資料271 梅山北条先生墓表

       

 

         梅山北條先生墓表

 

山北條先生墓表

慶應年閒水戸彰考館僚以能書著者曰山北條先生蕩然篤実温厚之人也以明治廿九
年十月卅一日病歿矣後七秊其子時雨君將建墓上之石來請文于籌籌與君相識非一日
又與先生甞從事上市小學校日夕親炙不爲鮮尠乃以謭劣烏乎可辭先生初稱秀之助後
更秀
山其別號也北條氏諱敬君長子妣寄金氏弘化季賜弍口俸嘉永中歴系纂方見習
定雇安政三年爲彰考館國史編修雇翌年十二月加賜一口俸以其勵精職務也文久紀元
三月進留付列史館物書賜米五石三口俸慶應元年四月遷文庫役増賜米弍石明治三年
爲史館正字廢藩之後爲上市小學校敎師八年十一月爲五等授業生十年任準五級訓導
以勵精職事賞賜金員前後數十回開塾敎授子弟三十餘年及門者不下數千先生少壯工
書書名聞于闔藩最竭力楷隷又善大字其書遒麗蓋祖弍王別出機軸居常嗜酒未甞一日
不飲若有請書於奉神社之大旗者則醉歩踉蹌援毫一揮徑丈之字筆勢飛動不可端倪者
有焉及成人人皆稱其美資性恬澹沈默時或乘醉爲諧謔諷人是非能中肯綮令聞者抱腹
又喜賦詩不務彫琢如其爲人有詩集若干巻藏于家先生康健一旦罹病終于水戸市長街
之家距生天保紀元三月六日享年實六十有七矣葬于常磐村共有墓地配郡司氏生二女
一男二女共夭男即時雨君也亦善書可謂奇矣籌知先生乃以其所知叙其行事之概略不
覺潸然沾襟云明治丗五年第十月
                 佐佐木籌撰  男 時雨書    
軍司彦八鐫
 

 

 

 

   

   (注)  1. 上記の「梅山北條先生墓表」は、水戸市の常磐共有墓地にある北條家の墓
       地の北條秀の墓誌によりました。
      2. 北條秀の没年は明治29年ですが、上の文中にあるように、この墓表の碑は
       明治35年に建てられたものです。
      3. 「梅山」(ばいざん)は、北條秀の号で、碑の上部にある篆額には「某山」
       と篆書で書いてあります。「某」は音バイ、梅の本字。「
」は梅の古字。別
       に「楳」に作る、と漢和辞典にあります。(「
」は、口二つに林と書いた字
       です。)
        なお、「
」の漢字は、“島根県立大学e漢字フォント”を利用させていただき
       ました。
      4. 2行目の「來請文于籌籌與君相識」は、碑面では「來請文于籌
與君相識」
       となっています。同じく11行目の「及成人人皆稱其美」も、碑面では「及成人

          
皆稱其美」となっています。「」は繰り返し符号に当たるものだと思われます。
      5. 北條秀は、北條時雨の父で、北條秀の墓表中に「北條氏諱敬君長子」とあ
       りますので、北條香雪の長男だと思われます。資料270に「書家・北條時雨
       について」があり、そこで北條香雪、北條秀についても触れてありますので、
       ご覧下さい。
      6. 「皆稱其美資性恬澹沈默」の「美」は、「草冠に似た形 + エ + 火 」と書い
       てあるような字(隷書体)になっています。
      7. 本文の改行は、墓表の通りにしてあります。
      8. 撰者の佐佐木籌氏は、明治18年6月から翌19年12月までは、旧制水戸
       中学校・現在の水戸第一高等学校で、漢文を教えておられたようです。
       (『知道会会員名簿』平成19年版による。
明治18年当時は、茨城第一中学校、
        明治19年7月20日に茨城中学校、同年10月30日に茨城県尋常中学校と改称された。

      9. お気づきの点を教えていただければ幸いです。
  
                     



             
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