資料590 女化原稲荷由来之事(『東洋義人百家伝』所収の『常久肝胆夢物語』による)



         女化原稻荷由來之事    
                 『東洋義人百家傳』所收の『常久肝膽夢物語』による      


(こゝ)に女化原(をなばけはら)女化稻荷の由來を尋ぬるに、昔この原は大永の頃迄は馴馬(なれま)が原とも和田原と申けるとかや。或時一個の旅人(たびゞと)夕ぐれに此原を通りしに、十八九歳ばかりの美女忽然と出來りて旅人(りよじん)を見かけはらはらと涙を流し申けるは妾(わらは)は馴馬より岡見村へ嫁せしものなり。姑(しうとめ)口喧しくして辛抱なりがたく逃げ出(いで)てはべりしが、夜(よ)に入りて此原を女の一人行かんこと便なきわざなり。いかで馴馬村迄見送りてたびてんやと云ふさまのいと哀れなりければ、旅人(たびゞと)も不愍におもひて馴馬村まで送り屆けたり。然るにこの女は一度ならず度々出(いで)てかゝる事をなせしにぞ、扨はこの女は眞(まこと)の人間に非ず全く彼の原に栖む狐なり、と申觸らし夜(よ)に入りては往來(ゆきゝ)も稀れになりゆきしが、其後(そのご)誰名づくるとなく、この原を女化原と云ひ傳へたり。又其の後(のち)同國根本村と云ふ處に忠七と云ふ農夫あり。土浦の市返へりにこの原にて狐を助けたる事ありしに其夜(そのよ)忠七の方へ廿歳(はたち)ばかりの旅姿の婦人(をんな)來りて一夜(いちや)の宿(やどり)を乞ひ、忠七に云ひ寄りて一夜(ひとよ)の契りをむすびしが、離れがたなき摸樣にて終に夫婦の語らひをなし、八箇年の間連れ添ひて中睦じく三人の子を生めり。姉をお鶴と云ひ七歳になり次は龜吉とて五歳になり三男は竹松とて三歳になりけるが、この秋女房はからずも狐の正体を子供の爲めに見顕はされ、爲方(せんかた)なさに何處(いづこ)ともなく逃去りける。竹松の帶へ歌を書きたる書面を結付(ゆひつ)けて立退きたり。
 歌に 緑り兒の母はと問へば女化の原に泣々伏すと答へよ
此事世の人の能く知る所なり。其の後(のち)子供成長して家を繼ぎけるが、三男の竹松は上方に移りて住居(じうきよ)せり。竹松の子再び關東に還へり、西森次郎義長と稱し後(のち)下總守と改む。智謀に富み勇略に秀づ。岡見中務(なかつかさ)の臣となり關東の孔明と稱せられたり。蓋しこの事は東國戰記に出づると云ふ。扨この義長は四十歳にして歿しけるが、其の生存中に先祖の事を想ひ出(いだ)し、此原は幸ひに領分なればとて、稻荷明神を勸請せり。今其の子孫栗山村にありて覺兵衛と云へる農家たり。毎年(まいねん)初午の祭禮には該家(がいか)より出(いで)て祭の事を司るよし云々



  (注) 1. 上記の「女化原稲荷由来之事」は、『東洋義人百家伝』に収められている『常久肝胆夢物語』によりました。
「村々大小之百姓女化原へ集る事  附女化原稲荷由来之事」の「女化原稲荷由来之事」の部分です。(この部分は、『東洋義人百家伝』第三帙之下の中の『常久肝胆夢物語』上巻に出ています。)

『東洋義人百家伝』第三帙下(小室信介編。案外堂蔵版、明治17年6月30日大橋忠孫出版)は、文学研究資料館のホームページに収められています。
   → 文学研究資料館 
    → 『東洋義人百家伝』第三帙下 (103~105/135)
同じ本が、国立国会図書館デジタルライブラリーにも収められています。
   → 国立国会図書館デジタルライブラリー
    → 『東洋義人百家伝』第三帙下 (16~18/48)
   
    2. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ仮名を繰り返して表記してあります。(はらはら)    
    3. 初めの部分に出ている「和田原と申しけるとかや」は、「和田原とも申しけるとかや」ではないかと思いますが、原文のままにしてあります。
また、中程に出ている「中睦まじく」の「中」も原文のままです。
   
    4. 『東国戦記実録』所収の「女化ノ原野狐物語ノ事」が資料588にあります。
 → 資料588「女化ノ原野狐物語ノ事」(『東国戦記実録』より)
   
    5. 「栗林義長伝」(『常総軍記』巻十・『利根川図誌』による)が資料589にあります。
  → 資料589「栗林義長伝」(『常総軍記』巻十・『利根川図誌』による)
   
    6. 女化(おなばけ)=茨城県牛久市の南部に位置する町。牛久市女化町。
  → フリー百科事典『ウィキペディア』 
          → 女化町(おなばけちょう)
   
    7. 似たような話の、有名な古浄瑠璃「信太妻」が資料198にあります。
  → 資料198 古浄瑠璃「信太妻」
   




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