(注) | 1. | 上記の「人を恋ふる歌」の本文は、雑誌『國文學』第12号(国文学雑誌社、明治32年12月25日発行)によるものです。 | |||
2. | 詩中のふりがなは、ここでは括弧に入れて示しました。 | ||||
3. |
この「人を恋ふる歌」は、明治32年12月5日発行の雑誌『伽羅文庫』第1巻第2号に「友を恋ふる歌」として掲載されたものですが、一部の語句に異同があり、節の数にも違いがあります。 『伽羅文庫』の「友を恋ふる歌」は、明治32年12月25日発行の雑誌『国文学』12号に「人を恋ふる歌」として掲載され、また明治33年2月20日発行の雑誌『よしあし草』にも掲載され、後に明治34年3月15日発行の詩歌集『鉄幹子』に収められました。 |
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4. |
雑誌『伽羅文庫』・詩歌集『紫紅集』の「友を恋ふる歌」、雑誌『よしあし草』、詩歌集『鉄幹子』の「人を恋ふる歌」の本文が、次の資料にあります。 〇資料430:①与謝野鉄幹「友を恋ふる歌」(雑誌『伽羅文庫』による) 〇資料429:③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による) 〇資料432:④与謝野鉄幹「友を恋ふる歌」(『紫紅集』による) 〇資料428:⑤与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(詩歌集『鉄幹子』による) |
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5. | 語句の読みを補っておきます。( )内は、歴史的仮名づかいです。 顔うるはしく……「顔」は、ルビがないので、鉄幹自身は「かお(かほ)」と読ませたものかと思われますが、普通には「みめ」と読まれています。原本にルビが欲しかったところです。松村緑氏は「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」という論文(『解釈』昭和43年1月号)で、「これはやはり作者自身にみめとよませる意図はなかったものと考えるべきであろう」と言っておられます。(注6を参照のこと) 六分の俠氣四分の熱……「六分」は、「りくぶ」。ただし、四分に対する六分なので、「ろくぶ」と読むのがいい、とする意見もあります。「四分」は「しぶ」。 「俠氣」は、「きょうき(けふき)」 意氣地……「いきじ(いきぢ)」。 業平……在原業平のこと。 見よ西北に……『鉄幹子』にも「西北」に「にしきた」とルビ。 妻子……『鉄幹子』にも「つまこ」とルビ。 誰か知る……文語なので、「誰」は「たれ」と清音に読む。 價……「あたい(あたひ)」。 世を怒る……「怒る」は、「いかる」。 嫉み……「ねたみ」。 譏り……「そしり」。 諌め……「いさめ」。 猶……「なお(なほ)」。 憂の世……「憂」は、「うれい(うれひ)」。 袂……「たもと」。 月の出づる方……『鉄幹子』には「日の出づる方」となっている。「日の出づる方」で日本を意味するので、「月」は誤植とみるべきでしょう。 |
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6. | 「顔うるはしくなさけある」の「顔」の読みについて 松村緑氏は「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」という論文(『解釈』昭和43年1月号)の中で、「この詩の「顔うるはしく」は俗間にはみめうるわしくと歌われているが、初出本文にも『鉄幹子』所収本文にも顔の文字にはルビはついていない。(総ルビになっている『紫紅集』の「友を恋ふる歌」にはかほとルビがついている) そこで、これはやはり作者自身にみめとよませる意図はなかったものと考えるべきであろう」と書いておられます。(太字の「みめ」「かほ」は、原文には傍点がついているものです。) 鉄幹の詩として読む場合は、やはり「かお」と読むのが正しいのではないか、と思われます。 |
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7. | 「石をいだきて野にうたふ芭蕉のさびをよろこばず」の意味については、注の10をご覧下さい。 | ||||
8. | 講談社文庫『日本の唱歌
〔上〕明治篇』(金田一春彦・安西愛子編、昭和52年10月15日第1刷発行)の「人を恋うるの歌」の解説に、次のようにあります。 → これについては、資料429 ③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による)の注11をご覧ください。 |
