四月十三日 木 牛込區早稻田南町七番地より 文部省專門學務局長福原鐐二郎へ
拜啓學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計ひかねる旨の御返書を領し再應の御答を致します。 小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します學位令の解釋上、學位は辭退し得べしとの判斷を下すべき餘地あるにも拘はらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。 文部大臣が文部大臣の意見として小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。 最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します 右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手元迄御返付致します。 敬具
四月十三日 夏目金之助
專門學務局長 福 原 鐐 二 郎 殿
「博士問題」
博士問題 何故學位を辭退したか其理由を話せと言ふんですか。さう几帳面に聞かれると困ります。實は私も朝日の社員ですし、社員の一人が學位を貰ふとか貰はぬとか云ふ事ですから、辭退する前に一應池邊君に相談しようかと思ひましたが、夫程社の利害と關係のある大事件でも無いと思ひましたから、差控へて置きました。實は博士會が五六の人を文學博士に推薦すると云ふ事は、新聞の雜報で一寸見た計りで、眞僞も分らず、一兩日を過しました。すると突然明日午前十時に學位を授與するから文部省へ出頭しろと言ふ通知が、留守宅へ(夜遲く)來たのださうです。左樣、家のものは慥か夜の十時頃とか云つてゐましたが、大方其時下女が夜中郵便函でもあけて取り出したのでせう。それで其翌日の朝電話で、本人は病氣で出られないと云ふ事を文部省へ斷つたさうです。其日の午後妻が病院へ來て通知書を見せたので、私は初めて學位授與の事を承知したのです。さうです、無論代理は出しませんでした。私は其夕方すぐに福原君に學位を辭退したいからと云ふ手紙を出しました。すると私の辭退の手紙と行違に、其晩文部省から──ヱヽと證書と言ひますか、何と言ひますか──學位を授與すると云ふ證書を、小使──家のものは小使と云ひましたが、私は實際誰が持つて來たか知らない──に持たせて宅の方へ屆けて呉れたのです。夫は早速福原さんの手許迄返させました。辭退の出來るものと思つて辭退したのは勿論の事です。私は法律家でないから、法律上の事は知りません。たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です。學位令が勅令だから辭退が出來ないと云ふんですか。そんな法律の事は少しも知りません。然し勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら、私にも解るが、博士を辭退出來ないと云ふのは、何んなものでせう。何しろ文部省から通知して來て文部大臣が與(く)れるから、唯文部省丈けの事と思つてゐました。文部省の人々に御面倒な御手數を懸けるのは好くないとは思ひましたが、已を得ませんでした。 貰つて置いて善い者か惡い者か、如其(そんな)理窟に關係した問題は、大分議論が八釜しく成りますし、今必要もありませんから、個々の批評に一任するとして、茲に──私は實に面白いものだと思つて(看護婦に通知状を出させて)居るものがあります。文部省邊の人には當然かも知れませんがね、此通知状を御覽なさい。前文句無しの打突け書で突然(いきなり)「二十一日午前十時同省に於て學位授與相成候條同刻までに通常服云々」。是を見ると、前以て文部省が私に學位を呉れるとか、私が學位を貰ふとか言ふ相談があつて、既に交渉濟になつて、私が承知し切つて居る事を、愈明日執行するからと知らせてきた樣に聞えるでせう。それに此終の但し書に、差支があつたら代理を出せとあるでせう。然し果して此通知状を私が受取つてから、午前十時迄に相當の代理者が頼める者か頼めぬものか、善く分りませんものね。ヤツ、實は社の方計りで無く此方(病院)へも斯う祝ひ手紙が飛び込んで來るんで弱つてゐます。まさか「私は博士ではありません」、と新聞へ書くのも可笑しいと思つて差控へて居りますが。云々 ──明治44.2.24『東京朝日新聞』── (注) 夜中郵便函……夜間に配達される郵便を受け取るために設けられた郵便箱。夜中函ともいう。
福原君……当時、文部省専門学務局長であった、福原鐐二郎のこと。 (『漱石全集』巻末の注解による。)
「博士問題の成行」(1)
博士問題の成行
博士事件に就て其後の成行はどうなつたと仰しやるのですか。實はそれぎり何うもならないのです。福原君にも會ひません。芳賀君抔から懇談を受けた事もありません。文部大臣は學位令によつて學位を私に授與したにはしたが、もし辭退した時には何うすると云ふ明文が同令に書いてないから、其場合には辭退を許す權能を有してゐないのだと云ふのが、當局者としての福原君の意見なのですか。成程さうも云はれるのでせう。然しそれでは恰も學位令に博士は辭する事を得ずと明記したと同樣の結果になる樣ですが、實際學位令には辭する事を得ずとも辭する事を得とも何方とも書いてないのぢやないですか。(甚だ不行屆きですがまだ學位令を調べてゐません。然し慥かさう云ふ風に聞いてゐます。)偖何方とも書いてない以上は、辭し得るとも辭し得ないとも自分に都合のよい樣に取る餘地のあるものと解釋しても可くはないでせうか。すると當局者が自己の威信と云ふ事に重きを置いて「辭する事を得ず」と主張すれば、私の方では自己の意思を楯として「辭する事を得」と判斷しても構はない事になりはしませんか。 又夫程重大なものならば、萬一を慮つて、(表向き學位令に書いてある通りを執行する前に)、一應學位を授與せられる本人の意思を確める方が、親切でもあり、又御互の便宜であつた樣に思はれます。兎に角に當局者が榮譽と認めた學位を授與する位の本人ならば、其本人の意思と云ふものも學位同樣に重んじてよささうに考へます。 私は當局者と爭ふ氣も何もない。當局者も亦私を壓迫する了簡は更にない事と信じてゐます。