資料618 医弊説(景山・徳川斉昭、拓本医弊説による)

    

 

醫弊説
凡事有善有惡善端或生弊因循苟且必至於善惡相
混有不可辯者夫醫藥者保命之大具死生存亡之所
係也不可以不愼焉記曰醫不三世不服其藥其慮深
矣雖然未聞三世相繼必爲良醫者故有特達其術者
則雖不三世將用之而其世官者亦非可廢於是醫官
生員滋多各自成一家而其所見亦異矣嗟可不愼哉
今夫王公大人一有疾則衆醫會議有司監省而後調
藥以進焉雖有良醫不得壹人專任以施方劑是其所
以尊重而敬愼之者至矣盡矣然其所以尊重敬愼而
或至于不起者何也蓋其弊有三矣衆醫之會議也各
盡其心知而無不言矣然人心之不同猶面也百醫診
之則壹證爲百證是以羣議喧然是非蜂起終莫一定
自非傑然致身盡忠洞然視垣壹方人者不能辯駁異
論以濟其險難今任其職者皆斗筲庸醫固非有見識
者當其執匕調藥時衆醫或黙視則左顧右眄頫首遜
言欲在此不譏在彼不嘲矣唯急於免身緩於袪疾故
其所調皆尋常寛藥柔劑而未能疏其源除其根遂使
腠理入膏肓幸而經日彌月則自以爲得其驗驕色大
言睥睨惰慢自稱國手而不敢容衆議唯有貪賞賜之
心也既而變證横出則危懼戰慄恐罪相及脅肩屈身
退遜辭讓或稱譽他醫欲令其代己以調藥當是時先
醫曰疾小愈後醫曰疾太劇其反覆無常如是此其弊
壹也衆醫固非無貪賞之意其初各説主張證經辯方
以僥倖萬一及其危篤則歛袵拱手默然而退唯恐有
執匕調藥之命矣是其弊弍也夫貪欲驕肆要執匕顕
己功者沈黙而不敢盡言似有卓識者其心庶幾其疾
曠日持久落吾手浸譛調醫欺罔左右既而得志則先
醫調劑雖切對其證誹謗萬端罵詈不已必以他方換
之特示其異案及至於大故則或歸咎於氣候或逃罪
於後手其甚者曰命也是與所謂刺人曰非我也兵也
者何以異哉是其弊三也方夫衆醫會集羣議沸騰而
人不能辯其是非以謂此中必有一是然不能决其疑
是以禱諸鬼神假諸卜筮及纖緯術數無所不至唯願
得良醫以施良劑藉天之靈幸得良醫則其慶祥不可
言矣不幸而得庸醫則再三而或瀆鬼神卜筮不啻瀆
鬼神卜筮或至使有天命者而短折其惑人也甚矣嗚
呼王公大人不可疾也良藥滿筐良醫滿堂然而良醫
不能盡其方良藥不能奏其効當是之時雖欲爲孤豚
豈可得乎其所以然者何也其所以尊重敬愼者至矣
盡矣故疾則必受其弊是其善端或生弊而遂至于善
惡相混而不能辯者也不勝歎哉若夫士民雖不能得
良藥而能全其性命者無其弊故也蓋良藥之爲驗也
至嚴矣故其所施壹謬則變爲毒而其害尤甚矣老子
曰民之輕死以其求生之厚諺曰不用藥勝中醫宜哉
嗟與其庸醫之手所翫弄而損其壽不如飲湯茶以終
天命焉雖然禄衆醫豫備不虞之疾也今爲醫生者去
此三弊熟議讜論盡心致身而唯其藥之驗其疾之治
是圖焉又擴充及士民不侮鰥寡不癈困窮則可謂仁
之術而已矣

天保七年歳次丙申夏五月撰文幷書
    景山  



  (注)  1. 上記の本文は、公益財団法人徳川ミュージアム所蔵の「醫
        弊説(拓本)」
によりました。
           → 公益財団法人徳川ミュージアム
                 → 「醫弊説(拓本)」

