(注) | 1. | 上記の「友を戀ふる歌」の本文は、雑誌『伽羅文庫』第1巻第2号(中央文壇社、明治32年12月5日発行)によるものです。この本文は、雑誌叢書7「硯友社系雑誌集成」『伽羅文庫』(ゆまに書房、昭和60年4月23日発行)によりました。これがいわゆる「人を恋ふる歌」の初出だと思われます。 | |||
2. | 詩中のふりがな(ルビ)は、ここでは括弧に入れて示しました。 | ||||
3. | この「友を恋ふる歌」という詩は、明治32年12月25日発行の雑誌『國文學』(国文学雑誌社発行)・明治33年2月20日発行の雑誌『よしあし草』・明治34年3月15日発行の詩歌集『鐵幹子』には、「人を恋ふる歌」という題に改められて掲載されています。ただし、明治33年10月12日発行の『紫紅集』には目次に「友を恋ふる歌」、本文に「友を恋ふるの歌」という題で掲載されています。 |
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4. |
雑誌『国文学』、雑誌『よしあし草』、『紫紅集』、詩歌集『鉄幹子』による本文が次の資料にあります。 〇資料431:②与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『国文学』による) 〇資料429:③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による) 〇資料432:④与謝野鉄幹「友を恋ふる歌」(『紫紅集』による) 〇資料428:⑤与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(詩歌集『鉄幹子』による) |
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5. |
明治34年3月15日発行の『鐵幹子』は、『国立国会図書館デジタルコレクション』と国文学研究資料館の『電子資料館』に収録されていて、それぞれ画像で見ることができます。(国文学研究資料館の『電子資料館』の画像のほうが、鮮明です。) (1)『国立国会図書館デジタルコレクション』→『鐵幹子』(明治34年発行) (2)『国文学研究資料館』→『電子資料館』→『鐵幹子』(明治34年発行) |
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6. |
上の明治34年発行の『鐵幹子』よりも後に出版された、明治38年7月6日発行の『鐵幹子』は、早稲田大学の『古典籍総合データベース』で、画像で見ることができます。 『古典籍総合データベース』 → 『鐵幹子』(明治38年発行) |
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7. |
明治32年発行の雑誌『伽羅文庫』の「友を戀ふる歌」と、明治34年発行の『鐵幹子』と明治38年発行の『鐵幹子』の「人を戀ふる歌」との、本文の異同を次に示しておきます。ここではルビを省略してありますので、注意してください。 (明治32年発行の雑誌『伽羅文庫』) (明治34年発行の『鐵幹子』) (明治38年発行の『鐵幹子』) 妻をめとらば才たけて 妻をめどらば才たけて 妻をめとらば才たけて 友をもとめば書を讀んで 友をえらばば書を讀んで 友をえらばば書を讀んで 八分の俠氣二分の熱。 六分の俠氣四分の熱 六分の俠氣四分の熱 名を惜むかな、男ゆゑ。 名を惜むかなをとこゆゑ 名を惜むかなをとこゆゑ 斟めや、うまざけ。歌ひ女に くめやうま酒うたひめに くめやうま酒うたひめに 簿記の筆とるわか者に 簿記の筆とるわかものに 簿記の筆とるわかものに まことのをとこ君を見る。 まことのをのこ君を見る まことのをのこ君を見る 嗚呼われコレッヂの奇才なく あゝわれコレッヂの奇才なく あゝわれコレリッヂの奇才なく 石を抱きて野に歌ふ 石をいだきて野に歌うたふ 石をいだきて野に歌うたふ 芭蕉の寂をよろこばず 芭蕉のさびをよろこばず 芭蕉のさびをよろこばず 人やわらはむ、業平が 人やわらはん業平が 人はわらへな業平が 小野のやまざと雪を分け 小野の山ざと雪を分け 小野の山ざと雪を分け 見よ西北にバルカンの 見よ西北にバルガンの 見よ西北にバルガンの それにもにたる國のさま、 それにも似たる國のさま それにも似たる國のさま 天火ひとたびふらん時。 