資料110 斬奸趣意書(桜田門外の変・坂下門外の変)
ここには、桜田門外の変と坂下門外の変の、二つの「斬奸趣意書」が収めてあります。 桜田門外の変の「斬奸趣意書」は、吉川弘文館発行の『水戸藩史料』によるものと、岩崎英重著『櫻田義擧録』によるものとの二種類を収めてあります。 |
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[ 1 ] 桜田門外の変「斬奸趣意書」 (吉川弘文館発行『水戸藩史料』による)
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[ 1 ] 桜田門外の変「斬奸趣意書」(『水戸藩史料』による) |
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櫻田門外の變 斬奸趣意書 |
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別紙存意書 |
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なほ一同も各其懷中せる『素懷痛憤書』と題せる斬奸状を呈した。 |
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墨夷浦賀に入港以來、征夷府の御處置、假令時勢の變革も有之、隨て御制度之變革も、なくて叶はぬ事情有之とは乍申、有司專ら右を口實として、一時偸安、畏戰の情より、彼が虚喝の勢焰に恐怖し、貿易和親、登城拜禮をも差免し、條約を取替し、踏繪を廢し、邪敎寺を建、ミニストルを永住爲致候事、實に神州古來の武威を穢し、國體を辱しめ、祖宗の明訓孫謀に戻り候而已ならず、第一勅許も無之儀を、差免候段、天朝をも奉蔑如候儀に有之、實に不相濟事に候追々、大老井伊掃部頭殿所業致洞察候處、將軍御幼少の御砌に乘じ、自己の權威を振はんが爲、公論正議を忌憚り候て、天朝公邊の御爲筋を、深く存入候御方々御親藩を始め、公卿衆大名御旗本に不限、讒誣致し、或は退隱、或は禁錮等、被仰付候樣取計候儀を夷狄跋扈不容易砌と申、内憂外患逐日差迫る時勢に付、恐多くも被惱宸襟、御國内治平、公武御合體、彌、長久の基を被爲建、外夷の侮を不受樣、被遊度の叡慮に被爲在、公邊の御爲、勅書御下し被遊候歟に奉伺候處、違背仕、尚又諸大夫始、有司の人々を召捕、無實を羅織し、嚴重に所置被致、甚敷に至り候ては、三公御落飾御愼、粟田口親王をも奉幽閉候のみならず、勿體なくも、天子御讓位の事迄奉釀件々、奸曲無所不至候矣、豈天下の巨賊にあらずや、右罪状の儀は、委細別紙に認候通、斯る暴横の奸賊、其儘差置候ては、益公邊の御政體を亂り、夷狄の大害を來し候儀、眼前にて、天下の安危存亡に拘り候事共、痛憤難默止、京師へも及奏聞、今般天誅を加へ候心得にて令斬戮候、勿論公邊に御敵對申上候儀は、毛頭無之、何卒此上は聖明の勅意に御基き、公邊の御政事正道に御復し、尊王攘夷正誼明道、天下萬民をして、富岳の安に處せしめ、玉はん事を希ふのみ、聊殉國報恩の微忠を表し、伏て天地神人の照覧を奉仰也(此の書は、右の別紙と共に十八士、いづれも懷中せるにて、大關等が細川家に出せるも亦同一なりと知るべし)
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(注) | 1. | 本文は、『水戸藩史料 下編 全』(吉川弘文館、昭和45年12月25日発行)によりました。(「下編巻四 文久二年壬戌の部一」の「坂下門外の變」) | ||
2. | 変体仮名は、「而」「可」「尓」「古」「奈」「須」「阿」などの崩し字が使われていますが、普通の平仮名に直して表記しました。 | |||
3. | 〇坂下門外の変=井伊直弼の後をうけた老中安藤信正の公武合体の政策に反対して、水戸浪士ら6人が、文久2年(1862)1月15日、坂下門外で信正を襲撃した事変。信正は負傷、老中を辞職。(『広辞苑』第6版による) 〇坂下門外の変=1862年1月15日、水戸浪士を中心とする尊攘派が江戸城坂下門外に、老中安藤信正を襲い負傷させた事件。信正が公武合体論を唱え、和宮降嫁を実現させたことに憤激したもの。 (三省堂『大辞林』による) |