      
2.
「医弊説(拓本)」は、毎行21字で書かれています。拓本の
       文字がよく読み取れないので、翻字が誤っている可能性が
       あります。その点、申し訳ありませんがご注意ください。お気
       づきの点を教えていただければ幸いです。
        碑文の字数は、1013字(1行21字×49行-16字)です。
      
.  本文中の「辯」の文字について
          「篆書医弊説」の本文中には、4つの辯が出て来ますが、
        すべて同じ形の「辯」なので
、ここではみんな「辯」にしてあ
        ります。
しかし、他の写本では次のようになっています。 
        (読み取りが不正確な恐れがあります。)
                A    B    C    D
         1番目   辯   辯   辯   辨
         2番目   辯   辯   辯   辨
         3番目   辯   辯   なし  辨
         4番目   辯   辯   辨   弁  

          A : 徳川ミュージアム拓本 → 「医弊説」(拓本)
          B : 研医会本 → 「水戸景山公篆書醫弊説」
          C : 京都大学本 → 「医弊説 1巻」
          D : 京都女子大学本 → 「医弊説」

           参考までに各本文の字数を調べてみると、次のようになりました。
         数え間違いがあるかもしれません。
          それにしても、どの本文が最終的に確定本文と言えるものなので
         しょうか。
           A : 徳川ミュージアム拓本 → 1013字
                           (21×49-16=1013)
           B : 研医会本 → 992字(7×142-2=992)
           C : 京都大学本 → 987字
           D : 京都女子大学本 → 913字

      4. 徳川ミュージアムの拓本「医弊説」(最後の日付けが、「天
        保七年歳次丙申夏五月」となっている)は、最後の部分が
        他の本文と違っていて、「……雖然禄衆醫豫備不慮
        之疾也」の次が、
        「今爲醫生者去此三弊熟議讜論盡心致身而唯其藥之
          驗其疾之治是圖焉又擴充及士民不侮鰥寡不癈困窮
          則可謂仁之術而已矣」
(以上、53字)
       
となっている点が注目されます。(拓本の画面の文字がよく
         読み取れないので、漢字が誤っている恐れがあります。)
         他の「医弊説」(最後の日付けが、「天保七年歳次丙申夏四
         月」となっている)の本文では、この部分が次のようになってい
         ます。
        「若有可必用醫藥則使其所任之一醫調藥於目前以煎
         服焉可矣不必會議也」
(以上、31字)

       5.  医弊説に書かれている天保七年(1836)は、斉昭が37歳の
        時です。『水戸市史』中巻」(三)に、「斉昭が有名な「医弊説」
        を書いて、医薬が「保命の大具」であることを強調する」と共に、
        その大具をあずかる医生が、名利に走る現状を痛烈に批判し、
        その宿弊の除去を説き、医療界の改革を主張したのは天保
        六年のことであった」とあります。(同書、1179頁)

       6. 徳川斉昭(とくがわ・なりあき)=幕末の水戸藩主。治紀(はる
                とし)
の子。字は子信、号は景山・潜竜閣。藩校弘道館を
           開設して文武を奨励、鋭意藩政を改革、幕政を補佐した
           が、将軍継嗣問題で一橋派に属し、井伊大老に忌まれ
           て永蟄居。 諡号(しごう)、烈公。(1800-1860)
                            
 (『広辞苑』第6版による。)
       7. 水戸市にある公益財団法人・徳川ミュージアムのホームペー
        ジに、「医弊説」の拓本があります。碑文に「天保七年歳次丙
        申夏五月撰文幷書」とあります。
           → 公益財団法人・徳川ミュージアム
              → 「医弊説」(拓本)
          碑文の字数は、1013字(1行21字×49行-16字)=です。

       8.   フリー百科事典『ウィキペディア』に、徳川斉昭の項がありま
        す。

            フリー百科事典『ウィキペディア』 → 徳川斉昭  
        
 
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