資料198 古浄瑠璃 「信太妻」



        信太妻(しのだづま)
             「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」
                    
        第一
 それ、天地陰陽の理、吉凶、禍福のことは、人の智と、不智とにあり。これを知るときは、天地日月も、掌(たなごころ)のうちにあり。これを知らざるときは、目前、なほ明らかならず。
 ここに中頃、天文地理の、妙術を悟りて、神通人(じんつうにん)と、呼ばれし、安部の清明(せいめい)の由来を、くはしく尋ぬるに、人皇(にんのう)、六十二代、村上天皇の、御宇(ぎょう)に当たつて、五畿内、摂州の住人、安部の郡司、保明(やすあき)とて、上オロシ弓取り一人おはします。先祖のらい(ママ)かを、尋ぬるに、安部の仲丸(なかまろ)より、七代の後胤たり。さるによつて、その氏を、安部と号す。四天王寺と、住吉との、間(あい)に、一つの、庄を開き、代々(よよ)、ここに住み給ふ。さてこそ、この所を、安部野の里と、名づけたり。しかるに、保明、御子一人、持ち給ふ。安部の権太左衛門保名(やすな)、とて、生年二十三、その形、柔和にして、容顔美麗なり。ことに臨んで、怒るときんば、力量そのさま、すさまじく、大剛(だいこう)の勇士たり。しかるに、当家重宝、安部の仲丸、代々(よよ)伝はりし、天文道の、巻物あり。されども、弓馬の道に携はり、これを窮むることもなし。さて、家の執権に、三谷(みたに)の前司はやつぐ、そのほか、家の子日々に、出仕つかまつる。あるとき、保名、父に向かひ、「内々それがし、宿願あり。泉州、信太(しのだ)の明神へ、月詣で仕り候。当月は、いまだ、参詣、申さず候。今日参詣、仕りたく候」。保明、聞こしめし、「宿願ならば、少しも怠る、ことなかれ。はやとくとく」との、御諚(ごじょう)。「かたじけなし」と、お受けを申し、げに浅からぬ、親子の仲、うらやまざらんは、三重なかりけり。
 これはさておき、その頃、河内(かわち)の、住人、石川悪右衛門の尉(じょう)つね平(ひら)と、言ふ者あり。これは天下にその名をあらはし、今日本に一人の、占形(うらかた)の名人、芦屋の道満法師(どうまんほっし)が、弟(おとと)なり。国は、播磨、印南(いなみ)の住人なりしが、兄の道満、朝家(ちょうか)に仕へ、数箇所(すかしょ)の、領地を給はる。その威勢によつて、弟つね平も、河内の守護となり、石川郡(こおり)に、居住して、栄華に栄え、なにごとも、心にまかせずと、いふことなし。しかれども、わがままならん、病(やもう)の道、つね平が妻女、かぜの心ちとて、万死の床(ゆか)に、伏しけるが、一門家の子、さまざま医術と、尽くせども、そのかひもなし。つね平申しけるは、「ことかりそめのやうに思ひしが、熱病、はなはだしく、なかなか大事(だいじ)なり。都にまします、舎兄(しゃきょう)、道満法師(ほっし)を頼み、病気の体(てい)を、占はせ、その様子によつて、あるいは、生霊、死霊の、わざにてあるか、尋ねみんと、道満の方(かた)へ、人をつかはし候へば、さつそく、来たるべきの、返状なり」と語るところへ、番の侍、「都より、御舎兄、道満の、御下りにて候」と申し上ぐる。つね平、喜び、「やれやれそれ、こなたへ」と、やがて立ち出で、「こは早々(そうそう)の、御来駕、かたじけなく候」と、やがて奥へ請(しょう)じける。道満、のたまふは、「さつそく参るべきやうに、存じつれども、御門(みかど)の御用繁く、思はず、あひ延び候。さて病人の様子はいかに」。つね平、「さん候(ぞうろう)。ただかりそめのやうに存じ候へども、熱病しきりに、五体を苦しめ、堪へがたく候」と、始め終りを申し上ぐる。道満聞きて、「さてその病気、さし起こりたる、月日刻限はいかに」。「されば、過ぎつる中の十日の夜(よ)、子の上刻かと覚え候」。道満、うちうなづき、「いでいで占ひみん」と、先祖、芦屋の宿禰(すくね)きよふとが、唐土(もろこし)の、法道仙人に会ひて、天文地理(ぢり)、易暦を学び、書物に著(しる)し、子孫に伝へし、所伝を取り出し、しばし鑑み、「いかにつね平、この病気は、いかにも、ほんしんより出でたれども、常に変りし、ぎやくきやうちうといふ病なり。常体(つねてい)の医師、存ずべき病所にてなし。この療治には、若き女狐の、生肝取り、すぐに病人へ、与へなば、たちまち病気、平癒すべし。これすなはち、法道仙人の、伝への内に、たしかに、こもれり。片時(へんし)も、いそぐべし」と申すところへ、都より、飛脚到来し、「道満法師、いそぎ上京なさるべし。唐土(もろこし)より、そうこくと申す、官人(かんにん)渡り、いろいろの貢ぎ物さし上ぐる。その儀につきて、占形(うらかた)なさるべしき(ママ)との、宣旨下り候」と、事急に申し上ぐる。道満、「その儀ならば、さつそく、上洛すべし。いかにつね平、いよいよ、さいぜん申せしごとくに、はからひ給はば、おつつけ、平癒あるべし。本復(ほんぶく)の喜びにこそ来たらめ」と、フシオトシそのまま都へ上らるる。さてつね平、「やれこの上は、片時(へんし)も早く、調へん。さいはひ、泉州信太の森には、野干(やかん)、多き所と聞く。それがしたち越え、狐狩りせん。留守の中、よく病人をいたはるべし」と、数(す)百人の勢子(せこ)の者、上下出で立ち、信太の森へぞ、三重いそぎける。
 さればにや、安部の保名は、供人少々にて、信太の宮へ参詣し、神前に向かひ、「所願成就、武運長久」と礼(らい)し、さて拝殿に大幕打たせ、酒宴し、上下ざざめき遊びける。さて拝殿に、さまざまの歌仙を、掛け置きたり。保名は見給ふに、まづ一番に見えたるは、柿本人丸(かきのもとのひとまろ)、歌には、フシほのぼのと、明石の浦の、朝霧に、島隠れ行く、舟をしぞ思ふ。これ、神道の根本、仏果、菩提の、妙文(みょうもん)、人間、生死(しょうじ)の、ありさまを、浦漕ぐ舟に、なぞらへて、深き心を詠まれたり。さてそのほかは、赤人、業平、小町が歌、末に有りしは中務(なかつかさ)、連ねし歌に、フシうぐひすの、声なかりせば、雪消えぬ、山里いかで、春を知らまし。げに心なき、鳥類、花に鳴く、うぐひす、水に住む、蛙(かわず)の声、いづれか、歌を詠まざるや、神も仏も、納受あるはこの道ぞと、ツキユリフシしばしながめて、おはしますところへ、悪右衛門が勢子の者、信太の森へ駈け上(のぼ)り、おめき叫んで、狩り下(くだ)すところに、西の山の手より、狩り出されたる、狐夫婦、子を引き連れ、勢(いきおい)、はづんで、通りしが、二匹の、親は逃げのび、後なる、子狐、あまりせつなく、保名が、幕の内へぞ、逃げ入りける。保名、もとより、慈悲深く、「さてさて、不便(ふびん)や。畜類なれども、せつなきゆゑ、助けてくれよと、言はぬばかり。ええむざんや、それ助けよ」と言ふところへ、勢子の者ども来たり、「まさしくこの幕の内へ、野干入りたり。出だされよ」と、口々にぞ申しける。保名聞きて、「それそれ、ずゐぶん手を下げ、穏便にはからへ」。かしこまつて立ち出で、「いやいや野干は、この方(はう)へ参らず候。余方(よかた)を尋ね給へ」と、さらぬ体(てい)に申しける。勢子の者、怒つて、「まさしく、見つけて来たりけり。ぜひ出だされよ。さなくば、押し入り、無体に、取らん」と、怒りける。郎等聞きて、「さては、狐が入りしを、見給ふな。この上は、ぜひなし。いかにも、野干はこれにあり。渡したく候へども、この方(はう)頼み、駈け入りたるを、いかに畜類なればとて、むざむざと、渡しては、不便(ふびん)なり。われわれ、宿願あつて、この宮へ、参詣いたす。神前を、穢さんも、もつたいなし。この方へ申し受けん。ぜひ、宥免(ゆうめん)あつて、通られよ」と、オトシフシいと、神妙(しんびょう)にぞ申しける。勢子の者、勝(かつ)にのり、「やあ、おこがましき、ことばかな。ぜひ出ださずば、駈け入る」と、幕の内へ入らんとす。保名が、郎等、「狼藉者や」と、おし止(と)むるところを、いなやにおよばず、抜き打ちに、はつしと打つ。すかさず、受け止め、真つ向(こう)二つに斬り割つたり。残る者ども、一度にぱつと、追つ散らし、さて保名は、くだんの野干を取り出だし、「さぞ親どもが、嘆くらん。それそれ」と、放されける。イロあと立ち返り、うれしげなる、風情にて、ハズミフシゆくへも知らずなりにける。ところへ悪右衛門、大勢を引き具し、幕近く立ち寄り、大音上げ、「何者なれば、この方に、用事あるゆゑ、打ち取る野干を、無体に、奪(ば)ひ取るのみならず、わが手の者、さんざんに、打ち散らし、狼藉なる、ふるまひ、一人も余さじ。われ、石川の悪右衛門、つね平、といふ者なり。はやはや出でよ。命惜しくば野干を出し、降参せよ」と、怒りける。保名、堪(こら)へぬ若者にて、「なに、石川の悪右衛門とや。われこそ、摂州、安部の郡司、保明が一子、権太左衛門保名と、言ふ者なり。なんぢが下部(しもべ)ども、それがしが、幕の前にて、狼藉をせしかども、下人と思ひ、わざと降参しつれば、勝(かつ)にのり、幕の内へ、斬つて入るゆゑ、追つ散らしたり。下郎のわざ、主人の、知らざることよと、思ひしに、さては、悪無慚の、狼藉者に申しつけ、事を好む者と見えたり。イロオンおのれがようなる、無道人(ぶどうじん)、合はぬ相手と思へども、是非に及ばず。いざござれ」と、太刀抜き打つてかかる。悪右衛門が、郎等渡り合ひ、ここを先途(せんど)〔と〕、斬りむすぶ。大勢に、無勢(ぶぜい)の、ことなれば、保名が郎等、ことごとく討たれ、あるいは手を負ひ、保名も傷を蒙り、しばし休らふところへ、悪右衛門が、郎等、さわなみ清六、隙間もなく斬つてかかる。上段下段、つけつからんず、戦ひしが、保名、とある伏し木に、けしとみ、かつぱと転(まろ)ぶを、清六、はつしと打つを、ちやうど受け止め、伏しながら、イロジフシさつと薙いだ。諸膝(もろひざ)流れ、のつけに返すを、立ち上がつて、首を打つところへ、郎等、駈けつけ、むずと抱く。「心得たり」と、前へ、「えい」と引き伏する。また三人取りつく。これをも、引き伏せんと、競り合ふところへ、大勢、どつと、折り合ひ、手取り、足取り、フシやがて繩を掛けたり。保名、怒つて、イロオン「ええ、無念や、さしものそれがし、繩目の恥に、及ぶこと、天道に捨てられたり。イロええ父上の、思(おぼ)しめされん、口惜しや」と、歯がみをなし、怒らるる。つね平聞きて、「やあ、最前の、高言とは違ひ、やみやみと、生捕られしよな。見ればなかなか、腹の立つ。それ、頭(こうべ)を刎ねよ」。かしこまつて、傍(かたわら)へ引き据ゆるところへ、河州(かしゅう)、藤井寺の、住僧、らいばん和尚、供数多(あまた)にて、来たらせ給ふ。つね平、もとより、檀那の、ことなれば、「これは存じよらざる、御来臨にて候」。和尚聞こしめし、「愚僧この頃、用事あつて都へ上り、一両日以前に罷り下り、貴殿、内方(ないほう)、病気をも存ぜず、今日、宿所へ立ち越えしが、承りしより、なかなか元気に、見えて候。貴殿のこと、尋ね候へば、用事ありて、この所へ来られしと聞きて、さいはひ、明神へ、志のついでながら、御目にかからんため参りたり。してそれなる、囚人(めしゅうど)は、いかやうのことにて、はからひ給ふ」。つね平、「さん候(ぞうろう)。まづ思しめしより、宿所まで、御来駕かたじけなく候。さて、この段は、かやうかやうの、狼藉ゆゑ、かく召捕りて、殺害(せつがい)、いたし候」と、始め終りを語りける。らいばん、聞こしめし、「もつともさもあらん。さりながら、愚僧これへ参り合ひ、殺害せらるる者を、見捨てて、通るべきや。不思議に来たるも、仏神の御加護にてあるらん。いかやうの科(とが)あるとも、日ごろ檀那のよしみに、不承ながら、この囚人(めしゅうど)を、それがしに給はり候へ」。つね平、承り、「仰せ背きがたく候へども、きやつめが、重々の、科人(とがにん)にて、賽(さい)の目に、刻みても、飽きたらず候へば、まつぴら、御許し下さるべし」と、ことばを分けて申しける。和尚聞こしめし、「もつとも至極いたしぬれども、出家たらん者が、たとへ、鳥類、畜類なりとも、わが身に代へても、命を救ふが、出家の作法なり。たとへ申し受けたりとも、男は立てさせ申すまじ。すなはち、ここにて衣を着せ、愚僧が弟子につかまつらん。オスフシひらにひらに」と申さるる。つね平、今は是非なく、「和尚、さやうに、のたまふを、いかで、否とは申さるべき。それそれ、囚人を、和尚様へ渡し申せ」。かしこまつて、相渡す。「さてそれがしは、子細あつて、これよりすぐに、立ち寄るかたの候へば、さつそく、御暇申し上げん」と、礼儀を述ぶれば、和尚も同じく、「この方より、使僧をもつて、御礼申さん」。さらばさらばと、イロフシ言ふ声の、両方へこそ、別れける。その後、保名が、縛(いまし)め切りほどき、「われわれこそ、まことの人間にあらず。御身思はぬ、難に合ひ給ふも、みなわれわれがゆゑなれば、せめて、難儀を、救はんため、姿を変じて、謀(たばか)り申したり。最前の命の恩、イロオンいつの世にかは、送るべき。ただ何事も、時節到来」と、言ふかと思へば、たちまち、形を変じて、野干となり、行きがた知らず失せにけり。保名は、とかく呆れはて、しばしたたずみ、ゐたりけり。「ええ、フシユリ心なき畜類も、情けの道を忘れず、命の恩を、送りたるありさま、げに人間にまさりたり」とて、みな感ぜぬものこそなかりけれ。

