資料260 故茨城県参事関君(関新平)遺徳碑 




           
遺 德 之 碑      

 

  故茨城縣參事關君遺德碑
夫以德報德先聖之遺訓而爲後人當務之通誼也故本縣參事關君甞參縣政也特有德於
我水戸人士因欲有所報也久矣會君轉法官而去水戸尋爲令於愛媛縣已而溘焉捐世嗚
呼今也欲報無由焉是所以勒其遺德於碑之不可以已也君諱某稱新平肥前佐賀藩士明
治五年爲本縣權參事在任水戸翌年進參事時藩已廢士失軄而制禄極薄困弊殊甚會城
館災疑獄尋興株連頗多人心洶洶君素景慕我先君 義烈二公之賢而適見其遺臣遭此
困阸殊深憂之乃上疏辨其無辜申救甚力其獄得釋矣又請官林於朝欲使衆士就産周旋
亦至遂得允許乃結保貸以林地戸率二町三段後竟擧其地使盡爲私有焉數千人士特被
膏澤是固雖出於朝恩之優渥未甞不由君至誠盡力之功也君爲人醇篤而好義如此若使
其居牧民軄則其撫循之績必有大可觀焉惜哉官止於參佐而在任亦不久以故未能偏擧
治蹟僅見惠政一端於斯而則已苟受其德者寧忍措而不傳焉哉今有志諸氏表彰之擧可
謂報之亦厚矣諸氏俾余作文余固贊其擧乃不可辭以下文也因敍其事且係以銘云
 誰無緩急 頼有力援 濟囏是義 振之即仁 材優百里 澤洽一藩 子産有惠
 于公無寃 德比甘棠 垂蔭更繁 去後見思 終身弗諼 志擬懸劍 義倣報餐
 爰頌其德 敢私厥恩 貞珉不泐 聲蹟永存 
 明治丁酉嘉平良旦
   舊水戸藩主正三位德川昭武篆額 水戸 手塚悳進譔  北條時雨書
 

 

 

   

   (注)  1. 上記の「故茨城県参事関君遺徳碑」は、偕楽園の「菁莪遺徳碑」の近くにありま
         す。「明治丁酉嘉平」は、明治30年(1885)12月のことです。
        2. 「関君」とは、関新平のことです。関新平は天保12年(1842)生まれの元肥前佐
         賀藩士で、明治維新の際には奥羽各州に出張して連戦、大いに英名を挙げたと
         いいます。明治5年(1872)10月、茨城県権参事となり、翌年の明治6年(1873)
         9月から明治8年(1875)6月まで、茨城県参事を務めました。その間、困窮する
         水戸士族に土地を与えて救済につとめ、また、水戸城炎上の罪に問われて投獄
         された人々の無実を上申し、釈放に力を尽くしました。その後、熊谷裁判所長・大
         審院判事を経て、明治13年、愛媛県令になり、明治20年(1887)3月7日、在職
         中に亡くなりました。
        3. 『速報偕楽園』というサイトに「遺徳の碑」のページがあり、関新平の紹介と碑の
         写真があります。
        4. 篆額の「遺徳之碑」の書は、上掲の碑文にある通り、旧水戸藩主徳川昭武公の
         揮毫によるものです。(「遺徳之碑」は、本文の上部に右から書いてあります。)
        5. 本文の字数・漢字・改行について
         (1) 標題、年月日、篆額筆者・撰者名を除く碑文(本文)は全14行、最後の3行は
           銘で、銘を除いて1行36字になっています(最後の行は34字、本文4行目の途
           中に1字闕字があります)。銘は3行で、4字句が18句あります。従って、銘を除
           く本文が393字、銘が72字で、銘を含めた本文の合計字数は465字です。
                               
{36×11-(2+1)}+4×18=393+72=465
          (2) 碑文の漢字は、一部常用漢字と同じ字体が用いてありますが、ここではでき
           るだけ旧字で表記しました(一部の「徳」や「為」などを、「德」「爲」としました)。           
          (3) 上掲の碑文の本文の改行は、碑文の通りにしてあります。
        6. 碑陰には、「協同建設人名」として、酒泉直氏以下125人の氏名と、「旧第二保
          館 濟 外三十七名 同四保 清水 一 外八名、……」という形で旧保の人たち
          の代表者名と賛同者数・合計844人の人数、発起人酒泉直氏以下12人の氏名、
          そして最後に彫刻人二人の氏名が彫られています。従って、協同建設人は合計
          969名となります。