天火ひとたび降らん時 天火ひとたび降らん時 妻子をわすれ家を捨て 妻子をわすれ家をすて 妻子をわすれ家をすて 義のため耻を忍ぶとや。 義のため耻をしのぶとや 義のため耻をしのぶとや ガリバルヂーやいま如何。 ガリバルヂイや今いかん ガリバルヂイや今いかん 健兒は散じてかげもなし。 健兒は散じて影もなし 健兒は散じて影もなし 四たび玄海の浪を踰え、 四たび玄海の浪をこえ 四たび玄海の浪をこえ 韓のみやこに來て見れば、 韓のみやこに來てみれば 韓のみやこに來てみれば 嗚呼われいかにふところの あゝわれ如何にふところの あゝわれ如何にふところの つるぎは鳴をしのぶとも、 劍は鳴をしのぶとも 劍は鳴をしのぶとも 悲しき歌の無からめや。 かなしき歌の無からんや かなしき歌の無からんや 酒にくるふと人は云へ。 酒に狂ふと人は云へ 酒に狂ふと人は云へ この1節なし 「あやまらずやは眞ごころを… 「あやまらずやは眞ごころを… この1節なし おのづからなる天地を… おのづからなる天地を… この1節なし 口をひらけば嫉みあり… 口をひらけば嫉みあり… 「おなじ憂への世にすめば おなじ憂ひの世にすめば おなじ憂ひの世にすめば 千里の空も一つ家。 千里のそらも一つ家 千里のそらも一つ家 おのが袂といふなかれ。 おのが袂と云ふなかれ おのが袂と云ふなかれ やがてふたりの涙ぞや。」 やがて二人のなみだぞや」 やがて二人のなみだぞや」 うれしき筆を袖にして うれしき文を袖にして うれしき文を袖にして けふ北漢の山の上 けふ北漢の山のうへ けふ北漢の山のうへ 駒立てゝ觀る、日の出づる方。 駒たてて見る日の出づる方 駒たてて見る日の出づる方 (雑誌『伽羅文庫』には、「あやまらずやは眞心を……」「おのづからなる天地を……」「口をひらけば嫉みあり……」の3節がありません。 また、『鐵幹子』に「玉をかざれる大官は……」「四たび玄海の浪をこえ」の順になっている節が、『伽羅文庫』では、順序が逆になっています(「四たび玄海の浪をこえ」「玉をかざれる大官は……」の順)。) |
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8. |
語句の読みを補っておきます。( )内は、歴史的仮名づかいです。 顔うるはしく……「顔」は、ルビがないので、鉄幹自身は「かお(かほ)」と読ませたものかと思われますが、普通には「みめ」と読まれています。原本にルビが欲しかったところです。松村緑氏は「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」という論文(『解釈』昭和43年1月号)で、「作者自身にみめとよませる意図はなかったものと考えるべきであろう」と言っておられます。(注9を参照のこと) 六分の俠氣四分の熱……「六分」は、「りくぶ」。ただし、四分に対する六分なので、四分六分(しぶろくぶ)で「ろくぶ」と読むのがいい、とする意見もあります。「四分」は「しぶ」。「俠氣」は、「きょうき(けふき)」 意氣地……「いきじ(いきぢ)」。 業平……「なりひら」。在原業平のこと。 見よ西北に……『鉄幹子』には、「西北」に「にしきた」とルビ。 天火……「てんか(てんくわ)」。 妻子……『鉄幹子』には「つまこ」とルビ。 誰か知る……文語なので、「誰」は「たれ」と清音に読む。 憂への世……「憂へ」は、「うれえ(うれへ)」。 袂……「たもと」。 北漢……「ほくかん」。 日の出づる方……「方」は、「かた」。 |