        第二
 安部の保名は、思はぬ難に、合ひけれども、野干が志ゆゑ、不思議に命、助かりけり。されども、ここかしこと、傷を蒙り、心も苦しく、息を吐(つ)かんと、谷川へ、下(くだ)るところに、賤(しず)の女(め)とうち見えて、二八(にはち)ばかりの女房の、いとやさしげなるよそほひにて、かの川へ下り立ち、水を汲むと見えしが、なにとかしけん、岩にけしとみ、かつぱと落つる。されども蔦蔓(つたかずら)に取りつき、危うきところに、保名、はつと言うて立ち寄り、手を取つて引き上げ、「さてさて危うき次第やな。怪我ばし、なきか」と言へば、女房ほつと、息を吐き、「ああさて、かたじけなき、ことどもや。すでに死すべきところをば、御助け給はる段、かへすがへすもありがたく候。さるにても御身は、いづくいかなる、御方ぞや。かやうの所へ、来たり合はせ給ふも、ひとかたならぬ、御縁ぞや。なにとしてかこの恩を、送り返し申さん」と、面映ゆげにぞ申しける。保名聞きて、「さればそれがしも、近国の者なるが、信太の明神へ、参詣いたし、不慮にこの所にて、かやうの難に合ひ、精気も、疲れしゆゑ、咽(のんど)を潤さんと思ひ、この川に来たり、ただ今の仕合はせなり」と、つぶさに語らせ給へば、女房聞きて、「さてはさやうの人なるか。みづからと申すは、この山陰(やかまげ)に住まひいたす、賤(しず)の女(め)にて候。仰せを聞けば、ことのほか御身も苦しき様子なり。みづからが、住み荒らしたる庵のあれば、まづこれへ立ち寄らせ給ひて、疲れを晴らさせ給ふべし。ただ今の命の恩に、ぜひに伴ひ奉らん」と、いとねんごろにぞ申しける。保名聞きて、「ああ近ごろうれしう候。ことのほか、疲れたれば、参りて少し休らひたくは候へども、御身こそ、さやうにのたまへ、また主(あるじ)の、いかが思しめし候はんや」。女房聞きて、「仰せもつとも、さりながら、みづからは、夫(つま)とても候はず。埴生の小屋に、ただひとり住む、山賤(やまがつ)にて候へば、なにか苦しう候はん。ぜひこなたへ」と勧むれば、保名も今は、とかうなく、「この上はともかくも、仰せは背き申すまじ」と、うち連れ山路(やまぢ)に入りにける。げに例(ためし)なき、妹背の縁、不思議なりける、三重次第なり。
 これはさておき、安部の郡司、保明は、家の子郎等近づけて、「さても保名は、信太より、早々(そうそう)帰ると思ひしに、いまだ、下向せざるか」と、のたまふところへ、保名が召し連れ行きし、下人一人、大息吐(つ)いて馳せ来たり、保明の御前(まえ)に出で、信太にての次第、初め終りを語り、「味方は無勢、敵(かたき)は大勢ゆゑ、かなはずして、つひに若君も生捕られさせ給ふ。それがしも斬り死(じに)にせんと、存ぜしかども、このこと知らせ奉り、その後安否を、窮めんと存じ、かくの段に候」と、申しもあへぬに、保明、大きに立腹あり、「さてさて、それは、口惜しき次第かな。よくこそは、知らせたり。事を延ばして、かのふまじ。片時(へんし)も急に取りかけ、保名をば取り返さん。もしまた、運命、尽き果てて、保名討たれてあるならば、われもすなはち、その所を最期と思ひ定むぞ。なんぢら、それ物の具の、用意して、後より追つつけ、かたがた」と、門外より馬にうち乗り、駈け出せば、数万(すまん)の家の子、「やれ、安部の家の滅亡、このたびなるは」と、あわてふためき、われもわれもと、三重いそぎける。
 さればにや、悪右衛門つね平は、よしなき、野干の争ひゆゑ、ここかしこと、暇(ひま)をとり、事、延び延びになりけるが、やうやう、野干を取り持たせ、山路(やまじ)をこそは、出でにける。向かふを見れば、なにかは知らず、大勢、けはしく馳せ来たる。こはいかにと、見るところに、ほどなく馳せ着き、大音上げ、「やあそれなるは、悪右衛門にては、なきか。かく言ふは、摂州、安部の郡司、保明といふ者なり。さてさておのれは、なにたることに、それがしが子を、理不尽には、搦(から)め置きしぞ。いそぎ、こなたへ、渡すべし。さなくば、おのれら、安穏には、置くまじ。いかにいかに」と、呼ばはつた。つね平聞きて、「なに、安部の郡司、保明とや。もつとも、不慮の、口論ゆゑ、保名とやらんを、召し取りてはありけれども、藤井寺の、らいばん和尚、さまざま、申さるるによつて、ぜひなく、助け帰したり。この方には知らず」と言ふ。保明聞きて、「さてさておのれは、臆病至極の、愚人かな。今さら、さやうに陳ずるとも、いかでそのかひあるべきや。とかくはよしなし。やれなんぢら、ものな言はせそ。斬つてかかれ」と、下知(げじ)すれば、「承る」とて、郎等ども、切先(きっさき)を並べ立向かふ。敵(かたき)も今はせんかたなく、防ぎとめんと、抜きつれて、火花を散らして、三重戦ひけり。
 保明が郎等ども、思ひきつたる、励みの体(てい)、またつね平が、者どもも、互ひに劣らず、働きければ、両方ともに、みなことごとく討たれけり。寄手(よせて)の大将保明、なにさま保名は、さいぜん討たれたるに、まがひなし。所詮わが子の、孝養(きょうよう)に、敵の大将討ち取つて、本意をとげんと思ひ、つね平をめがけ、一文字に打つてかかる。悪右衛門、「心得たり」と、しのぎをけずり、鍔(つば)を割り、ここを先途〔と〕、斬りむすぶ。つね平、なにとかしたりけん、受太刀になつて、危うく、見ゆるところへ、郎等、一人来たつて、保明の、腰の番(つがい)を、ちやうど斬る。南無三宝と、振り返つて、真つ向二つに、斬り割つたり。また、つね平と、打ち合ひしが、保明、運のきはめかや、太刀を、枯木(こぼく)へ打ちこみ、抜かんとする間(ま)に、つね平、踊り上がつて、ちやうど打つ。なにかはもつてたまるべき、五十四歳を一期(いちご)にて、つひにそこにて討たれけり。悪右衛門、しすましたりと、喜ぶところへ、保明の郎等、三谷の前司、馳せ来たる。つね平、こはかなはじと、そのままそこを立ち去りけり。そのあとへ、三谷の前司、大息吐(つ)いて駈けつけ、このよしを見て、「南無三宝、しなしたりしなしたり」と、主(しゅう)の死骸を取りかくし、「おのれ悪右衛門め、いづくまでかは、逃がすべき」と、跡を慕うて、三重追つかけたり。
 さるほどに、つね平は、やうやうと逃げのびて、もはやその日も暮れ、あなたこなたと、迷ひしが、灯火(ともしび)かすかに、見えければ、いそぎ立ち寄り、「いかにこの家(や)の主(あるじ)、われは道に、踏み迷ひたる者なるが、後(あと)なる森にて、山賊に会ひ、ただ今これへ、追つかけて来るなり。あはれ影を隠して給はれ」と言ふ。主(あるじ)の女房、聞くよりも、「いやさやうの人に、御宿はなりがたし。その上、夜陰のことなれば、かなふまじき」と、申しもあへぬに、三谷の前司、馳せ来たり、これも、灯火(ともしび)を、便りに立ち寄り、人影すと、すかして見て、「やあそれなるは、敵(かたき)にてはなきか」と言ふや、そのまま斬つてかかれば、「心得たり」と、抜き合はせ、しばしが間、斬りむすぶ。庵の内には、保名も、女房も、こは不思議なることやと、耳を澄まして聞きゐたり。なにとかしけん、三谷が太刀、鍔元より、ぽつきと折れ、こは無念と、つつと入りて、引つ組み、大金剛力を出し、「えいやつ」と、組み伏せたり。されども、首を掻くべき、打ち物なし。「ええ口惜しや。おのれ、ねぢ首にせん」。せられじと、両方、歯がみをなして、時を移す。悪右衛門、下より大音上げ、「やあこれなる庵に主(あるじ)はなきか。われこそ、河州石川悪右衛門といふ者なり。さいぜん申せし、山賊来たつて、ただ今わが命を取るは。あはれ出合ひ、助けたらば、所領を、望みに取らせん。近国に隠れなき、悪右衛門を知らざるか。出合へ出合へ」と呼ばはつたり。保名、この声を聞くよりも、「これは天の与へかや。いで討ちとめん」と言ふ。女房聞きて、「さあらばみづから、火を持つて出づべきなり。そのあとより狙ひ寄つて、思ふままに討ち給へ」。「心得たり」と、女房を先に立て、後(あと)について出でにける。三谷の前司これを見て、「やあ何者なれば、山賊と思ひ、あやまちするな。われは主(しゅう)の敵討ちぞ」と言ふ。保名、火の光に、すかして見て、「やあなんぢは、三谷の前司にてはなきか」。「してさう言ふは何者ぞ」。「われは安部の保名にてあるが、さて主の敵とはいかに」。前司、はつと驚き、「さて君にてましますか。なうきやつめが、大殿を討ち申して候。子細は、追つて申さん。さあこれ、あそばされよ」。保名、「おう、聞くまでもなし。わが身の敵、親の敵、覚えたるか」と、首宙に打ち落とし、「まづ庵にて、様子を聞かん。いざいざこなたへこなたへ」と、三人うち連れ入りにける。父子主従の機縁、世に珍しくも、巡り合ひたる、敵討ちやと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 