       7. 参考書
           森田美比著『茨城県政と歴代知事
─戦前45名の人物像─
                                      (暁印書館、
平成3年1月20日発行
           『水戸市史 下巻(一)』(水戸市役所、
平成5年10月20日発行
           『茨城県史料 近代政治社会篇 1』(茨城県、
1974年発行
           生活情報誌『ぷらざ』2008年3月号 vol.102(ぷらざ茨城、
平成20年3月1日発行
             
「地元再発見 愛郷清話」[第百二話]に、武石東二氏が「関君遺徳の碑」を書いておられ
               ます。
             
『講談社日本人名大辞典』(2001年12月6日第1刷発行・2001年12月25日第2刷発行)
         8. 試みに碑文を書き下してみます。(よく読めないところがあります。読み誤りの点など、お
            気づきの点を教えていただければ幸いです。)

              故茨城県参事関君遺徳碑
          夫れ徳を以て徳に報ゆるは先聖の遺訓にして、後人当務の通誼
(つうぎ)たり。故本
          県参事関君は、甞て県政に参
(あずか)るや、特に我が水戸人士に徳有り。因りて報
          ゆる所有らんと欲するや久し。会
(たまたま)君法官に転じて水戸を去り、尋(つ)いで愛
          媛県に令と為る。已
(すで)に溘焉(こうえん)として捐世(えんせい)す。嗚呼(ああ)、今や報
          いんと欲するも由
(よし)無し。是(こ)れ其の遺徳を碑に勒(ろく)するの、以て已(や)むべ
          からざる所以
(ゆえん)なり。君の諱(いみな)は某(ぼう)、新平と称す。肥前佐賀藩士な
          り。明治五年、本県の権参事と為り、水戸に在任す。翌年参事に進む。時に藩は
          已
(すで)に廃され、士は職を失ふ。而(しか)るに制禄(せいろく)極めて薄く、困弊(こん
          
ぺい)殊に甚(はなはだ)し。会(たまたま)城館の災あり。疑獄、尋いで興る株連(しゅれん)
          頗る多く、人心洶洶
(きょうきょう)たり。君素(もと)より我が先君義烈二公の賢を景慕す。
          而
(しこう)して適(たまたま)其の遺臣の此の困阸(こんやく)に遭ふを見、殊に深く之(これ)
          を憂ふ。乃ち上疏
(じょうそ)し、其の無辜(むこ)を辨(べん)じ、其の獄より申救(しんきゅう)
          甚力
(じん りょく) し、釈(ゆる)すを得たり。又、官林を朝(ちょう)に請(こ)ひ、衆士(しゅうし)
          をして産に就
(つ)かしめんと欲す。周旋して、亦遂に允許(いんきょ)を得(う)るに至る。
          乃
(すなわ)ち、保(ほ)を結び、貸すに林地、戸率二町三段を以てす。後(のち)、竟(つい)
          に其の地を挙げて尽
(ことごと)く私有たらしむ。数千の人士、特に膏沢(こうたく)を被(こう
          
む)る。是れ固(もと)より朝恩の優渥(ゆうあく)に出(い)づと雖(いえど)も、未(いま)だ甞(かつ)
          て君の至誠尽力の功に由
(よ)らずんばあらざるなり。君は為人(ひととなり)醇篤(じゅん
          
とく)にして、義を好(この)むこと此(かく)の如し。若(も)し其(それ)をして牧民職に居らしめ
           ば、則ち其の撫循
(ぶじゅん)の績は、必ず大いに観るべきもの有らん。惜しい哉、官は
          参佐
(さんさ)に止(とど)まりて、在任も亦久しからず。以(もっ)ての故に、未(いま)だ偏(ひ
          
とえ)に治績(ちせき)を挙(あ)ぐること能(あた)はず。僅(わず)かに恵政(けいせい)の一端を
          斯
(ここ)に見て、則ち已(や)むのみ。苟(いやし)くも其の徳を受くる者、寧(いず)くんぞ忍
          び措きて焉
(これ)を伝へざらんや。今、有志諸氏の表彰の挙は、之(これ)に報(むく)
          んと謂ふべく、亦厚し。諸氏、余をして文を作らしむ。余固
(もと)より其の擧(きょ)を賛
          す。乃
(すなわ)ち以て文を下(くだ)すを辞すべからず。因(よ)りて其の事を叙し、且(か)
          つ係
(かかわ)るに銘を以て云はく、
            誰
(たれ)か緩急無からん、 頼むは力有る援(たすけ) (かん)を済(すく)ふは是れ
            義、 之
(これ)を振(すく)ふは即ち仁。 材は百里に優れ、 沢(めぐみ)は一藩に洽(あ
           
