資料619 医弊説(拓本の書き下し文)



    医弊説 (拓本の書き下し文) 


  医弊説
凡そ事に善あり悪あり。善端或いは弊を生ず。因循苟且(いんじゆん・こうしよ)なれば、必ず善悪相混じて、弁ずべからざるものあるに至る。夫(そ)れ医薬は保命の大具にして、死生存亡の係はる所なり。以て愼しまずんばあるべからず。記に曰はく、医三世ならざれば、その薬を服さず、と。その慮り深し。然りと雖も、未だ三世相継いで必ず良医たる者を聞かず。故に特にその術に達する者あらば、則ち三世たらずと雖も、将に之を用ゐんとす。而してその官を世々にする者も、亦廃すべきにあらず。是(ここ)に於て医官生員滋(ますます)多く、各々自ら一家を成す。而してその所見も亦異なる。嗟(ああ)、愼しまざるべけんや。今夫れ、王公大人、一たび疾あれば、則ち衆医会議し、有司監省(かんせい)し、而して後、調薬以て進む。良医ありと雖も、一人に專任して、以て方剤を施すを得ず。これその尊重して敬愼する所以の者至れり、尽くせり。然れども、その尊重敬愼して或いは不起に至る者ある所以は、何ぞや。蓋(けだ)しその弊三あり。衆医の会議するや、各々その心を尽くし、知りて言はざるはなし。然れども、人心の同じからざる、猶ほ面のごとし。百医之を診れば、則ち一証百証をなす。是(ここ)を以て群議喧然、是非蜂起、終に一定するなし。傑然身を致し忠を尽くし、洞然として垣の一方の人を視る者にあらざるよりは、異論を弁駁し以てその険難を済(すく)ふ能はず。今その職に任ずる者は、皆斗筲(とさう)の庸医、固(もと)より見識ある者にあらず。その匕(ひ)を執り薬を調ずる時に当たりて、衆医或いは黙視すれば、則ち左顧右眄、首(かうべ)を頫(かたむ)け言を遜(ゆづ)る。此(ここ)に在りて譏(そし)らず、彼に在りて嘲らざらんと欲す。唯、身を免がるるに急にして、疾を袪(さ)るに緩なり。故にその調ずる所、皆尋常の寛薬、柔剤にして、未だその源を疏(わか)ちその根を除くこと能はず。遂に腠理(そうり)をして膏肓(かうくわう)に入らしむ。幸ひにして日を経、月を弥(わた)れば、則ち自ら以てその験を得たりとなし、驕色大言、睥睨惰慢(へいげいだまん)、自ら国手と称す。而して敢へて衆議を容れず。唯、賞賜を貪るの心あるのみ。既にして変証横出すれば、則ち危懼戦慄し、罪の相及ばんことを恐れ、肩を脅(そびや)かし身を屈し、退遜辞譲、或いは他医を称誉し、それをして己に代へて以て調薬せしめんと欲す。是の時に当たり、先医曰はく、疾小にして愈ゆ、と。後医曰はく、疾太(はなは)だ劇(はげ)し、と。その反覆常なきこと是(かく)の如し。此れ、その弊の一なり。衆医固より賞を貪るの意なきにあらず。その初め、各々主張を説き、経に証し方を弁じ、以て万一を僥倖す。その危篤なるに及ぶや、則ち袵(えり)を歛(おさ)め手を拱(こま)ねき、黙然として退き、唯匕を執り薬を調ずるの命あるを恐る。是れ、その弊の二なり。夫れ貪欲驕肆、匕(ひ)を執り己が功を顕はさんと要する者は、沈黙して敢へて言を尽くさず。卓識ある者に似たり。その心は、その疾の曠日持久、吾が手に落ちんことを庶幾(こひねが)ひ、調医を浸譛(しんせん)して左右を欺罔(ぎまう)す。既にして志を得れば、則ち先医の調剤、切にその証に対すと雖も、誹謗万端、罵詈(ばり)して已まず。必ず他方を以て之に換へ、特にその異案を示す。大故に至るに及んでは、則ち或いは咎(とがめ)を気候に帰し、或いは罪を後手(こうしゆ)に逃る。その甚しき者は、命なりと曰ふ。是れ所謂(いはゆる)、人を刺して我にあらず兵なりと曰ふ者と何を以て異ならんや。是れその弊の三なり。夫(そ)れ衆医会集するに方(あた)り、群議沸騰して、人その是非を弁ずる能はず。以謂(おも)へらく、此の中に必ず一是あり、と。然れども、その疑を決する能はず。是を以て諸(これ)を鬼神に禱(いの)り諸を卜筮(ぼくぜい)に仮る。繊緯、術数に及ぶまで、至らざる所なし。唯、良医を得んことを願ふ。以て良剤を施し、天の霊を藉(か)り、幸ひに良医を得ば、則ちその慶祥言ふべからず。不幸にして庸医を得ば、則ち再三にして或いは鬼神卜筮を瀆(けが)す。啻(ただ)に鬼神卜筮を瀆すのみならず、或いは天命ある者をして短折せしむるに至る。その人を惑はすや、甚し。嗚呼、王公大人、疾むべからざるなり。良薬筐に満ち、良医堂に満つ。然り而うして、良医その方を尽くす能はず。良薬その効を奏する能はず。是の時に当たり、孤豚たらんと欲すと雖も、豈に得べけんや。その然る所以のものは、何ぞや。その尊重敬愼する所以のものは、至れり尽くせり。故に疾めば、則ち必ずその弊を受く。是れ、その善端或いは弊を生じて、遂に善悪相混じ、而して弁ずる能はざるに至るなり。歎ずるに勝(た)へざらんや。若し夫れ、士民良薬を得る能はずと雖も、而も能くその性命を全うする者は、その弊なきが故なり。蓋し良薬の験たるや至厳なり。故にその施す所、一たび謬(あやま)れば、則ち変じて毒となる。而もその害尤も甚だし。老子曰はく、民の死を軽んずるは、その生を求むるの厚きを以てなり、と。諺に曰はく、薬を用ひざるは中医に勝る、と。宜(むべ)なるかな。嗟(ああ)、その庸医の手に翫弄せらるる所となって、その寿を損ぜんよりは、湯茶を飲みて以て天命を終はるに如(し)かず。然りと雖も、衆医を禄して予(あらかじ)め不虞(ふぐ)の疾に備ふるなり。今、医生たる者、此の三弊を去り、熟議讜論、心を尽くし身を致して、唯その薬の験、その疾の治を是れ図り、又拡充して士民に及ぼし、鰥寡(くわんくわ)を侮らず、困窮を廃せざれば、則ち仁の術と謂ふべきのみ。
天保七年歳次丙申夏五月、撰文幷びに書、
    景山 印 印
   