        第三
 それ人界(にんがい)の盛衰、盛者必滅(じょうしゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。過ぎし頃、信太の森にて、父を失ひ、その敵を討ち取り、余の人口を、塞がんため、古里へも帰らずして、女房の情けゆゑ、影を隠して、和泉なる、信太の森もほど近き、とある在家(ざいけ)の、住居(すまい)して、明かし、オクリ暮らしておはします。
 年月、重なり、今ははや、七歳になり給ふ、若君、一人おはします。御名を、安部の童子と、つけ給ひ、御寵愛、限りなし。この若、成人の期(ご)に至つて、三国(さんごく)に隠れなき、占形(うらかた)の、名人、安部の清明(せいめい)、これなり。保名も今は、耕作をし、営みしが、今日もまた、野に出でんと、表をさして出でければ、童子、さもいたいけに、膚(はだえ)そのまま、父の跡を慕ひ出でんとす。母引きとめ、イロ「ああ、冷やかなりし、秋の風、イロ引きわづらはば、いかがせん」と、小袖をうち着せ、廻して結ぶ、狭織帯(さおりおび)、いと愛らしき、よそほひ、イロ子を思ふこそ、絶えもなし。賤(しず)が手業の、習ひとて、イロ営み営みに、フシ機(はた)を立て、辛(から)き世を、逃がれんと、やがて機へぞ上がらるる。人の情けに、寄り竹の、ツキユリフシ賤が苧環(おだまき)、繰り返し、縒(よ)れつ縺(もつ)れつ、君が思ひのかねごとは、ユリフシ宿る暇(ひま)なく、くるくると、きりきりはたり、ちやうちやうと、織る機布(はたぬの)こそ、やさしけれ。
 さればにや女房、世の常の人ならず、信太の、野干(やかん)なりしが、保名に命助けられ、その報恩のため、人界(にんがい)に交はり、はや七年(ななとせ)になりにける。頃しも今は、秋の風、梟(ふくろう)、松桂(しょうけい)の、枝に鳴きつれ、イロ狐、蘭菊(らんぎく)の花に、蔵(かく)れ棲むとは、古人の伝へしごとく、この女房、庭前なる、籬(まがき)の菊に、心を寄せしが、咲き乱れたる、色香に賞(め)でて、イロながめ入り、仮りの姿をうち忘れ、あらぬ形と、変じつつ、フシユリしばし時をぞ移しける。折ふし、童子は、うたた寝してゐたりしが、目を覚まし、母の後ろに来たりしが、顔ばせを見るよりも、「やれ恐ろしや」と、おめき叫んで嘆きける。母、はつと思ひしが、さあらぬ体(てい)にて、「やれなにを、さやうに、恐れ嘆くぞ」。童子はさらに近づかず、イロ「なう母上の、御顔ばせの、変はらせ給ひて、恐ろしや」と、嘆くところへ、乳母(めのと)来たり、「なにとて、御機嫌、悪しく候」。母、さらぬ体(てい)にて、「いやつやつや、寝入りてありつるが、目を覚まし、騒がしく駈け出るゆゑ、母が方(かた)へ来たれと言へば、かへつて、母が恐ろしきとて、あらぬことのみ申すなり。それそれすかしてたべ」とのたまへば、乳母承り、やがて若を抱(いだ)き、奥の出居(でい)へぞ入りにける。さて母上は、くどきごとこそあはれなり。「われはもとより、仇(あだ)し野の、草葉の影を、隠す身の、人の情けの、深きゆゑ、クリ上フシ幾年月を、送りしが、いかなれば、あさましや、色香妙なる、花ゆゑに、心を寄せて、水鏡、うつる姿を、嬰児(みどりご)に、見とがめられしは、何事ぞや。これぞ縁の尽きばなり。あの体(てい)ならば、父上にも語るべし。せめて、あの子が十歳になるまで、見育てたく思へども、力及ばぬ次第なり。本(もと)の棲処(すみか)へ帰るべし。イロああさてかなはぬ、うき世や」と、しばし涙を流しける。さるにても、夫(つま)の保名、帰らせ給ふを待ち受け、よそながらなりとも、暇乞ひとは存ずれど、いやいや、ただ御留守に立ち去り、跡を見せぬにしくはなしと、思ひ立つこそあはれなれ。ところへ、乳母、若君を抱(いだ)き、「御休みなされ候」と、申し上ぐる。母上、「それ、こなたへ」と、抱(いだ)き取り、「ああ不便(ふびん)や」。同じ、褥(しとね)に、寄り伏して、にゆうみ(注・乳)を参らせ、さまざまと、いとほしみ深き、ありさまは、フシなほもあはれぞ、まさりける。ほどなく、若君、寝〔入〕らせ給へば、よにもうれしく、はや立ち出でんと、思はれしが、いやいや、そのまま出づる、ものならば、夫(つま)の保名、不思議をなさせ、給ふべし。あらましを、書き置かばやと、硯引き寄せ、文(ふみ)こまごまと、書かれたり。
「恥づかしながら、みづからは、信太の、森に棲む、野干なり。君に命を、助けられ、その報恩を、送らんため、かりそめながら、縁の結び、はや七年(ななとせ)を、送る身の、常ならぬ姿をば、幼き者に、見つけられ、もはや君にも、いかで、見見(みみ)え参らせんと、思ふ心を、一筋に、立ち出で申すこと、心かなしと思さん。世のありさまを、人の知らねばと、詠みおきし、言の葉に、まかせ、おしはかり給ふべし。かへすがへすも、幼き者、よきに、守(も)り育て、わが畜生の、苦しみを、助けさせたび給へ」。
 イロああさてむざんや、幼き者が、夜にもならば、母よ母よと、尋ね慕はん、ことどもを、思へば思へば、悲しやと、そのまま若に取りついて、前後不覚に泣くばかり。やうやう心を取り直し、幼き者が、後れの髪を、かき撫で、「さてさて、不便(ふびん)や。みづから出づるを、夢にも知らで、フシかく豊かには、やどりけるよ。本の棲処(すみか)へ帰りても、この子がことを、思ひ出ださば、イロいかばかり悲しかるべき。思へば思へば、親子の縁、これが限りか、あさましや」と、またひれ伏してぞ泣くばかり。されども、かなはぬ、ことなれば、書きし文(ふみ)、童子が、紐(ひぼ)に、結(ゆ)ひつけ、そばなる、障子に、一首の歌を、つらねけり。
 フシ恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉
と書きとめ、時刻移り悪しかりなんと、心強くも思ひきり、泣く泣く帰りしありさま、あはれなりオクリける次第なり。
 さてその後、若君は、夢にも知らず、豊かに、伏してありけるが、目をうち覚まし、あたりを見れば、人はなし。「なう母上、なう母上」と、かなたこなたを、尋ぬれども、そのかひさらにあらばこそ。若君、いよいよあくがれ、「やれ、乳母(めのと)はなきか。母上のわれを捨て置き、いづくへやらん、行かせ給ふ。イロなう、今より後は、仰せを背き申すまじ。悪しき手業も、いたすまじ。なう母上様」と、捨てて行きしを、知らずして、常の、おどしと心得、足摺りしたる、ありさま、諸事のあはれと聞こえける。乳母驚き、「これはいかなることやらん」と、申すところへ、父の保名、野辺より帰り、「いかに童子、なにを嘆くぞ」。「なう父上様、母の見えさせ給はぬ」と、フシすがりついて泣くばかり。保名そのまま抱(いだ)きとり、「やれ乳母、何たる子細ぞ」。「いや、なにとも存ぜず候」。保名、不思議に思ふところに、障子に一首の歌あり。
 フシ恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉 
