資料68 広木松之介伝(『桜田烈士伝』より)



          
広木松之介伝  (『桜田烈士伝』より)

 

広木松之介有良は評定所物書雇なり大関和七郎と睦しかりけれは桜田の企てに同盟し事はてゝその場を逃れ去り一旦国に帰りしが父某がいかにその場にて打ち死をは得せすして帰りしやと罵りたれは松之介志を励ましそここゝと潜みあるき能登の国正院村の日蓮宗某寺の住職はゆかりある人なれは尋ね往き僧形となりて潜み居たりしか余りに詮鑿きびしきによりそこより便船にて佐渡の国に航し久しくありてまた再たひ能登に来りそれより越中の或る寺へ往き身を寄せたりけるに同志の人々皆刑せられたりと聞き歎息して吾一旦の死を逃れ今日に至れるは後に図る所ありてなり今はしも世の中の事せんすへなし独生を偸むへきに非すとてある日主僧に謁して四方八方の物語りするうちに人生は朝露の如しとかや今日無事なる顔を見たりとてあすはいかゝあるへき某もし万一の事あらんには後世をよきにはからひ玉はれかしと言葉を残して立去りぬ程なく墓所にて腹切りうせぬる人ありといふに和尚いたり見れは松之介にてありき時に文久二年三月三日なり年二十五その翌々年甲子の十一月にいたり行脚の僧水戸に来りて松之介か家を尋ねそがかたみの品々さし出し最後の有様なとこまこま語りいだせしにそ一家の人々も久しくゆくへを知らさりしか初めて臨終のやふすを聞きかたみに袖をしほりしとなん某云当時松之介江戸伝馬町の獄にて死刑となりし報を得て父三蔵遺骸引取として水戸よりいたれり容皃骨柄のわが子に肖もやらすそのうちに知る人ありて後藤哲之介か亡きからなりと云ふにより空しく帰国せしことありこは松之介か其場を逃れ出て越後の新潟に飄泊せしに図らすも哲之介にめくりあひたり哲之介は久しくこゝにありて知る人も多けれは路費の用意なと何くれととりなして他へ逃しやり松之介が印形を預り居たり同し国なまりの人とて遂に捕はれとなり糾問の上取持の品取調べしに紛れもなく松之介の実印なれはいひとくすへもなく遂に牢屋に送られたるなりと亡友小山春山その頃獄中にありて知れるを以てその顛末を物語れり因てこゝに哲之介の略伝をかゝけまたその時新潟にての口書なるものあり参考にもと併せ記すこと左の如し
後藤哲之介輝は常陸国久慈郡和久村の郷士なり慷慨して国をいて四方に奔走せしが文久元年新潟にて常陸訛の言語を恠まれて捕はれ姓名を問はれしに広木松之介と答ふそは井伊殿を犯せし者なりとて厳しく警固して江戸に送られしが其人ならぬことを知られけれども獄に下し別に糾問の旨もなくて月日を経るに其後一粒の食をも喰はさりしが二年九月十三日終に息絶へたり年三十二
広木松之介新潟に於て穿鑿口書の書面
     水戸殿家来にて出奔致候由申立候
 