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9. | 若井勲夫氏の論文「旧制高校寮歌の言葉と表現」(『京都産業大学論集〔人文科学系列〕』第37号(2007年)所収)に、次のようにあります。(この論文を読むのには、ファイルをダウンロードする必要があるようです。) この「人を恋する歌」は、「当時著しく一部の諷誦するところとな」り、「さかんに文学青年が感傷の表情の間に微吟せられた」(日夏耿之介・前掲書─引用者注『改訂増補明治大正詩史』〔昭和23年〕のこと)。書生風の熱情は青春の憂愁や悲哀に同調し、高校生にも寮歌に準ずる歌として愛好されたことであろう。現在は全16節が3節に縮小されて一般に広がっている。志田延義氏はこの歌を寮歌史の上で初めて正当に位置付け、晩翠の「星落秋風五丈原」とともに「それ自身長く学生間に愛誦せられ、また寮歌の類に一つの時期を画せしめるほどの詩歌として注意すべきである」と評価する(『続日本歌謡集成』五)。従来、鉄幹の寮歌への作用についてあまり触れられることがなかったが、鉄幹の詩は壮士風の「ますらをぶり」で晩翠詩と共通する。しかし、晩翠は硬質で上品に整い過ぎて、鉄幹の闊達で自由な、また悲歌的な情熱には及ばないのではないかと思われる。(同論集、179頁) |
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10. | 『東洋女子短期大学紀要』4巻(1971年9月30日発行)に、丸野弥高氏の「与謝野鉄幹作「人を恋ふる歌」について」という論文があります。この論文にこの詩についての詳しい考察がなされています。 「石を抱きて野に歌ふ芭蕉のさ寂をよろこばず」について、丸野氏は、「冷たい血の気のないものを相手に人の世と離れて野に歌う芭蕉の枯れた世界を退けて、憂国慨世という、なまなましい熱血の世界を追求しようというのである」としておられます。 → この論文については、、資料429 ③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による)の注13をご覧ください。 |
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11. |
近代文学注釈大系『近代詩』(関良一著、有精堂出版・昭和38年9月10日発行)から、「あやまらずやは眞ごころを 君が詩いたくあらはなる」「友を諌めに泣かせても 猶ゆくべきや絞首台」の注をひいておきます。(同書、103頁) 「あやまらずやは眞ごころを 君が詩いたくあらはなる」 君の詩ははなはだ飾り気がないが、それは君の真情を誤解させ、ひいては君の将来をも危うくしないだろうか。いや、そのおそれが充分にあるのだ。以下親友の作者への忠告の形。「いたく」は、はなはだしく。ひどく。「あらはなる」は、露骨である。 「友を諌めに泣かせても 猶ゆくべきや絞首台」 たとい友人をして泣いて諌めるようなことをさせても、やはり絞首台などには行くべきではない。友人としては、義に勇む作者を国事犯として絞首台に送られるようなはめに陥いれたくないと言うのである。「友」はこの便りをしたためている友人自身。 |
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12. | 与謝野寛(よさの・ひろし)=詩人・歌人。初め鉄幹と号す。京都生れ。晶子の夫。落合直文に学び、浅香社・新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新派和歌運動に貢献。自我の詩を主張。詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞(あいぎこえ)」など。(1873-1935) (『広辞苑』第6版による。) | ||||
13. | フリー百科事典『ウィキペディア』に、「与謝野鉄幹」の項があります。 | ||||
14. |
時雨音羽著『日本歌謡集』(現代教養文庫443、昭和38年11月30日初版第1刷発行)には、次の3番までの形で歌詞が示され、「明治41年(1908)頃から学生間に歌われ、現在もつづけられている歌で、作者は明星派の詩人」と記されています。 → これについては、資料429 ③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による)の注17をご覧ください。 |
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15. | 近代文学注釈大系『近代詩』(関良一著、有精堂出版・昭和38年9月10日発行)に、「人を恋ふる歌」が取り上げられています。 | ||||
16. | 参考書を挙げておきます。 関良一『近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂、昭和38年9月10日発行) 関良一「人を恋ふる歌(与謝野鉄幹『鉄幹子』)」(一)(『国文学』解釈と教材の研究、昭和39年2月号、學燈社・昭和39年2月1日発行) 関良一「人を恋ふる歌(与謝野鉄幹『鉄幹子』)」(二)(『国文学』解釈と教材の研究、昭和39年3月号、學燈社・昭和39年3月1日発行) 松村緑「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」(『解釈』1968年1月号、昭和43年1月1日発行) 丸野弥高「与謝野鉄幹作「人を恋ふる歌」について」(『東洋女子短期大学紀要』4巻所収、1971年9月30日発行) |
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17. |
次に、雑誌『国文学』第12号(国文学雑誌社、明治32年12月25日発行)掲載の「人を恋ふる歌」の画像を掲げておきます。(『国文学』第12号
2~4頁) |
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