とあり。イロコトバ胸うち騒ぎ、なにとも、ふしぎ晴れやらず。また幼き者が、衣(きぬ)の紐(ひぼ)に、文あり。これを見れば、「なになに、みづからは、信太の森の、野干なりしが、一命を助けられ、その恩の報ぜんため、縁の結び、七年(ななとせ)まで過ごす身の、今さら立ち出で申すこと、あさましやみづからが、あらぬ形を、幼き者に見つけられ、あるにもあられず候。かへすがへすも、幼き者を頼む」との、文体(ぶんてい)、読みもあへず、これはこれはとばかりなり。御涙のひまよりも、「さてはいつぞや、信太にて、助けたりし、野干、恩を送らんと、美女と変じ、それがしが、命(めい)を救うて、さまざまと、育(はぐく)みたるか、やさしやな。たとへ畜類なればとて、この年月の、情けのほど、なにしに疎み果つべきや。まだいとけなきこの若を、不便(ふびん)とは思はずし、いづくへか行きつらん。思へば思へば悲しや」と、かきくどいてぞ嘆かるる。むざんや、幼き者、「なう父上様、もはや日も暮れ候が、母は帰らせ給はぬは。なう母のまします所へ、連れ行かせ給へや」と、わつと叫ぶときにこそ、父も乳母(めのと)も、そのままに、フシ前後不覚に泣きゐたり。保名涙をおさへ、「おうおう、道理かなことわりや。いかに乳母、この体(てい)にては、あるにもあられず。今宵、信太の森へ立ち越え、なにとぞこの子が母に会ひ、今一度、伴ひたく思ふなり。おことは跡の留守を頼むなり。いかに童子、あまりおことが嘆くゆゑ、父は母を尋ねに出づるが、なんぢもともに行くべきか。ただし、乳母に抱かれ、跡に残りて遊ばんや」。若君聞こしめし、イロ「なう、母上様に、会はせて給はらば、いづくへなりとも、参らん」と、フシすがりついて、嘆かるる。保名、不便(ふびん)に思しめし、「おおその儀ならば、連れ行きて、一度は会はすべし。こなたへ来たれ」と、夜半(よわ)にまぎれ、忍び出で、信太の森へぞ、三重いそぎける。
 ここにあはれをとどめしは、安部の童子が母上なり。もとよりその身は、畜生の、苦しみ深き、身の上に、なほ憂きことの重なりて、思ひの種となりやせん。いとど心はうば玉の、夜の伏し処(ど)に、幼子の、母や恨みて、さこそ嘆くらん。イロ不便(ふびん)やと、フシ焦がるるゆゑ下か、露も涙もとどまらで、行く道さらに、見えわかず、立ちわずらふぞ、あはれなり。フシ頃しも今は、秋なれば、千草(ちくさ)にすだく、虫の声、フシかれがれになるぞつらき。憂き言の葉に秋風の、そよそよそよと、吹くときは、早稲田(わさだ)晩稲(おくて)に、立て張りし、ひかで鳴子の音高く、それかと見れば、おしね(注・晩稲)(も)る、かがしの姿見ゆるをも、イロもし猟人(かりうど)やあるらんと、七ツユリ心細さはかぎりなし。やうやうたどり行くほどに、わが棲む森も、近づきぬ。ここに、猟人の、いつも掛け置く、狐罠(きつねわな)、さまざま調へ掛け置きたり。さすが、畜類のあさましさ、心にこめし、フシその数々のことどもを、はつたと忘れ、そのまま、心移りつつ、とやせんかくやと、身もだえして、フシしどろもどろの、足もとにて、立ち寄り笠を脱ぎ捨てて、上なる小袖の袂をば、かざすと見れば、たちまちに、野干となりて、狂ひしは、なにに譬へん、三重かたもなし。猟人、さまざま、手をくだいて、釣り取らんと、しけれども、心利(き)いたる、野干なれば、かへつて、猟人を、罠へ、おし込み、その身は立ち退き、うれしげに、踊り狂ひて、その後は、わが棲む、森の草むらに、フシ入りて形は、なかりけり。
 ところへ安部の保名、幼き者を抱(いだ)き、信太の森に来たりしが、野干の棲処(すみか)、いづくならんと、あなたこなたと、さまよへども、たまたま言問ふものとては、遠き野原の虫の声、秋風渡る葛の葉の、うらみの種をや残すらん。保名あまりのもの憂さに、声を上げ、「やれこの子が母は、いづくにあるぞ、忘れ形見のこの若が、あまりに焦がれ慕ふゆゑ、これまで、尋ね参りたり。今一度見見(みみ)え、幼き者が、嘆きをとどめ、得させよ」と、フシかきくどき、のたまへど、言問ふものはさらになし。童子、待ちわび、「なう父上様、かく恐ろしき所に、いつまでまします。母上様に、会はせんと、のたまひしが、偽りにて候な。イロああさて、母上様なう母上」と、呼ばはる声に、さしもの、保名、いとど心も、消え消えと、フシ前後不覚になりにけり。保名力及ばず、「さてさてぜひもなし。いかに畜類なればとて、せめて面影なりとも、見(まみ)えずし、心強き、ことどもや。よしよし、いつまでながらへん。所詮、この子を刺し殺し、わが身もともに、自害して、うき世の絆(きづな)を逃れん」と、「いかに童子、母はこの世になきにより、父はただ今、ここにて死して母に会ふが、なんぢもともに死すべきか」。イロ「なう母上様に会ふならば、殺してたべ」とぞ嘆かるる。保名、心は乱るれども、力及ばず、腰の太刀を、するりと抜き、すでに、刺し殺さんとす。後ろを見れば、野干あらはれ、フシ涙にくれてゐたりけり。童子見て、「なう恐ろしや」と、そのまま父に取りつけば、「おう道理なり。いかにそれなるは、童子が母にて候な。その姿にては、童子も、恐れをなす。ありし昔の姿にて、若を慰めたび給へ」。そのとき野干、とある木蔭の、池水に、姿をうつすと思へば、そのまま、女の姿となる。童子、これを見て、「なう母上様」と、言ひもあへず、抱(いだ)きつけば、母もともに、抱き上げ、「ああさて、なにしにここまで、来たれるぞ。またまた、うき世の、妄執に、引かるることの、悲しや」と、すがりついて、泣くばかり。保名涙のひまよりも、「かりそめに相馴れて、幾年月を重ね、たとへば、いかなることありとも、なにしに、疎み申すべき。この若が、不便(ふびん)なり。今一度里へ帰り、せめてこの子が十歳まで、守(も)り育てたび給へ」。母涙ながら、「さればこの若、十歳はさておき、一期(いちご)添ひ果てたく候へども、みづからが、身の上は、人間に交はり、一度(ひとたび)棲処へ帰りては、また同じ家(や)へ、立ち戻り、住むといふこと、かなはず。名残は、尽きぬことなれど、はやとく帰らせ給ふべし。さりながらこの若、世の常の人体(にんたい)ならず。成人のその後は、人を助け、世を導き、天下に一人(いちにん)の、者となり候はん。いでこの若に、形見を取らせ申すべし」と、手づから、四寸四方の、黄金(こがね)の箱を取り出だし、「この箱と申すは、竜宮世界の、秘符(ひふ)なり。これを悟りて、行なはば、天地日月、人間世界、あらゆることを、手の内に知るなり」と、与へ、また水晶のごとくなる、輝く玉を取り出だし、「この玉を耳に当て、聞くときは、鳥獣(とりけだもの)の鳴く声、手に取るごとくに聞き知り、さまざま、奇特(きどく)これ多し。今ははやこれまでなり。はやとくとく」とありければ、保名も今は、「ことわりを、聞くからは、いかで、迷ひ申すべき。心安かれ、この若を、天下に一人の者となし、御身の苦しみ、晴らさせ参らせん。いざこなたへ」と、幼き者を抱(いだ)き取れば、イロ「いやいや父には抱かれまじ。いなや母上、とどめてたべ」と取りつくを、されども保名、心強くも引き放ち、ありし所を立ち去れば、幼き者は声を上げ、イロ「なう母上」と泣き叫ぶ。母も泣く泣く跡につき、しばしがほどは来たりしが、「もはやこれより帰るなり。やれ幼き者よ、これが今生(こんじょう)の、別れかや」。さらばさらばと言ふ声も、その面影も、見えざれば、今はあるにも、あられずして、また畜生の姿となり、高き巌(いわお)に駈け上がり、イロそなたの方(かた)を眺めやり、天にあこがれ、地に伏して、嘆き悲しめるそのありさま、世に例(ためし)なき、別れの体(てい)、あはれなり、不思議なり、げにもつともなり、ことわりやと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。

