資料255 夏目漱石・講演「道楽と職業」より(博士号関連部分)

 

      
   


        
夏目漱石・講演「道樂と職業」より (博士号関連部分)


 
そこで職業上に於る己のため人の爲と云ふ事は以上の樣に御記憶を願つて置いて、話が又後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前(ぜん)申した通り人文發達の順序として職業が大變割れて細かくなると妙な結果を我々に與へるものだから其結果を一口御話をして、さうして先へ進みたいと思ひます。私の見る所によると職業の分化錯綜から我々の受ける影響は種々ありませうが、其内に見逃す事の出來ない一種妙な者があります。といふのは外でもないが開化の潮流が進めば進む程、又職業の性質が分れゝば分れる程、我々は片輪な人間になつて仕舞ふといふ妙な現象が起るのであります。言ひ換へると自分の商賣が次第に専門的に傾いてくる上に、生存競爭の爲に、人一倍の仕事で濟んだものが二倍三倍乃至四倍と段々速力を早めて逐付(おひつ)かなければならないから、其の方だけに時間と根氣を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒置いたお隣りの事が皆目(かいもく)分らなくなつて仕舞ふのであります。斯ういふやうに人間が千筋も萬筋もある職業線の上のたゞ一線しか往來しないで濟む樣になり、又他の線へ移る餘裕がなくなるのはつまり吾人の社會的知識が狹く細く切り詰められるので、恰も自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云へば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつゝ進むのだと評しても差支ないのであります。極(ごく)の野蠻時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏ふものを捜し出し、自分で井戸を掘つて水を飲み、又自分で木の實か何かを拾つて食つて、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をして居れば、それこそ萬事人に待つ所なき點に於て、又生活上の知識を一切自分に備へたる點に於て完全な人間と云はなければなりますまい。所が今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らして居るものは何所をどう尋ねたつて一人もない。此意味からして皆不完全なもの許である。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、たゞ狭く細くなつて行きさへすれば夫で濟むのである。丁度針で掘拔(ほりぬき)井戸を作るとでも形容して然るべき有樣になつて行くばかりです。何商賣を例に取つても説明は出來ますが、此状態を最も能く證明して居るものは専門學者などだらうと思ひます。昔の學者は凡ての知識を自分一人で脊負(しよ)つて立つた樣に見えますが、今の學者は自分の研究以外には何も知らない私が前(ぜん)申した意味の不具が揃つてゐるのであります。私の樣な者でも世間ではたまに學者扱にして呉れますが、さうすると矢張(やつぱ)り不具の一人であります。成程私などは不具に違ない、どうも些とも普通のことを知らない。區役所へ出す轉居屆の書き方も分らなければ、地面を賣るにはどんな手續をしていゝかさへ分らない。綿は綿の木のどんな所をどうして拵へるかも解し得ない。玉子豆腐はどうして出來るか是亦不明である。食ふことは知つて居るが拵へる事は全く知らない。其他味淋にしろ、醬油にしろ、何(なん)にしろ蚊(か)にしろ凡て知らないことだらけである。知識の上に於て非常な不具と云はねばなりますまい。けれども凡てを知らない代りに一ヶ所か二ヶ所人より知つて居ることがある。さうして生活の時間をたゞ其方面にばかり使つたものだから、完全な人間を益々遠ざかつて、實に突飛なものになり終(おほ)せて仕舞ひました。私ばかりではない、かの博士とか何とか云ふものも同樣であります。あなた方は博士と云ふと諸事萬端人間一切天地宇宙の事を知つて居るやうに思ふかも知れないが全く其反對で、實は不具の不具の最も不具な發達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を斷りました。併しあなた方は──手を叩いたつて駄目です。現に博士といふ名に胡魔化されて居るのだから駄目です。例へば明石なら明石に醫學博士が開業する、片方に醫學士があるとする。さうすると醫學博士の方へ行くでせう。いくら手を叩いたつて仕方がない、胡魔化されるのです。内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るやうな仕事をするのです。深いことは深い。掘拔きだから深いことは深いが、如何せん面積が非常に狹い。それを世間では凡ての方面に深い研究を積んだもの、全體の知識が萬遍なく行き渡つてゐると誤解して信用を置きすぎるのです。現に博士論文と云ふのを見ると存外細かな題目を捕へて、自分以外には興味もなければ知識もない樣な事項を穿鑿してゐるのが大分あるらしく思はれます。所が世間に向つては唯醫學博士、文學博士、法學博士として通つてゐるから恰も總ての知識を有つて居るかの樣に解釋される。あれは文部省が惡いのかも知れない。虎列剌病博士とか腸窒扶斯博士とか赤痢博士とかもつと判然と領分を明らかにした方が善くはないかと思ふ。肺病患者が赤痢の論文を出して博士になつた醫者の所へ行つたつて差支はないが、其人に博士たる名譽を與へたのは肺病とは沒交渉の赤痢であつて見れば、單に博士の名で肺病を擔ぎ込んでは勘違になるかも知れない。博士の事は其位にしてたゞ以上をかい撮んで云ふと、吾人は開化の潮流に押し流されて日に日に不具になりつゝあるといふことだけは確かでせう。それを外の言葉でいふと自分一人では迚も生きて居られない人間になりつゝあるのである。自分の専門にして居ることに掛けては、不具的に非常に深いかも知れぬが、其の代り一般的の事物に就ては、大變に知識が缺乏した妙な變人ばかり出來つゝあるといふ意味です。 



 

 

       (注) 1. 上記の夏目漱石の講演「道楽と職業」(部分)は、岩波書店版『漱石全集 第11
          巻』評論・雜篇(昭和41年10月24日発行)によりました。講演の中の、博士号辞
          退に関する部分を抜き出したものです。
           この講演は、明治44年8月に明石市で行われました。全集の文末には、「──
          明治44、11、10 『朝日講演集』──」とあります。
         2. 本文中に出てくる平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、文字を繰り
          返して表記してあります。(日に日に)
         3. 講演の中に、現在では差別用語とされる言葉が使われていますが、これはその
          まま表記してあることをお断りしておきます。
         4. 資料253に「夏目漱石「博士号辞退の手紙」2通と「博士問題の成行」(1)(2)」
          があります。 



                                    トップページ(目次) 前の資料へ 次の資料へ