酉十二月十九日揚屋入         広木松之介 酉三十五才
右之者致吟味候処妻弟共家内三人暮し水戸城下上町白銀町に住居小普請と唱へ無役にて金八両三人扶持宛行請け弟一同提灯張致し相暮罷在尤宛行は家内人数高に応し増減有之一人に付一人扶持金壱両貳分程宛に有之候頭支配は月に相代り候得共去申二月出奔致候節は高橋源右衛門組下に有之候父は広木三蔵と申是又小普請組にて去未年三月十五日五十八歳にて病死致し候に就き同年五月中と覚ゆ家督致し母はセンと申候水戸殿領常州那珂郡青柳村百姓助蔵より縁付参り去る午年九月五十才にて死し妻キヨは同家中玉村助左衛門娘にて三
年前貰ひ受け当酉廿八才弟松蔵は同廿五歳に相成先祖は右青柳村
百姓にて三蔵と申年暦不覚水戸源文殿御代与力に被召出此者迄五代相続致居候処近年外国御通信諸藩交易御差許相成候に付御国政御改革被仰出加之乍恐御祖宗の御遺命にも被為背長崎表踏絵を被廃候上邪教寺を御取建に相成候由及承皇国の御為に不相成儀歎敷且残念に存候出府の上御老中へ罷出交易御差止相成候様直訴可仕と年来厚く相交り候同領分同国茨城郡静村神主斎藤監物並同家中にて学友杉山弥一郎と密に申合候後同人は出府致候間跡慕ひ打合せ候積を以て去申二月八日家内の者へ無沙汰に出奔致し兼て契約の通り監物方へ相越候処同人病気にて同道相成兼候に付江戸表にて待居る積の処路雑用乏敷候間及合力右才覚中同十三日迄同人方へ逗留致し同十四日出立筑波へ登山志願成就の義相祈二日の間参籠同廿日夜下総国関宿より乗船翌廿一日江戸表着深川海辺大工町名町不存郷宿に止宿致候所取落物有之一
先帰国の積翌日出立水戸道中へかゝり同廿五日帰宅
尚又廿七日出立廿九日江戸着前同所へ止宿翌三月朔日浅草蔵前通にて杉山弥一郎に行逢候間最寄酒店に於て酒飲前書直訴の志願弥々相遂度様相噺候処外に手段有之候間明二日芝愛宕山境内へ可相越委細の始末は其節談判可致旨申聞候に付立別れ候頃は夜深候間両国橋辺明船へ泊り同日愛宕山へ相越同人へ面会致候処交易御差止の儀御老中方へ歎願致候とも御取用有之間敷右は畢竟井伊掃部頭筆頭にて万端一巳の権威を震ひ品々奸悪の及所業候儀に付国家の為身命を抛明日同人登城を待請途中に於て打果し候上其段御老中方へ申立候はゝ自然御取用にも可相成と同志の者十七人申合尤其期に至り手負の者は致自訴無難の者は一先場所を立去り一両年の間何れへ成共立忍ひ跡々の成行見及候上弥御取用不相成候はゞ素々国家の為とは乍申対公儀不容易所置に及候義に付銘々自訴致候積り且斎藤監物も疾に出府一味に有之右に付ては同夜吉原町遊女屋へ寄合候手筈申合候事の由密話も有之候に付尤の儀と存直様一味可致段相答夫々も同道にて桜田御門外地理の様子見置夕七
時吉原町名前不存遊女屋へ相越候
所右監物初同家中佐野竹之介大関和七郎広岡子之次郎森五六郎黒沢忠三郎蓮田市五郎稲田重蔵関三十郎
本文関三十郎は岡部三十郎の儀に而
は無之哉と相糾候処右は十
年程以前不調法の儀有之主人方暇相成候に付岡
部と改姓致し候哉難斗候得とも暇相成候節は関と名乗候儀の由に御座候
増子
金八森山繁之介領分神官にて鯉淵要人海後嵯嶬之介并水戸家にては又者と覚候関鉄之介事関新兵衛薩州浪人有村治左エ門姓名不存者とも壱人追々罷越尤其節始て面会致し候者も有之此者共治左衛門子之次郎外壱人は先供へ立向ひ監物弥一郎等は掃部頭殿を目掛け其余は游軍并に跡供を支へ候積り且御同人を打留候へは声立候筈に付右を相図に戦争を相止場所速に立去候積暫時列席窃に夫々申合翌三日暁七
時頃吉原町出立駕籠に乗り明頃愛宕山へ登りし所同志の者共
追々相集り路々旅支度致し中には着込竹具足等用意の者も有之折節雪降出候に付其身半纏股引脚半赤桐油竹子笠等相用五
時頃より桜
田御門前所々に彳み待受候処同刻過掃部頭殿登城に治左衛門方外へ近寄候間治左衛門等四人先供に突当り咎め候を汐に一同雨具かなくりすて抜連切掛け此者は二人へ手負ひさせ候迄は覚居候得共其後は確と見留めも無之由間もなく合図の声立候に付直様引上候得共戦闘の紛刀の鞘振落し候間無是非携居候刀は
本文刀の儀は無銘長二尺七寸鍔は鉄すかし葵唐艸摸様縁頭鉄無地目貫龍金焼付鮫黒塗柳糸黒鞘黒けしたたき
下け緒黒真田のよし申立候
堀際と覚投捨駈走り候砌治左衛門は首級を
太刀に貫ぬき駆行候を見受候得共其余の者共は何れに散乱致し候哉不相弁暮六時頃板橋宿へ罷越同所に於て紺木綿股引脚半相調町人体に相成京都へ立越候積信州路に於て脇差は通り古鉄買に売払懐剣所持大津宿迄相越候所京都は手配厳重の由風聞承候に付大津より船にて海津へ相廻り候節懐剣は湖水へ取落し夫より越前能登越後国等所々売卜又は日雇稼等致し立廻り風聞承り候処交易御差止に不相成而已に無之新潟表へも御開港相成候に付此節新規に御台場御立連に相成候由の風説有之左候ては弥願意不相貫儀に付右御立連ねの有無見届万一事実に於ては最早志願も是迄の儀と存絶ち兼而申合の通出府の上自訴可致と決心致し当月十八日新潟表へ罷越海岸御台場御立連の摸様見請候後
本文新潟御台場の儀は是迄洲崎御番所付にて海岸近くに有
之近年海当強く追々欠崩れ危難の場所に相成候間御番所一同右に取寄信濃川
縁へ引移候積を以て夫々目論見の上当十月中に摸様御普請同十一月中より御
台場の方仕掛取還し当時仕立中に御座候
於旅人宿相尋寺町通徘徊致し候
所支配向の者に被取咎被差押候儀の旨申立候

 

 

 

 

 

  (注) 1.  本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』の画像による、綿引泰著『桜田烈士伝』(郁文館、明治30年11月発行)により、1976年9月に綿引堂人が復刻した『桜田烈士伝』で、不明箇所を確認しました。    
    2.  漢字は、常用漢字に直してあります。また、繰り返し符号(踊り字)や変体仮名も、通常の表記に改めました。    
    3.  「広木松之介新潟に於て穿鑿口書の書面」の部分の細字の箇所は、1行分のところに2行に分かち書きされています。            
    4.  広木松之介が水戸に持ち帰ったとされる大老の御首級の供養塔の由来が、「大老井伊掃部頭直弼台霊塔について」(資料67)にあります。
   
           
           


   
        

                
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