        第四
 されば光陰、矢のごとし。月日に関守り、据ゑざれば、安部の童子、その年十歳に余りけり。もとより、世の常の、正体(しょうだい)ならねば、八歳のときより初めて、書を読み、一を聞きて、十字を悟る。一度(いちど)聞きしこと、二度忘れず。その名を改め、安部の童子、晴明(はるあきら)、とぞ申しける。明け暮れ、家に伝はる、天文道の巻物に、心を移し、昼夜微睡(まどろ)む暇もなし。その上母の野干、竜宮の秘符、名玉までを、与へぬれば、なほ頼もしさ、かぎりなし。しかるところに、不思議や、虚空(こくう)に、音楽聞こえ、花降り、紫雲一叢(しうんひとむら)棚引く。これはいかにと、見るところに、雲の内より、白髪たる、老僧一人、獅子に乗り、陸地(ろくじ)に行くがごとく、来現あるこそ不思議なれ。若君御覧じ、ただ呆然と立ち給ふ。ときに老僧、虚空より、「われはこれ、大唐、雍州の、城荊山に、年久しき、伯道上人といふ者なり。なんぢが先祖、安部の仲丸と言つし者、大唐に渡り、われに会ひて、天文地理(ぢり)、妙術を、習ひ窮め、その巻物、なんぢが手に伝はり、持つといへども、たしかにその理(り)を、窮めえず。しかればおことは、かの仲丸が、再誕なり。されば、前世(ぜんぜ)の才智を、忘れずして、いにしへにまされるなり。陰陽、暦数、天文地理、加持、秘符の、深きこと、なんぢに伝へ、天下の宝となすべき」と、巻物、一巻取り出だし、「これすなはち、『金烏玉兎(きんうぎょくと)』と、いふ書なり。なんぢが家に伝はる、『ほき内伝(ほきないでん)』に、これをとり添へ、窮めなば、悪病、災難は言ふに及ばず、例へば、定業(じょうごう)、限りの命なりとも、一度は、蘇生において、疑ひなし。さて、なんぢが母の、野干も、まことは、信太の明神、これ、いにしへの、吉備大臣(きびだいじん)なり。昔の恩を報ぜんため、畜生の、苦を受けて、なんぢが父に、縁の結び、栄ゆる家の守りとなり、伝へ置きたる、秘符名玉、少しも疑ふことなかれ。われ、大唐の、城荊山に、あるといへども、本地、これ、文殊菩薩、天文地理の、妙智恵を、衆生に与へん、そのためなり。疑ふことなかれ」と、たちまち、文殊と現はれ、雲に駈けつて入り給ふ。晴明、「こはありがたき御告げや」と、跡を遙かに、伏し拝むところへ、父保名、ありし所へ来たり給へば、若君くだんのありさま、つぶさに語る。父ななめならず喜び、「おう頼もしや、なほなほ怠ることなかれ」と、家に伝はる巻物に、『金烏玉兎』をとり添へ、昼夜、これを見開きて、いよいよ神通の妙術を、窮めけるところに、いづくともなく、烏二匹、飛び来たり、軒にとまりて、しばしが間囀(さえず)りしを、晴明、あやしく思ひ、母の野干が与へし、くだんの玉を取り出だし、耳におし当て聞きゐたり。しばらくあつて、二匹の烏、東西へぞ、飛び去りける。晴明これを聞き、「いかに父上、ただ今、烏の囀りしこと、不思議のことを、囀りて候。まづ一つは、都の烏、今一つは、関東の、烏なり。都烏が、東(あずま)の烏に、語るやう、『今度都には、御門(みかど)の御悩(ごのう)なり。このいはれは、内裏御造営、ありしとき、夜の御殿(おとど)の丑寅、柱、礎(いしずえ)の下に、蛇と、蛙(かわず)、生きながら、築(つ)き込められ、蛇は、蛙を呑まんとし、蛙は、蛇に呑まれじと、相戦ふ。その憤り、天に上(のぼ)り、つひに御門の御悩となる。これを取り除(の)け給はば、御悩は、子細なく、平癒(へいゆう)、あるべし』と、囀りて候。いかさま、不思議に存じ候」と、巻物を取り出し、占ひてみれば、烏の言葉に、少しも違(たが)はず。童子喜び、「これ幸ひのことなり。いそぎ都へ上り、奏聞のとげ奉り、この段を占ひ、いかなる世にも出で申さん。いかがあらん」と申し上ぐる。保名うれしく、「おういしくも申したり。これ安部の家、ひき興さん、瑞相なり。君の御ため、身のために、片時(へんし)も早く、上るべし」と、親子うち連れ、都をさしてぞ、三重上りける。
 その頃、都内裏には、当今(とうぎん)、御悩まします。さるにより、御典薬、心を尽くし、ほしやうんりやうの、薬種を弁じ、君臣佐使(くんしんさし)の配剤、諸寺の、高僧は、加持護念の行なひ、護摩、秘法の、祈りをなさるれども、さらに験(しるし)はなかりけり。しかるところへ、保名親子の者、すぐに禁裏へ参り、「これは摂州、安部の保名と、申す者にて候。さてこれに候は、安部の晴明、と申して、それがしが子にて候。この者、天文地理、易暦に、自然(じねん)、智を悟りて、占形(うらかた)を仕(つかまつ)る。そのかみ、安部の仲丸が、子孫たり。しかればこの頃、御門の御悩の、よしを承る。恐(おおそ)れながら、これを占ひ奉らん」と、謹んで奏聞す。ときに公卿(くぎょう)詮議あつて、「安部の仲丸が、子孫とあれば、げにさることもあるべし。さあらば、占ひ奉れ」とて、中の落縁(おちえん)まで、召されけり。ときに晴明、謹んで申し上ぐる。「そもそも、この御悩と言つぱ、禁廷、丑寅の方(かた)、夜の御殿(おとど)の柱、礎の下に、蛇と蛙(かわず)と、戦ひて、その怒り、炎となつて天に上る。これによつて御悩あり。この礎の下なる、蛇と、蛙を、掘り捨て給はば、御悩は、なんの子細なく候はん」と、手に取るやうにぞ、占ひける。公卿、詮議あつて、「これは不思議の次第かな。さあらばまづ、その礎を、掘り返せ」と、木工頭(もくのかみ)に、仰せつけられ、やがて掘らせ給ひける。案に違はず、蛇と、蛙を、掘り出し、すなはちこれを捨てければ、たちまち御悩御平癒(へいゆう)、ましましけり。上一人(かみいちにん)より、月卿(げっけい)雲客、肝胆(かんだん)、肝に銘じ、「さても名誉の次第や」と、フシおのおの感じ給ひける。奥よりの宣旨には、かくめいよう、ふしんの者なりとて、昇殿を許され、五位を給はりけり。陰陽頭(おんようのかみ)とぞ召されける。ことに、安部野の庄三百町を、親子の者に下され、父子ともに都に住して、禁裏の宮仕へあるべし。ことに今日は、三月の、清明の節なればとて、晴明(はるあきら)の、晴(はる)の字を改め、安部の清明(せいめい)、と召されて、薄墨の、御綸旨(りんじ)下るぞ、ありがたき。清明親子、頂戴して、こは、ありがたき次第とて、やがて御前(ごぜん)を立ちけるは、ゆゆしかりける次第なり。
 ところへ、天下の博士(はかせ)、芦屋道満(あしやどうまん)、参内す。公家大臣、御覧じて、「いかに、道満、今日不思議のことあり。十三四なる、童(わらわ)参内せしめ、御門の御悩を、占ひ奉り、たちまち、御平癒、なられ候」と、一々語らせ給へば、道満、大きに驚きしが、さらぬ体(てい)にて、「さてその者は、いづくのたれと申し上げて候」。「されば、摂州、安部の晴明(はるあきら)、と名のり、すなはちかれが父、安部の保名といふ者、連れて参内いたしたり」。道満心に思ふやう、「さては先年、わが弟の悪右衛門を、討ちたる敵(かたき)よな。きやつを、いろいろ尋ねしが、いづくにか、忍びつらん。わが身の妨げ、まして敵なれば、いかでそのまま置くべきや」と、「さておのおの、その童が、占形、まことと思しめすか。まづ、案じても御覧候へ。この道満が、占形と申すは、唐土(もろこし)にても並びなき、法道仙人の伝へ、天下に一人の者と呼ばれしそれがしが、さやうの浅々しきことにて、御平癒なるべきを、存ずまじきや。ああ愚かなる仰せや」と、頭(かしら)を振つてぞ申しける。人々のたまふは、「いかに御分(ごぶん)、申されても、御悩そのまま平癒なり、まして蛇蛙(へびかわず)取り出だす。これに過ぎたる証拠なし」と、口をそろへて申さるる。道満聞きて、「いや御平癒、なられしは、まづ典薬頭、心を尽くされ、諸寺の高僧、加持護念の行なひ、数ならねども、この道満、このたびにおいては、玉体、危うく存じ、ありとあらゆる、諸典の、考へ、工夫仕り、祈りしゆゑ、御平癒なられて候を、とくより存じ、さてこそ参内申したり。また、蛇蛙ありしは、たれにても候へ、かの者どもに、心を通はす方(かた)あつて、わざと押し入り、置きたるにて候。御平癒の、よき折からに、参内して、奇特の誉(ほま)れを取るは、あつぱれ、果報の者にて候。かやうに申せば、なにとやらん、そねみ申すに、似たれども、一つは君の御ため、もつたいなくも、天子を掠(かす)めし、悪人に、所領を給はり、あまつさへ、御綸旨まで下さるる。それがしかくてありながら、さほどのことを知らぬかと、末の世までの人口(じんこう)に、かからんと存じ、かやうに、申し奉る。これ偽りならば、かの者を召され、それがしと占形の、奇特を競(くら)べさせて、御覧候へ。実否(じっぷ)、明らかに知れ申さん」と、はばかりなくぞ申しける。公卿、詮議あつて、やがて奏聞なされける。内よりの宣旨には、「もつともなり。かつうは、不思議を晴らさんため、すなはち明日南殿(なんでん)にて、その勝劣を、糾(ただ)せ」と、宣旨あり。道満喜び、御前を立ち、清明方へは、勅使立ち、はや用意とこそ、三重聞こえけれ。 
 すでに、その日に、なりしかば、清明親子、道満、未明よりも参内す。御門、南殿に、出御(しゅつぎょ)なれば、公家、殿上人、残らず、はなやかなりし、見物なり。内よりの宣旨には、「それぞれ両方、奇特を競(くら)べ、いづれにても、勝ちたるを、師匠、負けたるを、弟子にして、いよいよ、行なふべし」との、宣旨なり。両方「はつ」と、勅答す。そのとき、内より、唐櫃を、数十人して舁(か)き出だす。さて中には、猫二匹入れ、錘(おもり)をかけたり。「この中(うち)なる物を、占ひ申せ」と、宣旨あり。そのとき、道満、「いかに清明、その方は、占形名人と聞く。さだめて、それがし御弟子になるべき間、諸事指南にあづからん」と、嘲る体(てい)にぞ申しける。清明聞きて、「おうそれは、互ひなり。さてそれがし、占ひ申さんや。ただし、御分(ごぶん)占ひ給ふか」。道満聞きて、「まづその方、占ひ給へ」と、さも大様(おおよう)にぞ申しける。そのとき、清明考へて申し上ぐる。「この唐櫃の中は、猫二匹候はん」と、占ひける。道満、はつと思ひしが、さらぬ、体(てい)にて、「これは奇特に、占はれたり。いかにも、猫にて候。毛色は、赤白(しゃくびゃく)なり」と申す。人々立ち寄り、蓋を取りて見れば、くだんの猫、現はれたり。月卿雲客、はつと感じ給ひける。然れども、これは勝ち負けの、しるしなしと、また内より、大きなる、三方(さんぼう)の上に、覆ひをかけ、その中に、大柑子(こうじ)を十五入れ、すなはち持ち出で、「これも中(うち)なる物を、占へ」との宣旨なり。今度は、道満、苛(いら)つて申し上ぐる。「この中には、大柑子十五候」と、勢(いきおい)掛かつて申し上ぐる。清明もとより名人なれば、柑子とは、知つたれども、さすが、名誉の者なれば、ここぞ、奇特をあらはすところと思ひ、やがて、加持し、転じ変へて、申し上ぐる。「この中なるは、大柑子にては、あるまじく候。鼠十五匹候」と、申し上ぐる。御門を始め、公家大臣、さてこそ、清明、占形は仕損じたりと、つつやきささやき、互ひに、目と目を見合はせ、ただ、清明が顔を、守つてゐたりける。道満、しすましたりと喜び、「なんと人々、いづれか違ひ候はん。さだめて、それがしが占ひこそ、違ひつらん。いかに清明殿、ただ今申し上げられしに、別に変りは候はぬか。蓋を取つてその後、かまひて、悔み給ふな」と、勢掛かつて申しける。保名も、今は急(せ)き色になり、額(ひたい)に汗を流し、「やれ清明、変ることはこれなきか。かならず卒爾申すな」と、急(せ)ききつてぞ申しける。清明、少しも騒がず、「御気づかひあるべからず。いそぎ蓋を取り給へ」と申す。ぜひなく、人々、立ち寄つて、蓋を取れば、柑子はなくして、鼠十五匹駈け出づる。四角八方へ駈け回る。そのとき最前の二匹の猫、かの鼠を見るよりも、そのまま駈け出で、追つつめ、ぼつかけ、あるいは、くはへて振り回し、かなたこなたへ、飛び巡れば、御門を始め、公家、大臣、后、官女、もろともに、御簾(みす)も几帳(きちょう)も、さざめきて、「さてさて奇特の清明や」と、感じ給ふ御声、フシしばしは鳴りも静まらず。始め、勇みし、道満は、清明が弟子と、しほしほと御前を立つ。さて清明には、数の褒美を給はり、やがて御前を罷り立てば、父はうれしく、「ああ仕りたり、清明。イロわが子ながらも、不思議の者や」と、あふぎたてあふぎたて、屋形をさして帰りける。保名がうれしさ、清明が奇特のほど、例(ためし)まれなる、相人(そうにん)やと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 