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〇安藤信正(あんどう・のぶまさ)=幕末の老中。陸奥磐城平藩主。対馬守。井伊直弼死後、政務を主導し幕政の中心となる。公武合体を図り、その外交が攘夷論者に憎まれ、文久2年(1862)1月に坂下門外で襲撃されて負傷。(1819~1871) (『広辞苑』第6版による) 〇安藤信正(あんどう・のぶまさ)=[(一八一九~一八七一)]幕末の老中。磐城(いわき)国平(たいら)藩主。公武合体を図り、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現。文久二年(一八六二)江戸城坂下門外で尊王攘夷(そんのうじようい)派の水戸浪士に襲われて負傷し、老中を辞職。 (小学館『大辞泉』による) |
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5. | 『水戸藩史料 下編 全』に掲載されている「坂下門外の変の斬奸趣意書」前後の文を、一部を省略して引いておきます。 文久二年壬戌正月元日春日神社の神鏡故なくして破裂す是の日江戸大雪終日歇まず會々飛語あり曰く水戸藩士襲撃の擧あらんとすと是に於て幕府頓に戒嚴して諸郭門を閉鎖し人心洶々たりしと云ふ此日の飛語は出所さへ詳ならず諸説紛々たりしが住谷七之允毅(信順の子)は此の時單身出府して閣老安藤信睦を要撃せんと謀りたりといへば或は早くも此等を傳説せしもの歟但這擧は平山繁義と關係あるに非ず全く單獨の發意に出でたるなり 既にして平山繁義等は同志に牒合し正月二十八日を期して事を擧げんとす時に宇都宮の人岡田裕眞吾松本正凝錤太郎は密に書を一橋刑部卿慶喜に呈し歎訴する所あらんと欲し大橋正順に就いて之を謀れり此の時二人は宇都宮より潜に出府せしなり生順乃ち其の文に加筆し一橋家の近臣山木繁三郎に因りて之を呈覧せんとす山木諾して去りしが意頓に變じ之を幕府に自訴し事遂に暴露するに至れり同十二日大橋正順松本正凝等俄に幕府の捕ふる所と爲る爾來幕府の捜索追捕甚だ急なり (中略) 同十五日水戸亡命の士平山兵介繁義小田彦三郎朝義黑澤五郎保高高畑房次郎胤正越後の人川本唯一正安下野の人河野顯三通桓等閣老安藤對馬守信睦を途上に要撃す是の日上元の嘉例を以て諸侯總登城あり安藤信睦ハ朝五ツ時今の午前八時頃を以て西丸下の官邸を出で桔梗門外より將に坂下門に向はんとする折しも平山繁義等六人は一發の銃聲を合圖に路傍より突起し亂斫奮撃信睦の輿に迫り繁義進んで信睦を刺しゝが從者格闘善く防ぎ亂刀叢刺爲めに遮斷せられ志を得ずして遂に鬪死す時に年二十二小田朝義黑澤保高高畑胤正川本唯一河野通桓各勇を奮ひ轉鬪して死す小田朝義時に年三十、黑澤保高年三十五、高畑胤正年三十五、川本唯一年二十三、河野通桓年二十五、信睦傷を負ひ僅に免るゝことを得たり 菊池宗親の談話に坂下門外要撃の其の場より逃走せし横田藤四郎に就いて現状を聞くに安 藤の守衛嚴にして駕の兩側は常の供連にて又外側に野服の供あり何れにも駕に近づくこと難し故に平山は自訴の振りにて紙をたゝみ其の中に短刀を入れたるを持ち駕籠に近づき後ウシロをつき少々疵負せたりとなり (疵は、原文は「疒+氐」) (中略) 平山繁義等六人の鬪死するや其の屍を檢するに各懷中書あり題して斬奸趣意書といふ其の文に曰く 申年三月赤心報國之輩御大老井伊掃頭部殿ヲ斬殺ニ及候事毛頭奉對幕府候て異心ヲ挾候儀ニハ無之…… ……幕府要路之諸有司ニ懇願愁訴仕候所之微忠に御坐候恐惶謹言 幕府之を讀んで隱事の暴露するを忌み秘して發せざりしが其の一篇長藩より出で忽ち世に傳播し彼の罪状并に斬奸の主意なるものは竟に天下に顯れたり而して之を長藩に遣したるは河邊佐次衛門元善の所爲なりき 初め河邊元善は平山繁義等と與に安藤信睦を要撃せんと誓ひ早朝坂下門外に抵り身を潜めて安藤の登城を待ちしが時尚早きを以て一旦退いて近街を徘徊せしが幾ばくもなく坂下門外に事あるを聞き驚き走りて之に趣きしが到れば則ち事既に畢れり因りて謂ふ今此に死するも亦何の益かあらんせめては主意書を世に傳へ以て宿志を明にせんと乃ち長州邸に抵り桂孝允に就いて事の顚末を告げ且つ遺書を託し自刃して死せり時に年三十一 (以下略)(『水戸藩史料 下編 全』 p.148~158) |