まね)し。 子産に恵み有り、 于公に寃(えん)無し。 徳は甘棠(かんとう)に比し、 蔭
            
(かげ)を垂るること更に繁(しげ)し。 去りて後(のち)思ひを見、 終身諼(わす)れず。 
            志は剣
(けん)を懸くるに擬(なぞら)へ、 義は餐(さん)に報ゆるに傚(なら)ふ。 爰(ここ)
            に其の徳を頌し、 敢て私
(ひそか)に恩を厥(ほ)る。  貞珉(ていびん)(ろく)せず、
            声蹟
(せいせき)永く存せん。
            明治丁酉嘉平良旦
             舊水戸藩主、正三位徳川昭武、篆額。 水戸 手塚悳進譔、 北條時雨書す。

       9. 碑文中にある水戸城の火災について、『茨城の近代史』(塙作楽・金原左門 編著、
         東風出版
1974年10月31日第1刷発行)には次のようにあります。
             明治5年(1873)8月、水戸城炎上。幕末の水戸藩党争に由来するものといわ
           れているが、それにしては、犯人の探索が厳重すぎたのではないか。8月がおわ
           るまでに捕縛された容疑者は20人をこえる。以後、茨城を舞台にして、地租改正
           反対一揆、自由党加波山事件と血なまぐさいドラマがつづいていくうちに、この県
           について、「難治の県」という代名詞がささやかれるようになった(以下略)。
                                        (筆者・川俣英一氏、同書27頁)
          つまり、水戸城の火災の厳しい探索の背景には、「年貢半減」 を求めて騒動を起す
         各地の動きに対する明治新政府の強硬な姿勢があったというわけです。
          また、『水戸市史 下巻(一)』には、次のようにあります。
            (明治五年)七月二十六日((新)八月二十九日)、旧水戸城が何者かによって
           放火され、物見櫓
(やぐら)を残して本丸がことごとく焼失するという事件が起きたの
           である。事件は謎につつまれ、確たる証拠もなく、物議紛々、人心動揺するなか
           で、八月中旬、司法省島本大検事が水戸に出張し、三木直(左太夫)以下旧水
           戸藩士一四名を放火容疑者として逮捕し、東京へ護送して投獄した。つづいて
           三〇余名が逮捕され、その後三木らの救出運動を行って召換、処罰された者を
           ふくめて、事件係累者はおよそ一〇〇名におよんだ。(中略)結局事件はうやむ
           やのままに、渡辺
(引用者注:県令心得の渡辺清。旧大村藩士。新政府の大蔵大丞)の歎願
           や県権参事(のち参事)関新平などの努力によって、重
(ママ)だった容疑者もよう
           やく七年五月初めに釈放され、事件は決着をみた。この事件で容疑者として逮捕・
           投獄された者のほとんどは、旧水戸藩士族で、多くは旧水戸藩=水戸県の官員
           であった。(中略)新政府によって従前の権勢がつぎつぎと奪われていくことに対
           する旧水戸藩士族の反抗心が、事件の背景にあったことは確かであろう。
                                    (筆者:大石嘉一郎氏、同書5~7頁)     

       10. 『早稲田大学図書館』のサイトに『古典籍総合データベース』があり、その中に茨城県
         参事・関新平が参議・大隈重信に宛てた「進退伺書」や、大隈重信に宛てた「関新平書
         翰」が7通入っています。書翰の中には、茨城県参事として、大隈参議に宛てた「茨城
         県治困難の情勢を述べ面謁意見を尽さんことを請ふ」という内容の、明治6年12月14日
         付けの書翰もあって、その画像が見られます。
       11. 碑文中の語句の注
         