        第五
 道満法師は、雲居の庭の、争ひに負け、明け暮れ、瞋恚(しんい)を焦がし、郎等を近づけ、「いかに、なんぢら、今度それがし、清明と占形の、勝負に負けしこと、あまりに、きやつを侮り、高慢、さし起こり、思はずも、恥辱を取る。元来、きやつばらは、わが弟の敵(かたき)といひ、かれこれもつて、いかでそのまま置くべきや。まづ、保名を討つべし。しかし、卒爾に、討つならば、わが身の上も、大事なり。ただ計略にしくはなし。いかがはすべき」と仰せける。郎等ども承り、「もつともかなこの度の儀、われわれまで口惜しく候。とかく謀事(はかりごと)が、然るべし」と申し上ぐる。道満聞きて、「幸ひの、ことこそあれ。御尋ねなさるべき、ことありと、すなはち、夕さり、それがしも、清明も、いつしよに参内申すなり。この後(あと)にて、御門より、勅使の体(てい)にまなび、夜に入りて、保名が館(たち)へ行き、禁中よりの、宣旨なり、いそぎ参内仕れと、謀(たばか)り、一条の橋の下に、伏せ勢(ぜい)を、隠し置き、くだんの橋板、引つぱずし、保名が、落つるところを、おり合ひ、思ふままに、しおほせ、何者の仕業とも、知れぬやうに、いたすべし。もとよりわれは、清明といつしよに、御殿に、相詰むれば、疑ひも、あるべからず。その後、清明をも、知略をもつて、滅ぼさん。この儀いかに」と仰せける。郎等ども、「もつともよろしき、御計略、もはや日も、暮れ候はん。その用意仕(つかまつ)らん」。道満喜び、「さあらば山下伝次は、器量すぐれたれば、まづ勅使の用意、こしらへよ」。かしこまつて内に入り、やがて装束、改めて出でければ、道満見て、「おうよく、似せたり。もはや、時も至れば、われは内裏へ、参内せん。みなみな、時分はからひ、うち立つべし」と、知略の用意申しつけ、その身はなにとなく、禁裏をさして上がりしは、恐ろしかりける、三重企(たく)みなり。
 さればにや清明は、御門よりの御召しとて、やがて参内仕る。屋形には、父上、郎等ども、召し集め、四方(よも)の話あるところへ、道満が方より、くだんの勅使来たつて、案内乞ひ、保名に対面し、「君よりの宣旨なり。そのはう親子に、仰せつけらるべきむねあり。すなはち清明御殿に相詰めたり、いそぎ参内あるべきとの、勅諚なり」。保名かしこまり、「おつつけ参内仕らん」と、勅使を帰し、供人少々召し具して、そのまま屋形を出でにける。今ははや一条の橋にさしかかり、すでになかば渡るところに、下より板を引つぱずせば、宙よりどうと落つる。隠れゐたる勢(ぜい)ども、どつとおり合ひ、みなことごとく斬り伏せたり。保名、大剛の者なれども、橋よりは落とされつ、手足かなはず、「ええ無念や、何者なるぞ。名を名のつて、尋常に止(とど)めを刺せ」。郎等聞きて、「聞きたくば、聞かせん。これこそ芦屋の道満が打つ太刀ぞ」と、立ちかかり、ずだずだに斬り伏せ、しすましたりと喜びて、そのままそこを立ち退きける。もとより人の通ひもなき、町はづれのことなれば、たれ知る者も、あらずして、すでにその夜も、明け方になりければ、あなたこなたより、鳶(とび)烏、集まりて、保名が死骸、さんざんに引き散らし、肉をくはへて、退(の)くもあり。あるいは、手足股(もも)を、犬ども食ひ裂き、ここやかしこへ退きけるは、目も当てられぬ、三重次第なり。
 これはさておき、清明は、宵より御殿に相詰めしが、もとより、神通の者なれども、定める業(ごう)とて、はかなくも、これをば知らず、さて明け方に、屋形へ帰る。一条の橋に行きかかり、見ればなかば落ちたり。不思議やと、向かふを見れば、橋の上に、手負ひあり。清明を見るより、苦しげなる、声を上げ、「それがしは、御内の五藤太にて候」。清明、はつと驚き、「なにゆゑ、さやうになりたるぞ」。「されば、かやうかやうの次第にて、宵に、勅使の立ちしゆゑ、君の御供仕り、通るところに、何者ともなく、待伏せいたし、橋を落とし、君もかくのとほりに、ならせ給ふ」と、申し上ぐれば、清明これはこれはと、駈け下り見てあれば、なにかは知らず、死骸あり。そのままそこへ倒れ伏し、フシ声を上げてぞ嘆かるる。「さてもさてもあさましや。ええこれは、道満めが、仕業ならん。然れども、かれと極めん、やうもなし。よしよしそれがしほどの者が、父を闇討ちにせさせ、おめおめとあるべきや。げにげに、伯道上人の、御告げにも、たとへ、定業(じょうごう)限りの命なりとも、一度は、蘇生において、疑ひなしと、教へ給ひしは、今このときたり。伯道上人へ、頼みをかけ、伝へ置かれし、生活続命(しょうかつぞくめい)の法を、行なひ、あはれ、父上を蘇生、ならせ奉らん。わが一世の大願、ここなり」と、屋形へ人をつかはし、すなはち橋の上に、やがて壇を飾りける。さればにや、保名が死骸、鳶(とび)烏、引き散らし、五体も離れたれども、やうやうに取り集め、壇の前に据ゑ置きたり。さて壇には、五色の幣を、切り掛け、燈明あまた、供物を供へ、さて、清明、壇場に、さしかかり、南無、大聖(だいしょう)文殊菩薩、一度結びし、師弟の契約、力を添へて、たび給へと、心中に、祈念して、御幣、おつ取り、「南無、日本(にっぽん)、大小の神祇、ただ今、勧請申し奉る。まず、上(かみ)は、梵天帝釈、下(しも)は、四大天王、イロ下界の地には、伊勢は神明、天照皇太神(てんしょうこうたいじん)、外宮(げぐう)、内宮、八十末社、川下に、下がつて、イロ熊野に三(み)つの御山、瀧本に、千手観音、下オン神(かん)の蔵(くら)には、竜蔵権現、納受あつて、給はれや」と、鈴(れい)を取つては、振り鳴らし振り鳴らして、「葛城七大(かつらぎしちだい)、金剛童子、子守勝手の、大明神、三輪、竜田、春日の、明神、八幡(やわた)は、正八幡、稲荷、祇園、賀茂の社(やしろ)、高き御山に、愛宕山(あたごさん)、大権現」と、また錫杖(しゃくじょう)を、おつ取つて、振り立て振り立て、「坂本、山王、二十一社、打下(うちおろし)に、白髭(しらひげ)の大明神、駿河の国に、富士浅間(せんげん)、ことに、津の国、住吉、天王寺、聖徳太子、河内の国に、恩知(おんじ)、枚岡(ひろおか)、誉田(こんだ)の八幡、別して、イロ崇め奉る、摂州、信太の明神、総じて、日本の、諸神、諸仏、勧請、申し奉る。たとへ、定業(じょうごう)、限りの命なりとも、一度蘇らせてたび給へ。ぜひかなはずば、清明が命、ただ今取りてたべ」と、じつたい、せうげの、行なひにて、肝胆くだき、祈りける。仏神、納受、ましましけん。不思議や、肉ししむらをくはへて退きし、里の犬、鳶烏が、ししむら、あるいは、腕(かいな)を、くはへ来たりけり。清明いよいよ勇みをなし、責めつけ責めつけ、祈りける。かくて、行法(ぎょうぼう)、こといたり、両足(りょうそく)、しし、腕(かいな)、とりつけば、やがて面相(めんぞう)、現はれて、六根六識(ろっこんろくしき)、ほどなくもとの、保名となり給ふ。清明、壇より、跳んで下り、そのまま父に、抱(いだ)きつけば、保名は、夢の心地にて、これはこれはと、ばかりなり。さて清明、右の段を問ひ奉れば、保名、つぶさに、語らせ給ひ、「道満めに、謀られ、やみやみと、討たれしに、蘇生したること、仏神の御加護、定業ならずと、いひながら、ひとへに、おことが、かげなり」と、手を合はせ、フシ礼拝してぞ申さるる。清明、承り、「さてこそ、それがし存ぜしに、違(ちが)はず。この上は、片時(へんし)も早く、道満めを討ち取り、瞋恚(しんい)を晴らし申さん」と、屋形へ帰る。さてこそ、一条の戻橋(もどりばし)の、因縁これなり。今の保名が、蘇生の業、清明が、法力、世に例(ためし)なきありさまやと、感ぜぬ者こそ、三重なかりけれ。
 これはさておき、御門には、公家大臣、相詰め給ふところへ、道満法師(ほっし)、参内す。内よりの、宣旨には、「今日はなにとて、清明は、参内せざるぞ」。道満、かしこまり、「さん候。清明は、不慮のことにて父に離れ申して候。さだめて、穢れを恐れ、参内仕らざると存じ候」。公家大臣、聞こしめし、「さてさて保名は、病気のやうには、聞かざりしが、不便(ふびん)や」と、のたまふところへ、清明、やがて参内す。人々、御覧じ、「やあ、清明は、ただ今、御尋ねの宣旨、下るにつきて、聞けば、父保名、死去の、よしなり。穢れたるその身にて、はやとく、帰省あるべし」と、みなみな、仰せありければ、清明承り、「こは存じ寄らざる仰せかな。なにしに、父が相果てしに、参内申さんや。さてたれ人が、さやうに申し上げられて候」。ときに道満、進み出で、「いかに清明、保名、果てしことは、それがし申し上げてあり。さてさて、その方は、いかに御殿の、怠らず、勤めんとて、まさしく、死したる親を、さなしと偽り、穢れたる身を、顧みず、殿上にあること、かへつてその身に、罰(ばち)当たらん。はや帰られよ」と申しける。清明聞きて、「さては御分(ごぶん)、申されたるな。さてそれがしが父、なにとして、果てたるとは、奏聞ありしぞ」。道満、大きに、嘲笑(あざわら)つて、「やあ愚かや、保名、相果てられしこと、たれ知らざらん者やある。ああもつともかな。討たれけれども、相手も知れず、敵(かたき)を、取らざるゆゑ、恥づかしく思ひ、包まるるな。とても穢れしその身なれば、ただ早々に帰り、敵を討ち取る用意の、占ひを、考へ給へ」と申しける。清明聞きて、「いやそれがしは、親を、失ひ申さねば、別に、敵を取るべき、ことも候はず。さて、御分は、ぜひに、保名は、相果てしと、申さるるが、もしただ今にても、これへ出でしときは、その方は、なんといたされんや」。道満、からからとうち笑ひ、「ことをかしや。死したる者が、ふたたび出づるものならば、それがしが、二つとなき首を、御分に得させん。また出でずんば、その方が首を取るぞ。さあ出だせ出だせ」と、勢(いきおい)掛かつて申しける。清明聞きて、「おお聞こえたり。恐(おおそ)れながら、奏聞申し上げ候。最前よりの争ひ、上聞に、達すべし。父が出でざれば、それがしが首を渡し、また出づれば、あの方の首を、申し受くるにて候」。おのおの、「これはこと珍しき、争ひかな。とかう言ひがたし」と、のたまふとき、清明、大音上げ、「いかに、道満、いよいよ首がけ、忘れ給ふな」。「なにしに忘れん。はやとく出だせ」。「おう心得たり。なう父上、いそいで出でさせ給へ」。保名そのまま立ち出づる。道満大きに、肝を消し、すでにその座を立たんとす。六位の臣おし止(と)むる。そのとき保名、ありし次第、すなはち、偽勅使に、謀(たばか)られたること、また蘇生の様子、そのほか弟の、悪右衛門が意趣、これこれ、一々奏聞す。内よりの宣旨には、「申す段ことわりなり。あつぱれ、清明は、人間にては、よもあらじ。すなはち、道満を、取らするなり。思ひのままに、はからふべし」との、勅諚なり。「かたじけなし」と、御前を立ち、道満が、首を打ち落とし、重ねて清明、四位の主計頭(かずえのかみ)、天文博士と召されて、栄華に栄え、末代まで、その智恵をあらはす。これひとへに、文殊菩薩の再誕なり。上古も今も末代も、例(ためし)少なき次第やと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 
 


