襲撃の擧あらんとすと是に於て幕府頓に戒嚴
       して諸郭門を閉鎖し人心洶々たりしと云ふ
此日の飛語は出所さへ詳ならず諸説紛々たりし
         が住谷七之允毅(信順の子)は此の時單身出府して閣老安藤信睦を要撃せんと謀りたりといへば或
         は早くも此等を傳説せしもの歟但這擧は平山繁義と關係あるに非ず全く單獨の發意に出でたるなり
        
既にして平山繁義等は同志に牒合し正月二十八日を期して事を擧げんとす時に
       宇都宮の人岡田裕
眞吾松本正凝錤太郎は密に書を一橋刑部卿慶喜に呈し歎訴す
       る所あらんと欲し大橋正順に就いて之を謀れり
此の時二人は宇都宮より潜に出府せしなり
        
生順乃ち其の文に加筆し一橋家の近臣山木繁三郎に因りて之を呈覧せんとす山
       木諾して去りしが意頓に變じ之を幕府に自訴し事遂に暴露するに至れり
       同十二日大橋正順松本正凝等俄に幕府の捕ふる所と爲る爾來幕府の捜索追捕
       甚だ急なり (中略)
       同十五日水戸亡命の士平山兵介繁義小田彦三郎朝義黑澤五郎保高高畑房次
       郎胤正越後の人川本唯一正安下野の人河野顯三通桓等閣老安藤對馬守信睦
       を途上に要撃す是の日上元の嘉例を以て諸侯總登城あり安藤信睦ハ朝五ツ時
      
今の午前八時頃を以て西丸下の官邸を出で桔梗門外より將に坂下門に向はんとす
       る折しも平山繁義等六人は一發の銃聲を合圖に路傍より突起し亂斫奮撃信睦の
       輿に迫り繁義進んで信睦を刺しゝが從者格闘善く防ぎ亂刀叢刺爲めに遮斷せら
       れ志を得ずして遂に鬪死す
時に年二十二小田朝義黑澤保高高畑胤正川本唯一河
       野通桓各勇を奮ひ轉鬪して死す
小田朝義時に年三十、黑澤保高年三十五、高畑胤正年三
         十五、川本唯一年二十三、河野通桓年二十五、
信睦傷を負ひ僅に免るゝことを得たり
          
菊池宗親の談話に坂下門外要撃の其の場より逃走せし横田藤四郎に就いて現状を聞くに安
             藤の守衛嚴にして駕の兩側は常の供連にて又外側に野服の供あり何れにも駕に近づくこと難
             し故に平山は自訴の振りにて紙をたゝみ其の中に短刀を入れたるを持ち駕籠に近づき後
ウシロ
               
をつき少々疵負せたりとなり (疵は、原文は「疒+氐」)  (中略)
       平山繁義等六人の鬪死するや其の屍を檢するに各懷中書あり題して斬奸趣意書
       といふ其の文に曰く
        申年三月赤心報國之輩御大老井伊掃頭部殿ヲ斬殺ニ及候事毛頭奉對幕府候
        て異心ヲ挾候儀ニハ無之……
         ……幕府要路之諸有司ニ懇願愁訴仕候所之微忠に御坐候恐惶謹言

       幕府之を讀んで隱事の暴露するを忌み秘して發せざりしが其の一篇長藩より出
       で忽ち世に傳播し彼の罪状并に斬奸の主意なるものは竟に天下に顯れたり而
       して之を長藩に遣したるは河邊佐次衛門元善の所爲なりき
       初め河邊元善は平山繁義等と與に安藤信睦を要撃せんと誓ひ早朝坂下門外に
       抵り身を潜めて安藤の登城を待ちしが時尚早きを以て一旦退いて近街を徘徊せ
       しが幾ばくもなく坂下門外に事あるを聞き驚き走りて之に趣きしが到れば則ち事
       既に畢れり因りて謂ふ今此に死するも亦何の益かあらんせめては主意書を世に
       傳へ以て宿志を明にせんと乃ち長州邸に抵り桂孝允に就いて事の顚末を告げ且
       つ遺書を託し自刃して死せり
時に年三十一       (以下略)
                          (『水戸藩史料 下編 全』 p.148~158)
     6.  『明治維新水戸風雲録』(『水戸幕末風雲録』ともいう。常陽明治記念会 昭和16
       年9月20日発行、発行所・井田書店)に掲載されている「坂下門外の変・斬奸趣
       意書」の本文との主な異同を、次に示します。