       

  (注) 1. 上記の書き下し文は、徳川ミュージアム所蔵の「医弊説」
の拓本の本文を書き下し文にしたものです。
記載にあたって、『水戸烈公の医政と厚生運動』上巻
(石島績著、日本衛生会・昭和16年7月20日発行)所
収の著者による「医弊説」の「直訳」(書き下し文)、
及び『噫医弊』(煙雨楼主人・長尾折三著、医文学社・
昭和9年9月27日発行)所収の書き下し文を参照して記
述しました。
   
    2. 『水戸藩医学史』(石島弘著、ぺりかん社・平成8年12
月25日初版第1刷発行)には、石島績の上記の『水戸烈
公の医政と厚生運動』上巻所収の「医弊説」の「直訳」
(書き下し文)が引用してあり、「医弊説」についての
詳しい解説・註釈・口語訳等があって、大変参考になり
ます。
『水戸烈公の医政と厚生運動』上巻に掲げてある「医弊
説」の書き下し文は、「最も信頼するに足る菊地貫筆写
本に就」いてこれを直訳して掲げた、とあります。菊地
貫筆写本は、徳川ミュージアム所蔵の「医弊説」の拓本
の本文と同じものと思われます。
(注:「菊地貫筆写本」は、石島弘著『水戸藩医学史』
には、「菊池貫筆写本」とあります。)

なお、石島弘著『水戸藩医学史』に引用してある菊池貫
筆写本の「医弊説」の(石島績氏に拠る)「読み下し文」
は、石島績著『水戸烈公の医政と厚生運動』上巻のもの
を引用したものだということ、石島弘は水戸市内の開業
医、石島績は茨城県技師、同姓だが血縁関係はないとい
うこと、及び菊池貫は又の名を善三郎といい、天明6年
(1786)に生まれ弘化4年(1847)に亡くなった彰考
館の学者だということを、茨城県立歴史館の永井博様に
教えていただきました。ここに記して厚く御礼申しあげ
ます。
   
    3. 上記の書き下し文は、「其の」や「有り」「非ず」「爲す」
などを「その」「あり」「あらず」「なす」などとしてあ
る点で、普通の書き下し文と異なる点がありますので、注
意してください。
漢字は、常用漢字のあるものは常用漢字にしてあります。
   
    4. 石島弘著『水戸藩医学史』の注を参考にして、幾つかの
語注を付けておきます。
〇「記に曰はく、医三世ならざれば、その薬を服さず、
と」……『礼記』の典礼下第二に、「君有疾飲藥臣先
嘗之親有疾飲藥子先嘗之醫不三世不服其藥」とありま
す。(『礼記』の本文は、新釈漢文大系27『礼記上
竹内照夫著、明治書院・昭和46年4月25日初版発行に
よりました。)