  (注) 1.  上記の本文は、東洋文庫243『説経節 山椒太夫・小栗判官他』(1973年11月10日初版第1刷発行、1988年12月20日初版第16刷発行)によりました。編注者は、荒木繁・山本吉左右の両氏です。            
    2.  上記の本文が浄瑠璃からとってあるのは、「信太妻」が五説経の一つに数えられているにもかかわらず、説経の正本が見当たらないため、とのことです。
 五説経については、東洋文庫巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。
 「説経節の中で、古来五説経として重んじられたものがある。『芸能辞典』(東京堂)によれば、古くは『苅萱』『俊徳丸』『小栗判官』『山椒太夫』『梵天国』を称したが、享保期になると、『苅萱』『山椒太夫』『愛護若』『信田妻』『梅若』を言うようになったとある。(中略)日暮小太夫の『おぐりてるて ゆめ物かたり』という抜本があり、その柱記に「五せつきやう」とあるので、寛文の当時五説経という呼び名がすでに成立していたことが知られるのである。」(同書317頁)
   
    3.  底本は、『古浄瑠璃正本集 第四』(横山重校訂、角川書店 昭和40年1月15日初版発行、昭和57年5月30日再版発行)に翻刻された「しのたづまつりぎつね付(つけたり)あべノ淸明出生(しゅっしょう)」(延宝2年(1674)刊、靏屋喜右衛門板)の由です。