            『水戸藩史料 下編 全』………『明治維新水戸風雲録』
                                 (『水戸幕末風雲録』)
              神州の罪人ニ御候………神州の罪人に御
               ( 以下、「御坐候」はすべて
                       御坐候………御座候 )
                    人之向背………人の向背
              盡忠報國之もの烈敷………盡忠報國の烈敷
               既ニ和學者共申付………既に和學者共申付
              又外夷取扱之儀ハ………又外夷取扱の儀は
               不殘彼等ニし遣し………殘らず彼等にし遣し
             天朝をし幕府をたし………天朝をし幕府をた
                シイホと申醜夷………シーボと申す醜夷
          利慾を尊候筋而已ニ落入………利慾を尊
(たつと)候筋のみに陷り
          夷狄成果候之禍を防き………夷狄成果候の禍を防ぎ
           願くハ此後之井伊安藤………願くハ此後之井伊安藤
         外夷を掃攘し叡慮を慰めひ………外夷を擒逐
(きんちく)叡慮を慰め
          東照宮以來之御主意ニ基き………東照宮以來の御主意に基き
              征夷大將軍之御職を………征夷大將軍の御職
                若も只今之儘ニて………若も只今の儘にて
             自之國のみ相固め候………自分自分の國のみ相固め候
                 必定之事ニ有之………必然に之あり
                 外夷之御扱さへ………外夷扱さへ
                御手に餘り候折柄………御手に餘り候折柄に相成候て
                 日本國中之人………日本國中の人
(じんじん)
                  
夷狄誅戮を名として旗を候………夷狄誅戮を名と致し旗を
           大半其方心なびき候事………其方心靡き候事
         大義を辨節義を守り候………大義を辨節義の道を守候
         々天朝之叡慮ニ相背き候處………々天朝の叡慮に相反し候處を
              忠臣義士之輩人も………忠臣義士の輩人も
                  身命を候もの………身命を抛ち候者
                孤立之勢ニ御成果………孤立の勢に御成果
             夫故此御改之有無ハ………夫故此御改の有無は
            幕府之興廢ニ相り候事………幕府の興廢に相り候事…
           御候何卒此勘考被遊………御何卒此義御勘考遊ばされ
                 一心合體候て………一心合體候て
              君臣上下之を明にし………君臣上下のを明かにし
             天下と死生倶に致候樣………天下と死生倶に致し候樣
                                    (「を」の誤植か)
                     御處置度………御處置
         臣等身命をち奸邪を戮して………臣等身命をち奸邪を戮して
               幕府要路之諸有司ニ………幕府諸有司に
        懇願愁訴仕候所之微に御候………懇願愁訴する處の微に御

     7.  『明治維新水戸風雲録』は、背表紙と扉、奥付に「明治維新水戸風雲録」
(「水戸」
       
は少し小さく、右から左に書いてあります)とありますが、本文奇数頁(向かって左の頁)
       の左の耳のところには、 縦に小さく「水戸幕末風雲録」と記してあり、また本文の
       終わりにも「水戸幕末風雲録(終)」とあり、巻頭の凡例にも、「本書は筑波山及那
       珂湊の義挙を叙すると共に、戊午以降水戸の勤王事績をも併せて記述したるを以
       て、一面より言へば水戸幕末勤王史ともすべきである。故に本書は其の広き意味
       により『水戸幕末風雲録』と題した次第である」とあって、『明治維新水戸風雲録』
       という書名(背表紙・扉・奥付)と食い違っています。
      
        昭和51年8月25日に暁印書館から復刻されたものは、背表紙も扉も『水戸幕末
       風雲録』としてあり、扉には暁印書館という復刻した書店の名前が入っています。
       従って、背表紙と扉は正確には復刻されていないことになります。『明治維新水戸
       風雲録』としてある奥付は復刻されて付いています。そして、復刻版の奥付が別
       につけてあって、それには『水戸幕末風雲録 [復刻版] 』としてあります。
   

   


          
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