〇「垣の一方の人を視る者」については、資料620 
垣の一方の人を視見す(中国古代の名医・扁鵲の話)を 
参照してください。
 → 資料620 垣の一方の人を視見す(中国古代の名
  医・扁鵲の話)
〇「今その職に任ずる者は、皆斗筲(とさう)の庸医、
(もと)より見識ある者にあらず」……資料621 
「斗筲之人」(『論語』子路第十三より)を参照して
ください。
 → 資料621「斗筲之人」(『論語』子路第十三より)
〇「孤豚たらんと欲すと雖も、豈に得べけんや」……
『史記』老子韓非列伝第三に、「楚威王聞莊周賢使使
厚幣迎之許以爲相莊周笑謂楚使者曰千金重利卿相尊位
也子獨不見郊祭之犠牛乎養食之數歳衣以文繡以入大廟
當是之時雖欲爲孤豚豈可得乎子亟去無汚我我寧游戲汚
瀆之中自快無爲有國者所覊終身不仕以快吾志焉」とあ
ります。(『史記』の本文は、新釈漢文大系88『史記
(列伝一)』水沢利忠著、明治書院・平成2年2月10日初版
発行によりました。)

〇「老子曰はく、民の死を軽んずるは、その生を求む
るの厚きを以てなり、と」……『老子』第七十五章
に、「民之饑。以其上食税之多。是以饑。民之難治。
以其上之有爲。是以難治。民之輕死。以其求生之厚。
是以輕死。夫唯無以生爲者。是賢於貴生。」とありま
(世界古典文学全集17『老子 莊子』福永光司・興膳宏訳。
筑摩書房・2004年5月30日第一刷発行による)
。「民之輕
死。以其求生之厚。是以輕死。夫唯無以生爲者。是
賢於貴生」を、福永氏は「人民が死に急ぐのは、余
りにも生きようと求めすぎるから、そこで死に急ぐ
のだ。生きることにとらわれない者こそ、生命(いの
ち)
を大事がる者にまさっているのだ」と訳しておら
れます。ここの語注に、「以其求生之厚 生に深く
執着するの意で、第50章の「其の生を生とするの厚
きを以てなり」と同義。「求」を「生」に作るテキ
ストも多く、易順鼎らは「生」に改めるべきだとす
る。また、「其」の下に「上」を作るテキストもあ
るが、下文関係からいえば、ないほうが可。ちなみ
に、馬王堆本甲・乙は原文と同じ。以上の三句ずつ
の三連は、安らかな生を害(そこ)なう三つの反自然
の行為が、足るを知らぬ欲望に本づくことをいう」
とあります。

参考までに、新釈漢文大系7『老子 荘子上』阿部
吉雄他著(明治書院・昭和41年11月5日初版発行、昭和
46年11月12日12版発行
)の本文をあげると、『老子』
貪損第七十五「民之飢以其上食税之多是以飢民之難
治以其上之有爲是以難治民之輕死以其上生生之厚是
以輕死夫唯無以生爲貴者是賢於貴生」となっていて、
この「以其上生生之厚」の部分については、「語釈」
に次のようにあります。
〇以其上生生之厚 その上に立つ為政者が余りにも自分の生
活を豊かにしようとするからである。使用テキストでは「以
其求生之厚」になっいたが、傅奕本には、「以其上求生生之
厚也。」 となっていて、「其」の下に 「上」の字が入り、
「求生」が「求生生」なっている。前の句、「以其食税之
多」・「以其之有為」に「上」の字が入っているから、こ
の句にも「上」の字がある方が形も揃うし意味も良く通る。
もし「上」の字がこの句にないと、「其」は「民」を承ける
ことになり、意味が全然反対になってしまっておかしいので
「上」を入れた。次に「求生生之厚」は、易順鼎が文選魏都
賦の注の引用文、淮南子精神訓、文選鷦鷯賦の注の引用文な
どに拠って、「生生之厚也」に作るべしと述べており、第五
十章にも「以其生生之厚」の句があることなどから見て、易
氏説に従い改めた。(『老子』の担当者は、阿部吉雄・山本
敏夫の両氏です。)

このところは、石島弘著『水戸藩医学史』の注には
次のようにあります。
民ノ死ヲ軽ンズルハ云々、老子、第七十五章に曰く、民之軽
死、以其求生之厚、是以軽死とあり。この解釈について、福
永光司氏は「余りにも生きようと求めすぎるから、そこで死
に急ぐのだ。生きることに、とらわれない者こそ生命を大事
がる者にまさっているのだ。」

   
    5. 読み方について、お気づきの点をお知らせくだされば、
幸いです。
   
    6. 徳川ミュージアム所蔵の「医弊説」拓本の本文(原文)
は、資料618 医弊説(景山・徳川斉昭、拓本医弊説に
よる)をご覧ください。
 →  資料618 医弊説(景山・徳川斉昭、拓本医弊説に
       よる)
   




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