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9. | 「顔うるはしくなさけある」の「顔」の読みについて 松村緑氏は「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」という論文(『解釈』昭和43年1月号)の中で、「この詩の「顔うるはしく」は俗間にはみめうるわしくと歌われているが、初出本文にも『鉄幹子』所収本文にも顔の文字にはルビはついていない。(総ルビになっている『紫紅集』の「友を恋ふる歌」にはかほとルビがついている) そこで、これはやはり作者自身にみめとよませる意図はなかったものと考えるべきであろう」と書いておられます。(太字の「みめ」「かほ」は、原文には傍点がついているものです。) 鉄幹の詩として読む場合は、やはり「かお」と読むのが正しいのではないか、と思われます。 |
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10. | 「石を抱きて野に歌ふ芭蕉の寂をよろこばず」の意味については、注の14.をご覧下さい。 | ||||
11. | 詩の制作年について 『鉄幹子』の詩に、「明治三十年八月京城に於て作る」と注記がありますが、この注記には疑問が呈せられています。丸野弥高氏は、論文「与謝野鉄幹作「人を恋ふる歌」について」(『東洋女子短期大学紀要』4巻〈1971年刊〉所収)の中で、 この詩は鉄幹が韓国から最後の帰国をした31年3月以降のある時期に、自分を「三十年八月」の当時に置き、浪漫的立場で、虚実を織りまぜて作られたものではなかろうか。 と書いておられます。(詳しくは、注13に紹介した同氏の論文を参照してください。) |
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12. | 講談社文庫『日本の唱歌
〔上〕明治篇』(金田一春彦・安西愛子編、昭和52年10月15日第1刷発行)の「人を恋うるの歌」の解説に、次のようにあります。 → この部分は、資料429 ③与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(雑誌『よしあし草』による)の注11を参照してください。 |
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13. | 若井勲夫氏の論文「旧制高校寮歌の言葉と表現」(『京都産業大学論集〔人文科学系列〕』第37号(2007年)所収)に、次のようにあります。(この論文を読むのには、ファイルをダウンロードする必要があるようです。) この「人を恋する歌」は、「当時著しく一部の諷誦するところとな」り、「さかんに文学青年が感傷の表情の間に微吟せられた」(日夏耿之介・前掲書─引用者注『改訂増補明治大正詩史』〔昭和23年〕のこと)。書生風の熱情は青春の憂愁や悲哀に同調し、高校生にも寮歌に準ずる歌として愛好されたことであろう。現在は全16節が3節に縮小されて一般に広がっている。志田延義氏はこの歌を寮歌史の上で初めて正当に位置付け、晩翠の「星落秋風五丈原」とともに「それ自身長く学生間に愛誦せられ、また寮歌の類に一つの時期を画せしめるほどの詩歌として注意すべきである」と評価する(『続日本歌謡集成』五)。従来、鉄幹の寮歌への作用についてあまり触れられることがなかったが、鉄幹の詩は壮士風の「ますらをぶり」で晩翠詩と共通する。しかし、晩翠は硬質で上品に整い過ぎて、鉄幹の闊達で自由な、また悲歌的な情熱には及ばないのではないかと思われる。(同論集、179頁) |
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14. | 『東洋女子短期大学紀要』4巻(1971年9月30日発行)に、丸野弥高氏の「与謝野鉄幹作「人を恋ふる歌」について」という論文があります。この論文にこの詩についての詳しい考察がなされていますが、これによれば、「人を恋ふる歌」の発表誌は、次のようになっています。 雑誌『伽羅文庫』第1巻第2号(明治32年12月5日発行)……本文引用あり 雑誌『國文學』第12号(明治32年12月25日発行)……本文引用あり 雑誌『よしあし草』23号(明治33年2月20日発行)……本文引用あり 単行本『紫紅集』(明治33年10月12日発行) 単行本『鐵幹子』初版(明治34年3月15日発行)……本文引用あり 『伽羅文庫』の本文は、題名が「友を戀ふる歌」となっており、長さも16節でなく、13節になっています(第12節「あやまらずやは真心を…」、第13節「おのづからなる天地を…」、第14節「口をひらけば嫉みあり…」がない)。