 ここで、『古浄瑠璃正本集 第四』に翻刻された「しのたづまつりぎつね付(つけたり)あべノ淸明出生(しゅっしょう)」の本文を、少し見ておきます。
     第一
それ、てんちゐんやうのり、きつきやう、くわふくのことは、人のちと、ふちとにあり、是をしるときは、てんち日月も、たな心のうちにあり、是をしらさるときは、もくぜん、なをあきらかならす
こゝに中比、天もんちりの、みやうじゆつをさとりて、じんづうにんと、よはれし、あべのせいめいのゆらいを、くはしくたつぬるに
にんわう、六十二代、むらかみ天わうの、ぎようにあたつて、五きない、せつしうのちう人、あへのぐんじ、やすあきとて、弓取一人おはします、せんそのらいかを、たつぬるに、あべのなか丸より、七代のこうゐんたり
さるによつて、其氏を、あべと、こうす、四天わう寺と、すみよしとの、あいに、一つの、しやうをひらき、代〃、こゝにすみ給ふ、扨こそ、此所を、あべのゝさとと、なつけたり
しかるに、やすあき、御子一人、もちたまふ、あべの權太左衛門やすな、とて、しやうねん廿三、其形、二うわにして、ようがんひれいなり (以下略、357頁)
         
   
    4.  『大阪大学附属図書館』のホームページに、『赤木文庫 古浄瑠璃目録』というページがあり、そこで「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」の版本の全文を、画像で見ることができます。(画像をクリックすると、拡大画像になります。)
 『大阪大学附属図書館』
  → 『赤木文庫 古浄瑠璃目録』
   →「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」

 この版本の本文文末には、「延寶二甲寅年九月上旬 靏屋喜右衞門板」と記してあります。
 赤木文庫は故・横山重(よこやま・しげる 1896-1980)氏の旧蔵書の称で、大阪大学附属図書館は赤木文庫のうちの古浄瑠璃関係の書物を100 点所蔵している由です。したがって、横山重氏が『古浄瑠璃正本集 第四』に翻刻された「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」は、大阪大学附属図書館が現在所蔵しているこの版本によったものだということになります。
 
   
    5.  東洋文庫に収められている本文は、現代かなづかいに統一してあるのですが、ここでは引用者が、歴史的かなづかいに改めました。ただし、漢字の振り仮名は、現代かなづかいのままにしてあります。
 また、東洋文庫の本文中、( )に入れてある訳語は、一部を除き省略しました。東洋文庫本には、後注がついていて参考になります。
   
    6.  本文中の第四に出ている『ほき内伝(ほきないでん)』の「ほき」は、「ほ」は竹冠+甫+皿を縦に並べた字、「き」は竹冠+艮+皿を縦に並べた字です。
 (  ほきの漢字、及び次に出ている (車偏に官)の漢字は、島根県立大学 e漢字フォントを利用させていただきま した。)注:残念ながら現在、この漢字が見当たりません。

 『ほき内伝(ほきないでん)』は、詳しくは、『三国相伝陰陽かん(車偏に官)轄ほき内伝金烏玉兎集』といい、日時・方角の吉凶などを集大成した雑書の一つ。単に、『ほき』『ほき内伝』『金烏玉兎集』などともいう。5巻。安倍晴明撰と伝えるが、これは仮託で、撰者は不詳。鎌倉時代末以降の成立。(吉川弘文館『国史大辞典』の記事より抄出)  
   
    7. フリー百科事典ウィキペデイアに、三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)の項があります。
  → 三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集
   
    8.  『ほき抄』という本がありますが、これは『ほき内伝』の注釈書だそうです。  
 「国書データベース」というサイトで、『ほき抄』が画像で見られます。
  「国書データベース」
   → 簠簋抄』
   
    9.  茨城県筑西市猫島(旧・真壁郡明野町猫島)に、安倍清明出生の地という伝承があります。ここには、清明が産湯に使ったという井戸(「清明井」)、「清明さま」と呼ばれる社や、「清明塚」「清明橋」などがあるそうです。
 『抄』には、清明が猫島で生まれたという説話が載せられているそうです。
 東洋文庫『説経節 山椒太夫・小栗判官他』巻末の荒木繁氏の解説・解題によると、そこには、「母は化来(けらい)の人であるが、遊女往来の者となって筑波山の麓の猫島に来、ある人に留められ三年滞在した間に、この清明を生んだ。童子が三歳の暮れ、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と詠んで去った。清明が上洛のおり、信太の森へ尋ねてみると社壇があり、老狐があらわれて、「われこそ汝が母なれ」と言って消えうせた。これがすなわち信太の明神である。」とあるそうです。
 また、猫島の旧家高松家には、18世紀初頭・江戸時代中期に書かれたとされる『晴明伝記』が伝えられていて、そこにも、晴明が猫島で生まれたとしてあるそうです。(『晴明伝記』のことは、2001年1月28日付け茨城新聞「伝説の舞台」(明野町・安倍晴明出生の地)による。)        
   
    10.   築西市のホームページの中に、「安倍清明伝説」についての紹介があります。
  筑西市 
   → 安倍清明伝説 
   
    11.  『Webup』というサイトに「『信太妻』葛の葉」というページがあり、そこで「『信太妻』と『葛の葉』(物語の歴史と変遷)」や、物語のあらすじ、などを読むことができます。
 『信太妻』と『葛の葉』(物語の歴史と変遷)」の中で法政大学の田中優子教授は、「東洋文庫版『信太妻』は、一六七四年の古浄瑠璃『しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生』が底本になっている。この時はまだ葛の葉という名前は存在せず、複雑な権力闘争の物語も存在せず、二人葛の葉もなく、榊の前と葛の葉の二重性もない。現存するなかでもっとも素朴な信田妻物であり、保名と道満の相互の敵討ち物語と、占い合戦が大枠となっている。」と書いておられます。 (詳しくは、「『信太妻』と『葛の葉』(物語の歴史と変遷)」をご覧下さい。)
 お断り:現在は見られないようですので、リンクを外しました。(2017年10月28日)  
   
    12.  水上勉訳・横山光子脚色『五説経』(若州一滴文庫版・2002年刊)という本があります。ここには、水上勉氏が東洋文庫の『説経節』によって訳されたものを、横山光子氏が脚色された五つの話、「さんせう太夫」「かるかや」「しんとく丸」「信太妻」「をぐり」が収められています。
 また、水上勉氏の『説経節を読む』が、岩波現代文庫に入りました(2007年6月15日発行)。
   
    13.   折口信夫の「信太妻の話」があって、青空文庫で読むことができます。    
    14. 大坂にある『安倍清明神社』のホームページに「安倍清明とその歴史」があり、ます。    
    15.   京都にある『晴明神社』のホームページに「安倍晴明公 逸話集」があります。    
    16.  〇信太妻(しのだ・づま)=信太の森の女狐が安倍保名(やすな)と結婚し、晴明を 産むが、正体を見破られて姿を消したという伝説。また、その狐。説経・浄瑠璃・歌舞伎などに脚色された。 (『大辞林』第2版による)
 〇 葛の葉(くずのは)=浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)の通称。 また、その女主人公の名。和泉国信太(しのだ)の森の白狐が女にばけて安 倍保名(やすな)と結婚し、一子を儲けたが、正体が知れて「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して古巣に帰ったという話。 説経節や古浄瑠璃の題材にもなった伝承に基づく。
 〇 信太の森(しのだのもり)=大阪府和泉市信太山にある森。樟の大樹の下に、白狐のすんだという洞窟がある。葛の葉の伝説で有名。時雨・紅葉の名所。「篠田の森」とも書く。(歌枕) 源若菜上「この─を道のしるべにてまうで給ふ」
 〇安倍晴明(あべ・の・せいめい)=平安中期の陰陽家。よく識神(しきがみ)を使い、あらゆることを未然に知ったと伝える。伝説が多い。著「占事略決」(1921-1005)
 注・識神(しきがみ)=式神・職神とも書く。陰陽道(おんみょうどう)で、陰陽師の命令に従って、変幻自在、不思議なわざをなすという精霊。しきじん。式の神。しき。
 〇説経節(せっきょうぶし)=中世末から近世に行われた語り物。仏教の説経(説教)から発し、簓(ささら)や鉦などを伴奏に物語る。大道芸・門付芸として発達。 門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態もあった。江戸期に入り胡弓・三味線をも採り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃。祭文と説教が結びついた説経祭文の末流が現在に伝わる。説経浄瑠璃。説経。
 〇五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。「山椒太夫」「苅萱(かるかや)」「信田妻(しのだづま)」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」。また、「山椒太夫」「苅萱」「俊徳(信徳)丸」「小栗判官」「梵天国」の五つなど。 (以上、『広辞苑』第6版による)    
 〇五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。古くは「苅萱(かるかや)」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘(さんしょう)太夫」「梵天(ぼんてん)国」をさしたが、のちには「苅萱」「三荘太夫」「信田(しのだ)妻」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」をいう。(『大辞林』第2版による。)
   
    17.   株式会社インフォルムの『DTP技術情報 Z』というサイトに、「蘆屋道満大内鑑」についての解説がありますので、ご覧ください。
 お断り:現在は見られないようですので、リンクを外しました。(2017年10月28日)
   







           トップページへ