此際直接福原君の立場としては甚だ困られるだらうとは思ふけれども、明治も既に五十年近くになつて見れば、政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體ながられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは、當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例があるとか無いとか云はれては、少し迷惑するので、私は博士のうちに親友もありますし、又敬愛してゐる人も少くは無いのですが、必ずしも彼等諸君の轍を追うて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。先例の通りに學位を受けろと云はれるのは、前の電車と同じ樣に、あとの電車も食付いて行かねばならない樣で、丸で器械として人から取扱はれる樣な氣がします。博士を辭する私は、先例に照して見たら變人かも知れませんが、段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると、是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出て來るだらうと思ひます。私が當局者に迷惑を掛けるのは甚だ御氣の毒に思つてゐるが、當局者も亦是等未來の學者の迷惑を諒として、成るべくは其人々の自由意思通り便宜な取計をされたいものと考へます。猶又學位令に明記がない爲に、今回の樣な面倒が起るのならば、この面倒が再び起らない樣に、どうか御工夫を煩したいと思ひます。學位令のうちには學位褫奪の個條があるさうですが、授與と褫奪が定められて居ながら、辭退に就て一言もないのはちと變だと思はれます。夫ぢや學位をやるぞ、へい、學位を取上げるぞ、へい、と云ふ丈で、此方は丸で玩具同樣に見做されてゐるかの觀があります。褫奪と云ふ表面上不名譽を含んだものを、是非共頂かなければ濟まんとすると、何時火事になるか分らない油と薪を脊負された樣なものになります。大臣が認めて不名譽の行爲となすものが必ずしも私の認めて不名譽となすものと一致せぬ限りは、いつ何時どんな不名譽な行爲(大臣のしか認める)を敢てして褫奪の不面目を來たさないとも限らないからです。云々 ──明治44.3.7『東京朝日新聞』──
(注) 芳賀君……芳賀矢一のこと。(『漱石全集』巻末の注解による。)
「博士問題の成行」(2)
博士問題の成行
二月二十一日に學位を辭退してから、二ヶ月近くの今日に至る迄、當局者と余とは何等の交渉もなく打過ぎた。所が四月十一日に至つて、余は圖らずも上田萬年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を當局に傳へたる結果として、同日午後に、余は又福原專門學務局長の來訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余は又局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合つて別れた。 翌十二日に至つて、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送つた。實は二ヶ月前に、余が局長に差出した辭退の申し出に對する返事なのである。 「復啓二月二十一日付を以て學位授與の儀御辭退相成度趣御申出相成候處已に發令濟につき今更御辭退の途も無之候間御了知相成度大臣の命により別紙學位記御返付旁此段申進候敬具」 余も亦余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。 「拜啓學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計らひかぬる旨の御返書を領し、再應の御答を致します。 「小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します。 「學位令の解釋上、學位は辭退し得べしとの判斷を下すべき餘地あるにも拘はらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。 「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。 「最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。 「右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手元迄御返付致します。敬具」 要するに文部大臣は授與を取り消さぬと云ひ、余は辭退を取り消さぬと云ふ丈である。世間が余の辭退を認むるか、又は文部大臣の授與を認むるかは、世間の常識と、世間が學位令に向つて施す解釋に依つて極まるのである。たゞし余は文部省の如何と、世間の如何とに拘らず、余自身を余の思ひ通に認むるの自由を有して居る。 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、又文部省が余に意志の屈從を強ひざる限りは、此問題は此より以上に纏まる筈がない。從つて落ち付かざる所に落ち着いて、歳月を此儘に流れて行くかも知れない。解決の出來ぬ樣に解釋された一種の事件として統一家、徹底家の心を惱ます例となるかも分らない。 博士制度は學問獎勵の具として、政府から見れば有効に違ひない。けれども一國の學者を擧げて悉く博士たらんがために學問をすると云ふ樣な氣風を養成したり、又は左樣思はれる程にも極端な傾向を帶びて、學者が行動するのは、國家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。余は博士制度を破壞しなければならんと迄は考へない。然し博士でなければ學者でない樣に、世間を思はせる程博士に價値を賦與したならば、學問は少數の博士の專有物となつて、僅かな學者的貴族が、學權を掌握し盡すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の續出せん事を余は切に憂ふるものである。余は此意味に於て佛蘭西にアカデミーのある事すらも快く思つて居らぬ。 從つて余の博士を辭退したのは徹頭徹尾主義の問題である。此事件の成行を公けにすると共に、余は此一句丈を最後に付け加へて置く。 ──明治44.4.15『東京朝日新聞』── |