通誼……つうぎ。世間一般の人の履行すべき道。  溘焉……こうえん。(「溘」は、たちまちの意。
          多くは人の死に用いる)にわかなさま。急なさま。  捐世……えんせい。(「捐」は、すてるの意)
          辞書には、「捐生・捐命」で、生命をすてる、とある。 嗚呼……ああ。詠嘆の語。  勒……ろくする。
          彫る。刻む。  所以……ゆえん。理由。わけ。  諱……いみな。死後にいう生前の実名。また、
          死後に尊んでつけた称号。  制禄……せいろく。世禄と同意か。「世禄」は、世襲の家禄。
          困弊……こんぺい。苦しみ疲れること。    会……たまたま。偶然。ちょうどその折。
          疑獄……ぎごく。事情が入り組んで真相がはっきりしない裁判事件。    株連……しゅれん。
          手づるによって関係者を残らず罪に落とすこと。   洶洶……きょうきょう。騒ぎ、どよめくさま。
          義烈二公……義公・烈公のおふたり。光圀・斉昭の二公。  適……たまたま。また、ゆく、とも読む。
          困阸……こんやく。(「阸」は、阨の本字) 困阨は、災難の意。   上疏……じょうそ。事情を記して
          上にたてまつること。   無辜……むこ。(「辜」は、罪の意)罪のないこと。無実。  
          申救……しんきゅう。いろいろ弁護をして無実の罪に苦しんでいる人を救うこと。 甚力……じんりょく。
          「尽力」と同意か。  允許……いんきょ。(「允」も許す意)認め許すこと。印可。  保……ほ。ほう、とも。
          (1)古く中国で行われた隣保制の単位。一定戸数で組織され、連帯責任を負う。(2)中国の制になら
          い、日本の律令制で定めた隣保組織。隣接する5戸で構成し、納税・防犯などの連帯責任を負う。五保。
          ここは、上の(2)に倣って作られた隣保組織でしょうか。   膏澤……こうたく。恵み。うるおい。恩恵。
          優渥……ゆうあく。手厚い恵み。   爲人……「ひととなり」と読む。生れつきの人柄。もちまえ。
          醇篤……じゅんとく。純粋で人情にあついこと。  牧民……ぼくみん。人民を治めること。
          撫循……ぶじゅん。いつくしんで従わせること。   參佐……さんさ。下役。下級の役人。属官。
          寧……いずくんぞ。反語の意を表す。ここは下に「哉」を伴って、「寧……哉」で「いずくんぞ……や」
          と読む。  俾……使役を表す。「使」に同じ。     緩急……かんきゅう。(1)ゆるやかなことときび
          しいこと。遅いことと速いこと。(2)(「緩」は語調を整える語) 急なこと。危急の場合。まさかの場合。
          囏……かん。「艱」の異体字。悩み。苦しみ。難儀。   濟……すくう。救う。   洽……あまねし。
          広く行きわたっている。  子産……しさん。中国、春秋時代の鄭
(てい)の名宰相・公孫僑(こうそんきょう)
          の字(あざな)。晋と楚に挟まれた弱小国鄭の国政運営に手腕を発揮。貴族間の抗争防止のために中国
          初の成文法も制定した。   于公……うこう。于定国の父。前漢の于公が公平な裁判をし、その余徳に
          よって子孫に家をおこす者が出ることを予期し、高官の乗る車を入れる用意に門を高くしたところ、果たし
          てその子・于定国が丞相となったという(「于公高門」の故事)。于定国も公平な裁判官として有名になり、
          丞相となった。   寃……えん。無実の罪。  甘棠……かんとう。木の名。からなし。善政をしいた周の
          召公が甘棠の木の下で休んだ、その木を人民が大切にしたことから、「甘棠之愛」「甘棠之恵」という言
          葉が生まれた。 「甘棠之愛」「甘棠之恵」=りっぱな政治を行う人に対する敬愛の情をいう。 「甘棠之
          愛」(『詩経』召南・甘棠)、 「甘棠之恵」(『文選』揚雄、甘泉賦)。   弗諼……わすれず。「諼」は、
          わすれるの意。    志擬懸劍、義傚報餐……未詳。  厥……ほる。彫る。  貞珉……ていびん。
          (「珉」は、玉に次ぐ美しい石)硬くて美しい石。(石碑に用いることから)石碑。  泐……ろく。石が砕け
          る。   聲蹟……せいせき。よい評判の業績。評判の高い行い。   嘉平……かへい。陰暦12月の
          祭りの名。臘祭
(ろうさい)の別名。ここは、12月をいう。    良旦……りょうたん。よい朝。  
          手塚悳進……てづか・とくしん。人名。「悳」は、徳の異体字。注の12を参照のこと。
          北條時雨(北条時雨)……ほうじょう・しぐれ。書家。注の13~15を参照のこと。
       12. 碑文の作者・手塚悳進について、生活情報誌『ぷらざ』2008年3月号 vol.102(ぷらざ茨
         城、
平成20年3月1日発行)の「地元再発見 愛郷清話」[第百二話]に武石東二氏が書いて
         おられる「関君遺徳の碑」の文章の中から、引用させていただきます。 
          手塚悳進(てづか・とくしん)=弘化元年(1844)~明治42年(1909)。陽軒と号す。弘道
              館に学び、弘道館訓導となる。その後、県庁に勤め、塾を開いて多くの人材を育
              成した。           

       13. 碑文を書いた北條時雨については、資料270「書家・北条時雨について」をご覧下さい。
        
         
               



             
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