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6. | 『明治維新水戸風雲録』(『水戸幕末風雲録』ともいう。常陽明治記念会
昭和16年9月20日発行、発行所・井田書店)に掲載されている「坂下門外の変・斬奸趣意書」の本文との主な異同を、次に示します。 『水戸藩史料 下編 全』………『明治維新水戸風雲録』 (『水戸幕末風雲録』) 神州の罪人ニ御坐候………神州の罪人に御座候 ( 以下、「御坐候」はすべて 御坐候………御座候 ) 人心之向背………人々の向背 盡忠報國之もの烈敷………盡忠報國の志烈敷 既ニ和學者共へ申付………既に和學者共に申付 扨又外夷取扱之儀ハ………偖又外夷取扱の儀は 不殘彼等ニかし遣し………殘らず彼等に貸し遣し 天朝を癈し幕府をたおし………天朝を廢し幕府をたふし シイホルトと申醜夷………シーボルドと申す醜夷 利慾を尊ひ候筋而已ニ落入………利慾を尊(たつと)み候筋のみに陷り 夷狄に成果候所之禍を防き………夷狄と成果候處の禍を防ぎ 願くハ此後之所井伊安藤………願くハ此後之處井伊安藤 外夷を掃攘し叡慮を慰め給ひ………外夷を擒逐(きんちく)して叡慮を慰め玉ひ 東照宮以來之御主意ニ基き………東照宮以來の御主意に御基き 征夷大將軍之御職を………征夷大將軍の御職位を 若も只今之儘ニて………若も只今迄の儘にて 自己之國のみ相固め候………自分自分の國のみ相固め候 必定之事ニ有之………必然に之あり候 外夷之御扱さへ………外夷取扱さへ 御手に餘り候折柄………御手に餘り候折柄に相成候て 日本國中之人心………日本國中の人々(じんじん) 夷狄誅戮を名として旗を擧候………夷狄誅戮を名と致し旗を揚候 大半其方へ心なびき候事………其方に心靡き候事 大義を辨ひ忠烈節義を守り候………大義を辨じ忠孝節義の道を守候 段々天朝之叡慮ニ相背き候處………數々天朝の叡慮に相反し候處を 忠臣義士之輩一人も………忠臣義士の輩壹人も 身命を投候もの………身命を抛ち候者 孤立之勢ニ御成果………孤立の御勢に御成果 夫故此御改心之有無ハ………夫故此度御改正の有無は 幕府之興廢ニ相拘り候事………幕府の御興廢に相係り候事… 御坐候何卒此度勘考被遊………御座候故何卒此義御勘考遊ばされ 一心合體仕候て………一心合體候て 君臣上下之義を明にし………君臣上下の誼を明かにし 天下と死生を倶に致候樣………天下と死生と倶に致し候樣 (「を」の誤植か) 御處置希度………御處置願度 臣等身命を投ち奸邪を殺戮して………臣等が身命を抛ち奸邪を誅戮して 幕府要路之諸有司ニ………幕府諸有司に 懇願愁訴仕候所之微忠に御坐候………懇願愁訴する處の微意に御座候 |
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7. | 『明治維新水戸風雲録』は、背表紙と扉、奥付に「明治維新水戸風雲録」(「水戸」は少し小さく、右から左に書いてあります)とありますが、本文奇数頁(向かって左の頁) の左の耳のところには、 縦に小さく「水戸幕末風雲録」と記してあり、また本文の終わりにも「水戸幕末風雲録(終)」とあり、巻頭の凡例にも、「本書は筑波山及那珂湊の義挙を叙すると共に、戊午以降水戸の勤王事績をも併せて記述したるを以て、一面より言へば水戸幕末勤王史ともすべきである。故に本書は其の広き意味により『水戸幕末風雲録』と題した次第である」とあって、『明治維新水戸風雲録』という書名(背表紙・扉・奥付)と食い違っています。 昭和51年8月25日に暁印書館から復刻されたものは、背表紙も扉も『水戸幕末風雲録』としてあり、扉には暁印書館という復刻した書店の名前が入っています。従って、背表紙と扉は正確には復刻されていないことになります。『明治維新水戸風雲録』としてある奥付は復刻されて付いています。そして、復刻版の奥付が別につけてあって、それには『水戸幕末風雲録 [復刻版] 』としてあります。 |