『國文學』は、『伽羅文庫』の僅か20日後の発行ですが、題名は「人を戀ふる歌」となっています。また、『伽羅文庫』では「六分の俠氣四分の熱」が「八分の俠氣二分の熱」となっています。 この詩の初出について筆者の丸野弥高氏は、「制作年代を31年3月以降と見るにしても、その初出原型を「伽羅文庫」本と決定するにはまだ不安が残る」としておられます。詳しくは同論文を参照してください。 なお、「石を抱きて野に歌ふ芭蕉のさ寂をよろこばず」について、丸野氏は、「冷たい血の気のないものを相手に人の世と離れて野に歌う芭蕉の枯れた世界を退けて、憂国慨世という、なまなましい熱血の世界を追求しようというのである」としておられます。 |
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15. |
時雨音羽著『日本歌謡集』(現代教養文庫443、昭和38年11月30日初版第1刷発行)には、次の3番までの形で歌詞が示され、「明治41年(1908)頃から学生間に歌われ、現在もつづけられている歌で、作者は明星派の詩人」と記されています。 人を恋ふる歌 与謝野 寛 作詞 (1)妻をめとらば 才たけて みめうるはしく 情ある 友をえらばば 書を読みて 六分の俠気 四分の熱 (2)恋のいのちを たづぬれば 名を惜しむかな 男の子ゆゑ 友の情を たづぬれば 義のあるところ 火をも踏む (3)ああわれコレッジの 奇才なく バイロン ハイネの 熱なきも 石をいだきて 野にうたふ 芭蕉のさびを 喜ばず 引用者注: 1.歌詞の仮名づかいを、歴史的仮名づかいに改めてあります。 2.語句の読みを、現代仮名遣いで記しておきます。 六分(りくぶ) 俠氣(きょうき) 四分(しぶ) 男の子(おのこ) 3.3番の「コレッジ」は、今は普通「ダンテ」として歌っているように思います。 4.鉄幹の詩と違うところ 「顔うるはしく」→「みめうるはしく」 「書を読んで」→「書を読みて」 「をとこゆゑ」→「男の子(をのこ)ゆゑ」 |
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16. |
与謝野寛(よさの・ひろし)=詩人・歌人。初め鉄幹と号す。京都生れ。晶子の夫。落合直文に学び、浅香社・新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新派和歌運動に貢献。自我の詩を主張。詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞(あいぎこえ)」など。(1873-1935) (『広辞苑』第6版による。) |
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17. | フリー百科事典『ウィキペディア』に、「与謝野鉄幹」の項があります。 | ||||
18. |
参考書を挙げておきます。 関良一『近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂、昭和38年9月10日発行) 関良一「人を恋ふる歌(与謝野鉄幹『鉄幹子』)」(一)(『国文学』解釈と教材の研究、昭和39年2月号、學燈社・昭和39年2月1日発行) 関良一「人を恋ふる歌(与謝野鉄幹『鉄幹子』)」(二)(『国文学』解釈と教材の研究、昭和39年3月号、學燈社・昭和39年3月1日発行) 松村緑「鉄幹詩「人を恋ふる歌」の成立と発表誌について」(『解釈』1969年1月号、昭和43年1月1日発行) 丸野弥高「与謝野鉄幹作「人を恋ふる歌」について」(『東洋女子短期大学紀要』4巻所収、1971年9月30日発行) |
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19. |
次に、『伽羅文庫』第1巻第2号の「友を恋ふる歌」の画像を掲げておきます。 (ゆまに書房発行の硯友社系雑誌集成『伽羅文庫』より) → 拡大画像 |